第01話 遅れてくる死角
ー/ー 最初に見えたのは、今じゃなかった。
五秒後の床だった。
黄ばんだ防護服の作業員が三人、血の海に転がっている。一人は喉を食い破られ、一人は腹を裂かれ、一人は顔を半分なくしていた。まだ全員、生きている。今は。けれど零の視界では、もう青白い未来線の先で死体になっていた。
そのうち一人は、まだ零の真正面で腰を抜かしていた。
男のこめかみの横に、青白い穴が見える。
五秒後に開く、死体の穴。
その穴の位置へ繋がる現在の軌道は一本しかなかった。作業員の頬を紙一重で掠め、その後ろから跳びかかってくる暴走体の眼窩を撃ち抜く線だ。成功率二七パーセント。外せば、作業員の頭を割る。
一瞬だけ、零の指が止まる。
それでも、引き金を引く。
乾いた銃声が、地下搬送路のコンクリート壁に連続して反響する。
九ミリ弾が作業員の頬脇を掠め、汗と血を散らし、その真後ろにいた暴走体の眼窩へ沈んだ。
頭蓋の中で何かが砕ける。
作業員は自分が撃たれたと思って絶叫し、尻もちのまま顔を押さえた。指の隙間から流れているのが自分の血ではなく、後ろへ降った汚れた飛沫だと理解するまで二秒かかった。
零はもう次を見ていた。
暴走体の頭部に、青い軌道線の終点が二つ見えていた。左眼窩、喉頭。成功率九二パーセント、八八パーセント。零は高い方を捨てて、低い方を撃つ。喉を潰せば、次に飛び込んでくる二体の視線がずれる。そっちの方が、後ろの作業員を守りやすい。
九ミリ弾が喉を抉った。
肉が裂け、黒赤い飛沫が非常灯の赤へ重なる。
暴走体が半歩よろめく。
その隙に、右から跳んできた別個体の未来線が三本、零の視界を裂いた。
肩。
頸動脈。
腹部。
最悪の線だけを切る。
零は半身を沈め、滑るように前へ出た。爪の軌道が頬の横を掠める。熱い。だが浅い。振り抜かれた腕の内側に身体をねじ込み、PX4の銃口を下顎へ押し当てる。
「遅い」
二発。
頭蓋が内側から弾け、歯と骨片が零の袖を叩いた。
直後、頭上から声が落ちてくる。
『左後方、二秒。天井ダクト』
ノアだ。
無機質な少女の声は、いつも正しい。
零は振り向かない。振り向くより先に、左手でショットガンのスリングを引き寄せた。跳躍音。金属ダクトがひしゃげる音。天井を突き破って落ちてきた巨体へ、ほぼゼロ距離で散弾を叩き込む。
轟音。
暴走体の上半身が弾け、肉片と金網がまとめて床へ叩きつけられた。
そこでようやく、搬送路の奥にいた作業員たちが悲鳴を思い出したように上げる。
「動くな! 壁際に寄れ!」
零が叫ぶと、黄ばんだ防護服の集団が一斉にしゃがみ込んだ。遅い。だが、まだ生きている。
地下搬送路は血と消毒液の臭いで満ちていた。天井を走る無人搬送レールは停止し、非常灯だけが赤く瞬いている。暴走体は全部で九体いた。今ので七。残り二。
『前方ゲート、閉鎖不能。熱源二』
「見えてる」
零の視界には、青白い線が幾重にも走っていた。
未来の分岐。
数秒先に起こる動きが、軌道として見える。
誰がどこへ跳ぶか。どの角度から爪が来るか。撃てば当たるか、外すか。数字は常に揺れている。世界そのものが、正解をいくつもぶら下げて零の眼の前を流れていく。
だから死なない。
少なくとも、普通には。
ゲートが内側から膨らんだ。
鉄板が悲鳴を上げ、次の瞬間には歪んだ腕が二本、隙間から突き出る。開く。こじ開ける。こっちへ来る。零は見えていた線のうち、最短の一本へ照準を合わせた。
だが、先に弾けたのは銃声ではなかった。
遠く、遥か上。
搬送路のさらに上層、地上側から一発だけ、重い狙撃音が落ちてきた。
ゲート奥の熱源のひとつが消える。
ノアの援護。
残る一体が怯んだコンマ五秒の隙に、零は走った。
床を蹴る。
息を吸う。
視界を狭める。
正面の未来線は三本。
一つ目は突進。
二つ目は飛び掛かり。
三つ目は、死角からの横薙ぎ。
