第12話 戻ってくる弾痕
ー/ー 頭を撃たれた人間に、もう一度頭の中を見せろと言うのは、だいぶ性格が悪い。
御厨朱璃は、いつも通り楽しそうだった。
「ほら、動かない」
「動きたくて動いてると思うか」
零は簡易処置椅子に座らされ、後頭部の包帯を半分だけ外されたまま、白い診断灯を浴びていた。
朱璃の手にある携行スキャナが、耳の後ろからこめかみまでをゆっくりなぞる。
青い立体像が空中に起き上がった。
頭蓋。
脳。
そして、その右前頭から後頭へ抜けかけた細い損傷線。
命中痕だ。
確かにある。
見たくもないくらい、ちゃんとある。
「うわ」
零が本音で言う。
「これは気分悪いな」
「でしょ」
朱璃は楽しそうに、像の中へ指を差し入れた。
「でも、ここ。ないのよ」
零が眉を寄せる。
損傷線はある。
出血の残りもある。
組織の崩れ方も、頭を撃たれた人間のそれだ。
なのに、本来そこに残るはずの金属片だけが、どこにもいない。
「弾だけいない」
ノアが、端末から目を離さずに言った。
左肩と脚に止血材を巻いたまま、壁際の作業机に寄りかかっている。
顔色はひどい。
それでも指だけは止まらない。
「頭蓋内残留なし。破片散乱なし。単純貫通にも見えない」
「つまり?」
「変」
「それはさっきから知ってる」
朱璃が肩をすくめた。
「レムの結果先行だけなら、まだ説明はつくの。あの女は結果を先に置くから、着弾の順番はずれる。でも、弾頭そのものが丸ごと消えるのは別」
「別って」
「被弾したあなた側で、もっと嫌なことが起きてる」
ノアが端末の画面を零へ向けた。
波形。
数値。
縦に跳ねた汚染グラフ。
「これ」
「読める言葉で頼む」
「被弾の瞬間、零のQB汚染値が跳ねてる」
「どれくらい」
「ありえないくらい」
零は数秒、無言になった。
「今日その表現よく聞くな」
「今日は実際、ありえないことが多い」
朱璃はスキャナを止め、損傷線の像を少し回転させた。
「仮説はひとつ。零の中のQBウイルスが、被弾した瞬間に緊急再同期を起こした」
「緊急再同期」
「死ぬ現在を、そのままにはしなかったってこと」
ノアが続ける。
「QB汚染は、近傍未来の参照層に噛んでる。普通は更新で現在へ寄せ直すだけ。でも今回は、致死線そのものに触った可能性がある」
「つまり」
「死なない現在へ、無理やり縫い直された」
零は嫌そうに顔をしかめた。
「助かった、じゃないのか」
「違う」
ノアは即答した。
「勝手に延命された」
朱璃が、そこで楽しそうに笑う。
「いい言い方」
「よくない」
「でも正しい。あなた、自力で生き返ったんじゃないわ。中のQBが、死ぬと都合が悪いから雑に引き戻したの」
「その説明で少しも安心できないんだが」
「安心する話じゃないもの」
零は包帯の縁を指で押さえた。
鈍い痛みがある。
そして痛みの奥に、さっき見た白い病棟の残像がまだ薄くへばりついていた。
「じゃあ次に頭を撃たれたら」
「知らない」
朱璃が明るく言う。
「今度は弾の代わりに記憶が消えるかもしれないし、視力だけ飛ぶかもしれないし、ちゃんと死ぬかもしれない」
「最低だな」
「医療って誠実でしょ」
「お前の口から出ると全部嫌味に聞こえる」
「事実だからね」
ノアは端末を切り替えた。
列車から吸い上げた搬送ログ。
`Y-09`
`S-08`
旧小児研究棟第七区画。
削られた照会経路の断片が、薄い層になって並ぶ。
「こっちも見る」
「まだあるのかよ」
「ある」
零は椅子のまま、表示へ目を向けた。
その瞬間だった。
後頭部の鈍痛が、細い熱へ変わる。
白い壁。
三つ並んだベッド。
静かな目。
包帯の星。
噛みつくみたいな顔。
