町医者の記憶
ー/ー 小学生の頃、自転車に乗って、近所の家の門に激突した。母親には、空き缶を踏んづけてハンドルを取られたと説明したが、実際には、漫画を読みながら8の字走行をしていて、ろくに前を見ていなかった。
そのときはハンドルと門柱の間に、右手の中指を挟みつけた。爪が死ぬと、まず爪の下が真っ赤になり、次いで青黒く変色してくる。その頃には、だいぶ痛みも引いていたが、毒々しい見た目に不安になり、近くの町医者に駆け込んだ。
だが、うっかりしたことに、その町医者は荒治療で有名だった。診察室からしばしば悲鳴が聞こえ、子どもたちの間で 「拷問病院」 とあだ名されていたほどだ。古い造作の待合室では、受付の小窓からいやに明るい光がもれ出し、柱時計の振り子の音が、絶えず緊張を強いてくる。診察の順番が近づくと、廊下の長椅子に移動して待つことになるのだが、これがまた患者の恐怖をあおる悪趣味な仕掛けみたいなもので、引き戸のすりガラスに映り込む医者と看護婦の影が、子供心にこの上なく不気味だった。
次の方どうぞー、という声に、緊張しながら引き戸を開けた。診察室に足を踏み入れると、冷たい光を放つ器具が並んだ机の前に、白衣の老人が腰かけていた。血色の悪い顔には、いくつも染みがあり、挨拶してもうつろなまなざしを返すだけ。真一の爪を見るなり、ああ、これね、と感情の宿らない声で言って、銀の筒から見慣れないハサミのような器具を抜き取った。爪の真ん中に小さく切れ目を入れると、医者はなに食わぬ顔で左右にはがしていった。麻酔などない。今まで聞いたことのない嫌な音がした。指先から大量の血があふれ出し、むっつり押し黙った看護婦が捧げ持つピーナッツ型の受け皿に、大きな赤い池ができた。処置の間中、指先に火箸を当てられたような激痛を感じていたが、声も上げられず、未開人の割礼手術でも受けているかのような心地で、一部始終を見守るしかなかった。
翌日、学校でこの悲惨な体験を告白したら、友達のひとりがにべもなく言った。
死んだ爪は、放っておいても生え替わる。時間が経つにつれぐらぐらしてきて、ある日ぽろっとはがれ落ちる。そのときにはもう、生え際から新しい爪が顔を出している、と。
「子供の歯が抜けると、大人の歯が生えてくるだろ。それと同じだよ」
ひどく愚かな人間を見る目を向けられ、がく然としたことを覚えている。
ただ、あとで知ったことだが、爪が死んだ場合の処置は、どこの病院でも同じらしい。つまり、死んだ爪ははがされる。
おそるおそる手をどける。また同じ運命をたどるのかと思うと憂鬱だった。
だが、親指の爪は、おおむね健全なピンク色を保っていた。中心付近がわずかに白くなっていたものの、ケガと言うほどではない。ほっと胸をなで下ろし、衣類の山を漁って靴下を穿いた。
レンタル店までの足はスクーター。梅雨入り前の夜に、Tシャツ一枚では肌寒い。上になにか着よう。今朝着ていたパーカーがどこかにあるはずだ。ベッドの下、物入れの前、と思いついた順に目で追っていく。
――あった。
こたつの後ろに、黒いフードが見えた。
思い出した。確かに、ここに脱ぎ捨てていた。
だが、取りにいこうとしたところで、ぐるんと景色がひっくり返った。
ガシャーッ!
