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2章4話「買いは身まで、売りは命まで」

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2章4話「買いは身まで、売りは命まで」
(2-4)

 がたり、ごとり、ごとん、ごとん。
 徐々に速度を上げて快速列車は走り出す。

 赤羽を過ぎて各駅停車が終わり、後は幾つかの駅を得て目的の駅までを過ごすだけだった。
 久し振りに乗る電車の窓から見える景色は、次々と流れ去ってゆく。大きな建物群は都心を抜けると減ってゆき、今は住宅街だけで特に面白いものは無かった。上を見れば空は抜けるような青空である。
 続いて陸は、電車の中に視線を移した。8月のなので親子連れの姿や、私服ながらも子供の姿が随分と多い。自分達は別に座らなくてもいいと思い、ホーム側とは反対のドア前に立っていた。
 乗換駅の赤羽で一気に乗客が増え、狭くなってしまった中で横に立つ凪と明弘を眺める。
 陸は凪の普段着の中から借りた、比較的まともなTシャツとカーゴパンツを履いていた。凪は先日見たスーツ姿。そしてもう一人、明弘は随分と酷い格好だった。オレンジの生地に、何故か黒猫の顔だけ並んだアロハシャツにサングラス。余りにも系統が違う3人が固まって電車内で立っている姿に、時折感じる他の乗客からの視線が気まずい。

「なぁ、ナギ」
「なに?」
「情報屋っていうから、車使うのかと思ってたけど。オマエは下っ端で車ねーのな」
 明弘はドアに寄りかかって、痛そうに頭を抑えている。二日酔いとのことで、彼は合流した時からずっとこの調子だった。
「運転は出来るけど、今日はココさんと拓海さんが車を使ってるし」
 一方の凪は涼しい顔で返している。
「というか、どうして明弘さんは付いてきたの?」
「オマエを信用してないから」
「そう」
 顔色を隠すためにサングラスをしているのだろうが、今の明弘は噛み付く勢いで凪を睨んでいるのだろう。つい先日まで何年も会わなかったし、言葉も交わしていなかった。それでも彼は昔と全く変わっていないと、明弘を見て妙な安堵を覚えた。
 陸は自分の母親の事を良く知らない。物心ついた時から、明弘の母親に面倒を見てもらっていた。だが自分達が5歳の時、彼女が働いていたメンズエステが摘発され、台湾へと強制送還させられた。その後陸と明弘は台湾系コミュニティの元で面倒を見てもらっていたが、揃って潘に引き取られたのだ。

 陸はもう一度、電車の窓から外を見る。
 夏の青空と大きな雲を眺めている横で、座席に座る子供と母親が自由研究の話をしている声がやけに耳障りに聞こえた。



 目的の駅へ到着した後は、20分ほど歩くだけらしかった。うだるような暑さに加えて、アスファルトからの照り返し。午前中だというのに酷く暑く、駅を出てから陸達とずっと並んでいる車道からも陽炎が揺らめいていた。

「じゃあ設定を話すよ」
「設定?」
 車道から逸れ、住宅地の中へと入ったところで凪が少し歩みを緩めた。「うん」と頷いた凪が、明弘と陸に説明を始める。
「俺はフリーのライター、君らは彼のネトゲ友達。そのままだけど、一応確認としてね」
「おう、わかった」
「昨日、俺は早坂さんと君達に独自のネタで取材をする予定だった。でも早坂さんが来なかったから、電話をした。そういう筋書きで父親とアポを取った」
「そうだったんですね」
「うん。明日の通夜には参加できないけど、君も連れて弔問をしたいと言ったんだ。だから今日少しだけなら、都合をつけてくれるって」
 スマートフォンを取り出し、地図をチェックした後で凪は「あそこの角を曲がった先」と、告げた。彼は汗を軽くハンカチで拭う。
「それともう一つ、陸さんに確認」
「何ですか?」
「早坂さん、5年前にバイトテロを起こした人って知ってたよね?」
「……はい」
 続いて「どうして凪さんがそれを知ってるんですか?」と尋ねる前。凪が「“早坂 誠”って名前を検索したら、簡単に出るからね」と、こちらの胸中を見抜くかのように、サラリと言った。そして凪は脱いでいたスーツに再び腕を通す。
「余計なことは話さないで、君達二人に頼みたいのはそれだけだから」
「じゃあ陸は何しにきたんだ?」
「そればかりは、陸さん本人も行ってみないと分からないと思うよ」
 凪の言葉の後で、明弘が陸を見る。だが陸は、彼の視線に含まれた質問の答えを持ち合わせていなかった。



「この度はお忙しい中、わざわざお時間を割いて下さり感謝いたします」
 背筋を伸ばし、正座をしている凪が礼をする。そんな彼を見て、陸も慌てて頭を下げた。
「私はフリーライターの那緒(ナオ)と申します」
 名刺を差し出し名乗りを聞く限り、縦井という名はやはり明かさないようだ。
「この度は御愁傷様です」
 もう一度、凪が頭を下げるので陸も下げる。全く礼儀など分からないので、彼の動きを真似るのが精一杯となる。続いて「御霊前にお供えください」と、凪は香典を渡していた。

 陸は自分と凪の前に座る、早坂誠の父親を眺める。多分拓海や潘とさほど歳は変わらないのだろうが、随分とやつれた様子で髪の半分以上が白く染まっていた。
 早坂家は小さなクリーニング屋を営んでおり、陸達が案内されたのは作業場を通った奥である。小さなドアを通ると直ぐに見えた、居住スペースの小さな居間だ。
 畳を伝うわずかな振動は、作業場で稼働する機械の音である。明弘はここに来るまでの短い間で、すっかり作業場の様子に目を奪われたらしい。「オレ、ここで待つ」と告げて、従業員に話し掛けていた。
 偽造技術は肌に合わなかったらしいが、明弘も元々手先が器用だ。昔から機械いじりが好なのは陸も知っていた。なので業務用の機械が珍しく、興味を引いたのだろう。

「あの、ナオさん」
 一通り挨拶を終えた後で、早坂は恐る恐るといった様子で話を切り出した。息子を亡くしたばかりで無理は無いが、それでも随分と弱々しい態度である。
「大丈夫です。昨日お話させていただいた通り、本日は弔問でお邪魔させていたしました。取材でも炎上の件でもありません」
 凪の言葉を聞いて、早坂は安堵する様子を見せた。陸はそこでフリーライターという凪の肩書に、相手が必要以上の怯えを見せていたのだと知る。
「すみません、どうしても過剰になってしまうもので」
 慣れているのか「大丈夫です、分かっております」と、やんわりと凪は告げていた。

「電話で話した時には分かりませんでしたが、随分とお若いんですね」
「良く言われます」
「誠と同じくらいですか?」
「はい」
「誠は……本当にどうしようもない、息子でした」
 ぽつりと漏らした早坂の言葉からは、僅かな怒りが滲み出していた。
「少し考えれば分かるような事をやらかして、世間様の顰蹙を買って。高校も中退、就職もできず、ウチに降り掛かったのは巨額の賠償金だけ。毎日こっちが資金繰りに追い立てられる中、アイツは引き籠もってゲームばかり……」
 徐々に言葉に熱が籠もり、彼は早口になってゆく。薬液で汚れ、皺になった作業着の裾を掴む手は震えていた。
「挙句の果てに、酒をしこたま飲んで公園で行き倒れだ。親不孝にも程がある」
「これまでも含め、心中お察し致します」
 対する凪は、優しい調子で早坂に言葉を返していた。幾ら父親といえども、死んだ息子に対して酷い言い様だとは思うが。凪と「余計な事は言わない」と約束した手前、陸は黙って俯いた。陽に焼けたり擦れて剥がれた、畳の目をじっと静かに見つめる。
「……誠は君と、何が違ったのだろうな?」
 言葉を終える前に呟いた早坂の問いに、凪が答えることは無かった。

