第二章:境界の揺りかご
ー/ー最初に戻ったのは、呼吸だった。
吸う。
吐く。
その動作は確かに自分の意志で行っているはずなのに、音が追いつかない。胸が膨らみ、空気が喉を通り、吐息が唇から漏れる。しかしその音が耳に届くのは、三拍ほど遅れてからだった。まるで、自分という存在が二つの層にずれて重なっているかのように。
リグは目を開けた。
上下がなかった。
左右もない。光はあるが、色がない。白でも黒でもない。名前をつけることすらできない、「色になる前の光」が、あらゆる方向から等しく降り注いでいる。それは照らしているのではなく、ただ存在していた。
腕の中に、小さな体があった。アリナだ。意識を失っている。しかし胸のコアだけが、心臓の鼓動に合わせて淡く明滅していた。そしてそのコアから放たれる光の膜が、三人を包み込んでいるのをリグは感じた。
膜の内側だけに、かすかな「下」がある。足裏に、地面ではないが何かに立っているという感覚。コアの力が、この名のない空間に小さな秩序を作り出している。
シャボン玉だ、とリグは思った。
世界と世界の狭間で、たった一つのコアの光だけを拠り所にした、透明な泡。
「……リグ」
低い声。振り返ると、オルネスが片膝をついていた。黒い翼がだらりと垂れ、羽根の先端が微かに震えている。しかしその琥珀の瞳は、すでに周囲を観察していた。
「無事か」
「死んではいないな。……だが、ここがどこかは見当もつかん」
オルネスは立ち上がり、泡の外縁に向けて数歩歩いた。膜の表面に手を近づけると、指先の動きが一瞬遅れて視界に追いつく。まるで水中に手を浸したときのように、動作と視覚が噛み合わない。
「位相がずれている」彼女は呟いた。
「空間の位相か?」
「空間だけではない。時間もだ」
オルネスの視線が泡の外に向けられた。そこには、硝子の破片のようなものが浮かんでいた。大小さまざまな、薄い光の欠片。それらは音もなく漂い、時折ちらちらと何かの映像を映し出しては、消えた。
最初はノイズにしか見えなかった。しかし、目が慣れてくると、その断片の中に見覚えのある色が混じっていることに気づく。
「……あれは」リグが息を呑む。
破片の一つに、山々に囲まれた盆地の村が映っていた。オルマヴィン。石畳の道。木組みの家々。見慣れた景色のはずだった。しかし、何かが違う。道を歩く人々の服装が少しだけ異なる。広場の木が、本来あるはずの場所に生えていない。
「あれは記憶ではないな」オルネスが断言した。「記憶であれば、お主の知覚に依存して再構成されるはずだ。だが、あの映像にはお主の視点がない。客観的に存在している」
彼女は翼の先で破片を指し示しながら続けた。
「だが、あれが何なのかは分からん。ここがどこかも含めてな」
そのとき、リグの腕の中でアリナの瞼がかすかに震えた。
「……ん……」
「アリナ。起きたか」
少女はゆっくりと目を開けた。最初に見えたのはリグの顔。次に、光の膜。そして――膜の向こうに漂う無数の破片。
「ここは……どこ……?」
「分からん。だが、お前のコアが俺たちを守っている」
アリナは自分の胸に手を当てた。コアの脈動を感じる。それは普段とは違う、静かだが深い律動だった。まるでこの空間と呼吸を合わせるように、ゆっくりと、重たく。
「あの……光の欠片は?」
「オルネスにも分からないらしい。記憶ではないが、何なのかはまだ……」
アリナは身を起こし、泡の外を見つめた。漂う破片の中に、見慣れた光景を見つけてしまった。
かがり火。
広場。
笑い声。
――祭りの夜だ。
◇ ◇ ◇
最初に変わったのは、アリナの目の前に漂う破片だった。
それは他の断片よりもゆっくりと近づいてきて、泡の外縁のすぐ近くで静止した。まるで、見てほしいと言わんばかりに。
映っていたのは、オルマヴィンの村。
しかし、アリナが知っているオルマヴィンとは、決定的に何かが違った。
巫女の衣を纏った少女が、村の中央広場に立っている。白い衣。胸のコア。顔立ち。間違いない。自分だ。しかし、その自分は――笑っていなかった。泣いてもいなかった。
ただ、立っていた。
村人が近づき、深々と頭を下げる。
「巫女様、今年もお見事な実りです」
その世界のアリナは、微笑みすら浮かべない。ただ小さく頷く。声も出さず、表情も動かさず。村人はそれで満足したのか、安堵したように去っていく。
次の場面。畑が青々と実っている。コアの光が安定して土地を潤している。村人たちは平和に暮らしている。子どもたちが走り回り、大人たちが談笑する。その中心に、白い衣の少女がいる。
誰も彼女に触れない。誰も彼女と目を合わせない。しかし、誰もそれを異常だとは思っていない。それが「普通」なのだ。巫女とは、そういうものなのだ。
アリナの息が止まった。
映像の中の自分の目を見てしまったからだ。
空っぽだった。
感情の色がない。喜びも、悲しみも、怒りも、不安も。あの疑心暗鬼すらない。村人の感謝が本物かどうか――もう、疑うことすらしていない。疑うための心そのものを、自分で殺したのだ。胸のコアは安定して光っている。暴走の兆しもない。機械のように、淡々と、求められた機能を果たしている。
(あれが、私……?)
