第1話 三日前の朝①
ー/ー 夜明け前の空は、灰色でも黒でもなく、その中間のどこかにある、名前のない色をしている。
俺はその色を見るのが、昔から好きだった。
宿の窓から差し込む、まだ輪郭の曖昧な光が、広げた地図の上に薄く落ちている。ランタンを引き寄せて、その明かりで羊皮紙の細部を確かめながら、俺は羽根ペンの柄でこめかみを叩いた。南の街道から砦へ向かう道に、新しく設けられた役割区域の境界線を書き加えながら、ひとつの疑問が頭をよぎる。
この境界、少し東にずれていないか。
先週の依頼で通った道の感覚と、地図上の位置が微妙に合わない。均衡律が役割区域を更新するたびに地図が変わるのは仕方ないが、現場の感覚と紙の情報にズレが生じると、いざという時の逃走経路を見誤る。後で自分の足で確かめるか。そう思いながら、修正の印をつける。
この時間が、俺は好きだった。
誰も起きていない。物音がない。世界がまだ完全に始まっていない、その隙間みたいな時間。リアスが眠っていて、俺だけが起きていて、次の動きを考えている。この宿の木の床が軋む音すら、今は聞こえない。あるのは、ランタンの炎が微かに揺れる気配と、ペン先が羊皮紙を走る音だけだ。
リアス・オルブライトは、眠るときに音を立てない。そのことを、俺は最初に驚いた。あれほど賑やかな人間が、眠ると死んだように静かになる。最初の遠征の夜、呼吸が聞こえなくて本気で心配して起こしたことがある。リアスは目をこすりながら「何事だ」と呆れた顔をして、俺は何も言えなかった。
それからは慣れた。静かなのがリアスの眠り方だと知った。
俺の視線が、地図の端——右下の隅に流れた。
手が、自然に動く。地図の下に滑り込ませた、小さな革袋に指が触れる。中身は確かめない。触れるだけでいい。あの晩以来、俺はそれを地図の下に入れている。取り出して眺めることはほとんどない。ただ、そこにあることだけを確かめる。
ここにある。変わっていない。
それだけで、俺はまた地図に戻れる。
「……んー」
部屋の奥で、くぐもった声がした。
俺は革袋から手を離し、ペンを持ち直した。ベッドのきしむ音。寝返りを打つ気配。しばらく間があって、また、静かになる。まだ寝ている。
リアスは目覚める直前に、必ず一度だけ声を出す。長い付き合いだから知っている。あの「んー」が聞こえてから本当に起きるまで、だいたい三分ある。俺が先に起きているときは、いつもその三分を使う。地図の修正でも、昨日の依頼の記録でも。三分は短いようで、やり方次第で意外と使える。
ちょうど境界線の修正を終えたところで、ベッドのきしむ音が本格的になった。
「……なんでもう起きてんだよ」
寝癖でぐしゃぐしゃになった黄金の髪を手でかき上げながら、リアスがこちらを見た。目がまだ半分しか開いていない。眠そうなのに表情だけは妙に不満げで、その顔がいつもと変わらなくて、俺は少し笑った。
「お前が寝てる間しか静かじゃないから」
「……それ、俺がうるさいって言いたいのか」
「言いたいことは言った」
リアスは不満そうに鼻を鳴らしながらも、ベッドの端に腰を下ろして、足元に脱ぎ捨てていた靴下を引き寄せた。起き抜けの動作は鈍いが、起き上がること自体は早い。どこかに出かけることへの焦りというより、じっとしていることへの居心地の悪さがある。休むことに罪悪感を覚えているような、落ち着かない起き方をする。それもずっと知っている。
「今日の依頼、何時集合だっけ」
「昼前。余裕がある」
「じゃあもうちょっと寝ればよかった」
「それは起きてから言うことじゃない」
リアスは眠そうな目のまま立ち上がり、部屋の隅に置いた水差しに向かった。そのまま手のひらで顔を叩くようにして水を当てる。荒っぽい洗顔。それでも顔を上げると、ぼんやりしていた表情がわずかに引き締まった。目の焦点が合ってくる。
「地図、また修正したのか」
「南の街道の境界がずれてた」
「よく気づくな」
「気づいておかないとお前が迷子になるから」
リアスは振り返って、こちらに向けてひと声笑った。ははっ、という軽い笑い方。馬鹿にしているのではなく、純粋に面白がっている時の笑い方だ。俺はそれを知っている。
「確かに、俺は道が読めない」
「自覚があるならいい」
「でも俺には道を読めるお前がいる」
何気なく言ったその一言を、リアスは特に気にした様子もなく、脱いでいた上着に腕を通した。俺は地図に目を落としながら、その言葉を一回だけ、静かに反芻した。
俺には道を読めるお前がいる。
それだけの言葉だ。勇者の自慢でも、感謝の宣言でもない。ただの、当然の前提。お前がいるから俺は迷子にならない。それが、リアスにとっての俺の在り方だった。
悪くない。俺はそう思った。それで十分だと、あの頃は本当にそう思っていた。
