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第十編 同じ道と別の道

ー/ー



 その廃屋の中は、まるで塗りつぶしたように黒が広がり。
 置かれた最低限の家具たちを、ほんの一筋の、細い日光が照らしている。
 少女は足組みを解くと、小さな椅子から立ち上がった。

 ポタ、ポタ、としずくの落ちる音に混じり。
 小さな嗚咽が廃屋に響いていて。

 しばらくのため息の音のあとに鳴った。
「ねえ、なんか喋ってよ」
 という少女の声に、嗚咽の主は肩をビクりと跳ねさせて。

「わ、わた、わたし、今、どう、なって……っ」なんて。
 何度もどもり、裏返ったような、そんな言葉を絞り出すと。
 それを聞いた少女は「うーん」と洩らした。

 また嗚咽を洩らし始めたその女性の、目元にはぽっかりと穴が空いていて。
 両手をそれぞれ壁につなぎ止めた縄は、片方が宙ぶらりん。
 女性のかかとからは、静かに赤がこぼれ。

 左手、どこやったかなぁ……と。

 少女は目をつむり考えてから。
「知らないほうがいいよ、うん」
 なんて、女性の頭を撫でてやった。

 少女のそんな言葉に、女性はますます泣き出して。
「ほら、元気出して。つらいことなんていっぱいあるんだから」
 と平坦な声で少女は言うと、女性は乱れた息のまま。
「わたし、どうなるの……?」と言っていて。

「死ぬんじゃない?」
 とそれに少女は苦笑いをしながら返した。

 それから少女は女性に背を向け、自分の荷物を手に取ると。
 彼女の嗚咽に「ごめんね」なんて言いながら。
 廃屋の扉をゆるりと開ける。

 橙色の羽織りが、暴れる風にはためいて。
 扉の向こうでは、はるか遠方まで広がる黄色い砂に。
 大きな大きな紺色の星空が乗っかっていて。

 それをぼんやり見つめると、少女は沈む月に。
「ああ、不快だった」
 なんて、小さく言った。

 * * * * *

 輝かんばかりの青空と、真っ白な太陽に照らされながら。
 あたり一面に広がる黄色を、シルヴィカはぐるりと見渡して。
「ほんとに砂だ……」と小さく洩らす。

 砂の上には小さな建物が点々としていて。
 そのどれもが平らな屋根を頭に乗せていた。

 そんな日干しレンガや砂岩で作られた建物たちを見やっていると。
 シルヴィカの背後から「おっ、見ろシルヴィカ! スカラベだ‼︎」
 なんて、明るい調子の声がして。

 シルヴィカが振り向くと、マコトが妙に高いテンションでフンコロガシを指さしていた。

 シルヴィカはその虫の転がしているものを見るなり、少し虫と距離を取ると。
 それからあごに指を当てながら。
「その虫、ハエとかと同類なんでしょうか……?」と呟いて。

「転がしてるの食料らしいぜ」
 とマコトは駆け寄った。

 シルヴィカはマコトのほうへ振り返ると。
「ずいぶん詳しいんですね?」と言い。

「来たことあるんだよ」
 だから観光案内とかもできるぜ?
 なんてマコトは返してきた。

 どういうわけか、ここバンの砂漠までは同じルートらしい二人は。
「これもなんかの縁だろ」というマコトの提案により。
 なんとなく一緒に旅をしていたのだが。
 それ以来、マコトはずっとこんな調子だった。

「マコトさんって、結構子どもっぽいんですね」
 シルヴィカが彼を見上げながら、そんなことを言ってみると。

「……なんかお前に言われるとちょっとクるなぁ」とマコトはうなだれて。

 それへじとりとした目で返すシルヴィカに。
「見た目の話じゃねぇからな?」と彼は言う。

 シルヴィカの視線を避けるように、目を動かした彼は。
 ふと空を見上げてから、自身のあごを手でさすり。
 それから手帳と地図を広げて、あたりを見渡した。

 そんな様子のマコトを、シルヴィカは首をかしげながら見守り。
「このあたり、何かあるんですか?」という問いかけてみたが。
 マコトは「便利なもの」と答え、正面にある何かをさっと指さす。

 それは、ぽつりとあった立て札であり、『オムニバス』と書かれていたそれを見ながら。
「乗合馬車が来るのさ」とマコトは言った。

 乗合馬車というのは、決まった時間に従って、いくつかの停留所を巡る馬車のことで。
 安価な運賃を払えるのなら、誰でも乗ることができるもののことだ。

「クソ暑いからな……」と、上品とは言えないことを言いながら。
 マコトは竹製の水筒から水を補給し。
 それを見たシルヴィカも、革水筒の水を口に入れる。

 ギラギラとした陽光が、地面に陽炎を作っていて。
 遠くを何やら見つめているマコトを眺めながら。
 シルヴィカは日焼け止めをカバンから取り出し、顔や手に拡げると。
「マコトさんも塗ります?」
「いや、大丈夫」
 なんて言葉を交わした。

 そんなことを続けていると、やがて遠くから何かが寄ってきているのが見えてきて。
 陽炎に揺られたその影は、どうやらラクダの引く馬車のよう。

 馬車は砂を巻き上げながら、立て札の前に停まると。
 屋根の下から御者が乗り出し、帽子を深くかぶり直してから。
「オアシスまでですけど、ご乗車しますか?」と言うので。

 シルヴィカたちはうなずいて、その馬車に乗り込むと。
 御者は二人に、小さな粘土板を手渡し。
「降りる際に返してくださいね」と言った。

 馬車の内壁に沿うような、そんな並びの席が中にはあり。
 二人が端の席に座ると、御者はそれを確認し、馬車が動き出す。

 くらりとかかる慣性で、シルヴィカがマコトにぶつかると。
「案の定フラついたな」
 なんてマコトは得意げにしていて。
 シルヴィカがそれに対して、頬を膨らませていたのだが。
 向かいの席から「あっ、なんか可愛い子いるじゃん」という、明るい声がしたので。
 振り向いてみたところ、そこには亜麻色の髪と琥珀色の瞳をした少女が座っていた。

 少女は身を乗り出しながら。
「どこから来たの?」と笑みを浮かべ。
「えっ、えっと、フィナリアの、ほう、です」と答えたシルヴィカに。
「すごっ、めっちゃ遠いとこじゃん! やるねぇ」とも言っていた。

 彼女は橙色の羽織りを揺らしながら、落ち着きなく足を動かし。
「綺麗な髪してるね」
 羨ましいなぁ。
 なんて言ってくるので、シルヴィカは顔を赤くして。
 それを見たマコトが「あんまりウチのをいじめるなよ?」と苦笑いをする。

「マジでそれ維持すんの大変だからね?」
 ねえ、それどうやってんの?
 とまた乗り出した少女を。
 シルヴィカは制止しながら、手帳に何かを書くと。
 ちぎったそれを少女に手渡して、相手は「わお……」と顔を引きつらせる。

「あくまでウェーブ用、ですけど……」
 とか、恥ずかしそうにシルヴィカは言っていたが。
「さすがに冷水はこの辺だとなぁ」
 なんて、少女は耳に入っていないようだった。

「あっ、これはやってるわ」だの。
「コンディショナーの作りかた……?」だの。
 そんなことを言っている少女に、マコトが紙を見せてもらうと。
 そこにはびっしりと小さな字でいろいろ書いてあるようで。

「お前、これ全部やってるの?」と、マコトはシルヴィカに耳打ちしたが。
 シルヴィカはそれに、ぎこちなくうなずいていて。
 マコトは無の表情をしながら、姿勢を戻す。

 その空気に耐えられず、シルヴィカが思わず窓へ視線を移すと。
 左から右へ流れる砂が、滑らかな曲線を作っていて。
 ギラギラと照らす太陽が作る、影のないその光景が。
 どこか作りものみたいで、シルヴィカはまた車内に視線を戻す。

 やがて停留所が来たのか、急にガタリと馬車が揺れて。
 シルヴィカがマコトと壁に挟まれながら「ぬぐっ」と声を洩らしていると。
 カラカラと音を立てて、シルヴィカの足元に何かが当たったので。
 謝るマコトを押し退けながら、シルヴィカはそれを拾った。

 どうやらそれはナイフのようで。
 顔を近づけたシルヴィカは、一瞬その目を見開いて。
「ああ、彫ってるのは僕の名前だよ」という少女に。
「サハラさんっていうんですね」なんて微笑みながらそれを返すと。
 シルヴィカはそれから「お肉、美味しいですよね」と言った。

 すると車内は、何やら奇妙な雰囲気になり。
 しばらくの沈黙にシルヴィカが気づくと。
 首をかしげるサハラにハッとしてから。

「お肉切るナイフだったから……」と補足して。
「会話下手にもほどがあるだろ」とマコトは横から言った。

「ともかく、終点みたいだね」
 サハラが言いながら、馬車の前方まで歩くが。

 御者は手でサハラを急に止め。
「何さ?」と洩らすサハラに目を向けたあと、シルヴィカのほうにも顔を向けてから。
「羽織りさん……と、白マントさん、ちょっといいですか?」なんてことを言うと。

「送り届けといて言うのもなんですがね」
 と小さく言って、こんなことを話し出した。

 最近、若い女性がよく狙われて事件になってるんですわ。
 殺人の事件です。結構ひどめのね。

 被害者には共通点がありまして。
 お嬢さん二人と似た髪色の人がよくやられるんですよ。

 ……だから、早めに街を出るとか。
 一人で外出るのをやめるとか。
 そういう対策は一応してくださいね。
 私としてもお客さんが犠牲になるのはイヤですんで。

 そんな話を終えると、御者は帽子を深くかぶり直してから。
「なんかあったら、私も逃げるの手伝いますよ」と付け足す。

 シルヴィカはそれを聴きながら、サハラのほうを見ると。
「うーん、予定組み直さないとなぁ」なんて彼女は言っていて。
 シルヴィカはそれを眺めたあと少しうつむいて、あごに指を当てた。

 * * * * *

 馬車が停まったのは、オアシスを中心にした街の入り口で。

 馬車から降りたシルヴィカとマコトは、あるレストランへ真っ直ぐ向かい。
 少し遅めの昼食を摂ることにしたのだが、その店で料理が届くなりシルヴィカは。

「うわぁ、ほんとに出た……」
 と洩らした。

 陶器の皿に乗っていたのは、一口大にカットされたサボテンで。
 何やら赤いソースのかけられたそれは、スパイシーな香りを漂わせており。
 シルヴィカが不安げにマコトのほうを見やると。
「言ったろ? サボテンも食べる地方だって」
 トゲは抜いてあるんだよ。
 なんて平然と言いながら、フォークをサボテンに刺していた。

