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5.喧嘩

ー/ー



 レグルスは姫の前に膝をつく。

「悪い魔物にやられたところが痛むのですね。私が早く助けに来られなかったばっかりに。これからは、この私があなたの腕になりましょう。足になりましょう。あなたの望むものすべてを―― すべてを。すべてを手に入れてごらんにいれましょう。ですからどうか、私の妻になってはいただけませんか」

 話が本来の流れに戻った。姫がレグルスの顔をじっと見つめ、やがて頷く。

「ええ、レグルス。あなたの妻になります」

 幕が下りる。拍手が聞こえる。
 一度下りた幕がもう一度上がって、演者たちが少ない観客に向かって礼をする。ケイトが手招きしてくれたが、ミルドレッドは遠慮して袖からケイトたちを見ていた。


「本当にありがとう。助かったわ」

 心からといった様子で礼を言うケイトにミルドレッドは「こちらこそ」と微笑んだ。

「特に最後は、失敗したって思ったのに。あんなふうに乗り切るなんてすごくびっくりしたし…… 感動したわ」

 ハンスの方を振り返って言うと、彼は茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せる。

「舞台の上じゃ、間違えたって何したって、終わりじゃないのさ。良くも悪くもな」

 翌朝、ミルドレッドたちは今度こそ町を発った。





「ミルドレッド様だろう、そりゃあ」

 訓練場の片隅で、若い騎士が剣の手入れをしながら呟いた。

「確かに陛下こそ長子じゃあないが、その前まではずっと長子が継いでたんだぜ。どっかでもとに戻しとかないと、国が荒れるだろう」
「それはそうだがなあ」

 もう一人がいいながらあごに手を当てる。

「でも、素質はベンジャミン様のがずっとおありだぜ。ミルドレッド様はろくに勉強もなさらずにあっちこっちふらふらして―― そら、今だって礼拝に行くといやあ聞こえはいいが、肝心のお目当ては……」

 と、ふいに聞こえた足音に、騎士たちは声を止めた。そしてそこへ現れた男を見るや、深々と頭を下げる。

「ご苦労」

 男が言うと、騎士二人は「はっ」と短く言って居住まいを正した。

「団長殿も、お疲れ様であります」
「うむ」

 ホッジズ団長は二人をじっくり見ると再び口を開いた。

「陛下がまだお若いうちからそのような話をするものではない。不謹慎であるぞ」
「申し訳ありません」
「以後そのような話は慎むよう――」
「まあ、よいではないか」

 団長の厳しい声をさえぎるように、若い―― というよりは幼く、涼やかな声が聞こえ、三人は一斉に振り返った。
 穏和というよりは気の弱そうな顔立ちは父王よりも実母である王妃に似て、しかしどこか近寄りがたい雰囲気があるのは元来の内気な性格が災いしてのことだろうか。

「二人とも、この国を案じてくれていたのだよな」

 ありがとうとベンジャミンが口にすると、騎士らは大層かしこまった様子でばつが悪そうにうつむいた。



「―― 早く大人になりたい」

 ベンジャミンは訓練場から出るなり、ホッジズに向かって呟いた。

「僕は人望もないし、人前に出るのも嫌いで…… 民たちが隠れて言うように、僕は王には向いていないし、なるべきじゃないのだと思う」
「それは」

 ホッジズがうつむきながら歩く王子の後ろでためらいがちに言う。

「陛下がお決めになることです」
「もちろんだとも」

 王子はきっぱりと言った。

「だから早く成人して、一刻も早く父が僕を楽にしてくださることを望むばかりだ。姉にもしかしたら嫌われているかもだなんて思いながら過ごすのは、もういやだ」



 大神殿には、多くの人々が集っていた。主日の礼拝に参加できなかった代わりに、ミルドレッドは月に二度、大神殿の広場で行われる炊き出しに顔を出していた。城下でもミルドレッドは何度か神殿主催のものに顔を出したことがある。人気取りだと言われても、気休めだと言われても、ミルドレッドは顔を出して手伝うのをやめられなかった。

「お腹がすく人も時間も、少ないほうがいいものね」
「まったくです」

 ユージーンにしては珍しい心情のこもった一言に、ミルドレッドは思わず噴き出した。
 ミルドレッドは昔、ユージーンと一緒に飢え死にしかけたことがある。飢え死には言い過ぎだが、四歳のころ、城に来たばかりの時に、母が亡くなったこと、ふいに住んでいたところから連れ出されたのが理解できずに城を飛び出した。家に帰りたいとごねるミルドレッドをまだ幼かったユージーンが必死になだめてくれたがミルドレッドはなかなか城に帰らず―― とはいってもたった四つの子どもが行く場所なんて限られているし、実際城下の橋の下に半日ほどいたわけだが―― 腹が減ってどうしようもなかったのをよく覚えている。幼かったがゆえに帰り道がわからず途方に暮れた。当然、夕方前には城の者たちが見つけ出してくれたのだが、当時は誰にも見つけ出してもらえなかったらという不安でいっぱいだったのである。
 炊き出しを終えると、ミルドレッドは大神殿の中で与えられた部屋に戻った。

