第02話 結果は、まだ終わっていない
ー/ー 止血ジェルが傷へ流し込まれた瞬間、零は医療ドローンの腕を叩き落とした。
「閉じてりゃいい。縫うな」
装甲搬送車の後部は、赤色灯の点滅で何度も明滅していた。脇腹に巻かれた圧着シートの下で、まだ熱が脈打っている。さっき食らった“遅れてきた一発”は、皮だけで済む傷じゃない。身体をひねるたび、肉の奥で何かが嫌な擦れ方をした。
だが、寝かされている間に、白い仮面はもっと遠くへ行く。
『零。対象は上層へ抜けた。西環状高架。速度、上昇中』
ノアの声が降ってくる。
いつもより少しだけ掠れていた。
「ケースは」
『保持。熱源三。大二、小一』
小一。
ユナはまだ生きている。
零は搬送車の後部ハッチへ向かった。
『待て』
割り込んできたのは灰堂だ。
あの男は、いつも現場の血の匂いが届かない距離で喋る。
『お前の損傷率は許容外だ。追跡は別班に引き継ぐ』
「別班じゃ追えません」
『根拠は』
「見えてたからです」
零は振り返らずに言う。
「見えてるのに当たる相手だ。あれは普通の追跡じゃない」
短い沈黙。
直後、搬送車の前方が揺れた。モニタへ自動接続されていた先行ドローンの映像が、ノイズ混じりに跳ねる。高架へ上がる誘導板の横で、何もない空間から遅れて火花が散った。次の瞬間には、ドローンの胴体が横から引き裂かれて落ちていく。
撃たれたのは、今じゃない。
さっきだ。
『……出ろ』
灰堂の声が戻る。
『北側インターセプターを使え。ケース最優先。子供は二次対象』
零は答えない。
『聞こえたか』
「十分に」
ハッチが開いた。雨と排熱が一気に流れ込む。路肩へ固定された黒い追撃バイクへ飛び乗り、マグロックされていたPX4とショットガンの位置を確かめる。エンジンを起こす。タイヤが濡れたアスファルトを噛んだ。
『零』
今度のノアの声は、灰堂じゃない。
『中央車線を使って。左は死線が多い』
「見えてるのか」
『見えてる。三分もたない。早く』
それだけで十分だった。
零はアクセルを開き切る。
雨の上層環状線へ、黒い機体が弾かれるように飛び出した。
夜の物流高架は、鉄の川だった。
無人搬送トレーラーが列をなし、密閉コンテナが青白い誘導灯の上を滑っていく。濡れた路面にタイヤのない車列の低い駆動音だけが響く。その上を、異物みたいに二つの影が走っていた。
白い仮面。
細い少女。
クラウンとレムだ。
五台先のコンテナ屋根で、レムがしゃがみ込んだままこちらを見ていた。長い髪が雨に張りつき、目だけが妙に醒めている。その隣、さらに高い積載フレームの上で、クラウンが片手を振った。
「律儀だねえ」
聞こえるはずのない距離なのに、そう口が動いたのが分かった。
『回収対象は前から四番目の密閉コンテナ内。右側面、下段』
ノアが言う。
零は視線を落とした。雨にぼやけたコンテナ壁の向こうで、小さな熱源が揺れている。弱い。だが消えていない。
次の瞬間、クラウンの93Rが火を噴いた。
三点バースト。
未来線は見えた。正面の標識、左の護壁、路面の継ぎ目。零はバイクを寝かせ、中央分離帯ぎりぎりへ滑り込む。弾そのものは避けられる。
だが、一拍遅れて、標識が爆ぜた。
さらに一拍遅れて、護壁が裂ける。
そして路面の継ぎ目から火花が噴き上がった。
「……三つ」
零は歯の隙間から吐く。
さっきもそうだった。撃たれた結果が、まとめては来ない。少しずつズレる。だが無制限じゃない。
クラウンがもう一度撃った瞬間、一番古い遅延が落ちた。
「抱えられる数、少ないな」
『なに』
