【2】①
ー/ー
「え、……?」
反射的に顔を上げた女の指から、中身がまだ残ったカップがすり抜けて黒い液体をテーブルにまき散らしながら床に落ちて割れる。
一瞬の間を置き、その身体が傾いで椅子から滑り落ちた。
頭から被った鬱陶しい黒布を剥ぎ取り床に投げ捨てた“J”の姿は、女の目には映っているのか。
「一年半前、葬式で会ったじゃないか。まさか忘れたのか? 河野先生の『身内』の」
そして椅子の脇に倒れて体も起こせないまま、綾の唇が小刻みにわなわなと震えるさまを“J”は立ったまま冷ややかに見つめた。
とうとう微動だにしなくなった女の身体を、爪先で試すように軽く蹴って確かめる。
「なあ、義兄さん」
女がなんの反応も返さないのを見て取ると、顔だけで振り向きパーテーションの向こうの床に転がっている男に声を掛けた。
亡き姉の夫。元、になるのか?
義兄だったこの男が、講師をしていた大学で教え子だった綾と関係を持ち、妻を、……たった一人の大切な姉を二人して苦しめた。
そのくせ河野が『独身』に戻った途端に別れたらしい。
姉が自ら死を選ぶほどに嫌がらせをしておきながら、手に入れたらもう用はないとばかりに不倫相手を捨て去った綾。
もともと一コマいくらの非常勤だった河野も、任期が切れてやはり非常勤講師として他大学に移った。
そして両者とも、何事もなかったかのように平然と日々を送っている。良心の呵責さえ感じないまま生きている。
あれ以来、記憶から消えたことなどなかった。「先生の奥さん」が亡くなったのだから仕方なく、なのだろう。
同級生と連れ立って、何の憂いも罪悪感も見つけられない能天気な表情で、ノコノコと告別式に表れたこの女。
姉に送り付けられた『二人』の画像で見たのと同じ顔。
あの瞬間に決意したのだ。この二人に鉄槌を下すことを。それからの一年半は準備に費やした。
今日の予約が入った時点で、河野をここに呼び出した。
綾が来る一時間前に。「姉の『遺産』の関係で」とだけ思わせ振りに伝えた“J”に、何ひとつ訊き返すこともなくやって来た現金な男。
姉の『遺産』と呼べるものは一つだけ。
《ごめんね、仁。あなたを置いて行く、弱い私を許さなくていい。──あの頃のまま、あなたと二人きりで支え合って生きていたら、何か違っていたのかな。》
遺書というのも哀しい走り書きのメモ。今も肌身離さず持っている、姉が弟に遺したもの。
スマートフォンの中の、河野と綾が密着した自撮りの『画像』は、単なる記録の一つに過ぎない。
今完遂した計画のための。
両親が亡くなったのは、“J”が中学一年生の時だった。
経営していた小さな会社が行き詰まり、借金を清算するためだったのではないか、と無責任な他人の噂で知らされた。
財産と呼べるものは何一つとして残らなかったが、負債もまた保険金を合わせて相殺することができたという。
幸か不幸か、と幾度も耳にしたが、両親の死以上の不幸があるのだろうか。
五歳上の姉は当時高校三年生で、大学進学を諦めて就職した。自宅さえ奪われた、頼る身内もいない弟と二人の生活を支えるために。
十代の子ども二人に貸し渋る大家に頼み込み、どうにか得た住処は二つ部屋がある、というだけの老朽化著しい2Kアパートだった。
姉が働いて生活費を稼ぎ、“J”は学校に行く傍ら家事を一手に引き受けていた。
