第19話:ゴースト・キー
ー/ー 轟音と共に、世界の「秩序」が崩れ去ろうとしていた。
シグナが放った最後の一撃により、機械神の核であった巨大な「脳」は粉砕され、培養液が白磁の床に溢れ出していた。全高10メートルを超えていた漆黒の躯体は、支えを失った操り人形のようにがくりと膝をつき、内部のボイラーが次々と誘爆を起こして、最深部の空間を火の海に変えていく。
「カイル……! カイル、しっかりして!」
シグナは、力尽きて倒れ込んだカイルの元へ駆け寄った。
彼女の背中にある2本の鋼鉄腕は、熱暴走で真っ赤に変色し、もはや指1本動かすことさえできない。天使の羽のようなプラズマの輝きも粒子となって消え、今の彼女は、かつてないほどに傷つき、ボロボロになった義体のまま、崩れ落ちる残骸の中にいた。
「……ハッ、……まだだ。……まだ、終わらせないよ」
カイルはシグナの腕の中で目を開け、口元から鮮血を零しながらも、執念でボロボロの身体を引きずった。彼は壁際に残された、辛うじて稼働しているメインコンソールへと手を伸ばす。
「カイル、もういいわ! 早くここから脱出しないと……!」
「……ダメなんだ。……親父を倒しただけじゃ、世界は変わらない。……この塔が崩れる前に、僕が……引導を渡さなきゃならないんだ」
カイルは震える指先で、血に濡れたキーボードを叩いた。彼の脳内にある演算回路が最後の火花を散らす。
彼が全人生を懸けて構築してきた究極のウイルスプログラム――『ゴースト・キー』。
それはヘリオスの支配を消去する破壊の鍵であると同時に、世界を再起動するための「希望の種」でもあった。
「……アップロード、開始。……行け、僕の『遺言』……!」
カイルがエンターキーを叩いた瞬間、コンソールから黄金色の光の筋が立ち昇り、ビル全体の神経系を駆け抜けた。
それは本社ビルの壁を突き抜け、上層(スカイ・アーク)の巨大なアンテナから、世界中へ向けて電波として放たれる。
その瞬間、世界中の「ゆりかご」の強制管理システムが沈黙した。
人々を監視し、思考を制限していたアルゴリズムが霧散し、全人類の網膜に投影されていた「正解」という名の虚像が消え去る。
世界中の、あらゆる街のモニター、あらゆる端末に、ただ一言、カイルからのメッセージが表示された。
『――自由(FREE DOM)』
それは、支配という名の安定を捨て、不確かな明日を選ぶための産声だった。
アップロードが完了したその瞬間、シグナの脳を縛っていた最後の「封印」が、音を立てて弾け飛んだ。
視界が真っ白に染まり、天文学的な量の「記憶」が、彼女の意識の中に雪崩れ込んでくる。
(……あ、あぁ……っ!)
それは、煤けた霧に隠されていた、10歳より前の記憶。
真っ白な実験室。4本の凶悪な戦闘用アームを無理やり埋め込まれる前、彼女には「本来の腕」があった。それは人間のものではなかったが、もっと細く、しなやかで、銀色に輝く2本の「基本骨格(ベース・アーム)」だった。
そこに現れたのは、時計仕掛けの瞳をした、寂しげな少年。
『泣かないで。僕が……君を外へ連れ出す。いつか本物の星を、二人で見よう。約束だ』
その少年は、自らも実験体として命を削られながら、彼女の武器としての剛腕ではなく、その奥に隠された、華奢で震える「本来の指先」を、その小さな手でぎゅっと握りしめてくれたのだ。
「……カイル……カイル!!」
シグナは叫んだ。彼女は背中の重い鋼鉄のシャーシ――自分を「4腕の死神」として縛り付けていたその「戦闘用外部ユニット」を、自らの意志で、根元からパージ(緊急分離)した。
ガガギィィンという激しい金属音と共に、戦い抜いた4本の無骨な腕が床に転がる。
そして、装甲の下に隠されていた、シグナの「本来の姿」が露わになった。
それは武器を持たず、リベットも剥き出しではない、白銀の美しい流線型を描く2本の繊細な腕。かつてカイルが握りしめた、彼女の「原点」である腕だった。
「……全部、思い出したわ。……あんた、……バカよ。本当に、バカなんだから!」
シグナは涙を流しながら、ボロボロになったカイルを、その2本の、か弱くも温かい腕で強く抱きしめた。
「……ハッ、……遅いよ。……計算、外にもほどがある……」
カイルは満足げに目を閉じ、シグナの腕の中で安らかな寝息を立て始めた。
◇◆◇◆◇
CEOのシステムが完全に沈黙し、本社ビルの崩落が本格化した。
真鍮の歯車が巨大な音を立てて砕け、天井から巨大な瓦礫が降り注ぐ。床はひび割れ、階下のボイラー室から炎が噴き出していた。
『――ご主人様。……生体反応、回復。記憶、完全復旧を確認しました。……ですが、ここもあと60秒で崩落します! その2本の腕、大事にしてくださいね!』
ハルがシグナの足元で、必死に警告を鳴らす。
「わかってるわ。……ハル、あんたも掴まってて!」
シグナはカイルを背負った。
かつては殺しの道具として使っていた4本の重い腕はない。
だが、今の彼女には、自分の命よりも大切な存在を支えるための、2本の腕がある。
彼女は背中の基部に残っていた、最後1回分の非常用ブースターを点火した。
青白い炎が、彼女の細い背中を包む。
「……行きましょう、カイル。あんたが見せてくれるって言った、本物の空へ!」
シグナは崩落する床を力強く蹴った。
彼女は瓦礫の雨を潜り抜け、本社の展望窓を突き破り、夜明けの空へと躍り出た。
眼下に広がるのは、ヘリオスの支配から解き放たれ、1つ、また1つと明かりが灯り始めたスラムの街。
そして頭上には、煤煙の雲が晴れ、数百年ぶりにラット・ポートを照らす、満天の星空。
少女は、2本の繊細な腕でカイルを抱き抱え、夜明けの風を受けて滑空する。
機械仕掛けの神は死んだ。
これからは、自分たちの力で、自分たちの体温で、歩んでいく時間。
『――ご主人様。……計算完了。……私たちの、勝ちです』
ハルの誇らしげな声と共に、2人は朝日の差し込む荒野の地平線へと、真っ直ぐに降り立っていった。
物語は、最高の夜明けと共に、大団円へと収束する。
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