「後で」
零は加速した。前輪をトレーラーの側面ガードへ乗せ、そのまま反動で一段上のコンテナ屋根へ飛び移る。着地した瞬間、レムが撃った。
二丁拳銃から、合計六発。
未来線は鮮やかすぎるほど鮮やかだった。頬、肩、膝、喉、足場、退路。零はそのうち足場だけをショットガンで吹き飛ばした。鋼板がめくれ、レムの射線が半拍ずれる。その隙に前へ出る。
「やっぱり来るんだ」
レムはつまらなそうに言った。
「前の人たち、だいたいここで諦めたのに」
零は答えず、PX4を二連射する。レムは半歩の横移動だけで躱した。少女というより、予測線の上を滑っているみたいな動きだった。
クラウンがさらに前方のコンテナへ着地する。
その直後、また一つ、古い遅延が落ちた。今度は前方監視カメラの支柱だ。遅れて折れ、火花を噴きながら車線へ倒れ込む。
零は数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ目を撃たせれば、どれか一つが零れる。
そこへ、最悪のノイズが飛び込んだ。
高架入口の誘導ランプが、何の前触れもなく青へ切り替わる。
封鎖中のはずの物流環状線へ、一般車が滑り込んできた。通勤バス一台、乗用車二台。雨に霞んだフロントガラスの向こうで、何も知らない人間たちがただ前を見ている。
「ふざけんな……!」
『民間車両、進入。七秒後、接触』
ノアの声が鋭くなる。
クラウンは振り返りもしない。まるで最初からそのために撃っておいたみたいに、別のコンテナへ飛ぶ。四つ目のバースト。直後、最初の遅延が落ちた。
右車線の路面が裂ける。
通勤バスの前輪がそこへ嵌まり、巨大な車体がぐらりと傾いた。乗客の悲鳴が、分厚い窓越しでも見えるようだった。
零の視界に、二つの未来が立ち上がる。
一つは、前方のコンテナへ跳ぶ未来。ユナへ届く。だが、バスが落ちる。
もう一つは、踵を返す未来。バスは助かる。クラウンは逃げる。
迷う時間は一秒もない。
零は舌打ちして反転した。
「ノア、バス取る!」
『了解』
返事は早かった。
零はコンテナ屋根を蹴り、傾き始めたバスの側面へ飛び移る。鉄板が軋む。中では乗客が座席から投げ出され、窓へ叩きつけられていた。泣き叫ぶ子供、頭を切った男、潰れた荷物、血で滑る通路。
「頭下げろ!」
聞こえなくても叫ぶ。
バスの後輪が浮く。護壁の向こうは、夜の闇だ。
『零』
ノアの声が妙に静かだった。
『右上、保守ワイヤ』
零は見上げる。高架上部の保守レールから、一本だけ太いワイヤが垂れていた。五秒後、そのワイヤへバスの天井がぶつかる未来線が見える。だが、そのままでは角度が悪い。車体が回って、結局落ちる。
『撃って』
「無茶言うな」
『撃って』
短い。
それだけだった。
零は息を止める。視界いっぱいに分岐が溢れる。外せば終わる。今の腕、今の傷、今の雨。成功率は低い。低すぎる。
だが、その数字の横で、一つだけ揺れない線があった。
ノアが固定している。
零は躊躇わず撃った。
九ミリ弾がワイヤの固定具を叩く。同時に、遥か後方から重い狙撃音が落ちてきた。見えないほど遠い観測点から放たれた一発が、支持柱のボルトを吹き飛ばす。
ワイヤの角度が変わる。
傾いたバスの屋根がそのまま引っ掛かる。
車体が半回転し、隣を走っていた空の搬送トレーラーへ横倒しで叩きつけられた。ガラスが砕け、鋼板が悲鳴を上げる。だが、落ちない。
零自身は反動で宙へ投げ出された。
下は闇だった。
その闇へ向かって無数の死の未来線が伸びる。その中で、一本だけが細く残る。