 暫くの沈黙を経て、凪は別の言葉を口にする。
「早坂さん。本日俺が訪れた目的をお話します」
「目的?」
「お悔やみは勿論なのですが。取材以外の目的としては、単に自分の知的好奇心を満たすためです」
「知的好奇心?」
 語尾を上げ、意味がわからないと示した早坂に「はい」と凪は頷く。そこから先の口調は陸もよく知る、淡々とした感情を乗せない口調であった。
「俺はライターとして、一般人が軽率に犯罪の片棒を担ぐ現代の闇を追っています。誠さんはその典型例であり、誰もが起こり得る末路を辿った」
「ちょっと!」
 流石に我慢出来ず陸は叫びかけるも、手で遮られた。一旦説明を止めた凪に鋭い目で睨み付けられ、陸は口を(つぐ)んだ。

「隣の彼はですね、誠さんから名義を買ったんですよ」
「……名義?」
「はい、彼の場合は大仰なものでは無く。事情があって作れないネットカフェの会員カードを1万円で作ってもらった、という些細なものです」
 早坂は驚きで僅かに身体を竦めるが、それは陸も同様だった。「陸さん、カード出して」と凪に言われる。わけがわからないまま、陸は財布からネットカフェのカードを2枚取り出していた。凪はそれを受け取り、早坂へと差し出す。カードを受け取った早坂は「確かに、誠の字です」と震える声で答えてカードを返してくれた。
「俺はライターです。取材をする以上は、ネタに見合った謝礼も出します。この彼とはふとしたきっかけで知り合い、彼伝いに誠さんの事を知りました。そして誠さんに取材の交渉をしたら、快く了承してくれたというわけです」

「あの、話が見えないんですが……」
「誠さんは、名義貸しで小遣いを稼いでいました。きっと貴方も警察に聞かれた筈ですよ『ここ最近、何か変わった様子が息子さんにありませんでしたか?』と」
 早坂も陸も、凪が一体何を告げたいのか分からなかった。だが彼の口から出た「警察」という言葉で早坂の表情が強張るのが見えた。
「貴方は『息子は普段通りで、何事も無かった』と返されましたね?」
 凪の指摘が正しいのは、無言を貫く早坂の様子が証明となる。
「それが賢明です。死んだ者の名誉よりも、生きている自分達の生活を優先するのは当然の道理だ。俺がとやかく言う事でもないし、責めることでもありません」
「じゃあ誠は、本当に……」
 早坂から出た弱気な声を聞いて、陸は咄嗟に凪の顔を見た。彼の整った横顔は眉を顰め、子を失った父親の悲しみに寄り添うような哀愁に溢れていた。
「お察しの通り、貴方のお子さんは他にも犯罪行為に加担してました。口座売買、出し子等、主に特殊詐欺関連ですね。俺は彼の口から誠さんの事を聞いて、取材を申し込みました。過去に炎上騒ぎを起こして社会に出れなくなった人間の行く末として、犯罪行為に加担する。よく聞く流れだ。だから直接話しを聞きたいと思って、誠さんにアポを取った。ついでに忠告もするつもりでした。でも俺は、一歩遅かった」

 心愛の言葉が遠慮を知らず躊躇無く放つ銃弾だとすれば、拓海の言葉は機を狙って重く叩き潰してくる鈍器だろう。そして陸の隣に座って哀しむ様子を見せる凪の言葉は、一撃が軽く見えても――刃先に致死の毒を塗った刃物のようなものだ。
「俺は貴方に真実を耳打ちするために、今日は訪れました。それは犯罪に加担した人の末路を知りたいという、知的好奇心のためだけです。隣の彼は世の仕組みを学ばせるために、俺が無理矢理連れてきました。彼も誠さんの死に心を痛めてるのは見た通りですし、先程お渡しした香典。あれは昨日告げた通り、俺からの謝礼分です。少し多めに包ませて貰いました」
 陸の身体は、自分でも知らぬ間に震えていた。相手に考える隙すら与えさせない。軽く柔らかに、凪は上手に人の心を抉ってゆくのだ。黙って彼を眺める早坂の目も、逸らすこと無くじっと真剣に向けられているのが分かる。
「――とはいっても。お約束した通り、今日は取材ではありません。記事には決してしないのでご安心下さい。何なら念書だって書いてもいいです」
 それが天性の才なのか、努力して得たものか陸には判らない。それでも凪の口から飛び出す言葉の殆どは、否定出来無い様に計算し尽くされているのは確かであった。彼が紡ぐ言葉は『正しくもなければ間違いでも無い』だからこそ、幾ら考えても彼を止める言葉が飛び出すことは無い。

「誠さんが犯した犯罪行為についても、俺が独自に調査した結果判明したことです。俺の方から一切口外しないということは、お約束いたします。これも念書に加えますか?」
「いや、結構だ」
 優しい口調で心を抉り、刺してゆく若い青年の言葉。息子を失ったばかりの哀れな父親は、目に涙を浮かべている。陸はただ呆然と、正面に座る早坂が頭を振るのを眺めることしか出来なかった。
「……なぁ、君の御家族は?」
「母は18の時に亡くなりましたが、育ての父がおります」
「なら、私の答えも分かってくれるね」
 最後に早坂が放った言葉は、彼が出来た唯一の抵抗だったのかもしれない。陸にはその諦めたような――或いは全ての出来事に疲れ果て、放棄とも取れる言葉に込められた意味は分からなかった。
 陸は耐えようと黙り俯き、再び傷んだ畳の目を眺める。背後の作業場から休み無く聞こえるプレスの音と、薬液の匂いが僅かに漂ってくる。
 一方の凪は微笑み、優しい声色で「有難うございます」と告げる。そして早坂に向かって、深く頭を下げていた。




 それはクリーニング店を3人が後にしてから、暫くしての事だった。
 駅の近くにあるコンビニ前で凪が「寄っていく?」と軽く陸に尋ねたのが端緒だった。激情を抑え続け無言で歩いていた陸だったが、凪のその一言で陸は完全に自制を失う。

「最低ですね、凪さんって」
「ずっと黙ってた後の第一声がそれ?」
 凪の腕を引っ張りコンビニ前の駐車場、さらにその端の人目に付きにくい場所へと連れて行く。そして胸倉を掴んで放った陸の最初の言葉に、凪は平然とそう答えただけだった。
「ウチの社長が言ってたでしょう? 『情報とハッタリとスマイルで飯を食う』って」
「だからって、お父さんの前で犯罪者扱いの嘘をついてなんとも思わないんですか?」
「へぇ、無知なだけで馬鹿じゃないんだ」
 今まで無言だった陸に対しては弘明も何も追求してこなかった。だが陸が凪の腕を引っ張って奥へと連れて行った事と、加えて告げた「犯罪者」という言葉に反応してか、コンビニへと入らずに眺めている。

「口座売買、出し子なんて嘘だ。きっと早坂さんはそんな経験は無かった」
 初めて自分が会った時に「初めてこういう事をする」と告げていた誠の表情を陸は思い出す。
 それは潘から偽造の発覚を恐れて逃げた後だ。行くあてなどは何も無い、その時たまたま連絡があった誠に「家出した」と陸が話した事が、彼と出会うきっかけになった。
「でも君に、名義は売った。これだって立派な犯罪だよ。君の大好きな正義で言うと、大きいか小さいかじゃない『悪いこと』だよ」
「それでもだ! 亡くなった人なのに、あんなでっち上げを……しかも、悲しむお父さんに言うなんて酷すぎる!」
 更に胸ぐらを掴む陸の力に手が籠もる。暴力を振るう気などは無いが、それでも怒りは収まらない。
「陸さん、俺が今日ここに来た理由はね。ちょっとしたお節介もあった」
「お節介?」
「俺は、早坂さんのお父さんを救いたかった」
「意味が分からないです」
 掴む凪の身体は細くて軽く、陸が少し腕に力を入れるだけで怪我をさせてしまいそうだ。それでも何故か、こちらを見据える凪の目は普段通りのものだった。
「あの人に必要だったのはね。誠さんを失った悲しみを理解することでも、同情でも無い。『息子は死んでも仕方が無いクズだった』っていう事実。そして俺はその裏付けを――あの人が見たかった、誠さんを見せることが出来る立場の人間だった」
「でも、あの人は悲しんでた」
「そうだよ、だから言った」

