第4話:コンビニの女神
ー/ー「……よし、これで絶縁抵抗値もバッチリだ。佐藤さん、確認お願いします!」
相模原の現場。二十三歳になった相沢恒一の声には、三年前の震えなど微塵もなかった。手にしたメガテスターの針は、完全な絶縁を示している。かつては道具の名前さえ怪しかった男が、今では数人の若手を引き連れ、現場の中核を担う「職長」としての風格を漂わせていた。
「ああ、いいだろう。……恒一、お前、手元がだいぶ柴崎さんに似てきたな」
厳しい佐藤からの、不意の言葉。恒一は照れ隠しにヘルメットを被り直した。 「……そんなことねぇっすよ。俺なんて、まだまだ。……でも、あの盤だけは、誰に見られても恥ずかしくねぇように組みました」
三年前、病院の現場で佐藤が見せた「神業」の景色。あの日以来、恒一の心には一つの楔(くさび)が打ち込まれていた。ただ繋げばいいんじゃない。そこに「魂」を宿す。それが、柴崎龍司が自分に叩き込んでくれた電気屋のプライドだ。
「よし、今日はここまでだ。撤収!」
佐藤の号令で、現場が片付けられていく。恒一はハイエースの助手席に乗り込み、窓の外を流れる相模原の景色を眺めていた。ふと、視界の端を国道沿いの「あのコンビニ」が掠めた。
三年前。完工の夜、一言も交わせぬまま残した、殴り書きのメモ。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます』
自分の名前だけを記し、連絡先さえ書かなかった不器用すぎるメッセージ。あの日以来、恒一は何度かあの店を訪れたが、理恵の姿は二度となかった。辞めたのか、それともシフトが変わったのか。聞く勇気もないまま、いつしか現場は相模原を離れ、都内の大規模プロジェクトへと移っていった。
(元気でやってりゃ、いいんだけどな……)
そんな感傷を振り払うように、恒一は自分の掌を見つめた。傷だらけで、タコが固くなった、職人の手。この手があれば、どこでだって生きていける。そう確信し始めた頃、恒一の胸には「独立」という二文字が芽生え始めていた。
「……龍司さん。俺、いつか自分の看板を掲げたいんです」
ある夜、事務所で二人きりになった時、恒一は思い切って切り出した。柴崎は驚いた様子もなく、灰皿にタバコを押し付けた。
「……早いな、と思ったが。お前のその目、止めても無駄だろうな」 「すみません。でも、龍司さんに教わったこの技術を、自分の力でどこまで通用するか試してみたいんです」
「……いいだろう。だが、一つだけ約束しろ。……どんなに金が稼げるようになっても、『トラスト(信頼)』を売るな。お前の手元一つで、誰かの命を守ってるってことを、一秒たりとも忘れるんじゃねぇぞ」
「……はい。肝に銘じます」
柴崎龍司という大きな背中。そこから卒業し、荒波へ漕ぎ出す決意を固めた恒一に、運命は思いがけない再会を用意していた。
独立を決めた翌週。恒一は、柴崎電設としての最後の仕事を終えた。夕闇が迫る相模原の街を、自分の中古の軽トラで走らせていた。助手席には、柴崎から譲り受けた、使い込まれた古いペンチ。
ふと、ハンドルを切った。向かったのは、今の現場とは何の関係もない、あの国道沿いのコンビニだった。
工事の予定があるわけではない。ただ、一人の客として。 独立という、全責任を背負う「一人親方」への一歩を踏み出す前に、恒一はどうしても確かめたかった。自分が初めて「魂を込めた」と言えるあの場所が、今も正しく照らされているか。そして、あの時自分を救ってくれた眼差しが、どこかで幸せに暮らしているか。
カラン、とドアが開く。 店内の照明は、三年前と変わらず、恒一たちが繋いだ回路によって煌々と街を照らしている。棚の奥まで見渡せるその「当たり前の光」の中に、彼女はいた。
品出しをしていた理恵が、こちらを振り返る。 「いらっしゃいませ……」
理恵の動きが止まった。三年前の金髪の少年ではない。短く刈り込んだ黒髪に、体格も一回り大きくなった、精悍な顔つきの男。だが、その瞳に宿る真っ直ぐな光を、彼女は忘れていなかった。
