表示設定
表示設定
目次 目次




【2】②

ー/ー



河野は同性から見て「いい男」だとはまったく感じなかったが、姉が選んだ愛する人に、たかが弟がケチをつけることなどできない。
 もしかしたら自分だけのものだった姉を取られることへの、子どもじみた嫉妬なのかもしれない、と冷静に分析もした。
 だからこそ一年後に「彼と結婚する」と笑顔で告げられた時には、彼女もようやく幸せになれると手放しで喜んだものだ。
 河野は雇用も収入も安定しないため、姉は結婚後も仕事を続けていた。両親亡きあと金のために苦労を重ねた経験もあり、もともと職を辞するつもりはなかったらしい。
「もし蓮太郎(れんたろう)さんに何かあっても、わたしが働いてたらリスクも最小限で済むでしょ。今元気だって明日にはどうなるかわからないんだから。結婚したら運命共同体だもの。ただ守られるだけでは居たくないの」
 自分()を守り育てるために「青春」を犠牲にして、それでもなお今度は夫を、……新しい家族を守りたい、と笑った姉。
「わたしと結婚したら、蓮太郎さんは仁にとっても『お兄さん』になるんだし、──子どもが生まれたらあなたにも血の繋がった『家族』が増えるのよ」
 すごくない? 世界にわたしとあなたのたった二人しかしかいなかったのに。減るばかりだったのが増えるんだから!
 上気した頬で、滑らかに語る彼女の全身から幸せが溢れていた。
 輝くばかりだった在りし日の姉が脳裏に蘇る。

 この世で唯一の血縁者。
 誰よりも尊敬していた、大切で愛していた存在を踏みにじった二人を許す気はなかった。
 もう単なる物体に成り果てた河野を、パーテ-ションをずらしてこちら側のスペースへ引き摺り出す。
 綾のコーヒーに入れたのと同じ毒物を与えられた遺体。……両親が「心中」に用いた、自社で扱っていた劇薬の残りを掠めて隠していたものだ。
 あり得ないほどに運がよければ、ノイローゼ状態の女が元不倫相手を殺して後を追ったと判断されるだろう。
 しかし、己の罪が露見すること自体は一向に構わなかった。憎しみの対象を纏めて葬り去ったのだから。
 小細工を弄して逃れようとは露ほども考えていない。
 犯罪者として捕らわれても、悲しませる人間などもういない。最後の家族だった姉がいなくなったあの日から。
 姉にだけは知られたくないと、今この瞬間にも思っている。清廉だった彼女には、弟が人を殺めたなどというおぞましい事実は。
 しかし言い換えれば、姉にさえ知られなければ何も怖いものはなかった。

 大学卒業間際に、なんの前触れもなく飛び込んできた訃報。
 悩み苦しんでいたことさえ知らなかった。若いだけの中身のない女と過ちを犯した夫など、切り捨てて戻って来て欲しかった。
 本当に辛い時こそ、弟に思いの丈をぶつけてくれればよかったのに。自分を責めて、あのままなら“J”はあとを追っていたかもしれない。
 十八歳でいきなり弟を守る立場を強要された姉が、ようやく見つけた頼れる相手との家庭。
 その足元が揺らいだことで、糸が切れてしまったのだろうか。
 通夜と告別式の準備で訪れた姉の自宅で彼女が自分に遺したメモ、……“J”にとっては「遺書」を見つけ、河野が興味も示さなかった彼女のスマートフォンから二人の所業を知った。
 どうにか生きる気力を取り戻したのは、告別式で綾を目にして姉を死に追いやった二人を断罪すると決めたときだった。
 卒業はしたものの、直前の不義理は承知で決まっていた就職は辞退した。
 アルバイトで日銭を稼ぎ、同時に河野と綾の身辺を探る。『計画』を練るために、材料は少しでも多いほうがいい。

