(二)
ー/ー 左手の四つの床几に三頭領と朱貴、右手の床几の上手に楊志、下手に林冲が座ると、さっそく宴席が設けられた。林冲に蓄えが少ないと言った、その舌の根も乾かぬうちに、あふれるほどの酒と肉が運び込まれてくる。
「ところで楊制使殿、ひとつ、ご提案があるのだが」
いやに愉快げな王倫は、このあたりで、と辞退しようとする楊志に七、八杯ほど酒を勧め、上機嫌に彼のことを誉めそやした後、何かを窺うように目を細めながら、そう切り出した。
「何か」
どうにも表情を取り繕うことが苦手らしい楊志が、青痣の顔に、はやく解放してほしい、とありあり浮かべているのも気が付かないのか――いや、知らぬふりをしているのだろう、王倫は冷たい楊志の声にも負けずに続ける。
「こちらの豹子頭林冲は、あなたもご存じのとおり、元は東京八十万禁軍教頭を務めていた手練れ。ところが、あの高俅のやつめが、このような傑物を煙たく思い、色々と謀を巡らせて彼を陥れ、滄州へと流刑にしたのです。だがそこでもまた命を狙われ、致し方なく罪を犯し、行き場をなくしてここを頼ってきたという次第。制使殿、あなたもこれから東京へ行って復帰を願い出るとのことですが、恩赦があったとはいえ、果たしてあのずる賢い高俅がそうやすやすと、罪を犯した者を復帰させるだろうか。私もあの男のやることなすことに怒りを覚え、文を捨てて武を取り、こうして山賊稼業などしている者。決して無理にあなたを仲間へ誘おうというのではありませんが、あやつが権力を握っているうちは、あなたのような豪傑を迎え入れるとは考えられません。いっそこの梁山泊に留まって金銀財宝を分け合い、心ゆくまで酒を飲み肉を食らい、好漢とともに生きるということも考えてはいかがかな?」
楊志の瞳がどんどん細まるのと反対に、林冲は目を丸くして王倫を凝視した。
この男、自分が仲間入りを願い出たときはあれこれ理由をでっちあげて断ろうとしたくせに、今度は逆に、嫌がる人間を引き留めようとするとはどういうことか。
(いや、心から引き留めたいわけではないだろう。俺と楊志をここに置き、相争わせて己の地位を守ろうという魂胆か)
さすが元文士の端くれだけはあって、王倫の弁は筋が通っているし、林冲にも確かにそうだと思うところはあった。
だが、すべての道を閉ざされた己と違い、まだ楊志には落草以外にも道がある。林冲はあえて口を出さず、楊志の言葉を待った。
「王頭領、あんたの気遣いはありがたいが、俺の親戚が東京に住んでいてな、今回のことで巻き添えにしたまま、挨拶も何もしていない。だからその人にどうしても会いに行きたいと思っているんだ。そういうわけなので、さっさと荷物を返してくれ。返さないというなら、仕方あるまい、俺はこのまま帰るとする」
「いやいや、楊制使、何も無理にとは申しておりませんぞ」
さすがの王倫も、今にも刀を抜きさえしそうな楊志の苛立ちを察したのだろう、半笑いで腰を浮かした。
「ですが、ほらこの通り、夜も更けましたゆえ、今日一晩はゆっくりして、明日の早朝お発ちください。さあ、部屋をご用意いたしますので」
「……そういうことなら仕方ない、今夜はこちらに宿を借りよう」
ひり、とした空気が消え、楊志が細く安堵の溜息を吐く。はらはらと様子を見守っていた宋万や杜遷も、あわやという事態にならずに済んだことでほっとしたのであろう、盃に残った酒をぐびりと呷った。
「それでは林冲、四の頭領のお前が、制使殿を客間に案内してさしあげてくれないか」
まるで林冲に投名状を迫ったことなどすっかり忘れたかの如く上機嫌な王倫の言葉に、林冲は、ここまで楊志を誘った手前、もう己の入山を断ることができなくなったのであろう男の心中に思い至った。
(四の頭領、か)
ようやく束の間の安住の地を手に入れたのだから、地位にはなんらこだわらないが、果たしてこの男の下で働くことに、いつまで耐えることができるだろうか。
「林教頭、よろしく頼む」
少しでもはやく王倫のそばから立ち去りたいらしい楊志が申し訳なさそうに頭を下げるのに頷き、林冲は立ち上がった。
聚義庁の扉を開けると、冷えて澄み切った夜空には、いつの間にか赤くきらめく星が浮かんでいた。
数日続いていた激しい雪が、豹子頭林冲と出会ったあの日以来、ぱったりと止んでいる。
時折小雪がちらつくことはあったが、道中はおおむね、日が昇れば暖かな日差しが降り注ぎ、夜は明るい星空が見える、なんとも心地よい旅路であった。
(それにつけても、惜しいことだ)
梁山泊で過ごした一夜、あの王倫とかいう、いかにもな小物から解放されたのち、林冲と短い時間、話をした。
