表示設定
表示設定
目次 目次




第1話 音のない死

ー/ー



表紙



誰も泣いていなかった。

白祈院(はっきいん)では、人が死んでも音がしない。

夜の回廊を渡る風も、石床を踏む修道靴の音も、壁際に並ぶ燭台の火も、何ひとつ乱れない。
だからこそ、その静けさの底に沈んでいた“それ”だけが、セシアにははっきりと聞こえた。

『……まだ』

息が止まる。

礼拝堂へ続く扉の向こう。
神官たちの低い話し声に混じって、別の声が落ちてくる

『……まだ、祈っていたのに』

セシアの指先が強張った。

夜着の上から羽織った薄手の上着では、春先の冷え込みは防げない。けれど寒さより先に、背中を嫌な汗が伝っていた。

まただ。

聞こえてはいけないものが聞こえる時、空気は少しだけ重くなる。耳で拾うというより、胸の奥へ直接落ちてくるような感覚だった。

言葉になりきれなかった願い。飲み込まれた感情。最後まで口にできなかった祈りの欠片。そういうものだけが、行き場を失ってセシアに触れてくる。

神官たちはそれを“乱れ”と呼んだ。
教導役の修女は“祈りの不足”だと言った。
候補生たちは、少しずつ距離を置くようになった。

セシア自身にも、何なのかは分からない。

ただ、死の近くでだけ聞こえる。

「……エルナ?」

思わず、その名が唇からこぼれた。


セシア 聞こえる


夕刻の祈祷の列で、たしかに彼女を見た。

薄い栗色の髪をきちんと耳の後ろへ流し、いつものように背筋を伸ばしていた。目立つ子ではない。祈りも礼法も、いつも悪くはないところにいた。
褒められることも少なければ、叱られることも少ない。けれど当番表の名前を見れば、今日もちゃんとそこにいると分かるような子だった。

白祈院には、そういう子がたくさんいる。

同じように祈り、同じように頭を垂れ、同じように微笑むことを求められながら、その中で少しずつ違いがつけられていく。

声の澄み方。
祈りへの反応。
呼ばれる回数。
視線を向けられる時間。

それは決して言葉にはされないのに、ここで暮らしていれば嫌でも分かった。

朝の祈祷のあと、名を呼ばれて前へ出る子がいる。
その子は次の日も、そのまた次の日も、神官や修女のそばにいる。

逆に、いつの間にか列の端へ追いやられていく子もいる。
呼ばれなくなる子。
目を合わせてもらえなくなる子。
何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込むようになる子。

やがて姿を見なくなる子もいた。

病だと言われることもあれば、別院へ移されたと言われることもあった。
でも、候補生たちは皆知っている。そういう説明が、本当であるとは限らないことを。

それでも誰も深くは聞かない。

聞いてしまえば、自分も同じ側へ押しやられるかもしれないからだ。

エルナは、ずっと脇に置かれる側の子だった。

けれどセシアは、一度だけ彼女と言葉を交わしたことがある。

ほんの数日前、洗い場で祈祷布を絞っていた時だ。
隣で同じように手を動かしていたエルナが、ふいに小さく笑った。

「あなた、よく空を見ていますよね」

唐突で、セシアは少し驚いた。

「……そう、かな」

「見ています。鐘が鳴る前とか、祈りが終わったあととか」

言われてみれば、そうだったかもしれない。
白祈院の中では、空だけが少しだけ外と繋がっている気がした。

セシアが答えに困っていると、エルナは濡れた布を絞りながら言った。

「わたしも、たまに見ます」

「外に出たいの?」

そう聞くと、エルナは少しだけ目を丸くして、それから困ったように笑った。

「どうでしょう。出たいというより……ここ以外の場所って、本当にあるのかなって」

今思えば、妙な言い方だった。

白祈院で育った候補生にとって、外の世界は遠い。
知らない町。知らない人々。知らない空気。

祈りを捧げることだけを教えられてきた少女たちにとって、外はあるらしいもの、
でしかない。

でも、あの時のエルナは、まるで本当にここではないどこかを探しているみたいな目をしていた。

それが最後だった。

『ちゃんと、していたのに』

声がまた落ちる。

セシアは扉の影から、そっと前を覗いた。

礼拝堂の前室には明かりが多く、白い石壁が冷たく光っている。
神官が二人、修女が一人。床に置かれた担架には白布がかけられていて、その下にある輪郭はあまりにも細かった。

