プロローグ 泥の味がした②
ー/ー 俺は、根元にへたり込んだまま動けなかった。耳の奥で、リアスの言葉が反響している。無限に、執拗に繰り返される。
――お前がいてくれてよかった。
その言葉が、俺の記憶の古傷を無理やりこじ開ける。
三年前だ。俺たちがまだ新米冒険者だった頃、ゴブリンの群れに囲まれたことがあった。俺は恐怖で足がすくみ、リアスの背中を守れなかった。リアスは脇腹を斬られ、それでも笑って俺を庇った。誓ったのだ、あの時。必ず、お前を守り抜いてみせると。お前の隣で、お前の盾として胸を張れる男になると。そのために、血反吐を吐くような訓練を重ねてきた。剣術を磨き、戦術を叩き込み、お前の呼吸に合わせて動けるように、俺の全てをお前に捧げてきた。
いつか、「お前がいてくれてよかった」と言ってもらうために。
たったその一言が、俺の人生をかけた目的だった。
「あ……」
口から、呼気が漏れた。
なんだ、それは。その言葉は、俺のものだ。俺が欲しかった言葉だ。泥水を啜り、誰にも見えない場所で積み上げてきた、血と汗の対価じゃないのか。それを、なぜ。なぜ、あんな作り物が受け取っている。なぜ、あんな紛い物が、俺と同じ顔で、俺と同じ声で、恥ずかしげもなく受け取った顔をしているんだ。
「ふざ、けるな……」
喉の奥から、血の味と一緒に言葉が絞り出される。
リアス、お前もだ。なぜ、あんな簡単な言葉で俺を殺す。俺には一度も、そんな言葉言わなかったくせに。俺が必死に剣を振るっていた時は、「強くなったな」としか言わなかったじゃないか。偽物がスマートに立ち回っただけで、お前はそんなにも簡単に、俺が喉から手が出るほど欲しかった肯定をくれてやるのか。
俺の人生は何だったんだ。
俺が積み上げた信頼は、絆は、思い出は。全部、あいつのための踏み台だったとでも言うのか。
認めない。認めてたまるか。
「くそっ……!」
理性が弾け飛んだ。
足元に転がっていた拳大の石を、渾身の力で蹴り上げた。
ガッッ!
静まり返った夜の森に、鈍い音が響き渡った。爪先を襲う激痛。蹴り飛ばされた石が、樫の木の幹に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。コロコロと転がり、枯れ葉の上に止まる。
その音が、妙に生々しく、耳に残った。
痛い。この痛みがあるから、俺はここにいる。この痛みだけは、均衡律にも消せない。偽物には再現できない。
荒い息を吐きながら、樹皮に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
そこで、ふと、思考が冷えた。
沸騰した湯に氷を放り込んだように、感情の嵐の真ん中で、奇妙なほど冷静な俺
が顔を出した。
――待てよ。
今の音。俺が石を蹴った音だ。それは確かに、空気を震わせ、物理的な現象として世界に響いた。
あいつは、俺を見た。認識した。その上で無視をしたんだ。それはつまり、奴の論理において、俺という存在のリスク判定がゼロだったことを意味する。存在しないものが、世界に影響を与えるはずがないと、奴らは定義しているのだ。
「……は、はは」
乾いた笑いが漏れた。
そうか。そういうことか。
完璧すぎるんだよ、お前たちは。完璧な計算、完璧な効率、完璧な物語。だからこそ、計算外のノイズを拾えない。俺という、均衡律から弾き出されたバグの行動を、脅威として認識できない。
絶望じゃない。透明人間になったようなこの孤独は、哀れな結末なんかじゃなかった。
これは、死角だ。
全知全能を気取る均衡律が、唯一見落とした穴。あいつらが俺を見ないなら、好都合だ。見えない場所から、その足元を掬ってやる。認識されない場所から、その喉元に牙を突き立ててやる。
リアスの言葉が、呪いのようにまだ頭の中を回っている。
その言葉が欲しかった。今でも欲しいと思ってしまう自分が、死ぬほど憎かった。殺してやりたいほど憎んでいるのに、俺はまだ、あいつに認められたいと願っている。あいつの隣に戻り、あいつの口から、俺自身に向けてその言葉を言わせたいと渇望している。
この矛盾。この理不尽。均衡律には絶対に理解できない、計算不能な感情の濁流。
短剣の柄を強く握りしめた。錆びついた鉄の感触が、手のひらに食い込む。