「明後日の今ごろはもう城に向かっているわね」

 ため息交じりに言うと、ユージーンが律儀にそうですねと返してきた。

「明日の観劇は楽しみではないのですか?」
「そりゃ楽しみよ」

 あたりまえじゃないとミルドレッドは言った。

「でもね、明後日にはもう戻るんだと思うと、憂鬱だわ。だって私、ベンと比べられるためにあそこにいるんじゃないもの。早くお父様がどっちが王様だった言ってくださればいいけれど、そうもいかないでしょう。でも、ベンの方が王に向いてるのは確かなんだから、あまり待たせないでほしいわ。みんなわかってることだもの。私は王位になんて興味はないし、ただ……」
「姫様」

 ベンに嫌われてさえいなければそれでいい、そう言おうとしたミルドレッドを、ユージーンが真剣な声でさえぎった。

「…… 姫様。それは、それはあまりにも勝手です。ベンジャミン様は……」

 ユージーンはそこで口ごもると、すみませんと口にして部屋を出て行った。
 勝手? 何が?
 ミルドレッドは困惑した。それから、背中を妙な汗がつたう。

(ユージーンを怒らせたかもしれない)

 いや、怒らせたことなら今まで何回もある。でも、今のは今までのそれとまったく違って、もしかしたら嫌われたとすら思わされた。

(嫌われる? 私が? ユージーンに?)

 考えたこともなかった。これからずっと、ずっとそばにいてくれるものだと思っていたし、ユージーンのいない生活なんて想像すらしなかった。
 突然襲ってきたのは、例えようのない恐怖だった。ユージーンが隣からいなくなって、それでも変わりなく何事もなく過ぎていってしまう日常や歳月を思うと、心底ぞっとした。



 朝の礼拝も身が入らず、ぼんやりしたまま参加した。ユージーンは思いのほかいつも通りで、それがかえって怖かった。

『勝手です』

 昨日のユージーンの言葉がよみがえってくる。本来の目的であった主日の礼拝に参加できなかったぶんもせめて真面目に振る舞っておかねばと朝の礼拝が終わってからもしばらく礼拝堂にいたが、一人でただ祈りを捧げているとどうしても考え事が多くなってしまっていけない。部屋に戻った方がまだ侍従に話しかけることができるだけましである。―― ユージーンには、まだ気まずくて話しかけることができないが。

「お嬢さん」

 礼拝堂から立ち去ろうとしたその時、後ろからかけられた声にミルドレッドは振り向いた。

「落とされましたよ」

 目の前には額に幅広の布を巻きつけた男が立っていた。背はユージーンと同じくらいで、布のせいで表情はよくわからない。見るからに怪しい男だった。

「…… どうもありがとう」

 受け取った瞬間、ミルドレッドはハンカチの間に紙切れのようなものが挟まっているのに気がついた。男を見ると、彼はにやりと口元だけで笑ってみせた。
 いつもならミルドレッドの反応にユージーンがすぐさま気づくはずだった。でも今日は違った。昨日の一件から、ユージーンはミルドレッドから物理的に距離を取っていた。そのせいで、ユージーンは姫の手中にあるものの存在にも気がつかない。
 ミルドレッドは部屋に戻ってから聖書を読むふりをしてハンカチを開いた。普段であれば近くに立っているはずのユージーンは、今はいない。

『東殿の裏、杏の木の下で待つ―― フラン』

 あの怪しい男はフランというのか。ミルドレッドは背後に控える侍女の様子をそっとうかがった。観劇の時間までどうせ暇だから行くのはいいが、無計画に出て行っても従者たちに見つかっておとがめを受ける羽目になる。ミルドレッドは何気なく机に置かれた聖書を見て「あら?」と声を上げた。

「いかがされましたか?」

 尋ねてくる侍女にミルドレッドはたいへんに困った顔をしてみせる。

「この聖書、古いせいかしら、落丁があるわ」
「すぐに替えてまいります」

 助かるわ、と伝えて、彼女がいなくなったのを確認してから部屋の外の様子をしっかりとうかがう。しばらくして、窓からそっと抜け出す。ミルドレッドにあてがわれていたのは、主に王族が使うための北殿だから少し歩くことになるが……。待ち合わせに失敗する可能性にはらはらしながら歩いていたミルドレッドは、目的の人物の姿を見つけるや心底ほっとした。