声にならなかった。
胸の奥で、古い痛みが疋いた。
(普通になりたかった)
それは、アリナがずっと抱えてきた願いだった。皆に認められたかった。異形の力なんていらなかった。コアなんて最初からなければ、普通の女の子として生まれていれば――。
でも、それは叶わない。コアは消せない。この力は、自分の一部だ。それは、誰よりアリナ自身が知っている。
だからこそ、別の道があった。
(心を殺して、村のためだけに生きていれば、こんなに苦しまずに済んだ)
それはない物ねだりではなかった。現実に取り得た選択肢だった。感情を押し殺し、疑うことをやめ、求められるままに力を使う。そうすれば、誰にも恐れられなかった。誰にも拒絶されなかった。あの映像の自分は、まさにそれを選んだ自分だ。
――本当に?
映像の中のアリナが、ふと空を見上げた。盆地の狭い空。その目には何も映っていない。空の色すら感じていないのだと分かる。見ているのではなく、ただ、視線が向いているだけ。
アリナの胸の奥が、冷たくなった。
あれは「平和」ではない。
あれは――死んでいる。
生きながら、魂が死んでいる。
苦しみから逃れた先にあったのは、安息ではなく、空虚だった。
涙は出なかった。ただ、両手が震えた。リグの袖を掴もうとして、指先が空を切る。
「……アリナ」
リグの声が、遅れて耳に届いた。
◇ ◇ ◇
アリナの目の前で破片が静かに散ると、別の光景が浮かび上がった。
今度は、オルネスの翼が硬直した。
「……あれは」
映っていたのは、つい数刻前の光景――オルネスの住処だった。
岩壁を背にした、木と石の小さな家。軒先の薬草。窓からこぼれる橙の光。しかし、その映像の中には転送装置がなかった。部屋の奥に布で覆われた直方体はなく、そこには古い書棚がぽつんと置かれているだけだった。
代わりに映ったのは、扉を蹴破る甲冑の足。松明の赤。封印騎士団の紋章を胸に掲げた兵士たちが、一斉に室内になだれ込む。
リグが剣を抜いた。映像の中のリグが、だ。
彼はアリナを背に庇い、狭い室内で刃を構えた。しかし、一個小隊。十を超える剣と槍が、彼を囲んでいた。森でファントマと戦い、精神を蝕まれ、満身創痍のまま旅を続けてきた体だ。
一太刀目は、受けた。膝が軋む音がした。
二太刀目は、弾いた。しかし左腕が下がった。
三太刀目を、受けきれなかった。
槍の穂先がリグの脇腹を貫き、緑色の肌が裂けた。剣が手から離れ、石の床に落ちた。甲高い金属音。リグの体が前のめりに崩れ、膝をつき、そして――動かなくなった。
泡の中の、本物のリグが、声を失った。自分の死を見ている。自分の体が、石の床に倒れ伏す光景を。
映像は止まらなかった。
オルネスが翼を広げた。映像の中のオルネスが。研究資料を胸に抱いたまま、大きく黒い翼を広げ、アリナを覆い隠すように立ちはだかった。その琥珀の瞳には、恐怖ではなく、覚悟があった。
騎士の槍が振りかぶられる。
黒い羽が舞った。
槍の穂先が翼の根元を貫いた。力の抜けた翼が、壊れた傘のように垂れ下がる。オルネスの膝が折れた。胸に抱いた資料が床に散らばり、ページが松明の風にひらひらと舞う。琥珀の瞳から、光が消えた。
泡の中のオルネスは、自分の死を見ていた。翼の震えは止まっていた。凍りついたように、動かなかった。
映像の中で、アリナが叫んだ。
声は聞こえない。しかし、口が大きく開かれ、喉が震えているのが見えた。コアが紫色に明滅する。しかし、暴走には至らない。ファントマとの戦いでコアの力を使い果たしたばかりの体だ。心は叫んでいる。だが、力が応えない。紫の明滅は弱々しく揺らいだだけで、やがて力尽きたように消えた。
兵士の一人が、アリナの胸元に手を伸ばした。コアを、物理的に引き剥がす。首からペンダント型のコアが外された瞬間、アリナの体から最後の光が消えた。
そして、兵士がアリナの両腕を掴む。
少女は引きずられていく。自分を庇って倒れた二人の体を、振り返ることすらできないまま。最後に映ったのは、連行されるアリナの後ろ姿だった。白い衣の裾が泥に汚れ、足が石畳を削る。
その目に、光はなかった。
