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(三)

ー/ー



 「旦那、起きてますか? お水を持ってきましたよ」
 「……そこに置け」
 「はいはい、あまり無理はなさいませんよう……」
 深酒をした頭に響かないよう気を遣ったのか、宿の主人は小声でそう返すと、足音をひそめて立ち去る。その背中をかすむ目で見るともなしに眺めながら、楊志はのそりと体を起こした。
 早々に別れを告げるはずだった硬い寝床も、襤褸の壁や床も、いまだに楊志のねぐらになるという栄誉にあずかっている。
 ぎしり、と床を軋ませて立ち上がり、水を一気に呷って体を伸ばせば、体中の骨が悲鳴をあげるようだった。
 (思えば、王倫の言うとおりになったな)
 高俅に太尉府から蹴りだされた日、楊志は、己が築き上げてきたすべてが、たった一度の失敗で崩れ去ったのだと知った。
 幼いころから文武の才を磨き、若くして武挙の試験に合格し、ついには殿司制使にまで選ばれた己の努力は、馬鹿げた石を水底に沈めた、そのただ一度の失敗のせいで、文字通り水の泡となった。
 今まで楊志がどれだけ禁軍に貢献してきたか、あの男は知らないのだろうか。
 理不尽な命もなんなくこなし、上官を助け、部下を育て、危機が迫れば数々の策を上奏してきたというのに、皇帝の愚かしい趣味のせいですべてを一瞬にして奪われるなど、はなはだ理不尽だ。
 (いや……あの男の狭量ぶりなど、知っていたはずだ)
 楊志が年若くして武挙に合格したちょうどそのころ、同じ年ごろの、まだ名も知れぬような若い兵士が、国境に駐屯していた兵を率いて夏軍に大勝するという出来事があった。
 この知らせを聞いた武人たちは、口々にこの年若い豪傑の名を讃え、禁軍に抜擢するよう朝廷に申し出た。だが結局、軍事のことなどさっぱりわからないくせに枢密使に居座っている童貫に、当時まだ太尉ですらなかった高俅があることないこと吹きこんだおかげで、この話は立ち消えた。
 ちんぴらくずれの成り上がりである高俅は、一旦は優秀な人間を周りに集めるが、その人間がただ己を飾り立て己のために命を捨てる駒であるうちは重用し、自分の足を引けば恩も忘れて切り捨て、自分より目立とうものなら徹底的に貶める、小さな男なのだ。
 (結局は俺も、些細な失敗のせいで、目をつけられてしまったわけだ……腹立たしいことこの上ない。いずれこの恨みは晴らさせてもらうからな、覚悟しておけ……!)
 腹の内でもう幾度目とも知れぬ悪態をつき、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
 あのまま梁山泊に留まるのが上策とは決して思えなかったが、今思えば、王倫たちの忠告だけはもっともだったというわけだ。
 『万一のことがあったら、俺がここにいることを思い出してほしい』
 そう言って寂しそうに微笑んだ林冲の顔を思い出す。だが、まだ彼を頼る気にはなれなかった。
 たとえ高俅に紛い物と侮辱されようと、この身に流れる誇り高い血に偽りはない。落草などすれば、恥の上塗りである。
 「だが、金はない、か……」
 必死の思いで賄賂を配り歩いたせいで、今や楊志の手元には、宿代を払えるだけの金さえない。
 一体どうすればよかろうかと、まばらに髭の生えた顎を撫でまわして思案した刹那、ふてくされたように部屋の隅に横たわる愛刀の姿が目に入る。
 「……売るか?」
 大切に持ち歩いた先祖伝来の宝刀を手放すのはみじめだが、刀の代金を路銀とし、身を立てられる場所を探したほうが、落草の憂き目に会うよりはいくらかましだ。
 そうと決まれば、早いほうがいい。こうしてここに居ても、無為に時が過ぎていくだけだ。
 「旦那、出立ですか?」
 すべてを失ったあの日から、宿に入りびたりの酒浸りだった己が外に出ようとしているものだから、逃げられるとでも思ったのだろう、主人が慌てて駆け寄ってくる。
 「馬鹿野郎、金をこしらえてくるだけだ。宿代は必ず払う」
 「そ、そうですか……それでは、お気をつけていってらっしゃい」
 あからさまに安堵した主人を振り払い、売り物札代わりに鞘に藁を差し込んだ刀を抱えなおすと、楊志はさっそく東京の街へと繰り出した。
 人波をかき分け、この東京一の繁華街である東華門街を、これ見よがしに刀を抱えながらゆっくりと練りまわり、さらに馬行街へと歩き続ける。
 ――だが、しばらくそのあたりをうろうろしても、一向に誰かが声をかけてくる気配はない。
 (人が多すぎるのか?)