「……三つ」
零が呟く。
朱璃の手が止まる。
ノアの視線が上がる。
「何」
「ベッドだ」
零は画面を睨んだまま言う。
「三つ並んでた。ログは二つしか残ってないのに、あそこには三つあった」
ノアがすぐに別の窓を開いた。
同期波形の残滓。
削除跡。
空白。
「……ある」
「何が」
「三人分の同期痕」
朱璃が面白そうに身を乗り出す。
「へえ」
「`Y-09` と `S-08` の他に、ひとつ消されてる」
「名前は」
零の口が、また勝手に動いた。
「ミオ」
作業場の空気が、一拍だけ止まる。
ノアは数秒、何も言わなかった。
言わないまま、画面の波形と零の顔を見比べる。
「根拠」
「見た」
「雑」
「起きてること全部雑なんだよ今日は」
朱璃が吹き出した。
「それはそう」
ノアは指先で画面を拡大する。
削除された識別欄の縁。
残留同期。
搬送時刻。
「……零の見た順と、空白の位置は一致してる」
「うわ」
「嫌な一致」
零は息を吐いた。
ユナ。
サナ。
ミオ。
まだ会っていない。
なのにもう、名前だけが身体の内側へ引っかかっている。
「第七区画、まだ生きてる」
ノアが別の画面を出した。
「閉鎖記録はある。でも電力使用が切れてない。給水も少量で続いてる。しかも小児鎮静剤の出庫ログだけ、昨日まで残ってる」
「閉鎖済みの病棟って顔して、普通に運用中ってことか」
「そう」
「嫌だな」
「うん」
朱璃は処置台の上の器具を片づけながら言う。
「嫌な病棟ほど、今行った方がいいわね。表の管理が気づく前に」
その言葉とほぼ同時に、零の耳内通信が震えた。
灰堂だ。
零は嫌そうに眉を寄せる。
「出る?」
ノアが聞く。
「出ないとあとで余計うるさい」
通信を開く。
『生きているか』
第一声がそれだった。
「おかげさまで、だいぶ気持ち悪い形で」
『列車回収ログの送信が遅い』
「頭撃たれてたんだよ。こっちにも事情がある」
『事情は報告で聞く。回収物を中央へ上げろ』
零は壁際のノアを見る。
ノアは無言のまま、端末の送信待機窓を閉じた。
「今整理してる」
『識別番号は』
少しの間。
零は答えなかった。
`Y-09`
`S-08`
ミオ。
今ここで全部出したら、たぶんあの男は子供の名前より先に処理順を決める。
『零』
灰堂の声が一段低くなる。
『聞いている』
「番号だけならある」
『ならいい。余計な接触はするな。第七処置棟で待機しろ』
「お前さ」
零が低く言う。
「その言い方、毎回腹立つんだよ」
『腹を立てるのは自由だ。順番を崩すな』
通信が切れた。
作業場が静かになる。
「待機しろ、だって」
朱璃が笑う。
「素直に待つ顔してないわね」
「してるか」
「してない」
ノアが端末を閉じた。
「私も待たない方がいいと思う」
「珍しいな」
「灰堂が悪いわけじゃない」
「うん」
「でも、灰堂が選ぶ順番だと、ユナたちは人間より先に案件になる」
零は少しだけ黙った。
その言い方を、ノアがするのは重い。
「行くぞ」
零が言う。
「今から第七区画を見に行く。待機はあとで怒られればいい」
「合理的じゃない」
ノアが言う。
「でも今は、そっちの方が正しい」
「お前がそれ言うとちょっと怖いな」
「今日はそういう日」
朱璃が白衣を引っかけ、医療ケースを閉じた。
「じゃあ違法医療班、出るわよ」
「班なのかそれ」
「気分の問題」
「雑」
「生き返った人に言われたくない」
零たちは朱璃の違法ワゴンへ乗り込んだ。
夜明けにはまだ少し早い。
白みかけた空の下で、第七処置棟の外壁だけが妙に冷たく見える。
正面ロータリーには、もう更新列ができていた。
会社員。
学生。
子供を抱いた親。
