2章3話「落ちたナイフ」
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2章3話「落ちたナイフ」
(2-3)
「早坂誠さん、死んでたよ」
夕方になって事務所へと戻って来た凪の口から出たのは、全く予想外の名前だった。ようやく傾きかけた西陽が事務所を照らし、僅かにオレンジ掛かった凪の顔を陸は凝視する。
「陸さんの依頼とは関係ないけど、俺が個人的に気になって調べてた。早坂 誠さん、23歳・住所は埼玉県☓市。2日前に死亡が確認されたってさ」
「……なんで」
「前日に友達数名と飲みに東京に行くと言って出掛けたらしい。明け方、都内の公園で倒れていたところを散歩中の近隣住人が発見。後に死亡を確認。時期的にきっと楊さんとこの仕業だろうね」
「じゃあ陳さん?」
「違うと思う、あの人なら事故死に見せかけたりはしない」
「ちょっと待ってください、どうして!?」
事務所に戻っていた心愛と凪との会話を遮り、誠は叫んでいた。
「きっと、陸さんにネカフェの名義を貸したからだろうね」
「意味が分からないです!」
「でも、彼が亡くなったのは事実だよ」
そう言って凪は鞄からタブレット端末を取り出し、電源を入れる。彼から差し出された画面を恐る恐る見ると、どこからか入手をしたらしい警察の検死記録だった。
記録の日付は昨日、死因は熱中症。備考欄には高濃度のアルコール検出と、屋外で発見されたと記されている。文字を追う度にタブレットの重みが増し、陸の手は小刻みに震えていった。
混乱で足元がぐらつき、胃から嫌な感触がせり上がる。それは自分の素性を拓海に看破された時以上の衝撃と感情であった。後ろから「おい陸!」と叫ぶ明弘の声で、陸は自分が走り出していた事に気付く。
身体と心の奥から湧き上がる衝動に任せたまま、外階段を全速力で駆け下りる。階段の鉄板を靴底で叩きつける鈍い金属音に混じり、頭上から叫ぶ明弘の声が聞こえた。だが振り向くこと無く、陸は雑居ビルを後にした。
「どこいくんだよ」
「……うるさい」
「暑いから戻ろうぜ」
「じゃあ、お前だけ帰れ」
返ってきたのは、舌打ちであった。
陸が事務所を飛び出した後に、明弘は追い掛けてきた。凪と心愛は追い掛けてくる気が無いのは知っていた。だが明弘がずっと横を歩いて、自分に構い続けるとは意外だった。
幾ら陽が暮れかけているとはいっても、真夏なので気温も湿度も高い。連日の真夏日を記録する中、ぶっ続けで歩けば暑い。足を止めたら最後、一歩も進む気力を失ってしまいそうだ。だが足を止めるわけにはいかない。幸いにも駅の連絡路を通る時は、暑さはマシだ。なので歩調は決して緩めず、大股で一直線に目的地の中央公園へと向かって歩き続けた。
ひたすら無言で歩き続け、高架を渡って公園へと辿り着く。到着したときには陽は落ちて、公園も街灯で照らされていた。
誠が発見された場所は確かにこの公園なのだが、広すぎてどこかは分からない。
照明で煌めくコーヒー店の横を通り過ぎた後は、明るさも少し落ち着いてきた。陸は更に進む。奥のひっそりと設置されたベンチを見つけると、ようやくそこで腰を降ろす。つい先程まで、隣を歩いていた明弘の姿は消えていた。
息を整えていると、汗が滲み出てシャツがぐっしょりと濡れている事に気付く。
暫く座っていると、両手にジュースの缶を持った明弘が駆け寄ってきた。明弘から500ml缶のジュースを受け取り、二人で一気飲みをする。
身体に染み込む安っぽい味が、今は何よりも美味い。すっかり昼間には鳴かなくなった、蝉の合唱が響き渡る。夜の公園で蝉に負けじと二人は喉を鳴らす。そして無言で、水分を渇望する身体へと流し込んだ。
「ナギが言ってた奴、ここで死んだのか?」
最初に話し掛けてきたのは明弘で、陸は黙って頷いた。
「場所は知らないけど、中央公園で倒れてたって」
「友達だったのか?」
「ソシャゲのフレンドだった。で、ディスコしながら一緒に周回とかしてた」
手に持っていた空き缶をベンチの下にそっと置く。頭上から「ふーん」と気の抜けた声が帰ってきた。
「お前の女は?」
