第3話:3年目の景色
ー/ー相模原の空は、三年前と変わらず広い。だが、そこを見上げる相沢恒一の視線は、確実に変わっていた。
「……よし、ここは1.6の3芯で渡して、ジョイントボックスはあそこだな」
脚立の上で、恒一は迷いなく腰袋から電工ナイフを引き抜いた。 金髪のモヒカンは影を潜め、今は潔く刈り上げた短髪に、日焼けした精悍な顔つきが覗く。耳元に光る小さなピアスだけが、かつてのヤンチャな面影を残していた。 21歳。柴崎電設に入って三度目の春。 今では基本的な回路構成なら図面を見ずとも頭に入り、複雑な配管作業も一人で任せられるまでになっていた。
「あの~、恒一さん。こっちの結線、終わりました。確認してください」 下から声をかけてきたのは、半年前に入った後輩のタカシだ。
「ああ、今行く。……タカシ、お前これ、シース(外皮)の剥きが甘いぞ。あと5ミリ長く剥け。ボックスの中で線が窮屈だと、後でトラブルの元になるんだよ」
「うっ……すみません。恒一さん、厳しいっすね」 「当たり前だ。電気屋は『見えないところ』で仕事してんだ。蓋を閉めちまえば分からねぇなんて思ってんなよ」
後輩を指導する自分の言葉に、ふと、かつての佐藤や柴崎の影が重なる。 自分も少しは「プロ」の端くれになれたのではないか。そんな小さな自負が、恒一の胸をわずかに高鳴らせていた。
だが、そんな自信は、その日の午後、元請けの定例検査で脆くも崩れ去ることになる。
「……第4エリアの配線ルート、設計図と三十センチほどズレていますね。修正をお願いします」
タブレット端末を片手に、冷淡な声で告げたのは、元請け会社から派遣されてきた若手社員、犬飼幸太郎だった。 恒一より少し年上に見えるが、現場の泥にまみれた自分たちとは対照的に、汚れ一つない作業着のボタンを一番上まで留め、眼鏡の奥で神経質そうな瞳を光らせている。
「いや、犬飼さん。そこは現場の梁の関係で、設計通りだと曲がりがきつくなりすぎるんですよ。だから余裕を持って外に振ったんです。機能的には何の問題も……」 「マニュアルにない独自判断は、リスクでしかありません」 犬飼は恒一の言葉を遮り、感情を排した声で続けた。 「規定通りに。それがプロの仕事でしょう。ここはあなたの『作品』を作る場所ではない。設計者の意図を忠実に再現する場所です」
カチンときた恒一が、一歩前に出ようとした。 「てめぇ、現場の苦労も知らねぇで……」
「恒一。……下がってろ」
背後から、低く、重い声が響いた。 柴崎龍司だ。彼はゆっくりと犬飼の前に立ち、無造作に図面を広げた。 「犬飼さん。確かに設計は絶対だ。だが、現場で起きる磁界の影響や、将来的な増設を考えれば、この逃がしは合理的だ。……ただし、あんたがどうしても直せと言うなら、今すぐやり直させよう。マニュアルを越える美しさ(・・)を見せてからな」
犬飼は一瞬だけ表情を歪めたが、「……確認します」とだけ言い残し、次のエリアへと去っていった。
「……クソ。何なんすか、あのオタク野郎。マニュアル、マニュアルって、現場の何が分かるんだよ」 毒づく恒一の肩を、柴崎が強く掴んだ。
「恒一。あいつの言い草はムカつくが、一つだけ正論がある。……お前の仕事には、まだ『理由』が足りねぇ」
「理由……?」 「ああ。犬飼みたいな理屈屋を黙らせるにはな、言葉じゃねぇ。圧倒的な『仕上がり』を見せつけるしかねぇんだ。……おい、佐藤。あそこのメイン盤の切り替え、やって見せてやれ。活線(電気が生きた状態)のままだ」
恒一の目が点になった。 今回の現場は、一部の機能を止めることができない病院の管理棟だ。本来なら数時間の停電が必要な作業を、佐藤は「無停電」で、しかも生きた電気の中へ手を突っ込んで行うという。