 視界に黒い霧がかかったような、薄暗い店の中。
 しばらくあたりを見渡してから、シルヴィカはまた皿に目線を戻し。
「魚にしとけばよかったぁ……っ」とか呟くが。

「『私も同じの食べます』つったのはお前だろうがよ」
 なんてマコトは冷たい視線を向けていた。

 シルヴィカはフォークを刺して、ギュッと目をつむると。
 投げ入れるように、口の中へサボテンを突っ込み。

 しばらくそれをもぎゅもぎゅと噛んでから。
 それを飲み込み。
 深呼吸をしてから。
「……普通だ」と洩らして。

 その様子にマコトはにやつくと。
「そう、以外と普通なんだよ」とまた一口食べていた。

「一人なら食べなかったなぁ」
 シルヴィカはそう言いながらに。
 コップに入ったサトウキビのジュースに口をつけると。
「というか、すぐにこの街出てたかも」と付け加え。

 マコトは「んー?」と言ってから、もごもごとサボテンを咀嚼して。
 それから飲み込み、「まっ、あんなこと言われたらな」なんて返してから。
 にんじんのジュースを飲み干して「ふぅ」と息を吐いた。

「サハラさんも、心配ですし……」
 シルヴィカはサボテンをフォークでいじって。
 それから口の中に放り込み、飲み込んで。

「イヤなときに来ちゃいましたね」
 と苦笑いをマコトに向けると。

「まあ、こういう不幸もあるわな」
 なんてマコトは窓を見つめていた。

 シルヴィカはその視線に釣られ。
 なんとなく、窓のほうを向いていくと。
 窓の外のほうでは、何やら人が集まり出していて。

「この街って、前もこうだったんですか……?」なんて訊いてみたら。
 マコトは「いや、俺も初めて見る」と返して。

 それから二人は、顔を見合わすと同時にうなずき。
 それから、一心不乱に料理に手をつける。
 掻き込むように食べるマコトへ。
 内心「行儀悪い……」と思いつつも。

 彼ほどではないにしろ、シルヴィカもできるだけ早く飲み込むようにしていたのだが。
 そうしている間に、どうやらマコトは完食したようで。

小貨(しょうか)三枚、あとで返してくれりゃいいから」
 とか言いながら、すぐに会計を済ませに行くと。
「先見てくるわ」と、外に出ていってしまった。

「……私が急いだ理由は?」

 そう思いながらシルヴィカも。
 なんとかサボテンをジュースで流し込み。
 それから急いで店を出ると、すでに人混みは大きな塊となっていて。

「うへぇ……」と洩らしつつあたりを見渡すと。
「おーい、こっちこっち!」
 なんて元気に手を振るマコトを見つけて。
 シルヴィカは騒ぎの中心へ、人混みのほうへ走っていく。

 人混みを構成している人たちは、どうやら街の外へ視線を向けているようで。
 シルヴィカたち二人は、その人混みをかき分けて事態が見える位置に行き。

 そしてその正体が目に入った。

 街の外からぽとぽとと、数人の男たちが来ていて。
 彼らのうち何人かは、協力して大きな袋を運んでいる。

 その袋はまるで、人が一人くらいなら入りそうな大きさで。
 それを運ぶ男たちの表情は、皆一様に沈んでいた。

 人混みの中からぽつりと「まただよ……」なんて声がして。
 その大きな麻袋がよりはっきり見えてくるようになると、人混みの声は増えていった。

 袋の至るところに、赤黒いシミができていて。
 シルヴィカはその臭いに気づくと、思わず目を伏せそうになるが。
 袋の膨らみかたからつながっていないパーツの存在に気づいて。
 目を伏せるより先に「どうしてこんなこと……」と思わず洩らす。

「ユリィカさんだろ? 北方から来た」
「死んだの、あの奥さんだったのか」
「私黒髪でよかったわぁ」
「あの人子どもいたろ」
「息子さんも気の毒にねぇ」

 好き勝手な言葉たちに。
 シルヴィカは胸を痛めながらも。
 人混みの中から飛び出して、袋に歩み寄る少年がふと見え。
 思わずシルヴィカの視線は、その子のほうへ吸い寄せられる。

 その少年は袋を、しばらくじっと見つめると。
 拳を握り、目元を腕で拭ってから。
 やがてどこかへ走り去っていき。

「子どもの通報だって……」
「帰ってすぐに気づいたんだろ? えらい子だなぁ」
 という声が近くから聞こえると。
 シルヴィカはペンダントを、ギュッと握った。

 * * * * *

 その日の夜、砂岩でできた宿の一室にてシルヴィカは。
 吊ったランタンの油を確認すると。
 靴紐をギュッと固く結んだ。
 昼間から時間をかけて研いだナイフを。
 ゆっくり、そっと、その指で撫でて。
 それから鞘にしまい、スッという音が鳴ると。
 胸に手を当て、深呼吸をしてから、部屋の扉を開けるが。

 扉の先にいたマコトにシルヴィカは「いぃいっ⁉︎」と声を洩らした。

 彼は部屋に上がり込むなり、シルヴィカの頭にポンッと手を置き。
「俺がもし朝まで帰らなかったら、自警に通報してくれ」とか言い出して。

「絶対にイヤです。一緒に行きます」
 とシルヴィカはそれに返すが。

 マコトは「やれやれ」とでも言いたげにため息をつくと。
「まっ、一人だとしても、俺生き残るのは上手いからさ、もしもの話だよ」
 なんて言いながら笑っていた。

 だが、その表情はどこかぎこちなくて。
 シルヴィカは彼の意図をわかりながらも、彼を見上げると。

「もしもだとしても、ですよ」と返して。
 そんな答えに対して、マコトが少しイラついているように、シルヴィカには見えた。

「犯人が誰か、わかってないんでしょう?」
「お前はわかってんのかよ?」
「えっと、不本意、ながら……」

 そんな言葉を交わしながらシルヴィカは、ペンダントをギュッと握り。
 それを見たマコトは、壁にもたれかかり苦笑いをすると。

「どうりで『外出します』って見た目なわけだ」
 でもお前、犯人に襲われたら対処できるのかよ?
 殺しを手段に入れなきゃいけないときもあるんだぞ。と言って。
 シルヴィカはそれに目を伏せた。

「そんな手段……とりませんよ」

「なら大人しく俺に任せとけ」
 ……俺にはできるからな。

 マコトはそんな言葉を洩らしたが、シルヴィカは彼にゆっくり歩み寄ると。
「こんな手して言うことですか」
 なんて、マコトの震える手を、覆うように持ち。
 マコトは「……言わなきゃ、なんだよ」と声を震わせる。

「……被害者の息子、お前見たか?」
 という低い声に、シルヴィカがうなずくと。

「どうしようもないとさ、気持ちの矛先が自分に向かうんだよ」
『もしも』を積み重ねて、自分を追い込んじまう。

 そう続けてからシルヴィカの肩を強く掴み、マコトは目を伏せながら。
「だから、あの子がそうなる前に——」と言いかけて。

「——『完全に事件を終わらせなきゃいけない』、ですか?」
 とシルヴィカは遮った。

 その言葉に驚いて、マコトがシルヴィカへ向き直すと。
 シルヴィカの瞳は、うるうると震えていて。

「私だって、同じ気持ちです」

 もう、失った誰かを見たくない。
 もう誰にも『あの目』をさせちゃいけない。
 誰にも、傷ついてほしくないんです。
 でもそれは、あなたも含めてなんですよ。

 マコトはシルヴィカから目を逸らしながら。
「でも、無理なものは……」なんて返そうとするが。
 シルヴィカはマコトの目線を、目で追って。

「私はもう、誰も取りこぼしたくないんです」
 だからマコトさん、私のエゴに。

 ——協力してください。

 そう、はっきりとした声で言って。

 マコトはそれに、「ならお前も、『誰も』の中に入れろよ……?」と返し。
 シルヴィカはそれにうなずく。

 それから少し話し合いをして、宿から出てきた二人は。
 それぞれランタンを灯し、夜の街を歩いていく。

 日中の暑さはどこに行ったのか、冷たい空気が吹きすさび。
 目隠しをしたような暗がりの中で、ざらざらとした風を二人は感じた。

 人っこ一人いない中、シルヴィカとマコトは互いに目を合わせ。
「別れるならここかな」
 というマコトの言葉に、シルヴィカはうなずくと。
「ではまた、半周先で」と彼の腕を軽く叩いて。
 それからマコトは一人で街を進んでいく。

 シルヴィカはマコトの明かりが見えなくなるまで手を振ってから。
「うわぁ暗い……」とか言いつつ、歩みを始めたが。
 その歩きかたはとぼとぼとした動きで。

「一人で大丈夫とか言わなきゃよかった……」とか。
「誰も来ませんように……マコトさん以外」とか。

 そんなくだらないことを一人で言いながら、夜の街を進んでいき。
 荒れた風が目に入って、首を何度か振りながらも。
 一寸先すら見えないほどの、真っ暗闇を観察する。

 地面と靴の間に、砂の粒が挟まって。
 一歩進むたびに、ガリガリとした音が鳴った。

 そんな歩みの途中にて、シルヴィカはふと立ち止まり。
「そろそろ出てきたらどうです?」なんて言い出すが。
 あたりにしんとした暗がりが広がるだけで。
「やっぱり適当じゃダメかぁ……」とシルヴィカは手で顔を覆った。

 しかしほんの一瞬の、そんな動きの間に。
 何やら気配を感じて、シルヴィカがふと振り返ると。
 夜に紛れた人影が、シルヴィカの背後から現れ。
 その腕は喉元を強く締め付けた。

 突然見知らぬ人物に首を絞められたシルヴィカは、抵抗する間もなく。
 ランタンで相手を照らす間もなく、意識を酸欠に刈り取られ。

 落ちたランタンが砂岩の道にぶつかって、パリンと音を立てて割れる。
 シルヴィカはその人影に、路地の裏まで引きずられると。
 大きな袋に詰め込まれ、どこかへ運び込まれていき。

 砂の上を袋が行くざらざらとした音すらも。
 風の音に紛れて、消えてしまった。

 * * * * *

 ——シルヴィカが目を覚ましても、そこはやっぱり暗がりで。
 だんだん目が慣れてきた頃になって、ようやくそこがどこかの廃屋だとわかった。

 シルヴィカは試しに腕を引いたり、手を開いたり握ったりして。
 身体のどこが拘束されて、どこがされていないのか。
 そして、今の自分の身体は健在かを確かめていると。