顔色の悪い女。
指先の震えを隠している男。
みんな左手首を気にしながら、自分の番を待っている。
タグをかざす。
穿刺音。
認証。
今日の人間の形に揃え直される。
零は窓越しにその列を見た。
青白い残像が、何本も手首から伸びている。
見えすぎる。
さっきまでより、少し遠くまで見えてしまう。
「……やっぱり、増えてる」
「何が」
朱璃がハンドルを回しながら聞く。
「線」
ノアが横目だけで零を見る。
「痛みは」
「ある。あと、たまに戻ってくる」
「何が」
零は後頭部の包帯を軽く押さえた。
「弾痕」
鈍い熱が、傷の筋に沿ってもう一度走る。
そのたび、白い病棟の壁や、剥がれた鳥の絵が一瞬だけ今の景色へ重なった。
「最高」
朱璃が嬉しそうに言う。
「最低」
零とノアが同時に返した。
ワゴンは正面の更新列を避け、処置棟の側面通路へ滑り込む。
使われなくなった保守棟。
割れた搬入口。
錆びたエレベータシャフト。
その先に、白い建物が見えた。
旧小児研究棟。
外壁の塗装は半分剥がれ、窓の多くは黒く死んでいる。
それでも壁面の一部には、子供向けの青い鳥と、ひび割れた虹がまだ残っていた。
夢で見たものと、同じだった。
「……ここか」
零が言う。
「うん」
ノアが答える。
「旧小児研究棟第七区画」
朱璃がワゴンを止める。
「裏の保守搬入口から入る。表の監視はまだ寝てるけど、下の保守回線は半分生きてる」
「半分って、嫌な数字だな」
「この街でマシな数字なんてある?」
「ないな」
零はドアを開けた。
朝になる前の冷たい空気が入ってくる。
後頭部がまた、鈍く痛む。
その痛みの奥で、まだ会っていない三つの名前が生きている。
ユナ。
ミオ。
サナ。
白い病棟は、夜明けの手前で黙って立っていた。
まるでずっと前から、零が来るのを知っていたみたいに。
御厨朱璃は、いつも通り楽しそうだった。
「ほら、動かない」
「動きたくて動いてると思うか」
零は簡易処置椅子に座らされ、後頭部の包帯を半分だけ外されたまま、白い診断灯を浴びていた。
朱璃の手にある携行スキャナが、耳の後ろからこめかみまでをゆっくりなぞる。
青い立体像が空中に起き上がった。
頭蓋。
脳。
そして、その右前頭から後頭へ抜けかけた細い損傷線。
命中痕だ。
確かにある。
見たくもないくらい、ちゃんとある。
「うわ」
零が本音で言う。
「これは気分悪いな」
「でしょ」
朱璃は楽しそうに、像の中へ指を差し入れた。
「でも、ここ。ないのよ」
零が眉を寄せる。
損傷線はある。
出血の残りもある。
組織の崩れ方も、頭を撃たれた人間のそれだ。
なのに、本来そこに残るはずの金属片だけが、どこにもいない。
「弾だけいない」
ノアが、端末から目を離さずに言った。
左肩と脚に止血材を巻いたまま、壁際の作業机に寄りかかっている。
顔色はひどい。
それでも指だけは止まらない。
「頭蓋内残留なし。破片散乱なし。単純貫通にも見えない」
「つまり?」
「変」
「それはさっきから知ってる」
朱璃が肩をすくめた。
「レムの結果先行だけなら、まだ説明はつくの。あの女は結果を先に置くから、着弾の順番はずれる。でも、弾頭そのものが丸ごと消えるのは別」
「別って」
「被弾したあなた側で、もっと嫌なことが起きてる」
ノアが端末の画面を零へ向けた。
波形。
数値。
縦に跳ねた汚染グラフ。
「これ」
「読める言葉で頼む」
「被弾の瞬間、零のQB汚染値が跳ねてる」
「どれくらい」
「ありえないくらい」
零は数秒、無言になった。
「今日その表現よく聞くな」
「今日は実際、ありえないことが多い」
朱璃はスキャナを止め、損傷線の像を少し回転させた。