 そうして時は満ちた。
 大学近くの雑居ビルの一室を借り、学生の間に『占いの館』の噂を流す。
 そして日中は綾を監視する。
 大学でも、学外でも、本人が認識できる程度に周囲を付かず離れず彷徨(うろつ)いて。
 占い師“J”、──仁がしたことはただそれだけだ。
 まだ大学を卒業して二年目の“J”は、野暮ったい黒縁の伊達眼鏡に没個性的な白シャツとデニムを身にまとえば数多の学生の中に埋没できる。
 マスクで顔立ちは半ば隠れてしまう上、身長や体格も一目で印象に残るほどの特徴もない。
 それが幸いでもあった。
 実際にこの女を監視するために、大学構内どころか講義室にまで知らぬ顔で入り込んではいたが、ただの一度も警備員なり保安員に止められたこともない。
 頭も尻も軽い綾が、怪しい占いに飛びつくことは想定内だった。
 後ろめたいことしかない身で警察になど行けるわけもない。叱られるのがわかっていて親に泣きつく度胸もない。
 調べた限りでは、親は綾を溺愛はしていても最低限の常識は持ち合わせているようだった。娘とは違って。「不倫」を黙って看過するとは思えない。
 だからこそ、愚かな綾は結局その場しのぎに縋るものを求めるだろうと見当をつけたのだ。
 そして、その読みは外れていなかった。

 唯一の望みが叶ったのだから、あとはどうなろうと逃げも隠れもしない。
 自暴自棄ではなく、冷静にそう思う。もう、生にしがみつく意味はなくなったのだ。
 この二人が姉と『会う』ことだけはないように。それが今の“J”の最大の懸案事項だと言っても過言ではない。
 現世を離れてまで、大切な人を苦しめたくはなかった。「あの世」などあり得ないとしても、僅かな可能性さえ排除したいほどに、ただそれだけが気掛かりだった。
 そう、会うとすれば仁とだ。罪を犯したもの同士、辿り着く先はきっと同じ。
 河野と綾と次に顔を合わせたら、仁は言うだろう。「また会ったな。今度はどうしようか?」と。
 ……何度地獄に落ちてもいい。