 あの時に浮かべた父親の表情と、凪と行っていた会話。そして今凪の口から出た『救いたかった』という言葉が、さらに陸の思考を掻き乱す。陸の混乱を見破るかのように、凪は少し上擦った小さな声で「これは俺の憶測だけどさ」と言葉を続ける。
「陸さん、誠さんに自分の仕事を喋った?」
「それは」
「言ったんだね?」
 声が聞き取りづらいのは自分が胸倉を掴んでいるせいだと気付き、陸は僅かに力を緩める。だが手は離さなかった。
「……早坂さんがオレに話してくれたんです。自分は昔、炎上騒動をやらかして後悔してるって」
「その炎上って、結局なんだ?」
「明弘さん、誠さんは昔バイト先でダストの水を絞って、料理に入れる動画を流したんだよ。で、バズって個人情報を全部晒された。良くあるバイトテロの末路だ。クリーニング店、今日も営業してたでしょ? 資金繰りが苦しいんだろうね。誠さんを訴えた飲食店からの賠償関係がまだ残ってるからだよ。だからきっと明日も葬儀の日も、営業を続けるだろうね」
「なんだよそれ、テメェで責任とれよな」
 先程から何一つ事情が分かってない、無神経な明弘の言葉にも陸は苛ついた。
「だから働きたくとも中卒だし、近所では働けないし。改名しても名前を調べられたら、全部経歴が出る。だからマトモなところでは一生働けない、ってあの人は悩んでたんだよ」
 明弘を睨みつけて「お前だって無戸籍で働けないから、何度も盗みを繰り返して半グレだろ」と怒りをぶつけていた。明弘はそれ以上は何も言わず、黙るだけだった。

「過去を無かった事にしたい。ネカフェのカードみたいに、簡単に他人が作った偽の名前を名乗れたらいいのに、って……」
「その言葉に同情しちゃって不可能じゃない、って言ったんだね?」
「……別人として生きる方法は、ゼロじゃないですから」
 別人へと成り済ます方法が、少なからず存在する事を陸は知っている。何よりも潘の仕事で幾つも見てきた。発覚するリスクは方法によって変動するが、決して不可能では無いと誠に告げてしまったのは事実であった。
 しかし凪へと返す答えは違う。「それは関係ないでしょ」と誠が言い放った言葉は、即座に「関係あるよ、多分」と直ぐ様告げられる。
「陸さんが仕事のことを話さなかったら、きっと誠さんは死ななかった」
「デタラメを言わないで下さい!」
「誠さんが死んだって事自体が、デタラメなんだよ。でも彼は死んだ」
 無意識のうちに力が込められていたらしく、小さく凪が咳き込んだ。だが彼は陸を責めず、再び掠れた声で言葉を続ける。
「俺がさっきお父さんについた嘘と、君が誠さんに告げた言葉。両方同じなんだよ。その人が欲しい言葉を俺達は与えた」
 静かに眺める凪の顔には、苦しそうな表情は浮かんではいない。炎天下にも関わらず、涼しい顔にすら見える。今までされるがままだった凪は手を伸ばし、そっと自分の胸倉を掴む陸の手に白い手を重ねてきた。

「楊さんとこもせめて手心を加えたと思うよ。事故死に見せかけたんだから」
 重なる凪の手は汗一つかいていない。それどころか、冷たくすら感じる。さらに凪は煽るように「自殺じゃなかったら、入るでしょう? 保険金」と続ける。
 その言葉は、陸の限界を超えるには充分だった。
 勢い任せに振り上げた陸の手は、凪の顔には届かなかった。腕は宙を切り、代わりに反対側の腕が痛みを訴える。

「充分堪えたみたいだから、今はここで終わらせておくよ」
 口から出た痛みを訴える自分の声で初めて陸は、胸倉を掴んでいた筈の腕が凪によって捻り上げられている事に気付く。
「じゃあ、帰ろっか」
 フッと笑った凪の息と共に、耳元へと届いた言葉の後で陸は痛みから解放された。
「拓海さんと心愛さんが、きっとリナさんの報告を集め終えている」
 歩き始めてしばらくして、凪は振り返える。陸と明弘を見る様子は、普段通りのものだ。
 足を一歩ずつ踏み出すも酷く、重く、鈍く感じる。明弘は陸に歩調を併せ、横を歩いている。少し経ってから「陸」と名を呼ばれ、彼を見る。すると明弘から半分食べたアイスを差し出された。凪と陸が言い合っているうちに、コンビニで買っていたらしい。

「気にすんな、出し子や口座や名義なんか売ったりするやつは幾らでもいる」
 半分食べた青いソーダアイスを受取り戸惑う陸の顔が、明弘のサングラス越しに映し出される。
「俺も板とか、受け取りに行ったこと何度もあるぞ。みんな普通で、ボーッとした感じの奴らばかりだ。だから早坂ってヤツも別に根っからのワルじゃない。ブッ殺されるのも、そんなに珍しくねぇよ」
 二人のやりとりを断片的にしか聞いていなかったせいか、明弘は陸が激怒した理由が分かっていないらしい。全くの見当違いの慰め方だったが、陸は訂正する気すら起きなかった。

「暑い、コーラ奢れ」
 陸にアイスを渡した後は、小走りに彼は凪の方へと向かい話し掛けていた。明弘に「嫌だよ」と告げる覆面ライターの横顔からは、やはり感情が伺えない。
 幼馴染の半グレ男から貰ったアイスを陸は一気に口の中へと放り込んだ。噛み砕けば歯に小さな氷がまとわり付くが、棒ごと食い千切る様に噛んでゆく。ソーダの味は判らない。一気に食べると、喉に張り付く安い人工甘味料の味しかしなかった。
 そして続いて訪れた、頭痛に顔を顰める。

 アイスが取れた棒をぎり、と噛み締め。
 にんべん師見習いの青年は、目の前を歩く二人の青年へと視線を向ける。

 日常と非日常。
 絶望と救済。
 嘘と現実。
 生と死。
 幾度考えても、やはり陸には理解出来ないものだ。

 同じ空の下に居る筈なのに。
 前を歩く二人は何故か、遠い世界に生きている人間の様に思えた。



 ◇ ◇ ◇



 明弘とは途中で別れ、凪と陸の2人は事務所では無くマンションへと戻っていた。
 彼に関しては、先日仲間と揉めたことを陸は心配していた。明弘に滞在場所を聞いたが「ゲーセンで仲良くなった、全然違うやつの家にいる」とだけ言って姿を消した。
 ひとまず、彼の心配は不要らしい。別れ際に一言だけ「野良猫みたいな人だね」と凪は笑っていたが、コンビニでのやり取り以降、陸は何も言葉を返す気は起きなかった。
 それ以降は凪の方からも何も喋らず、無言で歩いているうちにマンションへと辿り着いていた。

「結論から先に言うね」
 先に帰っていた心愛と拓海の二人に出迎えられ、陸はリビングのソファーへと腰掛けている。三人掛けとシングルのソファーが置かれたリビングで、陸が腰掛けたのはシングルの方だ。
 陸に一番近い位置に座った心愛が、依頼主の陸へと話し掛けた。

「リナ・グルンさんは、無事に入国していました」
 彼女の口から出た言葉を聞いて、陸は脱力した。長い溜息が口から零れ落ちる。
 リナは無事だった。それだけで安心に値する言葉だ。
 だが心愛の言葉が普段と違い、淡々と硬い印象があるのが分かる。しばらくの間、一緒に行動していたからこそ、彼女の報告がそれだけでないことを悟った。
「……何か、リナにの身にあったんですね?」
「彼女の身には何も無いかな?」
 心愛の物言いに引っ掛かる。言葉を続けたのは、意外にも凪であった。
「リナさんが帰国して、しばらくしてから。彼女の国で事件が起きたんだよ。それで陸さんに連絡出来なくなった」
「事件?」
 嫌な予感と寒気が、身体の奥底から上がってくる。それはこの3人に会ってから何度も感じた類のものだ。何故か今この瞬間に、不穏の正体を陸は悟ってしまう。それは犯罪の気配であった。
「彼女の家族。グルンさん一家は、彼女を除いて皆惨殺されたんだよ」
 ストン、と。足元に穴が開き、白い世界に予兆無く突き落とされたようだった。
 陸へと襲い掛かってきたのは、浮遊感と茫然自失だ。耳から入る凪の声を聞く人間は、自分ではない別の人間の耳を介して聞いているような錯覚にも陥った。