『右』
ノア。
零は腕を伸ばした。落下の途中、トレーラー側面の保守バーがそこへ来る未来だった。掴む。肩が軋む。脇腹の傷が裂ける。だが、切れない。
引き上がる。
息が戻る。
生きている。
高架の向こうでは、クラウンの熱源がさらに遠ざかっていた。レムがこちらを一瞥し、つまらなそうに唇を歪める。
「そっち行くんだ」
その声だけが、雨の中で妙に近かった。
追えない。
今の一手で、完全に逃した。
「ノア!」
零は通信へ怒鳴った。
返事がない。
「ノア!」
ノイズ。
金属が倒れる音。
数秒遅れて、掠れた呼吸だけが返ってくる。
『……生存、確認』
「どこだ」
『観測塔B……問題ない』
「声が死んでる」
『固定が、少し深いだけ』
その言い方で、全然問題ないことが分かった。
雨の向こうで、また別の爆音がした。
一つじゃない。二つ、三つ。下層の夜景の中で、遅れて火柱が立つ。クラウンがさっきまで仕込んでいた結果が、戦闘の終わった街を今さら撃ち始めていた。
その火の一つの傍で、物流制服の男が倒れているのが見えた。高架の保守通路に半分身体を投げ出したまま、片腕だけが痙攣している。腕には、公式の青ではない、鈍く灰色に光る更新バンド。
零は歯を食いしばり、通路へ飛び移った。
男はもう助からない。胸郭が半分潰れていた。それでも、口だけが何かを探すみたいに動いている。
「おい」
零が屈むと、男は焦点の合わない目でこちらを見た。
「それ、どこで手に入れた」
灰色のバンドを掴んで問う。
男の喉が鳴る。血泡が混じる。
「……下」
「下のどこだ」
「縫う……街……」
「なんだ、それ」
「シール……街……治るって……聞いた……」
そこで息が切れた。
指先から力が抜ける。
灰色のバンドだけが、まだ小さく脈を打っていた。
『全チャンネルへ通達』
灰堂の声が割り込む。
『上層環状線事案を第一級封鎖対象に指定。原因はインフラ老朽破断として処理する。未確認適合者二名はコード、CROWN、REMで登録。映像記録は秘匿階層送り。民間への公表は不要』
零はバスの割れた窓越しに、泣き崩れる乗客たちを見た。
血まみれの父親が、子供を抱きしめている。
運転手はハンドルに額を打ちつけて動かない。
最後列では、誰かの腕がありえない角度へ曲がっていた。
「……不要?」
『混乱を広げる価値がない』
灰堂は迷いなく言った。
『追跡は失敗だ。だが対象の挙動は取れた。次がある』
次。
零は笑いそうになった。
今、街のあちこちで人が裂けている。
今、まだ撃たれてもいない弾の結果だけが、遅れて届いている。
それなのに、この男は次と言う。
零は血に濡れた手で、PX4を握り直した。
「今夜の分も、まだ落ち切ってない」
灰堂は何も答えなかった。
通信の向こうで、ノアの呼吸が浅く揺れる。
零は高架の先、雨の闇へ消えた白い仮面の残像を睨んだ。追跡は失敗した。ケースもユナも、取り返せなかった。けれど一つだけ、掴んだことがある。
クラウンは何でもできるわけじゃない。
抱えられる結果には限界がある。
吐かせれば、崩れる。
あいつは無敵じゃない。
その確信と、死に際の男が残した言葉を、零は脇腹の痛みと一緒に飲み込んだ。
シール街。
それが街の傷口の名前なら、次はそこだ。
遠くで、また何かが爆ぜた。
戦闘は終わったのに、結果だけが街を撃ち続けている。
零は雨の高架に立ち尽くしたまま、低く呟く。
「待ってろ」
白い息は出ない。
夏の夜だった。
「次は、お前の番だ」
返事の代わりに、遅れたサイレンが、ようやく街全体を覆い始めた。