「安心してよ。つまんないから、意識ないときに切るのはやめたんだ」と。
 そんな明るい声が、闇の向こう側から聞こえてきて。

 シルヴィカは深呼吸をしてから、それに対して。
「……お昼ぶりですね、サハラさん」と返すと。
 声の主は一瞬、息を呑むような音を出した。

「すごっ……声で気づいたの?」
「オムニバスから気づいてましたよ」

 そんな言葉を交わすなり。
 サハラはギシッと音を立てて、何かから立ち上がると。
「どうやって気づいたの? 後学のためにも教えてよ」
 なんて楽しそうに手をひらひらさせていて。

 シルヴィカはそれに、したり顔を向けながら。
「あなたのナイフには、血の臭いが残っていました」
 それに、あなたは私の言葉にも釣られませんでしたしね。
 ふふん。と言うが。

 サハラは首をかしげながら。
「釣られなかった……?」と言って。
「お肉の話題ですよ」
 直前にお肉を扱った可能性があったので。
 もし扱っていたら、なんらかの反応を示していたはずです。
 というシルヴィカの補足に、しばらく「うーん?」とうなってから。
「いや、あれ普通に意味わかんなかったからスルーしたんだけど」
 その理屈も意味わかんないし。と言い。

「ええ……?」
 とシルヴィカは洩らした。

「なんかやだなぁ、そんな理由でバレたの」
 サハラ廃屋の中を歩き回り。

「そんなに血の臭いしないけどなぁ」とか。
「君、犬みたいな鼻の利きしてるね」だとか。

 そんなことを一人で言いながら、しばらく考え込んでいるようで。
 シルヴィカがそれに対して、少し目を伏せながら。

「私は血の臭いを、よく憶えてますからね」
 と小さく洩らすと。

「ああ、そういうこと。同類なんだね僕ら」
 と言いながら、サハラは手をポンと叩く。

「同類……?」

「そう、同類だよ」
 初めて見たときからさ、なんとなくだけど。
 君の目は少し、僕と似ているような気がしたんだよ。
 ああ、やっと納得できた。

 サハラのそんな言葉を聞いて。
 シルヴィカはしばらく、目をつむると。
 自身の手をそれぞれの壁につなぐ縄を、強く引っ張るが。
 ギシギシとした音が、虚しく響くだけだった。

 サハラの足音がコツコツと、廃屋の中を巡って。
 それの聞こえてくる場所を、シルヴィカはじっと見つめると。
「どうして、こんなことを……?」
 なんて、サハラに声をかけ。
 それに対してサハラは、「へぇ……」と意外そうな声を洩らしてから。
「知りたい?」と言う。

 シルヴィカがサハラの影の、向こう側へ視線を向けると。
 どうやら彼女の背後に扉があるらしいことを確認して。

「ほんのちょっぴり、ですけど」なんて、それから言った。

 それを聞いたサハラは、何やらうなずいてから。
「いいよ、教えたげる」と、少し声を弾ませて。
「あっ、でも長くなるよぉ?」とか言っていたが。
 シルヴィカが彼女と視線を合わせるなり。

「うん、正解ボーナスってことにしてあげるよ」
 と両手を合わせながら、笑って。

 それから彼女は彼女自身の過去について、語り始めた。

 * * * * *

 サハラは物心ついたときから孤児で。
 このバンの砂漠では、孤児なんてありふれた存在だった。

 路上で過ごして、ただ生きることだけに集中する。
 サハラも周りの子どもたちも、それを日常にしていた。

 だが、当人たちがよくても、周りの大人にとってはよろしくなかった。

 街のことを決める大人たちが、この街を観光地にしようと決めていて。
 そういうビジネスのためには、路上の薄汚い子どもたちは邪魔だったらしい。

 そんな彼らが対策として作ったものは、いわゆる孤児院であり。
 とにかく数だけ作って、適当な浮浪者を雇い、子どもを詰め込むというやりかただった。

 そうすれば街の見かけだけなら綺麗になり。
 孤児に優しい街という体面も作れる。
 ……孤児が生まれた原因は直さないくせに。
 そういうことをするのだけは早い街だった。

 そんな街の対症療法は迅速に進められていき。
 サハラもそんな即席の孤児院に入れられ。
 ひどく窮屈な日常が周りを覆った。

 見た目だけは小綺麗だから、大人から金を貰えなくなったし。
 身元が記録されてしまったから、商売すらできやしなかったのだ。

 しかし、そんな日常にも終わりがくるもので。
 孤児院の子どもたちは、普通の家庭に引き取られ始めた。

 やがてサハラにもその順番は回ってきて、見知らぬおばさんのもとへ案内されると。
 自分と同じ髪色をしていたサハラへ。
「これは運命だわ!」なんて。
 そのおばさんは言っていた。

 おばさんはサハラが窮屈な思いをしないように。
 不便な思いをしないように。
 自由にできるお金を毎月くれたり。
 家の方針を決めるときは、必ずサハラの意見を聞いたりしていて。

 やっぱり少し窮屈ではあったのだが。
 自分のためにやってくれていることくらいは、幼い頃のサハラにもわかった。

「あなたを見ていると、昔死んじゃった子を思い出して、つい尽くしちゃうのよねぇ」
 おばさんからはそんなことを言われることも多くて。

 別にいい気はしなかったが、悪い気もせず。
 ようやく簡単には終わらない、マシな日常が手に入った気がした。

 しかし、そんなある日のこと。
 サハラたちの家に、窓を割って一人の強盗が入った。

 養母は彼らの命令を無理矢理聞かされ、少ない金を袋に詰め込まされていた。
 養母がひどく怯えていることも、それを我慢しているのも、サハラは見ていた。

 隠れて見ていたサハラは恩返しがしたくて「出ちゃダメよ」という養母の命令に背き。
 隠れていたクローゼットの中から飛び出すなり、落ちていたガラス片で強盗の背を刺した。

 ガラスの抜かれた傷口から、朱色の血がどろりとこぼれて。
 やがてもがいていた強盗も、数分もすれば倒れ、それから少しして止まった。

 養母はサハラの肩をギュッと握り、お礼のあと何度もサハラに謝っていて。
 その日は暗い雰囲気でこそあったが。
「サハラは私の恩人だから」
 という理由で、豪華な食事を作ってくれた。

 しかし、事件の熱が冷めてからの養母は、サハラへの態度を変えた。

 サハラに対し、事あるごとに謝るようになったし。
 サハラに刃物の類いを持たせなくなった。
 サハラより早く眠らないようにもなった。
 まるで腫れ物を触るみたいな、化け物を見るみたいな、そんな態度だった。

 理由はわかっていた。
『必要なら、人を殺せてしまう子』
 それは養母にとって、亡くした子の幻想が壊れるのには十分で。
 それと同時に、普通の子どもという枠を超えていたのだろう。

 しかもその態度は自立する頃になれば、すっかりサハラ側にも焼きついてしまったようで。
 あの化け物を見るかのような視線に、常に見られているような気がした。

「あなたは何者なの?」
 そう言われている気がした。

 どうすればこの視線から逃れられるだろうか。
 焼きついた養母に『化け物ではない』と思わせればいいのだろうか。

 なら普通の人間がつらいと思うことをして、つらければ自分は人間だろう。

 考えた末にそう思ったサハラは、子犬をいじめたあと泣いてみたり。
 知り合いに嫌がらせをしてから悔やんでみたりしたが、ダメだった。

 いろんなことを試してみた。
 特に理由もなく謝ってもみた。

 つらい人間は手首を切ると聞いたので。
「これだ!」と思ってやってみたりもした。
 でも、自分の手首を切るだけではダメだった。

 死ぬくらいのダメージじゃないと終わらない気がする。
 しかし別に死にたいわけではない。
 そんなことを考えて、毎日サハラは頭をかかえた。

 * * * * *

「——それでそのうち、『自分と似た人を殺せばいい』と思い至ったってわけ」
 すごくつらくて、すごく気持ち悪いから、これで納得してくれるとも思ったんだ。

 サハラは胸に手を当てて、そう言い終えると。
 ふぅ、と深いため息をついた。

「だからつらいけど、協力してね?」

 そう言うサハラを尻目に、話の途中からうつむいていたシルヴィカは。
 その明るい声を聞いて、視線を少し上にやると。
 サハラにバレないように、強く拳を握り込む。

 シルヴィカは彼女の過去を聞いていると、なんとなくだが。
 自分の過去と彼女の過去が、とても似ているような気がして。
 今の自分と彼女の違いは、ほんと少しの差によるものでしかないように思えたのだ。

『してはいけなかった善意』
『焼きついてしまった過去』
 その二つは、自分にもサハラにも当てはまる。
 同じ目をしているという彼女の指摘も、あながち間違いではないのだろう。

 だが、シルヴィカはそう思いながらも、やっぱり。
 認めるわけにはいかないとも、思っていた。

「あなたがしていることは、過去の繰り返しです」

 シルヴィカはサハラにそう言うと。
 それを聞いた彼女は、少し考え込み。

「これでも前向きな話なんだけどなぁ……」
 なんて返しながら、ナイフを回して。

「目が似てるよしみで、わかってくれると思ったんだけど……」という言葉を続けると。
 シルヴィカはそれに、睨むような目で返す。

「似てませんよ、全然」
「ええ? 傷つくなぁ……理由は何?」

 顔へだんだんと昇ってくる熱や、加速していく鼓動を感じ。
 脳裏には、あの滅んだ村で見た真っ黒な目が浮かぶ。

 シルヴィカは一瞬、サハラの背後にある扉に目をやると。
 それからシルヴィカは、苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「……あなたはずっと、逃げてるんですよ」
 自分についた傷からも。
 他人につけた傷からもです。
 だから簡単に傷をつけられる。

「そんな人と似ている要素なんて、ありませんよ」

 シルヴィカが、サハラをじっと見つめると。
 彼女はナイフを握り直して、シルヴィカのほうを見ていた。

 ——わかってる。
 逃げてるのは、私も同じ。
 でも私は、私自身のエゴで。
 あなたを否定しなきゃいけない。

 人を傷つけることは、つらい過去を肯定してしまうから。
『あの目』とあなたが、同じだと思えないから。

 シルヴィカはそんなことを思いつつも。
 頬を汗が伝うのを感じながら。
「自首、してください」と、なんとか声を出すが。
 サハラはそれを聞いていないかのように。
 ずっと視線を動かさなかった。