「……あ。……あの……」 恒一の声が、喉に張り付いた。理恵が、不思議そうな顔をしてこちらを振り返る。三年の月日は、彼女の記憶から自分を消し去ってしまったのだろうか。恒一は言いようのない寂しさと、それでも再会できた喜びの狭間で立ち尽くした。
だが、理恵の視線が、恒一の腰袋に下がった「あるもの」に止まった。 それは、柴崎から譲り受けた、世界に一つしかないお手製の工具。
「……あ。……もしかして」
理恵の瞳が、大きく見開かれた。彼女はカウンターの下から、ラミネートされた一枚の「紙」を取り出した。
それは、ボロボロになり、油染みがついていたが、大切に保管されていたあの日のメモだった。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます。……お疲れ様でした。 相沢』
「……本当に、また来てくれたんですね。相沢さん」 理恵の微笑みが、三年前のあの頃よりも、ずっと深く、温かいものに変わった。止まっていた時間が、音を立てて動き出した。
カウンター越しに差し出された、ラミネートされた一枚のメモ。それは三年前、恒一がまだ自分の居場所さえ見つけられず、ただ必死に泥を啜っていた頃の、青臭い誇りの欠片だった。
「……まだ、持ってたんですか。そんなもん」 恒一の声は、自分でも驚くほど掠れていた。作業着の袖で額の汗を拭うが、手の汚れが顔について、かえって黒く汚れてしまう。理恵はそれを見て、くすりと小さく笑った。その笑い声は、工事現場の騒音に慣れきった恒一の鼓膜に、春の小川のせせらぎのように心地よく響いた。
「宝物だったんです、これ。……あの日、私は熱を出して急にお休みしちゃって。次の日に出勤したら、レジの隅にこれがポツンと置いてあったんです。店長は『誰かの悪戯だろうから捨てろ』って言ったんですけど、私、どうしても捨てられなくて。……あ、あの毎日コーヒーを買いに来てくれていた、金髪のお兄さんだ!って、すぐに分かりました」
理恵の瞳は、三年前の夜よりもずっと深く、そして真っ直ぐに恒一を見つめていた。 「連絡先も書いてないし、お礼を言う術もなくて。でも、このお店の電気がパッと点くたびに、あ、あの人がどこかで頑張ってるのかなって。この光は、あの人が守ってくれてるのかなって、勝手に思って励まされてたんです。……本当に、また来てくれたんですね。相沢さん」
恒一は、胸の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。自分が引いた一本の線、指先に力を込めて締めた一つのビス。それが、誰かの記憶の中でこれほど大切に保管され、誰かの夜を照らす糧になっていた。
中学を卒業して以来、誰かに「必要とされている」とこれほど強く実感したことはなかった。
「……俺、もう金髪じゃないし。今は別の、もっとデカい現場ばっかり回ってますけど。……でも、あの日書いたことに嘘はありません。独立、するんです。明日から俺、一人でやっていくことになりました。……だから、あの日書いた言葉に、責任を持ちたいんです。何かあったら、俺が来ます。誰にも直せないもんでも、俺が絶対、直しに来ます」
不器用な、しかし剥き出しの言葉。洗練された口説き文句ではない。だが、それは職人・相沢恒一が捧げられる、最大級の愛の告白でもあった。
理恵は、その言葉を慈しむように何度も頷くと、そっと右手を差し出した。 「よろしくお願いしますね。相沢さん。……それから、お仕事、無理しすぎないでくださいね」
その掌は、驚くほど温かかった。泥だらけで、タコで固くなった恒一の手と、白く繊細な理恵の手。対照的な二つの手が、相模原の片隅にある小さな店内で、静かに重なった。
その瞬間の温度が、恒一の中で「何か」を決定づけた。この人を、この街を、自分の腕一本で堂々と支えられるような、本物の男になりたい。そのためには、いつまでも「柴崎電設の若手」という温い殻の中にいてはいけないのだと、魂が叫んでいた。