「閉じてりゃいい。縫うな」
装甲搬送車の後部は、赤色灯の点滅で何度も明滅していた。脇腹に巻かれた圧着シートの下で、まだ熱が脈打っている。さっき食らった“遅れてきた一発”は、皮だけで済む傷じゃない。身体をひねるたび、肉の奥で何かが嫌な擦れ方をした。
だが、寝かされている間に、白い仮面はもっと遠くへ行く。
『零。対象は上層へ抜けた。西環状高架。速度、上昇中』
ノアの声が降ってくる。
いつもより少しだけ掠れていた。
「ケースは」
『保持。熱源三。大二、小一』
小一。
ユナはまだ生きている。
零は搬送車の後部ハッチへ向かった。
『待て』
割り込んできたのは灰堂だ。
あの男は、いつも現場の血の匂いが届かない距離で喋る。
『お前の損傷率は許容外だ。追跡は別班に引き継ぐ』
「別班じゃ追えません」
『根拠は』
「見えてたからです」
零は振り返らずに言う。
「見えてるのに当たる相手だ。あれは普通の追跡じゃない」
短い沈黙。
直後、搬送車の前方が揺れた。モニタへ自動接続されていた先行ドローンの映像が、ノイズ混じりに跳ねる。高架へ上がる誘導板の横で、何もない空間から遅れて火花が散った。次の瞬間には、ドローンの胴体が横から引き裂かれて落ちていく。
撃たれたのは、今じゃない。
さっきだ。
『……出ろ』
灰堂の声が戻る。
『北側インターセプターを使え。ケース最優先。子供は二次対象』
零は答えない。
『聞こえたか』
「十分に」
ハッチが開いた。雨と排熱が一気に流れ込む。路肩へ固定された黒い追撃バイクへ飛び乗り、マグロックされていたPX4とショットガンの位置を確かめる。エンジンを起こす。タイヤが濡れたアスファルトを噛んだ。
『零』
今度のノアの声は、灰堂じゃない。
『中央車線を使って。左は死線が多い』
「見えてるのか」
『見えてる。三分もたない。早く』
それだけで十分だった。
零はアクセルを開き切る。
雨の上層環状線へ、黒い機体が弾かれるように飛び出した。
夜の物流高架は、鉄の川だった。
無人搬送トレーラーが列をなし、密閉コンテナが青白い誘導灯の上を滑っていく。濡れた路面にタイヤのない車列の低い駆動音だけが響く。その上を、異物みたいに二つの影が走っていた。
白い仮面。
細い少女。
クラウンとレムだ。
五台先のコンテナ屋根で、レムがしゃがみ込んだままこちらを見ていた。長い髪が雨に張りつき、目だけが妙に醒めている。その隣、さらに高い積載フレームの上で、クラウンが片手を振った。
「律儀だねえ」
聞こえるはずのない距離なのに、そう口が動いたのが分かった。
『回収対象は前から四番目の密閉コンテナ内。右側面、下段』
ノアが言う。
零は視線を落とした。雨にぼやけたコンテナ壁の向こうで、小さな熱源が揺れている。弱い。だが消えていない。
次の瞬間、クラウンの93Rが火を噴いた。
三点バースト。
未来線は見えた。正面の標識、左の護壁、路面の継ぎ目。零はバイクを寝かせ、中央分離帯ぎりぎりへ滑り込む。弾そのものは避けられる。
だが、一拍遅れて、標識が爆ぜた。
さらに一拍遅れて、護壁が裂ける。
そして路面の継ぎ目から火花が噴き上がった。
「……三つ」
零は歯の隙間から吐く。
さっきもそうだった。撃たれた結果が、まとめては来ない。少しずつズレる。だが無制限じゃない。
クラウンがもう一度撃った瞬間、一番古い遅延が落ちた。
「抱えられる数、少ないな」
『なに』
「後で」
零は加速した。前輪をトレーラーの側面ガードへ乗せ、そのまま反動で一段上のコンテナ屋根へ飛び移る。着地した瞬間、レムが撃った。