零は三つ目に向かって踏み込んだ。予測線の内側へ入れば、軌道は消える。喉元を掠める爪を避けながら脇腹へ三連射。暴走体がくの字に折れ、さらに膝関節へ二発。崩れた頭を踏み台にして上を取る。
とどめの一発。
静かになった。
荒い呼吸と、どこかで漏電している火花の音だけが残る。
『制圧完了。零、損傷は』
「擦過傷だけ。対象は?」
『生体反応ひとつ。搬送区画C、移動中』
零は舌打ちした。
この任務の本命は暴走体処理じゃない。搬送中に暴走事故を起こして逃走した“回収対象”の確保だ。上はただの感染者と言っていたが、封鎖規模がでかすぎる。何かを隠しているのは最初から分かっていた。
「進路」
『西側昇降路へ。地上に抜けるつもり』
「逃がすな」
返事の代わりに、ノアの通信回線に微かなノイズが走る。
彼女が観測に集中している時の癖だった。
零はショットガンを背に戻し、駆け出した。搬送路を抜け、警告灯の赤に染まった昇降シャフトを一気に駆け上がる。鉄階段の一段先、二段先に、対象の未来線が見えた。細い。ぶれる。成人ではない。走り慣れていない足取り。
地上扉を蹴り開ける。
雨だった。
夜の下層区。廃物流ヤード。積み上がったコンテナの谷間を、白い検査衣の小柄な影がふらつきながら走っていく。胸に何かを抱えている。黒い、片腕ほどの円筒ケース。
回収対象は子供だった。
年は十を少し超えたくらいか。
裸足。
首筋に点滴痕。
胸元の裂けた認識タグに、かろうじて「YUNA」の文字。
右腕の皮膚がガラスみたいにひび割れ、内側から微細な青光が漏れている。
「止まれ!」
叫ぶが、振り向かない。
『右の高所、二名』
ノアの声が落ちた瞬間、零は反射で横へ跳んでいた。
次の瞬間、いた場所を三点バーストが切り裂く。
コンテナ側面に火花が走り、遅れて金属音が重なった。重い。手練れだ。一般兵じゃない。
零は膝をついた姿勢のまま銃を上げる。
視界の先、積載クレーンの梁に、人影が二ついた。
一人は細い少女。両手に二丁拳銃。雨に濡れた長髪が頬に張りついている。こちらを見る目だけが妙に退屈そうだった。
もう一人は、その隣で笑っていた。
白い仮面。
口元だけ大きく裂けた、道化師の顔。
全身を鈍い装甲で覆いながら、立ち姿だけが異様に軽い。
「こんばんは、特務のお嬢さん」
仮面の男が、両手の93Rをくるりと回した。
「落とし物を返してもらいに来た」
『未確認適合者二名。危険度、高。零、対象よりそっちを優先して』
「分かってる」
言いながら、零は子供と仮面の男との位置関係を見る。
見えた。
男が動く未来線が、六本。
クレーンから降りる。
飛ぶ。
撃つ。
子供を掴む。
自分の射線から消える。
全部、速い。
だが回避可能だ。数字は低くない。
零は一番マシな分岐を選び、引き金を引いた。
発砲と同時に、男の未来線がずれた。
「は?」
見えていた軌道から、男の身体が半拍遅れて外れる。
弾は外れた。
いや、違う。
外れたように見えた。
零が認識を修正するより早く、少女の二丁拳銃が火を噴いた。
右、左、上。
未来線は鮮明だ。読める。読めるのに、妙に多い。増えている。零はコンテナの陰へ滑り込みながら二発だけ返す。少女は笑いもしない。ただ、撃ちながら首を傾けた。
「ほんとだ。見えてるのに、遅いんだ」
退屈そうな声。
その瞬間、仮面の男が消えた。
否、視界の線から落ちた。
零は咄嗟に上を見る。来る。真上。コンテナ上面を蹴った衝撃が一秒先の軌道として見え、次の瞬間には本当に音が来る。
速い。
だがまだ避けられる。
零は後方へ飛び、着地と同時にPX4を三連射した。男の胸、喉、額。命中率はどれも七割以上。十分だ。
当たった。
当たった、はずだった。
火花だけが散った。
装甲だ。
「いい眼だ」
仮面の奥で、男が笑う。
「でも、結果を見るのが少し早い」
近い。
零はショットガンへ持ち替えようとして、そこで初めて、自分の左脇腹が熱く裂ける感覚を覚えた。
