第29話 そして、夜は続いていく
ー/ー春の夜だった。
恵比寿の街には、少しだけ暖かい風が流れている。
駅前の人の流れは、相変わらず忙しい。
仕事帰りの人。
友人同士で笑う人。
タクシーを待つ人。
街はいつも通りだった。
美奈子はゆっくり歩いている。
ななしへ向かう道。
この道は、もう何度も歩いた。
でも、少しだけ違う。
前より、少し軽い足取りだった。
店の前で立ち止まる。
木の引き戸。
最初にこの扉を開けた夜のことを、美奈子はふと思い出した。
ただのバーだった。
ただ、静かに酒を飲む場所だった。
でも、いつの間にかここは
人生が少し変わる場所
になっていた。
美奈子は扉を開ける。
「いらっしゃい」
マスターの声。
店の空気は変わっていない。
低い照明。
静かな音楽。
グラスの小さな音。
そして、カウンター。
園田がいた。
グラスを持っている。
美奈子に気づくと、いつものように少しだけ笑う。
「こんばんは」
「こんばんは」
美奈子は隣に座る。
マスターが氷を落とす。
カラン。
その音は、相変わらず静かだった。
「最近」
園田が言う。
「仕事、忙しいですか?」
「少しだけ」
美奈子はグラスを持つ。
酒を一口飲む。
冷たい。
でも胸の奥は温かい。
数ヶ月前。
ここで、いろいろな夜があった。
迷った夜。
苦しかった夜。
決断した夜。
全部が、この店に残っている気がする。
園田が言う。
「そういえば」
美奈子が顔を上げる。
「橘さん、この前来てましたよ」
美奈子は少し驚く。
「本当?」
園田は頷く。
「元気そうでした」
その言葉を聞いて、美奈子は小さく息を吐く。
胸の奥に、少しだけ安心が広がる。
恋は終わることもある。
でも、人との時間が消えるわけじゃない。
それぞれの夜が、ただ別の道へ進んでいくだけだ。
美奈子はグラスを見つめる。
氷が小さく鳴る。
カラン。
その音を聞きながら思う。
もしあの夜、この店に来ていなかったら。
もし園田と出会っていなかったら。
きっと違う人生だった。
でも。
美奈子は園田を見る。
園田もグラスを持っている。
少しだけ目が合う。
園田は小さく笑う。
美奈子も笑う。
それだけで十分だった。
恋というものは、
大きな出来事から始まるとは限らない。
ただ同じ店で、
同じ夜を過ごして、
同じ時間を重ねる。
それだけで、人生が少し変わることがある。
ななしの夜は、今日も静かだった。
グラスの音。
低い音楽。
そして二人の時間。
夜は続いていく。
そして美奈子は、ふと思う。
あの夜のことを。
最初にこの店で、園田と出会った夜。
そのときの気持ちを。
心の中で、そっとつぶやく。
あなたに、会えてよかった。
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