闇の中
ー/ー 遠くの笑い声が急に迫って、真一は目を覚ました。薄く開けたまぶたの先で、淡い光が天井を染め替えている。赤、青、白、黄色……ランダムに移り変わって、幻灯を眺めているようだ。
笑い声はテレビからだった。どうやらつけっ放しで寝てしまったらしい。顔がちかちかするほうに身をよじり、薄い夏かけ布団の下で楽な姿勢を作って画面を見つめる。
やっている番組で、だいたいの時間がわかる。夜の八時台だろう。若いお笑い芸人が大声でなにかまくし立てている。名前は……ど忘れして出てこない。言葉の弾丸が切れると、男はステージ前面に駆け寄って客席を一喝した。だん、と床を踏み鳴らす音とともに、スタジオ全体が笑いに包まれる。
起き抜けの頭に、この手の番組はうるさすぎる。笑いの波に抗うように、チャンネルを替えた。
と、いきなり男の叫び声。アップにされた中年の役者が、白いボードを激しく叩いている。設問に不具合があったようだ。ただ、そう主張しているのはこの男だけで、ほかの出演者たちは、呆れ顔で男を見つめている。怒りはさらにヒートアップし、男は席を立って司会者に詰め寄ろうとしたが、隣のボックスに座っていた演歌歌手が、いいかげんにしろ、と怒鳴って、どっと笑いが場を洗い流した。
笑いの要素を取り入れたクイズ番組。騒々しさに辟易して、またチャンネルを替える。
歌番組、プロ野球、と続いて、トーク主体のバラエティーのところでリモコンの指が止まったが、べつにその番組が見たいわけではない。ほかに替えるチャンネルがなくなってしまっただけだ。
閉め切った部屋の中、15インチのテレビ画面が、四角い太陽のように輝いている。派手なスパンコールの衣装を着た司会の男と真一は、まったくつながっていない。うつろな瞳の先で、男はぜんまい仕掛けの人形のように勝手に動き、一方的にしゃべり続ける。大げさな身ぶりも、きらびやかな舞台セットも、真一にとっては別世界の出来事だ。
リモコンの先端を画面に向ける。電源ボタンを押すと、ブラウン管でぶつんと音が弾け、騒々しい人間たちは一瞬で消え失せた。暗闇にうっすらと画面の白さが残る。
――ああ、そうだ。
ビデオデッキに、映画のテープが入っていることを思い出した。国道沿いの大型レンタル店でヒマつぶしに借りたものだが、返却期限が今日までだった。店の営業時間は深夜0時まで。バイトに行くついでに返してもいいが、バイト先のコンビニと逆方向になるため、少々面倒くさい。それに、今返しに行かなかったら、また忘れてしまう気がする。ビデオのリモコンを拾い、巻き戻しボタンを押す。デッキのモーター音を確認して、ベッドから起き上がった。
真っ暗でなにも見えないが、目の前には、座卓として使っているこたつがある。天板の上に雑多な物品がひしめき合っているから、つまづいて手なんかついたら大変だ。ベッドのへりに沿って、慎重に足を踏み出す。
三、四歩のところで、グシャッとなにかを踏み潰した。右足のかかとに、ひんやりと粘っこい感触。今朝、コンビニ弁当を食べていた場所だ。容器を片づけ忘れてしまったらしいが、今頃気づいても遅い。
舌打ちして、容器から足を離す。そのまま片足を引きずって歩き、指先が壁に触れたところで、スイッチを探って明かりをつけた。
流しの中は、ふくれ上がったレジ袋でいっぱいだ。隅っこの三角コーナーは、茶殻や柑橘の皮が盛り上がり、小バエまでたかる有様。すえた臭いに顔をしかめつつ、台布巾を水に浸す。足の裏の汚れをふき取ると、着替えを探そうと振り返った。
部屋中に脱ぎ散らかされた衣服、ペットボトルや空き缶が、カーペットに雨後の竹の子のごとく林立し、極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったこたつ――CD、MD、カセットテープ、家庭用ゲーム機、漫画単行本、目覚まし時計、マグカップ、山盛りの灰皿……その他必要とも不要ともつかない品々がひしめき合って、今にも崩れ落ちそうだ。もはや、がらくたの要塞と言っていい。