先ほどアリナ自身が見た「道具の世界線」の、あの空っぽの瞳と同じ色が、もうそこに宿り始めていた。自分で選んで心を殺す世界線と、他人の手で心を奪われる世界線。入口は違う。しかし、行き着く先は同じだった。
泡の中で、三人とも黙っていた。
オルネスの翼が、小刻みに震え始めた。それは恐怖からではなかった。彼女の視線が最も長く留まっていたのは、自分の死体でもリグの亡骸でもない。連行されるアリナの後ろ姿だった。
「……あの装置があったから」
声は低く、かすれていた。
「いや――研究を続けたおかげだ……」
翼の震えが止まった。琥珀の瞳に、研究者の冷徹さが戻る。感情を呑み込み、事実だけを見る目。しかし、その底には確かな熱があった。
「あの結末を避けられたのは、私が知を捨てなかったからだ……」
それは自分への言い聞かせだったのかもしれない。かつて研究対象を失い、その罪を背負い、それでもなお知を手放さなかった自分。その選択が正しかったのか、何十年もの間分からなかった。今、ようやく、一つの答えの形が見えた。
代償を伴う答え。
だが、確かに存在した答え。
◇ ◇ ◇
オルネスの破片が散った後、しばらくは何も映らなかった。
泡の中に沈黙が落ちる。アリナは両手を握りしめたまま佇み、オルネスは翼を畳んで目を閉じていた。リグだけが、泡の外をじっと見つめていた。
やがて、一つの破片が近づいてきた。
他の断片よりも暗い。光の色が沈んでいる。リグの体が、わずかに強張った。映っていたのを見た瞬間、呼吸が止まったからだ。
あの森。
そして、そこに移っているのはフィリアだった。
穏やかな桃色の光を放つコア。しかし、その光の中に黒い筋が走り始めている。侵食の兆候。彼女の時間は、もう長くない。
そして、剣を構えたリグ。カイの慟哭。
ここまでは、リグの記憶と同じだった。しかし、次の瞬間、映像が分岐した。
剣を、振り下ろさなかった。
映像の中のリグが、最後の一瞬で刃を止めた。フィリアの目が見開かれる。カイが駆け寄る。
「よかった、よかった……!」
カイの声が震えている。フィリアの体を抱きしめ、泣いている。リグは剣を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。
場面が変わった。
数日後。フィリアの体は、コアの侵食に耐えきれなくなっていた。桃色の光は濁り、黒い靄が彼女の周囲に滲み始めている。カイは必死に看病を続けている。薬草を煎じ、額の汗を拭い、眠れぬ夜を何度も越えて。しかし、侵食は止まらない。
そしてある夜、フィリアのコアが臨界を超えた。
暴走は、リグが封印したはずのそれよりも遥かに大きかった。限界を超えて溜め込まれたエネルギーが、一気に解放される。黒い光が森を呑み、大地を裂き、周囲の集落を巻き添えにした。フィリアの体は光の中に消え、後には焼け焦げた大地と、瓦礫だけが残った。
カイは生き延びた。しかし、彼が見つめていたのは、廃墟の中心に転がる小さなコアの欠片だった。
彼はリグを恨まなかった。
代わりに、自分自身の無力を呪った。
「俺は、何もできなかった……」
その言葉を繰り返しながら、カイの目が徐々に虚ろになっていく。怒りではなく、自責。憎しみではなく、空洞。別の形で壊れていく男の姿が、そこにあった。
泡の中で、リグは拳を握りしめていた。
言葉は出なかった。剣を振り下ろしても、振り下ろさなくても、誰かが傷つく。どちらを選んでも、カイは壊れる。フィリアは助からない。正解など、最初からなかったのだ。
ただ、その事実の重さだけが、鉛のように胸の底に沈んでいった。
フィリアの分岐が霧散しかけた、その刹那だった。
泡の外に、全く異質の光景が割り込んできた。
過去の分岐とは明らかに質感が違う。破片は暗くも明るくもなく、妙に鮮明で、生々しかった。今まさに起きている、あるいはこれから起きようとしていることの映像。
――山間の谷。隠された集落。木柵と石壁で囲まれた小さな砦のような場所。
その中に、何人もの巫女たちがいた。幼い少女から、アリナと同じくらいの年頃の娘まで。彼女たちの胸にはそれぞれコアが輝いているが、その光は弱く、怯えの色を帯びていた。