「……見てろ、恒一。これが『景色』の違いだ」
佐藤が脚立に登り、盤の蓋を開けた。 そこからは、恒一がこれまで見てきたものとは次元の違う「神業」が始まった。
無数に絡み合う太いケーブル。佐藤は図面を一瞥することさえせず、迷いのない手つきで一本、また一本と線を捌いていく。 右手に絶縁工具、左手にはテスター。
まるで爆弾の解体作業のような緊張感の中、佐藤の動きには一分の迷いも、一ミリの無駄な動きもなかった。
何より恒一を驚かせたのは、その「美しさ」だった。 佐藤の手によって整えられたケーブルは、まるで軍隊の整列のように等間隔に並び、結束バンドの向きさえも一糸乱れず揃えられている。余長として残された線のカーブは、計算し尽くされた幾何学模様のように美しく、盤の中に「芸術」が描き出されていく。
「……すげぇ……」
恒一は、息をするのも忘れてその手元を凝視した。 自分がこれまで「完璧だ」と思っていた結線が、まるで子供の工作のように思えてくる。
佐藤は、目に見えない電気の流れを、指先の感覚だけで可視化しているかのようだった。どこに負荷がかかり、どこに熱が溜まりやすいか。図面を読み解くのではなく、建物そのものと対話しているような、圧倒的な練度。
作業が終わった盤の中には、非の打ち所がない、整然とした光が宿っていた。 後で戻ってきた犬飼が、その盤を一瞥した瞬間、言葉を失って立ち尽くしたのを恒一は見逃さなかった。
マニュアルを重んじる犬飼でさえ、その「正解を超えた美しさ」の前には、異論を挟む余地がなかったのだ。
「……分かったか、恒一」 作業を終えた佐藤が、汗を拭いながら降りてきた。
「お前が『3年やって一人前だ』と思ってる景色はな、まだ地面から一メートルも浮いてねぇんだよ」
恒一は、自分の汚れた手を見つめた。 できるようになったと思っていた。後輩に偉そうに説教までした。 だが、本当のプロフェッショナルが辿り着く頂は、遥か雲の彼方にあった。
悔しさと、それ以上に、震えるほどの高揚感が胸の奥から突き上げてきた。
(まだだ……まだ、こんなもんじゃねぇ)
今の自分は、まだ本当の電気の「正体」を掴んでいない。 犬飼のような冷徹な壁を跳ね除け、柴崎や佐藤が見ている「景色」に辿り着くために、自分には何が足りないのか。
そんな焦燥感を抱えたまま、完工の日が近づいていた。 そして、その激務の合間に、恒一の止まっていた「時間」を動かす、一人の女性との出会いが待っていた。
病院管理棟の現場は、佳境を迎えていた。 佐藤が見せつけた「神業」の残像が、恒一の脳裏に焼き付いて離れない。自分の未熟さを突きつけられた屈辱は、いつしか「あそこまで辿り着いてやる」という執念に変わっていた。
朝五時に起床し、現場へ向かう。夜は十時を過ぎるまで、図面と格闘し、電線の切れ端で結線の練習を繰り返す。 そんな張り詰めた日々の中で、恒一にとって唯一、呼吸が整う場所があった。
現場から徒歩五分、国道沿いにある小さなコンビニエンスストアだ。
「……いらっしゃいませ。お疲れ様です」
自動ドアが開くと同時に聞こえる、落ち着いたトーンの声。 レジに立っていたのは、茶髪を後ろで控えめに束ねた女性、理恵だった。
名札には「店長代理」とある。派手さはないが、どこか凛とした佇まいで、客の一人ひとりを丁寧に見つめていた。
(……綺麗だな)
初めて見た時、恒一はカゴに入れるパンを選ぶことさえ忘れて見入ってしまった。 相模原の夜を特攻服で走っていた頃、周りにいた女たちは皆、派手な化粧をして声を張り上げ、自分を誇示するようなタイプばかりだった。だが、理恵は違う。そこにいるだけで周囲の空気が凪(な)いでいくような、不思議な静謐(せいひつ)さを纏っていた。
