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生活だけが、まだ別れに気づかない

ー/ー



 洗濯ばさみは、人数分の癖を覚えている。

 初夏の朝だった。網戸の向こうで、まだ固まりきらない光が白く揺れている。真希は洗濯機のふたを開け、ぬれたタオルを持ち上げた。洗剤の匂いがふわりと立って、寝起きの喉に少しだけ涼しかった。

 部屋は静かだった。静か、というより、音の数がきちんと減った部屋だった。食器棚の中も、玄関の靴も、居間の椅子も、いつのまにか一人分の形に収まっていた。

 それでも朝の手順だけは、ときどき昔のまま動く。

 洗濯かごを抱えてベランダに出ると、手すりがもう温くなりかけていた。竿には昨日の夜の湿り気がまだ少し残っている。真希はタオルをぱん、とひと振りして広げ、端をそろえて留めた。白い布がふくらみ、朝の風を受けてやわらかく揺れた。

 次に自分のTシャツ。薄いグレーの部屋着。靴下。小さなものから留めていって、少し間を空け、また次を取る。指は迷わない。長く使った道具みたいに、考える前に動いていく。

 ふと、洗濯ばさみを持った手が、何もない空間で止まった。

 竿の右端から三つ目の場所だった。

 そこには何もない。干すものはもう手の中に残っていないし、かごの底にも見当たらない。けれど指先だけが、その位置に布の端が来るのを待っていた。肩幅ぶんの間を取り、袖を軽く引いて、風が通るように少しずらして留める。そんな手つきだけが、形のないまま残っている。

 真希はしばらくそのまま、洗濯ばさみを開いたままの手を見ていた。

 父のシャツだ、と思った。

 そう思ってからも、すぐには胸が詰まるでもなく、涙が出るでもなかった。ただ、ああ、まだそこなんだ、と、少し遅れて気づくだけだった。手の中だけが、生活より少し遅れていた。

 父の服は、もうない。

 最後に残っていた数枚も、四十九日が過ぎたころにまとめて処分した。アイロンの折り目がやけにきれいに残っていたワイシャツ。襟のところだけ少し黄ばんだ白い肌着。何度洗っても取れなかった、整髪料とも煙草ともつかない匂い。真希は袋の口を結ぶとき、何か一枚くらい残しておくべきだったのかもしれないと思ったけれど、そのときはもう、片づけることのほうが先だった。

 片づけないと、生活が前へ動かない気がしたのだ。

 実際、部屋の中は少しずつ軽くなった。

 父のコップは一つ減り、茶の間の座布団も一枚減った。洗面所の歯ブラシ立ては隙間が増えて、薬の袋は棚の奥から消えた。引き出しは軽くなり、冷蔵庫の中身は減り、ゴミの日に出す袋の重さまで変わった。

 冷蔵庫の横には、新しい部屋の窓寸法を書いた小さなメモが、磁石で止まったままになっていた。カーテンの幅だけはもう決まっているのに、この部屋の朝の幅は、まだどこにもたためないでいた。

 真希はかごの中に手を入れた。薄手のブラウスが一枚、丸まったまま残っていた。それを出して、しわを伸ばし、いつものように留める。次にハンカチ。台所ふきん。これで終わりだ。かごの底には、洗濯槽の跡みたいな丸い湿り気がうっすら残っているだけだった。

 なのに、右端から三つ目の場所だけが、まだ空いていた。

 父は背が高かったわけでも、肩幅が広かったわけでもない。けれど干すときの並びには、父のぶんの幅があった。その場所だけが、何年も同じ幅のまま残っている。真希はそれを見て、ようやく、自分がさっきから無意識にそこを空けていたことに気づいた。

 自分のものだけなら、もっと詰めて干せるはずだった。

 風の通り方まで、まだ二人分のままだった。

 ベランダの下で、自転車のブレーキが短く鳴った。どこかの家の玄関が閉まる音がして、遠くで小学生の声が弾んだ。町はもういつもの朝へ進んでいる。真希の部屋だけが取り残されているわけではない。むしろ部屋の中は、少しずつちゃんと先へ行っている。

