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第13話 白い病棟

ー/ー



 旧小児研究棟第七区画は、病院の顔をした廃墟だった。

 だが、完全な廃墟ではない。

 人がいなくなった場所の白さと、まだ誰かが息をしている場所の白さは違う。
 ここには、その両方が混ざっていた。

 裏の保守搬入口は半分だけ開いている。
 そこから漏れる空気は冷たすぎた。
 夜明け前の外気よりも冷たい。冷蔵庫の奥から伸びてきた指みたいな冷気が、零の頬を撫でる。

「入る前から帰りたい」

 零が言う。

「死んだあとに言うには弱い」

 ノアが返す。

 左肩と脚にまだ処置の跡を残したまま、PMXを低く構えている。
 顔色は白い。
 それでも、この狭い病棟に入るなら今の彼女が一番頼りになるのが腹立たしかった。

「お前もちゃんと帰りたがれ」

「帰りたい」

「顔に出せ」

「その機能は未搭載」

 零は鼻で笑った。
 その横で、朱璃が楽しそうに白衣の裾を払う。

「いい病棟って、だいたい入る前から嫌な匂いがするのよね」

「その感想、医者が言っていいやつか」

「違法の方だからセーフ」

「何一つセーフじゃない」

 零はPX4の安全を外し、1301のスリングを軽く引き直した。
 後頭部が鈍く痛む。
 その痛みの奥で、白い壁と青い鳥の絵が、今から入る現実の上へ半拍遅れて重なった。

