第1話:黒煙の目覚め
ー/ーしわがれた手元で、琥珀色のタバコ葉が静かに巻かれていく。
作業台のランプが照らすのは、年季の入った木の机と、部屋の隅に座る初老の男——レクトール(読書人)の横顔だった。湿った土の匂いと、どこかスパイシーなタバコの香りが部屋に満ちている。そこへ、場にそぐわない仕立ての良いスーツを纏った男が、音もなく腰を下ろした。お忍びでこの作業場を訪れた、この国の最高権力者、大統領である。
大統領は胸ポケットから完璧な曲線を描く太いモンテ・クリストを取り出し、ゆっくりと火をつけた。青白い煙が天井へ向かってゆらりと昇る。
「……待たせたな、レクトール。今夜の物語を聞かせてもらおうか」
低い声に、レクトールは眼鏡の奥の目を細め、古い手帳を静かに開いた。
「ええ、大統領。今夜お届けするのは、遠い東の島国、戦国時代の海の物語です。裏切りと、十五年の熟成が生んだ——黒い煙のような復讐の記録を」
タバコ葉を巻く職人の手だけが、部屋に静かな律動を刻んでいた。レクトールは声を一段落とし、歴史の闇へと潜るように語り始めた。
時は、日の本の国が戦火に包まれていた戦国時代。
瀬戸内の青い海を、一隻の関船が風を切って進んでいた。舳先に立ち、潮風を全身に受けているのは、若き水軍の幹部候補生、鯉三郎である。
鯉三郎は、この海域を束ねる水軍の次期船長として、誰もがその将来を嘱望する若者だった。操船術は確かで、部下からの人望も厚い。数カ月後には、幼い頃から互いを知る婚約者・澪(みお)と祝言を挙げる手はずも整っていた。澪はいつも、鯉三郎が港に戻るたびに岸壁の端に立って待っていた。「また無事で帰ってきた」と言うように、ただ静かに笑って。
その頃、鯉三郎には蔵人という親友がいた。同じ水軍で船長の座を目指す幼馴染だ。蔵人は誰よりも鯉三郎の才を認め、かつて敵船に囲まれた夜には身を挺して彼をかばったこともある。二人の間には、言葉を要さぬ信頼があった——少なくとも、鯉三郎はそう信じていた。
「鯉三郎、次の南蛮船との交易、お前に全権を任せることになったぞ」
蔵人がそう言って肩を叩いたとき、その顔には親友の出世を心から喜ぶような、屈託のない笑みが浮かんでいた。鯉三郎は迷わず礼を言い、出航の準備へ向かった。海の下に、どす黒い渦が巻いていることも知らずに。
南蛮船との交易を無事に終え、鯉三郎が港へ意気揚々と帰還した翌朝のことだった。
「控えろ、鯉三郎! 貴様、南蛮の宣教師と結託し、お上の禁じたキリシタンの聖物と火薬を密輸しようとしたな!」
水軍の総帥の前に突きつけられたのは、鯉三郎の船の底から発見されたという南蛮の十字架と硝石の樽だった。身に覚えのない罪に、鯉三郎の足元が揺れた。
「馬鹿な……そんなものは知らん。仕組まれた罠だ!」
声は震えていた。しかしそれは恐怖ではなく、怒りでもなく、もっと根源的な何か——世界の地面が音もなく崩れていく感覚だった。必死に叫ぶ鯉三郎の視界の端で、蔵人が静かに俯いていた。その肩が、微かに震えている。
悲しんでいるのか、とまず思った。
だが違った。あの肩の震えを、鯉三郎は知っている。子供の頃、いたずらが成功したときの、あの震えだ。
血の気が、足の先から引いていった。
蔵人は、敵対する大名と密かに手を結んでいた。鯉三郎を排除することで次期船長の座を掌中に収め、澪をも我がものにする——周到に張り巡らされた罠の全容が、一瞬にして鯉三郎の脳裏に展開した。積荷の確認をさせなかったのも、最後に船倉へ案内したのも、すべて蔵人だった。
弁明の機会すら与えられぬまま、鯉三郎は無実の罪で「禁錮十五年」の裁きを受けた。
連行されたのは、本土から遥か離れた絶海の孤島だった。切り立った崖の上にそびえ立つ海上の監獄砦——一度入れば、生きて出た者はいないとされる場所である。
重い扉が閉まり、鉄の錠が落ちた。独房には潮と黴の入り混じった臭いが染みついており、壁を触れば、冷たい石が指先から熱を奪っていく。かすかに聞こえていた波音も、やがて壁の向こうへ遠ざかった。
両親は、息子の無実を訴え続けた末に相次いで命を落としたと、後になって看守の口から漏れ聞いた。澪は——蔵人の妻になったと。
鯉三郎は壁に背を預け、暗闇の中に座ったまま、長いあいだ動かなかった。泣くことも、叫ぶことも、もはやしなかった。ただ、目の奥に何かが宿るのを感じた。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かで、もっと昏い何かが——ゆっくりと、確かに、燃え始めていた。
