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桜吹雪の「リセットボタン」 後編

ー/ー



 背後から響いたのは、硬く、乾いた声だった。

 あり得ない。この静止した世界で動ける人間など、自分以外にいるはずがない。


 振り返った先に立っていたのは、一人の男だった。



 泥を被ったような、くたびれたリクルートスーツ。手には五年前の入社式の案内状を握りしめている。その男の顔を見て、凍りついた。

 そこにいたのは、五年前、まだ「リセットボタン」を知る前の自分自身だった。


「……誰だ、お前は」


「お前が捨ててきた『時間』だよ」

 男の背後から、さらなる影が滲み出す。一昨年の自分、去年の自分。皆、一様にやつれ、瞳からは生気が失われている。彼らの足元には、これまで佐原が盗んできたはずの紙幣や、汚してきた他人の持ち物が、どす黒い塵となって積み上がっていた。



「一秒を盗むたび、お前の『現在』は薄まり、現実から剥がれ落ちていった。気づかなかったか? お前がリセットしていたのは世界じゃない。自分自身の未来だ」


 再び突風が吹き抜ける。だが、いつまで待っても音は戻らない。

 人々は動かず、川の流れも、鳥の羽ばたきも、永遠の沈黙に封じ込められている。

「さあ、新しい生活だ。ずっとここで、終わらない春を繰り返せ」


 過去の自分たちが、声もなく笑った。その姿が、舞い散る桜吹雪の中に溶け、透明になっていく。

 佐原は必死に声を上げようとしたが、口からは、数枚の花びらがこぼれ落ちるだけだった。

 ふと視線を落とせば、自分の指先からも色彩が失われ、灰色に変色し始めている。

 頭上では、花びらだけが、重力を無視していつまでも、いつまでも舞い続けていた。


 そこにはもう、春を慈しむ者も、悪徳に酔う者もいない。

 ただ、白く染まった無音の中で、一人の男が永遠の一秒に閉じ込められ、静かに風化していくのを待つばかりだった。



ー了ー






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 背後から響いたのは、硬く、乾いた声だった。
 あり得ない。この静止した世界で動ける人間など、自分以外にいるはずがない。
 振り返った先に立っていたのは、一人の男だった。
 泥を被ったような、くたびれたリクルートスーツ。手には五年前の入社式の案内状を握りしめている。その男の顔を見て、凍りついた。
 そこにいたのは、五年前、まだ「リセットボタン」を知る前の自分自身だった。
「……誰だ、お前は」
「お前が捨ててきた『時間』だよ」
 男の背後から、さらなる影が滲み出す。一昨年の自分、去年の自分。皆、一様にやつれ、瞳からは生気が失われている。彼らの足元には、これまで佐原が盗んできたはずの紙幣や、汚してきた他人の持ち物が、どす黒い塵となって積み上がっていた。
「一秒を盗むたび、お前の『現在』は薄まり、現実から剥がれ落ちていった。気づかなかったか? お前がリセットしていたのは世界じゃない。自分自身の未来だ」
 再び突風が吹き抜ける。だが、いつまで待っても音は戻らない。
 人々は動かず、川の流れも、鳥の羽ばたきも、永遠の沈黙に封じ込められている。
「さあ、新しい生活だ。ずっとここで、終わらない春を繰り返せ」
 過去の自分たちが、声もなく笑った。その姿が、舞い散る桜吹雪の中に溶け、透明になっていく。
 佐原は必死に声を上げようとしたが、口からは、数枚の花びらがこぼれ落ちるだけだった。
 ふと視線を落とせば、自分の指先からも色彩が失われ、灰色に変色し始めている。
 頭上では、花びらだけが、重力を無視していつまでも、いつまでも舞い続けていた。
 そこにはもう、春を慈しむ者も、悪徳に酔う者もいない。
 ただ、白く染まった無音の中で、一人の男が永遠の一秒に閉じ込められ、静かに風化していくのを待つばかりだった。
ー了ー