第2話 最後の祈り
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夜明け前の白祈院は、昼よりも広く感じられた。
石の床は冷たく、回廊の先は薄闇に沈んでいる。
昼間なら誰がどこに立っているか分かる場所も、今は白い壁と影の境が曖昧で、距離の感覚まで狂いそうだった。
セシアは祈祷書を胸に抱えたまま、自室の扉をそっと開けた。
蝶番が鳴らないよう、指先に力を込める。
振り返ると、三つの寝台にはまだ規則正しい寝息が残っていた。誰も起きていない。誰にも気づかれていない。
それでも胸は落ち着かなかった。
エルナの声が、まだ残っている。
――ちゃんとしていたのに。
――まだ祈っていたのに。
――消さないで。
あれはただの悲しみじゃない。
助けて、でもない。
もっと静かで、もっと深い、置き去りにされることへの恐れだった。
セシアは廊下へ出た。
何をするのか、明確に決まっているわけじゃない。
どこへ行けば何が分かるのかも、まだ分からない。
でも、ひとつだけはっきりしていることがある。
このまま朝を待てば、エルナはいなかったことにされて終わる。
儀式中の急変。
祈りの乱れ。
不安定な候補生。
白祈院では、人が消える時ほど言葉が整う。
それはずっと前から知っていた。
何もせずに白祈院に残ることはできなかった。
だから、動くしかない。
礼拝堂へ続く正面の回廊は避け、裏手の渡り廊下へ足を向ける。
この時間、人の目が少ない場所は限られている。
洗い場。
祭具棚のある小部屋
裏階段
候補生たちが普段は近づかない、神官や修女たちの動線
長くここで暮らしていれば、誰がどの時間にどこを通るかくらいは自然と覚えてしまう。
知ろうとして覚えたわけではない。ただ、見ないふりをしながら暮らしているうちに、嫌でも分かるようになる。
エルナが最後にいたのは礼拝堂の儀式場だ。
その前後で立ち寄れた場所はそう多くない。
セシアは歩きながら、昨日の夕刻を思い返した。
祈祷前の整列。
いつものように白衣の裾が並び、皆が同じ角度で祈祷書を抱えていた。少しでも姿勢が乱れれば修女の視線が飛ぶ、息の詰まるような時間だ。
その中で、エルナだけが少しおかしかった。
目立つほどではない。
でも、いつもと違った。
祈祷書を持つ指先が強く、白くなるほど力が入っていた。
列が進むたびに、ほんの少しずつ呼吸が浅くなっていた。
何度か、礼拝堂の奥を見ていた。
まるで怯えるみたいに。
その時は、ただ緊張しているのだと思った。
この院では珍しいことじゃない。
名前を呼ばれるかもしれない時、前へ出されるかもしれない時、誰だって少しは顔色を変える。
でも、今になって思えば違ったのかもしれない。
エルナは何かを知っていた。
あるいは、どこかへ行かされることを分かっていた。
裏手の洗い場を横切る。
夜の石壁は昼間よりも冷たく、わずかに湿っていた。水桶の中の水面が燭台の明かりをぼんやり映している。
そこでふいに、記憶がよみがえった。
数日前の夕方。
祈祷布を絞っていた時のことだ。
『あなた、よく空を見ていますよね』
エルナの声だった。
洗い場に差し込む夕方の光の中で、彼女は濡れた布を絞りながら少しだけ笑っていた。
『わたしも、たまに見ます』
その時、セシアはうまく返せなかった。
白祈院の中で空を見上げることに、意味があるとは思っていなかったからだ。
『ここ以外の場所って、本当にあるのかなって』
妙な言い方だった。
でも、あの時のエルナは冗談を言っている顔ではなかった。
遠くを見るような、少しだけ諦めた目をしていた。
今なら分かる
あれはただの世間話じゃなかった。
誰かに聞いてほしかったのだ。
ここ以外の場所を、まだ信じていたかったのだ。
胸の奥が重くなる。
『……行きたく、なかった』
声が落ちてきた。
セシアは足を止める。
洗い場の奥、儀式用の布や銀器がしまわれた戸棚の前だった。
戸棚のひとつが、わずかに開いている。
昨日の夜も見た。
誰かが慌てて閉め損ねたみたいに、ほんの少しだけ口を開けている。
セシアはそっと近づいた。
中には白布と銀器、祈祷用の小さな鈴、清めの水を入れる細長い瓶が並んでいる。どれも見慣れたものだ。候補生たちが直接使うことは少ないが、当番で掃除に入ることはある。
ただ、その一番奥に、見覚えのない小さな箱があった。
