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(一)

ー/ー



 雪原に溶け込むような白い着物に縦筋の細帯を締めた男が獣のように駆けるたび、范陽の笠からさがる緋の房が鮮やかに揺れる。
 舞い上がる雪煙の向こうで青と白の縞の脚絆がせわしなく蠢き、鹿皮の靴下と牛皮の長靴をまとった足元に薄暗く蛇行する軌跡を残す。
 目尻の下がった瞳の片方は大きな青痣に覆われ、どろりと鈍い光を放っている。
 うっすらと顎髭を生やしたその顔が、男が自ら笠をはねのけたとたんに眼前に迫る。
 頭巾に包まれた頭から水滴を振り落とし、男が低い声で叫ぶ。
 「貴様、俺の荷物と金をどこへやった……!」
 だが林冲が、それに答えることはない。
 一喝とともに男の抜いた刀が雪を照り返して輝き、男の殺気とともにその光に身を貫かれそうになる、その感覚だけで、林冲には十分だった。
 目を剥き、獣のごとく全身の毛を逆立て、林冲もまた刀を抜き放ち男に切りかかる。
 いつの間にか太陽は中天に昇り、二つの獣が荒立てる熱い吐息が雪原を溶かしてゆく。
 硬く冷たい音が谷間に玲瓏と響きわたり、男たちが跳躍し疾走し刀を競り合わせるたびに、氷の割れる音が瀑布のごとく耳を打つ。
 林冲が打ち込めば男がその重い太刀筋をぎりぎりと受け止め、男が隙をついて横薙ぎに刀を払えば林冲が長身に似合わぬ素早さで身を翻して寒風を巻き上げる。
 今、林冲の脳裏に投名状の三文字はなく、男の脳裏から己の荷物が奪われた事実は消え去った。
 ただ互いの太刀筋を読み、互いの刀を合わせ、互いの呼吸を乱すことだけを考えていた。
 骨まで凍てついていたはずの体は熱く、額から零れ落ちた汗が首筋を伝う。
 そしてどちらからともなく不可思議な笑みが零れ、もう何十合目とも知れぬ渡り合いに踏み出そうとした、その刹那、
 「待たれよ、ご両人!」
 尊大なしゃがれ声が、頭上から獣たちに降り注いだ。
 「……っ」
 青痣の男が小さく舌打ちをしたのが聞こえ、林冲は刀を収めるとぱっと身を引いた。まさに冷や水を浴びたとはこのことである。
 山の方を仰ぎ見れば、小高い渓谷の上に、わざわざ寨を降り船を出してまで林冲たちの様子を見に来たらしい王倫と宋万、杜遷、そして数十人の手下たちの姿があった。
 「いやあ、お二人とも、実に見事な太刀筋。この王倫、神出鬼没のお二人の姿にしばし見入ってしまいました。こちらは我らの兄弟、豹子頭の林冲と申すが、そちらの青痣の好漢殿は、いったいどなたですか? ご尊名をお聞かせ願いたい」
 「林冲……?」
 己の名を聞いた途端、青痣の男の暗く濁っていた目が、まるで一筋の陽光が差し込んだかのように、ぱっと明るく輝く。
 陰気と殺気だけだった顔に雪解けの如く浮かんだ小さな笑顔を見た途端、林冲は、この青痣の青年の正体に思い至った。
 「俺は五侯楊令公の子孫で代々武門の家柄、姓は楊、名は志と言うものだ」
 楊志(ようし)――その名を、林冲は知っていた。直に言葉を交わしたことはなかったが、その勇名を、禁軍のうちで知らぬものはいなかったはずだ。
 いつもどこか沈んだように静かな男だが、御前試合などで刀を振るうときだけは、無邪気な子どものように笑っていた姿を思い出す。
 「今は関西で流浪しているが、昔武挙に受かったので、一応、殿司制使(でんしせいし)を務めている。皇帝陛下が万歳山を築かれると言うんで、殿司制使の同僚たち十人と一緒に太湖から花石綱を護送して都に上納するよう命じられたんだが、運悪く黄河で強風にあたり、船が転覆してしまってな……石はすべて水の底、というわけだ。こうなっては都に帰るにも具合が悪く、他所に身を隠していたんだが、このたび恩赦の知らせがあったので、東京へ帰って枢密院に挨拶をし、再び身を立てようというその道すがら、あんたらにすっかり荷物を奪われてしまった。まったく、こうなるんなら、百姓なんか雇うんじゃなかった……。まあいい、あの荷の中には、枢密院への挨拶替わりの金品が入っているんでな、さっさと返していただきたい」
 さきほど林冲と対峙したときの覇気はどこへやら、口をへの字に曲げ、くぐもった低い声で滔々と事情を話す楊志の様子に、王倫は愉快げに眉を跳ね上げた。