「……そっか、なら、もういいよ」
 消え入りそうな声で、サハラは言って。
 ゆっくりと、シルヴィカのほうへ歩んでいく。

 コツ、コツ、コツ、コツ、と。

 一歩ずつ、ゆっくりと。
 彼女は歩み寄ってきて。

 シルヴィカは身をよじるが。
 腕を拘束する縄が、ただ音を立てるだけ。

 暗闇の視界いっぱいに、真っ黒な影が広がり。
 見上げた先では、悲しそうな目が睨んできていて。

 振り上げられたナイフを、シルヴィカはじっと見ながら。
 滲んできた手汗を握り込みながら。

「……遅いですよ」と言った。

 ——バンッと音を立てて、扉が蹴破られ。

「悪りい、途中で見失ってさ」
 という軽い声とともに現れたその人影は。

 ——マコトだった。

「どうやって……っ⁉︎」と洩らすサハラに。

「私たちは、別れてなんていなかったんですよ」
 私のランタンが消えたら、それは攫われた合図。
 マコトさんはずっと、私を監視してたんです。

「まっ、途中で見失って焦ったけどな」
 時間稼ぎに乗ってくれてサンキューな、サハラさんよ。

 シルヴィカとマコトが、そう説明をすると。
 マコトはサーベルを抜き両手で持ち、その切先をサハラへ向けた。

「降参してくれたらこっちも楽なんだが……」
「だって君ら、逃してくれなさそうじゃん」
「なら仕方ないな」

 マコトとサハラは互いに間合いをはかりながら。
 少しずつ、その距離を縮めていき。
 二人とも、回り込むように。
 睨み合って、そして。

 最初に踏み込んだのはサハラだった。

 マコトはナイフをいなしながら。
 サハラの腹に蹴りを入れ。

 ひるんだ彼女の喉元に。
 さらに蹴りを叩き込んだ。

 二人の少し距離が少し離れた、そんな隙を利用して。
 マコトはシルヴィカの縄を片手分切ると。
「あとは自分でやりな」
 なんて、シルヴィカのナイフを手渡す。

 シルヴィカがそれを使って、残りの縄を切る間にも。
 二人の攻防は続いていて。
 サハラのさまざまな角度からの攻撃を。
 マコトはサーベルでいなしながら。
 ときどき蹴りを交えることで。

 どんどんサハラを壁際に追い込んでいく。
 やがて廃屋の端にまで追い詰められたサハラは。
 マコトにサーベルの切先を突きつけられ。
「手ぇ上げて武器は床。わかるよな?」
 なんて言っているマコトにうなずくと。

 自身の身体を切先へぐいっと近づけ。
「お前……っ何やってんだ⁉︎」なんて。
 一瞬怯んだマコトの隙を突いて。

 彼を懐まで一気に入り込んでから。
 ナイフを彼の脇腹へ、ぐっと突き刺すと。

「やっぱ君、いざ殺しそうになると躊躇するよねぇ」
 蹴りもそれが理由?
 とマコトを笑いながら、ナイフをさらにえぐり込む。

「うっ、ぐぅ……っ」
 とマコトは声を抑えながらサーベルで突こうとするが。
 それをサハラは避けて、さらなる一撃を入れようと、張り付きそうなほどに間合いを詰め。

 マコトはそれを蹴り飛ばしてから。
 それでもなと襲いかかるナイフをサーベルで弾き飛ばすと。
 マコトはそのまま倒れ込み、宙を舞うそのナイフを思わず見たサハラの。
 その一瞬の、注意の外から。

 ——すでに縄を切っていた、シルヴィカが現れ。

「なっ⁉︎」と言うサハラの。
 あごを思いっきり、シルヴィカはナイフの柄で殴打し。

 ゴッ、という重い音が鳴った。

 サハラはぐるりと白目を剥き、ふらふらと姿勢を崩したあと。
 やがて、ドサッと大きな音を立てて、床に倒れ込む。

 シルヴィカは倒れたサハラを、しばらくじっと見つめ、目を伏せてから。

 廃屋の中を探し回ると、ボロ布や縄をサハラのもとへ持ってきて。
 彼女を拘束し、舌を噛まないように口も布で封じておき。
 シルヴィカは拘束の済んだサハラを、部屋の隅へ引き動かすと。

「そうだ、マコトさん……っ」
 とマコトのほうへ駆け寄った。

 マコトの息は浅くて、肌の上には大量の汗。
 本人は意識がないのか、何やらうわ言を言っていて。

 脇腹にできた刺し傷から、滲み出るように赤色が漏れ出ており。
 その傷口を見るなり、シルヴィカは小さく「ひっ」と言った。

 口元を覆いそうになった手を、無理矢理押さえ込みながら。
 ペンダントを握り込み、何度か深呼吸をしようとするが。
 鼓動は不定期になっていき、息もどんどん乱れていく。

 額に滲んだ脂汗を、シルヴィカは手の甲で拭うと。
 ふらついて倒れそうになり、ついた手から崩れ落ちて。
 シルヴィカは這うように移動をしてから。
 自分のカバンを漁ると。

 使い捨ての手袋をはめて。
 糸や針を取り出すが、いくつかが地面に散らばった。

 危うい手つきで針を持ち、震えながら糸を通すが。

 呼吸をしているはずなのに、無呼吸感が止まらなくて。
 息の詰まるようなその感覚に、ますます脈はばらけだした。

 シルヴィカはマコトの腹をまさぐり。
 出血部位を確かめるが、飛び跳ねそうな心臓が。
 ぐらつく視界や平衡感覚に、呼応するように暴れた。

 頭の中ではっきりと、あの日の暗闇が広がって。
 母の腫れた顔だとか、真っ白な父の顔だとか。
 だらりと垂れた腕だとか、そんなものばかり浮かんできて。

 やりたくない。
 失敗したくない。
 また失いたくない。
 そんな彼女自身の声が、頭の中を反響する。

 シルヴィカはその声を押し殺すように、目をギュッとつむると。

 ——自分の頬を、殴って。

 内に響くような痛みに悶絶しながら、すぐに顔を上げた。

 時間がない。
 迷うな。

 私しかいない。
 私しかやれない。
 もう、取りこぼせないなら。
 取りこぼしたくないなら。
 後悔したくないなら。

 ——今、やるしかないんだ。

 自分に言い聞かせながら。
 嘔吐感を堪えて。
 歯を強く噛み締めて。
 ぎこちない手つきながらに。
 シルヴィカは縫合を、少しずつ進めていく。

 息すら全然できず、イヤな汗だって止まらない。
 ずっと頭の中で、小さな女の子の泣く声も聞こえて。
 今にも崩れそうな、最悪な気分だったが。
 それでも、それでも——

 * * * * *

 マコトがふと目を覚ますと、窓から光が差していて。
 ガンガンする頭を押さえつつ。
 しばらくぼんやり頭を巡らせて。
 記憶が鮮明になってくるなり。

「シルヴィ——ゔっ、痛ってぇ……っ」
 なんて洩らしたマコトは。

 脇腹の内からの痛みが、ズッと走って。
 思わずもがきそうになるが。
 そのとき感じたひざの重みが。
 彼の視線を、自然と下へ向けた。

 彼のひざの上には、上質なミルクティーのような、亜麻色の髪が広がっていて。
 その髪を辿ると、持ち主の少女が静かに寝息を立てていた。

 血まみれの手袋をはめたままで、糸や針も握ったまま。
 そんな状態で、目を閉じているその少女は。
 まるで憑き物の落ちたような。
 親元にいる子どものような、安らかな表情をしていて。
 彼女のそんな表情に、マコトは昨晩起きたことを理解する。

 少女の頭を優しく撫でると。
 やわらかな亜麻色がくしゃりとなって。
 少女の長いまつ毛から、小さなしずくが落ちていき。

 そのしずくは、やがてペンダントの上で弾け。
 窓から差し込んだ細い光を、白く、淡く、反射させていた。

「……ありがとな」
 マコトはそっと呟いて。
 しばらくシルヴィカの頭を撫でていると。

 やがて「うっ……ん」と洩らしたシルヴィカは。
 よろよろとした頼りない動きで。
 上体を腕で支えながらに、起こすと。

「マコトさん……?」と、ぼんやりとした顔で首をかしげる。

 シルヴィカのそんな表情に、マコトは微笑んで返すと。
 寝ぐせもたくさんついたその少女は。
 にへらと笑みを浮かべながら。
 やがて、マコトに対して。
「やりました」と言った。

 * * * * *

 それからすぐに、自警団へサハラを連れて行ったシルヴィカたちは。
 何やら複雑そうな、戸惑ってそうな、そんな彼らに事情を説明し。
 やがて被害者の息子からの証言により、サハラへの疑いが深くなると。

「ご協力、感謝します」
 という定型文が返ってきて、二人は彼らの詰め所を離れた。

「あの子、ちゃんとやれるでしょうか……」
「それはあの子次第だろうよ」
「……あと、痛み止め切れる前にちゃんと薬屋行ってくださいね?」
「ぜ、善処はするよ……」

 そんな言葉を交わしながら、街を歩む二人は。
 やがて街の入り口に向かうと、馬車の乗り場へ向かい。
 そこで再会した昨日の御者と、くだらない話をしてから。
 馬車にシルヴィカだけが、乗り込んだ。

 車内の窓からシルヴィカは、外の様子を見守ると。
 マコトは御者に、無縁墓について訊いて。
「多分そこだな」と洩らしてから。

 彼はシルヴィカに軽く手を振りながら。
「頑張れよ」と、言っていた。

 本人いわく、マコトの両親はこの地方で亡くなったそうで。
 再会したときに言っていた『知りたいこと』とは、彼の両親についてだったそうだ。

「マコトさんこそ、お大事に」
 シルヴィカのそんな言葉に、マコトは頭を掻きながら。
「なんか、すげぇデジャヴだな……」と言っていて。

 それに対するシルヴィカの笑い声とともに。
 馬車はゆっくりと、発車していく。

 ガタガタと揺れる車内で、ふと思い至ったので。
 流れる風景の先で徐々に小さくなる街を。
 シルヴィカはしばらく、眺めていて。

 やがて流れてきた、点のような廃屋たちが目に入ると。
 すぐに座り直して、視線は車内へと向いた。

 車内へ差し込んだ光はまるでシルヴィカを型取りしたように。
 黄色い光に包まれた、そんな影が奥へ伸びていて。
 シルヴィカは背中に熱を感じながら、静かに目を閉じ。
 しばらく、馬車の揺れに身を任せた。


