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第十二編 消せなかった話

ー/ー



 熱帯雨林を越えると、海沿いの街道が見えてきて。
 シルヴィカは地図を広げるなり、その道へ足を踏み入れた。

 その道から先は、地図いわくガルタ地方というそうで。
 潮の匂いがほんのり漂うその空間には、たくさんの物が落ちており。
 そのほとんどが遺物のようだったが、ここに投棄されて長いのか。
 茶色い何かやコケ、カビなどがびっしりと付着していた。

 シルヴィカが西のほうを見やると、長大な岩の壁があり。
 ガルト山脈の真っ黒なその岩肌を、シルヴィカはしばらく眺めると。
「あの向こうにシフの森が……」なんて独りごちり。

 ——ずいぶん遠くまで来たんだなぁ。

 そう思いながら、ペンダントを手ですくい上げると。
 その真っ白な花びらは、微かに空の雲を映し出していて。
 シルヴィカは深く息をしてから、「よしっ!」と言うと。
 そのまま街道を真っ直ぐ、進んでいった。

 * * * * *

 街道を歩き続けて、おおよそ二週間。
 シルヴィカがたどり着いたのは、ある港街で。
 その街に着くなり、近くの人たちに聞き込みをしたシルヴィカは。
 やがて、『パルメ商会ガルタ ラネ街支部』という看板を掲げた建物の扉を叩いた。

 レンガ造りのその建物は、入ってすぐに黒檀のカウンターが置いてあり。
 受付に立っている男性までシルヴィカは歩み寄ると。

「この支部の船に、荷のついででいいんで、乗せてもらえますか?」

 ということを言ってみるが、受付の男は笑って。
「それはちょっと難しいかな?」
 部外者は機密上乗せられないんだよ、と返してきた。

 シルヴィカはそれを聞いて、しばらくあごに指を当てると。
「……あっ、すみません、見せるの忘れてました」
 と言いながら、カバンから一枚の紙を出し。
 受付はその紙を不思議そうに受け取ると、その内容を読んで、すぐに頭を下げ。

「すみません、先代のご息女とは……っ」という彼の言葉に。
「いやいや、私も出すの忘れてて、ほんとすみません」と。
 シルヴィカも反射的に頭を下げたので。
 互いに頭頂部を向ける謎の絵面が完成し。
 外から、吹き出すような声が聞こえた。

「……とはいえ、一応サインの写しを確認させていただきますね」
 おずおずと頭を上げた受付はそう言って、カウンターの奥へと消えていき。

 それからしばらくの間、シルヴィカが『離席中』のプレートを眺めていると。
 やがて彼は戻ってきて、恥ずかしそうに頬を掻きながら。
「商会長のサインで間違いないようでしたので」
 と作り笑いをしつつも言って、シルヴィカにその紙を返した。

 紙には現商会長の名前が専用の印鑑とともに記されていて、内容を端的に言うなら。
『その女性は先代商会長カーヴェスの一人娘なので、融通してあげてほしい』
 という感じのことが書いてあり。
 いわゆる紹介状というやつであるそれは。
 シルヴィカの似顔絵や特徴まで、しっかりと記されているものだった。

 それから紹介状をしまったシルヴィカは、しばらく受付と話し合ったところ。
 どうやらツイの街がある『アスタ島』に行く船はもうすでに出てしまったようで。
「少なくとも、今日含めて一週間は……」と彼は言っていた。

 * * * * *

 ——というわけで、特にやることもない時間を得てしまったシルヴィカは。
 なんとなく時間もちょうどよかったので。
 滞在予定の宿一階にあるレストランまで来てみたのだが、すぐに後悔をするはめになった。

 というのも、ここは食事処というより飲み屋で。
 円形のテーブルを、大勢の客が囲んでは。
 何やら酒の匂いを漂わせて、談笑するという光景が。
 薄い灰色のかかった視界の、至るところにあった。

「疎外感……」なんて思いながらも、シルヴィカは案内された一人席に座り。
 ウェイトレスに注文をして、やがて一人用とおぼしき土鍋に入った料理がやって来る。

 シルヴィカはもやもやとした湯気を手であおぎながら、その中身を見下ろして。
 赤い輪っかのような小さな野菜と一緒に煮込まれたクジラ肉を見つけると。
「ここで食べられるなんて……っ」とか呟きつつ、胸元で指を組んでから。
 手元に置かれたフォークを取ろうとして、その違和感に気づくと。
 シルヴィカはテーブルにあった二本の棒をじとりと眺めながら。
「……何これ」と洩らした。

 どうやら周りを見る限り、他の客は器用にこれを使って料理をつまんでいるようで。
 シルヴィカは彼らの真似をして、とりあえず持ってこそみるが。
 料理を掴む前に、手からこぼれ落ちてテーブルでカラッと鳴った。