 「なるほど、もしや貴殿は、青面獣(せいめんじゅう)という二つ名の御仁ではないか?」
 「そうだ」
 「やあやあ、かの青面獣の楊制使と、このようなところで出会うことになろうとは! 楊制使、そういうことなら、ぜひとも我が寨においでください。たいした酒ではないが、一献さしあげ、その後荷物をお返ししよう」
 「心遣いは嬉しいが、俺とわかったなら、すぐに荷物を返してくれ。そのほうがありがたい」
 うんざりとした様子を隠しもせず早口に返す楊志にしかし、王倫も引きさがらなかった。
 「制使殿、私は三年前、東京へ試験を受けに出向いたときから、あなたの勇名を耳にし、いつかお目にかかれたらと思っていたのですよ。今日こうして幸運にもあなたと知り合うことができたというのに、このままご挨拶もせずお別れするわけには参りません。手狭な山寨ではありますが、どうか、酒の一杯だけでも注がせてください。もちろん荷物はすぐにお返しします、他意はありませんからな」
 楊志の垂れた目尻がきゅ、とすぼまり、細い眉の間に深い皺が刻まれ、しばし沈黙が下りる。
 「……そこまで言うなら、しかたない、手短に頼む」
 これ以上粘っても結果は同じと見たのであろう、楊志は軽くため息をつくと、笠をかぶり、刀を背負いなおして林冲のほうへと小走りに歩み寄ってきた。
 「林冲殿、あなたのご高名はかねがね聞き及んでいました。東京にいたころはあんなに近くにいたのに縁がなく、言葉を交わす機会がなかったが、まさかこんなところでお会いできるとは。いったいなぜ、こんな辺鄙な場所にいる? なぜ、あのような男の言うことを聞いているんだ?」
 「こちらこそ、文武に長けた貴殿の名を聞きおよび、一度は手合わせをしてみたいと願っていたところ、今日は思いもかけずそれが叶いました。いろいろとあって、今はこうして山賊まがいのことをしているが……詳しい話はあとにしよう。あの男を怒らせると後が面倒、さっさと寨に参ったほうがいい」
 林冲と楊志は互いの武を讃えあって肩を叩き、朱貴の呼んだ船で王倫たちとともに聚義庁へと戻った。


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 雪原に溶け込むような白い着物に縦筋の細帯を締めた男が獣のように駆けるたび、范陽の笠からさがる緋の房が鮮やかに揺れる。 舞い上がる雪煙の向こうで青と白の縞の脚絆がせわしなく蠢き、鹿皮の靴下と牛皮の長靴をまとった足元に薄暗く蛇行する軌跡を残す。
 目尻の下がった瞳の片方は大きな青痣に覆われ、どろりと鈍い光を放っている。
 うっすらと顎髭を生やしたその顔が、男が自ら笠をはねのけたとたんに眼前に迫る。
 頭巾に包まれた頭から水滴を振り落とし、男が低い声で叫ぶ。
 「貴様、俺の荷物と金をどこへやった……!」
 だが林冲が、それに答えることはない。
 一喝とともに男の抜いた刀が雪を照り返して輝き、男の殺気とともにその光に身を貫かれそうになる、その感覚だけで、林冲には十分だった。
 目を剥き、獣のごとく全身の毛を逆立て、林冲もまた刀を抜き放ち男に切りかかる。
 いつの間にか太陽は中天に昇り、二つの獣が荒立てる熱い吐息が雪原を溶かしてゆく。
 硬く冷たい音が谷間に玲瓏と響きわたり、男たちが跳躍し疾走し刀を競り合わせるたびに、氷の割れる音が瀑布のごとく耳を打つ。
 林冲が打ち込めば男がその重い太刀筋をぎりぎりと受け止め、男が隙をついて横薙ぎに刀を払えば林冲が長身に似合わぬ素早さで身を翻して寒風を巻き上げる。
 今、林冲の脳裏に投名状の三文字はなく、男の脳裏から己の荷物が奪われた事実は消え去った。
 ただ互いの太刀筋を読み、互いの刀を合わせ、互いの呼吸を乱すことだけを考えていた。
 骨まで凍てついていたはずの体は熱く、額から零れ落ちた汗が首筋を伝う。
 そしてどちらからともなく不可思議な笑みが零れ、もう何十合目とも知れぬ渡り合いに踏み出そうとした、その刹那、
 「待たれよ、ご両人!」
 尊大なしゃがれ声が、頭上から獣たちに降り注いだ。
 「……っ」
 青痣の男が小さく舌打ちをしたのが聞こえ、林冲は刀を収めるとぱっと身を引いた。まさに冷や水を浴びたとはこのことである。