「仮説はひとつ。零の中のQBウイルスが、被弾した瞬間に緊急再同期を起こした」
「緊急再同期」
「死ぬ現在を、そのままにはしなかったってこと」
ノアが続ける。
「QB汚染は、近傍未来の参照層に噛んでる。普通は更新で現在へ寄せ直すだけ。でも今回は、致死線そのものに触った可能性がある」
「つまり」
「死なない現在へ、無理やり縫い直された」
零は嫌そうに顔をしかめた。
「助かった、じゃないのか」
「違う」
ノアは即答した。
「勝手に延命された」
朱璃が、そこで楽しそうに笑う。
「いい言い方」
「よくない」
「でも正しい。あなた、自力で生き返ったんじゃないわ。中のQBが、死ぬと都合が悪いから雑に引き戻したの」
「その説明で少しも安心できないんだが」
「安心する話じゃないもの」
零は包帯の縁を指で押さえた。
鈍い痛みがある。
そして痛みの奥に、さっき見た白い病棟の残像がまだ薄くへばりついていた。
「じゃあ次に頭を撃たれたら」
「知らない」
朱璃が明るく言う。
「今度は弾の代わりに記憶が消えるかもしれないし、視力だけ飛ぶかもしれないし、ちゃんと死ぬかもしれない」
「最低だな」
「医療って誠実でしょ」
「お前の口から出ると全部嫌味に聞こえる」
「事実だからね」
ノアは端末を切り替えた。
列車から吸い上げた搬送ログ。
`Y-09`
`S-08`
旧小児研究棟第七区画。
削られた照会経路の断片が、薄い層になって並ぶ。
「こっちも見る」
「まだあるのかよ」
「ある」
零は椅子のまま、表示へ目を向けた。
その瞬間だった。
後頭部の鈍痛が、細い熱へ変わる。
白い壁。
三つ並んだベッド。
静かな目。
包帯の星。
噛みつくみたいな顔。
「……三つ」
零が呟く。
朱璃の手が止まる。
ノアの視線が上がる。
「何」
「ベッドだ」
零は画面を睨んだまま言う。
「三つ並んでた。ログは二つしか残ってないのに、あそこには三つあった」
ノアがすぐに別の窓を開いた。
同期波形の残滓。
削除跡。
空白。
「……ある」
「何が」
「三人分の同期痕」
朱璃が面白そうに身を乗り出す。
「へえ」
「`Y-09` と `S-08` の他に、ひとつ消されてる」
「名前は」
零の口が、また勝手に動いた。
「ミオ」
作業場の空気が、一拍だけ止まる。
ノアは数秒、何も言わなかった。
言わないまま、画面の波形と零の顔を見比べる。
「根拠」
「見た」
「雑」
「起きてること全部雑なんだよ今日は」
朱璃が吹き出した。
「それはそう」
ノアは指先で画面を拡大する。
削除された識別欄の縁。
残留同期。
搬送時刻。
「……零の見た順と、空白の位置は一致してる」
「うわ」
「嫌な一致」
零は息を吐いた。
ユナ。
サナ。
ミオ。
まだ会っていない。
なのにもう、名前だけが身体の内側へ引っかかっている。
「第七区画、まだ生きてる」
ノアが別の画面を出した。
「閉鎖記録はある。でも電力使用が切れてない。給水も少量で続いてる。しかも小児鎮静剤の出庫ログだけ、昨日まで残ってる」
「閉鎖済みの病棟って顔して、普通に運用中ってことか」
「そう」
「嫌だな」
「うん」
朱璃は処置台の上の器具を片づけながら言う。
「嫌な病棟ほど、今行った方がいいわね。表の管理が気づく前に」
その言葉とほぼ同時に、零の耳内通信が震えた。
灰堂だ。
零は嫌そうに眉を寄せる。
「出る?」
ノアが聞く。
「出ないとあとで余計うるさい」
通信を開く。
『生きているか』
第一声がそれだった。
「おかげさまで、だいぶ気持ち悪い形で」
『列車回収ログの送信が遅い』
「頭撃たれてたんだよ。こっちにも事情がある」
『事情は報告で聞く。回収物を中央へ上げろ』