 シルヴィカはため息をつくと、落ちた棒をテーブルから拾い上げ。
 握り込んでフォークのように使う作戦に出てみるが。
 ふいに横から「握り箸は良くねぇな」と聞こえて。
「うひぃっ⁉︎」とシルヴィカは肩を跳ねさせた。

 振り向いてみると、そこには中年の男がいて。
 薄毛をぐちゃりと散らしたその小太りな男は、シルヴィカをじっと見つめると。
「箸はなぁこう持つんだよ、こう!」と、箸とやらを片方だけ指に挟み。
 その上へ乗せるような形で、もう一本の持ちかたも見せてきて。

 シルヴィカはそれを見様見真似でやると。
「こう、ですか……?」と言って。

「もうちょい先から離すんだよ」
 という酒臭い息に顔をしかめつつ、持ちかたを修正して。
「やればできんじゃねぇか」と彼に言われた。

 男は真っ赤な顔に、涙ぐんだ目をしていて。
 どこかから酒瓶を取り出すと、それを直接飲み始めるなり。
「ふゔぅ……」と息を吐いて、シルヴィカの料理を指さすと。
「これ、食べていいか?」と言ってきたので。
「よくない、です」とシルヴィカは返した。

「ちぇっ、ケチは男にウケねぇぞ」なんて言うその男に。
 愛想笑いがてら、シルヴィカは少し距離を空けると。
 やがて、男の手のひらにある切り傷を見つけて。
「ちょっと、それ見せてください」と、彼の手を鷲掴みにした。

 シルヴィカはカバンを漁り出すと、そこから消毒液を取り出して。
「ん? いいよ、すぐ治るから」と言う男に。
「化膿されたら私が困ります」なんて答えつつも。
「うっ……」とか。
「うわぁ……」とか、そんなことを傷口を見るたびに言ったり。
「いやあの、そんな言うくらいやばいケガなのか?」と不安そうな男に。
「血、やっぱりちょっと苦手なんですよねぇ……」と返して。
「なんで治療しようとしたんだよ?」と言われたり。

 そんな言葉を交わしながらもシルヴィカは。
 ピンセットでつまんだガーゼに染み込ませた消毒液を、傷口に軽く叩くように当てて。
 少し痛そうな男を軽く見やりながらも、小さく分厚い布切れに軟膏を塗り。
 それを傷口に貼り付けると、しばらくそれを押さえて。

「この子が勝手に剥がれるまで、触っちゃダメですよ?」
 とか言いながら、男の目を見つめたが。

 男はしばらく、自分の手のひらを見下ろしていて。
「あの、聞いてました?」と首をかしげるシルヴィカに。
 ようやく口を開いたその男は。
「……あんた薬師なのか?」
 と言って、シルヴィカのほうを向いた。

「えっ? あっ、はい」とうなずいたシルヴィカに。
 男は真剣な目をじっと向けると、両手を合わせながら頭を下げて。
「なら頼む、俺を記憶喪失にしてくれ!」なんて、意味不明なことを言った。

 シルヴィカは首をかしげて、しばらく考え込んでから。
「忘れられないくらいつらいことが、あったんですか?」と悲しげに言うが。

「いや、そういうのではなくて」
 とか言いながら男は手で制止して。
 それからテーブルに置いてあった酒を手に取ろうとするが。
 シルヴィカがそれを視線で止めて。
 男は頬を掻きながら、気まずそうに。
「……消したいことが、あるんだ」
 なんて、彼自身の事情を語り始めた。

 * * * * *

 どうやら彼は一ヶ月ほど前、失業をしてしまったようで。

 始めこそ、精力的に次の職を探していたようだが。
 年齢を理由に多くの仕事場を断られてしまい。
 やがて彼は就職を諦めてしまって、大いに荒れたそうだ。

 そんな彼のことを、彼の妻であるマーは支えてくれていたのだが。
 追い詰められた彼にとって、その支えすらだんだん苦痛になってきて。

「お前も俺を見下しているんだろ?」とか。
「どうせ無理だから放っておいてくれ」とか。
 そんな言葉を投げかけることもあったらしい。

 それでもマーは友人たちにも相談し、彼に対し毎日応援や就職の手伝いをしていたのだが。
 彼はついに、爆発して。
 一回、ほんの一回。
 彼は妻に暴力を振るったそうだ。

 それ以来マーは就職の話をしなくなり。
 それからしばらくして、よく『友だち』と遊ぶようになって。
 彼は好奇心と猜疑心、そしてひと欠片の期待からマーのあとを追い、彼女の不倫を知った。

 * * * * *

「——もちろん、そいつとは別れてもらったよ」
 でも、やっぱりそれからずっとギクシャクしててな。
 お互いのやったことを、引きずっちまってんだ。
 だから記憶喪失のフリなりしたら、無かったことにできるかなって。
 見た目だけでも戻れるかなって。