「やあ、お嬢さん。まさか来てくれるとはね」



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「悪い魔物にやられたところが痛むのですね。私が早く助けに来られなかったばっかりに。これからは、この私があなたの腕になりましょう。足になりましょう。あなたの望むものすべてを―― すべてを。すべてを手に入れてごらんにいれましょう。ですからどうか、私の妻になってはいただけませんか」
 話が本来の流れに戻った。姫がレグルスの顔をじっと見つめ、やがて頷く。
「ええ、レグルス。あなたの妻になります」
 幕が下りる。拍手が聞こえる。
 一度下りた幕がもう一度上がって、演者たちが少ない観客に向かって礼をする。ケイトが手招きしてくれたが、ミルドレッドは遠慮して袖からケイトたちを見ていた。
「本当にありがとう。助かったわ」
 心からといった様子で礼を言うケイトにミルドレッドは「こちらこそ」と微笑んだ。
「特に最後は、失敗したって思ったのに。あんなふうに乗り切るなんてすごくびっくりしたし…… 感動したわ」
 ハンスの方を振り返って言うと、彼は茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せる。
「舞台の上じゃ、間違えたって何したって、終わりじゃないのさ。良くも悪くもな」
 翌朝、ミルドレッドたちは今度こそ町を発った。
「ミルドレッド様だろう、そりゃあ」
 訓練場の片隅で、若い騎士が剣の手入れをしながら呟いた。
「確かに陛下こそ長子じゃあないが、その前まではずっと長子が継いでたんだぜ。どっかでもとに戻しとかないと、国が荒れるだろう」
「それはそうだがなあ」
 もう一人がいいながらあごに手を当てる。
「でも、素質はベンジャミン様のがずっとおありだぜ。ミルドレッド様はろくに勉強もなさらずにあっちこっちふらふらして―― そら、今だって礼拝に行くといやあ聞こえはいいが、肝心のお目当ては……」
 と、ふいに聞こえた足音に、騎士たちは声を止めた。そしてそこへ現れた男を見るや、深々と頭を下げる。
「ご苦労」
 男が言うと、騎士二人は「はっ」と短く言って居住まいを正した。
「団長殿も、お疲れ様であります」
「うむ」
 ホッジズ団長は二人をじっくり見ると再び口を開いた。
「陛下がまだお若いうちからそのような話をするものではない。不謹慎であるぞ」
「申し訳ありません」
「以後そのような話は慎むよう――」
「まあ、よいではないか」
 団長の厳しい声をさえぎるように、若い―― というよりは幼く、涼やかな声が聞こえ、三人は一斉に振り返った。
 穏和というよりは気の弱そうな顔立ちは父王よりも実母である王妃に似て、しかしどこか近寄りがたい雰囲気があるのは元来の内気な性格が災いしてのことだろうか。
「二人とも、この国を案じてくれていたのだよな」
 ありがとうとベンジャミンが口にすると、騎士らは大層かしこまった様子でばつが悪そうにうつむいた。
「―― 早く大人になりたい」
 ベンジャミンは訓練場から出るなり、ホッジズに向かって呟いた。
「僕は人望もないし、人前に出るのも嫌いで…… 民たちが隠れて言うように、僕は王には向いていないし、なるべきじゃないのだと思う」
「それは」
 ホッジズがうつむきながら歩く王子の後ろでためらいがちに言う。
「陛下がお決めになることです」
「もちろんだとも」
 王子はきっぱりと言った。
「だから早く成人して、一刻も早く父が僕を楽にしてくださることを望むばかりだ。姉にもしかしたら嫌われているかもだなんて思いながら過ごすのは、もういやだ」
 大神殿には、多くの人々が集っていた。主日の礼拝に参加できなかった代わりに、ミルドレッドは月に二度、大神殿の広場で行われる炊き出しに顔を出していた。城下でもミルドレッドは何度か神殿主催のものに顔を出したことがある。人気取りだと言われても、気休めだと言われても、ミルドレッドは顔を出して手伝うのをやめられなかった。
「お腹がすく人も時間も、少ないほうがいいものね」
「まったくです」
 ユージーンにしては珍しい心情のこもった一言に、ミルドレッドは思わず噴き出した。
 ミルドレッドは昔、ユージーンと一緒に飢え死にしかけたことがある。飢え死には言い過ぎだが、四歳のころ、城に来たばかりの時に、母が亡くなったこと、ふいに住んでいたところから連れ出されたのが理解できずに城を飛び出した。家に帰りたいとごねるミルドレッドをまだ幼かったユージーンが必死になだめてくれたがミルドレッドはなかなか城に帰らず―― とはいってもたった四つの子どもが行く場所なんて限られているし、実際城下の橋の下に半日ほどいたわけだが―― 腹が減ってどうしようもなかったのをよく覚えている。幼かったがゆえに帰り道がわからず途方に暮れた。当然、夕方前には城の者たちが見つけ出してくれたのだが、当時は誰にも見つけ出してもらえなかったらという不安でいっぱいだったのである。