淡々と、彼の身の上に起こった事実だけを語る林冲の横顔は、ひどく疲れていた。
八十万禁軍教頭豹子頭林冲――開封東京だけでなく、江湖の端々にいたるまで、その名に畏敬の念を抱かぬ者はいないだろう。
一介の練兵教官としておくにはもったいないほどの彼の人徳や武芸を見聞きするたびに、いつか彼と盃を酌み交わしてみたいと思っていたが、まさかその好漢中の好漢がこんな辺鄙な場所で落草の憂き目にあっているとは、誰が想像しただろう。
まったくあの高俅に目をつけられるとは、彼も相当に運が悪い。
『楊志殿、東京に戻ったら、用心されよ。そして、万一のことがあったら、俺がここにいることを思い出してほしい』
別れ際、月の宵を思わせる静かな声で紡がれた彼の言葉は、王倫の薄っぺらな科白と違い、気遣いに溢れていた。
(まあ……どうにかなる)
この数日、縁のある者に頼んで枢密院に内々に話をつけ、故郷の鳳翔府や楊家の本籍がある太原で集めた金銀財宝を役人たちに配り歩き、復職に備えて奔走した。
人に媚びを売るのは嫌気がさしたが、高俅や彼の手先たちは、めっぽう賄賂に弱い。無事に殿司制使に復帰したら、あとは淡々と職責をまっとうすれば、文句も言われまい。
「じゃあ、少し出てくる」
「はいはい、お気をつけて」
帰京以来ねぐらにしている城門近くの宿を発ち、昨夜ようやく届いた上申書の返書を手に握りしめ、高俅との謁見に向かう。
この安宿の硬い寝床で寝るのも、今日が最後だ。復職が認められれば、官舎に戻ることになる。一年以上部屋を空けることになったから、ずいぶん埃も溜まっていよう。まずはそれを掃除し、そして宿代を払い、荷物を持って引き上げよう。
「俺は楊志と申す者。本日、高太尉との面会に参った」
いつ見てもけばけばしく巨大な高俅の屋敷の前で、仏頂面の衛兵に返書を見せると、取り次がれてすぐに広間へと案内される。
思えば、花石綱運搬の命を受けたのも、この広間であった。
高俅と言葉を交わす機会はそう多くなかったが、その機会があるたびにあの男は、己の「楊家の血筋」に触れ、あの日もまた、「楊家の名に恥じぬような働きを」と声をかけたのだ。
(御先祖衆よ、悪いが、今回ばかりはあんたたちの名を使わせてもらう)
事ここに至っては、先祖の名でもなんでもうまく利用して、高俅に取り入ることが肝要だ。たとえ世に豪傑と認められる人間であろうと、林冲のような非業の憂き目に会ってしまっては、元も子も――
「楊志!」
威嚇する大蛇のようなしゃがれた怒声が、突如広間に響き渡った。
「こ、高太尉」
慌ててひざまずく楊志の前に大股に現れた居丈高な男は、蛇のような顔をこれ以上ないほど歪め、蔑みの籠った目で楊志を見下ろした。
「貴様、いったいどの面さげてここに来た? 一体どうして、恥知らずにも今更になって俺の前に現れるのだ」
「太尉殿、お怒りはごもっとも、だがこれには事情が」
「事情だと? どんな事情があるというのだ? 花石綱の運搬を命じたお前たち十人の制使のうち、九人は石を持ち帰り上納したというのに、貴様だけが石を失った上にとんずらし、自首をしないどころか長い間こちらの目を欺いて身を隠していたかと思えば、今度は厚顔無恥にも元の職に戻してくれ、だと? たとえ恩赦があったとは言え、お前のような卑怯きわまりない男にやる職は、もはやない!」
今にも楊志を蹴り倒さんばかりに足を踏み鳴らし、高俅は楊志が衛兵に差し出した返書を目の前で破り捨てる。
粉々になった紙片が、楊志の頭に降り注いだ。
「こ、高太尉……確かに俺は、任務に失敗しました。また、このことを恥ずかしく思い、顔向けできずにいたのも事実です。だが、今こうして慈悲深くも恩赦をいただいたからには、必ずや立派に仕事を務め、名誉挽回したいと思っているのです。楊家の名に恥じぬよう……」
「ハッ、何が『楊家の名』だ」
乾いた笑い声とともに、背後から音もなく衛兵が現れ、楊志の両腕をひっつかむ。
「高太尉、これは何を」
「……『楊家の血』を引くものは、この世に五万といるらしい。ふん、文句も言わずに働いていたかと思えば、化けの皮がはがれたな、楊業の子孫よ」
「待ってくれ、違う、俺は……!」
「さっさと先祖の田舎に帰って、墓石でも磨いていることだ……つまみ出せ」
「高太尉! 太尉殿! 聞いてください、これには事情が……ガッ!」
衛兵たちに引きずられ、突き飛ばされ、背後で盛大な音を立てて門が閉まる。
投げ出された地面には、いつの間にか、雪が降り積もっていた。
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