黒ずんだ木箱。
他の祭具よりも古く見える。
セシアが手を伸ばしかけた、その時だった。
『あの部屋』
ひどく近くで、エルナの声がした。
手が止まる。
「あの部屋……」
小さく呟いた声が、自分でも驚くほど大きく聞こえた。
白祈院で“あの部屋”と呼ばれて怖がられる場所は、いくつかしかない。
静室。
儀式準備室。
礼拝堂の裏の控えの間。
でも候補生たちの間で、いちばん低い声で語られるのは、礼拝堂の裏にある小さな白い部屋だった。
名前はない。
少なくとも候補生たちは正式な呼び名を知らない。
ただ、ときどき誰かが呼ばれる。
祈りが乱れていた子。
急に泣き出した子。
儀式の前に顔色を変えた子。
戻ってくる子もいる。
でも戻ってきたあと、その子は少し変わる。
前より静かになって。
前より何も言わなくなって。
前より空を見なくなる。
そういう子を、セシアは何人か知っていた。
問いかけても、「何もなかった」としか言わない。
言わないのではなく、言えないのかもしれないと思ったこともある。
けれど深く聞いたことはなかった。
聞けば、自分も同じ場所へ近づく気がしたからだ。
『やだ』
声がまた落ちる。
今度はもっと幼く、かすれていた。
『行きたく、ない』
セシアは唇を噛んだ。
エルナはあそこへ行ったのかもしれない。
あの白い部屋へ。
その時、廊下の奥で何かが軋む音がした。
セシアは反射的に戸棚の陰へ身を滑り込ませる。
心臓が喉まで上がりそうになる。
足音ではない。
けれど誰かが近くにいる気配がした。
しばらく息を潜める。
やがて、かすかな紙の擦れる音が風に乗って届いた。
下の階だ。
裏階段の先。
セシアは迷った。
戻るべきだ。
そう思う。
でも、もうここまで来てしまっている。
今戻っても、朝になれば何もかも整えられて終わるだけだ。
意を決して裏階段を下りる。
下の階はさらに冷え込んでいた。
石壁の白さは薄闇の中で青く沈み、空気そのものが冷たい水の中みたいだった。
廊下の先に、小さな灯りがある。
記録を一時的に保管する小部屋だ。
扉が半開きになっている。
中から、声が聞こえた。
「記録は朝までに整えておいてください」
静かな女の声だった。
若い。
けれど妙に落ち着いていて、年齢よりずっと完成されて聞こえる声。
「急変として処理します」
男の声。
ノエル神官だとすぐに分かった。記録庫によくいる、物腰の柔らかい神官だ。候補生たちにはいつも穏やかで、だからこそ何を考えているのか分からない。
「それで問題ありません」
女の声が返す。
セシアは壁に身体を寄せ、そっと扉の隙間を覗いた。
二つの影がある。
一人はノエル神官。
もう一人は白い衣の少女だった。
候補生の衣の形に似ているのに、布の質が違う。
立ち姿が違う。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が少し変わるような人だった。
あの人は、自分たちとは違う。
同じ場所にいても、呼ばれる場所が違う。
見られる重さが違う。
選ばれる側にいる人間だと、ひと目で分かる。
少女は机の上の紙束を見下ろしたまま言った。
「乱れは広げない方がいいでしょう」
その声音には、ためらいがなかった。
「残せば、他にも影響します」
ノエル神官が静かに頷く。
「では、名簿からも」
「ええ」
その瞬間、セシアの指先が凍りついた。
名簿からも。
その意味を考えるより先に、胸の奥へ別の声が差し込む。
『やだ』
エルナの声だった。
『ここじゃ、なかった』
セシアは息を呑む。
部屋の中の二人には聞こえていない。
声はセシアにだけ落ちてくる。
名簿から消される。
急変として処理される。
乱れは広げない方がいい
言葉だけが綺麗で、やっていることだけがひどく冷たい。
白い衣の少女が、ふいに顔を上げた。
セシアの背筋が強張る。
輪郭しか見えない。
でもその一瞬だけ、目が合った気がした。
見透かされるような感覚。
怖い、とセシアは思った
マテルナ修女の冷たさとも、アルヴェイン司祭の穏やかな怖さとも違う。
もっと静かで、もっと澄んでいて、だからこそ逃げ場がないような怖さだった。
もしあの人に「そこにいるのですね」と言われたら、自分はたぶん、何も言い返せない。
少女はしばらく扉の方を見ていた。
やがて、何事もなかったように視線を紙束へ戻す。
「この件は、これで終わりです」