「リナは父ちゃんの仕事で最初会った」
「そっか」
「さっきから何だよお前」
尋ねられる質問には答えていたが、対する明弘の返事は気が抜けた様なものばかりだ。暑さも併せて、苛立ちが重なった陸が指摘する。だが返ってきたものは「別に……」と、今度も気が抜けた返事だった。
隣に座る明弘を睨み付けるが、彼も陸とは目を合わせ無い。暫く待つと、拗ねた様にポツリと答えが返ってきた。
「友達とか、彼女とか“普通っぽい”な」
「お前もつるんでるだろ」
「あれは仲間、ダチじゃない」
「彼女はいないのか?」
今度は陸の方が彼に同じ質問を投げ掛ける番だった。
「オレらが大抵声を掛ける女は、先輩があらかじめ決めてたしよ。フリーのはヘラった家出女だったり、ホストに入れ込んでたり、パパ活狙いだったりだし……面倒臭そうな女ばかりで、興味無かった」
つまらなさそうに告げる明弘の横画を眺めたまま「オレより出逢いがありそうなのに」と思わず口にした。これには「うるせぇよ」と、小突かれる。
「だから、オマエの普通っぽいのは少し羨ましいと思った」
明弘も陸と同じ様に背を丸めて、ベンチの下に空き缶を置く。その後陸へと向けられた目は、昔見た時と全く変わらない澄んだ目だった。
「でもさ明弘、オレも分かってるよ。別に憧れて、嘘の普通っぽさを演じてるわけじゃない」
陸はつま先で赤い石畳を蹴った。
「オレ達は、表には行けない人間だよ。憧れる気はもう起きないかな……」
石畳の表面を何度もなぞり、砂が混じってザラついた感触を味わう。
「父ちゃん達が若い頃やその昔は、まだまだ潜り込んで簡単に表の人間になれたらしいけどさ。デジタル管理になっていって、今はマイナンバーの割り振りだ。偽造も難しいし、造れるものも減っていく。この先オレらみたいな奴は、表に上がるチャンスは殆ど来ない」
「分かってんじゃん、陸も」
「うん、分かってた。分かってるんだよ……」
他に言葉は持ち合わせていなかった。陸と明弘は互いに無言で、ベンチに座り続ける。明弘が自分を追い掛けてきた理由も分かったし、陸もきちんとそれに答えた。
都会の真ん中にぽっかりと空いた、造られた歪な緑の空間。そんな中で空を見上げると、悪趣味な高さの都庁や、それぞれの部屋の灯りが輝くタワーマンションが見える。
地上に目を向ければ、大きな犬の散歩をしている身なりのいい若い夫婦の姿。軽快にジョギングをする人達。
きっと自分達のような存在と一生交わることの無い、裕福な暮らしをしている人達が頻繁に前を通る。そして、悪趣味な蝉の合唱が一斉に流れたり途切れたりを繰り返していた。
「“普通”っていいよなぁ。俺らはスタートから、人生詰みゲーなのによ」
ふと、蝉の合唱が途切れた瞬間。明弘が漏らした言葉に対して、陸は一言だけ「だな」と返した。
「陸、お前そろそろ帰らなきゃダメだろ」
明弘がそう告げたのは、二人で公園に座ってから1時間程が経つ頃だった。
「分かってる、でももう少し……」
「工房だけじゃなくてオッサンのとこも飛び出して、逃げてばっかだな」
「うるさい」
そう告げた後でてっきり言い返してくると思ったが、明弘は陸に何も言わなかった。不思議に思い陸が彼の顔を見る。彼は口を真一文字に結んで、公園の先を睨み付けていた。視線の先を見ると、4人の男性が歩いてくる姿が目に入った。
うち一人は、明らかな異質さを放っていた。遠目に見ても、他の3人より遥かに大きな体躯で見るからにヤバそうな雰囲気だと陸は悟る。彼らがこちらへと近付いてくる中、震えた声で明弘が陸へと小さく呼びかけた。
「陸、オレが引きつけている間。頑張って後一回だけ、ここから逃げろ」
「は?」
「で、ちゃんとオッサンのとこに行け」
続けて「どういうことだよ」と告げた陸の声は、すぐ近くまで近付いてきた男の大声によって掻き消されてしまった。
「おいアキ!」
彼等の歩みは二人の前で止まり、大きな男が一歩前に出る。張り上げた声は空気と鼓膜を震わせ、陸の身体は緊張で強張った。
「探したぜ、アキ。お前なんで昨日から連絡しても出ねぇんだよ」