 オドと名乗った男は、そんな身の上話をして。
 シルヴィカはそれを、始めこそ寄り添って聞いていたが。
 話の途中からは、彼にじとりとした目を向けており。
 オドはその視線に気づくと。
「いや、悪いのは俺なんだけど……」なんて眉根を寄せながら言って。

 シルヴィカはそれにため息をつきながら。
「無かったことにするのも、よくないです」
 という言葉で返し、テーブルに置かれた水を飲み込んだ。

 オドはまた頭を下げて、両手を合わせながら。
「そこをなんとか!」と言うが。
 シルヴィカは彼の頭を、悲しそうに見下ろすと。

「……オドさん、傷はね、跡が残るものなんです」
 傷が深いほど大きくて、長く残ります。
 不恰好で、何かあればすぐに痛む。
 そんな跡が残るんですよ。

 でも、抱えて生きていかなきゃいけない。
 治るっていうのは、そういうことなんです。
 重くて、つらくて、消したいものだとしても。
 過去は決して消せませんし、消しちゃダメなんです。

 シルヴィカはペンダントを手ですくい上げ、しばらく見つめると。
「……それに、つらい過去の否定は、幸せな思い出の否定でもあるんですよ」
 奥さんからかけてもらった言葉は、苦しいだけのものだったんですか? と。
 まるで自分に言い聞かせるように、そう言葉を続けて。

 ゆっくりオドの目へ視線を向けるが、彼はふいっとその目を逸らしていて。
「俺は説教されに来たわけじゃねぇ」
 なんて言いながら席を立つと。
 そのまま元の席へ戻っていったようだった。

 シルヴィカはそんな彼の背中を、しばらく見つめてから。
 カバンを漁り、封筒を取り出して。
「話すの、やっぱ難しいや」
 でも……と。
 ぽつりと、言葉を洩らす。

 シルヴィカは箸を持ち直すと。
 湯気の消えた鍋から、クジラ肉をつまんで。
 そっと口に放り込んでみるが、やっぱり料理は冷めていて。

 それからもときどきシルヴィカは、オドのほうへ目を向けてみたが。
 何度目かに彼のほうを見たとき。
 いつのまにか、彼は店を出ていた。

 窓から陽光が滲んでいるだけの、そんな薄暗い店内で。
 他の客たちは相変わらず、コップに酒を注いでいる。
 シルヴィカは料理を食べ終えて、胸の前で指を組むと。
 それから席を立ってから、あたりを見渡して。

 話しかけやすそうな背中を見繕い。
 その背中へ向かって歩いたシルヴィカは、やがて肩をポンポンと叩き。
「少し、訊きたいことがあるんですけど……」と言った。

 * * * * *

 翌日の昼下がり。
 シルヴィカは手帳を開くと、中のメモを確認し。
「この辺のはずだけど……」とか呟きながら、市場の近くを歩いていて。

『魚屋』と書かれた看板の下で、店員のおばさんと話している女性を見つけると。
 ——あの人だ、と思い、真っ直ぐにそこへ寄っていった。

「マー・ルン・バランさん、ですか?」
 なんて、首をかしげたシルヴィカに。
 黒髪を団子ヘアにしたその女性は。
「そうだけど、あなたは?」と言っていて。

 シルヴィカがそんな彼女に、優しく微笑みながら。
「昨日あなたのご主人から、相談を受けた者です」と答えると。

 マーは怪訝そうな視線をシルヴィカに向けて。
「主人がまた変なことしてるのね?」
 とか言いながら、店員とのやり取りを再開するが。

「いや、その、変なことしそうになったのを、断って……」
 じゃなくて、とにかくあなたから話を聞きたいんです。
 なんて言ったのを聞くと、シルヴィカのほうへ向き直して。

「……買い物、終わってからにしてくれない?」
 と苦笑いをしながら、彼女は言ってきて。
 シルヴィカはそれに「あっ、はい」と。
 恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻いた。

 マーはそれからしばらく、買い物のなかで。
「はいこれ、持っててくれる?」とシルヴィカに野菜をかかえさせたり。
「あの、お買い物ってあとどれくらい……」
「実はね、四時間は続けるつもりなの」
「よ、あっ、えぇっ⁉︎」
「冗談よ」
 みたいな会話をしたり。

 そんなことをたまにやりつつも。
 やがてシルヴィカが彼女の家に荷物を置くと。
「ふぃーっ」と洩らすシルヴィカに。
「それで、話ってなんなの?」と。
 意外にもちゃんと話す気を見せてくれて。

 隙間だらけの、背の低い木造屋の中へシルヴィカを案内すると。
 四角いテーブルの近くに置かれたクッションへシルヴィカを座らせ。
「お茶でいい?」と訊いてから、ティーポットと、取手のないカップを持ってきた。