十五年に及ぶ熟成の時が、こうして幕を開けた。
作業台のランプが照らすのは、年季の入った木の机と、部屋の隅に座る初老の男——レクトール(読書人)の横顔だった。湿った土の匂いと、どこかスパイシーなタバコの香りが部屋に満ちている。そこへ、場にそぐわない仕立ての良いスーツを纏った男が、音もなく腰を下ろした。お忍びでこの作業場を訪れた、この国の最高権力者、大統領である。
大統領は胸ポケットから完璧な曲線を描く太いモンテ・クリストを取り出し、ゆっくりと火をつけた。青白い煙が天井へ向かってゆらりと昇る。
「……待たせたな、レクトール。今夜の物語を聞かせてもらおうか」
低い声に、レクトールは眼鏡の奥の目を細め、古い手帳を静かに開いた。
「ええ、大統領。今夜お届けするのは、遠い東の島国、戦国時代の海の物語です。裏切りと、十五年の熟成が生んだ——黒い煙のような復讐の記録を」
タバコ葉を巻く職人の手だけが、部屋に静かな律動を刻んでいた。レクトールは声を一段落とし、歴史の闇へと潜るように語り始めた。
時は、日の本の国が戦火に包まれていた戦国時代。
瀬戸内の青い海を、一隻の関船が風を切って進んでいた。舳先に立ち、潮風を全身に受けているのは、若き水軍の幹部候補生、鯉三郎である。
鯉三郎は、この海域を束ねる水軍の次期船長として、誰もがその将来を嘱望する若者だった。操船術は確かで、部下からの人望も厚い。数カ月後には、幼い頃から互いを知る婚約者・澪(みお)と祝言を挙げる手はずも整っていた。澪はいつも、鯉三郎が港に戻るたびに岸壁の端に立って待っていた。「また無事で帰ってきた」と言うように、ただ静かに笑って。
その頃、鯉三郎には蔵人という親友がいた。同じ水軍で船長の座を目指す幼馴染だ。蔵人は誰よりも鯉三郎の才を認め、かつて敵船に囲まれた夜には身を挺して彼をかばったこともある。二人の間には、言葉を要さぬ信頼があった——少なくとも、鯉三郎はそう信じていた。
「鯉三郎、次の南蛮船との交易、お前に全権を任せることになったぞ」
蔵人がそう言って肩を叩いたとき、その顔には親友の出世を心から喜ぶような、屈託のない笑みが浮かんでいた。鯉三郎は迷わず礼を言い、出航の準備へ向かった。海の下に、どす黒い渦が巻いていることも知らずに。
南蛮船との交易を無事に終え、鯉三郎が港へ意気揚々と帰還した翌朝のことだった。
「控えろ、鯉三郎! 貴様、南蛮の宣教師と結託し、お上の禁じたキリシタンの聖物と火薬を密輸しようとしたな!」
水軍の総帥の前に突きつけられたのは、鯉三郎の船の底から発見されたという南蛮の十字架と硝石の樽だった。身に覚えのない罪に、鯉三郎の足元が揺れた。
「馬鹿な……そんなものは知らん。仕組まれた罠だ!」
声は震えていた。しかしそれは恐怖ではなく、怒りでもなく、もっと根源的な何か——世界の地面が音もなく崩れていく感覚だった。必死に叫ぶ鯉三郎の視界の端で、蔵人が静かに俯いていた。その肩が、微かに震えている。
悲しんでいるのか、とまず思った。
だが違った。あの肩の震えを、鯉三郎は知っている。子供の頃、いたずらが成功したときの、あの震えだ。
血の気が、足の先から引いていった。
蔵人は、敵対する大名と密かに手を結んでいた。鯉三郎を排除することで次期船長の座を掌中に収め、澪をも我がものにする——周到に張り巡らされた罠の全容が、一瞬にして鯉三郎の脳裏に展開した。積荷の確認をさせなかったのも、最後に船倉へ案内したのも、すべて蔵人だった。
弁明の機会すら与えられぬまま、鯉三郎は無実の罪で「禁錮十五年」の裁きを受けた。
連行されたのは、本土から遥か離れた絶海の孤島だった。切り立った崖の上にそびえ立つ海上の監獄砦——一度入れば、生きて出た者はいないとされる場所である。
重い扉が閉まり、鉄の錠が落ちた。独房には潮と黴の入り混じった臭いが染みついており、壁を触れば、冷たい石が指先から熱を奪っていく。かすかに聞こえていた波音も、やがて壁の向こうへ遠ざかった。
両親は、息子の無実を訴え続けた末に相次いで命を落としたと、後になって看守の口から漏れ聞いた。澪は——蔵人の妻になったと。
鯉三郎は壁に背を預け、暗闇の中に座ったまま、長いあいだ動かなかった。泣くことも、叫ぶことも、もはやしなかった。ただ、目の奥に何かが宿るのを感じた。怒りとも悲しみとも違う、もっと静かで、もっと昏い何かが——ゆっくりと、確かに、燃え始めていた。
十五年に及ぶ熟成の時が、こうして幕を開けた。
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