一階の食堂は、俺たちが下りた時にはすでに何人かの冒険者が席を占めていた。夜明け前に発つ連中は、どこの宿に泊まっても大体同じような顔をしている。まだ覚めていない目と、疲れが残ったままの肩と、それでも手を動かして食事を口に運ぶ、妙に機械的な動作。
厨房から漂うパンの焼ける匂いが、俺の腹に素直に届いた。
「今日は鶏か」
テーブルに着いたリアスが、運ばれてきたスープを覗き込みながら言った。
「昨日の残りに見える」
「それでも鶏はいい。牛より柔らかい」
リアスは昨日、硬いパンを食べて顎が痛いと言っていた。それを覚えているから、スープを先に受け取って、リアスの前に置いた。リアスは特に気にした様子もなく、当然のようにスープを手元に引き寄せる。
こういう細かいことを、リアスは覚えていない。
俺が先に動いてしまうから、覚える必要がないのだと気づいたのは、割と最近のことだった。覚えさせる機会を、俺が全部先回りして消している。それがリアスのためだと俺は思っていたが、もしかするとそれは俺のためだったかもしれない。「俺が必要だ」という確認を、俺が俺に向けてやっていたのかもしれない。
——そんなことを考えていたら、リアスが「どうした」と言った。
「何でもない」
「顔が難しくなってた」
「考え事をしてた」
「何を」
「食事中に話すことじゃない」
リアスは納得したようなしていないような顔で、スープに戻った。しばらくして、リアスが何気なく言った。
「お前ってさ、考えすぎるよな。いつも」
俺は返す言葉を探して、少し間があいた。
「お前が考えなさすぎるから、帳尻が合ってる」
「そういうことにしとく」
リアスはスープを飲み干して、少しだけ間を置いてから言った。
「なあ、今日の依頼のルート、もう決めてあるか」
「南の森の外れまで、北側の街道から入る」
「なんで北側」
「南は木が密で、リアスが剣を振れる角度が狭くなる。戦闘になった時に動きが制限される」
リアスは少し目を細めた。俺の答えを確認しているというより、考えていることを整理しているような目だ。
「それで合ってると思う。俺も南は嫌だった。でも理由がうまく言えなかった」
ため息をつきながら、頭をかく仕草。
「体が知ってる。でも頭が言語化できてないだけだ。お前はそれをやってくれる」
また、さらりと言った。当然の前提として。俺は「そういうことだ」と答えて、食器を片付けた。
俺はその色を見るのが、昔から好きだった。
宿の窓から差し込む、まだ輪郭の曖昧な光が、広げた地図の上に薄く落ちている。ランタンを引き寄せて、その明かりで羊皮紙の細部を確かめながら、俺は羽根ペンの柄でこめかみを叩いた。南の街道から砦へ向かう道に、新しく設けられた役割区域の境界線を書き加えながら、ひとつの疑問が頭をよぎる。
この境界、少し東にずれていないか。
先週の依頼で通った道の感覚と、地図上の位置が微妙に合わない。均衡律が役割区域を更新するたびに地図が変わるのは仕方ないが、現場の感覚と紙の情報にズレが生じると、いざという時の逃走経路を見誤る。後で自分の足で確かめるか。そう思いながら、修正の印をつける。
この時間が、俺は好きだった。
誰も起きていない。物音がない。世界がまだ完全に始まっていない、その隙間みたいな時間。リアスが眠っていて、俺だけが起きていて、次の動きを考えている。この宿の木の床が軋む音すら、今は聞こえない。あるのは、ランタンの炎が微かに揺れる気配と、ペン先が羊皮紙を走る音だけだ。
リアス・オルブライトは、眠るときに音を立てない。そのことを、俺は最初に驚いた。あれほど賑やかな人間が、眠ると死んだように静かになる。最初の遠征の夜、呼吸が聞こえなくて本気で心配して起こしたことがある。リアスは目をこすりながら「何事だ」と呆れた顔をして、俺は何も言えなかった。
それからは慣れた。静かなのがリアスの眠り方だと知った。
俺の視線が、地図の端——右下の隅に流れた。
手が、自然に動く。地図の下に滑り込ませた、小さな革袋に指が触れる。中身は確かめない。触れるだけでいい。あの晩以来、俺はそれを地図の下に入れている。取り出して眺めることはほとんどない。ただ、そこにあることだけを確かめる。
ここにある。変わっていない。
それだけで、俺はまた地図に戻れる。
「……んー」
部屋の奥で、くぐもった声がした。
俺は革袋から手を離し、ペンを持ち直した。ベッドのきしむ音。寝返りを打つ気配。しばらく間があって、また、静かになる。まだ寝ている。
リアスは目覚める直前に、必ず一度だけ声を出す。長い付き合いだから知っている。あの「んー」が聞こえてから本当に起きるまで、だいたい三分ある。俺が先に起きているときは、いつもその三分を使う。地図の修正でも、昨日の依頼の記録でも。三分は短いようで、やり方次第で意外と使える。
ちょうど境界線の修正を終えたところで、ベッドのきしむ音が本格的になった。