 炊き出しを終えると、ミルドレッドは大神殿の中で与えられた部屋に戻った。
「明後日の今ごろはもう城に向かっているわね」
 ため息交じりに言うと、ユージーンが律儀にそうですねと返してきた。
「明日の観劇は楽しみではないのですか?」
「そりゃ楽しみよ」
 あたりまえじゃないとミルドレッドは言った。
「でもね、明後日にはもう戻るんだと思うと、憂鬱だわ。だって私、ベンと比べられるためにあそこにいるんじゃないもの。早くお父様がどっちが王様だった言ってくださればいいけれど、そうもいかないでしょう。でも、ベンの方が王に向いてるのは確かなんだから、あまり待たせないでほしいわ。みんなわかってることだもの。私は王位になんて興味はないし、ただ……」
「姫様」
 ベンに嫌われてさえいなければそれでいい、そう言おうとしたミルドレッドを、ユージーンが真剣な声でさえぎった。
「…… 姫様。それは、それはあまりにも勝手です。ベンジャミン様は……」
 ユージーンはそこで口ごもると、すみませんと口にして部屋を出て行った。
 勝手? 何が?
 ミルドレッドは困惑した。それから、背中を妙な汗がつたう。
(ユージーンを怒らせたかもしれない)
 いや、怒らせたことなら今まで何回もある。でも、今のは今までのそれとまったく違って、もしかしたら嫌われたとすら思わされた。
(嫌われる? 私が? ユージーンに?)
 考えたこともなかった。これからずっと、ずっとそばにいてくれるものだと思っていたし、ユージーンのいない生活なんて想像すらしなかった。
 突然襲ってきたのは、例えようのない恐怖だった。ユージーンが隣からいなくなって、それでも変わりなく何事もなく過ぎていってしまう日常や歳月を思うと、心底ぞっとした。
 朝の礼拝も身が入らず、ぼんやりしたまま参加した。ユージーンは思いのほかいつも通りで、それがかえって怖かった。
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 昨日のユージーンの言葉がよみがえってくる。本来の目的であった主日の礼拝に参加できなかったぶんもせめて真面目に振る舞っておかねばと朝の礼拝が終わってからもしばらく礼拝堂にいたが、一人でただ祈りを捧げているとどうしても考え事が多くなってしまっていけない。部屋に戻った方がまだ侍従に話しかけることができるだけましである。―― ユージーンには、まだ気まずくて話しかけることができないが。
「お嬢さん」
 礼拝堂から立ち去ろうとしたその時、後ろからかけられた声にミルドレッドは振り向いた。
「落とされましたよ」
 目の前には額に幅広の布を巻きつけた男が立っていた。背はユージーンと同じくらいで、布のせいで表情はよくわからない。見るからに怪しい男だった。
「…… どうもありがとう」
 受け取った瞬間、ミルドレッドはハンカチの間に紙切れのようなものが挟まっているのに気がついた。男を見ると、彼はにやりと口元だけで笑ってみせた。
 いつもならミルドレッドの反応にユージーンがすぐさま気づくはずだった。でも今日は違った。昨日の一件から、ユージーンはミルドレッドから物理的に距離を取っていた。そのせいで、ユージーンは姫の手中にあるものの存在にも気がつかない。
 ミルドレッドは部屋に戻ってから聖書を読むふりをしてハンカチを開いた。普段であれば近くに立っているはずのユージーンは、今はいない。
『東殿の裏、杏の木の下で待つ―― フラン』
 あの怪しい男はフランというのか。ミルドレッドは背後に控える侍女の様子をそっとうかがった。観劇の時間までどうせ暇だから行くのはいいが、無計画に出て行っても従者たちに見つかっておとがめを受ける羽目になる。ミルドレッドは何気なく机に置かれた聖書を見て「あら?」と声を上げた。
「いかがされましたか?」
 尋ねてくる侍女にミルドレッドはたいへんに困った顔をしてみせる。
「この聖書、古いせいかしら、落丁があるわ」
「すぐに替えてまいります」
 助かるわ、と伝えて、彼女がいなくなったのを確認してから部屋の外の様子をしっかりとうかがう。しばらくして、窓からそっと抜け出す。ミルドレッドにあてがわれていたのは、主に王族が使うための北殿だから少し歩くことになるが……。待ち合わせに失敗する可能性にはらはらしながら歩いていたミルドレッドは、目的の人物の姿を見つけるや心底ほっとした。
「やあ、お嬢さん。まさか来てくれるとはね」