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第5話 奪われたもの

ー/ー



煙が見えてから、そこへ辿り着くまでに思ったより時間がかかった。

近くに見えたのは、朝の光がまだ弱かったせいだろう。道は緩やかに下っているのに、疲れた足にはそれすら長く感じられた。
膝の痛みは少しずつ重たさに変わり、喉の渇きはもう誤魔化せないところまで来ている。

それでも、煙が消えなかったことだけが救いだった。

道の先に、粗末な木柵と、屋根の低い建物がいくつか見え始める。村と呼ぶほど大きくはない。街道沿いにできた小さな休み場か、荷馬車向けの宿場のようなものだろう。

人がいる。
水があるかもしれない。

その二つだけで、今のセシアには十分だった。

近づくにつれ、音が増えた。荷車の軋む音、馬の鼻息、誰かの怒鳴り声、鍋をかき回す金属音。白祈院の中にはない、乱れた生活の音だった。
うるさいのに、不思議と少しほっとする。

白祈院の静けさは、いつも何かを押し込めていた。
でもここには、押し込められていない音がある。

生きている人間の音だ。

木柵の切れ目から中へ入ると、土の地面は踏み固められ、ところどころに藁が散っていた。
建物は三つ。食事を出しているらしい大きめの小屋と、物置、あとは家畜を繋ぐための屋根付きの囲い。立派な宿ではないが、街道を行き交う者が足を止めるには十分なのだろう。

セシアは立ち止まり、どう振る舞えばいいのか分からなくなった。

白祈院の外で、知らない人に何かを頼んだことがない。
水が欲しい。
座りたい。
少し休みたい。

たったそれだけのことなのに、口に出す方法が分からなかった。

迷っているうちに、視線が集まる

当然だった。
年若い少女がひとり、白い衣の裾を泥で汚し、祈祷書を抱えてふらつきながら立っている。目立たない方がおかしい。

近くで荷を解いていた男が、露骨に眉をひそめた。
女が一人、ちらりと見て、すぐに視線を逸らす。
子どもが物珍しそうにこちらを見て、母親に腕を引かれる。

白祈院の中で向けられる視線とは違う。
けれど、居心地の悪さは同じだった。

セシアはぎこちなく食事処らしき小屋へ近づいた。入口の脇には大きな水桶が置かれている。柄杓もある。
喉がひくりと鳴った。

でも勝手に手を出していいのだろうか。
白祈院なら当然だめだ。まず許可を得て、礼を述べて、汚さないように使わなければならない。

そう考えて足が止まった、その時だった。

「飲むなら飲めば?」

横から落ちた声に、セシアの肩が跳ねた。

振り向く。

柵の影にもたれるように、女が立っていた。

年はセシアよりいくつか上だろう。黒に近い焦茶の髪を短くまとめ、軽い上着の下には動きやすそうな服を着ている。痩せた体つきなのに頼りなくは見えず、目つきだけが妙に鋭い。綺麗かどうかで言えば綺麗なのだろうが、その前に近づきにくいが来る顔だった。