 夢で見た病棟。
 未来で見た病棟。
 そして今、目の前にある病棟。

 全部が同じなのに、少しずつ位置が違う。

「零」

 ノアが小さく呼ぶ。

「なに」

「今、止まった」

「見えてるものが多い」

「なら、絞って」

「言うのは簡単だな」

「やるのは零」

「知ってるよ」

 零は一歩、中へ踏み込んだ。

 床は白いビニル樹脂。
 ところどころ焦げ、ところどころ刃物で抉られ、何度も洗われたはずの血の跡だけが薄く灰色に残っている。

 壁には子供向けの壁画。
 青い鳥。
 黄色い風船。
 笑っている太陽。
 どれも剥がれ、ひび割れ、その継ぎ目に黒い染みが入っていた。

「趣味悪いな」

「子供を閉じ込める施設って、だいたい妙に可愛くしようとするのよ」

 朱璃が言う。

「余計に悪い」

 受付カウンターには、片目のないぬいぐるみが座っていた。
 腹は裂け、中綿の代わりに古い配線が詰め込まれている。
 その横には、小さな紙コップ。

 零は足を止めた。

 カップの底に、まだ薄く湯気の名残があった。

「……おい」

 ノアもすぐに気づく。

「新しい」

「ああ」

 廃墟なら、こんなものは冷え切っている。
 ここには、ついさっきまで誰かがいた。

 零の視界に青白い線が走る。

 受付の奥。
 左の観察室。
 さらに先の処置区画。

 三本。

 だが四本目が、妙に濁っていた。
 安全なはずの通路が、途中で二重に見える。
 誰かの歩いた未来と、自分が見る未来がずれて重なっているみたいだった。

「……変だな」

「何が」

「線が素直じゃない」

 ノアは壁際の監視端末へ手を伸ばした。
 古いモニタは死んでいたが、下の補助表示だけが微弱に生きている。
 彼女が端末を繋ぐと、ノイズ混じりの病棟図が浮かんだ。

『内部電力、一部生存。監視回線、半死。生体反応……』

 ノアの目が少しだけ細くなる。

「三」

「やっぱりか」

「小さい」

 朱璃が面白そうに口元を上げる。

「いいわねえ」

「お前のその顔、ほんとに不安になる」

「褒め言葉でしょ」

「違う」

 零たちは受付の奥へ進んだ。

 低いベッドが三つ並ぶ部屋。
 拘束具つきの処置椅子。
 小児用の低い洗面台。
 落書きされたままの名札立て。

 どこも白い。
 白いくせに、生活の痕だけが生々しい。

 畳まれた毛布。
 半分だけ開いた絵本。
 机の上に置かれたままの、小さなスプーン。
 それから、包帯で折られた歪な星。

 零はその場で息を止めた。

 夢で見たものと、同じだった。

「……あった」

「何が」

「星」

 朱璃が横から覗く。

「かわいいわね」

「そういう感想で触るな」

「触ってないわよ」

 零は手を伸ばしかけて、やめた。
 未来線が、その星だけで一瞬乱れたからだ。
 拾う未来。
 拾わない未来。
 そのどちらにも、細い手の影が混ざる。

 ここにいた。
 たぶん、ついさっきまで。

「零」

 ノアが部屋の奥を見たまま言う。

「床」

 白い床に、小さな足跡が残っていた。
 裸足。
 三人分。
 薄く湿っている。
 点々と続き、観察室の先の処置廊下へ消えている。

「今もいるな」

「うん」

「逃げた音は」

「聞こえてない」

「それが嫌だ」

 零は包帯の星から視線を外し、足跡を追った。

 廊下は静かだった。
 静かすぎる。
 足音がよく響くせいで、逆に遠くの小さな気配が消される。

 壁際の監視カメラのひとつが、赤いランプだけ生かしてこちらを向いていた。
 ノイズ混じりの電流音。
 スピーカーは死んでいる。
 なのに、誰かに見られている感覚だけがある。