神官の一人が、抑えた声で言う。

「記録は儀式中の急変でまとめます」

「もともと不安定な兆候はありました」

「候補生たちには明朝伝えれば十分でしょう。無用な動揺は避けるべきです」

淡々とした声だった。

誰も慌てていない。
誰も取り乱していない。
そこにあるのが、さっきまで同じ院で祈っていた少女の身体だとは思えないほど、空気は整いすぎていた。

セシアの喉がひどく乾く。

急変。
不安定。
動揺は避けるべき。

白祈院では、何かが切り捨てられる時ほど、言葉が綺麗になる。

祈りが足りなかった
未熟だった
乱れていた

そうやって、原因はいつもこちら側に置かれる。

選ばれなかったことも、届かなかったことも、足りなかったことも、全部、本人の未熟さにされていく。

神は間違えない。
間違えるのは、祈る側だ。

この院では、それが疑う余地のない前提として置かれていた。

『ここじゃ、なかった』

びくりと肩が跳ねた。

今までより、ずっとはっきり聞こえた。
胸の奥に細い針を差し込まれるみたいに、その言葉だけが落ちる。

ここじゃなかった。

何が。
どうして。

意味は分からない。
でもそれは、事故で亡くなった少女の最後としては、あまりにも強い響きを持っていた。

セシアは扉の縁を掴んだ。

その時だった。

「セシア」

真横から落ちた声に、心臓が跳ね上がる。

振り向くと、回廊の暗がりに修女マテルナが立っていた。
年を重ねても背筋の曲がらない人で、夜の灯りの下では、シワよりも口元の厳しさが先に見える。

「ここで何をしているのです」

「……眠れなくて」

「それで礼拝堂の前まで来たのですか」

嘘ではない。
けれど本当でもない。

マテルナ修女の目は、扉の向こうではなく、セシアの顔だけを見ていた。何かを測るような、冷たい目だった。

「部屋へ戻りなさい」

「中にいるのは……エルナ、ですよね」

修女の目が、わずかに細くなる。

「今夜のことは、明朝伝えます」

「でも」

「戻りなさい、セシア」

怒鳴られているわけではない。
けれど、その一言だけで会話は終わっていると分かる声だった。

それでもセシアは、引けなかった。

「事故では、なかったんですか」

自分でも、どうしてそんな言い方になったのか分からない。
ただ、エルナの声がまだ胸の奥に残っていた。

ちゃんとしていたのに。
まだ祈っていたのに。
ここじゃなかった。

それを聞いてしまった後では、何も知らないふりができなかった。

マテルナ修女はしばらく黙ったあと、静かに言った。

「今夜は冷えますね」

答えにはなっていない。
けれど、その一言だけで、セシアは自分が踏み込んではいけない場所へ足をかけたのだと悟った。

この院には、触れてはいけないものがある。
祈りより先に、沈黙を学ばなければならない時がある。

その境目を、今、越えた。

「あなたは最近、少し落ち着きがありません」

「……申し訳ありません」

「明日から静室で祈りを整えなさい」

血の気が引いた。

静室。

休息のための部屋だと説明されている場所。
けれど候補生たちは皆知っている。あそこへ入れられた子は、しばらく姿を見せなくなる。戻ってきても、前と同じ場所には戻れない。