男は20代半ばに見える、シャツから出ている筋肉質な腕は丸太のようだ。加えて首筋から腕に渡り、びっしりと彫り込まれているタトゥーが物々しさを語っている。明らかに関わっては行けない類の人間だと分かる。だが隣りに座る明弘は立ち上がると、遥かに背が高い男を睨み付けていた。
「俺、お前に来いって言ったよな?」
「行くとは言ってねぇし。それに先輩がやられたんだから、解散だろ」
「俺がトップになっただけだ、解散じゃねぇよ。いいか、今度から俺の招集にはちゃんと答えろ」
「召集とかダセェ言い方すんなし、ゴリラのくせに」
「てめぇブッ殺すぞ!」
「はァ? 誰が誰をブッ殺すって? 意味分かんねぇ事言ってんじゃねえよ、ガンギマリゴリラ」
公園の中にはランニングや犬の散歩などしている人達もちらほらいるが、取り巻きの三人が睨みを利かしていた。加えてレスラーのような巨漢の男が怒っているのだ。目に見える地雷へと突っ込む様な物好きはいない。厄介事と関わらないように、通り過ぎる人は次々と目を逸らして早足で去っていく。
そうしているうちにも、男は明弘の胸倉を掴んで自分の顔面近くまで引き寄せていた。驚いて陸も立ち上がるが、こちらを見た明弘に「オマエは逃げろって」と突き放された。
本当ならばすぐさま警察を呼べばいいのだろうが、自分たちは無戸籍なので一度捕まればすぐには帰れない。何か打開策は無いかと、陸は視線をあらゆる方向へと動かす。すると向こうの道から、軽快に走ってくる金髪の女性の姿が見えた。
ランニング途中の女性はこちらの姿を既に捉えているはずだが、スピードを落とす様子は見られない。それどころか徐々に速度を上げているようだ。あっという間に近付いてきた彼女は勢いを落とさず突然、明弘の胸倉を掴んでいる大男に飛び蹴りを放った。
190cmは超えているはずの大男に躊躇い無く飛び蹴りを決めた小柄な女性は、すかさず蹌踉めいた相手に足払いを入れる。流れるような連撃を受けた男がバランスを崩して、片膝を付いたところ勝負は決まった。彼女は悠々とその巨躯を投げ飛ばしていた。
目の前で起きた出来事に、陸と明弘は呆然とする。その間にもランニングウェアの女性は、間髪入れず他の3人を次々に地面へと叩きつけていた。
「ピンチの時に颯爽と駆け付ける私、マジで格好良くない?」
後ろに結わえた金色の髪をたなびかせながら、男達を沈めた後で耳に入ってきた声は聞き覚えのあるものだった。陸は無言で、4人の男を沈めた女性の姿をまじまじと見る。
得意げに胸を張る心愛に向かって「姐さんゴリラまで沈めるとか、ヤバいっすね」と明弘が告げる。金髪の心愛は口端を上げて、ニヤリと笑っていた。
「君達ねぇ、ここは憩いの場だよ……」
続いて心愛は軽口を叩きながらも、意識が朦朧としている男達が隠し持っていた警棒やスタンガンを手際良く取り上げてゆく。「アッキーこれ持ってて」と、心愛から渡されるそれらを受け取りながら、明弘は「あの投げ飛ばされるやつ、マジ痛かったっすよ」と漏らしていた。
「あらあら、ゴリラ君は高級アロマも嗜んでるのねぇ」
取り上げた獲物を持つ明弘が3人を見張っている中、心愛は完全に意識を失って倒れている大男の傍へとしゃがみ込んだ。彼女がそう言って男のズボンから取り出したのは、透明な小分け袋だった。片手に収まるパッケージを心愛は街灯の光に透かして、愉快そうに笑う。
陸の目からも見えたそれは、茶葉のようなものだった。それは一体何か、おおよそながら陸にも検討がついてしまう。だが心愛はおもむろに開封すると、鼻歌を歌いながら気絶した男の服を捲り、一切の躊躇いを見せず肌に直接かけてゆくのは予想外だった。
「ほらほら、誰かが通報したら面倒なことになっちゃうよ。早く逃げな」
そう言って彼女は片手を振り、取り巻きをシッシッと追い払う仕草を見せた。続いて宙に向かって人差し指を唇の前で立てた後に、大男を指差す動作を行う。心愛が一体何をしているのか分からない陸は、彼女の視線を追う。すると街灯の横に取り付けられた、防犯カメラが見えた。
「さ、早いとこ逃げちゃおう」
心愛は掌に残ったパッケージの残りを叩いて、払いながら笑うだけだった。