黎明機関の紋章――円環と断ち切られた鎖。それを胸に掲げた兵士たちが、巫女たちを守るように壁際に配置についている。しかし、その表情には焦りが滲んでいた。
そして、集落の中心に立つ男。
黒髪。鋭い眼差し。しかしその奥に消えぬ悔恨の影。
カイだった。
彼は剣を手に、正門の方を見据えていた。門の外から、重い足音が地鳴りのように響いている。松明の炎が夜霧を赤く染め、金属鎧のきしむ音が幾重にも重なる。
封印騎士団。
その数は、カイの部隊を遥かに凌駕していた。
戦いが始まった。
黎明機関の兵士たちは勇敢に戦った。共鳴炉兵装が青白い光を放ち、騎士団の前衛を押し返す場面もあった。しかし、数の差は残酷だった。一人、また一人と倒れ、防衛線が後退していく。
巫女たちが怯えている。逃げ場がない。村には帰れない。騎士団に見つかれば、また「道具」にされる。今度こそ逃げられない。その恐怖が、彼女たちのコアを不安定に明滅させていた。
カイは最前線で剣を振るい続けていた。しかし、じりじりと押されている。部下の悲鳴。壁が崩される音。火の粉が舞う。
そしてリグは、カイの顔を見た。
焚き火の夜にはなかった表情。あの夜、星を見上げながらフィリアの夢を笑い飛ばした男の顔に、絶望の影が差していた。守るべきものがあり、守る力が足りないと悟った者の顔。
リグの体が強張った。
(あいつは俺を拒絶した)
「妹を殺した男」として。あの慟哭。あの憎悪。二度と交わることのない道を、カイ自身が選んだ。
(それでも――)
あの顔を見て、何も感じないわけがなかった。
◇ ◇ ◇
カイの映像が散った後、ほんの一瞬だけ、別の断片がちらついた。
赤い瞳。白い光。少女の輪郭が光の中に溶けていく。世界の一部が、道連れにひび割れる。
アリナは、それが自分だと感じた。理屈ではなく、コアの奥が震えるような感覚で。しかし、直視する前に光景は散った。硝子の粉のように微細な光に分解され、泡の外の虚空に溶けていく。
言葉にはしなかった。
ただ、胸のコアが一度だけ、強く脈打った。
◇ ◇ ◇
三人は黙っていた。
それぞれが見たものの重さが、声を奪っていた。空っぽの目をした自分。倒れ伏す自分の体。連行される少女の後ろ姿。剣を振っても振らなくても壊れる世界。絶望の影が差した、かつての戦友の顔。
何から言葉にすればいいのか、誰にも分からなかった。
しかし、その沈黙は絶望ではなかった。
どの選択にも光と影があった。痛みのない道はなかった。しかし、今ここにいる三人は、少なくとも――互いの体温を感じることができた。コアの膜が放つ淡い光の中で、自分の呼吸が、遅れてでも、ちゃんと聞こえた。
「……全部、繋がっているんだ」
アリナが、小さく呟いた。
何がどう繋がっているのか、彼女自身にもうまく説明できなかった。ただ、自分の苦しみも、リグの罪も、オルネスの研究も、カイの戦いも。一つの選択が次の分岐を生み、その分岐がまた別の誰かの選択に繋がっている。それだけは、理屈ではなく、体で分かった。
リグが静かに頷いた。
オルネスは何かを書き留めたそうに指先を動かしたが、ここには紙もペンもない。その仕草に気づいたアリナが、ほんのわずかに口元を緩めた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、和らいだ。
吸う。
吐く。
その動作は確かに自分の意志で行っているはずなのに、音が追いつかない。胸が膨らみ、空気が喉を通り、吐息が唇から漏れる。しかしその音が耳に届くのは、三拍ほど遅れてからだった。まるで、自分という存在が二つの層にずれて重なっているかのように。
リグは目を開けた。
上下がなかった。
左右もない。光はあるが、色がない。白でも黒でもない。名前をつけることすらできない、「色になる前の光」が、あらゆる方向から等しく降り注いでいる。それは照らしているのではなく、ただ存在していた。
腕の中に、小さな体があった。アリナだ。意識を失っている。しかし胸のコアだけが、心臓の鼓動に合わせて淡く明滅していた。そしてそのコアから放たれる光の膜が、三人を包み込んでいるのをリグは感じた。
膜の内側だけに、かすかな「下」がある。足裏に、地面ではないが何かに立っているという感覚。コアの力が、この名のない空間に小さな秩序を作り出している。
