第3話 なかったこと
ー/ー白祈院の外気は、思っていたよりもずっと冷たかった。
窓から身を滑らせた瞬間、夜明け前の風が頬を打った。
石壁に指をかけ、足場を探る。候補生たちの寮棟は高くはないが、飛び降りて無傷で済むほど低くもない。裾を引っかけないように気をつけながら、セシアは慎重に体を下ろした。
靴底が地面に触れた時、初めて自分が本当に外へ出たのだと分かった。
白祈院の敷地の中ではある。
けれど、もう寮棟の内側にはいない。
胸がうるさいほど鳴っていた。
戻ろうと思えば、まだ戻れる。
窓は開いたままだし、夜明け前の薄闇も、自分の抜け出しを隠してくれている。今ならまだ、部屋へ戻って、何事もなかったように寝台へ潜り込むこともできる。
だが、そうして朝を迎えた先にあるものを思うと、足は動かなかった。
エルナの名前は消される。
あの白い部屋で交わされていた言葉は、そのための言葉だった。
急変
乱れ
影響を広げない
名簿からも
どの言葉も綺麗で、どの言葉も優しげで、だからこそ余計に冷たかった。
セシアは祈祷書を抱きしめた。
頁の端に残された細い文字が、手のひら越しにもそこにある気がした。
――聞いてもらえますように
聞いてもらえなかったのだ、結局。
だから死んだあとになって、ようやく自分のところへ落ちてきた。
白祈院の裏庭は、昼に見るよりもずっと広く、ずっと知らない場所に見えた。
白い石畳は夜露に濡れて青く沈み、花壇に植えられた白花も、今はただ色を失った影にしか見えない。整えられた低木の向こうには、礼祈堂の尖った屋根が夜空を裂くように立っていた。
綺麗だと一瞬思う。
そして同時に、その綺麗さがひどく恐ろしく感じられた。
白祈院は何も変わっていない。
人が死んだ夜でも、同じ顔をしている。
セシアは人目を避けるように建物の影を歩いた。
門から出るのは無理だ。夜明け前でも、正門には必ず見張りがいる。候補生ひとりが外へ出る理由などないし、見つかればその場で連れ戻されるだろう。
外へ出る道を探す前に、もうひとつだけ確かめたいことがあった。
名簿。
あの言葉が、本当に名前を消す意味なのか。
エルナの死が、書類の上でも片づけられるものなのか。
確認したところで何ができるわけでもない。
そんなことはセシアにも分かっていた。けれど見ずに出てしまえば、きっとずっと、自分は何ひとつ知らないまま逃げたことになる。
それが嫌だった。
記録庫へ向かう裏通路は、表よりも狭い。
候補生たちは本来使わない道だが、洗い場や倉庫の当番に回される子は位置を覚えてしまう。セシアもそのひとりだった。
小さな渡り廊下を抜け、物置の陰へ回る。
その時だった。
『……寒い』
胸の奥へ、かすかに声が落ちてきた。
セシアは足を止めた。
エルナだ。
『……暗い』
途切れ途切れの、弱い声。
死者の声は、いつもは一度聞こえて終わることも多い。最後に強く残った言葉だけが、短く落ちてくる。それなのにエルナの声は、今夜に限って細く長く尾を引いていた。
それだけ、終わりきれていないのかもしれない。
それだけ、残されたものが多いのかもしれない。
「……どこ?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
答えは返らない。
ただ、胸の奥に冷たい感覚だけが残る。
記録庫の近くまで来ると、空気が変わった。
香の匂いではなく、紙と埃と乾いた木の匂いがする。候補生たちが使う場所ではないから、ここだけ祈りの場所というより、物をしまう倉のような温度を持っていた。
扉は閉じている。
だが鍵はかかっていなかった。
セシアは耳を澄ませた。
中から人の気配はしない。
ゆっくりと扉を押す。
古い木が、小さく軋んだ。
