第一章:巫女を失った村、そして黒翼の博士
ー/ー山肌をなでる風は冷たく、日が傾くたび、木立の影は長く伸びて岩場の割れ目へ沈んでいった。小盆地のさらに奥――獣道のような細い道を抜けた先に、その家はあった。岩壁を背に、木と石で組まれた小さな住まい。軒先には乾いた薬草の束がいくつも吊るされ、窓からは暖かな橙の光がこぼれている。煙突から立ちのぼる薄い煙は、冷たい空気の中でまっすぐ天へ吸い込まれていった。
リグが足を止め、扉に向けて小さく息を整える。懐かしさと緊張が、胸の内で同時に音を立てた。
扉がきしみ、黒い影が現れる。光に縁取られた羽。艶のある黒羽根を持つ女――コルヴィアンの研究者、オルネス博士。瞳は琥珀色に深く、嘴を思わせる口元がかすかな弧を描いた。
「……久しいな、リグ」

低く、掠れた声。彼女の視線がリグの肩越しに動き、アリナで止まる。ひと呼吸おいて、口元がさらに上がった。
「餌を持ってきてくれたのか?」
「へ?ち、違います!」とアリナが反射的に身をすくめ、リグは慌てて手を振った。
「冗談だよ」とオルネスはくすりと笑い、羽根を軽く広げて道を開けた。「寒かったろう。中へおいで」
家の中は、外気から切り離されたように温かかった。炉には穏やかな火が燃え、薪とハーブが混じった匂いが鼻腔をくすぐる。壁一面に棚が組まれ、古文書や皮表紙の書物、金属と木で拵えられた奇妙な器具がぎっしり並ぶ。窓辺では鉱石の欠片を細い鎖で吊した風鈴のような装置がわずかに揺れ、触れ合うたび澄んだ高音を鳴らした。部屋の一角には小さな温室棚があり、苔と蔓が青々と息づいている。蔓の根は、乳色に光る小さな鉱石に絡みついていた。
「紹介しよう」リグが姿勢を正す。
「彼女はアリナ。……巫女だ」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと口を開いた。オルマヴィンで起きた出来事――アリナがコアを暴走させ、大規模な世界変容を引き起こしたことを、胸に刺さる記憶を押し隠しながら淡々と説明した。感情を交えれば、アリナを余計に苦しめる。それを知っているからこそ、声は抑えられていた。
「ふむ」
オルネスは興味深そうにアリナへと歩み寄り、観察者の目で一歩ずつ角度を変えながら見つめた。
「怖がらせはしない。少し触れるだけだ」
冗談めかした調子で言いながらも、その瞳は鋭く、同時に母親のような優しさを帯びていた。黒い羽が小さく揺れる。
彼女は子供のように純粋な目でアリナの指先や表情を確かめると、机から古びた計測器を引き寄せた。掌ほどの金属筐体に水晶が複数埋め込まれている。歯車がかちりと嚙み合い、内側で微かな唸りが生まれる。
「動かぬでな」
その声とともに、羽がひときわ大きく揺れた。
アリナは息を詰め、胸元のコアにそっと手を添えた。オルネスが計測器を近づけると、水晶のひとつが心臓の鼓動に呼応するように淡く明滅する。最初はゆっくり、すぐに速く。針が震え、目盛りの端を激しく叩いた。
「……っ」
オルネスの琥珀の瞳が細くなる。器具の窓に走る線は、通常値を軽々と飛び越え、刻印のない余白まで染めてなお、軋む音を上げて揺れ続けた。
アリナの指先が小さく震えた。無意識に、リグの袖口をつまむ。リグはその細い力を手の甲で受け止め、肩越しに彼女へ短く頷いた。――大丈夫だ、という合図を、言葉の代わりに。
器具の唸りがひと際強くなった瞬間、オルネスはスイッチを落とした。金属の音がぴたりと止む。部屋には炉の薪がぱちぱちと弾ける音だけが残った。
「異常だ」と彼女は率直に言った。
「通常の巫女の反応域から外れている。数倍……いや、桁が違う」
アリナは不安に揺れる瞳で博士を見上げた。
「わたしは……人間じゃないんですか?……」
「私はオルマヴィンで巫女として務めを果たしてきました。でも……暴走した時のあの力は異常でした。人間が持つには強すぎる……私は……」
言葉は震えとなり、空気に溶けた。
部屋の隅の暖炉からぱちりと火の粉が跳ね、その儚い音が沈黙を埋めた。
オルネスはそっと羽根を広げ、母のようにアリナを抱き寄せた。
「案ずるな。お主は異常ではない。他と少し異なるだけだ」
アリナの肩の震えが、ゆるやかに収まっていく。
オルネスは彼女の瞳を覗き込み、静かに続けた。
「私を見よ。私は〈コルヴィアン〉――カラスの血を宿す種の末裔。リグは〈アムフィビアン〉だ。姿形は違えど、皆それぞれの道を生きている」