一週間後。恒一は、柴崎電設の事務所の重い鉄扉を、今までとは違う覚悟で開けた。 時刻は夜の八時を回っている。事務所の中には、いつものように図面を広げ、酒を片手に明日の段取りを考えている柴崎龍司がいた。蛍光灯のジジッという微かな唸りと、使い込まれた工具の油の匂い。三年間、恒一を育ててくれた、第二の実家とも呼べる場所だ。
「……龍司さん。お話があります」
恒一のただならぬ気配に、柴崎はゆっくりと眼鏡を外し、顔を上げた。その鋭い眼光は、三年前、路地裏で恒一を救った時と変わらない。
「……道具は、全部揃えたのか?」 柴崎の問いは、恒一が何を言い出すかを百も承知しているかのようだった。
「はい。中古の軽トラを一台、ローンで買いました。腰道具も、一通り。……あとは、龍司さんに教わったこの腕だけです」
恒一は、三年間片時も離さず使い続けてきた腰袋を、ガチャンと音を立てて机の上に置いた。 「……三年間、本当にありがとうございました。俺、明日から『相沢電設』として、外に出ます。一人親方として、自分の名前で、勝負してみたいんです」
沈黙が事務所を支配した。恒一は拳を握りしめ、柴崎の返答を待った。怒鳴られるかもしれない。「まだ早い」と一蹴されるかもしれない。だが、柴崎の口から漏れたのは、低く、温かい溜息だった。
「……早いな、と思ったが。お前のその目を見てっと、止めても無駄だろうな」
柴崎は立ち上がり、机の引き出しから一通の茶封筒を取り出した。それを恒一の胸元へ無造作に突き出す。 「……これは?」 「独立祝いだ。相模原の小さな工務店だが、俺の昔からの腐れ縁の社長だ。最初はコンセントの交換や、換気扇の掃除みたいな小せぇ仕事ばっかりだろうが、お前のその不器用な誠実さなら、気に入ってもらえるだろう」
柴崎は恒一の肩を、砕けんばかりの力で叩いた。 「いいか、恒一。独立するってことは、全責任をお前一人が背負うってことだ。現場で怪我をするのも、飯が食えなくなるのも、全部お前のせいだ。誰も助けちゃくれねぇ。……だが、もしどうしても道に迷って、暗闇から抜け出せなくなったら、いつでもこの事務所の看板を見に来い。俺はここを、一歩も動かねぇからな」
「……龍司、さん……っ」
堪えていたものが、一気に溢れ出しそうになった。 「おい、しんみりしてんじゃねぇぞ、恒一!」 事務所の奥から、佐藤や田中が顔を出した。
「独立したからって、俺たちより先に現場入りしてねぇと、現場でヤキ入れっからな!」 「……当たり前だろ、佐藤さん。あんたのあの、変態みたいな綺麗な結線、いつか絶対に追い抜いてやるよ」
強がりの言葉に、事務所内がドッと沸いた。笑い声と、少しの寂しさが混じり合う、相模原の夜。 恒一は、自分の名前だけが印刷された、まだインクの匂いが新しい名刺をポケットに入れ、夜道を歩いた。
国道沿い、あのコンビニの前に立つ。深夜の静寂の中、煌々と光り輝く看板。かつて自分が、命を削る思いで通した電気が、今もこうして街を、そして理恵を照らしている。
ガラス越しに、一生懸命に品出しをする理恵の背中が見えた。彼女はまだ、恒一が今日、大きな組織を離れて「一人親方」という修羅の道を選んだことを知らない。
それでいい、と恒一は思った。今はまだ、何の後ろ盾もない、軽トラ一台の小さな存在だ。だが、この相模原の暗闇を、自分の手で一つずつ、確実に照らしていく。その光の数だけ、彼女に、そしてこの世界に認められる男になってみせる。
翌朝、午前五時。相模原の住宅街に、中古の軽トラの頼りないエンジン音が響いた。助手席には、柴崎から譲り受けた、使い込まれたあの古いペンチ。
ルームミラーに映る自分の顔は、三年前の「ガキ」のそれとは、完全に見違えるほど、鋭く、そして優しく、一人の「職人」の光を宿していた。
「……行くか」
ギアをローに入れ、アクセルを踏み込む。 相沢恒一、二十三歳。 「トラスト・アイ」の物語が、今、本物の光となって走り出した。