「……なんでもう起きてんだよ」
寝癖でぐしゃぐしゃになった黄金の髪を手でかき上げながら、リアスがこちらを見た。目がまだ半分しか開いていない。眠そうなのに表情だけは妙に不満げで、その顔がいつもと変わらなくて、俺は少し笑った。
「お前が寝てる間しか静かじゃないから」
「……それ、俺がうるさいって言いたいのか」
「言いたいことは言った」
リアスは不満そうに鼻を鳴らしながらも、ベッドの端に腰を下ろして、足元に脱ぎ捨てていた靴下を引き寄せた。起き抜けの動作は鈍いが、起き上がること自体は早い。どこかに出かけることへの焦りというより、じっとしていることへの居心地の悪さがある。休むことに罪悪感を覚えているような、落ち着かない起き方をする。それもずっと知っている。
「今日の依頼、何時集合だっけ」
「昼前。余裕がある」
「じゃあもうちょっと寝ればよかった」
「それは起きてから言うことじゃない」
リアスは眠そうな目のまま立ち上がり、部屋の隅に置いた水差しに向かった。そのまま手のひらで顔を叩くようにして水を当てる。荒っぽい洗顔。それでも顔を上げると、ぼんやりしていた表情がわずかに引き締まった。目の焦点が合ってくる。
「地図、また修正したのか」
「南の街道の境界がずれてた」
「よく気づくな」
「気づいておかないとお前が迷子になるから」
リアスは振り返って、こちらに向けてひと声笑った。ははっ、という軽い笑い方。馬鹿にしているのではなく、純粋に面白がっている時の笑い方だ。俺はそれを知っている。
「確かに、俺は道が読めない」
「自覚があるならいい」
「でも俺には道を読めるお前がいる」
何気なく言ったその一言を、リアスは特に気にした様子もなく、脱いでいた上着に腕を通した。俺は地図に目を落としながら、その言葉を一回だけ、静かに反芻した。
俺には道を読めるお前がいる。
それだけの言葉だ。勇者の自慢でも、感謝の宣言でもない。ただの、当然の前提。お前がいるから俺は迷子にならない。それが、リアスにとっての俺の在り方だった。
悪くない。俺はそう思った。それで十分だと、あの頃は本当にそう思っていた。
一階の食堂は、俺たちが下りた時にはすでに何人かの冒険者が席を占めていた。夜明け前に発つ連中は、どこの宿に泊まっても大体同じような顔をしている。まだ覚めていない目と、疲れが残ったままの肩と、それでも手を動かして食事を口に運ぶ、妙に機械的な動作。
厨房から漂うパンの焼ける匂いが、俺の腹に素直に届いた。
「今日は鶏か」
テーブルに着いたリアスが、運ばれてきたスープを覗き込みながら言った。
「昨日の残りに見える」
「それでも鶏はいい。牛より柔らかい」
リアスは昨日、硬いパンを食べて顎が痛いと言っていた。それを覚えているから、スープを先に受け取って、リアスの前に置いた。リアスは特に気にした様子もなく、当然のようにスープを手元に引き寄せる。
こういう細かいことを、リアスは覚えていない。
俺が先に動いてしまうから、覚える必要がないのだと気づいたのは、割と最近のことだった。覚えさせる機会を、俺が全部先回りして消している。それがリアスのためだと俺は思っていたが、もしかするとそれは俺のためだったかもしれない。「俺が必要だ」という確認を、俺が俺に向けてやっていたのかもしれない。
——そんなことを考えていたら、リアスが「どうした」と言った。
「何でもない」
「顔が難しくなってた」
「考え事をしてた」
「何を」
「食事中に話すことじゃない」
リアスは納得したようなしていないような顔で、スープに戻った。しばらくして、リアスが何気なく言った。
「お前ってさ、考えすぎるよな。いつも」
俺は返す言葉を探して、少し間があいた。
「お前が考えなさすぎるから、帳尻が合ってる」
「そういうことにしとく」
リアスはスープを飲み干して、少しだけ間を置いてから言った。
「なあ、今日の依頼のルート、もう決めてあるか」
「南の森の外れまで、北側の街道から入る」
「なんで北側」
「南は木が密で、リアスが剣を振れる角度が狭くなる。戦闘になった時に動きが制限される」
リアスは少し目を細めた。俺の答えを確認しているというより、考えていることを整理しているような目だ。
「それで合ってると思う。俺も南は嫌だった。でも理由がうまく言えなかった」
ため息をつきながら、頭をかく仕草。
「体が知ってる。でも頭が言語化できてないだけだ。お前はそれをやってくれる」
また、さらりと言った。当然の前提として。俺は「そういうことだ」と答えて、食器を片付けた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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