野良猫みたいだ、とセシアは思った。

女は顎で水桶を示した。

「その顔、倒れる寸前でしょ」

「……でも」

「でも?」

「勝手に使ったら、だめかと」

女は一瞬ぽかんとしたあと、呆れたように笑った。

「何それ」

笑った、といっても楽しそうではない。

ただ少しだけ、信じられないものを見る目になっただけだった。

「金払わずに鍋の中身まで食うならともかく、水一杯で喧嘩になるほど切羽詰まってる店じゃないよ。たぶん」

たぶん、が少し不安だったが、喉はもう限界だった。

セシアはおそるおそる柄杓を手に取った。冷たい水が揺れる。
それを口に運んだ瞬間、思わず目を閉じる。

ぬるくて、少し鉄っぽい味がした。
それでも十分だった。

喉を通るだけで、生き返るみたいだった。

「……おいしい」

思わず漏れた言葉に、女が変な顔をする。

「いや、水だけど」

「はい……でも」

セシアは二杯目を汲んだ。今度は少しだけ落ち着いて飲む。

女はそれを見ていたが、やがて視線を祈祷書へ移した。

「で、そんな本まで抱えて、どっから来たの」

セシアは柄杓を置き、祈祷書を抱き直した。

「……遠くから」

「便利な答え」

女は肩をすくめた。

「家出のお嬢様には見えないし、巡礼にも見えない。神殿の娘にしては汚れてるし、貴族の子にしちゃ歩き方が下手。なのに本だけは絶対手放さない」

そこまで一気に言われて、セシアは言葉を失った。

白祈院では、こんなふうに短時間で人を見られたことがない。
見られてはいた。ずっと。
でもそれは祈りに適しているかどうかの目だった。

この女の目は違う。
もっと現実的で、容赦がない。

「……あなたは?」

やっとそれだけ返すと、女は口元だけで笑った。

「名乗るほど立派なもんじゃない」

そう言ってから、少し間を置いて続ける。

「リゼ」

「リゼ……さん」

「さん、いらない」

きっぱり言われ、セシアは口を閉じた。

リゼは柵から身体を離し、セシアの周囲を半歩だけ回るように動いた。値踏みされているのが分かる。逃げた方がいいのかもしれない。でも、足が重かった。水を飲んだことで少しだけ力が戻った反面、張りつめていたものが緩んでしまったのだ。

「金は?」

リゼが聞く。

セシアは黙った。

「あるの、ないの」

「……ありません」

「だと思った」

即答だった。

恥ずかしさで顔が熱くなる。

白祈院では、候補生が金を持つことはない。必要なものは支給され、外へ出ることもない。だから金がないこと自体に、今まで深い意味を感じたことがなかった。

でも外では違う。
水を飲むにも、食べるにも、寝るにも、必要なのだ。

知らなかった。
いや、言葉としては知っていた。けれど実感がなかった。

 ゼはそんなセシアを見下ろし、鼻で笑った。

「その格好で無一文。しかも朝っぱらからひとり。だいぶ危ないよ、あんた」

「……そう、なんだと思います」

「思います、じゃなくて危ないの」

容赦がない。

でも、その言い方に悪意だけがあるわけではないことも分かった。
本当に危ないのだろう。

セシアは祈祷書の背を撫でた。
その中に挟んだ紙片の存在が、妙に心強く感じられる。

「食べるものは?」

リゼがまた聞く。

「……ありません」

「寝る場所は?」

「ありません」

「追われてる?」

セシアは息を止めた。

その反応を見て、リゼの目が少し細くなる。

「へえ」

「……」

「図星か」

白祈院のことを口にしていいのか分からなかった。
そもそも、知らない相手にどこまで言っていいものなのかも分からない。

迷っていると、リゼは小屋の方を振り向いた。

「とりあえず中に入る?」

「え」

「その顔で外に突っ立ってても余計目立つだけ。金ないなら、まあ……考える」

考える、の意味が分からなかった。
でも立っているのも限界だった。

セシアは小さく頷いた。

小屋の中は、外から見たよりも暗かった。木の壁にすすが染みついていて、煮込みの匂いと汗の匂いが混ざっている。白祈院の食堂とは何もかも違う。整っていない。けれど、あたたかい。