「りっくんさ。リナさんの家族4人のパスポートと観光ビザ、無償で造ったでしょ?」
「はい」
「なんでそんな事したの?」
 返す言葉は自分の意思で口から出たものでは無い、自動的に応答するかのような錯覚を覚える。
「リナが、家族に日本を見せたいからって……」
「それににしても、流石にタダは無いわ」
「どういう、ことですか?」
「潘から聞いたが、事件が起こる前。アイツのところに楊の使いが来たらしい。そして『リナ・グルンという名前を知ってるか? と尋ねられた後で、ミャンマー人家族4人分のパスポートと観光ビザを無償で造ったか?』とも聞かれたそうだ。丁度、お前が出て行った後だよ。だからアイツはすぐ俺に連絡してきた」
「りっくんは知らないか。あっちの奴らが商売敵によくやる『見せしめ』にリナさんの家族、全員殺されちゃったんだよ。残虐性が伝わるように、敢えて一人だけ生き残らせるの」
「現地警察が事件発覚後、リナさんを一時的には保護したらしいよ。事件との関連性は無いと当日には開放されて、無事に入国している。ここまでは拓海さんが、一昨日までに調べてたんだ。あと陸さんは気付いてなかったけど、リナさんは一度マンションに帰ってきてたよ。供えられていた花が新しかったし、クーラーを付けた形跡がベランダにはあった」
 陸は首を振ったつもりだが、感覚は殆ど無かった。
「で、彼女の居場所も俺らは調べて知っている。というか昨日、向こうから伝えて来やがった」
「楊さんの、ところですか」
 頭に浮かんだ男の名を口にすると、拓海が頷いた。

「無事だよ、丁重に扱われている」
「今拓さんが言った言葉の意味、分かるよね?」
 心愛と拓海の返事に、今度は陸が頷く番だった。自分の首ではないみたいに、振り子のようにカクカクと動くだけの首だ。
 身体の感覚は殆ど感じられなかったが、幸いにも思考はまだ働いた。リナは日本に入国してはいるも、ずっと監視をされている。つまりは、あちらで拘束されているという意味だ。

 予想の一つとして、ここ数日の間に陸がずっと考えていた事だった。
 最悪のパターンとして昨日、既に彼女が殺されているかもしれないという不安が新たに加わっていた。だが事態は最悪の一つ手前、彼女はまだ生きている。という、陸にとっての朗報である。
 それが今の陸の支えであり希望となり、精神ごと崩れ落ちるのを寸前で留まっていた。
 早坂 誠は既に死んだ。幾ら謝っても許されるものでもないし、救う事も不可能だ。
 そしてまだ陸が工房にいる時に、一度PC越しで話をした――モニターの向こうから涙ながらに感謝を述べたリナの父親や家族も、既に殺されてしまった。自分が幾ら謝ろうが、何をしようが彼らの命は戻らないし、救われない。
 だけどリナは違う、彼女はまだ生きていた。
 生きてさえいれば、まだ自分は彼女に会うことが出来る。謝ることが出来る。過ちを認めることが出来る。救うことが出来る。彼女の手を取ることが出来る。
 贖罪の道はまだ閉ざされていないというのが、陸にとって今唯一の希望となっていた。

「オレ――リナに、会いたいんです」
 陸が告げた言葉を聞いて、すぐさま3人が視線を向けるのが分かった。顔を上げ、目の前に座る3人を陸も負けじと見つめ返す。最初に口を開いたのは拓海だった。
「いいんだな?」
「はい」
「正直なところ、俺はあまり賛成しないが……」
 彼が静かに聞いてきたので、はっきりと力強く陸は答える。
「だって、リナはまだ生きているんでしょう? ならオレは絶対、彼女に会わなきゃいけないです」
「会ってどうするの?」
 しっかりと迷い無く告げる陸の言葉に、異論を唱えるのは凪だった。
「早坂さんの時みたいに、隣に立つだけってわけにもいかないよ。誠さんのお父さんと違って、俺には彼女を救う安っぽい言葉は持ち合わせて無いからね」
「オレが彼女を支えます、抱き締めます」
「支える?」
「オレが犯した罪から目を背けず。まだ生きている彼女に全てを捧げます」
「捧げるったって、話を聞いてくれるかな? 彼女は君をもう愛していないかもしれないよ」
「それ位ならまだいいっしょ」
 突然、凪と陸との会話の間に入ったのは心愛だ。
 怯むこと無く、陸は静かに視線だけを彼女へと向ける。何故か凪の方が驚いたように、戸惑いの表情を浮かべて心愛の方を眺めていた。

「私さ、好きとか分かんないって言ったじゃん。でも人の心は分かる。自分が欲しかったものを見返り無しのタダで貰った時ってさ、調子に乗っていく人いるよね?」
 それは陸自身、薄々は勘付いていたことではある。なので答えられない質問だった。
「リナさんが君を愛してたのかどうか、そんなの関係無しで。陸少年よ、君は体よく彼女に利用されたとは思わないのかね?」
「……それでも、いいんです」
 やっとの思いで、喉の奥から振り絞った声だった。酷く震えて上擦り、耳に届いた自らの声としては非常に情け無い。それでも言葉を止めるわけにはいかなかった。
「リナが生きているなら、それでもいいんです。本当はオレ、利用されたのかもしれないし。恨まれても仕方がないですし。何を言われても仕方がないし。会いたくないと言われても仕方がないです! でも会えるのなら、せめて一度だけも会って、全てを捧げる事を彼女に直接、オレの言葉でしっかりと伝えたいんです!」

「それが、りっくんの“好き”ってやつ?」
「はい。オレは離れても嫌われても、彼女に捧げたいんです!」
「なになに、それってりっくんの人生的なもの全部?」
「はい」
 陸が捲し立てる言葉を聞き終えた凪は「そう」と、短く答えた。
 彼の声は若干震えており、いつもの無表情では無い。陸から目を背けている青年は、隠す事無く辛そうな顔を浮かべていた。
 キンッ、と静寂を割く音の後に。オイルライターで煙草に火を点けた拓海が、長い息を吐いた。「陸」と名を呼ばれて陸は「はい」と答える。今まで静かだった部屋の空気清浄機が唸り始める。
「後で楊には連絡するが――お前の行動次第では今後一切、俺達がお前を守る事は無い。つまりは見捨てる。それも解っているよな」
 もう一度「はい」と陸は頷いた。拓海からの返事は長く吐く煙と、勢い良く閉めるオイルライターの音だけだった。

「やっぱ人ってさ、愛ゆえにお利口さんでも天才でも。とことん狂って、馬鹿になるんだねぇ」
 今のやり取りを前に何一つ悪びれること無く、あっさりと告げる心愛の軽口を聞いて。陸は昨日凪が口にした、彼女が一番残酷だという言葉を思い出さずにはいられない。


 心愛の言葉を最後に、リビングは沈黙が降りる。
 しばらくの時間を経て、リビングテーブルの上に置かれたスマートフォンがおもむろに光って震えた。心愛のものらしく、彼女はスマートフォンを取り出し通知画面を押す。どうやら動画の更新通知らしく、直後に現れた画面を見て吹き出していた。
 興味を持った拓海に見せようとしたらしく、彼女がスマートフォンを操作する。すると部屋のテレビで流れていた景色の動画が切り替わり、スマートフォンからテザリングされた動画を映し出した。

 今まで何百回とうんざりするほど聞いた、気が抜けたフリーBGMが流れ出す。続いてAI音声と“ミューチャンネル”というタイトル。画面は再び切り替わり、今度はメチャクチャに散らかった部屋の様子が映し出された。
 部屋を荒らした白い犬がアップになり、『ボクは悪くない!』という耳障りな甲高いAIの合成声が繰り返し耳に入る。『悪いのは、欲張りなママ!』ショート動画らしく、画面は逃げ回った大型犬のアップの後で、再び最初のBGMとタイトルへと戻って同じ動作が流れ続ける。

 病院の待合室やSNSで見た、大型犬のミュー。
 今はリビングのテレビから何度も『ボクは悪くない!』『悪いのは、欲張りなママ!』という声が流れ続ける。何度も何度も繰り返されるそれは――拓海が心愛を咎めるまでの間、リビングでひたすら無機質に叫び続けていた。








