前編
ー/ー 最初に消えたのは、パン屋の田中さんだった。
朝、いつものようにシャッターの開く音を待っていた。あの音が好きだった。
金属が地面に落ち着く、少し重たい音。
それが一日の始まりの合図だった。
七時になっても、八時になっても、音は来なかった。ガラス越しに覗くと、昨日焼いたらしいパンが、ショーケースの中でひっそりと並んでいた。
クリームパン、あんぱん、バゲット。
食べられることも、売られることも、誰かに選ばれることも、もう二度とないとも知らずに、柔らかな形のまま、そこにいた。
次は、向かいの薬局の老夫婦。
それから、小学校の教師が三人まとめて。
郵便配達員、交番の巡査、駅の窓口のお姉さん。
消えた、という言葉を使っているが、正確ではない。姿が見えなくなった、のではない。
ただ――いなくなった。痕跡ごと。
写真の中からも、記憶の端からも、名前を呼ぼうとする口の形からも、少しずつ、水が砂に染み込むように。
わたしは日記をつけ始めた。
消えた人の名前を、毎晩、丁寧に書き留めた。
書かなければ、忘れてしまう気がした。
その人たちが確かにここにいたことを、誰かが覚えていなければならない気がした。
だからわたしは書いた。翌朝ページを開くと、インクは滲み、名前だけが白く抜けていた。まるで紙自体が、覚えることを拒んでいるように。
町は静かだった。不気味なほど、美しいほど。風が電線を鳴らし、誰もいないコンビニの自動ドアが、わたしを感知して開いた。
いらっしゃいませ、という録音された声が、空洞のような店内に響いた。
明る過ぎる蛍光灯の下、棚の商品は整然と並んでいた。
誰かがいなくなっても、値札は変わらず、陳列は乱れず、世界だけが粛々と続いていた。
賞味期限の切れる日まで、きっとそこにいる。それだけが、彼らの墓標だった。
スマートフォンをタップする。連絡先の欄が、日ごとに減っていった。アイコンだけが残り、名前が消え、やがてアイコンも灰色になり、消えた。
指でスクロールするたびに、また一人、また一人。最後に残ったのは、母の番号だった。
かけてみると、三回コールして、繋がらなかった。もう一度かけると、二回。翌日かけると、一回。
わたしは走った。誰かを探して、町じゅうを走った。足音だけが、アスファルトの上で鳴った。
自分の足音が、こんなに大きかったか、と思った。
いつもは、誰かの声や、車の音や、遠くの犬の鳴き声に紛れていたはずなのに。
交差点の信号が、赤から青へ、青から赤へ、誰のためでもなく変わり続けていた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。