相模原の現場。二十三歳になった相沢恒一の声には、三年前の震えなど微塵もなかった。手にしたメガテスターの針は、完全な絶縁を示している。かつては道具の名前さえ怪しかった男が、今では数人の若手を引き連れ、現場の中核を担う「職長」としての風格を漂わせていた。
「ああ、いいだろう。……恒一、お前、手元がだいぶ柴崎さんに似てきたな」
厳しい佐藤からの、不意の言葉。恒一は照れ隠しにヘルメットを被り直した。 「……そんなことねぇっすよ。俺なんて、まだまだ。……でも、あの盤だけは、誰に見られても恥ずかしくねぇように組みました」
三年前、病院の現場で佐藤が見せた「神業」の景色。あの日以来、恒一の心には一つの楔(くさび)が打ち込まれていた。ただ繋げばいいんじゃない。そこに「魂」を宿す。それが、柴崎龍司が自分に叩き込んでくれた電気屋のプライドだ。
「よし、今日はここまでだ。撤収!」
佐藤の号令で、現場が片付けられていく。恒一はハイエースの助手席に乗り込み、窓の外を流れる相模原の景色を眺めていた。ふと、視界の端を国道沿いの「あのコンビニ」が掠めた。
三年前。完工の夜、一言も交わせぬまま残した、殴り書きのメモ。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます』
自分の名前だけを記し、連絡先さえ書かなかった不器用すぎるメッセージ。あの日以来、恒一は何度かあの店を訪れたが、理恵の姿は二度となかった。辞めたのか、それともシフトが変わったのか。聞く勇気もないまま、いつしか現場は相模原を離れ、都内の大規模プロジェクトへと移っていった。
(元気でやってりゃ、いいんだけどな……)
そんな感傷を振り払うように、恒一は自分の掌を見つめた。傷だらけで、タコが固くなった、職人の手。この手があれば、どこでだって生きていける。そう確信し始めた頃、恒一の胸には「独立」という二文字が芽生え始めていた。
「……龍司さん。俺、いつか自分の看板を掲げたいんです」
ある夜、事務所で二人きりになった時、恒一は思い切って切り出した。柴崎は驚いた様子もなく、灰皿にタバコを押し付けた。
「……早いな、と思ったが。お前のその目、止めても無駄だろうな」 「すみません。でも、龍司さんに教わったこの技術を、自分の力でどこまで通用するか試してみたいんです」
「……いいだろう。だが、一つだけ約束しろ。……どんなに金が稼げるようになっても、『トラスト(信頼)』を売るな。お前の手元一つで、誰かの命を守ってるってことを、一秒たりとも忘れるんじゃねぇぞ」
「……はい。肝に銘じます」
柴崎龍司という大きな背中。そこから卒業し、荒波へ漕ぎ出す決意を固めた恒一に、運命は思いがけない再会を用意していた。
独立を決めた翌週。恒一は、柴崎電設としての最後の仕事を終えた。夕闇が迫る相模原の街を、自分の中古の軽トラで走らせていた。助手席には、柴崎から譲り受けた、使い込まれた古いペンチ。
ふと、ハンドルを切った。向かったのは、今の現場とは何の関係もない、あの国道沿いのコンビニだった。
工事の予定があるわけではない。ただ、一人の客として。 独立という、全責任を背負う「一人親方」への一歩を踏み出す前に、恒一はどうしても確かめたかった。自分が初めて「魂を込めた」と言えるあの場所が、今も正しく照らされているか。そして、あの時自分を救ってくれた眼差しが、どこかで幸せに暮らしているか。
カラン、とドアが開く。 店内の照明は、三年前と変わらず、恒一たちが繋いだ回路によって煌々と街を照らしている。棚の奥まで見渡せるその「当たり前の光」の中に、彼女はいた。
品出しをしていた理恵が、こちらを振り返る。 「いらっしゃいませ……」
理恵の動きが止まった。三年前の金髪の少年ではない。短く刈り込んだ黒髪に、体格も一回り大きくなった、精悍な顔つきの男。だが、その瞳に宿る真っ直ぐな光を、彼女は忘れていなかった。