そう言って、オルネスは机の端に腰を下ろし、指先で古びた古文書の角をとんとんと叩いた。
羽根の影が灯火に揺らめく。
「ただ一つだけはっきりしている。――この世界に存在する〈コア〉は、この星のものではない。そして……おそらく、この宇宙のものですらない」
その言葉が落ちた瞬間、暖炉の火がぱちりとはぜた。
温かな炎が燃えているはずなのに、空気が一瞬、冷えたように感じられた。
リグは驚きを隠せず声を荒げた。
「オルネス! 何を言っているんだ。コアがこの世のものではない? そんな話、封印騎士団では一度も聞いたことがない!」
オルネスは遮らず、静かに耳を傾けていた。そして揺るがぬ口調で告げる。
「私は長年、コアを研究してきた。騎士団に知られぬよう、時にお主の手を借りながら。そして悟ったのだ――あれは、この世界の理から逸脱した存在だとな」
言葉に重さが落ちる。アリナは不安げに息を呑み、リグは拳を握りしめた。
(そんなものを……俺たちは命を賭けて使ってきたのか……)
「落ち着け。リグ。」オルネスは羽を広げて宥めた。
「この場所はまだ騎士団には知られていない」
だがその瞬間、窓辺の吊り鉱石が硬い音を立てて震えた。続いて測定器の水晶が濁り、机上の針が勝手に揺れ始める。
オルネスの羽根がぴたりと止まった。
「……風ではない。振動だ」
耳を澄ますと、地鳴りのような低い足音が近づいてくるのが分かる。金属鎧のきしみ、松明の揺れる炎の赤。尾根筋に、火の蛇の列が現れては消えた。
リグは反射的に立ち上がり、声を押し殺す。
「封印騎士団だ。……一隊、いやそれ以上。包囲する気だ」
アリナが息を呑む。彼女の手は冷たかったが、その指先は必死にリグの袖を握り返していた。
「つけられていたか……!」オルネスが短く吐き捨てる。
リグは剣の柄に手をかけたが、すぐに首を振る。
「ここで戦えばアリナが危ない!」
「ならば急ぐぞ」
オルネスは部屋の奥――布で覆われた大きな直方体の物体へ歩み寄り、覆いを払った。現れたのは金属と石で組まれた枠。四角い台座には古い紋章が刻まれ、要所には淡い光を宿す結晶が埋め込まれている。歯車列と導線が天板の下面を這い、枠の四隅に取り付けられたレンズが、灯りを映して微かにきらめいた。
「転送装置だ」オルネスが手際よく点検しながら言う。
「座標は近くの森。遮蔽物が多く、追跡を振り切りやすい」
「この家は……」アリナが小さく問う。
「また建てればいいさ。」オルネスは短く笑い、胸元の小袋を軽く叩いた。
「さあ、乗れ」
三人は台座の中心に立った。オルネスが制御盤のレバーを倒し、銅のスイッチを押し込む。低い共鳴音が床下から立ち上がり、台座の紋章がゆっくりと光を帯びる。外からは、ついに玄関前で足が止まる鈍い音。命じる声が短く飛び、壁を巡る影が揺れた。
リグはアリナを庇うように半歩前へ出、剣の柄に手をかける。炉の火が最後の薪を割り、ぱち、と音を立てて沈んだ。
「固定、良し。座標、良し。――いくぞ」
オルネスが最後のスイッチに触れた刹那、アリナの胸のコアが脈動した。銀鈍い光が皮膚の下から滲み、瞬時に全身へ走る。台座の紋章がそれに呼応するように輝度を増し、予定された光の膜は、計算にない波形で空間へ広がった。
「….!、反応が――」オルネスの声が揺れる。制御盤の針が跳ね上がり、レンズが一斉に高音をきしませた。
床の石が、きしんだのではない。歪んだのだ。台座の中心で光と影が入れ替わり、空気の層がめくれ上がるように形を失った。視界の縁が滲み、輪郭が剥がれ、色が音に変わる。――世界が、薄皮一枚、裏返る。
アリナの髪がふわりと浮いた。彼女自身が光源のように淡く発光し、その光が枠の内部で幾何学の図形を瞬間的に描く。円が重なり、線がほどけ、点が生まれては消え、透明な脈拍のような波が足元から外へ打ち出された。
「アリナ!」リグは彼女の肩を抱き寄せた。腕の内で、鼓動が異様に静かで、しかし確かに――重たく――響く。オルネスは制御盤に手を走らせ、幾つかのスイッチを切り替えるが、反応はむしろ加速した。
「駄目だ。座標が攪乱されている」オルネスの声は研究者のそれだった。恐れを飲み込み、事実だけを言う。
「この反応は――この層の外から来ている」
次の瞬間、空間の裂け目が音もなく開いた。そこには闇があった。黒ではない。色そのものが意味を失い、深さだけが存在する無。それが枠の中央で形を取り、吸い込むでも吐き出すでもない圧力で、三人の足元をさらう。