 処置廊下の突き当たりで、零の視界にまた線が走る。

 右。
 空。
 何もない。

 そう見えた。

 だが零が右へ銃口を向けた瞬間、左の薬品棚からガラス瓶が落ちた。

 床で砕ける。
 乾いた破裂音。

 零は舌打ちした。

「今のは見誤った」

 ノアが即座に棚の影を切る。
 PMXの短い連射。
 だが返るのは薬液の匂いだけだ。

「生体反応は?」

「動いてる。けど、そこじゃない」

 零は眉を寄せた。

 未来線が外れた。
 見えなかったわけではない。
 別の誰かの見ている先が、割り込んできたみたいな外れ方だった。

「この病棟、気持ち悪い」

「今さら」

「いつもの気持ち悪さと違う」

 朱璃が、そこで少しだけ真面目な顔になる。

「観測が濁ってる?」

 零は答えなかった。
 答えたくなかった。
 だが沈黙で十分だったらしい。

 ノアが補助端末を切り替える。

「三反応、また移動」

「どっちへ」

「最深部」

 病棟図の奥。
 同期管理室寄りの小さな保護区画。
 生体反応は、まるでこちらの足音に合わせるみたいに、少しずつ離れていく。

「逃げてるな」

「うん」

「走ってる感じじゃない」

「見てる」

 ノアのその一言で、零は背筋が冷えた。

 ただ逃げているんじゃない。
 距離を取りながら、こっちを見ている。

 廊下の角を曲がる。
 その先には低い観察窓が並んでいた。
 小児用の病室だ。
 どの部屋にも小さなベッドがあり、どの部屋にも白い毛布が乱れたまま残っている。

 ひとつだけ、窓の内側に手の跡があった。

 小さい手。

 曇ったガラスへ、五本の指が短く押しつけられている。
 そのすぐ下に、文字が擦られていた。

 ゆ

 そこまでで消えている。

 零は無意識に窓へ手を伸ばした。

 その瞬間、廊下の最奥で何かが動いた。

 影だ。
 小さい。
 三つ。

 すぐに消える。
 だが今度は、現実の目で見た。

「いた」

 零が低く言う。

 ノアも同じ方向へ銃口を向けた。

「見えた」

「追うか」

「追う」

 零が踏み出そうとした、その時だった。

 病棟のどこかで、小さな電子音が鳴る。

 ぴっ。
 ぴっ。
 ぴっ。

 心拍計みたいな、低い規則音。

 ノアの端末に、古い監視画面が一枚だけ割り込んできた。
 白黒の、ざらついた映像。
 病室の中。
 三つの小さな影。

 ひとつが振り向く。
 顔は見えない。
 だが画面越しでも分かる。
 向こうは、最初からこちらに気づいていた。

「零」

 ノアが静かに言う。

「ここに子供がいた、じゃない」

「ああ」

 零は1301のグリップを握り直した。

「今もいる」

 白い病棟のいちばん奥で、もう一度だけ小さな足音がした。



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 旧小児研究棟第七区画は、病院の顔をした廃墟だった。
 だが、完全な廃墟ではない。
 人がいなくなった場所の白さと、まだ誰かが息をしている場所の白さは違う。
 ここには、その両方が混ざっていた。
 裏の保守搬入口は半分だけ開いている。
 そこから漏れる空気は冷たすぎた。
 夜明け前の外気よりも冷たい。冷蔵庫の奥から伸びてきた指みたいな冷気が、零の頬を撫でる。
「入る前から帰りたい」
 零が言う。
「死んだあとに言うには弱い」
 ノアが返す。
 左肩と脚にまだ処置の跡を残したまま、PMXを低く構えている。
 顔色は白い。
 それでも、この狭い病棟に入るなら今の彼女が一番頼りになるのが腹立たしかった。
「お前もちゃんと帰りたがれ」
「帰りたい」
「顔に出せ」
「その機能は未搭載」
 零は鼻で笑った。
 その横で、朱璃が楽しそうに白衣の裾を払う。
「いい病棟って、だいたい入る前から嫌な匂いがするのよね」
「その感想、医者が言っていいやつか」
「違法の方だからセーフ」
「何一つセーフじゃない」
 零はPX4の安全を外し、1301のスリングを軽く引き直した。
 後頭部が鈍く痛む。
 その痛みの奥で、白い壁と青い鳥の絵が、今から入る現実の上へ半拍遅れて重なった。
 夢で見た病棟。
 未来で見た病棟。
 そして今、目の前にある病棟。
 全部が同じなのに、少しずつ位置が違う。
「零」
 ノアが小さく呼ぶ。
「なに」
「今、止まった」
「見えてるものが多い」
「なら、絞って」
「言うのは簡単だな」
「やるのは零」
「知ってるよ」
 零は一歩、中へ踏み込んだ。
 床は白いビニル樹脂。
 ところどころ焦げ、ところどころ刃物で抉られ、何度も洗われたはずの血の跡だけが薄く灰色に残っている。
 壁には子供向けの壁画。
 青い鳥。
 黄色い風船。
 笑っている太陽。
 どれも剥がれ、ひび割れ、その継ぎ目に黒い染みが入っていた。
「趣味悪いな」
「子供を閉じ込める施設って、だいたい妙に可愛くしようとするのよ」
 朱璃が言う。
「余計に悪い」
 受付カウンターには、片目のないぬいぐるみが座っていた。
 腹は裂け、中綿の代わりに古い配線が詰め込まれている。
 その横には、小さな紙コップ。
 零は足を止めた。