無償化の恩恵を受けて、最小の負担で高校に進学してからはアルバイトも始めた。
もちろん家事もすべて担う状況に変わりはなかった。フルタイムで残業もこなす姉には、家ではとにかく休んで欲しかったからだ。
「俺も高校出たら就職する。姉ちゃんにこれ以上迷惑掛けられないよ」
「あなたは大学に行きなさい。高卒が駄目だとは思わないけど、世の中は綺麗ごとだけじゃ済まないの」
配られた進路希望調査を見せながら、それが当然だと思って申し出た弟に、姉は静かに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「いや、だけどさ──」
「ねえ、仁。わたしは大学に行きたかった。だから代わりに夢を叶えて欲しいわ。……お願いよ」
さらに言葉を返そうとした“J”に、姉が薄っすらと微笑んで続けた台詞。
もう何も言えなかった。
成績の良かった姉が、両親の死の前は夜遅くまで受験勉強に励んでいたことも、“J”はよく知っていたからだ。
学費の安い大学に、さらに給付奨学金を得て通った四年間。
それ以上の持ち出しはなかったため、アルバイトの収入はすべて生活費に回すことができた。
奨学生の要件を満たすために成績は維持しなければならなかったが、もともと勉強は好きなのだ。
少なくとも“J”が高校を卒業するまでの五年もの間、姉は同年代の女性が気楽に遊ぶ姿を横目に無心で働いていた。「親がいない高卒女性」ということで、侮られることも少なくなかったようだ。
しかし姉は、決して弟に負の面を気取らせることはなかった。
家では疲れた顔は見せても、常に優しく穏やかな姿勢を崩さなかった彼女。
庇護の対象だった弟が大学に入学したことでようやく一息付けたのだろうか。心に余裕ができたためもあるのか、姉は職場の同僚を介して知り合った男と交際を始めた。
最初は正直不安もあった。
条件で言えばこの上なく悪い彼女と、どういうつもりで付き合っているのか。
その場限りの遊び相手にされているのでは、と口出しはできないものの気を揉んでいた。
それでも姉は“J”の目にも幸せそうだった。初めての恋人。
好きな相手くらいはいたのかもしれないが、姉の最優先は常に被扶養者としての弟だった。
それをずっと申し訳なく思っていた。でももう彼女は自由だ。
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「え、……?」
反射的に顔を上げた女の指から、中身がまだ残ったカップがすり抜けて黒い液体をテーブルにまき散らしながら床に落ちて割れる。
一瞬の間を置き、その身体が|傾《かし》いで椅子から滑り落ちた。
頭から被った鬱陶しい黒布を剥ぎ取り床に投げ捨てた“J”の姿は、女の目には映っているのか。
「一年半前、葬式で会ったじゃないか。まさか忘れたのか? |河野《かわの》《《先生》》の『身内』の」
そして椅子の脇に倒れて体も起こせないまま、綾の唇が小刻みにわなわなと震えるさまを“J”は立ったまま冷ややかに見つめた。
とうとう微動だにしなくなった女の身体を、爪先で試すように軽く蹴って確かめる。
「なあ、|義兄《にい》さん」
女がなんの反応も返さないのを見て取ると、顔だけで振り向きパーテーションの向こうの床に転がっている男に声を掛けた。
亡き姉の夫。元、になるのか?