真一は元々無精な性格ではない。去年までは、ホテルの社員だったくらいだ。散らかった部屋には、人並み以上に居心地の悪さを感じるし、水回りの汚れなども放っておけない。だが、最近は生活全般がルーズに傾き、何事も状況が差し迫ってから腰を上げることが多くなった。このアパートに暮らして六年目になるが、こんなに部屋がすさんだことはない。
寝間着代わりのハーフパンツをジーンズに穿き替えると、弁当の容器を拾って茶色いレジ袋に入れた。流しに新たな袋を受け入れる余地はない。強引に押し込めばなんとかなるかもしれないが、そんなことをするくらいなら、たまった袋を片づけるべきだろう。流しの前に行って、頭上の吊戸棚に手を伸ばす。ここに地域指定のゴミ袋が入っている。
扉を開けてつま先立ちになると、内壁と半透明の防湿ケースの間に外袋が挟まっていた。だが、ビニールの端を引っ張った拍子にケースも一緒に動き、隣のインスタントコーヒーのビンにぶつかった。一部がケースの下敷きになっていたらしい。
ぐらっとビンが揺れる。
――やばっ。
茶色いふたがおじぎする様子が、スローモーションで映った。ディスカウントストアで買った輸入物の大ビンだ。とっさに手を出したもののつかみ損ね、落下の向きが変わる。流しのへりが凄まじい音を立てたと思ったら、次の瞬間、右足の親指にハンマーで叩かれたような衝撃が走った。爪先から脳天まで一気に電流が駆け抜け、呼吸から、瞬きから、あらゆる動作がいっぺんに停止した。
声もなかった。弁慶の立ち往生のごとく、腕を突き出したまま固まってしまった。
おずおずとその場にうずくまり、両手でそっと足の指をおおう。痛みの程度からして、爪が死んでしまったかもしれない。爪は以前もやったことがあり、嫌な思い出がある。
笑い声はテレビからだった。どうやらつけっ放しで寝てしまったらしい。顔がちかちかするほうに身をよじり、薄い夏かけ布団の下で楽な姿勢を作って画面を見つめる。
やっている番組で、だいたいの時間がわかる。夜の八時台だろう。若いお笑い芸人が大声でなにかまくし立てている。名前は……ど忘れして出てこない。言葉の弾丸が切れると、男はステージ前面に駆け寄って客席を一喝した。だん、と床を踏み鳴らす音とともに、スタジオ全体が笑いに包まれる。
起き抜けの頭に、この手の番組はうるさすぎる。笑いの波に抗うように、チャンネルを替えた。
と、いきなり男の叫び声。アップにされた中年の役者が、白いボードを激しく叩いている。設問に不具合があったようだ。ただ、そう主張しているのはこの男だけで、ほかの出演者たちは、呆れ顔で男を見つめている。怒りはさらにヒートアップし、男は席を立って司会者に詰め寄ろうとしたが、隣のボックスに座っていた演歌歌手が、いいかげんにしろ、と怒鳴って、どっと笑いが場を洗い流した。
笑いの要素を取り入れたクイズ番組。騒々しさに辟易して、またチャンネルを替える。
歌番組、プロ野球、と続いて、トーク主体のバラエティーのところでリモコンの指が止まったが、べつにその番組が見たいわけではない。ほかに替えるチャンネルがなくなってしまっただけだ。
閉め切った部屋の中、15インチのテレビ画面が、四角い太陽のように輝いている。派手なスパンコールの衣装を着た司会の男と真一は、まったくつながっていない。うつろな瞳の先で、男はぜんまい仕掛けの人形のように勝手に動き、一方的にしゃべり続ける。大げさな身ぶりも、きらびやかな舞台セットも、真一にとっては別世界の出来事だ。
リモコンの先端を画面に向ける。電源ボタンを押すと、ブラウン管でぶつんと音が弾け、騒々しい人間たちは一瞬で消え失せた。暗闇にうっすらと画面の白さが残る。