 この一年でさらに繁栄を極める都の、その繁華街ともなれば、官僚や武人、旅人や商人など、あらゆる種類の人間が所狭しと行き交うので、息をつく隙間もないほどだ。
 道の両側には藁細工を売る屋台から高級な酒店まであらゆる店が乱立し、ここを歩けば必要なものはすべて手に入るというありさまである。
 こんな人込みでは刀売りなど目につかぬだろうと思いなおした楊志は、昼をまわったころ、今度は南側の州橋のたもとへと移動し、よく荒くれ者たちが集う盛り場の近くを歩き回った。
 だが、通りを端から端まで歩いてもなお誰の目にも止まらぬことに、次第に苛立ちが頂点に達しようとしていたその時、
 「と、虎だ、虎が来るぞ!」
 「早く逃げろ……!」
 「あんた、ほら、はやく、店の中に入りな!」
 長閑な昼下がりの通りがにわかに騒がしくなり、行き交う人々が皆、血相を変えて家や店の中へと逃げ込み始める。
 「ふん、こんな都のど真ん中に、虎が出るだと?」
 楊志の着物を引いて店の中へ連れ込もうとする酒店の男の手を振り払い、いつでも刀を抜けるよう体の力を抜きながら、楊志は通りの真ん中に歩み出て周りを見渡し、
 「……なんだ、あいつは?」
 離れたこの場所からでも酒と汗の臭いが漂ってきそうな醜悪な大男が、ざらりとした皮膚も汚らわしい鬼のような黒い顔にだらしない半笑いを浮かべ、ふらふらと千鳥足でこちらへ向かってくる。
 曲がりくねった大木の瘤のような体に、着物と呼ぶのもおこがましいような襤褸布を纏ったその男は、もう何年も梳かしていないのであろう、竜巻のように絡まった黒髪をぶらさげ、毛まみれの胸元をぼりぼりとかきむしり、道端に痰を吐く。
 「没毛大虫(ぼつもうだいちゅう)の、牛二(ぎゅうじ)ですよ! 旦那、命が惜しけりゃ逃げてくだせえ」
 酒店の男が、震える声で楊志に叫ぶ。
 ものすごい体毛が渦を巻いているのを見れば、『毛なし虎』とは似合わぬ名だ。薄汚れた猪、あたりが関の山だろう。
 「あいつ、このあたりで喧嘩をしては暴れまわって、お上も手に負えない始末。だからこの辺のもんは、あいつが来ると、虎が来た、ってんで、みぃんな家の中にひっこんじまうんでさあ」
 「虎というからどれほどの男かと思えば、なんだ、ただのごろつきか」
 楊志はにやりと笑い、目深にかぶった笠をわずかに上向かせると、降り積もった雪を軋ませ、男のほうへと己から歩み寄った。


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 「……そこに置け」
 「はいはい、あまり無理はなさいませんよう……」
 深酒をした頭に響かないよう気を遣ったのか、宿の主人は小声でそう返すと、足音をひそめて立ち去る。その背中をかすむ目で見るともなしに眺めながら、楊志はのそりと体を起こした。
 早々に別れを告げるはずだった硬い寝床も、襤褸の壁や床も、いまだに楊志のねぐらになるという栄誉にあずかっている。
 ぎしり、と床を軋ませて立ち上がり、水を一気に呷って体を伸ばせば、体中の骨が悲鳴をあげるようだった。
 (思えば、王倫の言うとおりになったな)
 高俅に太尉府から蹴りだされた日、楊志は、己が築き上げてきたすべてが、たった一度の失敗で崩れ去ったのだと知った。
 幼いころから文武の才を磨き、若くして武挙の試験に合格し、ついには殿司制使にまで選ばれた己の努力は、馬鹿げた石を水底に沈めた、そのただ一度の失敗のせいで、文字通り水の泡となった。
 今まで楊志がどれだけ禁軍に貢献してきたか、あの男は知らないのだろうか。
 理不尽な命もなんなくこなし、上官を助け、部下を育て、危機が迫れば数々の策を上奏してきたというのに、皇帝の愚かしい趣味のせいですべてを一瞬にして奪われるなど、はなはだ理不尽だ。
 (いや……あの男の狭量ぶりなど、知っていたはずだ)
 楊志が年若くして武挙に合格したちょうどそのころ、同じ年ごろの、まだ名も知れぬような若い兵士が、国境に駐屯していた兵を率いて夏軍に大勝するという出来事があった。
 この知らせを聞いた武人たちは、口々にこの年若い豪傑の名を讃え、禁軍に抜擢するよう朝廷に申し出た。だが結局、軍事のことなどさっぱりわからないくせに枢密使に居座っている童貫に、当時まだ太尉ですらなかった高俅があることないこと吹きこんだおかげで、この話は立ち消えた。
 ちんぴらくずれの成り上がりである高俅は、一旦は優秀な人間を周りに集めるが、その人間がただ己を飾り立て己のために命を捨てる駒であるうちは重用し、自分の足を引けば恩も忘れて切り捨て、自分より目立とうものなら徹底的に貶める、小さな男なのだ。
 (結局は俺も、些細な失敗のせいで、目をつけられてしまったわけだ……腹立たしいことこの上ない。いずれこの恨みは晴らさせてもらうからな、覚悟しておけ……!)