松明の赤は遠く、甲冑のきしみも遠い。炉の熱も、足裏の石の確かさも、記憶の方へ退いていく。残ったのは、音のない鼓動――コアの、それに似て非なる何かの脈。
リグは最後に、オルネスの瞳がかすかに見開かれるのを見た。彼女の瞳に映る自分とアリナは、薄い膜の向こう側へ滑り落ちていく何者かだった。
彼らは、境目へと落ちた。
世界と世界の間――次元と次元が擦れ合う、名のない狭間へ。
リグが足を止め、扉に向けて小さく息を整える。懐かしさと緊張が、胸の内で同時に音を立てた。
扉がきしみ、黒い影が現れる。光に縁取られた羽。艶のある黒羽根を持つ女――コルヴィアンの研究者、オルネス博士。瞳は琥珀色に深く、嘴を思わせる口元がかすかな弧を描いた。
「……久しいな、リグ」

低く、掠れた声。彼女の視線がリグの肩越しに動き、アリナで止まる。ひと呼吸おいて、口元がさらに上がった。
「餌を持ってきてくれたのか?」
「へ?ち、違います!」とアリナが反射的に身をすくめ、リグは慌てて手を振った。
「冗談だよ」とオルネスはくすりと笑い、羽根を軽く広げて道を開けた。「寒かったろう。中へおいで」
家の中は、外気から切り離されたように温かかった。炉には穏やかな火が燃え、薪とハーブが混じった匂いが鼻腔をくすぐる。壁一面に棚が組まれ、古文書や皮表紙の書物、金属と木で拵えられた奇妙な器具がぎっしり並ぶ。窓辺では鉱石の欠片を細い鎖で吊した風鈴のような装置がわずかに揺れ、触れ合うたび澄んだ高音を鳴らした。部屋の一角には小さな温室棚があり、苔と蔓が青々と息づいている。蔓の根は、乳色に光る小さな鉱石に絡みついていた。
「紹介しよう」リグが姿勢を正す。
「彼女はアリナ。……巫女だ」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと口を開いた。オルマヴィンで起きた出来事――アリナがコアを暴走させ、大規模な世界変容を引き起こしたことを、胸に刺さる記憶を押し隠しながら淡々と説明した。感情を交えれば、アリナを余計に苦しめる。それを知っているからこそ、声は抑えられていた。
「ふむ」
オルネスは興味深そうにアリナへと歩み寄り、観察者の目で一歩ずつ角度を変えながら見つめた。
「怖がらせはしない。少し触れるだけだ」
冗談めかした調子で言いながらも、その瞳は鋭く、同時に母親のような優しさを帯びていた。黒い羽が小さく揺れる。
彼女は子供のように純粋な目でアリナの指先や表情を確かめると、机から古びた計測器を引き寄せた。掌ほどの金属筐体に水晶が複数埋め込まれている。歯車がかちりと嚙み合い、内側で微かな唸りが生まれる。
「動かぬでな」
その声とともに、羽がひときわ大きく揺れた。
アリナは息を詰め、胸元のコアにそっと手を添えた。オルネスが計測器を近づけると、水晶のひとつが心臓の鼓動に呼応するように淡く明滅する。最初はゆっくり、すぐに速く。針が震え、目盛りの端を激しく叩いた。
「……っ」
オルネスの琥珀の瞳が細くなる。器具の窓に走る線は、通常値を軽々と飛び越え、刻印のない余白まで染めてなお、軋む音を上げて揺れ続けた。
アリナの指先が小さく震えた。無意識に、リグの袖口をつまむ。リグはその細い力を手の甲で受け止め、肩越しに彼女へ短く頷いた。――大丈夫だ、という合図を、言葉の代わりに。
器具の唸りがひと際強くなった瞬間、オルネスはスイッチを落とした。金属の音がぴたりと止む。部屋には炉の薪がぱちぱちと弾ける音だけが残った。
「異常だ」と彼女は率直に言った。
「通常の巫女の反応域から外れている。数倍……いや、桁が違う」
アリナは不安に揺れる瞳で博士を見上げた。
「わたしは……人間じゃないんですか?……」
「私はオルマヴィンで巫女として務めを果たしてきました。でも……暴走した時のあの力は異常でした。人間が持つには強すぎる……私は……」
言葉は震えとなり、空気に溶けた。
部屋の隅の暖炉からぱちりと火の粉が跳ね、その儚い音が沈黙を埋めた。
オルネスはそっと羽根を広げ、母のようにアリナを抱き寄せた。
「案ずるな。お主は異常ではない。他と少し異なるだけだ」
アリナの肩の震えが、ゆるやかに収まっていく。
オルネスは彼女の瞳を覗き込み、静かに続けた。
「私を見よ。私は〈コルヴィアン〉――カラスの血を宿す種の末裔。リグは〈アムフィビアン〉だ。姿形は違えど、皆それぞれの道を生きている」