部屋の中は暗く、棚が壁際に並んでいた。名簿、儀式記録、寄進録、候補生ごとの経過表。白祈院の“整った日常”を支えるものが、すべてここに収められている。
セシアは息を潜めながら中へ入った。
どこに何があるか、正確には分からない。けれどノエル神官がしばしば出入りしている棚の位置くらいは見覚えがある。記録庫の一番奥、管理名簿を置く鍵付きの箱のある棚だ。
そこに近づきかけた時、床に何かが落ちているのに気づいた。
紙片だった。
拾い上げる。
厚手の紙。
候補生管理表の一部に見える。名前欄だけが切り取られたような、不自然な欠け方をしていた。
そこに残っていた文字は、かろうじて二行。
――フィセル
――儀式適合 低
喉が詰まる。
エルナ・フィセル。
全部は残っていない。
でも、その一部だけで十分だった。
これはエルナの記録だ。
指先が震える。
適合、低。
たったそれだけの文字に、ひどく冷たいものを感じた。
この院では、人は祈る者として見るより先に、適しているかどうかで見られている。
祈りが深いか。
神に近いか。
使えるか。
残す価値があるか。
そして足りなければ、静かに脇へ寄せられる。
セシアはそのことを、頭では知っていた。
でも、こうして紙の上の文字として見ると、あまりにも露骨だった。
人ひとりの輪郭が、たった一言で測られている。
『……違う』
エルナの声が落ちる。
『ちがう』
セシアはぎゅっと紙片を握った。
「うん」
思わず答える。
「そうだよね」
その時、廊下の向こうで足音がした。
セシアの全身が硬直する。
誰かが来る。
慌てて棚の陰へ身を滑り込ませる。紙片は咄嗟に袖の内側へ押し込んだ。息を殺し、闇の中で縮こまる。
足音は一人分。
軽い。
修女ではない。神官とも少し違う。
扉が開く。
かすかな灯りが差し込んできた。
「まだ残っていたのですね」
静かな声だった。
セシアの背筋が凍る。
あの声だ。
下の階でノエル神官と一緒にいた、白い衣の少女。
棚の隙間から、かろうじて姿が見えた。
白を基調とした候補生の衣。けれど布地の質が明らかに違う。無駄な装飾はないのに、ただそこに立っているだけで、他の候補生とは違うと分かる。
少女は部屋の中を見回したあと、床へ視線を落とした。
「切り落としたと思ったのですが」
独り言のように呟き、しゃがみ込む。
指先で床をなぞり、何かを拾おうとする仕草をした。
落ちていた紙片がないことに、気づいたのだろうか。
セシアの喉が痛いほど乾く。
見つかったら終わりだ。
この場所にいた理由なんて説明できない。
エルナの記録を見た、などと言えば、それこそ静室どころでは済まないかもしれない。
白い少女は立ち上がった。
灯りの中で横顔がわずかに見える。
年はそれほど離れていないはずなのに、なぜかずっと遠い存在に見えた。顔立ちが整っているせいではない。立ち姿に迷いがないのだ。自分がここにいていいと、最初から知っている者の姿だった。
「消えるものは、最後まで乱れるのですね」
その声は穏やかだった。
怒っているわけでも、嘲っているわけでもない。
ただ事実を述べているだけのように聞こえる。
でも、その一言で、セシアはひどく寒くなった。
消えるもの。
それは誰のことだ。
記録のことか。
名前のことか。
それとも、エルナそのものか。
少女は少しのあいだ棚を見ていたが、やがて静かに踵を返した。
「朝までには整うでしょう」
それだけ言って、部屋を出ていく。
扉が閉まるまで、セシアは呼吸もできなかった。
足音が遠ざかっていく。
ようやく息を吐いた時、膝が震えていることに気づいた。
今の誰なのか、名前は知らない。
でも分かることがある。
あの人は、自分たちとは違う。
選ばれる側の人間だ。
そして、消える側を見ても、少しも揺らがない。