 マーから手渡されたカップを両手で受け取りながら、礼を言ったシルヴィカが。
 彼女が座ったことを確認し、単刀直入に話を始め。
「あなたは今のご主人を、どう思ってらっしゃるんですか?」と言うと。
 マーはカップに口をつけて、シルヴィカのほうを見やった。

「……別の男にしたほうがいいわよ?」
「それは私もそう思います」

 マーは口元を手で隠し、上品そうに笑うと。
「怖い、と思ってるわ」と言い。

「そう、ですか……」
 というシルヴィカの返事に。
「仲介でも頼まれたの?」と彼女は訊くが。
 シルヴィカはふるふると、首を横に振った。

「思うに、お二人はまだ、話し合ってないんじゃありませんか?」
 シルヴィカが緊張を喉の奥へ流すように、お茶を少し飲むと。
 それをマーは、微笑みながら見守っていて。
「美味しい?」と言ってきたので、シルヴィカはうなずく。

「……どうして、そう思ったの?」
「彼の言葉に、あなたの反応がなかったんです」
 マーはシルヴィカの言葉に、一瞬笑みが消えるが。
 それからまたカップに口をつけると、笑みは戻っていて。
 ティーカップのふちに付いた口紅を、シルヴィカは見やったあと。
「あなたは、今の関係でいいんですか?」
 と言いながら、首をかしげる。

 それに対してマーは少しうつむいてから。
「少なくとも私は、やり直したいわ」
 でも、今のあの人が嫌いなのもある。
 複雑なのよねぇ。

 なんてことを言って、思い出したかのように席を立ち。
 それからすぐに、乾燥したなつめの入った皿を持ってきて。
「けど、どれも本当なのよ?」と言いながらクッションに座ると。

「いっそ別の男でも作れば、すっぱり切れると思ったんだけどね」とこぼしてから。
 また彼女はお茶を口に入れて。
「でも、切れなかった」
 というシルヴィカの言葉に、ゆっくりとうなずいた。

「あなたは、どうして仲直りしてほしいの?」
 ふいにマーがそう言って、シルヴィカは彼女から目を逸らす。

 そしてお茶に口をつけると、視線を上に上げてから。
「私なりの、エゴです」と言って、それにマーは眉根を寄せた。

「それでよその家に口出すの、失礼とは思わなかったの?」

「ぶっちゃけ今も思ってます……」
 でも、見過ごせなかったんですよ。

 シルヴィカは申し訳なさそうにそう笑うが。
 マーは何かを考えているようで、視線で続きを促して。
 それにシルヴィカは内心驚きながら、言葉をなんとかつないでいく。

「話せるうちに、話してほしいんです」
 いつか話せなくなって、後悔する前に。

 シルヴィカはそう言うと、そっとカップを手に取って。
 わずかに震える手を気にしながら、またお茶を飲む。

 マーはシルヴィカの前へ、乾燥なつめの皿を軽く押しながら。
 それを一つ手に取ったシルヴィカを見つめると。
「主人は……オドは、私のことをなんて?」
 と言って、首を軽くかしげるが。

 シルヴィカはそれに微笑みながら。
「ご本人に、訊いてください」と答え。

 それにマーは、小さく笑い声を洩らすと。
「わかったわ、あなたに免じてやってあげる」
 でも約束するのは一回、ほんの一回だけよ?
 なんて言って、シルヴィカに微笑み返す。

 その言葉を聞いたシルヴィカは肩の力が抜けて。
 へにゃりと、先ほどまでピッシリしていた姿勢がゆるまり。
「よ、よかった……っ」と小さく言ったので。

 マーはふふふと笑い声を上げながら。
「あなたも難儀な性格ね」
 なんて言って、またカップに口をつけた。

 * * * * *

 それからシルヴィカは進展を待っていたが。

 その用事以外は特にすることもないので。
 アテもなくラネの街中をうろついては。
 オドやマーと会えそうな場所で留まってみたり。
 意味もなく海を眺めてみたりしていたのだが。

 一日、二日、三日と経っても。
 あの夫妻からの報告はなく。

 一応、彼らの家へ向かうことも考えたが。
 もし話し合いの途中だったなら、彼らを急かすことになり。
 二人の本位ではない結論になる可能性が頭に浮かんでしまったので。
 仕方なく、大人しく待つという選択を、さらに続け。

「そもそも、報告がある前提がおかしいのでは……?」とか。
「すごくラブラブな夫婦になってる可能性が……?」とか。

 そんなくだらないことを言いながらも、彼らなりの答えを待って。
 そこからさらに一日。
 またさらに一日と。
 時間は進展なく経過していき。

 ついにはアスタ島行きの船が出る日になって。
「まあ、あとは本人たちを信じて……」とか自分に言い聞かせながら。
 シルヴィカが荷物を持ち、港に向かっていたところ。
「あっ、シルヴィカさん」
 やっと見つけた!
 という声がようやく聞こえた。