「……これ、お願いします」 恒一は、無造作に手に取った缶コーヒーと菓子パンをレジに置いた。
金髪を短く刈り上げ、泥のついた作業着を着た自分は、彼女の目にどう映っているのだろうか。
「二百五十円になります。……外、急に冷え込んできましたね」 理恵が、お釣りを渡しながらふわりと微笑んだ。
「……あ、ああ。そうだな。地下の現場は、もっと冷えるんだわ」
気の利いたセリフの一つも出てこない。恒一は、奪い取るようにお釣りを受け取ると、逃げるように店を出た。 胸の奥が、結線ミスをした時よりも激しく脈打っていた。
それから、恒一の「日課」が始まった。 昼休憩の弁当、夜食のカップ麺。必要のない時でさえ、喉が渇いたふりをして店に立ち寄った。
理恵はいつも、恒一が店に入ると「あ、お疲れ様です」と少しだけ目を細めて迎えてくれるようになった。
ある夜、恒一が疲れ果てて栄養ドリンクを買いに寄った時のことだ。 レジで理恵が、恒一の手元を見て小さく声を上げた。 「……その傷、大丈夫ですか?」 指先には、ニッパーで切った深い傷跡と、無数の火傷の跡があった。 「あ? ああ……こんなの、電気屋やってりゃ日常茶飯事だ。大したことねぇよ」 「かっこいいですね。誰かのために、そうやって傷つきながら働いている手って」
理恵の言葉は、社交辞令には聞こえなかった。 「……かっこいい、か。そんなこと言われたの、初めてだわ」
恒一は、照れ隠しに作業着の袖で手を隠した。 「頑張ってくださいね。ここの病院、私の母も通ってるんです。皆、助かると思います」
その夜、恒一は現場に戻り、一人で黙々とケーブルの整線をやり直した。 誰かのために。 柴崎が言っていた「光を灯す」という言葉の意味が、理恵の微笑みを通して、ようやく血の通った実感として胸に落ちてきた気がした。
だが、職人の恋は残酷なまでに「現場の進捗」に左右される。 三ヶ月に及んだ管理棟の改修工事も、ついに受電の日――完工の日を迎えた。
「恒一、今日で引き払いだ。荷物まとめとけよ」 佐藤の声が、現場に響く。 「……今日、ですか。明日じゃなくて?」
「元請け(犬飼)のチェックも終わった。次の現場が相模原の反対側で待ってんだよ。もたもたしてっと置いていくぞ」
胸が締め付けられた。 今日で、あのコンビニへ行く理由はなくなる。 名前さえ知らない。連絡先も聞いていない。ただ「電気屋」と「店員」として、カウンター越しに数分話すだけの関係。
(……最後に、一言だけでも。せめて名前くらい……)
撤収作業の合間、恒一は何度も現場を抜け出そうとした。だが、無情にも犬飼の最終検査が長引き、辺りはすっかり暗くなってしまった。
ようやく全ての資材をハイエースに積み終えた時には、夜の九時を回っていた。
「おい、行くぞ恒一! 龍司さんが事務所で待ってる」 佐藤が運転席でクラクションを鳴らす。 「……すみません、一瞬だけ! 五分、いや三分だけ待ってください!」
恒一は作業着のまま、夜道を全力で走った。 あの国道沿いのコンビニへ。 息を切らし、自動ドアを突き破るような勢いで店内に飛び込んだ。
だが、レジに立っていたのは、見知らぬ中年男性の店員だった。 「……いらっしゃいませー」
恒一は立ち尽くした。棚を、バックヤードの入り口を、必死に探す。 どこにも、あの穏やかな微笑みはない。 「あの、店長代理の……理恵さんは?」 「ああ、彼女なら今日はお休みだよ。体調崩しちゃったみたいでね」