二丁拳銃から、合計六発。
未来線は鮮やかすぎるほど鮮やかだった。頬、肩、膝、喉、足場、退路。零はそのうち足場だけをショットガンで吹き飛ばした。鋼板がめくれ、レムの射線が半拍ずれる。その隙に前へ出る。
「やっぱり来るんだ」
レムはつまらなそうに言った。
「前の人たち、だいたいここで諦めたのに」
零は答えず、PX4を二連射する。レムは半歩の横移動だけで躱した。少女というより、予測線の上を滑っているみたいな動きだった。
クラウンがさらに前方のコンテナへ着地する。
その直後、また一つ、古い遅延が落ちた。今度は前方監視カメラの支柱だ。遅れて折れ、火花を噴きながら車線へ倒れ込む。
零は数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ目を撃たせれば、どれか一つが零れる。
そこへ、最悪のノイズが飛び込んだ。
高架入口の誘導ランプが、何の前触れもなく青へ切り替わる。
封鎖中のはずの物流環状線へ、一般車が滑り込んできた。通勤バス一台、乗用車二台。雨に霞んだフロントガラスの向こうで、何も知らない人間たちがただ前を見ている。
「ふざけんな……!」
『民間車両、進入。七秒後、接触』
ノアの声が鋭くなる。
クラウンは振り返りもしない。まるで最初からそのために撃っておいたみたいに、別のコンテナへ飛ぶ。四つ目のバースト。直後、最初の遅延が落ちた。
右車線の路面が裂ける。
通勤バスの前輪がそこへ嵌まり、巨大な車体がぐらりと傾いた。乗客の悲鳴が、分厚い窓越しでも見えるようだった。
零の視界に、二つの未来が立ち上がる。
一つは、前方のコンテナへ跳ぶ未来。ユナへ届く。だが、バスが落ちる。
もう一つは、踵を返す未来。バスは助かる。クラウンは逃げる。
迷う時間は一秒もない。
零は舌打ちして反転した。
「ノア、バス取る!」
『了解』
返事は早かった。
零はコンテナ屋根を蹴り、傾き始めたバスの側面へ飛び移る。鉄板が軋む。中では乗客が座席から投げ出され、窓へ叩きつけられていた。泣き叫ぶ子供、頭を切った男、潰れた荷物、血で滑る通路。
「頭下げろ!」
聞こえなくても叫ぶ。
バスの後輪が浮く。護壁の向こうは、夜の闇だ。
『零』
ノアの声が妙に静かだった。
『右上、保守ワイヤ』
零は見上げる。高架上部の保守レールから、一本だけ太いワイヤが垂れていた。五秒後、そのワイヤへバスの天井がぶつかる未来線が見える。だが、そのままでは角度が悪い。車体が回って、結局落ちる。
『撃って』
「無茶言うな」
『撃って』
短い。
それだけだった。
零は息を止める。視界いっぱいに分岐が溢れる。外せば終わる。今の腕、今の傷、今の雨。成功率は低い。低すぎる。
だが、その数字の横で、一つだけ揺れない線があった。
ノアが固定している。
零は躊躇わず撃った。
九ミリ弾がワイヤの固定具を叩く。同時に、遥か後方から重い狙撃音が落ちてきた。見えないほど遠い観測点から放たれた一発が、支持柱のボルトを吹き飛ばす。
ワイヤの角度が変わる。
傾いたバスの屋根がそのまま引っ掛かる。
車体が半回転し、隣を走っていた空の搬送トレーラーへ横倒しで叩きつけられた。ガラスが砕け、鋼板が悲鳴を上げる。だが、落ちない。
零自身は反動で宙へ投げ出された。
下は闇だった。
その闇へ向かって無数の死の未来線が伸びる。その中で、一本だけが細く残る。
『右』
ノア。
零は腕を伸ばした。落下の途中、トレーラー側面の保守バーがそこへ来る未来だった。掴む。肩が軋む。脇腹の傷が裂ける。だが、切れない。
