第4話 異常者
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朝は、白祈院の鐘の音で始まるものだと思っていた。
けれど今、セシアの耳に届いているのは、風に揺れる草の擦れる音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。
それだけのことなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
白祈院の外は、こんなにも音が多い。
塀を越えてからどれくらい歩いたのか、自分でもよく分からない。
夜明け前の薄青かった空はいつの間にか白み始め、東の端から弱い光がにじみ出している。白祈院の外壁はもう見えない。代わりに見えるのは、荒れた草地と、細い道と、その向こうに続く低い森の影だけだ。
セシアは立ち止まり、祈祷書を抱え直した。
腕が重い。
足も痛い。
塀を越える時に擦った膝がじくじくと熱を持っている。衣の裾は土で汚れ、端の方は少し裂けていた。白祈院にいた時なら、それだけで修女に叱責されていたはずだ。
でも今は、誰も何も言わない。
そのことが少しだけ、怖かった。
白祈院では、どこにいても誰かの目があった。
歩き方。
祈り方。
食べ方。
眠る時間。
視線の置き方。
何もかもを見られていた。
それが息苦しかったはずなのに、いざ本当に誰にも見られなくなると、自分がどう立てばいいのかさえ分からなくなる。
セシアは小さく息を吐いた。
ここに立ち止まっていても仕方がない。
朝になれば、いなくなったことに気づかれる。
もう気づかれているかもしれない。白祈院がすぐに大騒ぎするとは思えないが、それでも逃げた候補生を放っておくほど甘くはないだろう。
歩かなければ。
そう思って足を前へ出した時だった。
『……みず』
声が落ちてきた。
セシアの肩がびくりと跳ねる。
エルナではない。
知らない声だった。
乾いた、ひび割れたような声。
喉の奥が焼けつくような渇きだけが、その短い言葉に詰まっている。
セシアは立ち止まり、周囲を見回した。
道の脇には背の低い草が生え、その先には木々の影が続いている。誰かが立っている気配はない。旅人の姿も、荷馬車も見えない。
『……みず』
もう一度。
胸の奥へ、直接落ちてくる。
死者の声だ。
白祈院の中だけのものではなかった。
外に出ても、やっぱり聞こえる。
当たり前のようでいて、どこかで少しだけ期待していたのかもしれない。外へ出れば、この声からも離れられるのではないかと。
でも違った。
聞こえる。
白祈院の外でも。
誰にも知られていない場所でも。
死がある場所には、やっぱり声が残る。
セシアは唇を噛んだ。
知らないふりをして通り過ぎることもできる。
今はそれどころじゃない。自分だって追われている。ひとつひとつ立ち止まっていたら、どこにも行けない。
分かっているのに、足は動かなかった。
『……みず』
それは願いというより、もうほとんど本能の残りかすのような声だった。
セシアは道を外れ、草をかき分けて森の縁へ入った。
夜露に濡れた草が足首に触れて冷たい。
踏みしめるたびに土がやわらかく沈む。
少し進んだところで、それを見つけた。
男が倒れていた。
旅人だろうか。
古びた上着を着て、荷袋を脇に落としている。身体は横向きに崩れ、片腕だけが不自然に伸びていた。土と葉にまみれた顔は土気色で、目は半ば開いたまま空を見ている。
セシアはその場で足を止めた。
死んでいる。
それは分かった。
白祈院では死者を見ることは珍しくなかった。
ただ、あれはいつも白布の向こう側に置かれた“整えられた死”だった。誰かが体を拭き、姿勢を正し、祈りの形に整えてから見せる死だ。
でも目の前のそれは違う。
土の上に倒れたままの死。
虫が這い、服が泥に汚れ、最後にどんな顔をしていたのかまでそのまま残っている死だった。
生々しくて、目を逸らしたくなる。
『……みず』
また声が落ちる。
セシアはゆっくり近づいた。
男の荷袋の口は開いていた。中身はほとんど空だ。
布切れ、硬くなった黒パン、紐、火打ち石。
水袋はあるが、中身は空だった。
喉が締めつけられる。