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次のエピソードへ進む 第十一編 巡り繰り返して


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 その廃屋の中は、まるで塗りつぶしたように黒が広がり。
 置かれた最低限の家具たちを、ほんの一筋の、細い日光が照らしている。
 少女は足組みを解くと、小さな椅子から立ち上がった。
 ポタ、ポタ、としずくの落ちる音に混じり。
 小さな嗚咽が廃屋に響いていて。
 しばらくのため息の音のあとに鳴った。
「ねえ、なんか喋ってよ」
 という少女の声に、嗚咽の主は肩をビクりと跳ねさせて。
「わ、わた、わたし、今、どう、なって……っ」なんて。
 何度もどもり、裏返ったような、そんな言葉を絞り出すと。
 それを聞いた少女は「うーん」と洩らした。
 また嗚咽を洩らし始めたその女性の、目元にはぽっかりと穴が空いていて。
 両手をそれぞれ壁につなぎ止めた縄は、片方が宙ぶらりん。
 女性のかかとからは、静かに赤がこぼれ。
 左手、どこやったかなぁ……と。
 少女は目をつむり考えてから。
「知らないほうがいいよ、うん」
 なんて、女性の頭を撫でてやった。
 少女のそんな言葉に、女性はますます泣き出して。
「ほら、元気出して。つらいことなんていっぱいあるんだから」
 と平坦な声で少女は言うと、女性は乱れた息のまま。
「わたし、どうなるの……?」と言っていて。
「死ぬんじゃない?」
 とそれに少女は苦笑いをしながら返した。
 それから少女は女性に背を向け、自分の荷物を手に取ると。
 彼女の嗚咽に「ごめんね」なんて言いながら。
 廃屋の扉をゆるりと開ける。
 橙色の羽織りが、暴れる風にはためいて。
 扉の向こうでは、はるか遠方まで広がる黄色い砂に。
 大きな大きな紺色の星空が乗っかっていて。
 それをぼんやり見つめると、少女は沈む月に。
「ああ、不快だった」
 なんて、小さく言った。
 * * * * *
 輝かんばかりの青空と、真っ白な太陽に照らされながら。
 あたり一面に広がる黄色を、シルヴィカはぐるりと見渡して。
「ほんとに砂だ……」と小さく洩らす。
 砂の上には小さな建物が点々としていて。
 そのどれもが平らな屋根を頭に乗せていた。
 そんな日干しレンガや砂岩で作られた建物たちを見やっていると。
 シルヴィカの背後から「おっ、見ろシルヴィカ! スカラベだ‼︎」
 なんて、明るい調子の声がして。
 シルヴィカが振り向くと、マコトが妙に高いテンションでフンコロガシを指さしていた。
 シルヴィカはその虫の転がしているものを見るなり、少し虫と距離を取ると。
 それからあごに指を当てながら。
「その虫、ハエとかと同類なんでしょうか……?」と呟いて。
「転がしてるの食料らしいぜ」
 とマコトは駆け寄った。
 シルヴィカはマコトのほうへ振り返ると。
「ずいぶん詳しいんですね?」と言い。
「来たことあるんだよ」
 だから観光案内とかもできるぜ?
 なんてマコトは返してきた。
 どういうわけか、ここバンの砂漠までは同じルートらしい二人は。
「これもなんかの縁だろ」というマコトの提案により。
 なんとなく一緒に旅をしていたのだが。
 それ以来、マコトはずっとこんな調子だった。
「マコトさんって、結構子どもっぽいんですね」
 シルヴィカが彼を見上げながら、そんなことを言ってみると。
「……なんかお前に言われるとちょっとクるなぁ」とマコトはうなだれて。
 それへじとりとした目で返すシルヴィカに。
「見た目の話じゃねぇからな?」と彼は言う。
 シルヴィカの視線を避けるように、目を動かした彼は。
 ふと空を見上げてから、自身のあごを手でさすり。
 それから手帳と地図を広げて、あたりを見渡した。
 そんな様子のマコトを、シルヴィカは首をかしげながら見守り。
「このあたり、何かあるんですか?」という問いかけてみたが。
 マコトは「便利なもの」と答え、正面にある何かをさっと指さす。
 それは、ぽつりとあった立て札であり、『オムニバス』と書かれていたそれを見ながら。
「乗合馬車が来るのさ」とマコトは言った。
 乗合馬車というのは、決まった時間に従って、いくつかの停留所を巡る馬車のことで。
 安価な運賃を払えるのなら、誰でも乗ることができるもののことだ。
「クソ暑いからな……」と、上品とは言えないことを言いながら。
 マコトは竹製の水筒から水を補給し。
 それを見たシルヴィカも、革水筒の水を口に入れる。
 ギラギラとした陽光が、地面に陽炎を作っていて。
 遠くを何やら見つめているマコトを眺めながら。
 シルヴィカは日焼け止めをカバンから取り出し、顔や手に拡げると。
「マコトさんも塗ります?」
「いや、大丈夫」
 なんて言葉を交わした。
 そんなことを続けていると、やがて遠くから何かが寄ってきているのが見えてきて。
 陽炎に揺られたその影は、どうやらラクダの引く馬車のよう。
 馬車は砂を巻き上げながら、立て札の前に停まると。
 屋根の下から御者が乗り出し、帽子を深くかぶり直してから。
「オアシスまでですけど、ご乗車しますか?」と言うので。
 シルヴィカたちはうなずいて、その馬車に乗り込むと。
 御者は二人に、小さな粘土板を手渡し。
「降りる際に返してくださいね」と言った。
 馬車の内壁に沿うような、そんな並びの席が中にはあり。
 二人が端の席に座ると、御者はそれを確認し、馬車が動き出す。
 くらりとかかる慣性で、シルヴィカがマコトにぶつかると。
「案の定フラついたな」
 なんてマコトは得意げにしていて。
 シルヴィカがそれに対して、頬を膨らませていたのだが。
 向かいの席から「あっ、なんか可愛い子いるじゃん」という、明るい声がしたので。
 振り向いてみたところ、そこには亜麻色の髪と琥珀色の瞳をした少女が座っていた。
 少女は身を乗り出しながら。
「どこから来たの?」と笑みを浮かべ。
「えっ、えっと、フィナリアの、ほう、です」と答えたシルヴィカに。
「すごっ、めっちゃ遠いとこじゃん! やるねぇ」とも言っていた。
 彼女は橙色の羽織りを揺らしながら、落ち着きなく足を動かし。
「綺麗な髪してるね」
 羨ましいなぁ。
 なんて言ってくるので、シルヴィカは顔を赤くして。
 それを見たマコトが「あんまりウチのをいじめるなよ?」と苦笑いをする。
「マジでそれ維持すんの大変だからね?」
 ねえ、それどうやってんの?
 とまた乗り出した少女を。
 シルヴィカは制止しながら、手帳に何かを書くと。
 ちぎったそれを少女に手渡して、相手は「わお……」と顔を引きつらせる。
「あくまでウェーブ用、ですけど……」
 とか、恥ずかしそうにシルヴィカは言っていたが。
「さすがに冷水はこの辺だとなぁ」
 なんて、少女は耳に入っていないようだった。
「あっ、これはやってるわ」だの。
「コンディショナーの作りかた……?」だの。
 そんなことを言っている少女に、マコトが紙を見せてもらうと。
 そこにはびっしりと小さな字でいろいろ書いてあるようで。
「お前、これ全部やってるの?」と、マコトはシルヴィカに耳打ちしたが。
 シルヴィカはそれに、ぎこちなくうなずいていて。
 マコトは無の表情をしながら、姿勢を戻す。
 その空気に耐えられず、シルヴィカが思わず窓へ視線を移すと。
 左から右へ流れる砂が、滑らかな曲線を作っていて。
 ギラギラと照らす太陽が作る、影のないその光景が。
 どこか作りものみたいで、シルヴィカはまた車内に視線を戻す。
 やがて停留所が来たのか、急にガタリと馬車が揺れて。
 シルヴィカがマコトと壁に挟まれながら「ぬぐっ」と声を洩らしていると。
 カラカラと音を立てて、シルヴィカの足元に何かが当たったので。
 謝るマコトを押し退けながら、シルヴィカはそれを拾った。
 どうやらそれはナイフのようで。
 顔を近づけたシルヴィカは、一瞬その目を見開いて。
「ああ、彫ってるのは僕の名前だよ」という少女に。
「サハラさんっていうんですね」なんて微笑みながらそれを返すと。
 シルヴィカはそれから「お肉、美味しいですよね」と言った。
 すると車内は、何やら奇妙な雰囲気になり。
 しばらくの沈黙にシルヴィカが気づくと。
 首をかしげるサハラにハッとしてから。
「お肉切るナイフだったから……」と補足して。
「会話下手にもほどがあるだろ」とマコトは横から言った。
「ともかく、終点みたいだね」
 サハラが言いながら、馬車の前方まで歩くが。
 御者は手でサハラを急に止め。
「何さ?」と洩らすサハラに目を向けたあと、シルヴィカのほうにも顔を向けてから。
「羽織りさん……と、白マントさん、ちょっといいですか?」なんてことを言うと。
「送り届けといて言うのもなんですがね」
 と小さく言って、こんなことを話し出した。
 最近、若い女性がよく狙われて事件になってるんですわ。
 殺人の事件です。結構ひどめのね。
 被害者には共通点がありまして。
 お嬢さん二人と似た髪色の人がよくやられるんですよ。
 ……だから、早めに街を出るとか。
 一人で外出るのをやめるとか。
 そういう対策は一応してくださいね。
 私としてもお客さんが犠牲になるのはイヤですんで。
 そんな話を終えると、御者は帽子を深くかぶり直してから。
「なんかあったら、私も逃げるの手伝いますよ」と付け足す。
 シルヴィカはそれを聴きながら、サハラのほうを見ると。
「うーん、予定組み直さないとなぁ」なんて彼女は言っていて。
 シルヴィカはそれを眺めたあと少しうつむいて、あごに指を当てた。
 * * * * *
 馬車が停まったのは、オアシスを中心にした街の入り口で。
 馬車から降りたシルヴィカとマコトは、あるレストランへ真っ直ぐ向かい。
 少し遅めの昼食を摂ることにしたのだが、その店で料理が届くなりシルヴィカは。
「うわぁ、ほんとに出た……」
 と洩らした。
 陶器の皿に乗っていたのは、一口大にカットされたサボテンで。