◇ ◇ ◇
タクシーに乗って心愛が告げた行き先は、歓楽街の入り口にあるディスカウントストアの前だった。後部座席に3人が並ぶ中、金髪のウィッグを外した彼女はどこかに電話をしており「うん、あれを適当に差し替えて」と告げていた。
公園から一転、駅を挟んで外の景色は更に賑やかさを増す。見慣れた電飾の数々が窓の外に映り始める。無事戻ってこれた安堵感と、また帰ってきてしまったという不安が同時に陸の胸へと訪れた。
タクシーを降りた後は、心愛は「ほら行くよ」と二人に告げ、店の中へと入っていった。通路が狭く雑多なものが並べられている店内で、彼女の後ろ姿を見失わないように陸は追い掛ける。
黒いカゴの中へと心愛が無造作に放り投げてゆくのは、酒類と肴ばかり。言葉も殆んど交わさず、途中で「二人とも、飲めないヤツないよね?」と尋ねてきた程度だ。タクシーの中でも終始黙っていた陸は、そこで思わず彼女の名を呼んだ。立ち止まってこちらを振り向く小柄な心愛に、陸は苛立ちを露わに尋ねていた。
「何でそんなこと聞くんですか?」
「呑むから聞いたんだけど?」
「オレ、そんな気分じゃないんですが」
「君がそんな気分じゃなくても、私が呑みの気分なんだよ」
問答を続ける気は無いとばかりに、中身が入ったカゴを心愛から押し付けられる。続いて明弘に2つ目のカゴを持たせた心愛が「人の奢りは、吐いてでも呑みまくりなよ」と笑っていた。
酒と肴が入ったレジ袋を二人に持たせて続いて向かった先は、細い路地を通った先にある小さなビルだ。店名も何も書かれていない、古いビルの階段を軽快に登って心愛は二階へとあがる。
二階のスチールドアに『川上興業』とプレートが貼られたドアを押し開け、心愛は「やっほー、カシラいる?」と能天気な声で挨拶をした。彼女は上半身だけを室内に入れていたので内部の様子は陸達からは伺えない。それでも最初に告げた「カシラ」という呼称に加え、部屋の奥から聞こえてくる男達の声でどの様な場所かは想像が付いた。
心愛は目当ての人物を見付けたらしく「呑みするから、上使わせてね」とだけ告げると、ドアを閉めた。重く軋んだドアの音と、心愛の浮かれた鼻歌が酷くアンバランスに見える。
陸と明弘は思わず顔を見合わせたが、互いに言葉を告げる前に「早く行くよ」と心愛に急かされ、階段を登る彼女の後に慌てて続くだけとなった。
階段を登って辿り着いた屋上は、生暖かい風と湿気で出迎えてくれた。
目立ったものは無い。何の変哲もないビルの屋上だ。打ちっぱなしのコンクリートの上に乗った大きな室外機が唸り、温風を撒き散らしている。周りの雑居ビルには高いものが多いし、大通りからも外れているので特別景観が良い訳でも無い。
それでも心愛は「到着!」と告げるなり、陸が持っていた黄色いレジ袋を引ったくる。中から一本の缶ビールを取り出した後は、早速空けて喉を鳴らし始めていた。
「あー、いい汗かいたから染みるわ」
「心愛さん」
陸が彼女の名を呼ぶと「まずは一口飲んでから」と、今しがた空けたビール缶を手渡される。それを受け取り、素直に喉に炭酸と苦みと素早く流し込んだ。味も分からず一気に半分ほどを飲んで返すと、陸は頭を下げた。
「さっきは飛び出してすみませんでした」
「いいって、気にしない」
責められることは無いとは思っていたが、それでも快く笑って許してくれる彼女の横顔を眺める。すると「青春してたのに、まだ気掛かりがあるの?」と心愛が尋ねてきた。陸は素直に「はい」と答える。
「早坂さんを殺したのが、楊さん達だって」
夕方の会話の中で、早坂を殺したのは楊の組織だと凪が言った事が陸はずっと気掛かりだった。
「そうだねぇ。私らも場合によっちゃ、この前のお呼ばれで消されてたかもね」
心愛は陸が極力表へと出さないよう、気遣っていた可能性をいとも簡単に導き出した。笑いながら「陳さん強いからなぁ……私もガチったら殺されるしかないなぁ」と続けて言い出す始末である。
「笑い事じゃないでしょ!?」
「笑い事だよ。だって生きてるだけで儲けもの」
思わず陸が非難するが、等の本人は未だ笑顔を浮かべてビールを煽っていた。
