四話:影が這う道
ー/ー母が入院している総合病院へ向かう道すがら、美琴と話し込んだぶん、あたりはすっかり薄暗くなっていた。古い街灯が頼りなげに明滅を繰り返し、アスファルトの上で光と影がちらちらと踊っている。
そのときだった。
——ひやり。
氷の刃のような冷気が、不意に悠斗の頬をなぞった。
数本先の電柱の根元から、何かが這い出してくるのが見えた。アスファルトの染みのように黒く、ぐにゃりと歪んだそれは、生き物のようにのたうちながら、ゆらり、ゆらりと揺らめいている。
影が——急速に、人の形を帯びはじめた。
足が生え、腕が伸び、やがて中学生くらいの男の子の輪郭に変わる。だがその動きは不自然で、壊れた映写機のフィルムのようにカクカクと途切れていた。
全身の血の気が、音を立てて引いていく。心臓が喉の奥まで跳ね上がり、呼吸がうまくできない。
(っ……まずい——)
悠斗の脳裏に、数日前の朝のニュースが鮮明に蘇った。この近くで、トラックにはねられて少年が亡くなった——と。
電柱の根元に、誰かが供えたのだろう、萎れかかった小さな花束がひっそりと揺れている。その花弁は不気味に黒ずんでいて、闇に沈みかけた路上で唯一、死の匂いを放っていた。
何も視えていない——その一点だけを、必死に演じる。息を殺し、視線を前方に固定し、足だけを動かし続けた。
しかし。
細い腕が、悠斗の手首を掴んだ。
冷たい。冷たいなどという言葉では足りない。骨の髄まで凍りつくような、氷水を血管に注ぎ込まれたような感覚。食い込む指はぬるりと湿っていて、生暖かい液体が悠斗の腕を伝い、ゆっくりと垂れ落ちていく。
息が、喉の奥で凍った。
恐る恐る振り返ると——頭から赤黒い血を流し続ける少年が、そこにいた。虚ろな瞳が悠斗を恨めしげに捉え、青白い顔の口元だけが不自然に歪んでいる。何かを言おうとしていた。
『——お兄ちゃん……僕のこと……“視えてる”んでしょ……?』
深い井戸の底から響くような声だった。低く沈み、冷たく、重い。一語一語が錆びた釘のように鼓膜を刺す。少年の口元から、生々しい血の匂いが漂ってきた。
「うわああああっ!!」
悠斗は恐怖のままに悲鳴を上げ、尻もちをついた。
『なんで…視えないふりを……!!』
少年が、見下ろしてくる。壊れた人形のようにカクカクと身体を軋ませながら、一歩、また一歩——這うように迫ってくる。
『なんで……なんで……僕を……』
掠れた声が、耳朶を打つ。
(やばい、やばい、やばい……!)
悠斗は目を固く瞑った。心臓が破裂しそうなほど激しく打ち、全身が震えて止まらない。冷や汗が額を伝い、シャツの背中がびっしょりと肌に張りついていく。
少年の気配が、すぐ目の前にまで迫っていた。
「どうした!? 大丈夫か!?」
背後から、駆け寄る足音。四十代ほどのランニング中の男性が、息を切らしながら近づいてきた。
(っ……! 誰か来てくれた……!)
悠斗は震える声を無理やり押さえ込み答える。
「す、すみません……! なんでもないです、転んでしまって……」
「おいおい、転んだって……心臓に悪いな、脅かすなよ……」
男性はそう言いながらも手を差し伸べてくれた。
「立てるか?」
「ありがとうございます……」
「この辺りは暗いからな。足元に気をつけて帰るんだぞ!」
男性はすぐに夜道の向こうへ去っていった。
(あの人が来てくれたおかげで、一瞬——気配が消えた……! 今のうちに——)
悠斗は震える脚で立ち上がり、一刻も早くその場を離れようとする。
——だが。
背筋を這い上がる悪寒が、全身を貫いた。
(……まだいる)
振り返らなくてもわかる。あの電柱の深い陰から、少年がまだ悠斗のことを、じっとりと見つめている。その視線が、背中の肌を焼くように熱い。
悠斗は振り返らなかった。ただ無我夢中で、夜の道を駆け出した。
。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸
──病室。
窓から差し込む月の光が、母の横たわるベッドを淡く照らしていた。風がカーテンの裾を揺らすたび、壁には光と影が溶け合う模様が現れては消えていく。
悠斗はベッドのそばのパイプ椅子に、いつものように腰を下ろした。
「……来たよ、母さん」
誰に聞かせるつもりもない。ただそう口にしないと、この部屋に足を踏み入れた気がしなかった。ベッドから投げ出されたままの母の手を、両手でそっと包む。指先に伝わる温もりだけが、遥がまだここにいると教えてくれる唯一のものだった。
悠斗の母──遥。彼女はもう十年、意識が戻っていない。
病衣に包まれた身体は、見舞いに来るたびに少しずつ細くなっている。そのことに気づくまいとしても、握った手の頼りなさが、否応なく現実を突きつけてくる。
それでも、穏やかに上下する胸元と、安らかな寝顔だけは変わらない。まるで遠い場所で、美しい夢でも見ているかのように。
──それは悠斗がまだ幼い頃の、出来事だった。
生まれつきの霊感に怯えてばかりいた幼い悠斗に、母が「道」を教えてくれた夜。あの時、親子は”何か”に襲われた──悠斗はそう感じている。
正確には、記憶そのものが濃い霧の奥に沈んでいて、どうしても掴み取れない。思い出そうとするたびに、全身の肌が粟立ち、心臓を氷水で握り潰されるような痛みが走って、思考がそこで強制的に途切れてしまう。
それでも、二人を襲ったのがこの世ならざる霊的な存在だったということだけは、今なお確信を持って覚えていた。
父は、母の高額な入院費を稼ぐために、遠い土地で身を粉にして働いている。そのおかげで母はこうして、かろうじて──”生きていられる”。
静まり返った病室に、時間だけが残酷なほどゆっくりと流れていく。
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