このままでは終われない。路傍の石ころとして、闇の中で腐り果てるつもりはない。
俺を無視したことを、後悔させてやる。俺を忘れて笑っているお前たちに、思い出させてやる。本物が誰なのかを。誰が、本当にお前の隣にふさわしいのかを。
闇の中で、俺は嗤った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、口の端だけを吊り上げた。腹の底から、深緋の炎が立ち昇るのを感じた。
待っていろ、リアス。そして、偽物のイオス。
俺は必ず、そこへ行く。光の当たる場所へ這い上がり、お前たちの物語を、この汚れた手で、滅茶苦茶に書き換えてやる。
その時。
俺の握りしめた短剣が、俺の怒りに呼応するかのように、微かに、本当に微かに、チリ……と熱を帯びた。
熱い。
それだけだった。最初は、それだけだった。見た目の変化は何もない。魔力が宿ったわけでも、聖剣のように輝き出したわけでもない。ただ、熱い。俺の血管と直接繋がったかのように、腹の底で渦巻く感情を吸い上げ、熱量に変換している。じわじわと、しかし確実に。手のひら全体が燃えているような感覚が、指先から肩まで伝わってくる。
ありえない現象だった。
この世界における魔法はすべて均衡律によって厳格に定義されたものだ。詠唱も、触媒も、スキルの発動宣言もなく、ただの感情が物理的な熱を生むなどという現象は、均衡律の法則に反している。
「……共振、しているのか」
掌が焼ける感覚。しかし、離せなかった。
均衡律が俺を不要なデータとして弾き出した。ならば、俺の持つこの感情もまた、均衡律が計算できない未知の演算に他ならない。計算できないものは、制御できない。制御できないものは、世界の法則を無視して貫通する、唯一の凶器になり得る。
短剣を強く握り直した。
俺は一度だけ、閉ざされた砦の門を見上げた。篝火の光がその輪郭を縁取り、俺には届かない暖かさで燃えていた。あの光の中に、リアスがいる。あの光の中に、俺の場所があるはずだった。
まだ、終わっていない。
***
同時刻。砦の門の内側。
重厚な鉄扉が閉ざされ、幾重もの施錠音が響き渡る中、リアスとイオスIIは石畳の回廊を歩いていた。
「いやあ、腹減ったな! 今日のシチュー、具沢山だといいけど」
「お前は昔から、腹が減ると機嫌が悪くなるからな。先に食堂に行っておくか? 俺は団長への報告を済ませてから行くよ」
「お、マジか! さすがイオス、話が早いぜ。じゃあ、先に行って席取っとくからな! お前の分も大盛りにしとく!」
リアスが少年のように手を振り、駆け出そうとした、その時だった。
ピタリ、とイオスIIの足が止まった。
その停止は、あまりにも唐突で、不自然だった。走行中の機械が、強制停止信号を受けて凍りついたかのような、完全な静止。
「……ん? どうした?」
数歩先で、リアスが不思議そうに振り返る。
イオスIIは答えない。ゆっくりと、首だけを回した。その視線が向けられたのは、今しがた固く閉ざされたばかりの、巨大な正門だ。分厚い鉄板と石材に遮られ、外の様子など見えるはずもない。
だが、イオスIIの碧眼は、その障害物を透過するように、その向こうにある座標を特定するように、鋭く細められていた。
均衡律の記録が、彼の内側を流れる。無数の行が、奔流のように。
――均衡律定義外の事象、検知。
――外部座標(X-209、Y-044)。未定義の熱源。
――記録種別:異常値。要・継続観測。
イオスIIは、ゆっくりと正門から視線を外した。リアスに向けて、穏やかな微笑みを浮かべる。
「なんでもない。少し、気になる風の音がした」
「風? そっか。……早く来いよ、冷めたら美味くないからな」
「ああ」
リアスの足音が、回廊の奥へと遠ざかっていく。
イオスIIは一人、その場に立ち止まったまま、もう一度だけ正門の方向を見た。
熱源は、消えていない。
――記録種別、更新。
――継続観測から、優先監視対象へ。
表情のない顔が、ほんの微細に——人間が見れば首を傾げたと形容するであろう角度に——傾いた。
それきり、イオスIIも回廊の奥へと消えていった。
あとには、閉ざされた門と、松明の揺れる光だけが残った。
闇の中で、短剣の熱が、まだ、続いていた。