セシアはしばらくその場にうずくまっていたが、やがて立ち上がった。
ここに長くいるのは危険だ。
もう十分すぎるほど見てしまった。
紙片を袖の内から取り出し、改めて見つめる。
フィセル。
適合 低。
それだけ。
エルナがどう祈っていたかも、何を怖がっていたかも、どんな顔で笑ったかも、この紙には何ひとつ残らない。
ただ“足りなかった”という印だけが残る。
それが無性に悔しかった。
セシアは紙片を折り、祈祷書の間へ挟んだ。
持ち出していいものではない。
見つかれば責められるだろう。
それでも置いていけなかった。
これまでのエルナが、全部そこに潰されている気がしたからだ。
記録庫を出る。
廊下の空気はまだ冷たい。
だが、もう迷っている暇はなかった。
戻れば朝が来る。
朝が来れば、自分は静室へ入れられる。
そうなれば、エルナのことも、今夜見たことも、全部考えすぎたことにされて終わるだろう。
『……やだ』
エルナの声が、また落ちる。
「うん」
セシアはもう迷わず答えた。
「そうだよね」
それはエルナの声であり、同時に自分自身の声のようでもあった。
白祈院に残れば、整えられる。
祈りの乱れとして片づけられる。
静室で心を鎮めるように言われ、やがて何もなかった顔で列へ戻されるか、列から外される。
どちらにしても、エルナのことは終わる。
それだけは嫌だった。
寮棟の方へ戻る途中、遠くで鐘の準備の音がした。
まだ朝の本鐘ではない。けれど夜はもう長くない。
焦りが足を速める。
裏庭の低木を抜け、外壁沿いの小道へ出る。
白祈院の敷地は高い塀で囲まれているが、古い裏門のあたりだけ、石積みが少し崩れている場所があるのをセシアは知っていた。
昔、配達の荷車が車輪を取られたせいで、一度だけ修繕の話が出たのだ。けれど結局、表門の整備が優先されて、そのままになっていた。
候補生たちはそこへ近づくなと言われている。
危ないから。見苦しいから。そう言われて。
でも今は、そこしかない。
走る。
息が切れる。
冷たい空気が喉を刺す。
それでも足は止まらない。
背後で誰かの声がした気がして、振り返りかけた。
けれど振り返らなかった。
今はまだ、自分がいなくなったことに気づいていないかもしれない。
気づかれたとしても、ここで止まれば終わる。
崩れかけた石積みに手をかける。
思った以上に高い。指先に砂がつく。爪が痛い。
それでも登る。
祈祷書を先に向こうへ投げ、必死で体を引き上げる。
衣の裾が引っかかり、布が裂ける音がした。
でも構わなかった。
向こう側へ落ちる。
受け身も取れず、地面に膝を打った。鈍い痛みが走る。けれど立てる。立たなければならない。
白祈院の外。
塀の向こうに、白い壁が見える。
夜明け前の青の中で、それはまだ静かに立っていた。
ここで生きてきた。
ここしか知らなかった。
そこで、エルナは消された。
セシアは息を整えながら、塀を見上げた。
『……聞いて』
最後の声が、胸の奥に落ちる。
「聞くよ」
今度は、はっきり言えた。
「ちゃんと聞く。だから、行くね」
風が吹いた。
白祈院の鐘は、まだ鳴らない。
けれど間もなく朝になるだろう。
その前に、もうここから離れなければならない。
セシアは祈祷書を抱え直し、道なき道の方へ足を向けた。
何が待っているのか分からない。
怖い。
でも、それ以上に。
今ここで立ち止まって、何もなかったことにされる方が、ずっと怖かった。
白い塀の向こうで、ようやく遠く鐘が鳴り始めた。
朝を告げる音だった。
それはいつもと同じ清らかな響きのはずなのに、今のセシアには、ひどく冷たく聞こえた。
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