第9話
ー/ー 壁の中にも入ってる、という言葉が、思いがけず深いところに刺さった。
あの子は、情動記録システムのことを、自分が残ることとして捉えていたのだ。
データとして残る、というよりも、もっと素朴に。ぼくがここにいたことは、消えない、という意味で。
あったじゃないですか。
その一言が、志保の胸の中で、静かに灯った。そうだ、と思った。建物はなくなる。看板もなくなる。この花壇も、この廊下も、この体育館も、やがて跡形もなくなる。
でも、ここで過ごした時間は、消えない。それぞれの体の中に、それぞれのかたちで。壁の中に、データとして。あるいは、もっとどこか、言葉にならない場所に。
「そうだね」
志保はようやくそれだけ言った。
「そうだよ、陽向くん」
陽向は少し照れたように視線を落として、それからまた桜の蕾を見上げた。
「来週には咲きますかね」
「咲くと思う」
「誰も見ないけど」
「見るよ」と志保は言った。「わたしが見に来る」
陽向は少し驚いたように志保を見て、それから小さく笑った。小学六年生らしい、少し照れたような、でも嬉しそうな笑顔だった。
「じゃあぼくも来ます」
「一緒に見ようか」
「はい」
二人はしばらく並んで、まだ咲いていない桜を見ていた。風が渡って、蕾が揺れた。遠くに海が光っていた。
その年の四月の初め、志保は一人で岬小学校に戻った。
約束通りに来たが、陽向の姿はなかった。少し遅れているだけかもしれないと思って、校門のそばで待った。海からの風は冷たくて、でも日差しは春のものだった。
桜はちゃんと咲いていた。
誰もいない校庭に向かって、惜しみなく、満開に。南向きの木から始まって、校舎の裏の木まで、すべての桜が一斉に咲いていた。花びらが風に運ばれて、錆びた鉄棒の周りをゆっくりと舞っていた。
しばらくして、自転車の音がした。
陽向だった。ヘルメットをかぶって、自転車に乗ってきた。中学校の指定のジャージを着ていた。
「来ました」
「来たね」
陽向は自転車を校門の脇に止めて、志保のそばに来た。二人で桜を見上げた。
「きれい」と陽向が言った。
「きれいだね」
「来年は咲いても誰も来ませんね」
「来るかもしれないよ。わたしが」
陽向はまた笑った。今度はもっと自然な笑顔だった。中学校のジャージ姿のせいか、この前より少し大人びて見えた。
二人でしばらく、桜の下に立っていた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。