 その声へシルヴィカが振り向くと。
 視線の先には、オドとマーが揃って立っていて。
 シルヴィカがあわてて、二人のほうへ駆け寄ると。
「こいつから聞いたよ。話し合うよう言ってくれたって」と、オドは言った。

 どうやら彼らの話によると、話は四日目のあたりに済んでいたそうで。
 それからはずっと、入れ違っていただけなようだった。

「あれから二人で話し合って、やっとわかったの」
 マーの言葉に期待を向けながら、シルヴィカが。
「わかったって、何を?」と訊くと。

 マーはオドにチラリと視線を向けてから。
 晴れやかな笑顔で、はっきりと。

「私、こいつ嫌い」と言って。
「俺も嫌い」と、オドまでそう言った。

「えっ⁉︎ えっ……えぇ?」
 話し合ったんですよね⁉︎

 シルヴィカは二人を交互に見ながら、そう確認をしてみるが。
 オドもマーも、それに関してはしっかりと肯定しているのに。

「やっぱり、私はこの人のこと怖いし許せないのよ」
「こうも簡単に浮気されたら、信用なんてできないんでな」

 という言葉を続けるので、シルヴィカは頭の中がハテナになって。
 その様子にマーは笑いながら、オドの脇腹をひじで小突く。

 オドは舌打ちしたあとシルヴィカへ。
「まずは一年別居して、そのあと一回会うことにしたんだ」
 それでお互いを許せそうなら別居は終了。
 だがその逆ならまた一年後って話だ。

 という話をすると、そこへ補足するようにマーが。
「つまり、ほとぼりが冷めるまで待つ作戦なの」と加えて。

 それにシルヴィカは、あごに指を当てながら。
「それ、すごく時間かかりません……?」なんて指摘するが。

「時間くらい安いもんさ」とオドは言い放って。
「かけても惜しくないくらい、あのときは幸せだったの」とマーは微笑んだ。

「そ、そういうものですか?」
「そういうものよ」

 シルヴィカは二人の目を見てみるが、そこに迷いは見えなくて。
 とりあえず、この妙ちくりんな答えを出した二人を信じて。
「なら、納得しておきますね」なんて答えると。
 シルヴィカは夫妻の手を両手で固く握って。
「……お元気で」と、彼らに微笑んだ。

 そして、「おう」とか。
「ありがとね」とか。
 そんな言葉を背に受けながら、港へ向けて駆けていくと。
 はるか遠くから振られる手に、大きく手を振り返しながら。
 港に停まったキャラック船の、乗組員に謝りつつも乗り込んで。
 それから案内された船室に入ると。
 すぐに船は動き出した。

 * * * * *

 キャラックの側面から飛び出した、無数のオールが波を掻いて。
 真っ白な波が、ドシャッと大きな音を立てるなり。
 船体はゆっくりと旋回を始めて、出発する。

 大小さまざまなマストが、一つ一つ張られていき。
 そのマストすべてに、盾を模した紋章があった。

 シルヴィカは薄い色の木でできた、船室の窓から外を見やり。
 だんだんと、遠ざかっていくラネの街を眺めていたら、なんだか。
『時間くらい安いもんさ』
『かけても惜しくないくらい、あのときは幸せだったの』
 という、ついさっき聞いたばかりの言葉が頭をよぎって、視線をペンダントに向けると。

 ——時間をかけてでも、取り戻したいもの。
 それはきっと、私にとってのあの日々と同じで。
 彼らの選択と私の選択は、どちらも大差ないのだろう。
 そして、私の選択の結末は、もうすぐそこにまで来ている。
 私は、この旅が終わったあと、『自分は生きていていい』と思えるのだろうか。

 なんて、だんだん頭に浮かんできていたが。

 きっと、大丈夫。
 答えは出る。

 自分に言い聞かせるように。
 ペンダントを握りながら、しばらく床を見つめ。
 そしてふっ、と息を洩らしてから。
 シルヴィカが窓へ視線を戻すと。
 窓の外はすでに、青と白だけになっていた。