空いている隅の卓に座るよう促され、セシアはぎこちなく腰を下ろした。

その瞬間、全身から力が抜けそうになる。

リゼは向かいに座らず、少し離れた柱にもたれたまま店主らしき男に声をかけた。

「パンとスープ。あと水」

「金は」

「あとで」

「またかよ」

「今日は返すって」

店主は嫌そうな顔をしたが、それでも鍋の方へ向かった。

リゼがどういう立場なのか、なんとなく分かる。顔なじみだが信用はされていない。そういう人間だ。

卓に水の入った木杯が置かれる。セシアは礼を言って手を伸ばした。
その指先を見て、リゼが言う。

「綺麗な手」

セシアは思わず手を引っ込めた。

「旅人の手じゃない。働いてもない。刃物も持ってない。……ほんと、どっから来たんだろうね」

答えられない。

その沈黙を見て、リゼはそれ以上追及しなかった。

しばらくして運ばれてきたのは、硬いパンと、豆を煮崩しただけのような薄いスープだった。白祈院の食事も質素ではあったが、ここまで粗末ではない。

けれど空腹には十分すぎた。

セシアが一口飲んだ瞬間、胃が熱を持って縮む。
思わず目を伏せる。

「そんなにまずい?」

リゼが言う。

「……おいしいです」

「……変なやつ」

でもその声は、最初より少しだけ尖っていなかった。

スープを飲みながら、セシアは店の中のざわめきを聞いていた。街道の話、馬の具合、荷の値段、昨日どこで盗賊が出ただの、どこの橋が落ちかけているだの。

どれも白祈院では聞いたことのない言葉ばかりだ。

外には、こんなふうに生きている人たちがいる。

当たり前のことなのに、少しだけ眩しかった。

その時だった。

小屋の外から、蹄の音が響いた。

セシアの身体が硬直する。

すぐに分かった。
街道で聞いた音だ。

男たちの声がする。店主が外へ出る。小屋の中の空気が少しだけ変わった。

リゼの目が細くなった。

「知り合い?」

小さく問われ、セシアは首を振りかけた。
でも嘘はつけなかった。

「……分からないです。でも」

「でも?」

「探されてるかもしれない」

リゼは一瞬だけ、ひどく面倒そうな顔をした。

「そういうの早く言ってよ」

その瞬間、外から男の声が飛ぶ。

「白い服の娘を見なかったか!」

セシアの喉が凍る。

小屋の中が静まり返る。
皆の視線が一瞬こちらへ集まりかけて、でもセシアは祈祷書を抱え込んだまま動けなかった。

終わった、と思った。

けれど次の瞬間、リゼが無造作にセシアの頭へ古びた布を投げた。

「被って、俯いて」

「え」

「早く」

低い声だった。

反射で布を頭から被る。埃っぽい匂いがする。

リゼは空いた椅子を蹴って音を立てると、わざとらしく店主に怒鳴った。

「だから言ったろ、裏の樽はまだ運んでないって!」

「はあ?」

「こっちは人手足りてないの。外の連中なんか構ってる暇ないんだよ!」

店主も最初は面食らっていたが、すぐに乗った。

「うるせえな、さっさと運べ!」

「金取るくせに?」

「まだ取ってねえだろうが今日は!」

怒鳴り合いが始まり、小屋の中の視線がそっちへ流れる。

外の男が顔を覗かせた時には、セシアはもう布を深く被り、卓を拭く下働きのように俯いていた。

「白い服の娘だ。ひとりで歩いてるはずだ」

「朝からそんな上等な娘がここにいるかよ」

リゼが吐き捨てるように言う。

「見りゃ分かるでしょ。うちは汚い宿場だよ。神殿の娘なんか寄りつかない」

男はしばらく店の中を見回していたが、やがて舌打ちして引いた。

「見かけたら知らせろ」

「金くれるならね」

外で笑い声がして、蹄の音が遠ざかる。

セシアはしばらく顔を上げられなかった。
心臓がうるさく、手まで震えていた。

やがてリゼが布を引っぺがす。

「……ほんとに追われてるじゃん」