 何やら赤いソースのかけられたそれは、スパイシーな香りを漂わせており。
 シルヴィカが不安げにマコトのほうを見やると。
「言ったろ? サボテンも食べる地方だって」
 トゲは抜いてあるんだよ。
 なんて平然と言いながら、フォークをサボテンに刺していた。
 視界に黒い霧がかかったような、薄暗い店の中。
 しばらくあたりを見渡してから、シルヴィカはまた皿に目線を戻し。
「魚にしとけばよかったぁ……っ」とか呟くが。
「『私も同じの食べます』つったのはお前だろうがよ」
 なんてマコトは冷たい視線を向けていた。
 シルヴィカはフォークを刺して、ギュッと目をつむると。
 投げ入れるように、口の中へサボテンを突っ込み。
 しばらくそれをもぎゅもぎゅと噛んでから。
 それを飲み込み。
 深呼吸をしてから。
「……普通だ」と洩らして。
 その様子にマコトはにやつくと。
「そう、以外と普通なんだよ」とまた一口食べていた。
「一人なら食べなかったなぁ」
 シルヴィカはそう言いながらに。
 コップに入ったサトウキビのジュースに口をつけると。
「というか、すぐにこの街出てたかも」と付け加え。
 マコトは「んー?」と言ってから、もごもごとサボテンを咀嚼して。
 それから飲み込み、「まっ、あんなこと言われたらな」なんて返してから。
 にんじんのジュースを飲み干して「ふぅ」と息を吐いた。
「サハラさんも、心配ですし……」
 シルヴィカはサボテンをフォークでいじって。
 それから口の中に放り込み、飲み込んで。
「イヤなときに来ちゃいましたね」
 と苦笑いをマコトに向けると。
「まあ、こういう不幸もあるわな」
 なんてマコトは窓を見つめていた。
 シルヴィカはその視線に釣られ。
 なんとなく、窓のほうを向いていくと。
 窓の外のほうでは、何やら人が集まり出していて。
「この街って、前もこうだったんですか……?」なんて訊いてみたら。
 マコトは「いや、俺も初めて見る」と返して。
 それから二人は、顔を見合わすと同時にうなずき。
 それから、一心不乱に料理に手をつける。
 掻き込むように食べるマコトへ。
 内心「行儀悪い……」と思いつつも。
 彼ほどではないにしろ、シルヴィカもできるだけ早く飲み込むようにしていたのだが。
 そうしている間に、どうやらマコトは完食したようで。
「|小貨《しょうか》三枚、あとで返してくれりゃいいから」
 とか言いながら、すぐに会計を済ませに行くと。
「先見てくるわ」と、外に出ていってしまった。
「……私が急いだ理由は?」
 そう思いながらシルヴィカも。
 なんとかサボテンをジュースで流し込み。
 それから急いで店を出ると、すでに人混みは大きな塊となっていて。
「うへぇ……」と洩らしつつあたりを見渡すと。
「おーい、こっちこっち!」
 なんて元気に手を振るマコトを見つけて。
 シルヴィカは騒ぎの中心へ、人混みのほうへ走っていく。
 人混みを構成している人たちは、どうやら街の外へ視線を向けているようで。
 シルヴィカたち二人は、その人混みをかき分けて事態が見える位置に行き。
 そしてその正体が目に入った。
 街の外からぽとぽとと、数人の男たちが来ていて。
 彼らのうち何人かは、協力して大きな袋を運んでいる。
 その袋はまるで、人が一人くらいなら入りそうな大きさで。
 それを運ぶ男たちの表情は、皆一様に沈んでいた。
 人混みの中からぽつりと「まただよ……」なんて声がして。
 その大きな麻袋がよりはっきり見えてくるようになると、人混みの声は増えていった。
 袋の至るところに、赤黒いシミができていて。
 シルヴィカはその臭いに気づくと、思わず目を伏せそうになるが。
 袋の膨らみかたからつながっていないパーツの存在に気づいて。
 目を伏せるより先に「どうしてこんなこと……」と思わず洩らす。
「ユリィカさんだろ? 北方から来た」
「死んだの、あの奥さんだったのか」
「私黒髪でよかったわぁ」
「あの人子どもいたろ」
「息子さんも気の毒にねぇ」
 好き勝手な言葉たちに。
 シルヴィカは胸を痛めながらも。
 人混みの中から飛び出して、袋に歩み寄る少年がふと見え。
 思わずシルヴィカの視線は、その子のほうへ吸い寄せられる。
 その少年は袋を、しばらくじっと見つめると。
 拳を握り、目元を腕で拭ってから。
 やがてどこかへ走り去っていき。
「子どもの通報だって……」
「帰ってすぐに気づいたんだろ? えらい子だなぁ」
 という声が近くから聞こえると。
 シルヴィカはペンダントを、ギュッと握った。
 * * * * *
 その日の夜、砂岩でできた宿の一室にてシルヴィカは。
 吊ったランタンの油を確認すると。
 靴紐をギュッと固く結んだ。
 昼間から時間をかけて研いだナイフを。
 ゆっくり、そっと、その指で撫でて。
 それから鞘にしまい、スッという音が鳴ると。
 胸に手を当て、深呼吸をしてから、部屋の扉を開けるが。
 扉の先にいたマコトにシルヴィカは「いぃいっ⁉︎」と声を洩らした。
 彼は部屋に上がり込むなり、シルヴィカの頭にポンッと手を置き。
「俺がもし朝まで帰らなかったら、自警に通報してくれ」とか言い出して。
「絶対にイヤです。一緒に行きます」
 とシルヴィカはそれに返すが。
 マコトは「やれやれ」とでも言いたげにため息をつくと。
「まっ、一人だとしても、俺生き残るのは上手いからさ、もしもの話だよ」
 なんて言いながら笑っていた。
 だが、その表情はどこかぎこちなくて。
 シルヴィカは彼の意図をわかりながらも、彼を見上げると。
「もしもだとしても、ですよ」と返して。
 そんな答えに対して、マコトが少しイラついているように、シルヴィカには見えた。
「犯人が誰か、わかってないんでしょう?」
「お前はわかってんのかよ?」
「えっと、不本意、ながら……」
 そんな言葉を交わしながらシルヴィカは、ペンダントをギュッと握り。
 それを見たマコトは、壁にもたれかかり苦笑いをすると。
「どうりで『外出します』って見た目なわけだ」
 でもお前、犯人に襲われたら対処できるのかよ?
 殺しを手段に入れなきゃいけないときもあるんだぞ。と言って。
 シルヴィカはそれに目を伏せた。
「そんな手段……とりませんよ」
「なら大人しく俺に任せとけ」
 ……俺にはできるからな。
 マコトはそんな言葉を洩らしたが、シルヴィカは彼にゆっくり歩み寄ると。
「こんな手して言うことですか」
 なんて、マコトの震える手を、覆うように持ち。
 マコトは「……言わなきゃ、なんだよ」と声を震わせる。
「……被害者の息子、お前見たか?」
 という低い声に、シルヴィカがうなずくと。
「どうしようもないとさ、気持ちの矛先が自分に向かうんだよ」
『もしも』を積み重ねて、自分を追い込んじまう。
 そう続けてからシルヴィカの肩を強く掴み、マコトは目を伏せながら。
「だから、あの子がそうなる前に——」と言いかけて。
「——『完全に事件を終わらせなきゃいけない』、ですか?」
 とシルヴィカは遮った。
 その言葉に驚いて、マコトがシルヴィカへ向き直すと。
 シルヴィカの瞳は、うるうると震えていて。
「私だって、同じ気持ちです」
 もう、失った誰かを見たくない。
 もう誰にも『あの目』をさせちゃいけない。
 誰にも、傷ついてほしくないんです。
 でもそれは、あなたも含めてなんですよ。
 マコトはシルヴィカから目を逸らしながら。
「でも、無理なものは……」なんて返そうとするが。
 シルヴィカはマコトの目線を、目で追って。
「私はもう、誰も取りこぼしたくないんです」
 だからマコトさん、私のエゴに。
 ——協力してください。
 そう、はっきりとした声で言って。
 マコトはそれに、「ならお前も、『誰も』の中に入れろよ……?」と返し。
 シルヴィカはそれにうなずく。
 それから少し話し合いをして、宿から出てきた二人は。
 それぞれランタンを灯し、夜の街を歩いていく。
 日中の暑さはどこに行ったのか、冷たい空気が吹きすさび。
 目隠しをしたような暗がりの中で、ざらざらとした風を二人は感じた。
 人っこ一人いない中、シルヴィカとマコトは互いに目を合わせ。
「別れるならここかな」
 というマコトの言葉に、シルヴィカはうなずくと。
「ではまた、半周先で」と彼の腕を軽く叩いて。
 それからマコトは一人で街を進んでいく。
 シルヴィカはマコトの明かりが見えなくなるまで手を振ってから。
「うわぁ暗い……」とか言いつつ、歩みを始めたが。
 その歩きかたはとぼとぼとした動きで。
「一人で大丈夫とか言わなきゃよかった……」とか。
「誰も来ませんように……マコトさん以外」とか。
 そんなくだらないことを一人で言いながら、夜の街を進んでいき。
 荒れた風が目に入って、首を何度か振りながらも。
 一寸先すら見えないほどの、真っ暗闇を観察する。
 地面と靴の間に、砂の粒が挟まって。
 一歩進むたびに、ガリガリとした音が鳴った。
 そんな歩みの途中にて、シルヴィカはふと立ち止まり。
「そろそろ出てきたらどうです?」なんて言い出すが。
 あたりにしんとした暗がりが広がるだけで。
「やっぱり適当じゃダメかぁ……」とシルヴィカは手で顔を覆った。
 しかしほんの一瞬の、そんな動きの間に。
 何やら気配を感じて、シルヴィカがふと振り返ると。
 夜に紛れた人影が、シルヴィカの背後から現れ。
 その腕は喉元を強く締め付けた。
 突然見知らぬ人物に首を絞められたシルヴィカは、抵抗する間もなく。
 ランタンで相手を照らす間もなく、意識を酸欠に刈り取られ。
 落ちたランタンが砂岩の道にぶつかって、パリンと音を立てて割れる。
 シルヴィカはその人影に、路地の裏まで引きずられると。
 大きな袋に詰め込まれ、どこかへ運び込まれていき。
 砂の上を袋が行くざらざらとした音すらも。
 風の音に紛れて、消えてしまった。
 * * * * *
 ——シルヴィカが目を覚ましても、そこはやっぱり暗がりで。
 だんだん目が慣れてきた頃になって、ようやくそこがどこかの廃屋だとわかった。