「……あ。……あの……」 恒一の声が、喉に張り付いた。理恵が、不思議そうな顔をしてこちらを振り返る。三年の月日は、彼女の記憶から自分を消し去ってしまったのだろうか。恒一は言いようのない寂しさと、それでも再会できた喜びの狭間で立ち尽くした。
だが、理恵の視線が、恒一の腰袋に下がった「あるもの」に止まった。 それは、柴崎から譲り受けた、世界に一つしかないお手製の工具。
「……あ。……もしかして」
理恵の瞳が、大きく見開かれた。彼女はカウンターの下から、ラミネートされた一枚の「紙」を取り出した。
それは、ボロボロになり、油染みがついていたが、大切に保管されていたあの日のメモだった。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます。……お疲れ様でした。 相沢』
「……本当に、また来てくれたんですね。相沢さん」 理恵の微笑みが、三年前のあの頃よりも、ずっと深く、温かいものに変わった。止まっていた時間が、音を立てて動き出した。
カウンター越しに差し出された、ラミネートされた一枚のメモ。それは三年前、恒一がまだ自分の居場所さえ見つけられず、ただ必死に泥を啜っていた頃の、青臭い誇りの欠片だった。
「……まだ、持ってたんですか。そんなもん」 恒一の声は、自分でも驚くほど掠れていた。作業着の袖で額の汗を拭うが、手の汚れが顔について、かえって黒く汚れてしまう。理恵はそれを見て、くすりと小さく笑った。その笑い声は、工事現場の騒音に慣れきった恒一の鼓膜に、春の小川のせせらぎのように心地よく響いた。
「宝物だったんです、これ。……あの日、私は熱を出して急にお休みしちゃって。次の日に出勤したら、レジの隅にこれがポツンと置いてあったんです。店長は『誰かの悪戯だろうから捨てろ』って言ったんですけど、私、どうしても捨てられなくて。……あ、あの毎日コーヒーを買いに来てくれていた、金髪のお兄さんだ!って、すぐに分かりました」
理恵の瞳は、三年前の夜よりもずっと深く、そして真っ直ぐに恒一を見つめていた。 「連絡先も書いてないし、お礼を言う術もなくて。でも、このお店の電気がパッと点くたびに、あ、あの人がどこかで頑張ってるのかなって。この光は、あの人が守ってくれてるのかなって、勝手に思って励まされてたんです。……本当に、また来てくれたんですね。相沢さん」
恒一は、胸の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。自分が引いた一本の線、指先に力を込めて締めた一つのビス。それが、誰かの記憶の中でこれほど大切に保管され、誰かの夜を照らす糧になっていた。
中学を卒業して以来、誰かに「必要とされている」とこれほど強く実感したことはなかった。
「……俺、もう金髪じゃないし。今は別の、もっとデカい現場ばっかり回ってますけど。……でも、あの日書いたことに嘘はありません。独立、するんです。明日から俺、一人でやっていくことになりました。……だから、あの日書いた言葉に、責任を持ちたいんです。何かあったら、俺が来ます。誰にも直せないもんでも、俺が絶対、直しに来ます」
不器用な、しかし剥き出しの言葉。洗練された口説き文句ではない。だが、それは職人・相沢恒一が捧げられる、最大級の愛の告白でもあった。
理恵は、その言葉を慈しむように何度も頷くと、そっと右手を差し出した。 「よろしくお願いしますね。相沢さん。……それから、お仕事、無理しすぎないでくださいね」
その掌は、驚くほど温かかった。泥だらけで、タコで固くなった恒一の手と、白く繊細な理恵の手。対照的な二つの手が、相模原の片隅にある小さな店内で、静かに重なった。
その瞬間の温度が、恒一の中で「何か」を決定づけた。この人を、この街を、自分の腕一本で堂々と支えられるような、本物の男になりたい。そのためには、いつまでも「柴崎電設の若手」という温い殻の中にいてはいけないのだと、魂が叫んでいた。