「ごめんなさい」

「謝るとこ?」

「……分からなくて」

リゼはセシアを見た。

長く、値踏みするみたいに。
それから深く息を吐く。

「ねえ」

「はい」

「あんた、放っといたら今日中に死ぬよ」

否定できなかった。

リゼは目を逸らし、舌打ちした。

「ほんと面倒なことになった」

そう言った声が、ほんの少しだけ苦しそうに聞こえたのは、たぶん気のせいじゃない。


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煙が見えてから、そこへ辿り着くまでに思ったより時間がかかった。
近くに見えたのは、朝の光がまだ弱かったせいだろう。道は緩やかに下っているのに、疲れた足にはそれすら長く感じられた。
膝の痛みは少しずつ重たさに変わり、喉の渇きはもう誤魔化せないところまで来ている。
それでも、煙が消えなかったことだけが救いだった。
道の先に、粗末な木柵と、屋根の低い建物がいくつか見え始める。村と呼ぶほど大きくはない。街道沿いにできた小さな休み場か、荷馬車向けの宿場のようなものだろう。
人がいる。
水があるかもしれない。
その二つだけで、今のセシアには十分だった。
近づくにつれ、音が増えた。荷車の軋む音、馬の鼻息、誰かの怒鳴り声、鍋をかき回す金属音。白祈院の中にはない、乱れた生活の音だった。
うるさいのに、不思議と少しほっとする。
白祈院の静けさは、いつも何かを押し込めていた。
でもここには、押し込められていない音がある。
生きている人間の音だ。
木柵の切れ目から中へ入ると、土の地面は踏み固められ、ところどころに藁が散っていた。
建物は三つ。食事を出しているらしい大きめの小屋と、物置、あとは家畜を繋ぐための屋根付きの囲い。立派な宿ではないが、街道を行き交う者が足を止めるには十分なのだろう。
セシアは立ち止まり、どう振る舞えばいいのか分からなくなった。
白祈院の外で、知らない人に何かを頼んだことがない。
水が欲しい。
座りたい。
少し休みたい。
たったそれだけのことなのに、口に出す方法が分からなかった。
迷っているうちに、視線が集まる
当然だった。
年若い少女がひとり、白い衣の裾を泥で汚し、祈祷書を抱えてふらつきながら立っている。目立たない方がおかしい。
近くで荷を解いていた男が、露骨に眉をひそめた。
女が一人、ちらりと見て、すぐに視線を逸らす。
子どもが物珍しそうにこちらを見て、母親に腕を引かれる。
白祈院の中で向けられる視線とは違う。
けれど、居心地の悪さは同じだった。
セシアはぎこちなく食事処らしき小屋へ近づいた。入口の脇には大きな水桶が置かれている。柄杓もある。
喉がひくりと鳴った。
でも勝手に手を出していいのだろうか。
白祈院なら当然だめだ。まず許可を得て、礼を述べて、汚さないように使わなければならない。
そう考えて足が止まった、その時だった。
「飲むなら飲めば?」
横から落ちた声に、セシアの肩が跳ねた。
振り向く。
柵の影にもたれるように、女が立っていた。
年はセシアよりいくつか上だろう。黒に近い焦茶の髪を短くまとめ、軽い上着の下には動きやすそうな服を着ている。痩せた体つきなのに頼りなくは見えず、目つきだけが妙に鋭い。綺麗かどうかで言えば綺麗なのだろうが、その前に近づきにくいが来る顔だった。
野良猫みたいだ、とセシアは思った。
女は顎で水桶を示した。
「その顔、倒れる寸前でしょ」
「……でも」
「でも?」
「勝手に使ったら、だめかと」
女は一瞬ぽかんとしたあと、呆れたように笑った。
「何それ」
笑った、といっても楽しそうではない。
ただ少しだけ、信じられないものを見る目になっただけだった。
「金払わずに鍋の中身まで食うならともかく、水一杯で喧嘩になるほど切羽詰まってる店じゃないよ。たぶん」