 シルヴィカは試しに腕を引いたり、手を開いたり握ったりして。
 身体のどこが拘束されて、どこがされていないのか。
 そして、今の自分の身体は健在かを確かめていると。
「安心してよ。つまんないから、意識ないときに切るのはやめたんだ」と。
 そんな明るい声が、闇の向こう側から聞こえてきて。
 シルヴィカは深呼吸をしてから、それに対して。
「……お昼ぶりですね、サハラさん」と返すと。
 声の主は一瞬、息を呑むような音を出した。
「すごっ……声で気づいたの?」
「オムニバスから気づいてましたよ」
 そんな言葉を交わすなり。
 サハラはギシッと音を立てて、何かから立ち上がると。
「どうやって気づいたの? 後学のためにも教えてよ」
 なんて楽しそうに手をひらひらさせていて。
 シルヴィカはそれに、したり顔を向けながら。
「あなたのナイフには、血の臭いが残っていました」
 それに、あなたは私の言葉にも釣られませんでしたしね。
 ふふん。と言うが。
 サハラは首をかしげながら。
「釣られなかった……?」と言って。
「お肉の話題ですよ」
 直前にお肉を扱った可能性があったので。
 もし扱っていたら、なんらかの反応を示していたはずです。
 というシルヴィカの補足に、しばらく「うーん?」とうなってから。
「いや、あれ普通に意味わかんなかったからスルーしたんだけど」
 その理屈も意味わかんないし。と言い。
「ええ……?」
 とシルヴィカは洩らした。
「なんかやだなぁ、そんな理由でバレたの」
 サハラ廃屋の中を歩き回り。
「そんなに血の臭いしないけどなぁ」とか。
「君、犬みたいな鼻の利きしてるね」だとか。
 そんなことを一人で言いながら、しばらく考え込んでいるようで。
 シルヴィカがそれに対して、少し目を伏せながら。
「私は血の臭いを、よく憶えてますからね」
 と小さく洩らすと。
「ああ、そういうこと。同類なんだね僕ら」
 と言いながら、サハラは手をポンと叩く。
「同類……?」
「そう、同類だよ」
 初めて見たときからさ、なんとなくだけど。
 君の目は少し、僕と似ているような気がしたんだよ。
 ああ、やっと納得できた。
 サハラのそんな言葉を聞いて。
 シルヴィカはしばらく、目をつむると。
 自身の手をそれぞれの壁につなぐ縄を、強く引っ張るが。
 ギシギシとした音が、虚しく響くだけだった。
 サハラの足音がコツコツと、廃屋の中を巡って。
 それの聞こえてくる場所を、シルヴィカはじっと見つめると。
「どうして、こんなことを……?」
 なんて、サハラに声をかけ。
 それに対してサハラは、「へぇ……」と意外そうな声を洩らしてから。
「知りたい?」と言う。
 シルヴィカがサハラの影の、向こう側へ視線を向けると。
 どうやら彼女の背後に扉があるらしいことを確認して。
「ほんのちょっぴり、ですけど」なんて、それから言った。
 それを聞いたサハラは、何やらうなずいてから。
「いいよ、教えたげる」と、少し声を弾ませて。
「あっ、でも長くなるよぉ?」とか言っていたが。
 シルヴィカが彼女と視線を合わせるなり。
「うん、正解ボーナスってことにしてあげるよ」
 と両手を合わせながら、笑って。
 それから彼女は彼女自身の過去について、語り始めた。
 * * * * *
 サハラは物心ついたときから孤児で。
 このバンの砂漠では、孤児なんてありふれた存在だった。
 路上で過ごして、ただ生きることだけに集中する。
 サハラも周りの子どもたちも、それを日常にしていた。
 だが、当人たちがよくても、周りの大人にとってはよろしくなかった。
 街のことを決める大人たちが、この街を観光地にしようと決めていて。
 そういうビジネスのためには、路上の薄汚い子どもたちは邪魔だったらしい。
 そんな彼らが対策として作ったものは、いわゆる孤児院であり。
 とにかく数だけ作って、適当な浮浪者を雇い、子どもを詰め込むというやりかただった。
 そうすれば街の見かけだけなら綺麗になり。
 孤児に優しい街という体面も作れる。
 ……孤児が生まれた原因は直さないくせに。
 そういうことをするのだけは早い街だった。
 そんな街の対症療法は迅速に進められていき。
 サハラもそんな即席の孤児院に入れられ。
 ひどく窮屈な日常が周りを覆った。
 見た目だけは小綺麗だから、大人から金を貰えなくなったし。
 身元が記録されてしまったから、商売すらできやしなかったのだ。
 しかし、そんな日常にも終わりがくるもので。
 孤児院の子どもたちは、普通の家庭に引き取られ始めた。
 やがてサハラにもその順番は回ってきて、見知らぬおばさんのもとへ案内されると。
 自分と同じ髪色をしていたサハラへ。
「これは運命だわ!」なんて。
 そのおばさんは言っていた。
 おばさんはサハラが窮屈な思いをしないように。
 不便な思いをしないように。
 自由にできるお金を毎月くれたり。
 家の方針を決めるときは、必ずサハラの意見を聞いたりしていて。
 やっぱり少し窮屈ではあったのだが。
 自分のためにやってくれていることくらいは、幼い頃のサハラにもわかった。
「あなたを見ていると、昔死んじゃった子を思い出して、つい尽くしちゃうのよねぇ」
 おばさんからはそんなことを言われることも多くて。
 別にいい気はしなかったが、悪い気もせず。
 ようやく簡単には終わらない、マシな日常が手に入った気がした。
 しかし、そんなある日のこと。
 サハラたちの家に、窓を割って一人の強盗が入った。
 養母は彼らの命令を無理矢理聞かされ、少ない金を袋に詰め込まされていた。
 養母がひどく怯えていることも、それを我慢しているのも、サハラは見ていた。
 隠れて見ていたサハラは恩返しがしたくて「出ちゃダメよ」という養母の命令に背き。
 隠れていたクローゼットの中から飛び出すなり、落ちていたガラス片で強盗の背を刺した。
 ガラスの抜かれた傷口から、朱色の血がどろりとこぼれて。
 やがてもがいていた強盗も、数分もすれば倒れ、それから少しして止まった。
 養母はサハラの肩をギュッと握り、お礼のあと何度もサハラに謝っていて。
 その日は暗い雰囲気でこそあったが。
「サハラは私の恩人だから」
 という理由で、豪華な食事を作ってくれた。
 しかし、事件の熱が冷めてからの養母は、サハラへの態度を変えた。
 サハラに対し、事あるごとに謝るようになったし。
 サハラに刃物の類いを持たせなくなった。
 サハラより早く眠らないようにもなった。
 まるで腫れ物を触るみたいな、化け物を見るみたいな、そんな態度だった。
 理由はわかっていた。
『必要なら、人を殺せてしまう子』
 それは養母にとって、亡くした子の幻想が壊れるのには十分で。
 それと同時に、普通の子どもという枠を超えていたのだろう。
 しかもその態度は自立する頃になれば、すっかりサハラ側にも焼きついてしまったようで。
 あの化け物を見るかのような視線に、常に見られているような気がした。
「あなたは何者なの?」
 そう言われている気がした。
 どうすればこの視線から逃れられるだろうか。
 焼きついた養母に『化け物ではない』と思わせればいいのだろうか。
 なら普通の人間がつらいと思うことをして、つらければ自分は人間だろう。
 考えた末にそう思ったサハラは、子犬をいじめたあと泣いてみたり。
 知り合いに嫌がらせをしてから悔やんでみたりしたが、ダメだった。
 いろんなことを試してみた。
 特に理由もなく謝ってもみた。
 つらい人間は手首を切ると聞いたので。
「これだ!」と思ってやってみたりもした。
 でも、自分の手首を切るだけではダメだった。
 死ぬくらいのダメージじゃないと終わらない気がする。
 しかし別に死にたいわけではない。
 そんなことを考えて、毎日サハラは頭をかかえた。
 * * * * *
「——それでそのうち、『自分と似た人を殺せばいい』と思い至ったってわけ」
 すごくつらくて、すごく気持ち悪いから、これで納得してくれるとも思ったんだ。
 サハラは胸に手を当てて、そう言い終えると。
 ふぅ、と深いため息をついた。
「だからつらいけど、協力してね?」
 そう言うサハラを尻目に、話の途中からうつむいていたシルヴィカは。
 その明るい声を聞いて、視線を少し上にやると。
 サハラにバレないように、強く拳を握り込む。
 シルヴィカは彼女の過去を聞いていると、なんとなくだが。
 自分の過去と彼女の過去が、とても似ているような気がして。
 今の自分と彼女の違いは、ほんと少しの差によるものでしかないように思えたのだ。
『してはいけなかった善意』
『焼きついてしまった過去』
 その二つは、自分にもサハラにも当てはまる。
 同じ目をしているという彼女の指摘も、あながち間違いではないのだろう。
 だが、シルヴィカはそう思いながらも、やっぱり。
 認めるわけにはいかないとも、思っていた。
「あなたがしていることは、過去の繰り返しです」
 シルヴィカはサハラにそう言うと。
 それを聞いた彼女は、少し考え込み。
「これでも前向きな話なんだけどなぁ……」
 なんて返しながら、ナイフを回して。
「目が似てるよしみで、わかってくれると思ったんだけど……」という言葉を続けると。
 シルヴィカはそれに、睨むような目で返す。
「似てませんよ、全然」
「ええ? 傷つくなぁ……理由は何?」
 顔へだんだんと昇ってくる熱や、加速していく鼓動を感じ。
 脳裏には、あの滅んだ村で見た真っ黒な目が浮かぶ。
 シルヴィカは一瞬、サハラの背後にある扉に目をやると。
 それからシルヴィカは、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「……あなたはずっと、逃げてるんですよ」
 自分についた傷からも。
 他人につけた傷からもです。
 だから簡単に傷をつけられる。
「そんな人と似ている要素なんて、ありませんよ」
 シルヴィカが、サハラをじっと見つめると。
 彼女はナイフを握り直して、シルヴィカのほうを見ていた。
 ——わかってる。
 逃げてるのは、私も同じ。