 山の方を仰ぎ見れば、小高い渓谷の上に、わざわざ寨を降り船を出してまで林冲たちの様子を見に来たらしい王倫と宋万、杜遷、そして数十人の手下たちの姿があった。
 「いやあ、お二人とも、実に見事な太刀筋。この王倫、神出鬼没のお二人の姿にしばし見入ってしまいました。こちらは我らの兄弟、豹子頭の林冲と申すが、そちらの青痣の好漢殿は、いったいどなたですか? ご尊名をお聞かせ願いたい」
 「林冲……?」
 己の名を聞いた途端、青痣の男の暗く濁っていた目が、まるで一筋の陽光が差し込んだかのように、ぱっと明るく輝く。
 陰気と殺気だけだった顔に雪解けの如く浮かんだ小さな笑顔を見た途端、林冲は、この青痣の青年の正体に思い至った。
 「俺は五侯楊令公の子孫で代々武門の家柄、姓は楊、名は志と言うものだ」
 |楊志《ようし》――その名を、林冲は知っていた。直に言葉を交わしたことはなかったが、その勇名を、禁軍のうちで知らぬものはいなかったはずだ。
 いつもどこか沈んだように静かな男だが、御前試合などで刀を振るうときだけは、無邪気な子どものように笑っていた姿を思い出す。
 「今は関西で流浪しているが、昔武挙に受かったので、一応、|殿司制使《でんしせいし》を務めている。皇帝陛下が万歳山を築かれると言うんで、殿司制使の同僚たち十人と一緒に太湖から花石綱を護送して都に上納するよう命じられたんだが、運悪く黄河で強風にあたり、船が転覆してしまってな……石はすべて水の底、というわけだ。こうなっては都に帰るにも具合が悪く、他所に身を隠していたんだが、このたび恩赦の知らせがあったので、東京へ帰って枢密院に挨拶をし、再び身を立てようというその道すがら、あんたらにすっかり荷物を奪われてしまった。まったく、こうなるんなら、百姓なんか雇うんじゃなかった……。まあいい、あの荷の中には、枢密院への挨拶替わりの金品が入っているんでな、さっさと返していただきたい」
 さきほど林冲と対峙したときの覇気はどこへやら、口をへの字に曲げ、くぐもった低い声で滔々と事情を話す楊志の様子に、王倫は愉快げに眉を跳ね上げた。
 「なるほど、もしや貴殿は、|青面獣《せいめんじゅう》という二つ名の御仁ではないか?」
 「そうだ」
 「やあやあ、かの青面獣の楊制使と、このようなところで出会うことになろうとは! 楊制使、そういうことなら、ぜひとも我が寨においでください。たいした酒ではないが、一献さしあげ、その後荷物をお返ししよう」
 「心遣いは嬉しいが、俺とわかったなら、すぐに荷物を返してくれ。そのほうがありがたい」
 うんざりとした様子を隠しもせず早口に返す楊志にしかし、王倫も引きさがらなかった。
 「制使殿、私は三年前、東京へ試験を受けに出向いたときから、あなたの勇名を耳にし、いつかお目にかかれたらと思っていたのですよ。今日こうして幸運にもあなたと知り合うことができたというのに、このままご挨拶もせずお別れするわけには参りません。手狭な山寨ではありますが、どうか、酒の一杯だけでも注がせてください。もちろん荷物はすぐにお返しします、他意はありませんからな」
 楊志の垂れた目尻がきゅ、とすぼまり、細い眉の間に深い皺が刻まれ、しばし沈黙が下りる。
 「……そこまで言うなら、しかたない、手短に頼む」
 これ以上粘っても結果は同じと見たのであろう、楊志は軽くため息をつくと、笠をかぶり、刀を背負いなおして林冲のほうへと小走りに歩み寄ってきた。
 「林冲殿、あなたのご高名はかねがね聞き及んでいました。東京にいたころはあんなに近くにいたのに縁がなく、言葉を交わす機会がなかったが、まさかこんなところでお会いできるとは。いったいなぜ、こんな辺鄙な場所にいる? なぜ、あのような男の言うことを聞いているんだ?」
 「こちらこそ、文武に長けた貴殿の名を聞きおよび、一度は手合わせをしてみたいと願っていたところ、今日は思いもかけずそれが叶いました。いろいろとあって、今はこうして山賊まがいのことをしているが……詳しい話はあとにしよう。あの男を怒らせると後が面倒、さっさと寨に参ったほうがいい」
 林冲と楊志は互いの武を讃えあって肩を叩き、朱貴の呼んだ船で王倫たちとともに聚義庁へと戻った。