 腹の内でもう幾度目とも知れぬ悪態をつき、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
 あのまま梁山泊に留まるのが上策とは決して思えなかったが、今思えば、王倫たちの忠告だけはもっともだったというわけだ。
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 たとえ高俅に紛い物と侮辱されようと、この身に流れる誇り高い血に偽りはない。落草などすれば、恥の上塗りである。
 「だが、金はない、か……」
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 一体どうすればよかろうかと、まばらに髭の生えた顎を撫でまわして思案した刹那、ふてくされたように部屋の隅に横たわる愛刀の姿が目に入る。
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 そうと決まれば、早いほうがいい。こうしてここに居ても、無為に時が過ぎていくだけだ。
 「旦那、出立ですか?」
 すべてを失ったあの日から、宿に入りびたりの酒浸りだった己が外に出ようとしているものだから、逃げられるとでも思ったのだろう、主人が慌てて駆け寄ってくる。
 「馬鹿野郎、金をこしらえてくるだけだ。宿代は必ず払う」
 「そ、そうですか……それでは、お気をつけていってらっしゃい」
 あからさまに安堵した主人を振り払い、売り物札代わりに鞘に藁を差し込んだ刀を抱えなおすと、楊志はさっそく東京の街へと繰り出した。
 人波をかき分け、この東京一の繁華街である東華門街を、これ見よがしに刀を抱えながらゆっくりと練りまわり、さらに馬行街へと歩き続ける。
 ――だが、しばらくそのあたりをうろうろしても、一向に誰かが声をかけてくる気配はない。
 (人が多すぎるのか?)
 この一年でさらに繁栄を極める都の、その繁華街ともなれば、官僚や武人、旅人や商人など、あらゆる種類の人間が所狭しと行き交うので、息をつく隙間もないほどだ。
 道の両側には藁細工を売る屋台から高級な酒店まであらゆる店が乱立し、ここを歩けば必要なものはすべて手に入るというありさまである。
 こんな人込みでは刀売りなど目につかぬだろうと思いなおした楊志は、昼をまわったころ、今度は南側の州橋のたもとへと移動し、よく荒くれ者たちが集う盛り場の近くを歩き回った。
 だが、通りを端から端まで歩いてもなお誰の目にも止まらぬことに、次第に苛立ちが頂点に達しようとしていたその時、
 「と、虎だ、虎が来るぞ!」
 「早く逃げろ……!」
 「あんた、ほら、はやく、店の中に入りな!」
 長閑な昼下がりの通りがにわかに騒がしくなり、行き交う人々が皆、血相を変えて家や店の中へと逃げ込み始める。
 「ふん、こんな都のど真ん中に、虎が出るだと?」
 楊志の着物を引いて店の中へ連れ込もうとする酒店の男の手を振り払い、いつでも刀を抜けるよう体の力を抜きながら、楊志は通りの真ん中に歩み出て周りを見渡し、
 「……なんだ、あいつは?」
 離れたこの場所からでも酒と汗の臭いが漂ってきそうな醜悪な大男が、ざらりとした皮膚も汚らわしい鬼のような黒い顔にだらしない半笑いを浮かべ、ふらふらと千鳥足でこちらへ向かってくる。
 曲がりくねった大木の瘤のような体に、着物と呼ぶのもおこがましいような襤褸布を纏ったその男は、もう何年も梳かしていないのであろう、竜巻のように絡まった黒髪をぶらさげ、毛まみれの胸元をぼりぼりとかきむしり、道端に痰を吐く。
 「|没毛大虫《ぼつもうだいちゅう》の、|牛二《ぎゅうじ》ですよ! 旦那、命が惜しけりゃ逃げてくだせえ」
 酒店の男が、震える声で楊志に叫ぶ。
 ものすごい体毛が渦を巻いているのを見れば、『毛なし虎』とは似合わぬ名だ。薄汚れた猪、あたりが関の山だろう。
 「あいつ、このあたりで喧嘩をしては暴れまわって、お上も手に負えない始末。だからこの辺のもんは、あいつが来ると、虎が来た、ってんで、みぃんな家の中にひっこんじまうんでさあ」
 「虎というからどれほどの男かと思えば、なんだ、ただのごろつきか」
 楊志はにやりと笑い、目深にかぶった笠をわずかに上向かせると、降り積もった雪を軋ませ、男のほうへと己から歩み寄った。