一週間後。恒一は、柴崎電設の事務所の重い鉄扉を、今までとは違う覚悟で開けた。 時刻は夜の八時を回っている。事務所の中には、いつものように図面を広げ、酒を片手に明日の段取りを考えている柴崎龍司がいた。蛍光灯のジジッという微かな唸りと、使い込まれた工具の油の匂い。三年間、恒一を育ててくれた、第二の実家とも呼べる場所だ。
「……龍司さん。お話があります」
恒一のただならぬ気配に、柴崎はゆっくりと眼鏡を外し、顔を上げた。その鋭い眼光は、三年前、路地裏で恒一を救った時と変わらない。
「……道具は、全部揃えたのか?」 柴崎の問いは、恒一が何を言い出すかを百も承知しているかのようだった。
「はい。中古の軽トラを一台、ローンで買いました。腰道具も、一通り。……あとは、龍司さんに教わったこの腕だけです」
恒一は、三年間片時も離さず使い続けてきた腰袋を、ガチャンと音を立てて机の上に置いた。 「……三年間、本当にありがとうございました。俺、明日から『相沢電設』として、外に出ます。一人親方として、自分の名前で、勝負してみたいんです」
沈黙が事務所を支配した。恒一は拳を握りしめ、柴崎の返答を待った。怒鳴られるかもしれない。「まだ早い」と一蹴されるかもしれない。だが、柴崎の口から漏れたのは、低く、温かい溜息だった。
「……早いな、と思ったが。お前のその目を見てっと、止めても無駄だろうな」
柴崎は立ち上がり、机の引き出しから一通の茶封筒を取り出した。それを恒一の胸元へ無造作に突き出す。 「……これは?」 「独立祝いだ。相模原の小さな工務店だが、俺の昔からの腐れ縁の社長だ。最初はコンセントの交換や、換気扇の掃除みたいな小せぇ仕事ばっかりだろうが、お前のその不器用な誠実さなら、気に入ってもらえるだろう」
柴崎は恒一の肩を、砕けんばかりの力で叩いた。 「いいか、恒一。独立するってことは、全責任をお前一人が背負うってことだ。現場で怪我をするのも、飯が食えなくなるのも、全部お前のせいだ。誰も助けちゃくれねぇ。……だが、もしどうしても道に迷って、暗闇から抜け出せなくなったら、いつでもこの事務所の看板を見に来い。俺はここを、一歩も動かねぇからな」
「……龍司、さん……っ」
堪えていたものが、一気に溢れ出しそうになった。 「おい、しんみりしてんじゃねぇぞ、恒一!」 事務所の奥から、佐藤や田中が顔を出した。
「独立したからって、俺たちより先に現場入りしてねぇと、現場でヤキ入れっからな!」 「……当たり前だろ、佐藤さん。あんたのあの、変態みたいな綺麗な結線、いつか絶対に追い抜いてやるよ」
強がりの言葉に、事務所内がドッと沸いた。笑い声と、少しの寂しさが混じり合う、相模原の夜。 恒一は、自分の名前だけが印刷された、まだインクの匂いが新しい名刺をポケットに入れ、夜道を歩いた。
国道沿い、あのコンビニの前に立つ。深夜の静寂の中、煌々と光り輝く看板。かつて自分が、命を削る思いで通した電気が、今もこうして街を、そして理恵を照らしている。
ガラス越しに、一生懸命に品出しをする理恵の背中が見えた。彼女はまだ、恒一が今日、大きな組織を離れて「一人親方」という修羅の道を選んだことを知らない。
それでいい、と恒一は思った。今はまだ、何の後ろ盾もない、軽トラ一台の小さな存在だ。だが、この相模原の暗闇を、自分の手で一つずつ、確実に照らしていく。その光の数だけ、彼女に、そしてこの世界に認められる男になってみせる。
翌朝、午前五時。相模原の住宅街に、中古の軽トラの頼りないエンジン音が響いた。助手席には、柴崎から譲り受けた、使い込まれたあの古いペンチ。
ルームミラーに映る自分の顔は、三年前の「ガキ」のそれとは、完全に見違えるほど、鋭く、そして優しく、一人の「職人」の光を宿していた。
「……行くか」
ギアをローに入れ、アクセルを踏み込む。 相沢恒一、二十三歳。 「トラスト・アイ」の物語が、今、本物の光となって走り出した。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。