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2章4話「買いは身まで、売りは命まで」
(2-4)
 がたり、ごとり、ごとん、ごとん。
 徐々に速度を上げて快速列車は走り出す。
 赤羽を過ぎて各駅停車が終わり、後は幾つかの駅を得て目的の駅までを過ごすだけだった。
 久し振りに乗る電車の窓から見える景色は、次々と流れ去ってゆく。大きな建物群は都心を抜けると減ってゆき、今は住宅街だけで特に面白いものは無かった。上を見れば空は抜けるような青空である。
 続いて陸は、電車の中に視線を移した。8月のなので親子連れの姿や、私服ながらも子供の姿が随分と多い。自分達は別に座らなくてもいいと思い、ホーム側とは反対のドア前に立っていた。
 乗換駅の赤羽で一気に乗客が増え、狭くなってしまった中で横に立つ凪と明弘を眺める。
 陸は凪の普段着の中から借りた、比較的まともなTシャツとカーゴパンツを履いていた。凪は先日見たスーツ姿。そしてもう一人、明弘は随分と酷い格好だった。オレンジの生地に、何故か黒猫の顔だけ並んだアロハシャツにサングラス。余りにも系統が違う3人が固まって電車内で立っている姿に、時折感じる他の乗客からの視線が気まずい。
「なぁ、ナギ」
「なに?」
「情報屋っていうから、車使うのかと思ってたけど。オマエは下っ端で車ねーのな」
 明弘はドアに寄りかかって、痛そうに頭を抑えている。二日酔いとのことで、彼は合流した時からずっとこの調子だった。
「運転は出来るけど、今日はココさんと拓海さんが車を使ってるし」
 一方の凪は涼しい顔で返している。
「というか、どうして明弘さんは付いてきたの?」
「オマエを信用してないから」
「そう」
 顔色を隠すためにサングラスをしているのだろうが、今の明弘は噛み付く勢いで凪を睨んでいるのだろう。つい先日まで何年も会わなかったし、言葉も交わしていなかった。それでも彼は昔と全く変わっていないと、明弘を見て妙な安堵を覚えた。
 陸は自分の母親の事を良く知らない。物心ついた時から、明弘の母親に面倒を見てもらっていた。だが自分達が5歳の時、彼女が働いていたメンズエステが摘発され、台湾へと強制送還させられた。その後陸と明弘は台湾系コミュニティの元で面倒を見てもらっていたが、揃って潘に引き取られたのだ。
 陸はもう一度、電車の窓から外を見る。
 夏の青空と大きな雲を眺めている横で、座席に座る子供と母親が自由研究の話をしている声がやけに耳障りに聞こえた。
 目的の駅へ到着した後は、20分ほど歩くだけらしかった。うだるような暑さに加えて、アスファルトからの照り返し。午前中だというのに酷く暑く、駅を出てから陸達とずっと並んでいる車道からも陽炎が揺らめいていた。
「じゃあ設定を話すよ」
「設定?」
 車道から逸れ、住宅地の中へと入ったところで凪が少し歩みを緩めた。「うん」と頷いた凪が、明弘と陸に説明を始める。
「俺はフリーのライター、君らは彼のネトゲ友達。そのままだけど、一応確認としてね」
「おう、わかった」
「昨日、俺は早坂さんと君達に独自のネタで取材をする予定だった。でも早坂さんが来なかったから、電話をした。そういう筋書きで父親とアポを取った」
「そうだったんですね」
「うん。明日の通夜には参加できないけど、君も連れて弔問をしたいと言ったんだ。だから今日少しだけなら、都合をつけてくれるって」
 スマートフォンを取り出し、地図をチェックした後で凪は「あそこの角を曲がった先」と、告げた。彼は汗を軽くハンカチで拭う。
「それともう一つ、陸さんに確認」
「何ですか?」
「早坂さん、5年前にバイトテロを起こした人って知ってたよね?」
「……はい」
 続いて「どうして凪さんがそれを知ってるんですか?」と尋ねる前。凪が「“早坂 誠”って名前を検索したら、簡単に出るからね」と、こちらの胸中を見抜くかのように、サラリと言った。そして凪は脱いでいたスーツに再び腕を通す。
「余計なことは話さないで、君達二人に頼みたいのはそれだけだから」
「じゃあ陸は何しにきたんだ?」
「そればかりは、陸さん本人も行ってみないと分からないと思うよ」
 凪の言葉の後で、明弘が陸を見る。だが陸は、彼の視線に含まれた質問の答えを持ち合わせていなかった。
「この度はお忙しい中、わざわざお時間を割いて下さり感謝いたします」
 背筋を伸ばし、正座をしている凪が礼をする。そんな彼を見て、陸も慌てて頭を下げた。
「私はフリーライターの|那緒《ナオ》と申します」
 名刺を差し出し名乗りを聞く限り、縦井という名はやはり明かさないようだ。
「この度は御愁傷様です」
 もう一度、凪が頭を下げるので陸も下げる。全く礼儀など分からないので、彼の動きを真似るのが精一杯となる。続いて「御霊前にお供えください」と、凪は香典を渡していた。
 陸は自分と凪の前に座る、早坂誠の父親を眺める。多分拓海や潘とさほど歳は変わらないのだろうが、随分とやつれた様子で髪の半分以上が白く染まっていた。
 早坂家は小さなクリーニング屋を営んでおり、陸達が案内されたのは作業場を通った奥である。小さなドアを通ると直ぐに見えた、居住スペースの小さな居間だ。
 畳を伝うわずかな振動は、作業場で稼働する機械の音である。明弘はここに来るまでの短い間で、すっかり作業場の様子に目を奪われたらしい。「オレ、ここで待つ」と告げて、従業員に話し掛けていた。
 偽造技術は肌に合わなかったらしいが、明弘も元々手先が器用だ。昔から機械いじりが好なのは陸も知っていた。なので業務用の機械が珍しく、興味を引いたのだろう。
「あの、ナオさん」
 一通り挨拶を終えた後で、早坂は恐る恐るといった様子で話を切り出した。息子を亡くしたばかりで無理は無いが、それでも随分と弱々しい態度である。
「大丈夫です。昨日お話させていただいた通り、本日は弔問でお邪魔させていたしました。取材でも炎上の件でもありません」
 凪の言葉を聞いて、早坂は安堵する様子を見せた。陸はそこでフリーライターという凪の肩書に、相手が必要以上の怯えを見せていたのだと知る。
「すみません、どうしても過剰になってしまうもので」
 慣れているのか「大丈夫です、分かっております」と、やんわりと凪は告げていた。
「電話で話した時には分かりませんでしたが、随分とお若いんですね」
「良く言われます」
「誠と同じくらいですか?」
「はい」
「誠は……本当にどうしようもない、息子でした」
 ぽつりと漏らした早坂の言葉からは、僅かな怒りが滲み出していた。
「少し考えれば分かるような事をやらかして、世間様の顰蹙を買って。高校も中退、就職もできず、ウチに降り掛かったのは巨額の賠償金だけ。毎日こっちが資金繰りに追い立てられる中、アイツは引き籠もってゲームばかり……」
 徐々に言葉に熱が籠もり、彼は早口になってゆく。薬液で汚れ、皺になった作業着の裾を掴む手は震えていた。
「挙句の果てに、酒をしこたま飲んで公園で行き倒れだ。親不孝にも程がある」
「これまでも含め、心中お察し致します」
 対する凪は、優しい調子で早坂に言葉を返していた。幾ら父親といえども、死んだ息子に対して酷い言い様だとは思うが。凪と「余計な事は言わない」と約束した手前、陸は黙って俯いた。陽に焼けたり擦れて剥がれた、畳の目をじっと静かに見つめる。
「……誠は君と、何が違ったのだろうな?」
 言葉を終える前に呟いた早坂の問いに、凪が答えることは無かった。
 暫くの沈黙を経て、凪は別の言葉を口にする。
「早坂さん。本日俺が訪れた目的をお話します」
「目的?」
「お悔やみは勿論なのですが。取材以外の目的としては、単に自分の知的好奇心を満たすためです」
「知的好奇心?」