この人は、最後に水を求めて死んだのだ。
誰にも見つけられずに。
セシアは周囲を見回した。
近くに水場は見えない。森の奥から鳥の声がするだけだ。
もう遅い。
そんなことは分かっている。
でも、分かっていても、何もできなかったことだけが胸に残る。
「……ごめんなさい」
思わず声に出た。
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
男の胸元には小さな木札が下がっていた。安物の紐で結ばれた、旅の通行証のようなものだ。文字は擦れて読みづらいが、いくつかだけ残っている。
――南街道
――ラジル
――穀運
商人か、運び手か。
少なくとも誰かに必要とされて旅をしていた人なのだろう。
なのに、こんなところでひとりで死んでいる。
セシアは膝をつき、ぎこちなく両手を組んだ。
祈ることしか、できない。
白祈院で覚えた祈りの言葉は、こういう時のためにあるはずだった。
けれど今、それを口にしようとすると、妙に空々しく感じられた。
この人は水が欲しかっただけなのに。
最後に必要だったのは、きっと神聖な言葉じゃない。
『……みず』
声が、また落ちる。
セシアは目を閉じた。
「……ないです」
かすれた声で言う。
「ごめんなさい。私、持ってなくて」
返事はない。
でも、男の声はまだ消えない。
死者の声は、最後に強く残ったものしか届かない。
ということは、この人にとって最後まで世界に残っていたのは、“水が欲しい”という、それだけの願いだったのだ。
あまりにも小さくて、あまりにも切実だった。
胸の奥が、痛い。
セシアはゆっくりと立ち上がった。
せめて道から見えないようにしようかとも思ったが、男の身体は重く、細い腕では動かせそうにない。
しかも、こんなところで長く足を止めているのは危険だ。白祈院の追手だけじゃない。外には外の危険がある。
それでも、そのまま立ち去ることがひどく後ろめたかった。
祈祷書を開く。
間に挟んでいた紙片が落ちかけ、慌てて押さえた。
エルナの記録の切れ端。
――フィセル
――儀式適合 低
その文字が目に入った瞬間、吐き気に似たものがこみ上げる。
この人も、エルナも、違う場所で違うふうに死んだ。
でも最後に残るのは、きっと同じだ。
ちゃんと生きていたことが、誰にも残らない。
セシアは祈祷書の白紙の端を破り、男の木札に巻きつけるように結んだ。何の意味もない。雨が降ればすぐに破れるだろう。
それでも、ここに“ただの荷物”ではなく、人がいたのだと、何かひとつだけでも残したかった。
「……ラジルさん」
かすれた声で名を呼ぶ。
「ちゃんと、いました」
それだけ言って、セシアは立ち上がった。
その瞬間。
『……あ』
男の声が、少しだけ変わった。
渇きだけだった声に、ほんのわずかに別の色が混じる。
驚きか
安堵か
セシアには分からない。
でも、その声は次の瞬間、ふっと薄れて消えた。
森の空気が少しだけ軽くなる。
セシアは息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐き出した。
今のは何だったのだろう。
祈りが届いたわけではないと思う。
奇跡でもない。
ただ、聞かれただけなのかもしれない。
最後の願いが、誰かに届いた。
それだけで、少しだけ終われたのかもしれない。
その考えに、ぞくりとした。
もしそうなら、自分の力はただ不気味なだけのものじゃない。
でも同時に、それは普通の人間の生き方からは、かなり外れている気もした。
死者の声を聞き、死者に話しかける。
そんなもの、白祈院の外でも気味悪がられるに決まっている。
セシアは祈祷書を抱え直し、森を出た。
空はさらに明るくなっている。
朝が来る。
道に戻ったところで、今度は腹の奥がきゅうと縮むように痛んだ。
空腹だった。
昨日の夕食以降、何も口にしていない。夜のうちに飛び出したのだから当然だ。喉も乾いている。さっき死んだ男の水袋が空だったことが、妙に頭に残る。
水が欲しい。
その単純な欲求が、自分の中にも生まれていることが少し怖かった。
もしこのままどこにも辿り着けなければ、自分も同じように道端で倒れるのかもしれない。
白祈院の中にいた時には、そんな想像すらしたことがなかった。