そう言って、オルネスは机の端に腰を下ろし、指先で古びた古文書の角をとんとんと叩いた。
羽根の影が灯火に揺らめく。
「ただ一つだけはっきりしている。――この世界に存在する〈コア〉は、この星のものではない。そして……おそらく、この宇宙のものですらない」
その言葉が落ちた瞬間、暖炉の火がぱちりとはぜた。
温かな炎が燃えているはずなのに、空気が一瞬、冷えたように感じられた。
リグは驚きを隠せず声を荒げた。
「オルネス! 何を言っているんだ。コアがこの世のものではない? そんな話、封印騎士団では一度も聞いたことがない!」
オルネスは遮らず、静かに耳を傾けていた。そして揺るがぬ口調で告げる。
「私は長年、コアを研究してきた。騎士団に知られぬよう、時にお主の手を借りながら。そして悟ったのだ――あれは、この世界の理から逸脱した存在だとな」
言葉に重さが落ちる。アリナは不安げに息を呑み、リグは拳を握りしめた。
(そんなものを……俺たちは命を賭けて使ってきたのか……)
「落ち着け。リグ。」オルネスは羽を広げて宥めた。
「この場所はまだ騎士団には知られていない」
だがその瞬間、窓辺の吊り鉱石が硬い音を立てて震えた。続いて測定器の水晶が濁り、机上の針が勝手に揺れ始める。
オルネスの羽根がぴたりと止まった。
「……風ではない。振動だ」
耳を澄ますと、地鳴りのような低い足音が近づいてくるのが分かる。金属鎧のきしみ、松明の揺れる炎の赤。尾根筋に、火の蛇の列が現れては消えた。
リグは反射的に立ち上がり、声を押し殺す。
「封印騎士団だ。……一隊、いやそれ以上。包囲する気だ」
アリナが息を呑む。彼女の手は冷たかったが、その指先は必死にリグの袖を握り返していた。
「つけられていたか……!」オルネスが短く吐き捨てる。
リグは剣の柄に手をかけたが、すぐに首を振る。
「ここで戦えばアリナが危ない!」
「ならば急ぐぞ」
オルネスは部屋の奥――布で覆われた大きな直方体の物体へ歩み寄り、覆いを払った。現れたのは金属と石で組まれた枠。四角い台座には古い紋章が刻まれ、要所には淡い光を宿す結晶が埋め込まれている。歯車列と導線が天板の下面を這い、枠の四隅に取り付けられたレンズが、灯りを映して微かにきらめいた。
「転送装置だ」オルネスが手際よく点検しながら言う。
「座標は近くの森。遮蔽物が多く、追跡を振り切りやすい」
「この家は……」アリナが小さく問う。
「また建てればいいさ。」オルネスは短く笑い、胸元の小袋を軽く叩いた。
「さあ、乗れ」
三人は台座の中心に立った。オルネスが制御盤のレバーを倒し、銅のスイッチを押し込む。低い共鳴音が床下から立ち上がり、台座の紋章がゆっくりと光を帯びる。外からは、ついに玄関前で足が止まる鈍い音。命じる声が短く飛び、壁を巡る影が揺れた。
リグはアリナを庇うように半歩前へ出、剣の柄に手をかける。炉の火が最後の薪を割り、ぱち、と音を立てて沈んだ。
「固定、良し。座標、良し。――いくぞ」
オルネスが最後のスイッチに触れた刹那、アリナの胸のコアが脈動した。銀鈍い光が皮膚の下から滲み、瞬時に全身へ走る。台座の紋章がそれに呼応するように輝度を増し、予定された光の膜は、計算にない波形で空間へ広がった。
「….!、反応が――」オルネスの声が揺れる。制御盤の針が跳ね上がり、レンズが一斉に高音をきしませた。
床の石が、きしんだのではない。歪んだのだ。台座の中心で光と影が入れ替わり、空気の層がめくれ上がるように形を失った。視界の縁が滲み、輪郭が剥がれ、色が音に変わる。――世界が、薄皮一枚、裏返る。
アリナの髪がふわりと浮いた。彼女自身が光源のように淡く発光し、その光が枠の内部で幾何学の図形を瞬間的に描く。円が重なり、線がほどけ、点が生まれては消え、透明な脈拍のような波が足元から外へ打ち出された。
「アリナ!」リグは彼女の肩を抱き寄せた。腕の内で、鼓動が異様に静かで、しかし確かに――重たく――響く。オルネスは制御盤に手を走らせ、幾つかのスイッチを切り替えるが、反応はむしろ加速した。
「駄目だ。座標が攪乱されている」オルネスの声は研究者のそれだった。恐れを飲み込み、事実だけを言う。
「この反応は――この層の外から来ている」
次の瞬間、空間の裂け目が音もなく開いた。そこには闇があった。黒ではない。色そのものが意味を失い、深さだけが存在する無。それが枠の中央で形を取り、吸い込むでも吐き出すでもない圧力で、三人の足元をさらう。