 語尾を上げ、意味がわからないと示した早坂に「はい」と凪は頷く。そこから先の口調は陸もよく知る、淡々とした感情を乗せない口調であった。
「俺はライターとして、一般人が軽率に犯罪の片棒を担ぐ現代の闇を追っています。誠さんはその典型例であり、誰もが起こり得る末路を辿った」
「ちょっと!」
 流石に我慢出来ず陸は叫びかけるも、手で遮られた。一旦説明を止めた凪に鋭い目で睨み付けられ、陸は口を|噤《つぐ》んだ。
「隣の彼はですね、誠さんから名義を買ったんですよ」
「……名義?」
「はい、彼の場合は大仰なものでは無く。事情があって作れないネットカフェの会員カードを1万円で作ってもらった、という些細なものです」
 早坂は驚きで僅かに身体を竦めるが、それは陸も同様だった。「陸さん、カード出して」と凪に言われる。わけがわからないまま、陸は財布からネットカフェのカードを2枚取り出していた。凪はそれを受け取り、早坂へと差し出す。カードを受け取った早坂は「確かに、誠の字です」と震える声で答えてカードを返してくれた。
「俺はライターです。取材をする以上は、ネタに見合った謝礼も出します。この彼とはふとしたきっかけで知り合い、彼伝いに誠さんの事を知りました。そして誠さんに取材の交渉をしたら、快く了承してくれたというわけです」
「あの、話が見えないんですが……」
「誠さんは、名義貸しで小遣いを稼いでいました。きっと貴方も警察に聞かれた筈ですよ『ここ最近、何か変わった様子が息子さんにありませんでしたか?』と」
 早坂も陸も、凪が一体何を告げたいのか分からなかった。だが彼の口から出た「警察」という言葉で早坂の表情が強張るのが見えた。
「貴方は『息子は普段通りで、何事も無かった』と返されましたね?」
 凪の指摘が正しいのは、無言を貫く早坂の様子が証明となる。
「それが賢明です。死んだ者の名誉よりも、生きている自分達の生活を優先するのは当然の道理だ。俺がとやかく言う事でもないし、責めることでもありません」
「じゃあ誠は、本当に……」
 早坂から出た弱気な声を聞いて、陸は咄嗟に凪の顔を見た。彼の整った横顔は眉を顰め、子を失った父親の悲しみに寄り添うような哀愁に溢れていた。
「お察しの通り、貴方のお子さんは他にも犯罪行為に加担してました。口座売買、出し子等、主に特殊詐欺関連ですね。俺は彼の口から誠さんの事を聞いて、取材を申し込みました。過去に炎上騒ぎを起こして社会に出れなくなった人間の行く末として、犯罪行為に加担する。よく聞く流れだ。だから直接話しを聞きたいと思って、誠さんにアポを取った。ついでに忠告もするつもりでした。でも俺は、一歩遅かった」
 心愛の言葉が遠慮を知らず躊躇無く放つ銃弾だとすれば、拓海の言葉は機を狙って重く叩き潰してくる鈍器だろう。そして陸の隣に座って哀しむ様子を見せる凪の言葉は、一撃が軽く見えても――刃先に致死の毒を塗った刃物のようなものだ。
「俺は貴方に真実を耳打ちするために、今日は訪れました。それは犯罪に加担した人の末路を知りたいという、知的好奇心のためだけです。隣の彼は世の仕組みを学ばせるために、俺が無理矢理連れてきました。彼も誠さんの死に心を痛めてるのは見た通りですし、先程お渡しした香典。あれは昨日告げた通り、俺からの謝礼分です。少し多めに包ませて貰いました」
 陸の身体は、自分でも知らぬ間に震えていた。相手に考える隙すら与えさせない。軽く柔らかに、凪は上手に人の心を抉ってゆくのだ。黙って彼を眺める早坂の目も、逸らすこと無くじっと真剣に向けられているのが分かる。
「――とはいっても。お約束した通り、今日は取材ではありません。記事には決してしないのでご安心下さい。何なら念書だって書いてもいいです」
 それが天性の才なのか、努力して得たものか陸には判らない。それでも凪の口から飛び出す言葉の殆どは、否定出来無い様に計算し尽くされているのは確かであった。彼が紡ぐ言葉は『正しくもなければ間違いでも無い』だからこそ、幾ら考えても彼を止める言葉が飛び出すことは無い。
「誠さんが犯した犯罪行為についても、俺が独自に調査した結果判明したことです。俺の方から一切口外しないということは、お約束いたします。これも念書に加えますか?」
「いや、結構だ」
 優しい口調で心を抉り、刺してゆく若い青年の言葉。息子を失ったばかりの哀れな父親は、目に涙を浮かべている。陸はただ呆然と、正面に座る早坂が頭を振るのを眺めることしか出来なかった。
「……なぁ、君の御家族は?」
「母は18の時に亡くなりましたが、育ての父がおります」
「なら、私の答えも分かってくれるね」
 最後に早坂が放った言葉は、彼が出来た唯一の抵抗だったのかもしれない。陸にはその諦めたような――或いは全ての出来事に疲れ果て、放棄とも取れる言葉に込められた意味は分からなかった。
 陸は耐えようと黙り俯き、再び傷んだ畳の目を眺める。背後の作業場から休み無く聞こえるプレスの音と、薬液の匂いが僅かに漂ってくる。
 一方の凪は微笑み、優しい声色で「有難うございます」と告げる。そして早坂に向かって、深く頭を下げていた。
 それはクリーニング店を3人が後にしてから、暫くしての事だった。
 駅の近くにあるコンビニ前で凪が「寄っていく?」と軽く陸に尋ねたのが端緒だった。激情を抑え続け無言で歩いていた陸だったが、凪のその一言で陸は完全に自制を失う。
「最低ですね、凪さんって」
「ずっと黙ってた後の第一声がそれ?」
 凪の腕を引っ張りコンビニ前の駐車場、さらにその端の人目に付きにくい場所へと連れて行く。そして胸倉を掴んで放った陸の最初の言葉に、凪は平然とそう答えただけだった。
「ウチの社長が言ってたでしょう? 『情報とハッタリとスマイルで飯を食う』って」
「だからって、お父さんの前で犯罪者扱いの嘘をついてなんとも思わないんですか?」
「へぇ、無知なだけで馬鹿じゃないんだ」
 今まで無言だった陸に対しては弘明も何も追求してこなかった。だが陸が凪の腕を引っ張って奥へと連れて行った事と、加えて告げた「犯罪者」という言葉に反応してか、コンビニへと入らずに眺めている。
「口座売買、出し子なんて嘘だ。きっと早坂さんはそんな経験は無かった」
 初めて自分が会った時に「初めてこういう事をする」と告げていた誠の表情を陸は思い出す。
 それは潘から偽造の発覚を恐れて逃げた後だ。行くあてなどは何も無い、その時たまたま連絡があった誠に「家出した」と陸が話した事が、彼と出会うきっかけになった。
「でも君に、名義は売った。これだって立派な犯罪だよ。君の大好きな正義で言うと、大きいか小さいかじゃない『悪いこと』だよ」
「それでもだ! 亡くなった人なのに、あんなでっち上げを……しかも、悲しむお父さんに言うなんて酷すぎる!」
 更に胸ぐらを掴む陸の力に手が籠もる。暴力を振るう気などは無いが、それでも怒りは収まらない。
「陸さん、俺が今日ここに来た理由はね。ちょっとしたお節介もあった」
「お節介?」
「俺は、早坂さんのお父さんを救いたかった」
「意味が分からないです」
 掴む凪の身体は細くて軽く、陸が少し腕に力を入れるだけで怪我をさせてしまいそうだ。それでも何故か、こちらを見据える凪の目は普段通りのものだった。
「あの人に必要だったのはね。誠さんを失った悲しみを理解することでも、同情でも無い。『息子は死んでも仕方が無いクズだった』っていう事実。そして俺はその裏付けを――あの人が見たかった、誠さんを見せることが出来る立場の人間だった」
「でも、あの人は悲しんでた」
「そうだよ、だから言った」
 あの時に浮かべた父親の表情と、凪と行っていた会話。そして今凪の口から出た『救いたかった』という言葉が、さらに陸の思考を掻き乱す。陸の混乱を見破るかのように、凪は少し上擦った小さな声で「これは俺の憶測だけどさ」と言葉を続ける。