足元の力が、ふっと抜けた。 今日、この瞬間を逃せば、もう二度と会うことはないかもしれない。 相模原は広い。現場が変われば、道一本隔てた先さえ、一生立ち寄らない異郷になる。それが職人の宿命だ。
「……そうですか。……これ、伝えてもらえますか」
恒一は、レジ横のメモ用紙を借り、震える手で言葉を書いた。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます。……お疲れ様でした。 相沢』
連絡先を書く勇気はなかった。 ただ、自分がここにいた証だけを、不器用な言葉に託した。
店を出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。 ハイエースの助手席に戻った恒一に、佐藤が呆れたように言った。 「何してたんだ、テメェ。女か?」
「……別に。忘れ物っすよ」 「ふん。……まあいい。行くぞ。次の現場は、もっとでかいぞ」
車が走り出す。 バックミラー越しに、遠ざかっていくコンビニの明かりが見えた。 自分が灯したはずの光が、滲んで見えた。
(……理恵さん。また、いつか)
一言も交わせぬままの、初恋の終わり。 だが、その切なさは、恒一の心に深い「轍」を残した。 「誰かのために光を灯す」という矜持と、愛する人を守るためには、今の自分ではあまりにも無力だという現実。
21歳の春。 恒一は、一人前の技術と、大人になるための痛みを手に入れた。
ハイエースの窓に映る自分の顔は、三年前の「ガキ」のそれではなく、一人の「男」の顔へと変わり始めていた。
物語は、ここから加速する。 数年後。 柴崎電設を巣立ち、「一人親方」として独立する恒一。 しかし、そこで待ち受けていたのは、かつて経験したことのない「成功」という名の罠と、全てを失う「絶望」の始まりだった。
「……よし、ここは1.6の3芯で渡して、ジョイントボックスはあそこだな」
脚立の上で、恒一は迷いなく腰袋から電工ナイフを引き抜いた。 金髪のモヒカンは影を潜め、今は潔く刈り上げた短髪に、日焼けした精悍な顔つきが覗く。耳元に光る小さなピアスだけが、かつてのヤンチャな面影を残していた。 21歳。柴崎電設に入って三度目の春。 今では基本的な回路構成なら図面を見ずとも頭に入り、複雑な配管作業も一人で任せられるまでになっていた。
「あの~、恒一さん。こっちの結線、終わりました。確認してください」 下から声をかけてきたのは、半年前に入った後輩のタカシだ。
「ああ、今行く。……タカシ、お前これ、シース(外皮)の剥きが甘いぞ。あと5ミリ長く剥け。ボックスの中で線が窮屈だと、後でトラブルの元になるんだよ」
「うっ……すみません。恒一さん、厳しいっすね」 「当たり前だ。電気屋は『見えないところ』で仕事してんだ。蓋を閉めちまえば分からねぇなんて思ってんなよ」
後輩を指導する自分の言葉に、ふと、かつての佐藤や柴崎の影が重なる。 自分も少しは「プロ」の端くれになれたのではないか。そんな小さな自負が、恒一の胸をわずかに高鳴らせていた。
だが、そんな自信は、その日の午後、元請けの定例検査で脆くも崩れ去ることになる。
「……第4エリアの配線ルート、設計図と三十センチほどズレていますね。修正をお願いします」
タブレット端末を片手に、冷淡な声で告げたのは、元請け会社から派遣されてきた若手社員、犬飼幸太郎だった。 恒一より少し年上に見えるが、現場の泥にまみれた自分たちとは対照的に、汚れ一つない作業着のボタンを一番上まで留め、眼鏡の奥で神経質そうな瞳を光らせている。