松明の赤は遠く、甲冑のきしみも遠い。炉の熱も、足裏の石の確かさも、記憶の方へ退いていく。残ったのは、音のない鼓動――コアの、それに似て非なる何かの脈。
リグは最後に、オルネスの瞳がかすかに見開かれるのを見た。彼女の瞳に映る自分とアリナは、薄い膜の向こう側へ滑り落ちていく何者かだった。
彼らは、境目へと落ちた。
世界と世界の間――次元と次元が擦れ合う、名のない狭間へ。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
山肌をなでる風は冷たく、日が傾くたび、木立の影は長く伸びて岩場の割れ目へ沈んでいった。小盆地のさらに奥――獣道のような細い道を抜けた先に、その家はあった。岩壁を背に、木と石で組まれた小さな住まい。軒先には乾いた薬草の束がいくつも吊るされ、窓からは暖かな橙の光がこぼれている。煙突から立ちのぼる薄い煙は、冷たい空気の中でまっすぐ天へ吸い込まれていった。
リグが足を止め、扉に向けて小さく息を整える。懐かしさと緊張が、胸の内で同時に音を立てた。
扉がきしみ、黒い影が現れる。光に縁取られた羽。艶のある黒羽根を持つ女――コルヴィアンの研究者、オルネス博士。瞳は琥珀色に深く、嘴を思わせる口元がかすかな弧を描いた。
「……久しいな、リグ」
リグが足を止め、扉に向けて小さく息を整える。懐かしさと緊張が、胸の内で同時に音を立てた。
扉がきしみ、黒い影が現れる。光に縁取られた羽。艶のある黒羽根を持つ女――コルヴィアンの研究者、オルネス博士。瞳は琥珀色に深く、嘴を思わせる口元がかすかな弧を描いた。
「……久しいな、リグ」
低く、掠れた声。彼女の視線がリグの肩越しに動き、アリナで止まる。ひと呼吸おいて、口元がさらに上がった。
「餌を持ってきてくれたのか?」
「へ?ち、違います!」とアリナが反射的に身をすくめ、リグは慌てて手を振った。
「冗談だよ」とオルネスはくすりと笑い、羽根を軽く広げて道を開けた。「寒かったろう。中へおいで」
「餌を持ってきてくれたのか?」
「へ?ち、違います!」とアリナが反射的に身をすくめ、リグは慌てて手を振った。
「冗談だよ」とオルネスはくすりと笑い、羽根を軽く広げて道を開けた。「寒かったろう。中へおいで」
家の中は、外気から切り離されたように温かかった。炉には穏やかな火が燃え、薪とハーブが混じった匂いが鼻腔をくすぐる。壁一面に棚が組まれ、古文書や皮表紙の書物、金属と木で拵えられた奇妙な器具がぎっしり並ぶ。窓辺では鉱石の欠片を細い鎖で吊した風鈴のような装置がわずかに揺れ、触れ合うたび澄んだ高音を鳴らした。部屋の一角には小さな温室棚があり、苔と蔓が青々と息づいている。蔓の根は、乳色に光る小さな鉱石に絡みついていた。
「紹介しよう」リグが姿勢を正す。
「彼女はアリナ。……巫女だ」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと口を開いた。オルマヴィンで起きた出来事――アリナがコアを暴走させ、大規模な世界変容を引き起こしたことを、胸に刺さる記憶を押し隠しながら淡々と説明した。感情を交えれば、アリナを余計に苦しめる。それを知っているからこそ、声は抑えられていた。
「ふむ」
オルネスは興味深そうにアリナへと歩み寄り、観察者の目で一歩ずつ角度を変えながら見つめた。
「怖がらせはしない。少し触れるだけだ」
冗談めかした調子で言いながらも、その瞳は鋭く、同時に母親のような優しさを帯びていた。黒い羽が小さく揺れる。
彼女は子供のように純粋な目でアリナの指先や表情を確かめると、机から古びた計測器を引き寄せた。掌ほどの金属筐体に水晶が複数埋め込まれている。歯車がかちりと嚙み合い、内側で微かな唸りが生まれる。
「動かぬでな」
その声とともに、羽がひときわ大きく揺れた。
アリナは息を詰め、胸元のコアにそっと手を添えた。オルネスが計測器を近づけると、水晶のひとつが心臓の鼓動に呼応するように淡く明滅する。最初はゆっくり、すぐに速く。針が震え、目盛りの端を激しく叩いた。
「……っ」
オルネスの琥珀の瞳が細くなる。器具の窓に走る線は、通常値を軽々と飛び越え、刻印のない余白まで染めてなお、軋む音を上げて揺れ続けた。