「陸さん、誠さんに自分の仕事を喋った?」
「それは」
「言ったんだね?」
 声が聞き取りづらいのは自分が胸倉を掴んでいるせいだと気付き、陸は僅かに力を緩める。だが手は離さなかった。
「……早坂さんがオレに話してくれたんです。自分は昔、炎上騒動をやらかして後悔してるって」
「その炎上って、結局なんだ?」
「明弘さん、誠さんは昔バイト先でダストの水を絞って、料理に入れる動画を流したんだよ。で、バズって個人情報を全部晒された。良くあるバイトテロの末路だ。クリーニング店、今日も営業してたでしょ? 資金繰りが苦しいんだろうね。誠さんを訴えた飲食店からの賠償関係がまだ残ってるからだよ。だからきっと明日も葬儀の日も、営業を続けるだろうね」
「なんだよそれ、テメェで責任とれよな」
 先程から何一つ事情が分かってない、無神経な明弘の言葉にも陸は苛ついた。
「だから働きたくとも中卒だし、近所では働けないし。改名しても名前を調べられたら、全部経歴が出る。だからマトモなところでは一生働けない、ってあの人は悩んでたんだよ」
 明弘を睨みつけて「お前だって無戸籍で働けないから、何度も盗みを繰り返して半グレだろ」と怒りをぶつけていた。明弘はそれ以上は何も言わず、黙るだけだった。
「過去を無かった事にしたい。ネカフェのカードみたいに、簡単に他人が作った偽の名前を名乗れたらいいのに、って……」
「その言葉に同情しちゃって不可能じゃない、って言ったんだね?」
「……別人として生きる方法は、ゼロじゃないですから」
 別人へと成り済ます方法が、少なからず存在する事を陸は知っている。何よりも潘の仕事で幾つも見てきた。発覚するリスクは方法によって変動するが、決して不可能では無いと誠に告げてしまったのは事実であった。
 しかし凪へと返す答えは違う。「それは関係ないでしょ」と誠が言い放った言葉は、即座に「関係あるよ、多分」と直ぐ様告げられる。
「陸さんが仕事のことを話さなかったら、きっと誠さんは死ななかった」
「デタラメを言わないで下さい!」
「誠さんが死んだって事自体が、デタラメなんだよ。でも彼は死んだ」
 無意識のうちに力が込められていたらしく、小さく凪が咳き込んだ。だが彼は陸を責めず、再び掠れた声で言葉を続ける。
「俺がさっきお父さんについた嘘と、君が誠さんに告げた言葉。両方同じなんだよ。その人が欲しい言葉を俺達は与えた」
 静かに眺める凪の顔には、苦しそうな表情は浮かんではいない。炎天下にも関わらず、涼しい顔にすら見える。今までされるがままだった凪は手を伸ばし、そっと自分の胸倉を掴む陸の手に白い手を重ねてきた。
「楊さんとこもせめて手心を加えたと思うよ。事故死に見せかけたんだから」
 重なる凪の手は汗一つかいていない。それどころか、冷たくすら感じる。さらに凪は煽るように「自殺じゃなかったら、入るでしょう? 保険金」と続ける。
 その言葉は、陸の限界を超えるには充分だった。
 勢い任せに振り上げた陸の手は、凪の顔には届かなかった。腕は宙を切り、代わりに反対側の腕が痛みを訴える。
「充分堪えたみたいだから、今はここで終わらせておくよ」
 口から出た痛みを訴える自分の声で初めて陸は、胸倉を掴んでいた筈の腕が凪によって捻り上げられている事に気付く。
「じゃあ、帰ろっか」
 フッと笑った凪の息と共に、耳元へと届いた言葉の後で陸は痛みから解放された。
「拓海さんと心愛さんが、きっとリナさんの報告を集め終えている」
 歩き始めてしばらくして、凪は振り返える。陸と明弘を見る様子は、普段通りのものだ。
 足を一歩ずつ踏み出すも酷く、重く、鈍く感じる。明弘は陸に歩調を併せ、横を歩いている。少し経ってから「陸」と名を呼ばれ、彼を見る。すると明弘から半分食べたアイスを差し出された。凪と陸が言い合っているうちに、コンビニで買っていたらしい。
「気にすんな、出し子や口座や名義なんか売ったりするやつは幾らでもいる」
 半分食べた青いソーダアイスを受取り戸惑う陸の顔が、明弘のサングラス越しに映し出される。
「俺も板とか、受け取りに行ったこと何度もあるぞ。みんな普通で、ボーッとした感じの奴らばかりだ。だから早坂ってヤツも別に根っからのワルじゃない。ブッ殺されるのも、そんなに珍しくねぇよ」
 二人のやりとりを断片的にしか聞いていなかったせいか、明弘は陸が激怒した理由が分かっていないらしい。全くの見当違いの慰め方だったが、陸は訂正する気すら起きなかった。
「暑い、コーラ奢れ」
 陸にアイスを渡した後は、小走りに彼は凪の方へと向かい話し掛けていた。明弘に「嫌だよ」と告げる覆面ライターの横顔からは、やはり感情が伺えない。
 幼馴染の半グレ男から貰ったアイスを陸は一気に口の中へと放り込んだ。噛み砕けば歯に小さな氷がまとわり付くが、棒ごと食い千切る様に噛んでゆく。ソーダの味は判らない。一気に食べると、喉に張り付く安い人工甘味料の味しかしなかった。
 そして続いて訪れた、頭痛に顔を顰める。
 アイスが取れた棒をぎり、と噛み締め。
 にんべん師見習いの青年は、目の前を歩く二人の青年へと視線を向ける。
 日常と非日常。
 絶望と救済。
 嘘と現実。
 生と死。
 幾度考えても、やはり陸には理解出来ないものだ。
 同じ空の下に居る筈なのに。
 前を歩く二人は何故か、遠い世界に生きている人間の様に思えた。
 ◇ ◇ ◇
 明弘とは途中で別れ、凪と陸の2人は事務所では無くマンションへと戻っていた。
 彼に関しては、先日仲間と揉めたことを陸は心配していた。明弘に滞在場所を聞いたが「ゲーセンで仲良くなった、全然違うやつの家にいる」とだけ言って姿を消した。
 ひとまず、彼の心配は不要らしい。別れ際に一言だけ「野良猫みたいな人だね」と凪は笑っていたが、コンビニでのやり取り以降、陸は何も言葉を返す気は起きなかった。
 それ以降は凪の方からも何も喋らず、無言で歩いているうちにマンションへと辿り着いていた。
「結論から先に言うね」
 先に帰っていた心愛と拓海の二人に出迎えられ、陸はリビングのソファーへと腰掛けている。三人掛けとシングルのソファーが置かれたリビングで、陸が腰掛けたのはシングルの方だ。
 陸に一番近い位置に座った心愛が、依頼主の陸へと話し掛けた。
「リナ・グルンさんは、無事に入国していました」
 彼女の口から出た言葉を聞いて、陸は脱力した。長い溜息が口から零れ落ちる。
 リナは無事だった。それだけで安心に値する言葉だ。
 だが心愛の言葉が普段と違い、淡々と硬い印象があるのが分かる。しばらくの間、一緒に行動していたからこそ、彼女の報告がそれだけでないことを悟った。
「……何か、リナにの身にあったんですね?」
「彼女の身には何も無いかな?」
 心愛の物言いに引っ掛かる。言葉を続けたのは、意外にも凪であった。
「リナさんが帰国して、しばらくしてから。彼女の国で事件が起きたんだよ。それで陸さんに連絡出来なくなった」
「事件?」
 嫌な予感と寒気が、身体の奥底から上がってくる。それはこの3人に会ってから何度も感じた類のものだ。何故か今この瞬間に、不穏の正体を陸は悟ってしまう。それは犯罪の気配であった。
「彼女の家族。グルンさん一家は、彼女を除いて皆惨殺されたんだよ」
 ストン、と。足元に穴が開き、白い世界に予兆無く突き落とされたようだった。
 陸へと襲い掛かってきたのは、浮遊感と茫然自失だ。耳から入る凪の声を聞く人間は、自分ではない別の人間の耳を介して聞いているような錯覚にも陥った。
「りっくんさ。リナさんの家族4人のパスポートと観光ビザ、無償で造ったでしょ?」
「はい」
「なんでそんな事したの?」