零は壁際のノアを見る。
ノアは無言のまま、端末の送信待機窓を閉じた。
「今整理してる」
『識別番号は』
少しの間。
零は答えなかった。
`Y-09`
`S-08`
ミオ。
今ここで全部出したら、たぶんあの男は子供の名前より先に処理順を決める。
『零』
灰堂の声が一段低くなる。
『聞いている』
「番号だけならある」
『ならいい。余計な接触はするな。第七処置棟で待機しろ』
「お前さ」
零が低く言う。
「その言い方、毎回腹立つんだよ」
『腹を立てるのは自由だ。順番を崩すな』
通信が切れた。
作業場が静かになる。
「待機しろ、だって」
朱璃が笑う。
「素直に待つ顔してないわね」
「してるか」
「してない」
ノアが端末を閉じた。
「私も待たない方がいいと思う」
「珍しいな」
「灰堂が悪いわけじゃない」
「うん」
「でも、灰堂が選ぶ順番だと、ユナたちは人間より先に案件になる」
零は少しだけ黙った。
その言い方を、ノアがするのは重い。
「行くぞ」
零が言う。
「今から第七区画を見に行く。待機はあとで怒られればいい」
「合理的じゃない」
ノアが言う。
「でも今は、そっちの方が正しい」
「お前がそれ言うとちょっと怖いな」
「今日はそういう日」
朱璃が白衣を引っかけ、医療ケースを閉じた。
「じゃあ違法医療班、出るわよ」
「班なのかそれ」
「気分の問題」
「雑」
「生き返った人に言われたくない」
零たちは朱璃の違法ワゴンへ乗り込んだ。
夜明けにはまだ少し早い。
白みかけた空の下で、第七処置棟の外壁だけが妙に冷たく見える。
正面ロータリーには、もう更新列ができていた。
会社員。
学生。
子供を抱いた親。
顔色の悪い女。
指先の震えを隠している男。
みんな左手首を気にしながら、自分の番を待っている。
タグをかざす。
穿刺音。
認証。
今日の人間の形に揃え直される。
零は窓越しにその列を見た。
青白い残像が、何本も手首から伸びている。
見えすぎる。
さっきまでより、少し遠くまで見えてしまう。
「……やっぱり、増えてる」
「何が」
朱璃がハンドルを回しながら聞く。
「線」
ノアが横目だけで零を見る。
「痛みは」
「ある。あと、たまに戻ってくる」
「何が」
零は後頭部の包帯を軽く押さえた。
「弾痕」
鈍い熱が、傷の筋に沿ってもう一度走る。
そのたび、白い病棟の壁や、剥がれた鳥の絵が一瞬だけ今の景色へ重なった。
「最高」
朱璃が嬉しそうに言う。
「最低」
零とノアが同時に返した。
ワゴンは正面の更新列を避け、処置棟の側面通路へ滑り込む。
使われなくなった保守棟。
割れた搬入口。
錆びたエレベータシャフト。
その先に、白い建物が見えた。
旧小児研究棟。
外壁の塗装は半分剥がれ、窓の多くは黒く死んでいる。
それでも壁面の一部には、子供向けの青い鳥と、ひび割れた虹がまだ残っていた。
夢で見たものと、同じだった。
「……ここか」
零が言う。
「うん」
ノアが答える。
「旧小児研究棟第七区画」
朱璃がワゴンを止める。
「裏の保守搬入口から入る。表の監視はまだ寝てるけど、下の保守回線は半分生きてる」
「半分って、嫌な数字だな」
「この街でマシな数字なんてある?」
「ないな」
零はドアを開けた。
朝になる前の冷たい空気が入ってくる。
後頭部がまた、鈍く痛む。
その痛みの奥で、まだ会っていない三つの名前が生きている。
ユナ。
ミオ。
サナ。
白い病棟は、夜明けの手前で黙って立っていた。
まるでずっと前から、零が来るのを知っていたみたいに。
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