遅れて来た。
さっき、避けたはずのバーストの一発。
制服の下で肉が開き、温かい血が一気に流れ落ちる。
「ぐっ……!」
『零!』
ノアの声が鋭くなる。
視界がぶれた。
男はその隙を逃さない。零の横をすり抜け、転倒した子供の前へ一瞬で回り込む。白いケースがその手に移る。子供が何か言おうと口を開くが、声になる前に、少女がその首筋へ細い注射針を突き立てた。
眠るみたいに崩れ落ちる。
「返却完了」
少女が言う。
仮面の男はケースを肩に担ぎ、零を見た。
「君、いいね。ちゃんと見えてる」
雨粒が、仮面の笑顔を濡らしていく。
「だからこそ、ずらしがいがある」
零は歯を食いしばり、ショットガンを引き寄せた。
まだ動ける。
まだ照準は合う。
未来線も、消えてはいない。
引き金に指をかける。
その瞬間、男の姿が再びぶれた。
今度は線が読めない。
読めた頃には、もう遅い。
閃光。
衝撃。
背後のコンテナが、まとめて爆ぜた。
遅延していた着弾結果が一気に噴き出し、爆炎と金属片がヤードを薙いでいく。零は咄嗟に身を丸め、飛んできた破片を腕で受けた。激痛。息が詰まる。
視界の向こうで、仮面の男と少女がクレーンの闇へ消える。
追えない。
追えば死ぬ。
『零、生存を優先。ノア権限で命令する』
通信の声は冷たいのに、ほんの少しだけ速かった。
零は荒い息のまま、消えていく二つの熱源を睨んだ。
「……あいつ」
『識別不能。だが記録する』
「違う」
血の味が口の中へ広がる。
零は雨の中で膝をつき、それでも笑う仮面の残像を見ていた。
「分かった。あいつ、見えてないんじゃない」
見えている未来を、
後ろへずらしている。
遅れてサイレンが鳴り始めた。
街がようやく、自分の傷に気づいたみたいに。
零は脇腹を押さえたまま、闇を睨み続ける。
あの道化師を逃がした瞬間から、今夜の戦いはまだ終わっていないと分かっていた。
五秒後の床だった。
黄ばんだ防護服の作業員が三人、血の海に転がっている。一人は喉を食い破られ、一人は腹を裂かれ、一人は顔を半分なくしていた。まだ全員、生きている。今は。けれど零の視界では、もう青白い未来線の先で死体になっていた。
そのうち一人は、まだ零の真正面で腰を抜かしていた。
男のこめかみの横に、青白い穴が見える。
五秒後に開く、死体の穴。
その穴の位置へ繋がる現在の軌道は一本しかなかった。作業員の頬を紙一重で掠め、その後ろから跳びかかってくる暴走体の眼窩を撃ち抜く線だ。成功率二七パーセント。外せば、作業員の頭を割る。
一瞬だけ、零の指が止まる。
それでも、引き金を引く。
乾いた銃声が、地下搬送路のコンクリート壁に連続して反響する。
九ミリ弾が作業員の頬脇を掠め、汗と血を散らし、その真後ろにいた暴走体の眼窩へ沈んだ。
頭蓋の中で何かが砕ける。
作業員は自分が撃たれたと思って絶叫し、尻もちのまま顔を押さえた。指の隙間から流れているのが自分の血ではなく、後ろへ降った汚れた飛沫だと理解するまで二秒かかった。
零はもう次を見ていた。
暴走体の頭部に、青い軌道線の終点が二つ見えていた。左眼窩、喉頭。成功率九二パーセント、八八パーセント。零は高い方を捨てて、低い方を撃つ。喉を潰せば、次に飛び込んでくる二体の視線がずれる。そっちの方が、後ろの作業員を守りやすい。
九ミリ弾が喉を抉った。
肉が裂け、黒赤い飛沫が非常灯の赤へ重なる。
暴走体が半歩よろめく。
その隙に、右から跳んできた別個体の未来線が三本、零の視界を裂いた。
肩。
頸動脈。
腹部。
最悪の線だけを切る。
零は半身を沈め、滑るように前へ出た。爪の軌道が頬の横を掠める。熱い。だが浅い。振り抜かれた腕の内側に身体をねじ込み、PX4の銃口を下顎へ押し当てる。
「遅い」
二発。
頭蓋が内側から弾け、歯と骨片が零の袖を叩いた。
直後、頭上から声が落ちてくる。
『左後方、二秒。天井ダクト』
