表示設定
表示設定
目次 目次




後編

ー/ー



川沿いの公園に来たとき、ベンチに上着が一枚、置いてあった。見覚えがあった。

よく知っている人の、よく知っている上着だった。色も、ほつれた袖口も、右ポケットの膨らみ方も。

でも、誰のものか思い出せなかった。

名前が、するりと抜けていった。

わたしはしばらく、その上着の前に立っていた。持ち主のぬくもりが、もうそこにはなかった。

風が吹いて、袖がわずかに揺れた。

まるで、さようならを言うように。

夜、家に帰ると、家族の写真が飾ってあった。わたしの両脇に、誰かが写っていた。

笑っていた。肩が触れ合うくらいの距離で、確かに、わたしと一緒に笑っていた。

でも、顔が見えなかった。

ぼやけているのではなく、見ようとすると、視線が滑った。

愛していた顔のはずなのに、焦点が合わなかった。

鏡を見た。わたしがいた。

確かに、いた。輪郭も、目も、口も。

でもそれが自分だと、どこか遠くから確認しているようだった。

日記を開いた。今日消えた人を書こうとして、ペンが止まった。

 名前が、思い出せなかった。

 一人も。

 書けないまま、ページを眺めた。

白かった。最初から、何も書いていないように、白かった。

わたしはいつから、ここに座っているのだろう。いつから、この家にいるのだろう。

窓の外を見た。知っているはずの景色なのに、見たことのない場所のように見えた。

 街灯が一つ、灯っていた。

その下に、誰かいる気がした。見ると、誰もいなかった。


でも確かに、誰かがいた気がした。消える前の名残のように、空気がわずかに濃かった。

その濃さが、少しずつ薄れていくのを、わたしは黙って見ていた


悲しいとも思わなかった。ただ、そうか、と思った。そういうことか、と。

 わたしは気づいた。

 最後に残ったのが、わたし。

 でも、それはきっと――

 残されたのではなく。

 まだ、消えている途中なのだと。

 思い返せば、誰かと話した記憶が、もうなかった。声を出したのはいつだろう。

笑ったのはいつだろう。

誰かの名前を、声に出して呼んだのはいつだろう。


わたしはずっと、走って、眺めて、書こうとして、それだけだった。 


誰かに触れていなかった。

誰かに触れられていなかった。


もしかしたら、最初に消えたのはわたしで、ただそれに気づくのが、一番最後だっただけかもしれなかった。


 日記の最後のページに、一文字だけ書こうとした。

 せめて、わたしという字を。

 ペンを走らせた。

 インクは、出なかった。

 手を見た。

 ペンを持っているはずの、指が――




ー了ー





スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



川沿いの公園に来たとき、ベンチに上着が一枚、置いてあった。見覚えがあった。
よく知っている人の、よく知っている上着だった。色も、ほつれた袖口も、右ポケットの膨らみ方も。
でも、誰のものか思い出せなかった。
名前が、するりと抜けていった。
わたしはしばらく、その上着の前に立っていた。持ち主のぬくもりが、もうそこにはなかった。
風が吹いて、袖がわずかに揺れた。
まるで、さようならを言うように。
夜、家に帰ると、家族の写真が飾ってあった。わたしの両脇に、誰かが写っていた。
笑っていた。肩が触れ合うくらいの距離で、確かに、わたしと一緒に笑っていた。
でも、顔が見えなかった。
ぼやけているのではなく、見ようとすると、視線が滑った。
愛していた顔のはずなのに、焦点が合わなかった。
鏡を見た。わたしがいた。
確かに、いた。輪郭も、目も、口も。
でもそれが自分だと、どこか遠くから確認しているようだった。
日記を開いた。今日消えた人を書こうとして、ペンが止まった。
 名前が、思い出せなかった。
 一人も。
 書けないまま、ページを眺めた。
白かった。最初から、何も書いていないように、白かった。
わたしはいつから、ここに座っているのだろう。いつから、この家にいるのだろう。
窓の外を見た。知っているはずの景色なのに、見たことのない場所のように見えた。
 街灯が一つ、灯っていた。
その下に、誰かいる気がした。見ると、誰もいなかった。
でも確かに、誰かがいた気がした。消える前の名残のように、空気がわずかに濃かった。
その濃さが、少しずつ薄れていくのを、わたしは黙って見ていた
悲しいとも思わなかった。ただ、そうか、と思った。そういうことか、と。
 わたしは気づいた。
 最後に残ったのが、わたし。
 でも、それはきっと――
 残されたのではなく。
 まだ、消えている途中なのだと。
 思い返せば、誰かと話した記憶が、もうなかった。声を出したのはいつだろう。
笑ったのはいつだろう。
誰かの名前を、声に出して呼んだのはいつだろう。
わたしはずっと、走って、眺めて、書こうとして、それだけだった。 
誰かに触れていなかった。
誰かに触れられていなかった。
もしかしたら、最初に消えたのはわたしで、ただそれに気づくのが、一番最後だっただけかもしれなかった。
 日記の最後のページに、一文字だけ書こうとした。
 せめて、わたしという字を。
 ペンを走らせた。
 インクは、出なかった。
 手を見た。
 ペンを持っているはずの、指が――
ー了ー