静かな声だった。
でもその一言で、本当に誰かの存在が終わってしまうように聞こえた。
セシアは反射的に身を引いた。
心臓がうるさい。
今すぐここを離れないと、何かが壊れそうだった。
階段を駆け上がる途中で、誰かとぶつかりそうになる。
「セシア?」
柔らかい声に、セシアははっと顔を上げた。
修女レティアだった。
薬瓶の入った籠を抱え、驚いたように目を丸くしている。
「こんな時間にどうしたのです」
「……眠れなくて」
また同じ言い訳を口にする。
でも自分でも、それが通る顔をしていないのは分かった。
レティア修女はセシアをしばらく見つめたあと、かすかに眉を寄せた。
「顔色が悪いですね」
「大丈夫です」
「今夜のことなら、明日きちんと説明があります」
その言い方に、セシアはぞくりとした。
きちんと。
説明。
白祈院では、何かが消される時ほど、言葉だけが整う。
「修女様」
思わず呼び止める。
レティア修女は足を止めた。
「エルナは、本当に事故だったんですか」
一瞬だけ、レティア修女の表情が揺れた。
困ったように。
苦しそうに。
ほんの一瞬だけ。
けれど次の瞬間には、いつもの柔らかな顔に戻っていた。
「今は、余計なことを考えない方がいいですよ」
それは肯定でも否定でもなかった。
「でも」
「セシア」
レティア修女の声は、マテルナ修女とも違う意味で静かだった。
「あなたは優しすぎます」
セシアは言葉に詰まる。
優しい。
そう言われたことはあまりない。
白祈院では、優しさよりも、整っていることの方が大事だったからだ。
「全部を抱えようとしてはいけません」
「……抱えてなんか」
「それでも、聞いてしまうのでしょう?」
セシアの目が見開く。
レティア修女は目を伏せた。
「そういう顔をしている時があります」
それ以上は何も言わなかった。
言えないのかもしれなかった。
助けてくれるわけじゃない。
でも完全に見捨ててもいない。
その曖昧さが、セシアにはかえって苦しかった。
「夜が明ける前に、部屋へ戻りなさい」
すれ違いざま、レティア修女は小さくそう言った。
それが命令なのか、警告なのか、あるいは最後の情けなのかは分からなかった。
修女の背が見えなくなったあと、セシアはその場に立ち尽くした。
腕の中の祈祷書がやけに重い。
エルナの書き込みが脳裏に浮かぶ。
――聞いてもらえますように
その願いは、死んだあとになってようやく自分に届いた。
遅すぎる。
でも、聞こえてしまった以上、置いていくことはできない。
『……まだ』
また、声が落ちる。
「うん」
セシアは小さく答えた。
もう分かっている。
ここにいてはいけない。
このまま朝を迎えれば、エルナは完全に消える。
なかったことにされる。
そしてきっと、それはエルナひとりの話じゃない。
この白い院のどこかには、まだ他にもいる。
誰にも聞かれなかった声が、沈んだまま残っている。
セシアは寮棟の裏手へ向かった。
朝になれば静室に入れられる。
それまでに出るなら、今しかない。
窓の留め具に手をかける。
指先が震えていた。
怖い。
外へ出ることも。
この院の外で生きられるのかも分からない。
何より、自分が本当にここを出てしまっていいのかも分からない。
ここしか知らないのに。
ここ以外の場所が、本当にあるのかさえ、ちゃんとは知らないのに。
でも。
何もせずに残って、朝の鐘を聞いて、エルナの名前が静かに消されるのを待つことだけは、もうできなかった。
留め具を外す。
冷たい外気が一気に流れ込んだ。
思わず目を細める。
でもその冷たさは嫌じゃなかった。閉じられた空気より、ずっとましだった。
『……聞いて』
最後の声が落ちる。
セシアは目を閉じた。
「聞くよ」
今度は、はっきりと言った。
「だから、待ってて」
返事はない。
でも、それでよかった。
エルナはまだ終わっていない。
自分も、もうここでは終われない。
セシアは祈祷書を抱え直し、窓の向こうへ足をかけた。
白祈院は今日も静かだった。
何もかもが正しく、清らかで、少しも間違っていないような顔をしている。
だからこそ、その白さの下に沈んだものが、ひどく恐ろしかった。
セシアは初めて、自分の意志でその外へ出た。
まだ夜明け前だった。
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