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第2話:壁の向こうの怪物

ー/ー



職人の指先が、タバコの葉を一枚一枚、丁寧にならしていく。
 作業場のランプの下、大統領は太いモンテ・クリストを指に挟み、ゆっくりと白い煙を吐き出した。その目は、レクトールの語る物語から離れなかった。
「……禁錮十五年か。若者には、永遠にも等しい時間だな」
 大統領の呟きに、職人が手を動かしながら静かに言った。
「熟成に十五年。上質な葉なら、ちょうど極上の香りを放つ頃合いですよ、大統領」
「なるほど。では、その暗闇の中で、男はいかにして変貌を遂げたのか……続きを頼もう、レクトール」
 レクトールは眼鏡の位置を直し、声をさらに潜めた。
 絶海の孤島にそびえ立つ監獄砦。その最下層にある地下独房は、陽光の届かぬ、生きながらの墓場であった。
 鯉三郎がそこに投獄されてから、三年が過ぎていた。湿った冷気と、壁を伝う海水。支給されるのは泥のような麦飯と僅かな水だけだ。かつて海風を浴びて立っていた若者の面影は消え、今や肉も落ち、眼だけが奇妙に光る男が残っていた。
 何度も、石壁に頭を打ちつけることを考えた。この苦しみごと、消えてしまえばいいと。
 そんなある嵐の夜のことだった。
 激しい雷鳴が海を揺らす中、隣の独房との間にある厚い石壁の向こうから、微かな音が聞こえてきた。
 コト、コト、コト……。
 ネズミではない。規則性のある、人の手による打撃音だ。鯉三郎は泥の床に耳を押し当てた。
「……そこに、誰かいるのか」
 枯れた声で問いかけると、音がぴたりと止んだ。沈黙の後、壁の向こうから、信じられないほど深く、落ち着き払った老人の声が返ってきた。
「ほう。まだ、言葉を忘れておらぬ者がおったか」
 それが、壁を隔てた運命の出会いだった。
 隣の独房に幽閉されていたのは、かつて世界の海を股にかけ、時の天下人すらも金の力で動かしたとされる伝説の巨商——呂宋兵衛であった。ある巨大な秘密を握ったがゆえに、この世から消され、二十年近くもこの暗闇に繋がれてきた男だ。
 兵衛は、壁の僅かな隙間越しに、絶望の底にいた鯉三郎へ言った。
「若者よ、泣くのをやめよ。涙は、お前の身体から貴重な水分を奪うだけだ。復讐を望むなら、その怒りを、冷たく、硬い刃へと研ぎ澄ませ」
 その夜から、二人の「秘密の講義」が始まった。
 看守の目を盗みながら、兵衛は夜ごと、鯉三郎に言葉を送り続けた。南蛮の天文学、複雑な海流の読み方、人の心理を読む術、そして富を動かす帝王学。だが鯉三郎の記憶に最も深く刻まれたのは、ある夜の兵衛の一言だった。
「人は、恐怖より恥辱に弱い。剣で脅すより、その者が最も誇りにしているものを、衆人の前で踏みにじれ。それが最も確実な、支配の手段だ」
 老巨商はそう言って、しばらく黙った。そして、どこか遠くを見るように続けた。
「私はかつて、その手を使った。今でも、正しかったとは思えぬがな」
 鯉三郎は返す言葉を持たなかった。兵衛が語るのは、勝利の技術だけではなかった。敗北の苦さ、過ちの重さ、それでも前へ進んだ理由——すべてが含まれていた。泥の床に指で海図を描き、頭の中で船を動かしながら、鯉三郎は少しずつ、別の男へと変わっていった。
 一方で兵衛も、壁の向こうの若者に、若い頃の自分を見ていたのかもしれない。
