表示設定
表示設定
目次 目次




ー/ー



 風呂敷を解くと、中身は私のキャンバスだった。切り裂かれてしまった傷が、まるで魔法を施されたかのように、きれいに消えていた。一体どうやって修復したのだろう。

「ねえ見てよ、ゾグワンタ。東川先生がこんなに上手に直してくれたの。すごいよね」

 ゾグワンタは私の机の上に移動していて、黒い本の傍らでしっぽをぴんと扇状に伸ばしていた。無意識に数えたら九本だった。一本増えている。新しく生えてきたのだろうか。

「お別れの時間だ」と、ゾグワンタは唐突に声を震わせた。空耳かと思ったけれど、彼女は世の中の理を達観したみたいな眼差しで私に言ったのだ。「さよなら」と。

 まばたきをしたら、ゾグワンタは本ごと姿を消していた。

 冗談だと思いたくて家中を探したけれど、どこにも彼女は見当たらなかった。

「まだ私の願い事、叶えてもらってないのに……」

 ほんのひと目でもおばあちゃんに会わせてもらえるとか、みんなが私にやさしくしてくれるとか。ううん、そうじゃない。できることなら、ゾグワンタにそばにいてほしかった。もう一度彼女に会いたい。幻だったなんて思いたくない――。

 泣きながら寝てしまったらしい。仕事から帰ってきたお母さんに起こされてキッチンに行くと、遊びに来たおばが夕飯を食べていた。おばは味噌汁をすすると、改まって切り出した。

「今日来たのはね、あの本を返してほしいからなの。望結のところにあるわよね」

「あの本って……?」

 おばはこほんともっともらしく咳払いをして声のトーンを落とした。「猫が出てきたって話していたわよね。実はあの本には、魔法使いが閉じ込められているんですって。堅物一辺倒四十五年の主人が言うんだから本物よ。なんでもお義母さんから聞いていたそうよ。これは特に取り扱い注意な物だから、誰の手にも渡してはいけないって」

「そうだったんですね……。でもごめんなさい。もう本は消えてしまったんです」

「消えてしまったって、まさか……」

 おばは味噌汁をすっかり飲み干して喉をうるおし、口を開いた。「猫のしっぽは何本だった?」

「出会った時は八本でしたが、最後は九本になっていました」

 おばは大きなため息をついて頭を抱えた。

「大変。最後の力が使われてしまったんだわ」

「どういうことなんですか?」

「本の魔女は変身する度にしっぽが増えていくらしいの。だけどそれも九回まで。望結が九本のしっぽを見たということは、ちょうど最後の変身を終えたところだったんだわ」

「午前中に保健の先生が家を訪ねてきたんです。変だなとは思っていました。もしかして先生に変身したのかも……」

 ゾグワンタは東川先生に変身して学校へ出入りし、私のキャンバスを直してくれたのかもしれない。私に勇気を与えるために。

 お母さんはつぶやいた。

「もしそうなら、本の最後の力が望結に使われてよかったわ。きっと、ちょっと早めのクリスマスプレゼントだったのよ。望結はおばあちゃんに可愛がられていたものね」

 目頭が熱くなって、私は席を立った。心のなかでお母さん、ありがとうとつぶやく。お母さんはちゃんと私のことを見ていてくれたのだ。どうして今まで気付けなかったのだろう。私はたぶん、相当な損をしてしまった。でも気づきをもらえたから、これからはもっと丁寧に向き合いたい。こう思えるのは、ゾグワンタのおかげだ。

 おばを見送り、部屋に戻って気が付いた。パジャマの胸ポケットが定位置に戻っていたのだ。かすかに残るゼラニウムの香り。私はしばらくの間、奇跡の余韻に浸っていた。

END


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 風呂敷を解くと、中身は私のキャンバスだった。切り裂かれてしまった傷が、まるで魔法を施されたかのように、きれいに消えていた。一体どうやって修復したのだろう。
「ねえ見てよ、ゾグワンタ。東川先生がこんなに上手に直してくれたの。すごいよね」
 ゾグワンタは私の机の上に移動していて、黒い本の傍らでしっぽをぴんと扇状に伸ばしていた。無意識に数えたら九本だった。一本増えている。新しく生えてきたのだろうか。
「お別れの時間だ」と、ゾグワンタは唐突に声を震わせた。空耳かと思ったけれど、彼女は世の中の理を達観したみたいな眼差しで私に言ったのだ。「さよなら」と。
 まばたきをしたら、ゾグワンタは本ごと姿を消していた。
 冗談だと思いたくて家中を探したけれど、どこにも彼女は見当たらなかった。
「まだ私の願い事、叶えてもらってないのに……」
 ほんのひと目でもおばあちゃんに会わせてもらえるとか、みんなが私にやさしくしてくれるとか。ううん、そうじゃない。できることなら、ゾグワンタにそばにいてほしかった。もう一度彼女に会いたい。幻だったなんて思いたくない――。
 泣きながら寝てしまったらしい。仕事から帰ってきたお母さんに起こされてキッチンに行くと、遊びに来たおばが夕飯を食べていた。おばは味噌汁をすすると、改まって切り出した。
「今日来たのはね、あの本を返してほしいからなの。望結のところにあるわよね」
「あの本って……?」
 おばはこほんともっともらしく咳払いをして声のトーンを落とした。「猫が出てきたって話していたわよね。実はあの本には、魔法使いが閉じ込められているんですって。堅物一辺倒四十五年の主人が言うんだから本物よ。なんでもお義母さんから聞いていたそうよ。これは特に取り扱い注意な物だから、誰の手にも渡してはいけないって」
「そうだったんですね……。でもごめんなさい。もう本は消えてしまったんです」
「消えてしまったって、まさか……」
 おばは味噌汁をすっかり飲み干して喉をうるおし、口を開いた。「猫のしっぽは何本だった?」
「出会った時は八本でしたが、最後は九本になっていました」
 おばは大きなため息をついて頭を抱えた。
「大変。最後の力が使われてしまったんだわ」
「どういうことなんですか?」
「本の魔女は変身する度にしっぽが増えていくらしいの。だけどそれも九回まで。望結が九本のしっぽを見たということは、ちょうど最後の変身を終えたところだったんだわ」
「午前中に保健の先生が家を訪ねてきたんです。変だなとは思っていました。もしかして先生に変身したのかも……」
 ゾグワンタは東川先生に変身して学校へ出入りし、私のキャンバスを直してくれたのかもしれない。私に勇気を与えるために。
 お母さんはつぶやいた。
「もしそうなら、本の最後の力が望結に使われてよかったわ。きっと、ちょっと早めのクリスマスプレゼントだったのよ。望結はおばあちゃんに可愛がられていたものね」
 目頭が熱くなって、私は席を立った。心のなかでお母さん、ありがとうとつぶやく。お母さんはちゃんと私のことを見ていてくれたのだ。どうして今まで気付けなかったのだろう。私はたぶん、相当な損をしてしまった。でも気づきをもらえたから、これからはもっと丁寧に向き合いたい。こう思えるのは、ゾグワンタのおかげだ。
 おばを見送り、部屋に戻って気が付いた。パジャマの胸ポケットが定位置に戻っていたのだ。かすかに残るゼラニウムの香り。私はしばらくの間、奇跡の余韻に浸っていた。
END