 残っているのは、手順だけだ。

 手順は厄介だ、と真希は思う。気持ちより先に覚えて、気持ちより長く残る。考える前に、体が昔の人数を数えてしまう。

 父がいたころ、真希は洗濯を手伝うたびに、袖をちゃんと伸ばしなさいとよく言われた。そんなことを言うくせに、父自身は脱いだ靴下をいつも裏返しのまま洗濯かごに入れた。シャツの胸ポケットには、レシートだの飴の包み紙だの、小さな紙切れがよく残っていた。面倒な人だったな、と今なら少し笑えるのに、今朝の手だけは、そんな面倒ごとまで含めてまるごと覚えていたらしい。

 真希は右手の洗濯ばさみに触れた。

 そこは、もう空けておく必要のない幅だった。けれど、指だけがまだそう思っていなかった。

 洗濯ばさみをひとつ開き、何もない場所にそのまま留めた。竿だけをはさんで、布のないまま。

 かちり、と軽い音がした。

 自分でも、それが何のための動作かわからなかった。ただ、その音だけが妙に朝らしくて、真希は少しだけ目を細めた。布を留めるはずの小さな力が、行き場をなくしたまま竿にとどまっている。

 真希は一歩下がった。

 白いタオルが揺れ、グレーのTシャツがわずかにふくらみ、ブラウスの裾が朝の風に持ち上がる。その並びの中に、何も干されていない場所がひとつだけあった。何もないのに、そこだけがいちばん重たそうに見えた。

 父のシャツはない。もう洗うことも、干すこともない。

 それでも、そこだけがまだ、父のいた朝の並び方をしている。

 真希はしばらく、そのまま見ていた。直さなかった。外しもしなかった。

 初夏の風が、乾ききらない布の匂いを部屋のほうへ押し戻してくる。網戸の向こうで、白い光が少しずつ強くなる。朝は何事もなかったように続いていく。その途中にだけ、生活のほうがまだ、別れに気づいていない場所が残っていた。