 十五年が過ぎた冬のある夜、兵衛の咳がひどく悪化した。壁越しに聞こえるその音は、もはや老いを超えて、肉体の限界を告げるものだった。
「……鯉三郎、よく聞け」
 兵衛の声は弱かったが、言葉は揺れなかった。
「瀬戸内の、名もなき無人島の洞窟に、私が隠した南蛮銀と、鉄甲船の設計図がある。それを使え。お前なら、あの海を再び支配できる」
 少しの間、沈黙があった。
「……それから、もう一つ。私が死んだら、袋の中に私を入れてくれるな。お前が、その袋を使え」
「兵衛さん——」
「言い訳は要らん。お前が生きることが、私の続きだ」
 それが、師の最期の言葉となった。
 翌朝、看守たちが冷たくなった兵衛の遺体を大きな麻袋に詰めるのを、鯉三郎は鉄格子の隙間から見ていた。頭の中で、時間を数えていた。看守が昼の交代のため部屋を離れる、あの数分間を。
 兵衛がかつて壁の隙間から渡してくれた、一本の錆びた釘。それで幾夜もかけて鍵穴の形を覚え、麦飯の残りで型を作り、石を削って仕上げた道具が、今、鯉三郎の掌の中にあった。
 看守の足音が遠ざかった。
 鯉三郎は音もなく立ち上がり、独房の錠を静かに開けた。隣の独房へ忍び込み、麻袋から兵衛の身体をそっと抱き上げて、自らのベッドに横たわらせた。そして自分自身が、冷たい麻袋の中へと滑り込んだ。
 外側から紐が結ばれる。完全な暗闇が落ちた。
 兵衛の残り香がした。枯れ草と、潮と、わずかに墨の匂い。
 やがて看守たちが戻り、乱暴に袋を持ち上げた。体が揺れ、石段を引きずられ、上へ、上へと運ばれていく。息を止めた。動かなかった。
 そして袋の縫い目から、一筋の風が入ってきた。
 潮の香りがした。
 十五年ぶりの、本物の夜風だった。
 次の瞬間、鯉三郎の身体は虚空へと投げ出された。


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職人の指先が、タバコの葉を一枚一枚、丁寧にならしていく。 作業場のランプの下、大統領は太いモンテ・クリストを指に挟み、ゆっくりと白い煙を吐き出した。その目は、レクトールの語る物語から離れなかった。
「……禁錮十五年か。若者には、永遠にも等しい時間だな」
 大統領の呟きに、職人が手を動かしながら静かに言った。
「熟成に十五年。上質な葉なら、ちょうど極上の香りを放つ頃合いですよ、大統領」
「なるほど。では、その暗闇の中で、男はいかにして変貌を遂げたのか……続きを頼もう、レクトール」
 レクトールは眼鏡の位置を直し、声をさらに潜めた。
 絶海の孤島にそびえ立つ監獄砦。その最下層にある地下独房は、陽光の届かぬ、生きながらの墓場であった。
 鯉三郎がそこに投獄されてから、三年が過ぎていた。湿った冷気と、壁を伝う海水。支給されるのは泥のような麦飯と僅かな水だけだ。かつて海風を浴びて立っていた若者の面影は消え、今や肉も落ち、眼だけが奇妙に光る男が残っていた。
 何度も、石壁に頭を打ちつけることを考えた。この苦しみごと、消えてしまえばいいと。
 そんなある嵐の夜のことだった。
 激しい雷鳴が海を揺らす中、隣の独房との間にある厚い石壁の向こうから、微かな音が聞こえてきた。
 コト、コト、コト……。
 ネズミではない。規則性のある、人の手による打撃音だ。鯉三郎は泥の床に耳を押し当てた。
「……そこに、誰かいるのか」
 枯れた声で問いかけると、音がぴたりと止んだ。沈黙の後、壁の向こうから、信じられないほど深く、落ち着き払った老人の声が返ってきた。