 でも私は、私自身のエゴで。
 あなたを否定しなきゃいけない。
 人を傷つけることは、つらい過去を肯定してしまうから。
『あの目』とあなたが、同じだと思えないから。
 シルヴィカはそんなことを思いつつも。
 頬を汗が伝うのを感じながら。
「自首、してください」と、なんとか声を出すが。
 サハラはそれを聞いていないかのように。
 ずっと視線を動かさなかった。
「……そっか、なら、もういいよ」
 消え入りそうな声で、サハラは言って。
 ゆっくりと、シルヴィカのほうへ歩んでいく。
 コツ、コツ、コツ、コツ、と。
 一歩ずつ、ゆっくりと。
 彼女は歩み寄ってきて。
 シルヴィカは身をよじるが。
 腕を拘束する縄が、ただ音を立てるだけ。
 暗闇の視界いっぱいに、真っ黒な影が広がり。
 見上げた先では、悲しそうな目が睨んできていて。
 振り上げられたナイフを、シルヴィカはじっと見ながら。
 滲んできた手汗を握り込みながら。
「……遅いですよ」と言った。
 ——バンッと音を立てて、扉が蹴破られ。
「悪りい、途中で見失ってさ」
 という軽い声とともに現れたその人影は。
 ——マコトだった。
「どうやって……っ⁉︎」と洩らすサハラに。
「私たちは、別れてなんていなかったんですよ」
 私のランタンが消えたら、それは攫われた合図。
 マコトさんはずっと、私を監視してたんです。
「まっ、途中で見失って焦ったけどな」
 時間稼ぎに乗ってくれてサンキューな、サハラさんよ。
 シルヴィカとマコトが、そう説明をすると。
 マコトはサーベルを抜き両手で持ち、その切先をサハラへ向けた。
「降参してくれたらこっちも楽なんだが……」
「だって君ら、逃してくれなさそうじゃん」
「なら仕方ないな」
 マコトとサハラは互いに間合いをはかりながら。
 少しずつ、その距離を縮めていき。
 二人とも、回り込むように。
 睨み合って、そして。
 最初に踏み込んだのはサハラだった。
 マコトはナイフをいなしながら。
 サハラの腹に蹴りを入れ。
 ひるんだ彼女の喉元に。
 さらに蹴りを叩き込んだ。
 二人の少し距離が少し離れた、そんな隙を利用して。
 マコトはシルヴィカの縄を片手分切ると。
「あとは自分でやりな」
 なんて、シルヴィカのナイフを手渡す。
 シルヴィカがそれを使って、残りの縄を切る間にも。
 二人の攻防は続いていて。
 サハラのさまざまな角度からの攻撃を。
 マコトはサーベルでいなしながら。
 ときどき蹴りを交えることで。
 どんどんサハラを壁際に追い込んでいく。
 やがて廃屋の端にまで追い詰められたサハラは。
 マコトにサーベルの切先を突きつけられ。
「手ぇ上げて武器は床。わかるよな?」
 なんて言っているマコトにうなずくと。
 自身の身体を切先へぐいっと近づけ。
「お前……っ何やってんだ⁉︎」なんて。
 一瞬怯んだマコトの隙を突いて。
 彼を懐まで一気に入り込んでから。
 ナイフを彼の脇腹へ、ぐっと突き刺すと。
「やっぱ君、いざ殺しそうになると躊躇するよねぇ」
 蹴りもそれが理由?
 とマコトを笑いながら、ナイフをさらにえぐり込む。
「うっ、ぐぅ……っ」
 とマコトは声を抑えながらサーベルで突こうとするが。
 それをサハラは避けて、さらなる一撃を入れようと、張り付きそうなほどに間合いを詰め。
 マコトはそれを蹴り飛ばしてから。
 それでもなと襲いかかるナイフをサーベルで弾き飛ばすと。
 マコトはそのまま倒れ込み、宙を舞うそのナイフを思わず見たサハラの。
 その一瞬の、注意の外から。
 ——すでに縄を切っていた、シルヴィカが現れ。
「なっ⁉︎」と言うサハラの。
 あごを思いっきり、シルヴィカはナイフの柄で殴打し。
 ゴッ、という重い音が鳴った。
 サハラはぐるりと白目を剥き、ふらふらと姿勢を崩したあと。
 やがて、ドサッと大きな音を立てて、床に倒れ込む。
 シルヴィカは倒れたサハラを、しばらくじっと見つめ、目を伏せてから。
 廃屋の中を探し回ると、ボロ布や縄をサハラのもとへ持ってきて。
 彼女を拘束し、舌を噛まないように口も布で封じておき。
 シルヴィカは拘束の済んだサハラを、部屋の隅へ引き動かすと。
「そうだ、マコトさん……っ」
 とマコトのほうへ駆け寄った。
 マコトの息は浅くて、肌の上には大量の汗。
 本人は意識がないのか、何やらうわ言を言っていて。
 脇腹にできた刺し傷から、滲み出るように赤色が漏れ出ており。
 その傷口を見るなり、シルヴィカは小さく「ひっ」と言った。
 口元を覆いそうになった手を、無理矢理押さえ込みながら。
 ペンダントを握り込み、何度か深呼吸をしようとするが。
 鼓動は不定期になっていき、息もどんどん乱れていく。
 額に滲んだ脂汗を、シルヴィカは手の甲で拭うと。
 ふらついて倒れそうになり、ついた手から崩れ落ちて。
 シルヴィカは這うように移動をしてから。
 自分のカバンを漁ると。
 使い捨ての手袋をはめて。
 糸や針を取り出すが、いくつかが地面に散らばった。
 危うい手つきで針を持ち、震えながら糸を通すが。
 呼吸をしているはずなのに、無呼吸感が止まらなくて。
 息の詰まるようなその感覚に、ますます脈はばらけだした。
 シルヴィカはマコトの腹をまさぐり。
 出血部位を確かめるが、飛び跳ねそうな心臓が。
 ぐらつく視界や平衡感覚に、呼応するように暴れた。
 頭の中ではっきりと、あの日の暗闇が広がって。
 母の腫れた顔だとか、真っ白な父の顔だとか。
 だらりと垂れた腕だとか、そんなものばかり浮かんできて。
 やりたくない。
 失敗したくない。
 また失いたくない。
 そんな彼女自身の声が、頭の中を反響する。
 シルヴィカはその声を押し殺すように、目をギュッとつむると。
 ——自分の頬を、殴って。
 内に響くような痛みに悶絶しながら、すぐに顔を上げた。
 時間がない。
 迷うな。
 私しかいない。
 私しかやれない。
 もう、取りこぼせないなら。
 取りこぼしたくないなら。
 後悔したくないなら。
 ——今、やるしかないんだ。
 自分に言い聞かせながら。
 嘔吐感を堪えて。
 歯を強く噛み締めて。
 ぎこちない手つきながらに。
 シルヴィカは縫合を、少しずつ進めていく。
 息すら全然できず、イヤな汗だって止まらない。
 ずっと頭の中で、小さな女の子の泣く声も聞こえて。
 今にも崩れそうな、最悪な気分だったが。
 それでも、それでも——
 * * * * *
 マコトがふと目を覚ますと、窓から光が差していて。
 ガンガンする頭を押さえつつ。
 しばらくぼんやり頭を巡らせて。
 記憶が鮮明になってくるなり。
「シルヴィ——ゔっ、痛ってぇ……っ」
 なんて洩らしたマコトは。
 脇腹の内からの痛みが、ズッと走って。
 思わずもがきそうになるが。
 そのとき感じたひざの重みが。
 彼の視線を、自然と下へ向けた。
 彼のひざの上には、上質なミルクティーのような、亜麻色の髪が広がっていて。
 その髪を辿ると、持ち主の少女が静かに寝息を立てていた。
 血まみれの手袋をはめたままで、糸や針も握ったまま。
 そんな状態で、目を閉じているその少女は。
 まるで憑き物の落ちたような。
 親元にいる子どものような、安らかな表情をしていて。
 彼女のそんな表情に、マコトは昨晩起きたことを理解する。
 少女の頭を優しく撫でると。
 やわらかな亜麻色がくしゃりとなって。
 少女の長いまつ毛から、小さなしずくが落ちていき。
 そのしずくは、やがてペンダントの上で弾け。
 窓から差し込んだ細い光を、白く、淡く、反射させていた。
「……ありがとな」
 マコトはそっと呟いて。
 しばらくシルヴィカの頭を撫でていると。
 やがて「うっ……ん」と洩らしたシルヴィカは。
 よろよろとした頼りない動きで。
 上体を腕で支えながらに、起こすと。
「マコトさん……?」と、ぼんやりとした顔で首をかしげる。
 シルヴィカのそんな表情に、マコトは微笑んで返すと。
 寝ぐせもたくさんついたその少女は。
 にへらと笑みを浮かべながら。
 やがて、マコトに対して。
「やりました」と言った。
 * * * * *
 それからすぐに、自警団へサハラを連れて行ったシルヴィカたちは。
 何やら複雑そうな、戸惑ってそうな、そんな彼らに事情を説明し。
 やがて被害者の息子からの証言により、サハラへの疑いが深くなると。
「ご協力、感謝します」
 という定型文が返ってきて、二人は彼らの詰め所を離れた。
「あの子、ちゃんとやれるでしょうか……」
「それはあの子次第だろうよ」
「……あと、痛み止め切れる前にちゃんと薬屋行ってくださいね?」
「ぜ、善処はするよ……」
 そんな言葉を交わしながら、街を歩む二人は。
 やがて街の入り口に向かうと、馬車の乗り場へ向かい。
 そこで再会した昨日の御者と、くだらない話をしてから。
 馬車にシルヴィカだけが、乗り込んだ。
 車内の窓からシルヴィカは、外の様子を見守ると。
 マコトは御者に、無縁墓について訊いて。
「多分そこだな」と洩らしてから。
 彼はシルヴィカに軽く手を振りながら。
「頑張れよ」と、言っていた。
 本人いわく、マコトの両親はこの地方で亡くなったそうで。
 再会したときに言っていた『知りたいこと』とは、彼の両親についてだったそうだ。
「マコトさんこそ、お大事に」
 シルヴィカのそんな言葉に、マコトは頭を掻きながら。
「なんか、すげぇデジャヴだな……」と言っていて。
 それに対するシルヴィカの笑い声とともに。
 馬車はゆっくりと、発車していく。
 ガタガタと揺れる車内で、ふと思い至ったので。
 流れる風景の先で徐々に小さくなる街を。
 シルヴィカはしばらく、眺めていて。
 やがて流れてきた、点のような廃屋たちが目に入ると。
 すぐに座り直して、視線は車内へと向いた。
 車内へ差し込んだ光はまるでシルヴィカを型取りしたように。
 黄色い光に包まれた、そんな影が奥へ伸びていて。
 シルヴィカは背中に熱を感じながら、静かに目を閉じ。
 しばらく、馬車の揺れに身を任せた。