祈りを整えるという言い方も、ここでは便利に使われる
泣き続ける子を黙らせる時。
問いを重ねる子を遠ざける時。
向いていないと判断された子を、列の外へ出す時。

その言葉ひとつで、全部が綺麗に片づけられる。

「わたしは、ただ……」

「戻りなさい」

今度は、言い切らせてもらえなかった。

マテルナ修女はそれ以上何も言わず、セシアの横を通り過ぎて礼拝堂の前へ向かった。白布のかかった担架を見ても、その表情はほとんど動かない。

白祈院は、そういう場所だった。

その白さの下で、確かにこぼれ落ちていくものがある。

誰にも拾われず。
誰にも見送られず。
なかったことにされていくものが。

セシアは自室へ戻った。

四人部屋のうち、起きているのは自分だけだった。三つの寝台から小さな寝息が聞こえる。

誰もまだ知らない。

明日の朝になれば、候補生エルナが儀式中の急変により神のもとへ召されたと伝えられ、皆きっと静かに頭を垂れるのだろう。

悲しむ者もいるかもしれない。
けれど、それで終わる。

終わってしまう。

セシアは寝台脇に置かれた祈祷書を手に取った。
紙は薄く、何度もめくられて角が丸くなっている。夕刻の祈りの前、列が少し乱れた時に一度取り落としてしまって、その時に頁の端が折れてしまっていたはずだった。

けれど、開いた頁の端には、見覚えのない細い文字があった。

――聞いてもらえますように

息が止まる。

祈祷書は皆、同じものを使っている。
でも夕刻、礼拝堂の前で列が崩れた時、自分のものとエルナのものが一瞬だけ重なったのを思い出す。間違えて持ち帰ったのか、頁だけが紛れたのかは分からない。

けれど、その筆跡はエルナのものだった。
几帳面で、少しだけ弱々しい字。

セシアはその文字を、しばらく見つめた。

聞いてもらえますように。

たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がひどく苦しくなる。
エルナは誰に聞いてほしかったのだろう。
神に。
神官に。
修女に。
それとも、ただ、誰かひとりにでも。

この院では、声に出してはいけないことが多すぎる。

怖い
苦しい
向いていない
ここから出たい

そういう言葉は、祈りの形をしていなければ許されない。
祈りに変えられなかったものは、乱れと呼ばれて、静かに押し込められていく。

だから、最後に残るのはいつも聞いてほしかった声なのかもしれないと、セシアは思った。

ページの端を指でなぞった瞬間、声がまた落ちてくる。

『……消さないで』

「っ……」

セシアは祈祷書を胸に抱きしめた。

聞き間違いじゃない。
錯覚でもない。

エルナはまだ終わっていない。
終わらせてもらえていない。

目の奥が熱くなる。

どうして自分にだけ聞こえるのか、ずっと分からなかった。
分からないまま、気味悪がられ、祈りが足りないと言われ、視線を逸らされてきた。

でも今だけは、初めて思った。

聞こえてしまったのなら、知らないふりはできない。

このまま朝の鐘が鳴って、何もかもがなかった事にされてしまったら、エルナの最後の言葉は本当にどこにも残らなくなる。

怖かった。

静室に入れられることも。
この院の外へ出ることも。
もし本当に何かを知ってしまった時、自分がどうなるのかも。

でもそれ以上に、何もせずに朝を迎えることの方が、今はずっと怖かった。

セシアは立ち上がった。

震える手で、祈祷書と上着を掴む。
窓の外はまだ暗い。夜明けまでは少しある。静室へ移されるのは、おそらく朝の祈りの後だ。それまでなら、まだ動ける。

どこへ行けばいいのか、当てがあるわけではない。
何をすればいいのかも、まだ分からない。

それでも、ここにいてはいけないことだけは分かった。

エルナの声には、まだ続きがある。
拾われなかったまま消えようとしている、その続きを。

そしてきっと、それはエルナひとりのものではない。

この白い院のどこかには、まだ誰にも聞かれていない声が沈んでいる。

『……まだ』

胸の奥で、かすかな声が揺れる。

「うん」

誰にも聞こえないほど小さく、セシアは答えた。

「ちゃんと、聞くから」

それが何を意味するのか、この時のセシアにはまだ分からなかった。

ただ、その約束だけが、白祈院の冷たい夜の中で、ひどく確かなものに思えた。

窓の外では、風が細く鳴っている。
夜明け前の空は青にも黒にもなりきれず、白い神殿の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。