ノアだ。
無機質な少女の声は、いつも正しい。
零は振り向かない。振り向くより先に、左手でショットガンのスリングを引き寄せた。跳躍音。金属ダクトがひしゃげる音。天井を突き破って落ちてきた巨体へ、ほぼゼロ距離で散弾を叩き込む。
轟音。
暴走体の上半身が弾け、肉片と金網がまとめて床へ叩きつけられた。
そこでようやく、搬送路の奥にいた作業員たちが悲鳴を思い出したように上げる。
「動くな! 壁際に寄れ!」
零が叫ぶと、黄ばんだ防護服の集団が一斉にしゃがみ込んだ。遅い。だが、まだ生きている。
地下搬送路は血と消毒液の臭いで満ちていた。天井を走る無人搬送レールは停止し、非常灯だけが赤く瞬いている。暴走体は全部で九体いた。今ので七。残り二。
『前方ゲート、閉鎖不能。熱源二』
「見えてる」
零の視界には、青白い線が幾重にも走っていた。
未来の分岐。
数秒先に起こる動きが、軌道として見える。
誰がどこへ跳ぶか。どの角度から爪が来るか。撃てば当たるか、外すか。数字は常に揺れている。世界そのものが、正解をいくつもぶら下げて零の眼の前を流れていく。
だから死なない。
少なくとも、普通には。
ゲートが内側から膨らんだ。
鉄板が悲鳴を上げ、次の瞬間には歪んだ腕が二本、隙間から突き出る。開く。こじ開ける。こっちへ来る。零は見えていた線のうち、最短の一本へ照準を合わせた。
だが、先に弾けたのは銃声ではなかった。
遠く、遥か上。
搬送路のさらに上層、地上側から一発だけ、重い狙撃音が落ちてきた。
ゲート奥の熱源のひとつが消える。
ノアの援護。
残る一体が怯んだコンマ五秒の隙に、零は走った。
床を蹴る。
息を吸う。
視界を狭める。
正面の未来線は三本。
一つ目は突進。
二つ目は飛び掛かり。
三つ目は、死角からの横薙ぎ。
零は三つ目に向かって踏み込んだ。予測線の内側へ入れば、軌道は消える。喉元を掠める爪を避けながら脇腹へ三連射。暴走体がくの字に折れ、さらに膝関節へ二発。崩れた頭を踏み台にして上を取る。
とどめの一発。
静かになった。
荒い呼吸と、どこかで漏電している火花の音だけが残る。
『制圧完了。零、損傷は』
「擦過傷だけ。対象は?」
『生体反応ひとつ。搬送区画C、移動中』
零は舌打ちした。
この任務の本命は暴走体処理じゃない。搬送中に暴走事故を起こして逃走した“回収対象”の確保だ。上はただの感染者と言っていたが、封鎖規模がでかすぎる。何かを隠しているのは最初から分かっていた。
「進路」
『西側昇降路へ。地上に抜けるつもり』
「逃がすな」
返事の代わりに、ノアの通信回線に微かなノイズが走る。
彼女が観測に集中している時の癖だった。
零はショットガンを背に戻し、駆け出した。搬送路を抜け、警告灯の赤に染まった昇降シャフトを一気に駆け上がる。鉄階段の一段先、二段先に、対象の未来線が見えた。細い。ぶれる。成人ではない。走り慣れていない足取り。
地上扉を蹴り開ける。
雨だった。
夜の下層区。廃物流ヤード。積み上がったコンテナの谷間を、白い検査衣の小柄な影がふらつきながら走っていく。胸に何かを抱えている。黒い、片腕ほどの円筒ケース。
回収対象は子供だった。
年は十を少し超えたくらいか。
裸足。
首筋に点滴痕。
胸元の裂けた認識タグに、かろうじて「YUNA」の文字。
右腕の皮膚がガラスみたいにひび割れ、内側から微細な青光が漏れている。
「止まれ!」
叫ぶが、振り向かない。
『右の高所、二名』
ノアの声が落ちた瞬間、零は反射で横へ跳んでいた。
次の瞬間、いた場所を三点バーストが切り裂く。
コンテナ側面に火花が走り、遅れて金属音が重なった。重い。手練れだ。一般兵じゃない。
零は膝をついた姿勢のまま銃を上げる。
視界の先、積載クレーンの梁に、人影が二ついた。
一人は細い少女。両手に二丁拳銃。雨に濡れた長髪が頬に張りついている。こちらを見る目だけが妙に退屈そうだった。