「いや、犬飼さん。そこは現場の梁の関係で、設計通りだと曲がりがきつくなりすぎるんですよ。だから余裕を持って外に振ったんです。機能的には何の問題も……」 「マニュアルにない独自判断は、リスクでしかありません」 犬飼は恒一の言葉を遮り、感情を排した声で続けた。 「規定通りに。それがプロの仕事でしょう。ここはあなたの『作品』を作る場所ではない。設計者の意図を忠実に再現する場所です」
カチンときた恒一が、一歩前に出ようとした。 「てめぇ、現場の苦労も知らねぇで……」
「恒一。……下がってろ」
背後から、低く、重い声が響いた。 柴崎龍司だ。彼はゆっくりと犬飼の前に立ち、無造作に図面を広げた。 「犬飼さん。確かに設計は絶対だ。だが、現場で起きる磁界の影響や、将来的な増設を考えれば、この逃がしは合理的だ。……ただし、あんたがどうしても直せと言うなら、今すぐやり直させよう。マニュアルを越える美しさ(・・)を見せてからな」
犬飼は一瞬だけ表情を歪めたが、「……確認します」とだけ言い残し、次のエリアへと去っていった。
「……クソ。何なんすか、あのオタク野郎。マニュアル、マニュアルって、現場の何が分かるんだよ」 毒づく恒一の肩を、柴崎が強く掴んだ。
「恒一。あいつの言い草はムカつくが、一つだけ正論がある。……お前の仕事には、まだ『理由』が足りねぇ」
「理由……?」 「ああ。犬飼みたいな理屈屋を黙らせるにはな、言葉じゃねぇ。圧倒的な『仕上がり』を見せつけるしかねぇんだ。……おい、佐藤。あそこのメイン盤の切り替え、やって見せてやれ。活線(電気が生きた状態)のままだ」
恒一の目が点になった。 今回の現場は、一部の機能を止めることができない病院の管理棟だ。本来なら数時間の停電が必要な作業を、佐藤は「無停電」で、しかも生きた電気の中へ手を突っ込んで行うという。
「……見てろ、恒一。これが『景色』の違いだ」
佐藤が脚立に登り、盤の蓋を開けた。 そこからは、恒一がこれまで見てきたものとは次元の違う「神業」が始まった。
無数に絡み合う太いケーブル。佐藤は図面を一瞥することさえせず、迷いのない手つきで一本、また一本と線を捌いていく。 右手に絶縁工具、左手にはテスター。
まるで爆弾の解体作業のような緊張感の中、佐藤の動きには一分の迷いも、一ミリの無駄な動きもなかった。
何より恒一を驚かせたのは、その「美しさ」だった。 佐藤の手によって整えられたケーブルは、まるで軍隊の整列のように等間隔に並び、結束バンドの向きさえも一糸乱れず揃えられている。余長として残された線のカーブは、計算し尽くされた幾何学模様のように美しく、盤の中に「芸術」が描き出されていく。
「……すげぇ……」
恒一は、息をするのも忘れてその手元を凝視した。 自分がこれまで「完璧だ」と思っていた結線が、まるで子供の工作のように思えてくる。
佐藤は、目に見えない電気の流れを、指先の感覚だけで可視化しているかのようだった。どこに負荷がかかり、どこに熱が溜まりやすいか。図面を読み解くのではなく、建物そのものと対話しているような、圧倒的な練度。
作業が終わった盤の中には、非の打ち所がない、整然とした光が宿っていた。 後で戻ってきた犬飼が、その盤を一瞥した瞬間、言葉を失って立ち尽くしたのを恒一は見逃さなかった。
マニュアルを重んじる犬飼でさえ、その「正解を超えた美しさ」の前には、異論を挟む余地がなかったのだ。
「……分かったか、恒一」 作業を終えた佐藤が、汗を拭いながら降りてきた。
「お前が『3年やって一人前だ』と思ってる景色はな、まだ地面から一メートルも浮いてねぇんだよ」