シャボン玉だ、とリグは思った。
世界と世界の狭間で、たった一つのコアの光だけを拠り所にした、透明な泡。
「……リグ」
低い声。振り返ると、オルネスが片膝をついていた。黒い翼がだらりと垂れ、羽根の先端が微かに震えている。しかしその琥珀の瞳は、すでに周囲を観察していた。
「無事か」
「死んではいないな。……だが、ここがどこかは見当もつかん」
オルネスは立ち上がり、泡の外縁に向けて数歩歩いた。膜の表面に手を近づけると、指先の動きが一瞬遅れて視界に追いつく。まるで水中に手を浸したときのように、動作と視覚が噛み合わない。
「位相がずれている」彼女は呟いた。
「空間の位相か?」
「空間だけではない。時間もだ」
オルネスの視線が泡の外に向けられた。そこには、硝子の破片のようなものが浮かんでいた。大小さまざまな、薄い光の欠片。それらは音もなく漂い、時折ちらちらと何かの映像を映し出しては、消えた。
最初はノイズにしか見えなかった。しかし、目が慣れてくると、その断片の中に見覚えのある色が混じっていることに気づく。
「……あれは」リグが息を呑む。
破片の一つに、山々に囲まれた盆地の村が映っていた。オルマヴィン。石畳の道。木組みの家々。見慣れた景色のはずだった。しかし、何かが違う。道を歩く人々の服装が少しだけ異なる。広場の木が、本来あるはずの場所に生えていない。
「あれは記憶ではないな」オルネスが断言した。「記憶であれば、お主の知覚に依存して再構成されるはずだ。だが、あの映像にはお主の視点がない。客観的に存在している」
彼女は翼の先で破片を指し示しながら続けた。
「だが、あれが何なのかは分からん。ここがどこかも含めてな」
そのとき、リグの腕の中でアリナの瞼がかすかに震えた。
「……ん……」
「アリナ。起きたか」
少女はゆっくりと目を開けた。最初に見えたのはリグの顔。次に、光の膜。そして――膜の向こうに漂う無数の破片。
「ここは……どこ……?」
「分からん。だが、お前のコアが俺たちを守っている」
アリナは自分の胸に手を当てた。コアの脈動を感じる。それは普段とは違う、静かだが深い律動だった。まるでこの空間と呼吸を合わせるように、ゆっくりと、重たく。
「あの……光の欠片は?」
「オルネスにも分からないらしい。記憶ではないが、何なのかはまだ……」
アリナは身を起こし、泡の外を見つめた。漂う破片の中に、見慣れた光景を見つけてしまった。
かがり火。
広場。
笑い声。
――祭りの夜だ。
◇ ◇ ◇
最初に変わったのは、アリナの目の前に漂う破片だった。
それは他の断片よりもゆっくりと近づいてきて、泡の外縁のすぐ近くで静止した。まるで、見てほしいと言わんばかりに。
映っていたのは、オルマヴィンの村。
しかし、アリナが知っているオルマヴィンとは、決定的に何かが違った。
巫女の衣を纏った少女が、村の中央広場に立っている。白い衣。胸のコア。顔立ち。間違いない。自分だ。しかし、その自分は――笑っていなかった。泣いてもいなかった。
ただ、立っていた。
村人が近づき、深々と頭を下げる。
「巫女様、今年もお見事な実りです」
その世界のアリナは、微笑みすら浮かべない。ただ小さく頷く。声も出さず、表情も動かさず。村人はそれで満足したのか、安堵したように去っていく。
次の場面。畑が青々と実っている。コアの光が安定して土地を潤している。村人たちは平和に暮らしている。子どもたちが走り回り、大人たちが談笑する。その中心に、白い衣の少女がいる。
誰も彼女に触れない。誰も彼女と目を合わせない。しかし、誰もそれを異常だとは思っていない。それが「普通」なのだ。巫女とは、そういうものなのだ。
アリナの息が止まった。
映像の中の自分の目を見てしまったからだ。
空っぽだった。
感情の色がない。喜びも、悲しみも、怒りも、不安も。あの疑心暗鬼すらない。村人の感謝が本物かどうか――もう、疑うことすらしていない。疑うための心そのものを、自分で殺したのだ。胸のコアは安定して光っている。暴走の兆しもない。機械のように、淡々と、求められた機能を果たしている。
(あれが、私……?)