――ああ、そうだ。
ビデオデッキに、映画のテープが入っていることを思い出した。国道沿いの大型レンタル店でヒマつぶしに借りたものだが、返却期限が今日までだった。店の営業時間は深夜0時まで。バイトに行くついでに返してもいいが、バイト先のコンビニと逆方向になるため、少々面倒くさい。それに、今返しに行かなかったら、また忘れてしまう気がする。ビデオのリモコンを拾い、巻き戻しボタンを押す。デッキのモーター音を確認して、ベッドから起き上がった。
真っ暗でなにも見えないが、目の前には、座卓として使っているこたつがある。天板の上に雑多な物品がひしめき合っているから、つまづいて手なんかついたら大変だ。ベッドのへりに沿って、慎重に足を踏み出す。
三、四歩のところで、グシャッとなにかを踏み潰した。右足のかかとに、ひんやりと粘っこい感触。今朝、コンビニ弁当を食べていた場所だ。容器を片づけ忘れてしまったらしいが、今頃気づいても遅い。
舌打ちして、容器から足を離す。そのまま片足を引きずって歩き、指先が壁に触れたところで、スイッチを探って明かりをつけた。
流しの中は、ふくれ上がったレジ袋でいっぱいだ。隅っこの三角コーナーは、茶殻や柑橘の皮が盛り上がり、小バエまでたかる有様。すえた臭いに顔をしかめつつ、台布巾を水に浸す。足の裏の汚れをふき取ると、着替えを探そうと振り返った。
部屋中に脱ぎ散らかされた衣服、ペットボトルや空き缶が、カーペットに雨後の竹の子のごとく林立し、極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったこたつ――CD、MD、カセットテープ、家庭用ゲーム機、漫画単行本、目覚まし時計、マグカップ、山盛りの灰皿……その他必要とも不要ともつかない品々がひしめき合って、今にも崩れ落ちそうだ。もはや、がらくたの要塞と言っていい。
真一は元々無精な性格ではない。去年までは、ホテルの社員だったくらいだ。散らかった部屋には、人並み以上に居心地の悪さを感じるし、水回りの汚れなども放っておけない。だが、最近は生活全般がルーズに傾き、何事も状況が差し迫ってから腰を上げることが多くなった。このアパートに暮らして六年目になるが、こんなに部屋がすさんだことはない。
寝間着代わりのハーフパンツをジーンズに穿き替えると、弁当の容器を拾って茶色いレジ袋に入れた。流しに新たな袋を受け入れる余地はない。強引に押し込めばなんとかなるかもしれないが、そんなことをするくらいなら、たまった袋を片づけるべきだろう。流しの前に行って、頭上の吊戸棚に手を伸ばす。ここに地域指定のゴミ袋が入っている。
扉を開けてつま先立ちになると、内壁と半透明の防湿ケースの間に外袋が挟まっていた。だが、ビニールの端を引っ張った拍子にケースも一緒に動き、隣のインスタントコーヒーのビンにぶつかった。一部がケースの下敷きになっていたらしい。
ぐらっとビンが揺れる。
――やばっ。
茶色いふたがおじぎする様子が、スローモーションで映った。ディスカウントストアで買った輸入物の大ビンだ。とっさに手を出したもののつかみ損ね、落下の向きが変わる。流しのへりが凄まじい音を立てたと思ったら、次の瞬間、右足の親指にハンマーで叩かれたような衝撃が走った。爪先から脳天まで一気に電流が駆け抜け、呼吸から、瞬きから、あらゆる動作がいっぺんに停止した。
声もなかった。弁慶の立ち往生のごとく、腕を突き出したまま固まってしまった。
おずおずとその場にうずくまり、両手でそっと足の指をおおう。痛みの程度からして、爪が死んでしまったかもしれない。爪は以前もやったことがあり、嫌な思い出がある。
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