アリナの指先が小さく震えた。無意識に、リグの袖口をつまむ。リグはその細い力を手の甲で受け止め、肩越しに彼女へ短く頷いた。――大丈夫だ、という合図を、言葉の代わりに。
器具の唸りがひと際強くなった瞬間、オルネスはスイッチを落とした。金属の音がぴたりと止む。部屋には炉の薪がぱちぱちと弾ける音だけが残った。
「彼女はアリナ。……巫女だ」
言葉を選ぶように、彼はゆっくりと口を開いた。オルマヴィンで起きた出来事――アリナがコアを暴走させ、大規模な世界変容を引き起こしたことを、胸に刺さる記憶を押し隠しながら淡々と説明した。感情を交えれば、アリナを余計に苦しめる。それを知っているからこそ、声は抑えられていた。
「ふむ」
オルネスは興味深そうにアリナへと歩み寄り、観察者の目で一歩ずつ角度を変えながら見つめた。
「怖がらせはしない。少し触れるだけだ」
冗談めかした調子で言いながらも、その瞳は鋭く、同時に母親のような優しさを帯びていた。黒い羽が小さく揺れる。
彼女は子供のように純粋な目でアリナの指先や表情を確かめると、机から古びた計測器を引き寄せた。掌ほどの金属筐体に水晶が複数埋め込まれている。歯車がかちりと嚙み合い、内側で微かな唸りが生まれる。
「動かぬでな」
その声とともに、羽がひときわ大きく揺れた。
アリナは息を詰め、胸元のコアにそっと手を添えた。オルネスが計測器を近づけると、水晶のひとつが心臓の鼓動に呼応するように淡く明滅する。最初はゆっくり、すぐに速く。針が震え、目盛りの端を激しく叩いた。
「……っ」
オルネスの琥珀の瞳が細くなる。器具の窓に走る線は、通常値を軽々と飛び越え、刻印のない余白まで染めてなお、軋む音を上げて揺れ続けた。
アリナの指先が小さく震えた。無意識に、リグの袖口をつまむ。リグはその細い力を手の甲で受け止め、肩越しに彼女へ短く頷いた。――大丈夫だ、という合図を、言葉の代わりに。
器具の唸りがひと際強くなった瞬間、オルネスはスイッチを落とした。金属の音がぴたりと止む。部屋には炉の薪がぱちぱちと弾ける音だけが残った。
「異常だ」と彼女は率直に言った。
「通常の巫女の反応域から外れている。数倍……いや、桁が違う」
アリナは不安に揺れる瞳で博士を見上げた。
「わたしは……人間じゃないんですか?……」
「私はオルマヴィンで巫女として務めを果たしてきました。でも……暴走した時のあの力は異常でした。人間が持つには強すぎる……私は……」
言葉は震えとなり、空気に溶けた。
部屋の隅の暖炉からぱちりと火の粉が跳ね、その儚い音が沈黙を埋めた。
オルネスはそっと羽根を広げ、母のようにアリナを抱き寄せた。
「案ずるな。お主は異常ではない。他と少し異なるだけだ」
アリナの肩の震えが、ゆるやかに収まっていく。
オルネスは彼女の瞳を覗き込み、静かに続けた。
「私を見よ。私は〈コルヴィアン〉――カラスの血を宿す種の末裔。リグは〈アムフィビアン〉だ。姿形は違えど、皆それぞれの道を生きている」
そう言って、オルネスは机の端に腰を下ろし、指先で古びた古文書の角をとんとんと叩いた。
「通常の巫女の反応域から外れている。数倍……いや、桁が違う」
アリナは不安に揺れる瞳で博士を見上げた。
「わたしは……人間じゃないんですか?……」
「私はオルマヴィンで巫女として務めを果たしてきました。でも……暴走した時のあの力は異常でした。人間が持つには強すぎる……私は……」
言葉は震えとなり、空気に溶けた。
部屋の隅の暖炉からぱちりと火の粉が跳ね、その儚い音が沈黙を埋めた。
オルネスはそっと羽根を広げ、母のようにアリナを抱き寄せた。
「案ずるな。お主は異常ではない。他と少し異なるだけだ」
アリナの肩の震えが、ゆるやかに収まっていく。
オルネスは彼女の瞳を覗き込み、静かに続けた。
「私を見よ。私は〈コルヴィアン〉――カラスの血を宿す種の末裔。リグは〈アムフィビアン〉だ。姿形は違えど、皆それぞれの道を生きている」
そう言って、オルネスは机の端に腰を下ろし、指先で古びた古文書の角をとんとんと叩いた。
羽根の影が灯火に揺らめく。
「ただ一つだけはっきりしている。――この世界に存在する〈コア〉は、この星のものではない。そして……おそらく、この宇宙のものですらない」
その言葉が落ちた瞬間、暖炉の火がぱちりとはぜた。
温かな炎が燃えているはずなのに、空気が一瞬、冷えたように感じられた。
リグは驚きを隠せず声を荒げた。