 返す言葉は自分の意思で口から出たものでは無い、自動的に応答するかのような錯覚を覚える。
「リナが、家族に日本を見せたいからって……」
「それににしても、流石にタダは無いわ」
「どういう、ことですか?」
「潘から聞いたが、事件が起こる前。アイツのところに楊の使いが来たらしい。そして『リナ・グルンという名前を知ってるか? と尋ねられた後で、ミャンマー人家族4人分のパスポートと観光ビザを無償で造ったか?』とも聞かれたそうだ。丁度、お前が出て行った後だよ。だからアイツはすぐ俺に連絡してきた」
「りっくんは知らないか。あっちの奴らが商売敵によくやる『見せしめ』にリナさんの家族、全員殺されちゃったんだよ。残虐性が伝わるように、敢えて一人だけ生き残らせるの」
「現地警察が事件発覚後、リナさんを一時的には保護したらしいよ。事件との関連性は無いと当日には開放されて、無事に入国している。ここまでは拓海さんが、一昨日までに調べてたんだ。あと陸さんは気付いてなかったけど、リナさんは一度マンションに帰ってきてたよ。供えられていた花が新しかったし、クーラーを付けた形跡がベランダにはあった」
 陸は首を振ったつもりだが、感覚は殆ど無かった。
「で、彼女の居場所も俺らは調べて知っている。というか昨日、向こうから伝えて来やがった」
「楊さんの、ところですか」
 頭に浮かんだ男の名を口にすると、拓海が頷いた。
「無事だよ、丁重に扱われている」
「今拓さんが言った言葉の意味、分かるよね?」
 心愛と拓海の返事に、今度は陸が頷く番だった。自分の首ではないみたいに、振り子のようにカクカクと動くだけの首だ。
 身体の感覚は殆ど感じられなかったが、幸いにも思考はまだ働いた。リナは日本に入国してはいるも、ずっと監視をされている。つまりは、あちらで拘束されているという意味だ。
 予想の一つとして、ここ数日の間に陸がずっと考えていた事だった。
 最悪のパターンとして昨日、既に彼女が殺されているかもしれないという不安が新たに加わっていた。だが事態は最悪の一つ手前、彼女はまだ生きている。という、陸にとっての朗報である。
 それが今の陸の支えであり希望となり、精神ごと崩れ落ちるのを寸前で留まっていた。
 早坂 誠は既に死んだ。幾ら謝っても許されるものでもないし、救う事も不可能だ。
 そしてまだ陸が工房にいる時に、一度PC越しで話をした――モニターの向こうから涙ながらに感謝を述べたリナの父親や家族も、既に殺されてしまった。自分が幾ら謝ろうが、何をしようが彼らの命は戻らないし、救われない。
 だけどリナは違う、彼女はまだ生きていた。
 生きてさえいれば、まだ自分は彼女に会うことが出来る。謝ることが出来る。過ちを認めることが出来る。救うことが出来る。彼女の手を取ることが出来る。
 贖罪の道はまだ閉ざされていないというのが、陸にとって今唯一の希望となっていた。
「オレ――リナに、会いたいんです」
 陸が告げた言葉を聞いて、すぐさま3人が視線を向けるのが分かった。顔を上げ、目の前に座る3人を陸も負けじと見つめ返す。最初に口を開いたのは拓海だった。
「いいんだな?」
「はい」
「正直なところ、俺はあまり賛成しないが……」
 彼が静かに聞いてきたので、はっきりと力強く陸は答える。
「だって、リナはまだ生きているんでしょう? ならオレは絶対、彼女に会わなきゃいけないです」
「会ってどうするの?」
 しっかりと迷い無く告げる陸の言葉に、異論を唱えるのは凪だった。
「早坂さんの時みたいに、隣に立つだけってわけにもいかないよ。誠さんのお父さんと違って、俺には彼女を救う安っぽい言葉は持ち合わせて無いからね」
「オレが彼女を支えます、抱き締めます」
「支える?」
「オレが犯した罪から目を背けず。まだ生きている彼女に全てを捧げます」
「捧げるったって、話を聞いてくれるかな? 彼女は君をもう愛していないかもしれないよ」
「それ位ならまだいいっしょ」
 突然、凪と陸との会話の間に入ったのは心愛だ。
 怯むこと無く、陸は静かに視線だけを彼女へと向ける。何故か凪の方が驚いたように、戸惑いの表情を浮かべて心愛の方を眺めていた。
「私さ、好きとか分かんないって言ったじゃん。でも人の心は分かる。自分が欲しかったものを見返り無しのタダで貰った時ってさ、調子に乗っていく人いるよね?」
 それは陸自身、薄々は勘付いていたことではある。なので答えられない質問だった。
「リナさんが君を愛してたのかどうか、そんなの関係無しで。陸少年よ、君は体よく彼女に利用されたとは思わないのかね?」
「……それでも、いいんです」
 やっとの思いで、喉の奥から振り絞った声だった。酷く震えて上擦り、耳に届いた自らの声としては非常に情け無い。それでも言葉を止めるわけにはいかなかった。
「リナが生きているなら、それでもいいんです。本当はオレ、利用されたのかもしれないし。恨まれても仕方がないですし。何を言われても仕方がないし。会いたくないと言われても仕方がないです! でも会えるのなら、せめて一度だけも会って、全てを捧げる事を彼女に直接、オレの言葉でしっかりと伝えたいんです!」
「それが、りっくんの“好き”ってやつ?」
「はい。オレは離れても嫌われても、彼女に捧げたいんです!」
「なになに、それってりっくんの人生的なもの全部?」
「はい」
 陸が捲し立てる言葉を聞き終えた凪は「そう」と、短く答えた。
 彼の声は若干震えており、いつもの無表情では無い。陸から目を背けている青年は、隠す事無く辛そうな顔を浮かべていた。
 キンッ、と静寂を割く音の後に。オイルライターで煙草に火を点けた拓海が、長い息を吐いた。「陸」と名を呼ばれて陸は「はい」と答える。今まで静かだった部屋の空気清浄機が唸り始める。
「後で楊には連絡するが――お前の行動次第では今後一切、俺達がお前を守る事は無い。つまりは見捨てる。それも解っているよな」
 もう一度「はい」と陸は頷いた。拓海からの返事は長く吐く煙と、勢い良く閉めるオイルライターの音だけだった。
「やっぱ人ってさ、愛ゆえにお利口さんでも天才でも。とことん狂って、馬鹿になるんだねぇ」
 今のやり取りを前に何一つ悪びれること無く、あっさりと告げる心愛の軽口を聞いて。陸は昨日凪が口にした、彼女が一番残酷だという言葉を思い出さずにはいられない。
 心愛の言葉を最後に、リビングは沈黙が降りる。
 しばらくの時間を経て、リビングテーブルの上に置かれたスマートフォンがおもむろに光って震えた。心愛のものらしく、彼女はスマートフォンを取り出し通知画面を押す。どうやら動画の更新通知らしく、直後に現れた画面を見て吹き出していた。
 興味を持った拓海に見せようとしたらしく、彼女がスマートフォンを操作する。すると部屋のテレビで流れていた景色の動画が切り替わり、スマートフォンからテザリングされた動画を映し出した。
 今まで何百回とうんざりするほど聞いた、気が抜けたフリーBGMが流れ出す。続いてAI音声と“ミューチャンネル”というタイトル。画面は再び切り替わり、今度はメチャクチャに散らかった部屋の様子が映し出された。
 部屋を荒らした白い犬がアップになり、『ボクは悪くない!』という耳障りな甲高いAIの合成声が繰り返し耳に入る。『悪いのは、欲張りなママ!』ショート動画らしく、画面は逃げ回った大型犬のアップの後で、再び最初のBGMとタイトルへと戻って同じ動作が流れ続ける。
 病院の待合室やSNSで見た、大型犬のミュー。
 今はリビングのテレビから何度も『ボクは悪くない!』『悪いのは、欲張りなママ!』という声が流れ続ける。何度も何度も繰り返されるそれは――拓海が心愛を咎めるまでの間、リビングでひたすら無機質に叫び続けていた。