「ほう。まだ、言葉を忘れておらぬ者がおったか」
 それが、壁を隔てた運命の出会いだった。
 隣の独房に幽閉されていたのは、かつて世界の海を股にかけ、時の天下人すらも金の力で動かしたとされる伝説の巨商——呂宋兵衛であった。ある巨大な秘密を握ったがゆえに、この世から消され、二十年近くもこの暗闇に繋がれてきた男だ。
 兵衛は、壁の僅かな隙間越しに、絶望の底にいた鯉三郎へ言った。
「若者よ、泣くのをやめよ。涙は、お前の身体から貴重な水分を奪うだけだ。復讐を望むなら、その怒りを、冷たく、硬い刃へと研ぎ澄ませ」
 その夜から、二人の「秘密の講義」が始まった。
 看守の目を盗みながら、兵衛は夜ごと、鯉三郎に言葉を送り続けた。南蛮の天文学、複雑な海流の読み方、人の心理を読む術、そして富を動かす帝王学。だが鯉三郎の記憶に最も深く刻まれたのは、ある夜の兵衛の一言だった。
「人は、恐怖より恥辱に弱い。剣で脅すより、その者が最も誇りにしているものを、衆人の前で踏みにじれ。それが最も確実な、支配の手段だ」
 老巨商はそう言って、しばらく黙った。そして、どこか遠くを見るように続けた。
「私はかつて、その手を使った。今でも、正しかったとは思えぬがな」
 鯉三郎は返す言葉を持たなかった。兵衛が語るのは、勝利の技術だけではなかった。敗北の苦さ、過ちの重さ、それでも前へ進んだ理由——すべてが含まれていた。泥の床に指で海図を描き、頭の中で船を動かしながら、鯉三郎は少しずつ、別の男へと変わっていった。
 一方で兵衛も、壁の向こうの若者に、若い頃の自分を見ていたのかもしれない。
 十五年が過ぎた冬のある夜、兵衛の咳がひどく悪化した。壁越しに聞こえるその音は、もはや老いを超えて、肉体の限界を告げるものだった。
「……鯉三郎、よく聞け」
 兵衛の声は弱かったが、言葉は揺れなかった。
「瀬戸内の、名もなき無人島の洞窟に、私が隠した南蛮銀と、鉄甲船の設計図がある。それを使え。お前なら、あの海を再び支配できる」
 少しの間、沈黙があった。
「……それから、もう一つ。私が死んだら、袋の中に私を入れてくれるな。お前が、その袋を使え」
「兵衛さん——」
「言い訳は要らん。お前が生きることが、私の続きだ」
 それが、師の最期の言葉となった。
 翌朝、看守たちが冷たくなった兵衛の遺体を大きな麻袋に詰めるのを、鯉三郎は鉄格子の隙間から見ていた。頭の中で、時間を数えていた。看守が昼の交代のため部屋を離れる、あの数分間を。
 兵衛がかつて壁の隙間から渡してくれた、一本の錆びた釘。それで幾夜もかけて鍵穴の形を覚え、麦飯の残りで型を作り、石を削って仕上げた道具が、今、鯉三郎の掌の中にあった。
 看守の足音が遠ざかった。
 鯉三郎は音もなく立ち上がり、独房の錠を静かに開けた。隣の独房へ忍び込み、麻袋から兵衛の身体をそっと抱き上げて、自らのベッドに横たわらせた。そして自分自身が、冷たい麻袋の中へと滑り込んだ。
 外側から紐が結ばれる。完全な暗闇が落ちた。
 兵衛の残り香がした。枯れ草と、潮と、わずかに墨の匂い。
 やがて看守たちが戻り、乱暴に袋を持ち上げた。体が揺れ、石段を引きずられ、上へ、上へと運ばれていく。息を止めた。動かなかった。
 そして袋の縫い目から、一筋の風が入ってきた。
 潮の香りがした。
 十五年ぶりの、本物の夜風だった。
 次の瞬間、鯉三郎の身体は虚空へと投げ出された。