分厚い音が部屋いっぱいに轟き渡った。こたつの上の空き缶やマグカップがなぎ倒され、漫画やCDがバタバタとカーペット敷きの床に落ちる。煙草の吸い殻や小物類もそこら中にばらけ散った。
「いってえ」
左ひじに強い衝撃と痛み。体が泳いだ拍子に、受け身を取ろうとしたのだが、天板の上の物をごっそり引きずった挙げ句、勢い余って床にひじを強打した。
なにかに足を滑らせていた。つま先側を覗くと、おつまみの袋が見えた。これに違いない。靴下を穿いたことが裏目に出てしまった。足を保護したつもりが、別の場所を傷める羽目になった。
「なんなんだよ、まったく!」
起きてからというもの、ろくなことがない。食べ残した弁当を踏んづけ、コーヒーのビンをつま先に落っことしたと思ったら、今度はこれだ。
「ちくしょう!」
思いっ切り、床をひっぱたく。すると、こたつのへりに立っていたペットボトルが傾いた。どうすることもできず、落下する様を見送った。床で弾んだペットボトルが、首を振りながら中身をあふれさせる。みるみる広がっていく染みを食い止めようと手を伸ばしたが、慌てすぎて煙草の灰ごとこすってしまった。
手のひらがなぞった場所に、べっとりと黒い線がついた。
ぐちゃぐちゃの部屋にとどめを刺すような太い一文字の線を見ると、腹の底からどうにもならない怒りがこみ上げてきた。
「くそっ、くそっ」
灰とドリンクでべとべとの手を、何度もカーペットにこすりつけた。同じような黒い線が何本も重なっていき、次第に薄くなって、最終的になにも見えなくなった。
ごろんと仰向けになる。
手のひらが熱い。ぶつけたひじもしびれている。
なにもやる気がしなかった。すべてが行き詰まってしまったかのようだった。いまだ呼吸が整わない胸を波打たせ、暗礁に乗り上げた船乗りのように、うつろな目で宙を見上げた。
部屋に充満する吸い殻の臭い。蛍光灯の下を、あてもなく灰の粒子がさまよっている。
「俺は、もう若くない」
不意に口が動いた。
冷蔵庫のか細い音が、すぐに空白をうめる。
だが、鼓膜に引っかかった言葉は消えない。
決定的なことを言ってしまった。
一語にすべてが集約されていた。
もはや、罪を自白した罪人と同じだ。
すがりついていた綱を手放すように、脱力して息を吐いた。
若さは永遠ではなかった。
青春には終わりがあった。
真一が今日まで認めようとしなかったこと――それは、自分が大人になってしまったという事実だった。
変わるものなどなにもない――。
ずっと、そう信じてきた。
今の自分が持っているものは、時が経っても色あせない。たとえば、湧き立つ夏の雲のように高揚した気持ちも、あれこれ首を突っ込みたがる好奇心も、森羅万象に対する純粋で敬虔な感じ方もすべて。
三つ子の魂百まで、と言う。若さも同じものだと思っていた。生まれたときから宿してきた魂は、この先いくつになっても衰えない。
それは、ちょうど常盤木の葉並みのようなものだ。常緑の木々の葉っぱは、夏の陽射しに照りつけられても、冬の寒さにさらされても、雨に打たれても、風に吹かれても、常に青々としている。健やかで瑞々しい様は、いつ何時も変わらない。
そのときはハンドルと門柱の間に、右手の中指を挟みつけた。爪が死ぬと、まず爪の下が真っ赤になり、次いで青黒く変色してくる。その頃には、だいぶ痛みも引いていたが、毒々しい見た目に不安になり、近くの町医者に駆け込んだ。
だが、うっかりしたことに、その町医者は荒治療で有名だった。診察室からしばしば悲鳴が聞こえ、子どもたちの間で 「拷問病院」 とあだ名されていたほどだ。古い造作の待合室では、受付の小窓からいやに明るい光がもれ出し、柱時計の振り子の音が、絶えず緊張を強いてくる。診察の順番が近づくと、廊下の長椅子に移動して待つことになるのだが、これがまた患者の恐怖をあおる悪趣味な仕掛けみたいなもので、引き戸のすりガラスに映り込む医者と看護婦の影が、子供心にこの上なく不気味だった。
次の方どうぞー、という声に、緊張しながら引き戸を開けた。診察室に足を踏み入れると、冷たい光を放つ器具が並んだ机の前に、白衣の老人が腰かけていた。血色の悪い顔には、いくつも染みがあり、挨拶してもうつろなまなざしを返すだけ。真一の爪を見るなり、ああ、これね、と感情の宿らない声で言って、銀の筒から見慣れないハサミのような器具を抜き取った。爪の真ん中に小さく切れ目を入れると、医者はなに食わぬ顔で左右にはがしていった。麻酔などない。今まで聞いたことのない嫌な音がした。指先から大量の血があふれ出し、むっつり押し黙った看護婦が捧げ持つピーナッツ型の受け皿に、大きな赤い池ができた。処置の間中、指先に火箸を当てられたような激痛を感じていたが、声も上げられず、未開人の割礼手術でも受けているかのような心地で、一部始終を見守るしかなかった。
翌日、学校でこの悲惨な体験を告白したら、友達のひとりがにべもなく言った。
死んだ爪は、放っておいても生え替わる。時間が経つにつれぐらぐらしてきて、ある日ぽろっとはがれ落ちる。そのときにはもう、生え際から新しい爪が顔を出している、と。
「子供の歯が抜けると、大人の歯が生えてくるだろ。それと同じだよ」
ひどく愚かな人間を見る目を向けられ、がく然としたことを覚えている。
ただ、あとで知ったことだが、爪が死んだ場合の処置は、どこの病院でも同じらしい。つまり、死んだ爪ははがされる。
おそるおそる手をどける。また同じ運命をたどるのかと思うと憂鬱だった。
だが、親指の爪は、おおむね健全なピンク色を保っていた。中心付近がわずかに白くなっていたものの、ケガと言うほどではない。ほっと胸をなで下ろし、衣類の山を漁って靴下を穿いた。
レンタル店までの足はスクーター。梅雨入り前の夜に、Tシャツ一枚では肌寒い。上になにか着よう。今朝着ていたパーカーがどこかにあるはずだ。ベッドの下、物入れの前、と思いついた順に目で追っていく。
――あった。
こたつの後ろに、黒いフードが見えた。
思い出した。確かに、ここに脱ぎ捨てていた。
だが、取りにいこうとしたところで、ぐるんと景色がひっくり返った。
ガシャーッ!