義兄だったこの男が、講師をしていた大学で教え子だった綾と関係を持ち、妻を、……たった一人の大切な姉を二人して苦しめた。
そのくせ河野が『独身』に戻った途端に別れたらしい。
姉が自ら死を選ぶほどに嫌がらせをしておきながら、手に入れたらもう用はないとばかりに|不倫相手《義兄》を捨て去った綾。
もともと一コマいくらの非常勤だった河野も、任期が切れてやはり非常勤講師として他大学に移った。
そして両者とも、何事もなかったかのように平然と日々を送っている。良心の呵責さえ感じないまま生きている。
あれ以来、記憶から消えたことなどなかった。「先生の奥さん」が亡くなったのだから仕方なく、なのだろう。
同級生と連れ立って、何の憂いも罪悪感も見つけられない能天気な表情で、ノコノコと告別式に表れたこの女。
姉に送り付けられた『二人』の画像で見たのと同じ顔。
あの瞬間に決意したのだ。この二人に鉄槌を下すことを。それからの一年半は準備に費やした。
今日の予約が入った時点で、河野をここに呼び出した。
綾が来る一時間前に。「姉の『遺産』の関係で」とだけ思わせ振りに伝えた“J”に、何ひとつ訊き返すこともなくやって来た現金な男。
姉の『遺産』と呼べるものは一つだけ。
《ごめんね、|仁《じん》。あなたを置いて行く、弱い私を許さなくていい。──あの頃のまま、あなたと二人きりで支え合って生きていたら、何か違っていたのかな。》
遺書というのも哀しい走り書きのメモ。今も肌身離さず持っている、姉が弟に遺したもの。
スマートフォンの中の、河野と綾が密着した自撮りの『画像』は、単なる記録の一つに過ぎない。
今完遂した計画のための。
両親が亡くなったのは、“J”が中学一年生の時だった。
経営していた小さな会社が行き詰まり、借金を清算するためだったのではないか、と無責任な他人の噂で知らされた。
財産と呼べるものは何一つとして残らなかったが、負債もまた保険金を合わせて相殺することができたという。
幸か不幸か、と幾度も耳にしたが、両親の死以上の不幸があるのだろうか。
五歳上の姉は当時高校三年生で、大学進学を諦めて就職した。自宅さえ奪われた、頼る身内もいない弟と二人の生活を支えるために。
十代の子ども二人に貸し渋る大家に頼み込み、どうにか得た住処は二つ部屋がある、というだけの老朽化著しい2Kアパートだった。
姉が働いて生活費を稼ぎ、“J”は学校に行く傍ら家事を一手に引き受けていた。
無償化の恩恵を受けて、最小の負担で高校に進学してからはアルバイトも始めた。
もちろん家事もすべて担う状況に変わりはなかった。フルタイムで残業もこなす姉には、家ではとにかく休んで欲しかったからだ。
「俺も高校出たら就職する。姉ちゃんにこれ以上迷惑掛けられないよ」
「あなたは大学に行きなさい。高卒が駄目だとは思わないけど、世の中は綺麗ごとだけじゃ済まないの」
配られた進路希望調査を見せながら、それが当然だと思って申し出た弟に、姉は静かに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「いや、だけどさ──」
「ねえ、仁。わたしは大学に行きたかった。だから代わりに夢を叶えて欲しいわ。……お願いよ」
さらに言葉を返そうとした“J”に、姉が薄っすらと微笑んで続けた台詞。
もう何も言えなかった。
成績の良かった姉が、両親の死の前は夜遅くまで受験勉強に励んでいたことも、“J”はよく知っていたからだ。
学費の安い大学に、さらに給付奨学金を得て通った四年間。
それ以上の持ち出しはなかったため、アルバイトの収入はすべて生活費に回すことができた。
奨学生の要件を満たすために成績は維持しなければならなかったが、もともと勉強は好きなのだ。
少なくとも“J”が高校を卒業するまでの五年もの間、姉は同年代の女性が気楽に遊ぶ姿を横目に無心で働いていた。「親がいない高卒女性」ということで、侮られることも少なくなかったようだ。
しかし姉は、決して弟に負の面を気取らせることはなかった。
家では疲れた顔は見せても、常に優しく穏やかな姿勢を崩さなかった彼女。
庇護の対象だった弟が大学に入学したことでようやく一息付けたのだろうか。心に余裕ができたためもあるのか、姉は職場の同僚を介して知り合った男と交際を始めた。
最初は正直不安もあった。
条件で言えばこの上なく悪い彼女と、どういうつもりで付き合っているのか。
その場限りの遊び相手にされているのでは、と口出しはできないものの気を揉んでいた。
それでも姉は“J”の目にも幸せそうだった。初めての恋人。
好きな相手くらいはいたのかもしれないが、姉の最優先は常に被扶養者としての弟だった。
それをずっと申し訳なく思っていた。でももう彼女は自由だ。