食事は出てきた。
寝る場所もあった。
白い布も、清められた水も、時間通りに与えられていた。
息苦しかったけれど、生きるための最低限はすべて用意されていたのだ。
外は違う。
誰も用意してくれない。
喉が乾けば、自分で水を探さなければならない。
寒ければ、自分で火を起こさなければならない。
死にたくなければ、自分で生き延びなければならない。
そんな当たり前のことを、セシアは今さら理解し始めていた。
道はゆるやかに下っている。
遠くに、木立の切れ間から薄く煙が見えた。
人のいる場所かもしれない。
小さな村か、街道沿いの休み場か。
何であれ、水と人の気配があるなら、今はそこへ向かうしかない。
セシアはふらつく足を前へ出した。
しばらく歩くと、道の脇に車輪の跡が深く残っている場所へ出た。荷馬車が何度も通った道なのだろう。草が踏み荒らされ、ところどころに干からびた馬糞が落ちている。
人の気配が近い。
少しだけ安心しかけた、その時だった。
後ろから、蹄の音がした。
セシアの身体が固まる。
街道を駆けてくる、馬の足音。
一頭ではない。二頭か、三頭。
反射的に道の脇へ身を寄せ、低木の陰にしゃがみ込む。
白祈院の者だろうか。
それともただの旅人か。
分からない。
でも、今の自分は誰に見つかっても危うい。
蹄の音は近づき、やがて視界の先を横切った。
灰色の上着を着た男たちだった。
白祈院の修女や神官ではない。けれど、そのうちのひとりの腰に下がっていた紋章入りの札が、朝の光をかすかに反射した。
見覚えはない。
でも、何か嫌な感じがした。
「若い娘がひとり、夜のうちに抜けたらしい」
通りすがりに、男のひとりが言った。
セシアの背筋が凍る。
「候補生か?」
「さあな。上からは余計なことを喋る前に見つけろとだけだ」
笑う声。
「生きてりゃいいんだろ」
「口が利ける程度にな」
蹄の音が遠ざかっていく。
セシアは低木の陰で、しばらく動けなかった。
追手だ。
白祈院そのものではないかもしれない。
でも少なくとも、自分を探している人間がもう動いている。
体が震える。
怖い。
でもそれ以上に、あの言葉が頭に残った。
――余計なことを喋る前に見つけろ。
エルナの死のことを、誰かに話されたくないのだ。
記録から消して終わるはずだったものを、自分が持ち出してしまった。
セシアは祈祷書をぎゅっと抱きしめた。
紙片がその中にある。
たった一枚。
たった数文字。
でも、それだけで十分に邪魔なのだろう。
風が吹き、木々がざわめく。
セシアはゆっくり立ち上がった。
もう、普通の候補生には戻れない。
戻ったふりをしても、きっと許されない。
白祈院を抜け出した少女ではなく、もっと別のものとして扱われるのだろう。
乱れた者。
不安定な者。
余計なことを知ってしまった者。
あるいは――
「……異常、なんだろうな」
ぽつりと、声が漏れた。
自分で言って、少しだけ可笑しかった。
白祈院にいた頃から、薄々分かっていたことだ。
死者の声を聞く。
死んだ人に返事をしてしまう。
そんなものが、まともなわけがない。
でも今、その異常だけが、自分を前へ進ませている。
ラジルの声を聞いた。
エルナの声を聞いた。
そしてそれを、なかったことにはしたくなかった。
それなら、異常でもいいのかもしれない。
少なくとも、何も聞こえないふりをして、何もなかったことにする側よりはましだと、今のセシアは思った。
遠くの煙が少し濃く見える。
人のいる場所。
水のある場所。
生き延びるために向かわなければならない場所。
セシアは一度だけ、背後の空を振り返った。
白祈院のある方角は、もう森と朝靄に隠れて見えない。
それでも、そこに白い建物が静かに立っている気がした。
鐘の音は、もう届かない。
代わりに聞こえるのは、風と、鳥と、自分の呼吸だけだ。
その静けさの中で、セシアは足を前へ出した。
死者の声を聞く少女として。
白祈院から逃げた候補生として。
そしてたぶん、これからもっと面倒な何かとして。
朝の光は、まだ弱かった。
けれど夜はもう完全に終わっていた。
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