五話:消えゆく人へ
ー/ー桜織市の夜は、古い街並みに似合わず街灯がきらびやかに灯っている。
病院の自動ドアを抜けた途端、先程の幽霊との遭遇で張り詰めていた神経が一気に緩んだ。精神的な疲労が、足首に錘を括りつけたように重く絡みつく。
溜息を一つ吐きながら、悠斗は重い足を自宅へ向けた。
やがて、自宅にたどり着いた悠斗は、玄関のドアを開ける。誰もいない家に、春の夜の少しだけ冷たい空気が寂しく流れ込んできた。
軋む階段を上がり、自室のベッドに倒れ込む。
「……僕は。なにしてるんだろうな」
誰にともなく、声が漏れた。窓の外では街灯が冷たく点滅している。部屋の隅には影が溜まり、壁に映る自分の影さえも、今は他人のように思えた。
悠斗はひとりごちる。今、自分を構成しているのは、霊への恐怖だと自覚する度に、自分に嫌気がさす。あの頃の母の背中を、あの優しい言葉を、こんなふうに背いていいはずがない。
母がああならなければ、今とは別の道があったのかもしれない。もっと強くなれたかもしれない。
そんな、実際に現実に起こりえなかった妄想を考えない日は、悠斗になかった。それは呪いのように、毎晩繰り返される独白だった。
そう考えているうちに、瞼が重くなっていく。
──水面に落ちた雫が波紋を広げるように、遠い日の記憶が浮かび上がってきた。
──────────
今からちょうど十年前、悠斗がまだ七つだった、春の夜のこと。
廃れた神社へ続く長い石段を、母が悠斗の小さな手を引いて登っていた。月明かりに照らされた苔むした石畳の上を、悠斗は母のすぐ隣で、小さな歩幅で懸命についていく。
母の横顔は、どこまでも穏やかだった。
「悠斗、霊というのはね、本当はそんなに怖がるものじゃないのよ」
朱塗りの鳥居をくぐったところで、母がふと足を止めた。悠斗の目線に合わせるようにしゃがみ込み、微笑む。
そう──悠斗には、普通の人には見えないはずの霊的な存在が”視えてしまう”。
「ただね、あの人たちは、道に迷って、さまよってるだけなの」
「たくさんの悲しみや後悔を抱えたまま、自分がどこへ行けばいいのか分からなくなってしまった人たちなんだよ」
子守唄のような声が、静かな夜に溶けていく。悠斗はその横顔をじっと見つめた。言葉の意味はまだよく分からなかったけれど、胸の奥がふわりと温かくなったことだけは、今もはっきりと覚えている。
「ほら、悠斗。あそこを、よぉく見てごらん」
母の視線が、境内のはずれにある古い灯篭の陰を指した。
そこに──陽炎のように揺らめく人影が、一つ。
腰の曲がった老人だった。優しい目をしているのに、どこか寂しげで、心細そうに、ぽつんと立っている。その輪郭は春の夜霧のように淡く、現実から半歩だけ遠い存在であることを告げていた。
「悠斗、怖がらないで。……しっかり見ていてね」
母はそう言い残すと、老人の元へ歩いていった。膝をつき、そっと霊と視線を合わせる。
「……初めまして。夜分に申し訳ありません。何か、お困りのことでもおありですか?」
夜の静寂に溶け込むような声でありながら、不思議なほどはっきりと、温かく、相手へ届いていた。
老人の霊がゆっくりと振り返る。その瞳に、深い戸惑いと、かすかな驚きが浮かんだ。
『……おお……おお……。あんたには……儂の姿が、視えているのかね……?』
掠れた声が、冷えた夜気の中へ消えていく。
「ええ、はっきりと。あなたの声も聞こえていますよ」
母の微笑みには、何十年も会っていなかった旧い友へ向けるような、深い慈しみがあった。その眼差しに触れた途端、老人の強張っていた肩から力が抜ける。
『……このまま、儂は消えてしまうんじゃろうか。そう思うと……怖くて怖くて、仕方ないんじゃ……』
震える声。拭いきれない不安が、その瞳ににじんでいる。
『最近……少しずつ、自分の意識が薄れてきてのぉ……まるで霞みたいに、なってしまって……』
風が境内を吹き抜けた。桜の枝が揺れ、夜目にも白い花びらが数枚、はらりと舞い落ちる。
『儂は、一体どうなってしまうんじゃ……。このまま、何もかも消えてしまうのか……?』
すがるような目が、母を見つめていた。母はその不安を受け止めるように、静かに首を横に振る。
「大丈夫ですよ。たとえ記憶が薄れて、今のあなたの形が失われたとしても……」
「あなたの魂そのものが、なくなるわけではありませんから」
『儂の……魂?』
「はい。この世の全ての魂は、巡り巡って、いつかまた新しい命として《生まれ変わる》のです。だから、何も恐れることはありませんよ」
春の陽だまりを運ぶ風のような声だった。凍てついた老人の心へそっと触れ、少しずつ、ほどいていく。苦悶に歪んでいた表情が、わずかに和らいだ。
『そうか……そうなのか。また、儂も……生まれ変われるのか……』
「ええ、ですから、どうぞ安心なさってくださいね」
母がそう告げた瞬間、老人の輪郭がさらに淡く揺らいだ。月光に溶け込むように、不安を手放すように。
『……あぁ、ありがとう、お嬢さん。なんだか、心が……すうっと、軽くなったよ……』
その姿が、夜空の星々へ吸い込まれるように薄れていく。
「どうか、安らかに。次の人生も、幸多きものでありますように」
母が胸の前で手を合わせ、深く頭を垂れた。
光の中へ消えゆく間際、老人はふっと悠斗のほうを見た。
『坊やも……お母さんのこと、しっかり守るんじゃぞ。達者でな……』
触れたかどうかも分からないほど優しい手が、悠斗の頭をそっと撫でた。
「……うん」
春の夜風がもう一度、強く吹き抜ける。老人の淡い影は、静かに夜の闇へと消えていった。
境内には、深く、どこまでも優しい沈黙だけが残されている。
母が静かに立ち上がり、悠斗の手を再びぎゅっと握った。
「ね? 怖くなかったでしょう?」
「うん」
「じゃあ、お家に帰ろうか」
悠斗は、その手を今度は自分のほうから、力いっぱい握り返した。
──だが、この時の悠斗はまだ、何も知らなかった。この夜の温かくも切ない記憶が、やがて自分の運命を大きく左右する、一つの鍵になることなど。
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