まるで最初から何も起きていないみたいに、
白祈院は静かだった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第2話 最後の祈り


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



誰も泣いていなかった。
白祈院《はっきいん》では、人が死んでも音がしない。
夜の回廊を渡る風も、石床を踏む修道靴の音も、壁際に並ぶ燭台の火も、何ひとつ乱れない。
だからこそ、その静けさの底に沈んでいた“それ”だけが、セシアにははっきりと聞こえた。
『……まだ』
息が止まる。
礼拝堂へ続く扉の向こう。
神官たちの低い話し声に混じって、別の声が落ちてくる
『……まだ、祈っていたのに』
セシアの指先が強張った。
夜着の上から羽織った薄手の上着では、春先の冷え込みは防げない。けれど寒さより先に、背中を嫌な汗が伝っていた。
まただ。
聞こえてはいけないものが聞こえる時、空気は少しだけ重くなる。耳で拾うというより、胸の奥へ直接落ちてくるような感覚だった。
言葉になりきれなかった願い。飲み込まれた感情。最後まで口にできなかった祈りの欠片。そういうものだけが、行き場を失ってセシアに触れてくる。
神官たちはそれを“乱れ”と呼んだ。
教導役の修女は“祈りの不足”だと言った。
候補生たちは、少しずつ距離を置くようになった。
セシア自身にも、何なのかは分からない。
ただ、死の近くでだけ聞こえる。
「……エルナ?」
思わず、その名が唇からこぼれた。
夕刻の祈祷の列で、たしかに彼女を見た。
薄い栗色の髪をきちんと耳の後ろへ流し、いつものように背筋を伸ばしていた。目立つ子ではない。祈りも礼法も、いつも悪くはないところにいた。
褒められることも少なければ、叱られることも少ない。けれど当番表の名前を見れば、今日もちゃんとそこにいると分かるような子だった。
白祈院には、そういう子がたくさんいる。
同じように祈り、同じように頭を垂れ、同じように微笑むことを求められながら、その中で少しずつ違いがつけられていく。
声の澄み方。
祈りへの反応。
呼ばれる回数。
視線を向けられる時間。
それは決して言葉にはされないのに、ここで暮らしていれば嫌でも分かった。
朝の祈祷のあと、名を呼ばれて前へ出る子がいる。
その子は次の日も、そのまた次の日も、神官や修女のそばにいる。
逆に、いつの間にか列の端へ追いやられていく子もいる。
呼ばれなくなる子。
目を合わせてもらえなくなる子。
何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込むようになる子。
やがて姿を見なくなる子もいた。
病だと言われることもあれば、別院へ移されたと言われることもあった。
でも、候補生たちは皆知っている。そういう説明が、本当であるとは限らないことを。
それでも誰も深くは聞かない。
聞いてしまえば、自分も同じ側へ押しやられるかもしれないからだ。
エルナは、ずっと脇に置かれる側の子だった。
けれどセシアは、一度だけ彼女と言葉を交わしたことがある。
ほんの数日前、洗い場で祈祷布を絞っていた時だ。
隣で同じように手を動かしていたエルナが、ふいに小さく笑った。
「あなた、よく空を見ていますよね」
唐突で、セシアは少し驚いた。
「……そう、かな」
「見ています。鐘が鳴る前とか、祈りが終わったあととか」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
白祈院の中では、空だけが少しだけ外と繋がっている気がした。
セシアが答えに困っていると、エルナは濡れた布を絞りながら言った。
「わたしも、たまに見ます」
「外に出たいの?」
そう聞くと、エルナは少しだけ目を丸くして、それから困ったように笑った。
「どうでしょう。出たいというより……ここ以外の場所って、本当にあるのかなって」
今思えば、妙な言い方だった。
白祈院で育った候補生にとって、外の世界は遠い。
知らない町。知らない人々。知らない空気。