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 外から、吹き出すような声が聞こえた。
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 おずおずと頭を上げた受付はそう言って、カウンターの奥へと消えていき。
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 やがて彼は戻ってきて、恥ずかしそうに頬を掻きながら。
「商会長のサインで間違いないようでしたので」
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 と言って、シルヴィカのほうを向いた。
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「お前も俺を見下しているんだろ?」とか。
「どうせ無理だから放っておいてくれ」とか。
 そんな言葉を投げかけることもあったらしい。
 それでもマーは友人たちにも相談し、彼に対し毎日応援や就職の手伝いをしていたのだが。
 彼はついに、爆発して。
 一回、ほんの一回。
 彼は妻に暴力を振るったそうだ。
 それ以来マーは就職の話をしなくなり。
 それからしばらくして、よく『友だち』と遊ぶようになって。
 彼は好奇心と猜疑心、そしてひと欠片の期待からマーのあとを追い、彼女の不倫を知った。
 * * * * *
「——もちろん、そいつとは別れてもらったよ」
 でも、やっぱりそれからずっとギクシャクしててな。
 お互いのやったことを、引きずっちまってんだ。
 だから記憶喪失のフリなりしたら、無かったことにできるかなって。
 見た目だけでも戻れるかなって。
 オドと名乗った男は、そんな身の上話をして。
 シルヴィカはそれを、始めこそ寄り添って聞いていたが。
 話の途中からは、彼にじとりとした目を向けており。
 オドはその視線に気づくと。
「いや、悪いのは俺なんだけど……」なんて眉根を寄せながら言って。
 シルヴィカはそれにため息をつきながら。
「無かったことにするのも、よくないです」
 という言葉で返し、テーブルに置かれた水を飲み込んだ。
 オドはまた頭を下げて、両手を合わせながら。
「そこをなんとか!」と言うが。
 シルヴィカは彼の頭を、悲しそうに見下ろすと。
「……オドさん、傷はね、跡が残るものなんです」
 傷が深いほど大きくて、長く残ります。
 不恰好で、何かあればすぐに痛む。
 そんな跡が残るんですよ。
 でも、抱えて生きていかなきゃいけない。
 治るっていうのは、そういうことなんです。
 重くて、つらくて、消したいものだとしても。
 過去は決して消せませんし、消しちゃダメなんです。
 シルヴィカはペンダントを手ですくい上げ、しばらく見つめると。
「……それに、つらい過去の否定は、幸せな思い出の否定でもあるんですよ」
 奥さんからかけてもらった言葉は、苦しいだけのものだったんですか? と。
 まるで自分に言い聞かせるように、そう言葉を続けて。
 ゆっくりオドの目へ視線を向けるが、彼はふいっとその目を逸らしていて。
「俺は説教されに来たわけじゃねぇ」
 なんて言いながら席を立つと。
 そのまま元の席へ戻っていったようだった。
 シルヴィカはそんな彼の背中を、しばらく見つめてから。
 カバンを漁り、封筒を取り出して。
「話すの、やっぱ難しいや」
 でも……と。
 ぽつりと、言葉を洩らす。
 シルヴィカは箸を持ち直すと。
 湯気の消えた鍋から、クジラ肉をつまんで。
 そっと口に放り込んでみるが、やっぱり料理は冷めていて。
 それからもときどきシルヴィカは、オドのほうへ目を向けてみたが。
 何度目かに彼のほうを見たとき。
 いつのまにか、彼は店を出ていた。
 窓から陽光が滲んでいるだけの、そんな薄暗い店内で。
 他の客たちは相変わらず、コップに酒を注いでいる。
 シルヴィカは料理を食べ終えて、胸の前で指を組むと。
 それから席を立ってから、あたりを見渡して。
 話しかけやすそうな背中を見繕い。
 その背中へ向かって歩いたシルヴィカは、やがて肩をポンポンと叩き。
「少し、訊きたいことがあるんですけど……」と言った。
 * * * * *
 翌日の昼下がり。
 シルヴィカは手帳を開くと、中のメモを確認し。
「この辺のはずだけど……」とか呟きながら、市場の近くを歩いていて。
『魚屋』と書かれた看板の下で、店員のおばさんと話している女性を見つけると。
 ——あの人だ、と思い、真っ直ぐにそこへ寄っていった。
「マー・ルン・バランさん、ですか?」
 なんて、首をかしげたシルヴィカに。
 黒髪を団子ヘアにしたその女性は。
「そうだけど、あなたは?」と言っていて。
 シルヴィカがそんな彼女に、優しく微笑みながら。
「昨日あなたのご主人から、相談を受けた者です」と答えると。