「オルネス! 何を言っているんだ。コアがこの世のものではない? そんな話、封印騎士団では一度も聞いたことがない!」
オルネスは遮らず、静かに耳を傾けていた。そして揺るがぬ口調で告げる。
「私は長年、コアを研究してきた。騎士団に知られぬよう、時にお主の手を借りながら。そして悟ったのだ――あれは、この世界の理から逸脱した存在だとな」
言葉に重さが落ちる。アリナは不安げに息を呑み、リグは拳を握りしめた。
(そんなものを……俺たちは命を賭けて使ってきたのか……)
「落ち着け。リグ。」オルネスは羽を広げて宥めた。
「この場所はまだ騎士団には知られていない」
だがその瞬間、窓辺の吊り鉱石が硬い音を立てて震えた。続いて測定器の水晶が濁り、机上の針が勝手に揺れ始める。
オルネスの羽根がぴたりと止まった。
「……風ではない。振動だ」
耳を澄ますと、地鳴りのような低い足音が近づいてくるのが分かる。金属鎧のきしみ、松明の揺れる炎の赤。尾根筋に、火の蛇の列が現れては消えた。
リグは反射的に立ち上がり、声を押し殺す。
「封印騎士団だ。……一隊、いやそれ以上。包囲する気だ」
アリナが息を呑む。彼女の手は冷たかったが、その指先は必死にリグの袖を握り返していた。
「つけられていたか……!」オルネスが短く吐き捨てる。
リグは剣の柄に手をかけたが、すぐに首を振る。
「ここで戦えばアリナが危ない!」
「ならば急ぐぞ」
「ただ一つだけはっきりしている。――この世界に存在する〈コア〉は、この星のものではない。そして……おそらく、この宇宙のものですらない」
その言葉が落ちた瞬間、暖炉の火がぱちりとはぜた。
温かな炎が燃えているはずなのに、空気が一瞬、冷えたように感じられた。
リグは驚きを隠せず声を荒げた。
「オルネス! 何を言っているんだ。コアがこの世のものではない? そんな話、封印騎士団では一度も聞いたことがない!」
オルネスは遮らず、静かに耳を傾けていた。そして揺るがぬ口調で告げる。
「私は長年、コアを研究してきた。騎士団に知られぬよう、時にお主の手を借りながら。そして悟ったのだ――あれは、この世界の理から逸脱した存在だとな」
言葉に重さが落ちる。アリナは不安げに息を呑み、リグは拳を握りしめた。
(そんなものを……俺たちは命を賭けて使ってきたのか……)
「落ち着け。リグ。」オルネスは羽を広げて宥めた。
「この場所はまだ騎士団には知られていない」
だがその瞬間、窓辺の吊り鉱石が硬い音を立てて震えた。続いて測定器の水晶が濁り、机上の針が勝手に揺れ始める。
オルネスの羽根がぴたりと止まった。
「……風ではない。振動だ」
耳を澄ますと、地鳴りのような低い足音が近づいてくるのが分かる。金属鎧のきしみ、松明の揺れる炎の赤。尾根筋に、火の蛇の列が現れては消えた。
リグは反射的に立ち上がり、声を押し殺す。
「封印騎士団だ。……一隊、いやそれ以上。包囲する気だ」
アリナが息を呑む。彼女の手は冷たかったが、その指先は必死にリグの袖を握り返していた。
「つけられていたか……!」オルネスが短く吐き捨てる。
リグは剣の柄に手をかけたが、すぐに首を振る。
「ここで戦えばアリナが危ない!」
「ならば急ぐぞ」
オルネスは部屋の奥――布で覆われた大きな直方体の物体へ歩み寄り、覆いを払った。現れたのは金属と石で組まれた枠。四角い台座には古い紋章が刻まれ、要所には淡い光を宿す結晶が埋め込まれている。歯車列と導線が天板の下面を這い、枠の四隅に取り付けられたレンズが、灯りを映して微かにきらめいた。
「転送装置だ」オルネスが手際よく点検しながら言う。
「座標は近くの森。遮蔽物が多く、追跡を振り切りやすい」
「この家は……」アリナが小さく問う。
「また建てればいいさ。」オルネスは短く笑い、胸元の小袋を軽く叩いた。
「さあ、乗れ」
三人は台座の中心に立った。オルネスが制御盤のレバーを倒し、銅のスイッチを押し込む。低い共鳴音が床下から立ち上がり、台座の紋章がゆっくりと光を帯びる。外からは、ついに玄関前で足が止まる鈍い音。命じる声が短く飛び、壁を巡る影が揺れた。
リグはアリナを庇うように半歩前へ出、剣の柄に手をかける。炉の火が最後の薪を割り、ぱち、と音を立てて沈んだ。
「固定、良し。座標、良し。――いくぞ」
オルネスが最後のスイッチに触れた刹那、アリナの胸のコアが脈動した。銀鈍い光が皮膚の下から滲み、瞬時に全身へ走る。台座の紋章がそれに呼応するように輝度を増し、予定された光の膜は、計算にない波形で空間へ広がった。
