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第10話

ー/ー



 体育館の壁の中で、情動記録システムが静かに動いているはずだった。今日のこの光景も、この風も、この花の色も、何かのかたちで蓄積されていくのだろうか。

人の感情が対象だとすれば、今、志保が感じているこれも、記録されているのかもしれない。


 胸の奥にある、澄んだ痛みのようなもの。


 失いたくない、という気持ちと、でも次に進まなければという気持ちが、静かに重なり合っているような。


 それもデータになって、壁の中に残るとしたら。


 解体されるまで、あるいは解体されても、どこかのサーバーの中に。この学校を知らない誰かが、いつか取り出すかもしれない記憶として。


 わからなかった。でも、どちらでもよかった。


 志保には、目に見えている。


 満開の桜と、そこにかつてあった校舎と、一人で登校し続けた少年の背中と、誰も来なかった運動会の、青い空と。

広すぎる校庭に一つだけ跳ねるボールと、図書室の窓際で本を読む横顔と、給食の時間の四人の食卓と。


それで十分だった。


 風が吹いて、花びらが数枚、静かに舞い落ちた。


「先生、写真撮りましょう」


 陽向がスマートフォンを取り出した。


「桜と」


「うん、桜と」


 陽向が桜の木の前に立って、カメラを構えた。志保は隣に並んだ。シャッター音がした。


「もう一枚、先生が撮ってください。ぼく一人で」


志保はスマートフォンを受け取って、陽向を撮った。ジャージ姿の、少し照れた表情の、桜の前の少年。


「この写真、先生に送りたいな」


「アドレス教えてあげるね」


 志保がアドレスを言って、陽向は自分のスマートフォンに打ち込んだ。


 その日の夜、写真が届いた。


 志保が撮った一枚と、陽向が撮った一枚。それと、短いメッセージが添えられていた


「先生、中学も頑張ります。先生も次の学校頑張ってください。また桜を見ましょう」


 志保は返信を打った。


「ありがとう。また桜を見よう」


 それだけ書いて、送信した。


 スマートフォンを置いて、窓の外を見た。夜の空に、星がいくつか見えた。


 新しい学校からの辞令は、三日前に届いていた。次の場所でも、きっと子どもたちが待っている。


 岬小学校は、今日もどこかにある。


 建物の中ではなく、壁の中の細い光ファイバーの中ではなく、それを知っている人たちの中に。あの食卓を覚えている人たちの、あの校庭を走った人たちの、あの体育館で泣いた人たちの、それぞれの胸の奥に、確かにまだ、ある。



 志保はもう一度、スマートフォンを手に取った。



 桜の前に立つ、中学のジャージ姿の少年の写真を、もう少しだけ見ていたかった。






ー了ー







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 体育館の壁の中で、情動記録システムが静かに動いているはずだった。今日のこの光景も、この風も、この花の色も、何かのかたちで蓄積されていくのだろうか。
人の感情が対象だとすれば、今、志保が感じているこれも、記録されているのかもしれない。
 胸の奥にある、澄んだ痛みのようなもの。
 失いたくない、という気持ちと、でも次に進まなければという気持ちが、静かに重なり合っているような。
 それもデータになって、壁の中に残るとしたら。
 解体されるまで、あるいは解体されても、どこかのサーバーの中に。この学校を知らない誰かが、いつか取り出すかもしれない記憶として。
 わからなかった。でも、どちらでもよかった。
 志保には、目に見えている。
 満開の桜と、そこにかつてあった校舎と、一人で登校し続けた少年の背中と、誰も来なかった運動会の、青い空と。
広すぎる校庭に一つだけ跳ねるボールと、図書室の窓際で本を読む横顔と、給食の時間の四人の食卓と。
それで十分だった。
 風が吹いて、花びらが数枚、静かに舞い落ちた。
「先生、写真撮りましょう」
 陽向がスマートフォンを取り出した。
「桜と」
「うん、桜と」
 陽向が桜の木の前に立って、カメラを構えた。志保は隣に並んだ。シャッター音がした。
「もう一枚、先生が撮ってください。ぼく一人で」
志保はスマートフォンを受け取って、陽向を撮った。ジャージ姿の、少し照れた表情の、桜の前の少年。
「この写真、先生に送りたいな」
「アドレス教えてあげるね」
 志保がアドレスを言って、陽向は自分のスマートフォンに打ち込んだ。
 その日の夜、写真が届いた。
 志保が撮った一枚と、陽向が撮った一枚。それと、短いメッセージが添えられていた
「先生、中学も頑張ります。先生も次の学校頑張ってください。また桜を見ましょう」
 志保は返信を打った。
「ありがとう。また桜を見よう」
 それだけ書いて、送信した。
 スマートフォンを置いて、窓の外を見た。夜の空に、星がいくつか見えた。
 新しい学校からの辞令は、三日前に届いていた。次の場所でも、きっと子どもたちが待っている。
 岬小学校は、今日もどこかにある。
 建物の中ではなく、壁の中の細い光ファイバーの中ではなく、それを知っている人たちの中に。あの食卓を覚えている人たちの、あの校庭を走った人たちの、あの体育館で泣いた人たちの、それぞれの胸の奥に、確かにまだ、ある。
 志保はもう一度、スマートフォンを手に取った。
 桜の前に立つ、中学のジャージ姿の少年の写真を、もう少しだけ見ていたかった。
ー了ー