声にならなかった。
胸の奥で、古い痛みが疋いた。
(普通になりたかった)
それは、アリナがずっと抱えてきた願いだった。皆に認められたかった。異形の力なんていらなかった。コアなんて最初からなければ、普通の女の子として生まれていれば――。
でも、それは叶わない。コアは消せない。この力は、自分の一部だ。それは、誰よりアリナ自身が知っている。
だからこそ、別の道があった。
(心を殺して、村のためだけに生きていれば、こんなに苦しまずに済んだ)
それはない物ねだりではなかった。現実に取り得た選択肢だった。感情を押し殺し、疑うことをやめ、求められるままに力を使う。そうすれば、誰にも恐れられなかった。誰にも拒絶されなかった。あの映像の自分は、まさにそれを選んだ自分だ。
――本当に?
映像の中のアリナが、ふと空を見上げた。盆地の狭い空。その目には何も映っていない。空の色すら感じていないのだと分かる。見ているのではなく、ただ、視線が向いているだけ。
アリナの胸の奥が、冷たくなった。
あれは「平和」ではない。
あれは――死んでいる。
生きながら、魂が死んでいる。
苦しみから逃れた先にあったのは、安息ではなく、空虚だった。
涙は出なかった。ただ、両手が震えた。リグの袖を掴もうとして、指先が空を切る。
「……アリナ」
リグの声が、遅れて耳に届いた。
◇ ◇ ◇
アリナの目の前で破片が静かに散ると、別の光景が浮かび上がった。
今度は、オルネスの翼が硬直した。
「……あれは」
映っていたのは、つい数刻前の光景――オルネスの住処だった。
岩壁を背にした、木と石の小さな家。軒先の薬草。窓からこぼれる橙の光。しかし、その映像の中には転送装置がなかった。部屋の奥に布で覆われた直方体はなく、そこには古い書棚がぽつんと置かれているだけだった。
代わりに映ったのは、扉を蹴破る甲冑の足。松明の赤。封印騎士団の紋章を胸に掲げた兵士たちが、一斉に室内になだれ込む。
リグが剣を抜いた。映像の中のリグが、だ。
彼はアリナを背に庇い、狭い室内で刃を構えた。しかし、一個小隊。十を超える剣と槍が、彼を囲んでいた。森でファントマと戦い、精神を蝕まれ、満身創痍のまま旅を続けてきた体だ。
一太刀目は、受けた。膝が軋む音がした。
二太刀目は、弾いた。しかし左腕が下がった。
三太刀目を、受けきれなかった。
槍の穂先がリグの脇腹を貫き、緑色の肌が裂けた。剣が手から離れ、石の床に落ちた。甲高い金属音。リグの体が前のめりに崩れ、膝をつき、そして――動かなくなった。
泡の中の、本物のリグが、声を失った。自分の死を見ている。自分の体が、石の床に倒れ伏す光景を。
映像は止まらなかった。
オルネスが翼を広げた。映像の中のオルネスが。研究資料を胸に抱いたまま、大きく黒い翼を広げ、アリナを覆い隠すように立ちはだかった。その琥珀の瞳には、恐怖ではなく、覚悟があった。
騎士の槍が振りかぶられる。
黒い羽が舞った。
槍の穂先が翼の根元を貫いた。力の抜けた翼が、壊れた傘のように垂れ下がる。オルネスの膝が折れた。胸に抱いた資料が床に散らばり、ページが松明の風にひらひらと舞う。琥珀の瞳から、光が消えた。
泡の中のオルネスは、自分の死を見ていた。翼の震えは止まっていた。凍りついたように、動かなかった。
映像の中で、アリナが叫んだ。
声は聞こえない。しかし、口が大きく開かれ、喉が震えているのが見えた。コアが紫色に明滅する。しかし、暴走には至らない。ファントマとの戦いでコアの力を使い果たしたばかりの体だ。心は叫んでいる。だが、力が応えない。紫の明滅は弱々しく揺らいだだけで、やがて力尽きたように消えた。
兵士の一人が、アリナの胸元に手を伸ばした。コアを、物理的に引き剥がす。首からペンダント型のコアが外された瞬間、アリナの体から最後の光が消えた。
そして、兵士がアリナの両腕を掴む。