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 洗濯ばさみは、人数分の癖を覚えている。
 初夏の朝だった。網戸の向こうで、まだ固まりきらない光が白く揺れている。真希は洗濯機のふたを開け、ぬれたタオルを持ち上げた。洗剤の匂いがふわりと立って、寝起きの喉に少しだけ涼しかった。
 部屋は静かだった。静か、というより、音の数がきちんと減った部屋だった。食器棚の中も、玄関の靴も、居間の椅子も、いつのまにか一人分の形に収まっていた。
 それでも朝の手順だけは、ときどき昔のまま動く。
 洗濯かごを抱えてベランダに出ると、手すりがもう温くなりかけていた。竿には昨日の夜の湿り気がまだ少し残っている。真希はタオルをぱん、とひと振りして広げ、端をそろえて留めた。白い布がふくらみ、朝の風を受けてやわらかく揺れた。
 次に自分のTシャツ。薄いグレーの部屋着。靴下。小さなものから留めていって、少し間を空け、また次を取る。指は迷わない。長く使った道具みたいに、考える前に動いていく。
 ふと、洗濯ばさみを持った手が、何もない空間で止まった。
 竿の右端から三つ目の場所だった。
 そこには何もない。干すものはもう手の中に残っていないし、かごの底にも見当たらない。けれど指先だけが、その位置に布の端が来るのを待っていた。肩幅ぶんの間を取り、袖を軽く引いて、風が通るように少しずらして留める。そんな手つきだけが、形のないまま残っている。
 真希はしばらくそのまま、洗濯ばさみを開いたままの手を見ていた。
 父のシャツだ、と思った。
 そう思ってからも、すぐには胸が詰まるでもなく、涙が出るでもなかった。ただ、ああ、まだそこなんだ、と、少し遅れて気づくだけだった。手の中だけが、生活より少し遅れていた。
 父の服は、もうない。
 最後に残っていた数枚も、四十九日が過ぎたころにまとめて処分した。アイロンの折り目がやけにきれいに残っていたワイシャツ。襟のところだけ少し黄ばんだ白い肌着。何度洗っても取れなかった、整髪料とも煙草ともつかない匂い。真希は袋の口を結ぶとき、何か一枚くらい残しておくべきだったのかもしれないと思ったけれど、そのときはもう、片づけることのほうが先だった。
 片づけないと、生活が前へ動かない気がしたのだ。
 実際、部屋の中は少しずつ軽くなった。
 父のコップは一つ減り、茶の間の座布団も一枚減った。洗面所の歯ブラシ立ては隙間が増えて、薬の袋は棚の奥から消えた。引き出しは軽くなり、冷蔵庫の中身は減り、ゴミの日に出す袋の重さまで変わった。
 冷蔵庫の横には、新しい部屋の窓寸法を書いた小さなメモが、磁石で止まったままになっていた。カーテンの幅だけはもう決まっているのに、この部屋の朝の幅は、まだどこにもたためないでいた。
 真希はかごの中に手を入れた。薄手のブラウスが一枚、丸まったまま残っていた。それを出して、しわを伸ばし、いつものように留める。次にハンカチ。台所ふきん。これで終わりだ。かごの底には、洗濯槽の跡みたいな丸い湿り気がうっすら残っているだけだった。
 なのに、右端から三つ目の場所だけが、まだ空いていた。
 父は背が高かったわけでも、肩幅が広かったわけでもない。けれど干すときの並びには、父のぶんの幅があった。その場所だけが、何年も同じ幅のまま残っている。真希はそれを見て、ようやく、自分がさっきから無意識にそこを空けていたことに気づいた。
 自分のものだけなら、もっと詰めて干せるはずだった。
 風の通り方まで、まだ二人分のままだった。
 ベランダの下で、自転車のブレーキが短く鳴った。どこかの家の玄関が閉まる音がして、遠くで小学生の声が弾んだ。町はもういつもの朝へ進んでいる。真希の部屋だけが取り残されているわけではない。むしろ部屋の中は、少しずつちゃんと先へ行っている。
 残っているのは、手順だけだ。
 手順は厄介だ、と真希は思う。気持ちより先に覚えて、気持ちより長く残る。考える前に、体が昔の人数を数えてしまう。
 父がいたころ、真希は洗濯を手伝うたびに、袖をちゃんと伸ばしなさいとよく言われた。そんなことを言うくせに、父自身は脱いだ靴下をいつも裏返しのまま洗濯かごに入れた。シャツの胸ポケットには、レシートだの飴の包み紙だの、小さな紙切れがよく残っていた。面倒な人だったな、と今なら少し笑えるのに、今朝の手だけは、そんな面倒ごとまで含めてまるごと覚えていたらしい。
 真希は右手の洗濯ばさみに触れた。
 そこは、もう空けておく必要のない幅だった。けれど、指だけがまだそう思っていなかった。
 洗濯ばさみをひとつ開き、何もない場所にそのまま留めた。竿だけをはさんで、布のないまま。
 かちり、と軽い音がした。
 自分でも、それが何のための動作かわからなかった。ただ、その音だけが妙に朝らしくて、真希は少しだけ目を細めた。布を留めるはずの小さな力が、行き場をなくしたまま竿にとどまっている。
 真希は一歩下がった。
 白いタオルが揺れ、グレーのTシャツがわずかにふくらみ、ブラウスの裾が朝の風に持ち上がる。その並びの中に、何も干されていない場所がひとつだけあった。何もないのに、そこだけがいちばん重たそうに見えた。
 父のシャツはない。もう洗うことも、干すこともない。
 それでも、そこだけがまだ、父のいた朝の並び方をしている。
 真希はしばらく、そのまま見ていた。直さなかった。外しもしなかった。
 初夏の風が、乾ききらない布の匂いを部屋のほうへ押し戻してくる。網戸の向こうで、白い光が少しずつ強くなる。朝は何事もなかったように続いていく。その途中にだけ、生活のほうがまだ、別れに気づいていない場所が残っていた。