引き上がる。
息が戻る。
生きている。
高架の向こうでは、クラウンの熱源がさらに遠ざかっていた。レムがこちらを一瞥し、つまらなそうに唇を歪める。
「そっち行くんだ」
その声だけが、雨の中で妙に近かった。
追えない。
今の一手で、完全に逃した。
「ノア!」
零は通信へ怒鳴った。
返事がない。
「ノア!」
ノイズ。
金属が倒れる音。
数秒遅れて、掠れた呼吸だけが返ってくる。
『……生存、確認』
「どこだ」
『観測塔B……問題ない』
「声が死んでる」
『固定が、少し深いだけ』
その言い方で、全然問題ないことが分かった。
雨の向こうで、また別の爆音がした。
一つじゃない。二つ、三つ。下層の夜景の中で、遅れて火柱が立つ。クラウンがさっきまで仕込んでいた結果が、戦闘の終わった街を今さら撃ち始めていた。
その火の一つの傍で、物流制服の男が倒れているのが見えた。高架の保守通路に半分身体を投げ出したまま、片腕だけが痙攣している。腕には、公式の青ではない、鈍く灰色に光る更新バンド。
零は歯を食いしばり、通路へ飛び移った。
男はもう助からない。胸郭が半分潰れていた。それでも、口だけが何かを探すみたいに動いている。
「おい」
零が屈むと、男は焦点の合わない目でこちらを見た。
「それ、どこで手に入れた」
灰色のバンドを掴んで問う。
男の喉が鳴る。血泡が混じる。
「……下」
「下のどこだ」
「縫う……街……」
「なんだ、それ」
「シール……街……治るって……聞いた……」
そこで息が切れた。
指先から力が抜ける。
灰色のバンドだけが、まだ小さく脈を打っていた。
『全チャンネルへ通達』
灰堂の声が割り込む。
『上層環状線事案を第一級封鎖対象に指定。原因はインフラ老朽破断として処理する。未確認適合者二名はコード、CROWN、REMで登録。映像記録は秘匿階層送り。民間への公表は不要』
零はバスの割れた窓越しに、泣き崩れる乗客たちを見た。
血まみれの父親が、子供を抱きしめている。
運転手はハンドルに額を打ちつけて動かない。
最後列では、誰かの腕がありえない角度へ曲がっていた。
「……不要?」
『混乱を広げる価値がない』
灰堂は迷いなく言った。
『追跡は失敗だ。だが対象の挙動は取れた。次がある』
次。
零は笑いそうになった。
今、街のあちこちで人が裂けている。
今、まだ撃たれてもいない弾の結果だけが、遅れて届いている。
それなのに、この男は次と言う。
零は血に濡れた手で、PX4を握り直した。
「今夜の分も、まだ落ち切ってない」
灰堂は何も答えなかった。
通信の向こうで、ノアの呼吸が浅く揺れる。
零は高架の先、雨の闇へ消えた白い仮面の残像を睨んだ。追跡は失敗した。ケースもユナも、取り返せなかった。けれど一つだけ、掴んだことがある。
クラウンは何でもできるわけじゃない。
抱えられる結果には限界がある。
吐かせれば、崩れる。
あいつは無敵じゃない。
その確信と、死に際の男が残した言葉を、零は脇腹の痛みと一緒に飲み込んだ。
シール街。
それが街の傷口の名前なら、次はそこだ。
遠くで、また何かが爆ぜた。
戦闘は終わったのに、結果だけが街を撃ち続けている。
零は雨の高架に立ち尽くしたまま、低く呟く。
「待ってろ」
白い息は出ない。
夏の夜だった。
「次は、お前の番だ」
返事の代わりに、遅れたサイレンが、ようやく街全体を覆い始めた。
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