恒一は、自分の汚れた手を見つめた。 できるようになったと思っていた。後輩に偉そうに説教までした。 だが、本当のプロフェッショナルが辿り着く頂は、遥か雲の彼方にあった。
悔しさと、それ以上に、震えるほどの高揚感が胸の奥から突き上げてきた。
(まだだ……まだ、こんなもんじゃねぇ)
今の自分は、まだ本当の電気の「正体」を掴んでいない。 犬飼のような冷徹な壁を跳ね除け、柴崎や佐藤が見ている「景色」に辿り着くために、自分には何が足りないのか。
そんな焦燥感を抱えたまま、完工の日が近づいていた。 そして、その激務の合間に、恒一の止まっていた「時間」を動かす、一人の女性との出会いが待っていた。
病院管理棟の現場は、佳境を迎えていた。 佐藤が見せつけた「神業」の残像が、恒一の脳裏に焼き付いて離れない。自分の未熟さを突きつけられた屈辱は、いつしか「あそこまで辿り着いてやる」という執念に変わっていた。
朝五時に起床し、現場へ向かう。夜は十時を過ぎるまで、図面と格闘し、電線の切れ端で結線の練習を繰り返す。 そんな張り詰めた日々の中で、恒一にとって唯一、呼吸が整う場所があった。
現場から徒歩五分、国道沿いにある小さなコンビニエンスストアだ。
「……いらっしゃいませ。お疲れ様です」
自動ドアが開くと同時に聞こえる、落ち着いたトーンの声。 レジに立っていたのは、茶髪を後ろで控えめに束ねた女性、理恵だった。
名札には「店長代理」とある。派手さはないが、どこか凛とした佇まいで、客の一人ひとりを丁寧に見つめていた。
(……綺麗だな)
初めて見た時、恒一はカゴに入れるパンを選ぶことさえ忘れて見入ってしまった。 相模原の夜を特攻服で走っていた頃、周りにいた女たちは皆、派手な化粧をして声を張り上げ、自分を誇示するようなタイプばかりだった。だが、理恵は違う。そこにいるだけで周囲の空気が凪(な)いでいくような、不思議な静謐(せいひつ)さを纏っていた。
「……これ、お願いします」 恒一は、無造作に手に取った缶コーヒーと菓子パンをレジに置いた。
金髪を短く刈り上げ、泥のついた作業着を着た自分は、彼女の目にどう映っているのだろうか。
「二百五十円になります。……外、急に冷え込んできましたね」 理恵が、お釣りを渡しながらふわりと微笑んだ。
「……あ、ああ。そうだな。地下の現場は、もっと冷えるんだわ」
気の利いたセリフの一つも出てこない。恒一は、奪い取るようにお釣りを受け取ると、逃げるように店を出た。 胸の奥が、結線ミスをした時よりも激しく脈打っていた。
それから、恒一の「日課」が始まった。 昼休憩の弁当、夜食のカップ麺。必要のない時でさえ、喉が渇いたふりをして店に立ち寄った。
理恵はいつも、恒一が店に入ると「あ、お疲れ様です」と少しだけ目を細めて迎えてくれるようになった。
ある夜、恒一が疲れ果てて栄養ドリンクを買いに寄った時のことだ。 レジで理恵が、恒一の手元を見て小さく声を上げた。 「……その傷、大丈夫ですか?」 指先には、ニッパーで切った深い傷跡と、無数の火傷の跡があった。 「あ? ああ……こんなの、電気屋やってりゃ日常茶飯事だ。大したことねぇよ」 「かっこいいですね。誰かのために、そうやって傷つきながら働いている手って」
理恵の言葉は、社交辞令には聞こえなかった。 「……かっこいい、か。そんなこと言われたの、初めてだわ」
恒一は、照れ隠しに作業着の袖で手を隠した。 「頑張ってくださいね。ここの病院、私の母も通ってるんです。皆、助かると思います」
その夜、恒一は現場に戻り、一人で黙々とケーブルの整線をやり直した。 誰かのために。 柴崎が言っていた「光を灯す」という言葉の意味が、理恵の微笑みを通して、ようやく血の通った実感として胸に落ちてきた気がした。
