桜吹雪の「リセットボタン」 前編
ー/ー 新生活の予感に浮き足立つ四月。川沿いの並木道は、満開の桜の薄紅に塗りつぶされていた。
佐原は、その景色を冷めた目で見つめている。街を流れる空気は、真新しいスーツの匂いと、宴会の喧騒。それらが混じり合い、どこか現実味を欠いた層となって漂っていた。
彼は知っている。風が強く吹き抜け、視界が白に近い桜吹雪に支配されるその瞬間、世界の歯車がわずか一秒だけ「噛み合わせ」を失うことを。
きっかけは五年前の入社式だった。突風に舞った花びらが触れる直前、世界のすべてが彫像のように固まった。
人々の笑い声は真空に吸い込まれ、流れる川のせせらぎさえも、ぴたりと静止した。その一秒間、佐原だけが自由だった。
以来、彼はそれを「リセットボタン」として愛用するようになった。
気に食わない同僚の鞄を蹴り飛ばし、すれ違いざまに赤の他人の財布から紙幣を一枚引き抜く。
花びらが舞い落ちる一秒の間に。世界が呼吸を再開したとき、彼は何食わぬ顔で春の陽光を浴びている。
誰にも気づかれない、報復もされない小さな悪徳。それは彼にとって、退屈で不条理な社会を支配しているという、歪んだ満足。
今年もまた、強い風が土手を駆け上がった。
視界が千切れた花弁で埋め尽くされる。淡いピンクの吹雪が、光を乱反射させて世界を塗りつぶした。
(さあ、止まれ)
予感通り、すべての音が消滅した。
隣を歩く親子連れの笑い顔が固定され、風に煽られた少女の髪が空中で不自然な弧を描いて止まる。佐原は手慣れた手つきで、近くのベンチに置かれた無防備な鞄へ手を伸ばそうとした。
「――その一秒、もうお前のものじゃないぞ」
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