――お前がいてくれてよかった。
その言葉が、俺の記憶の古傷を無理やりこじ開ける。
三年前だ。俺たちがまだ新米冒険者だった頃、ゴブリンの群れに囲まれたことがあった。俺は恐怖で足がすくみ、リアスの背中を守れなかった。リアスは脇腹を斬られ、それでも笑って俺を庇った。誓ったのだ、あの時。必ず、お前を守り抜いてみせると。お前の隣で、お前の盾として胸を張れる男になると。そのために、血反吐を吐くような訓練を重ねてきた。剣術を磨き、戦術を叩き込み、お前の呼吸に合わせて動けるように、俺の全てをお前に捧げてきた。
いつか、「お前がいてくれてよかった」と言ってもらうために。
たったその一言が、俺の人生をかけた目的だった。
「あ……」
口から、呼気が漏れた。
なんだ、それは。その言葉は、俺のものだ。俺が欲しかった言葉だ。泥水を啜り、誰にも見えない場所で積み上げてきた、血と汗の対価じゃないのか。それを、なぜ。なぜ、あんな作り物が受け取っている。なぜ、あんな紛い物が、俺と同じ顔で、俺と同じ声で、恥ずかしげもなく受け取った顔をしているんだ。
「ふざ、けるな……」
喉の奥から、血の味と一緒に言葉が絞り出される。
リアス、お前もだ。なぜ、あんな簡単な言葉で俺を殺す。俺には一度も、そんな言葉言わなかったくせに。俺が必死に剣を振るっていた時は、「強くなったな」としか言わなかったじゃないか。偽物がスマートに立ち回っただけで、お前はそんなにも簡単に、俺が喉から手が出るほど欲しかった肯定をくれてやるのか。
俺の人生は何だったんだ。
俺が積み上げた信頼は、絆は、思い出は。全部、あいつのための踏み台だったとでも言うのか。
認めない。認めてたまるか。
「くそっ……!」
理性が弾け飛んだ。
足元に転がっていた拳大の石を、渾身の力で蹴り上げた。
ガッッ!
静まり返った夜の森に、鈍い音が響き渡った。爪先を襲う激痛。蹴り飛ばされた石が、樫の木の幹に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。コロコロと転がり、枯れ葉の上に止まる。
その音が、妙に生々しく、耳に残った。
痛い。この痛みがあるから、俺はここにいる。この痛みだけは、均衡律にも消せない。偽物には再現できない。
荒い息を吐きながら、樹皮に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
そこで、ふと、思考が冷えた。
沸騰した湯に氷を放り込んだように、感情の嵐の真ん中で、奇妙なほど冷静な俺
が顔を出した。
――待てよ。
今の音。俺が石を蹴った音だ。それは確かに、空気を震わせ、物理的な現象として世界に響いた。
あいつは、俺を見た。認識した。その上で無視をしたんだ。それはつまり、奴の論理において、俺という存在のリスク判定がゼロだったことを意味する。存在しないものが、世界に影響を与えるはずがないと、奴らは定義しているのだ。
「……は、はは」
乾いた笑いが漏れた。
そうか。そういうことか。
完璧すぎるんだよ、お前たちは。完璧な計算、完璧な効率、完璧な物語。だからこそ、計算外のノイズを拾えない。俺という、均衡律から弾き出されたバグの行動を、脅威として認識できない。
絶望じゃない。透明人間になったようなこの孤独は、哀れな結末なんかじゃなかった。
これは、死角だ。
全知全能を気取る均衡律が、唯一見落とした穴。あいつらが俺を見ないなら、好都合だ。見えない場所から、その足元を掬ってやる。認識されない場所から、その喉元に牙を突き立ててやる。
リアスの言葉が、呪いのようにまだ頭の中を回っている。
その言葉が欲しかった。今でも欲しいと思ってしまう自分が、死ぬほど憎かった。殺してやりたいほど憎んでいるのに、俺はまだ、あいつに認められたいと願っている。あいつの隣に戻り、あいつの口から、俺自身に向けてその言葉を言わせたいと渇望している。
この矛盾。この理不尽。均衡律には絶対に理解できない、計算不能な感情の濁流。
短剣の柄を強く握りしめた。錆びついた鉄の感触が、手のひらに食い込む。
このままでは終われない。路傍の石ころとして、闇の中で腐り果てるつもりはない。