 “J”、──Judge(裁く者)。裁きは、終わった。
                           ~END~


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



河野は同性から見て「いい男」だとはまったく感じなかったが、姉が選んだ愛する人に、たかが弟がケチをつけることなどできない。
 もしかしたら自分だけのものだった姉を取られることへの、子どもじみた嫉妬なのかもしれない、と冷静に分析もした。
 だからこそ一年後に「彼と結婚する」と笑顔で告げられた時には、彼女もようやく幸せになれると手放しで喜んだものだ。
 河野は雇用も収入も安定しないため、姉は結婚後も仕事を続けていた。両親亡きあと金のために苦労を重ねた経験もあり、もともと職を辞するつもりはなかったらしい。
「もし|蓮太郎《れんたろう》さんに何かあっても、わたしが働いてたらリスクも最小限で済むでしょ。今元気だって明日にはどうなるかわからないんだから。結婚したら運命共同体だもの。ただ守られるだけでは居たくないの」
 |自分《弟》を守り育てるために「青春」を犠牲にして、それでもなお今度は夫を、……新しい家族を守りたい、と笑った姉。
「わたしと結婚したら、蓮太郎さんは仁にとっても『お兄さん』になるんだし、──子どもが生まれたらあなたにも血の繋がった『家族』が増えるのよ」
 すごくない? 世界にわたしとあなたのたった二人しかしかいなかったのに。減るばかりだったのが増えるんだから!
 上気した頬で、滑らかに語る彼女の全身から幸せが溢れていた。
 輝くばかりだった在りし日の姉が脳裏に蘇る。
 この世で唯一の血縁者。
 誰よりも尊敬していた、大切で愛していた存在を踏みにじった二人を許す気はなかった。
 もう単なる物体に成り果てた河野を、パーテ-ションをずらしてこちら側のスペースへ引き摺り出す。
 綾のコーヒーに入れたのと同じ毒物を与えられた遺体。……両親が「心中」に用いた、自社で扱っていた劇薬の残りを掠めて隠していたものだ。
 あり得ないほどに運がよければ、ノイローゼ状態の女が元不倫相手を殺して後を追ったと判断されるだろう。
 しかし、己の罪が露見すること自体は一向に構わなかった。憎しみの対象を纏めて葬り去ったのだから。
 小細工を弄して逃れようとは露ほども考えていない。
 犯罪者として捕らわれても、悲しませる人間などもういない。最後の家族だった姉がいなくなったあの日から。
 姉にだけは知られたくないと、今この瞬間にも思っている。清廉だった彼女には、弟が人を殺めたなどというおぞましい事実は。
 しかし言い換えれば、姉にさえ知られなければ何も怖いものはなかった。
 大学卒業間際に、なんの前触れもなく飛び込んできた訃報。
 悩み苦しんでいたことさえ知らなかった。若いだけの中身のない女と過ちを犯した夫など、切り捨てて戻って来て欲しかった。
 本当に辛い時こそ、弟に思いの丈をぶつけてくれればよかったのに。自分を責めて、あのままなら“J”はあとを追っていたかもしれない。
 十八歳でいきなり弟を守る立場を強要された姉が、ようやく見つけた頼れる相手との家庭。
 その足元が揺らいだことで、糸が切れてしまったのだろうか。
 通夜と告別式の準備で訪れた姉の自宅で彼女が自分に遺したメモ、……“J”にとっては「遺書」を見つけ、河野が興味も示さなかった彼女のスマートフォンから二人の所業を知った。
 どうにか生きる気力を取り戻したのは、告別式で綾を目にして姉を死に追いやった二人を断罪すると決めたときだった。
 卒業はしたものの、直前の不義理は承知で決まっていた就職は辞退した。
 アルバイトで日銭を稼ぎ、同時に河野と綾の身辺を探る。『計画』を練るために、材料は少しでも多いほうがいい。
 そうして時は満ちた。
 大学近くの雑居ビルの一室を借り、学生の間に『占いの館』の噂を流す。
 そして日中は綾を監視する。
 大学でも、学外でも、本人が認識できる程度に周囲を付かず離れず|彷徨《うろつ》いて。
 占い師“J”、──仁がしたことはただそれだけだ。
 まだ大学を卒業して二年目の“J”は、野暮ったい黒縁の伊達眼鏡に没個性的な白シャツとデニムを身にまとえば数多の学生の中に埋没できる。
 マスクで顔立ちは半ば隠れてしまう上、身長や体格も一目で印象に残るほどの特徴もない。
 それが幸いでもあった。
 実際にこの女を監視するために、大学構内どころか講義室にまで知らぬ顔で入り込んではいたが、ただの一度も警備員なり保安員に止められたこともない。
 頭も尻も軽い綾が、怪しい占いに飛びつくことは想定内だった。
 後ろめたいことしかない身で警察になど行けるわけもない。叱られるのがわかっていて親に泣きつく度胸もない。
 調べた限りでは、親は綾を溺愛はしていても最低限の常識は持ち合わせているようだった。娘とは違って。「不倫」を黙って看過するとは思えない。
 だからこそ、愚かな綾は結局その場しのぎに縋るものを求めるだろうと見当をつけたのだ。
 そして、その読みは外れていなかった。
 唯一の望みが叶ったのだから、あとはどうなろうと逃げも隠れもしない。
 自暴自棄ではなく、冷静にそう思う。もう、生にしがみつく意味はなくなったのだ。
 この二人が姉と『会う』ことだけはないように。それが今の“J”の最大の懸案事項だと言っても過言ではない。
 現世を離れてまで、大切な人を苦しめたくはなかった。「あの世」などあり得ないとしても、僅かな可能性さえ排除したいほどに、ただそれだけが気掛かりだった。
 そう、会うとすれば仁とだ。罪を犯したもの同士、辿り着く先はきっと同じ。
 河野と綾と次に顔を合わせたら、仁は言うだろう。「また会ったな。今度はどうしようか?」と。
 ……何度地獄に落ちてもいい。
 “J”、──|Judge《裁く者》。裁きは、終わった。
                           ~END~