少女は引きずられていく。自分を庇って倒れた二人の体を、振り返ることすらできないまま。最後に映ったのは、連行されるアリナの後ろ姿だった。白い衣の裾が泥に汚れ、足が石畳を削る。
その目に、光はなかった。
先ほどアリナ自身が見た「道具の世界線」の、あの空っぽの瞳と同じ色が、もうそこに宿り始めていた。自分で選んで心を殺す世界線と、他人の手で心を奪われる世界線。入口は違う。しかし、行き着く先は同じだった。
泡の中で、三人とも黙っていた。
オルネスの翼が、小刻みに震え始めた。それは恐怖からではなかった。彼女の視線が最も長く留まっていたのは、自分の死体でもリグの亡骸でもない。連行されるアリナの後ろ姿だった。
「……あの装置があったから」
声は低く、かすれていた。
「いや――研究を続けたおかげだ……」
翼の震えが止まった。琥珀の瞳に、研究者の冷徹さが戻る。感情を呑み込み、事実だけを見る目。しかし、その底には確かな熱があった。
「あの結末を避けられたのは、私が知を捨てなかったからだ……」
それは自分への言い聞かせだったのかもしれない。かつて研究対象を失い、その罪を背負い、それでもなお知を手放さなかった自分。その選択が正しかったのか、何十年もの間分からなかった。今、ようやく、一つの答えの形が見えた。
代償を伴う答え。
だが、確かに存在した答え。
◇ ◇ ◇
オルネスの破片が散った後、しばらくは何も映らなかった。
泡の中に沈黙が落ちる。アリナは両手を握りしめたまま佇み、オルネスは翼を畳んで目を閉じていた。リグだけが、泡の外をじっと見つめていた。
やがて、一つの破片が近づいてきた。
他の断片よりも暗い。光の色が沈んでいる。リグの体が、わずかに強張った。映っていたのを見た瞬間、呼吸が止まったからだ。
あの森。
そして、そこに移っているのはフィリアだった。
穏やかな桃色の光を放つコア。しかし、その光の中に黒い筋が走り始めている。侵食の兆候。彼女の時間は、もう長くない。
そして、剣を構えたリグ。カイの慟哭。
ここまでは、リグの記憶と同じだった。しかし、次の瞬間、映像が分岐した。
剣を、振り下ろさなかった。
映像の中のリグが、最後の一瞬で刃を止めた。フィリアの目が見開かれる。カイが駆け寄る。
「よかった、よかった……!」
カイの声が震えている。フィリアの体を抱きしめ、泣いている。リグは剣を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。
場面が変わった。
数日後。フィリアの体は、コアの侵食に耐えきれなくなっていた。桃色の光は濁り、黒い靄が彼女の周囲に滲み始めている。カイは必死に看病を続けている。薬草を煎じ、額の汗を拭い、眠れぬ夜を何度も越えて。しかし、侵食は止まらない。
そしてある夜、フィリアのコアが臨界を超えた。
暴走は、リグが封印したはずのそれよりも遥かに大きかった。限界を超えて溜め込まれたエネルギーが、一気に解放される。黒い光が森を呑み、大地を裂き、周囲の集落を巻き添えにした。フィリアの体は光の中に消え、後には焼け焦げた大地と、瓦礫だけが残った。
カイは生き延びた。しかし、彼が見つめていたのは、廃墟の中心に転がる小さなコアの欠片だった。
彼はリグを恨まなかった。
代わりに、自分自身の無力を呪った。
「俺は、何もできなかった……」
その言葉を繰り返しながら、カイの目が徐々に虚ろになっていく。怒りではなく、自責。憎しみではなく、空洞。別の形で壊れていく男の姿が、そこにあった。
泡の中で、リグは拳を握りしめていた。
言葉は出なかった。剣を振り下ろしても、振り下ろさなくても、誰かが傷つく。どちらを選んでも、カイは壊れる。フィリアは助からない。正解など、最初からなかったのだ。
ただ、その事実の重さだけが、鉛のように胸の底に沈んでいった。
フィリアの分岐が霧散しかけた、その刹那だった。
泡の外に、全く異質の光景が割り込んできた。