 マーは怪訝そうな視線をシルヴィカに向けて。
「主人がまた変なことしてるのね?」
 とか言いながら、店員とのやり取りを再開するが。
「いや、その、変なことしそうになったのを、断って……」
 じゃなくて、とにかくあなたから話を聞きたいんです。
 なんて言ったのを聞くと、シルヴィカのほうへ向き直して。
「……買い物、終わってからにしてくれない?」
 と苦笑いをしながら、彼女は言ってきて。
 シルヴィカはそれに「あっ、はい」と。
 恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻いた。
 マーはそれからしばらく、買い物のなかで。
「はいこれ、持っててくれる?」とシルヴィカに野菜をかかえさせたり。
「あの、お買い物ってあとどれくらい……」
「実はね、四時間は続けるつもりなの」
「よ、あっ、えぇっ⁉︎」
「冗談よ」
 みたいな会話をしたり。
 そんなことをたまにやりつつも。
 やがてシルヴィカが彼女の家に荷物を置くと。
「ふぃーっ」と洩らすシルヴィカに。
「それで、話ってなんなの?」と。
 意外にもちゃんと話す気を見せてくれて。
 隙間だらけの、背の低い木造屋の中へシルヴィカを案内すると。
 四角いテーブルの近くに置かれたクッションへシルヴィカを座らせ。
「お茶でいい?」と訊いてから、ティーポットと、取手のないカップを持ってきた。
 マーから手渡されたカップを両手で受け取りながら、礼を言ったシルヴィカが。
 彼女が座ったことを確認し、単刀直入に話を始め。
「あなたは今のご主人を、どう思ってらっしゃるんですか?」と言うと。
 マーはカップに口をつけて、シルヴィカのほうを見やった。
「……別の男にしたほうがいいわよ?」
「それは私もそう思います」
 マーは口元を手で隠し、上品そうに笑うと。
「怖い、と思ってるわ」と言い。
「そう、ですか……」
 というシルヴィカの返事に。
「仲介でも頼まれたの?」と彼女は訊くが。
 シルヴィカはふるふると、首を横に振った。
「思うに、お二人はまだ、話し合ってないんじゃありませんか?」
 シルヴィカが緊張を喉の奥へ流すように、お茶を少し飲むと。
 それをマーは、微笑みながら見守っていて。
「美味しい?」と言ってきたので、シルヴィカはうなずく。
「……どうして、そう思ったの?」
「彼の言葉に、あなたの反応がなかったんです」
 マーはシルヴィカの言葉に、一瞬笑みが消えるが。
 それからまたカップに口をつけると、笑みは戻っていて。
 ティーカップのふちに付いた口紅を、シルヴィカは見やったあと。
「あなたは、今の関係でいいんですか?」
 と言いながら、首をかしげる。
 それに対してマーは少しうつむいてから。
「少なくとも私は、やり直したいわ」
 でも、今のあの人が嫌いなのもある。
 複雑なのよねぇ。
 なんてことを言って、思い出したかのように席を立ち。
 それからすぐに、乾燥したなつめの入った皿を持ってきて。
「けど、どれも本当なのよ?」と言いながらクッションに座ると。
「いっそ別の男でも作れば、すっぱり切れると思ったんだけどね」とこぼしてから。
 また彼女はお茶を口に入れて。
「でも、切れなかった」
 というシルヴィカの言葉に、ゆっくりとうなずいた。
「あなたは、どうして仲直りしてほしいの?」
 ふいにマーがそう言って、シルヴィカは彼女から目を逸らす。
 そしてお茶に口をつけると、視線を上に上げてから。
「私なりの、エゴです」と言って、それにマーは眉根を寄せた。
「それでよその家に口出すの、失礼とは思わなかったの?」
「ぶっちゃけ今も思ってます……」
 でも、見過ごせなかったんですよ。
 シルヴィカは申し訳なさそうにそう笑うが。
 マーは何かを考えているようで、視線で続きを促して。
 それにシルヴィカは内心驚きながら、言葉をなんとかつないでいく。
「話せるうちに、話してほしいんです」
 いつか話せなくなって、後悔する前に。
 シルヴィカはそう言うと、そっとカップを手に取って。
 わずかに震える手を気にしながら、またお茶を飲む。
 マーはシルヴィカの前へ、乾燥なつめの皿を軽く押しながら。
 それを一つ手に取ったシルヴィカを見つめると。
「主人は……オドは、私のことをなんて?」
 と言って、首を軽くかしげるが。
 シルヴィカはそれに微笑みながら。
「ご本人に、訊いてください」と答え。
 それにマーは、小さく笑い声を洩らすと。
「わかったわ、あなたに免じてやってあげる」
 でも約束するのは一回、ほんの一回だけよ?
 なんて言って、シルヴィカに微笑み返す。
 その言葉を聞いたシルヴィカは肩の力が抜けて。
 へにゃりと、先ほどまでピッシリしていた姿勢がゆるまり。
「よ、よかった……っ」と小さく言ったので。
 マーはふふふと笑い声を上げながら。
「あなたも難儀な性格ね」
 なんて言って、またカップに口をつけた。
 * * * * *