 カップの底に、まだ薄く湯気の名残があった。
「……おい」
 ノアもすぐに気づく。
「新しい」
「ああ」
 廃墟なら、こんなものは冷え切っている。
 ここには、ついさっきまで誰かがいた。
 零の視界に青白い線が走る。
 受付の奥。
 左の観察室。
 さらに先の処置区画。
 三本。
 だが四本目が、妙に濁っていた。
 安全なはずの通路が、途中で二重に見える。
 誰かの歩いた未来と、自分が見る未来がずれて重なっているみたいだった。
「……変だな」
「何が」
「線が素直じゃない」
 ノアは壁際の監視端末へ手を伸ばした。
 古いモニタは死んでいたが、下の補助表示だけが微弱に生きている。
 彼女が端末を繋ぐと、ノイズ混じりの病棟図が浮かんだ。
『内部電力、一部生存。監視回線、半死。生体反応……』
 ノアの目が少しだけ細くなる。
「三」
「やっぱりか」
「小さい」
 朱璃が面白そうに口元を上げる。
「いいわねえ」
「お前のその顔、ほんとに不安になる」
「褒め言葉でしょ」
「違う」
 零たちは受付の奥へ進んだ。
 低いベッドが三つ並ぶ部屋。
 拘束具つきの処置椅子。
 小児用の低い洗面台。
 落書きされたままの名札立て。
 どこも白い。
 白いくせに、生活の痕だけが生々しい。
 畳まれた毛布。
 半分だけ開いた絵本。
 机の上に置かれたままの、小さなスプーン。
 それから、包帯で折られた歪な星。
 零はその場で息を止めた。
 夢で見たものと、同じだった。
「……あった」
「何が」
「星」
 朱璃が横から覗く。
「かわいいわね」
「そういう感想で触るな」
「触ってないわよ」
 零は手を伸ばしかけて、やめた。
 未来線が、その星だけで一瞬乱れたからだ。
 拾う未来。
 拾わない未来。
 そのどちらにも、細い手の影が混ざる。
 ここにいた。
 たぶん、ついさっきまで。
「零」
 ノアが部屋の奥を見たまま言う。
「床」
 白い床に、小さな足跡が残っていた。
 裸足。
 三人分。
 薄く湿っている。
 点々と続き、観察室の先の処置廊下へ消えている。
「今もいるな」
「うん」
「逃げた音は」
「聞こえてない」
「それが嫌だ」
 零は包帯の星から視線を外し、足跡を追った。
 廊下は静かだった。
 静かすぎる。
 足音がよく響くせいで、逆に遠くの小さな気配が消される。
 壁際の監視カメラのひとつが、赤いランプだけ生かしてこちらを向いていた。
 ノイズ混じりの電流音。
 スピーカーは死んでいる。
 なのに、誰かに見られている感覚だけがある。
 処置廊下の突き当たりで、零の視界にまた線が走る。
 右。
 空。
 何もない。
 そう見えた。
 だが零が右へ銃口を向けた瞬間、左の薬品棚からガラス瓶が落ちた。
 床で砕ける。
 乾いた破裂音。
 零は舌打ちした。
「今のは見誤った」
 ノアが即座に棚の影を切る。
 PMXの短い連射。
 だが返るのは薬液の匂いだけだ。
「生体反応は?」
「動いてる。けど、そこじゃない」
 零は眉を寄せた。
 未来線が外れた。
 見えなかったわけではない。
 別の誰かの見ている先が、割り込んできたみたいな外れ方だった。
「この病棟、気持ち悪い」
「今さら」
「いつもの気持ち悪さと違う」
 朱璃が、そこで少しだけ真面目な顔になる。
「観測が濁ってる?」
 零は答えなかった。
 答えたくなかった。
 だが沈黙で十分だったらしい。
 ノアが補助端末を切り替える。
「三反応、また移動」
「どっちへ」
「最深部」
 病棟図の奥。
 同期管理室寄りの小さな保護区画。
 生体反応は、まるでこちらの足音に合わせるみたいに、少しずつ離れていく。
「逃げてるな」
「うん」
「走ってる感じじゃない」
「見てる」
 ノアのその一言で、零は背筋が冷えた。
 ただ逃げているんじゃない。
 距離を取りながら、こっちを見ている。
 廊下の角を曲がる。
 その先には低い観察窓が並んでいた。
 小児用の病室だ。
 どの部屋にも小さなベッドがあり、どの部屋にも白い毛布が乱れたまま残っている。
 ひとつだけ、窓の内側に手の跡があった。
 小さい手。
 曇ったガラスへ、五本の指が短く押しつけられている。
 そのすぐ下に、文字が擦られていた。
 ゆ
 そこまでで消えている。
 零は無意識に窓へ手を伸ばした。
 その瞬間、廊下の最奥で何かが動いた。
 影だ。
 小さい。
 三つ。
 すぐに消える。
 だが今度は、現実の目で見た。
「いた」
 零が低く言う。
 ノアも同じ方向へ銃口を向けた。
「見えた」
「追うか」
「追う」
 零が踏み出そうとした、その時だった。
 病棟のどこかで、小さな電子音が鳴る。
 ぴっ。
 ぴっ。
 ぴっ。
 心拍計みたいな、低い規則音。
 ノアの端末に、古い監視画面が一枚だけ割り込んできた。
 白黒の、ざらついた映像。
 病室の中。
 三つの小さな影。
 ひとつが振り向く。
 顔は見えない。
 だが画面越しでも分かる。
 向こうは、最初からこちらに気づいていた。
「零」
 ノアが静かに言う。
「ここに子供がいた、じゃない」
「ああ」
 零は1301のグリップを握り直した。
「今もいる」
 白い病棟のいちばん奥で、もう一度だけ小さな足音がした。