だが、職人の恋は残酷なまでに「現場の進捗」に左右される。 三ヶ月に及んだ管理棟の改修工事も、ついに受電の日――完工の日を迎えた。
「恒一、今日で引き払いだ。荷物まとめとけよ」 佐藤の声が、現場に響く。 「……今日、ですか。明日じゃなくて?」
「元請け(犬飼)のチェックも終わった。次の現場が相模原の反対側で待ってんだよ。もたもたしてっと置いていくぞ」
胸が締め付けられた。 今日で、あのコンビニへ行く理由はなくなる。 名前さえ知らない。連絡先も聞いていない。ただ「電気屋」と「店員」として、カウンター越しに数分話すだけの関係。
(……最後に、一言だけでも。せめて名前くらい……)
撤収作業の合間、恒一は何度も現場を抜け出そうとした。だが、無情にも犬飼の最終検査が長引き、辺りはすっかり暗くなってしまった。
ようやく全ての資材をハイエースに積み終えた時には、夜の九時を回っていた。
「おい、行くぞ恒一! 龍司さんが事務所で待ってる」 佐藤が運転席でクラクションを鳴らす。 「……すみません、一瞬だけ! 五分、いや三分だけ待ってください!」
恒一は作業着のまま、夜道を全力で走った。 あの国道沿いのコンビニへ。 息を切らし、自動ドアを突き破るような勢いで店内に飛び込んだ。
だが、レジに立っていたのは、見知らぬ中年男性の店員だった。 「……いらっしゃいませー」
恒一は立ち尽くした。棚を、バックヤードの入り口を、必死に探す。 どこにも、あの穏やかな微笑みはない。 「あの、店長代理の……理恵さんは?」 「ああ、彼女なら今日はお休みだよ。体調崩しちゃったみたいでね」
足元の力が、ふっと抜けた。 今日、この瞬間を逃せば、もう二度と会うことはないかもしれない。 相模原は広い。現場が変われば、道一本隔てた先さえ、一生立ち寄らない異郷になる。それが職人の宿命だ。
「……そうですか。……これ、伝えてもらえますか」
恒一は、レジ横のメモ用紙を借り、震える手で言葉を書いた。 『ここの電気、俺たちが通しました。何かあったら、いつでも直しに来ます。……お疲れ様でした。 相沢』
連絡先を書く勇気はなかった。 ただ、自分がここにいた証だけを、不器用な言葉に託した。
店を出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。 ハイエースの助手席に戻った恒一に、佐藤が呆れたように言った。 「何してたんだ、テメェ。女か?」
「……別に。忘れ物っすよ」 「ふん。……まあいい。行くぞ。次の現場は、もっとでかいぞ」
車が走り出す。 バックミラー越しに、遠ざかっていくコンビニの明かりが見えた。 自分が灯したはずの光が、滲んで見えた。
(……理恵さん。また、いつか)
一言も交わせぬままの、初恋の終わり。 だが、その切なさは、恒一の心に深い「轍」を残した。 「誰かのために光を灯す」という矜持と、愛する人を守るためには、今の自分ではあまりにも無力だという現実。
21歳の春。 恒一は、一人前の技術と、大人になるための痛みを手に入れた。
ハイエースの窓に映る自分の顔は、三年前の「ガキ」のそれではなく、一人の「男」の顔へと変わり始めていた。
物語は、ここから加速する。 数年後。 柴崎電設を巣立ち、「一人親方」として独立する恒一。 しかし、そこで待ち受けていたのは、かつて経験したことのない「成功」という名の罠と、全てを失う「絶望」の始まりだった。
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