過去の分岐とは明らかに質感が違う。破片は暗くも明るくもなく、妙に鮮明で、生々しかった。今まさに起きている、あるいはこれから起きようとしていることの映像。
――山間の谷。隠された集落。木柵と石壁で囲まれた小さな砦のような場所。
その中に、何人もの巫女たちがいた。幼い少女から、アリナと同じくらいの年頃の娘まで。彼女たちの胸にはそれぞれコアが輝いているが、その光は弱く、怯えの色を帯びていた。
黎明機関の紋章――円環と断ち切られた鎖。それを胸に掲げた兵士たちが、巫女たちを守るように壁際に配置についている。しかし、その表情には焦りが滲んでいた。
そして、集落の中心に立つ男。
黒髪。鋭い眼差し。しかしその奥に消えぬ悔恨の影。
カイだった。
彼は剣を手に、正門の方を見据えていた。門の外から、重い足音が地鳴りのように響いている。松明の炎が夜霧を赤く染め、金属鎧のきしむ音が幾重にも重なる。
封印騎士団。
その数は、カイの部隊を遥かに凌駕していた。
戦いが始まった。
黎明機関の兵士たちは勇敢に戦った。共鳴炉兵装が青白い光を放ち、騎士団の前衛を押し返す場面もあった。しかし、数の差は残酷だった。一人、また一人と倒れ、防衛線が後退していく。
巫女たちが怯えている。逃げ場がない。村には帰れない。騎士団に見つかれば、また「道具」にされる。今度こそ逃げられない。その恐怖が、彼女たちのコアを不安定に明滅させていた。
カイは最前線で剣を振るい続けていた。しかし、じりじりと押されている。部下の悲鳴。壁が崩される音。火の粉が舞う。
そしてリグは、カイの顔を見た。
焚き火の夜にはなかった表情。あの夜、星を見上げながらフィリアの夢を笑い飛ばした男の顔に、絶望の影が差していた。守るべきものがあり、守る力が足りないと悟った者の顔。
リグの体が強張った。
(あいつは俺を拒絶した)
「妹を殺した男」として。あの慟哭。あの憎悪。二度と交わることのない道を、カイ自身が選んだ。
(それでも――)
あの顔を見て、何も感じないわけがなかった。
◇ ◇ ◇
カイの映像が散った後、ほんの一瞬だけ、別の断片がちらついた。
赤い瞳。白い光。少女の輪郭が光の中に溶けていく。世界の一部が、道連れにひび割れる。
アリナは、それが自分だと感じた。理屈ではなく、コアの奥が震えるような感覚で。しかし、直視する前に光景は散った。硝子の粉のように微細な光に分解され、泡の外の虚空に溶けていく。
言葉にはしなかった。
ただ、胸のコアが一度だけ、強く脈打った。
◇ ◇ ◇
三人は黙っていた。
それぞれが見たものの重さが、声を奪っていた。空っぽの目をした自分。倒れ伏す自分の体。連行される少女の後ろ姿。剣を振っても振らなくても壊れる世界。絶望の影が差した、かつての戦友の顔。
何から言葉にすればいいのか、誰にも分からなかった。
しかし、その沈黙は絶望ではなかった。
どの選択にも光と影があった。痛みのない道はなかった。しかし、今ここにいる三人は、少なくとも――互いの体温を感じることができた。コアの膜が放つ淡い光の中で、自分の呼吸が、遅れてでも、ちゃんと聞こえた。
「……全部、繋がっているんだ」
アリナが、小さく呟いた。
何がどう繋がっているのか、彼女自身にもうまく説明できなかった。ただ、自分の苦しみも、リグの罪も、オルネスの研究も、カイの戦いも。一つの選択が次の分岐を生み、その分岐がまた別の誰かの選択に繋がっている。それだけは、理屈ではなく、体で分かった。
リグが静かに頷いた。
オルネスは何かを書き留めたそうに指先を動かしたが、ここには紙もペンもない。その仕草に気づいたアリナが、ほんのわずかに口元を緩めた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ、和らいだ。
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