祈りを捧げることだけを教えられてきた少女たちにとって、外はあるらしいもの、
でしかない。
でも、あの時のエルナは、まるで本当にここではないどこかを探しているみたいな目をしていた。
それが最後だった。
『ちゃんと、していたのに』
声がまた落ちる。
セシアは扉の影から、そっと前を覗いた。
礼拝堂の前室には明かりが多く、白い石壁が冷たく光っている。
神官が二人、修女が一人。床に置かれた担架には白布がかけられていて、その下にある輪郭はあまりにも細かった。
神官の一人が、抑えた声で言う。
「記録は儀式中の急変でまとめます」
「もともと不安定な兆候はありました」
「候補生たちには明朝伝えれば十分でしょう。無用な動揺は避けるべきです」
淡々とした声だった。
誰も慌てていない。
誰も取り乱していない。
そこにあるのが、さっきまで同じ院で祈っていた少女の身体だとは思えないほど、空気は整いすぎていた。
セシアの喉がひどく乾く。
急変。
不安定。
動揺は避けるべき。
白祈院では、何かが切り捨てられる時ほど、言葉が綺麗になる。
祈りが足りなかった
未熟だった
乱れていた
そうやって、原因はいつもこちら側に置かれる。
選ばれなかったことも、届かなかったことも、足りなかったことも、全部、本人の未熟さにされていく。
神は間違えない。
間違えるのは、祈る側だ。
この院では、それが疑う余地のない前提として置かれていた。
『ここじゃ、なかった』
びくりと肩が跳ねた。
今までより、ずっとはっきり聞こえた。
胸の奥に細い針を差し込まれるみたいに、その言葉だけが落ちる。
ここじゃなかった。
何が。
どうして。
意味は分からない。
でもそれは、事故で亡くなった少女の最後としては、あまりにも強い響きを持っていた。
セシアは扉の縁を掴んだ。
その時だった。
「セシア」
真横から落ちた声に、心臓が跳ね上がる。
振り向くと、回廊の暗がりに修女マテルナが立っていた。
年を重ねても背筋の曲がらない人で、夜の灯りの下では、シワよりも口元の厳しさが先に見える。
「ここで何をしているのです」
「……眠れなくて」
「それで礼拝堂の前まで来たのですか」
嘘ではない。
けれど本当でもない。
マテルナ修女の目は、扉の向こうではなく、セシアの顔だけを見ていた。何かを測るような、冷たい目だった。
「部屋へ戻りなさい」
「中にいるのは……エルナ、ですよね」
修女の目が、わずかに細くなる。
「今夜のことは、明朝伝えます」
「でも」
「戻りなさい、セシア」
怒鳴られているわけではない。
けれど、その一言だけで会話は終わっていると分かる声だった。
それでもセシアは、引けなかった。
「事故では、なかったんですか」
自分でも、どうしてそんな言い方になったのか分からない。
ただ、エルナの声がまだ胸の奥に残っていた。
ちゃんとしていたのに。
まだ祈っていたのに。
ここじゃなかった。
それを聞いてしまった後では、何も知らないふりができなかった。
マテルナ修女はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「今夜は冷えますね」
答えにはなっていない。
けれど、その一言だけで、セシアは自分が踏み込んではいけない場所へ足をかけたのだと悟った。
この院には、触れてはいけないものがある。
祈りより先に、沈黙を学ばなければならない時がある。
その境目を、今、越えた。
「あなたは最近、少し落ち着きがありません」
「……申し訳ありません」
「明日から静室で祈りを整えなさい」
血の気が引いた。
静室。
休息のための部屋だと説明されている場所。
けれど候補生たちは皆知っている。あそこへ入れられた子は、しばらく姿を見せなくなる。戻ってきても、前と同じ場所には戻れない。
祈りを整えるという言い方も、ここでは便利に使われる
泣き続ける子を黙らせる時。
問いを重ねる子を遠ざける時。
向いていないと判断された子を、列の外へ出す時。
その言葉ひとつで、全部が綺麗に片づけられる。
「わたしは、ただ……」
「戻りなさい」
今度は、言い切らせてもらえなかった。