たぶん、が少し不安だったが、喉はもう限界だった。
セシアはおそるおそる柄杓を手に取った。冷たい水が揺れる。
それを口に運んだ瞬間、思わず目を閉じる。
ぬるくて、少し鉄っぽい味がした。
それでも十分だった。
喉を通るだけで、生き返るみたいだった。
「……おいしい」
思わず漏れた言葉に、女が変な顔をする。
「いや、水だけど」
「はい……でも」
セシアは二杯目を汲んだ。今度は少しだけ落ち着いて飲む。
女はそれを見ていたが、やがて視線を祈祷書へ移した。
「で、そんな本まで抱えて、どっから来たの」
セシアは柄杓を置き、祈祷書を抱き直した。
「……遠くから」
「便利な答え」
女は肩をすくめた。
「家出のお嬢様には見えないし、巡礼にも見えない。神殿の娘にしては汚れてるし、貴族の子にしちゃ歩き方が下手。なのに本だけは絶対手放さない」
そこまで一気に言われて、セシアは言葉を失った。
白祈院では、こんなふうに短時間で人を見られたことがない。
見られてはいた。ずっと。
でもそれは祈りに適しているかどうかの目だった。
この女の目は違う。
もっと現実的で、容赦がない。
「……あなたは?」
やっとそれだけ返すと、女は口元だけで笑った。
「名乗るほど立派なもんじゃない」
そう言ってから、少し間を置いて続ける。
「リゼ」
「リゼ……さん」
「さん、いらない」
きっぱり言われ、セシアは口を閉じた。
リゼは柵から身体を離し、セシアの周囲を半歩だけ回るように動いた。値踏みされているのが分かる。逃げた方がいいのかもしれない。でも、足が重かった。水を飲んだことで少しだけ力が戻った反面、張りつめていたものが緩んでしまったのだ。
「金は?」
リゼが聞く。
セシアは黙った。
「あるの、ないの」
「……ありません」
「だと思った」
即答だった。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
白祈院では、候補生が金を持つことはない。必要なものは支給され、外へ出ることもない。だから金がないこと自体に、今まで深い意味を感じたことがなかった。
でも外では違う。
水を飲むにも、食べるにも、寝るにも、必要なのだ。
知らなかった。
いや、言葉としては知っていた。けれど実感がなかった。
 ゼはそんなセシアを見下ろし、鼻で笑った。
「その格好で無一文。しかも朝っぱらからひとり。だいぶ危ないよ、あんた」
「……そう、なんだと思います」
「思います、じゃなくて危ないの」
容赦がない。
でも、その言い方に悪意だけがあるわけではないことも分かった。
本当に危ないのだろう。
セシアは祈祷書の背を撫でた。
その中に挟んだ紙片の存在が、妙に心強く感じられる。
「食べるものは?」
リゼがまた聞く。
「……ありません」
「寝る場所は?」
「ありません」
「追われてる?」
セシアは息を止めた。
その反応を見て、リゼの目が少し細くなる。
「へえ」
「……」
「図星か」
白祈院のことを口にしていいのか分からなかった。
そもそも、知らない相手にどこまで言っていいものなのかも分からない。
迷っていると、リゼは小屋の方を振り向いた。
「とりあえず中に入る?」
「え」
「その顔で外に突っ立ってても余計目立つだけ。金ないなら、まあ……考える」
考える、の意味が分からなかった。
でも立っているのも限界だった。
セシアは小さく頷いた。
小屋の中は、外から見たよりも暗かった。木の壁にすすが染みついていて、煮込みの匂いと汗の匂いが混ざっている。白祈院の食堂とは何もかも違う。整っていない。けれど、あたたかい。
空いている隅の卓に座るよう促され、セシアはぎこちなく腰を下ろした。
その瞬間、全身から力が抜けそうになる。
リゼは向かいに座らず、少し離れた柱にもたれたまま店主らしき男に声をかけた。
「パンとスープ。あと水」
「金は」