「….!、反応が――」オルネスの声が揺れる。制御盤の針が跳ね上がり、レンズが一斉に高音をきしませた。
床の石が、きしんだのではない。歪んだのだ。台座の中心で光と影が入れ替わり、空気の層がめくれ上がるように形を失った。視界の縁が滲み、輪郭が剥がれ、色が音に変わる。――世界が、薄皮一枚、裏返る。
アリナの髪がふわりと浮いた。彼女自身が光源のように淡く発光し、その光が枠の内部で幾何学の図形を瞬間的に描く。円が重なり、線がほどけ、点が生まれては消え、透明な脈拍のような波が足元から外へ打ち出された。
「アリナ!」リグは彼女の肩を抱き寄せた。腕の内で、鼓動が異様に静かで、しかし確かに――重たく――響く。オルネスは制御盤に手を走らせ、幾つかのスイッチを切り替えるが、反応はむしろ加速した。
「駄目だ。座標が攪乱されている」オルネスの声は研究者のそれだった。恐れを飲み込み、事実だけを言う。
「この反応は――この層の外から来ている」
次の瞬間、空間の裂け目が音もなく開いた。そこには闇があった。黒ではない。色そのものが意味を失い、深さだけが存在する無。それが枠の中央で形を取り、吸い込むでも吐き出すでもない圧力で、三人の足元をさらう。
松明の赤は遠く、甲冑のきしみも遠い。炉の熱も、足裏の石の確かさも、記憶の方へ退いていく。残ったのは、音のない鼓動――コアの、それに似て非なる何かの脈。
リグは最後に、オルネスの瞳がかすかに見開かれるのを見た。彼女の瞳に映る自分とアリナは、薄い膜の向こう側へ滑り落ちていく何者かだった。
彼らは、境目へと落ちた。
世界と世界の間――次元と次元が擦れ合う、名のない狭間へ。
「転送装置だ」オルネスが手際よく点検しながら言う。
「座標は近くの森。遮蔽物が多く、追跡を振り切りやすい」
「この家は……」アリナが小さく問う。
「また建てればいいさ。」オルネスは短く笑い、胸元の小袋を軽く叩いた。
「さあ、乗れ」
三人は台座の中心に立った。オルネスが制御盤のレバーを倒し、銅のスイッチを押し込む。低い共鳴音が床下から立ち上がり、台座の紋章がゆっくりと光を帯びる。外からは、ついに玄関前で足が止まる鈍い音。命じる声が短く飛び、壁を巡る影が揺れた。
リグはアリナを庇うように半歩前へ出、剣の柄に手をかける。炉の火が最後の薪を割り、ぱち、と音を立てて沈んだ。
「固定、良し。座標、良し。――いくぞ」
オルネスが最後のスイッチに触れた刹那、アリナの胸のコアが脈動した。銀鈍い光が皮膚の下から滲み、瞬時に全身へ走る。台座の紋章がそれに呼応するように輝度を増し、予定された光の膜は、計算にない波形で空間へ広がった。
「….!、反応が――」オルネスの声が揺れる。制御盤の針が跳ね上がり、レンズが一斉に高音をきしませた。
床の石が、きしんだのではない。歪んだのだ。台座の中心で光と影が入れ替わり、空気の層がめくれ上がるように形を失った。視界の縁が滲み、輪郭が剥がれ、色が音に変わる。――世界が、薄皮一枚、裏返る。
アリナの髪がふわりと浮いた。彼女自身が光源のように淡く発光し、その光が枠の内部で幾何学の図形を瞬間的に描く。円が重なり、線がほどけ、点が生まれては消え、透明な脈拍のような波が足元から外へ打ち出された。
「アリナ!」リグは彼女の肩を抱き寄せた。腕の内で、鼓動が異様に静かで、しかし確かに――重たく――響く。オルネスは制御盤に手を走らせ、幾つかのスイッチを切り替えるが、反応はむしろ加速した。
「駄目だ。座標が攪乱されている」オルネスの声は研究者のそれだった。恐れを飲み込み、事実だけを言う。
「この反応は――この層の外から来ている」
次の瞬間、空間の裂け目が音もなく開いた。そこには闇があった。黒ではない。色そのものが意味を失い、深さだけが存在する無。それが枠の中央で形を取り、吸い込むでも吐き出すでもない圧力で、三人の足元をさらう。
松明の赤は遠く、甲冑のきしみも遠い。炉の熱も、足裏の石の確かさも、記憶の方へ退いていく。残ったのは、音のない鼓動――コアの、それに似て非なる何かの脈。
リグは最後に、オルネスの瞳がかすかに見開かれるのを見た。彼女の瞳に映る自分とアリナは、薄い膜の向こう側へ滑り落ちていく何者かだった。
彼らは、境目へと落ちた。
世界と世界の間――次元と次元が擦れ合う、名のない狭間へ。