分厚い音が部屋いっぱいに轟き渡った。こたつの上の空き缶やマグカップがなぎ倒され、漫画やCDがバタバタとカーペット敷きの床に落ちる。煙草の吸い殻や小物類もそこら中にばらけ散った。
「いってえ」
左ひじに強い衝撃と痛み。体が泳いだ拍子に、受け身を取ろうとしたのだが、天板の上の物をごっそり引きずった挙げ句、勢い余って床にひじを強打した。
なにかに足を滑らせていた。つま先側を覗くと、おつまみの袋が見えた。これに違いない。靴下を穿いたことが裏目に出てしまった。足を保護したつもりが、別の場所を傷める羽目になった。
「なんなんだよ、まったく!」
起きてからというもの、ろくなことがない。食べ残した弁当を踏んづけ、コーヒーのビンをつま先に落っことしたと思ったら、今度はこれだ。
「ちくしょう!」
思いっ切り、床をひっぱたく。すると、こたつのへりに立っていたペットボトルが傾いた。どうすることもできず、落下する様を見送った。床で弾んだペットボトルが、首を振りながら中身をあふれさせる。みるみる広がっていく染みを食い止めようと手を伸ばしたが、慌てすぎて煙草の灰ごとこすってしまった。
手のひらがなぞった場所に、べっとりと黒い線がついた。
ぐちゃぐちゃの部屋にとどめを刺すような太い一文字の線を見ると、腹の底からどうにもならない怒りがこみ上げてきた。
「くそっ、くそっ」
灰とドリンクでべとべとの手を、何度もカーペットにこすりつけた。同じような黒い線が何本も重なっていき、次第に薄くなって、最終的になにも見えなくなった。
ごろんと仰向けになる。
手のひらが熱い。ぶつけたひじもしびれている。
なにもやる気がしなかった。すべてが行き詰まってしまったかのようだった。いまだ呼吸が整わない胸を波打たせ、暗礁に乗り上げた船乗りのように、うつろな目で宙を見上げた。
部屋に充満する吸い殻の臭い。蛍光灯の下を、あてもなく灰の粒子がさまよっている。
「俺は、もう若くない」
不意に口が動いた。
冷蔵庫のか細い音が、すぐに空白をうめる。
だが、鼓膜に引っかかった言葉は消えない。
決定的なことを言ってしまった。
一語にすべてが集約されていた。
もはや、罪を自白した罪人と同じだ。
すがりついていた綱を手放すように、脱力して息を吐いた。
若さは永遠ではなかった。
青春には終わりがあった。
真一が今日まで認めようとしなかったこと――それは、自分が大人になってしまったという事実だった。
変わるものなどなにもない――。
ずっと、そう信じてきた。
今の自分が持っているものは、時が経っても色あせない。たとえば、湧き立つ夏の雲のように高揚した気持ちも、あれこれ首を突っ込みたがる好奇心も、森羅万象に対する純粋で敬虔な感じ方もすべて。
三つ子の魂百まで、と言う。若さも同じものだと思っていた。生まれたときから宿してきた魂は、この先いくつになっても衰えない。
それは、ちょうど常盤木の葉並みのようなものだ。常緑の木々の葉っぱは、夏の陽射しに照りつけられても、冬の寒さにさらされても、雨に打たれても、風に吹かれても、常に青々としている。健やかで瑞々しい様は、いつ何時も変わらない。
いつか青春の輝きを失くす――。
ありふれた言葉だ。探そうと思えば、どこにだって見つけられる。雑誌の記事にも、流行歌の歌詞にも、映画やドラマのセリフにも、人々のなにげない日常会話の中にも……。
だが、その言葉の本当の意味を知ることはなかった。
失くしたものは取り戻せない。
それは、嘘偽りなく失われる。
いくぶん気持ちが落ち着いて、真一は静かに目を閉じた。
天井のひび割れ模様と引き換えに、まぶたの裏によみがえってきた光景がある。
今からすれば、その日が決定的な分岐点だった。その日を境に別の世界に通じる敷居をまたぎ、同時に、帰る道も失っていた。
ありふれた言葉だ。探そうと思えば、どこにだって見つけられる。雑誌の記事にも、流行歌の歌詞にも、映画やドラマのセリフにも、人々のなにげない日常会話の中にも……。
だが、その言葉の本当の意味を知ることはなかった。
失くしたものは取り戻せない。
それは、嘘偽りなく失われる。
いくぶん気持ちが落ち着いて、真一は静かに目を閉じた。
天井のひび割れ模様と引き換えに、まぶたの裏によみがえってきた光景がある。
今からすれば、その日が決定的な分岐点だった。その日を境に別の世界に通じる敷居をまたぎ、同時に、帰る道も失っていた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。