マテルナ修女はそれ以上何も言わず、セシアの横を通り過ぎて礼拝堂の前へ向かった。白布のかかった担架を見ても、その表情はほとんど動かない。
白祈院は、そういう場所だった。
その白さの下で、確かにこぼれ落ちていくものがある。
誰にも拾われず。
誰にも見送られず。
なかったことにされていくものが。
セシアは自室へ戻った。
四人部屋のうち、起きているのは自分だけだった。三つの寝台から小さな寝息が聞こえる。
誰もまだ知らない。
明日の朝になれば、候補生エルナが儀式中の急変により神のもとへ召されたと伝えられ、皆きっと静かに頭を垂れるのだろう。
悲しむ者もいるかもしれない。
けれど、それで終わる。
終わってしまう。
セシアは寝台脇に置かれた祈祷書を手に取った。
紙は薄く、何度もめくられて角が丸くなっている。夕刻の祈りの前、列が少し乱れた時に一度取り落としてしまって、その時に頁の端が折れてしまっていたはずだった。
けれど、開いた頁の端には、見覚えのない細い文字があった。
――聞いてもらえますように
息が止まる。
祈祷書は皆、同じものを使っている。
でも夕刻、礼拝堂の前で列が崩れた時、自分のものとエルナのものが一瞬だけ重なったのを思い出す。間違えて持ち帰ったのか、頁だけが紛れたのかは分からない。
けれど、その筆跡はエルナのものだった。
几帳面で、少しだけ弱々しい字。
セシアはその文字を、しばらく見つめた。
聞いてもらえますように。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がひどく苦しくなる。
エルナは誰に聞いてほしかったのだろう。
神に。
神官に。
修女に。
それとも、ただ、誰かひとりにでも。
この院では、声に出してはいけないことが多すぎる。
怖い
苦しい
向いていない
ここから出たい
そういう言葉は、祈りの形をしていなければ許されない。
祈りに変えられなかったものは、乱れと呼ばれて、静かに押し込められていく。
だから、最後に残るのはいつも聞いてほしかった声なのかもしれないと、セシアは思った。
ページの端を指でなぞった瞬間、声がまた落ちてくる。
『……消さないで』
「っ……」
セシアは祈祷書を胸に抱きしめた。
聞き間違いじゃない。
錯覚でもない。
エルナはまだ終わっていない。
終わらせてもらえていない。
目の奥が熱くなる。
どうして自分にだけ聞こえるのか、ずっと分からなかった。
分からないまま、気味悪がられ、祈りが足りないと言われ、視線を逸らされてきた。
でも今だけは、初めて思った。
聞こえてしまったのなら、知らないふりはできない。
このまま朝の鐘が鳴って、何もかもがなかった事にされてしまったら、エルナの最後の言葉は本当にどこにも残らなくなる。
怖かった。
静室に入れられることも。
この院の外へ出ることも。
もし本当に何かを知ってしまった時、自分がどうなるのかも。
でもそれ以上に、何もせずに朝を迎えることの方が、今はずっと怖かった。
セシアは立ち上がった。
震える手で、祈祷書と上着を掴む。
窓の外はまだ暗い。夜明けまでは少しある。静室へ移されるのは、おそらく朝の祈りの後だ。それまでなら、まだ動ける。
どこへ行けばいいのか、当てがあるわけではない。
何をすればいいのかも、まだ分からない。
それでも、ここにいてはいけないことだけは分かった。
エルナの声には、まだ続きがある。
拾われなかったまま消えようとしている、その続きを。
そしてきっと、それはエルナひとりのものではない。
この白い院のどこかには、まだ誰にも聞かれていない声が沈んでいる。
『……まだ』
胸の奥で、かすかな声が揺れる。
「うん」
誰にも聞こえないほど小さく、セシアは答えた。
「ちゃんと、聞くから」
それが何を意味するのか、この時のセシアにはまだ分からなかった。
ただ、その約束だけが、白祈院の冷たい夜の中で、ひどく確かなものに思えた。
窓の外では、風が細く鳴っている。
夜明け前の空は青にも黒にもなりきれず、白い神殿の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせていた。
まるで最初から何も起きていないみたいに、
白祈院は静かだった。