もう一人は、その隣で笑っていた。
白い仮面。
口元だけ大きく裂けた、道化師の顔。
全身を鈍い装甲で覆いながら、立ち姿だけが異様に軽い。
「こんばんは、特務のお嬢さん」
仮面の男が、両手の93Rをくるりと回した。
「落とし物を返してもらいに来た」
『未確認適合者二名。危険度、高。零、対象よりそっちを優先して』
「分かってる」
言いながら、零は子供と仮面の男との位置関係を見る。
見えた。
男が動く未来線が、六本。
クレーンから降りる。
飛ぶ。
撃つ。
子供を掴む。
自分の射線から消える。
全部、速い。
だが回避可能だ。数字は低くない。
零は一番マシな分岐を選び、引き金を引いた。
発砲と同時に、男の未来線がずれた。
「は?」
見えていた軌道から、男の身体が半拍遅れて外れる。
弾は外れた。
いや、違う。
外れたように見えた。
零が認識を修正するより早く、少女の二丁拳銃が火を噴いた。
右、左、上。
未来線は鮮明だ。読める。読めるのに、妙に多い。増えている。零はコンテナの陰へ滑り込みながら二発だけ返す。少女は笑いもしない。ただ、撃ちながら首を傾けた。
「ほんとだ。見えてるのに、遅いんだ」
退屈そうな声。
その瞬間、仮面の男が消えた。
否、視界の線から落ちた。
零は咄嗟に上を見る。来る。真上。コンテナ上面を蹴った衝撃が一秒先の軌道として見え、次の瞬間には本当に音が来る。
速い。
だがまだ避けられる。
零は後方へ飛び、着地と同時にPX4を三連射した。男の胸、喉、額。命中率はどれも七割以上。十分だ。
当たった。
当たった、はずだった。
火花だけが散った。
装甲だ。
「いい眼だ」
仮面の奥で、男が笑う。
「でも、結果を見るのが少し早い」
近い。
零はショットガンへ持ち替えようとして、そこで初めて、自分の左脇腹が熱く裂ける感覚を覚えた。
遅れて来た。
さっき、避けたはずのバーストの一発。
制服の下で肉が開き、温かい血が一気に流れ落ちる。
「ぐっ……!」
『零!』
ノアの声が鋭くなる。
視界がぶれた。
男はその隙を逃さない。零の横をすり抜け、転倒した子供の前へ一瞬で回り込む。白いケースがその手に移る。子供が何か言おうと口を開くが、声になる前に、少女がその首筋へ細い注射針を突き立てた。
眠るみたいに崩れ落ちる。
「返却完了」
少女が言う。
仮面の男はケースを肩に担ぎ、零を見た。
「君、いいね。ちゃんと見えてる」
雨粒が、仮面の笑顔を濡らしていく。
「だからこそ、ずらしがいがある」
零は歯を食いしばり、ショットガンを引き寄せた。
まだ動ける。
まだ照準は合う。
未来線も、消えてはいない。
引き金に指をかける。
その瞬間、男の姿が再びぶれた。
今度は線が読めない。
読めた頃には、もう遅い。
閃光。
衝撃。
背後のコンテナが、まとめて爆ぜた。
遅延していた着弾結果が一気に噴き出し、爆炎と金属片がヤードを薙いでいく。零は咄嗟に身を丸め、飛んできた破片を腕で受けた。激痛。息が詰まる。
視界の向こうで、仮面の男と少女がクレーンの闇へ消える。
追えない。
追えば死ぬ。
『零、生存を優先。ノア権限で命令する』
通信の声は冷たいのに、ほんの少しだけ速かった。
零は荒い息のまま、消えていく二つの熱源を睨んだ。
「……あいつ」
『識別不能。だが記録する』
「違う」
血の味が口の中へ広がる。
零は雨の中で膝をつき、それでも笑う仮面の残像を見ていた。
「分かった。あいつ、見えてないんじゃない」
見えている未来を、
後ろへずらしている。
遅れてサイレンが鳴り始めた。
街がようやく、自分の傷に気づいたみたいに。
零は脇腹を押さえたまま、闇を睨み続ける。
あの道化師を逃がした瞬間から、今夜の戦いはまだ終わっていないと分かっていた。
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