俺を無視したことを、後悔させてやる。俺を忘れて笑っているお前たちに、思い出させてやる。本物が誰なのかを。誰が、本当にお前の隣にふさわしいのかを。
闇の中で、俺は嗤った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、口の端だけを吊り上げた。腹の底から、深緋の炎が立ち昇るのを感じた。
待っていろ、リアス。そして、偽物のイオス。
俺は必ず、そこへ行く。光の当たる場所へ這い上がり、お前たちの物語を、この汚れた手で、滅茶苦茶に書き換えてやる。
その時。
俺の握りしめた短剣が、俺の怒りに呼応するかのように、微かに、本当に微かに、チリ……と熱を帯びた。
熱い。
それだけだった。最初は、それだけだった。見た目の変化は何もない。魔力が宿ったわけでも、聖剣のように輝き出したわけでもない。ただ、熱い。俺の血管と直接繋がったかのように、腹の底で渦巻く感情を吸い上げ、熱量に変換している。じわじわと、しかし確実に。手のひら全体が燃えているような感覚が、指先から肩まで伝わってくる。
ありえない現象だった。
この世界における魔法はすべて均衡律によって厳格に定義されたものだ。詠唱も、触媒も、スキルの発動宣言もなく、ただの感情が物理的な熱を生むなどという現象は、均衡律の法則に反している。
「……共振、しているのか」
掌が焼ける感覚。しかし、離せなかった。
均衡律が俺を不要なデータとして弾き出した。ならば、俺の持つこの感情もまた、均衡律が計算できない未知の演算に他ならない。計算できないものは、制御できない。制御できないものは、世界の法則を無視して貫通する、唯一の凶器になり得る。
短剣を強く握り直した。
俺は一度だけ、閉ざされた砦の門を見上げた。篝火の光がその輪郭を縁取り、俺には届かない暖かさで燃えていた。あの光の中に、リアスがいる。あの光の中に、俺の場所があるはずだった。
まだ、終わっていない。
***
同時刻。砦の門の内側。
重厚な鉄扉が閉ざされ、幾重もの施錠音が響き渡る中、リアスとイオスIIは石畳の回廊を歩いていた。
「いやあ、腹減ったな! 今日のシチュー、具沢山だといいけど」
「お前は昔から、腹が減ると機嫌が悪くなるからな。先に食堂に行っておくか? 俺は団長への報告を済ませてから行くよ」
「お、マジか! さすがイオス、話が早いぜ。じゃあ、先に行って席取っとくからな! お前の分も大盛りにしとく!」
リアスが少年のように手を振り、駆け出そうとした、その時だった。
ピタリ、とイオスIIの足が止まった。
その停止は、あまりにも唐突で、不自然だった。走行中の機械が、強制停止信号を受けて凍りついたかのような、完全な静止。
「……ん? どうした?」
数歩先で、リアスが不思議そうに振り返る。
イオスIIは答えない。ゆっくりと、首だけを回した。その視線が向けられたのは、今しがた固く閉ざされたばかりの、巨大な正門だ。分厚い鉄板と石材に遮られ、外の様子など見えるはずもない。
だが、イオスIIの碧眼は、その障害物を透過するように、その向こうにある座標を特定するように、鋭く細められていた。
均衡律の記録が、彼の内側を流れる。無数の行が、奔流のように。
――均衡律定義外の事象、検知。
――外部座標(X-209、Y-044)。未定義の熱源。
――記録種別:異常値。要・継続観測。
イオスIIは、ゆっくりと正門から視線を外した。リアスに向けて、穏やかな微笑みを浮かべる。
「なんでもない。少し、気になる風の音がした」
「風? そっか。……早く来いよ、冷めたら美味くないからな」
「ああ」
リアスの足音が、回廊の奥へと遠ざかっていく。
イオスIIは一人、その場に立ち止まったまま、もう一度だけ正門の方向を見た。
熱源は、消えていない。
――記録種別、更新。
――継続観測から、優先監視対象へ。
表情のない顔が、ほんの微細に——人間が見れば首を傾げたと形容するであろう角度に——傾いた。
それきり、イオスIIも回廊の奥へと消えていった。
あとには、閉ざされた門と、松明の揺れる光だけが残った。
闇の中で、短剣の熱が、まだ、続いていた。
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