 それからシルヴィカは進展を待っていたが。
 その用事以外は特にすることもないので。
 アテもなくラネの街中をうろついては。
 オドやマーと会えそうな場所で留まってみたり。
 意味もなく海を眺めてみたりしていたのだが。
 一日、二日、三日と経っても。
 あの夫妻からの報告はなく。
 一応、彼らの家へ向かうことも考えたが。
 もし話し合いの途中だったなら、彼らを急かすことになり。
 二人の本位ではない結論になる可能性が頭に浮かんでしまったので。
 仕方なく、大人しく待つという選択を、さらに続け。
「そもそも、報告がある前提がおかしいのでは……?」とか。
「すごくラブラブな夫婦になってる可能性が……?」とか。
 そんなくだらないことを言いながらも、彼らなりの答えを待って。
 そこからさらに一日。
 またさらに一日と。
 時間は進展なく経過していき。
 ついにはアスタ島行きの船が出る日になって。
「まあ、あとは本人たちを信じて……」とか自分に言い聞かせながら。
 シルヴィカが荷物を持ち、港に向かっていたところ。
「あっ、シルヴィカさん」
 やっと見つけた!
 という声がようやく聞こえた。
 その声へシルヴィカが振り向くと。
 視線の先には、オドとマーが揃って立っていて。
 シルヴィカがあわてて、二人のほうへ駆け寄ると。
「こいつから聞いたよ。話し合うよう言ってくれたって」と、オドは言った。
 どうやら彼らの話によると、話は四日目のあたりに済んでいたそうで。
 それからはずっと、入れ違っていただけなようだった。
「あれから二人で話し合って、やっとわかったの」
 マーの言葉に期待を向けながら、シルヴィカが。
「わかったって、何を?」と訊くと。
 マーはオドにチラリと視線を向けてから。
 晴れやかな笑顔で、はっきりと。
「私、こいつ嫌い」と言って。
「俺も嫌い」と、オドまでそう言った。
「えっ⁉︎ えっ……えぇ?」
 話し合ったんですよね⁉︎
 シルヴィカは二人を交互に見ながら、そう確認をしてみるが。
 オドもマーも、それに関してはしっかりと肯定しているのに。
「やっぱり、私はこの人のこと怖いし許せないのよ」
「こうも簡単に浮気されたら、信用なんてできないんでな」
 という言葉を続けるので、シルヴィカは頭の中がハテナになって。
 その様子にマーは笑いながら、オドの脇腹をひじで小突く。
 オドは舌打ちしたあとシルヴィカへ。
「まずは一年別居して、そのあと一回会うことにしたんだ」
 それでお互いを許せそうなら別居は終了。
 だがその逆ならまた一年後って話だ。
 という話をすると、そこへ補足するようにマーが。
「つまり、ほとぼりが冷めるまで待つ作戦なの」と加えて。
 それにシルヴィカは、あごに指を当てながら。
「それ、すごく時間かかりません……?」なんて指摘するが。
「時間くらい安いもんさ」とオドは言い放って。
「かけても惜しくないくらい、あのときは幸せだったの」とマーは微笑んだ。
「そ、そういうものですか?」
「そういうものよ」
 シルヴィカは二人の目を見てみるが、そこに迷いは見えなくて。
 とりあえず、この妙ちくりんな答えを出した二人を信じて。
「なら、納得しておきますね」なんて答えると。
 シルヴィカは夫妻の手を両手で固く握って。
「……お元気で」と、彼らに微笑んだ。
 そして、「おう」とか。
「ありがとね」とか。
 そんな言葉を背に受けながら、港へ向けて駆けていくと。
 はるか遠くから振られる手に、大きく手を振り返しながら。
 港に停まったキャラック船の、乗組員に謝りつつも乗り込んで。
 それから案内された船室に入ると。
 すぐに船は動き出した。
 * * * * *
 キャラックの側面から飛び出した、無数のオールが波を掻いて。
 真っ白な波が、ドシャッと大きな音を立てるなり。
 船体はゆっくりと旋回を始めて、出発する。
 大小さまざまなマストが、一つ一つ張られていき。
 そのマストすべてに、盾を模した紋章があった。
 シルヴィカは薄い色の木でできた、船室の窓から外を見やり。
 だんだんと、遠ざかっていくラネの街を眺めていたら、なんだか。
『時間くらい安いもんさ』
『かけても惜しくないくらい、あのときは幸せだったの』
 という、ついさっき聞いたばかりの言葉が頭をよぎって、視線をペンダントに向けると。
 ——時間をかけてでも、取り戻したいもの。
 それはきっと、私にとってのあの日々と同じで。
 彼らの選択と私の選択は、どちらも大差ないのだろう。
 そして、私の選択の結末は、もうすぐそこにまで来ている。
 私は、この旅が終わったあと、『自分は生きていていい』と思えるのだろうか。
 なんて、だんだん頭に浮かんできていたが。
 きっと、大丈夫。
 答えは出る。
 自分に言い聞かせるように。
 ペンダントを握りながら、しばらく床を見つめ。
 そしてふっ、と息を洩らしてから。
 シルヴィカが窓へ視線を戻すと。
 窓の外はすでに、青と白だけになっていた。