「あとで」
「またかよ」
「今日は返すって」
店主は嫌そうな顔をしたが、それでも鍋の方へ向かった。
リゼがどういう立場なのか、なんとなく分かる。顔なじみだが信用はされていない。そういう人間だ。
卓に水の入った木杯が置かれる。セシアは礼を言って手を伸ばした。
その指先を見て、リゼが言う。
「綺麗な手」
セシアは思わず手を引っ込めた。
「旅人の手じゃない。働いてもない。刃物も持ってない。……ほんと、どっから来たんだろうね」
答えられない。
その沈黙を見て、リゼはそれ以上追及しなかった。
しばらくして運ばれてきたのは、硬いパンと、豆を煮崩しただけのような薄いスープだった。白祈院の食事も質素ではあったが、ここまで粗末ではない。
けれど空腹には十分すぎた。
セシアが一口飲んだ瞬間、胃が熱を持って縮む。
思わず目を伏せる。
「そんなにまずい?」
リゼが言う。
「……おいしいです」
「……変なやつ」
でもその声は、最初より少しだけ尖っていなかった。
スープを飲みながら、セシアは店の中のざわめきを聞いていた。街道の話、馬の具合、荷の値段、昨日どこで盗賊が出ただの、どこの橋が落ちかけているだの。
どれも白祈院では聞いたことのない言葉ばかりだ。
外には、こんなふうに生きている人たちがいる。
当たり前のことなのに、少しだけ眩しかった。
その時だった。
小屋の外から、蹄の音が響いた。
セシアの身体が硬直する。
すぐに分かった。
街道で聞いた音だ。
男たちの声がする。店主が外へ出る。小屋の中の空気が少しだけ変わった。
リゼの目が細くなった。
「知り合い?」
小さく問われ、セシアは首を振りかけた。
でも嘘はつけなかった。
「……分からないです。でも」
「でも?」
「探されてるかもしれない」
リゼは一瞬だけ、ひどく面倒そうな顔をした。
「そういうの早く言ってよ」
その瞬間、外から男の声が飛ぶ。
「白い服の娘を見なかったか!」
セシアの喉が凍る。
小屋の中が静まり返る。
皆の視線が一瞬こちらへ集まりかけて、でもセシアは祈祷書を抱え込んだまま動けなかった。
終わった、と思った。
けれど次の瞬間、リゼが無造作にセシアの頭へ古びた布を投げた。
「被って、俯いて」
「え」
「早く」
低い声だった。
反射で布を頭から被る。埃っぽい匂いがする。
リゼは空いた椅子を蹴って音を立てると、わざとらしく店主に怒鳴った。
「だから言ったろ、裏の樽はまだ運んでないって!」
「はあ?」
「こっちは人手足りてないの。外の連中なんか構ってる暇ないんだよ!」
店主も最初は面食らっていたが、すぐに乗った。
「うるせえな、さっさと運べ!」
「金取るくせに?」
「まだ取ってねえだろうが今日は!」
怒鳴り合いが始まり、小屋の中の視線がそっちへ流れる。
外の男が顔を覗かせた時には、セシアはもう布を深く被り、卓を拭く下働きのように俯いていた。
「白い服の娘だ。ひとりで歩いてるはずだ」
「朝からそんな上等な娘がここにいるかよ」
リゼが吐き捨てるように言う。
「見りゃ分かるでしょ。うちは汚い宿場だよ。神殿の娘なんか寄りつかない」
男はしばらく店の中を見回していたが、やがて舌打ちして引いた。
「見かけたら知らせろ」
「金くれるならね」
外で笑い声がして、蹄の音が遠ざかる。
セシアはしばらく顔を上げられなかった。
心臓がうるさく、手まで震えていた。
やがてリゼが布を引っぺがす。
「……ほんとに追われてるじゃん」
「ごめんなさい」
「謝るとこ?」
「……分からなくて」
リゼはセシアを見た。
長く、値踏みするみたいに。
それから深く息を吐く。
「ねえ」
「はい」
「あんた、放っといたら今日中に死ぬよ」
否定できなかった。
リゼは目を逸らし、舌打ちした。
「ほんと面倒なことになった」
そう言った声が、ほんの少しだけ苦しそうに聞こえたのは、たぶん気のせいじゃない。