「りっくんも私が拾ってラッキーだったね。こうして笑って飲んでるんだから」
「笑ってるの、姐さんだけっすよ」
これには明弘も突っ込みを入れる。一方の陸は、もう一つ頭にこびりついている疑問も心愛へと伝えた。
「でも、どうしてあの人達が早坂さんを殺す必要があるんですか? 一度だけ会って、ネカフェのカードを1万で作って貰っただけですよ。意味が分かりません」
「凪君はネカフェの名義を貸したから、って言ってたけど……どうだろうねぇ」
そう言って心愛は呑み切ったビール缶をコンクリートの上に置いた。背負っていた小さな鞄から加熱式タバコを取り出し、電源を入れる。
「んまぁ、理由がどうであれ。本物のまこっちゃんは消されたんだよ。これが現実」
30秒程経って準備完了ランプが付いた煙草を口に咥え、夜空に向かって心愛は息を吹きかける。その後で今度は力無く笑うと陸へと再び向き直った。
「ねぇ、りっくん」
「はい」
「君の“好き”ってどんな感じ?」
脈略もなく、唐突過ぎる質問に陸が驚くと「仲良くなった人に、時々聞いてるの」と返された。
「一緒にいると幸せを感じる、とかですか?」
「こりゃまた、凡庸かつ無難だなぁ」
「余り無茶を言わないで下さい」
「身体の相性」
「はい、童貞は黙って」
缶チューハイを飲んで、酔いかけている明弘からの答えは無慈悲に切られる。どうやら事実だったらしく、彼は黙った。陸が驚いて見ると「なんだよ」と言って、明弘が手を上げてきたのでゆるい手刀を避ける。
「そういうの、フツーは姐さんが答えてからする質問じゃないっすか?」
「私には分からないから聞いてるの」
そういえば、と陸は思い出す。自分が拾ってもらってすぐの時、彼女はそんな事を言っていた。明弘の額を人差し指で弾く心愛を眺めながら、陸は尋ね返していた。
「心愛さんは、誰かを好きになったことが無いんですよね?」
「うん、私は『好き』ってのが、良く分からないんだよねぇ」
陸の質問に頷いた後でぐい、とチューハイを飲んで心愛は空を仰ぐ。先程のように力無く笑って屈むと、袋から新しいビールを取り出し陸へと手渡してきた。受け取ったそれはまだ冷たく、水滴がびっしりと付いている。
開けると小気味良い音が、歓楽街の小さなビルの一角で聞こえた。
「リナさん、心配?」
「……はい」
「ま、そうよね」
「もしかしたらリナも捕まって、もう二度と会えないかもと思うと……オレ」
「可能性としては、そういう方面を君が考えるのは自然だね」
言葉が詰まるのと、それを最後まで告げる資格は自分には無い。陸は自分を責めると同時に黙り込んだ。半ばやけに空けたばかりのビールを一気に喉へと押し流してゆく。奥から湧き上がってくる炭酸を出し、不快なアルコールの味に鼻腔を刺激される。ツンと鼻の奥から刺激があがり、僅かに陸の視界が滲んだ。
「心愛さんは、好きって感情だけじゃなくて罪悪感も無いんですか?」
「罪悪感はあったよ」
事も無げに告げた心愛を陸は睨む。目一杯の嫌味のつもりだったのに、はっきりと淀みなく返されるだけだった。
「昔の昔に捨ててきちゃった」
「心愛さんも、拓海さんや凪さんと同じなんですね」
「うん」
これもまたはっきりと、それどころか今度は満面の笑顔で返される。
「だから言ったでしょ?『愛想と尻尾を振りまくって、毎日を面白おかしく生きるのが我が社のモットーです』って」
「姐さん達は、本物のワルなんすね……」
閉口する陸に代わり、明弘がボソリと陸が告げたかった気持ちを告げてくれた。夜空の下とはいえ、屋上に設置された灯りで彼の顔が赤くなっているのが分かる。
「俺の知ってる陸は、いいヤツだ。俺が万引きしたらブチ切れて、竹刀を振り上げて追いかけ回してきたし。中学の奴らにカツアゲされたら、竹刀を振り回してそいつらを叩きのめしてた」
「りっくん、どんだけ竹刀好きなの」
「というより、潘さんが傘立てにいつも入れてたんすよ……」
彼の手元を見ると、チューハイが握られていた。他に缶を空けた形跡は見られない。
明弘と陸は共に育てられたとはいえ、一緒に酒を飲む機会は今日まで一度も訪れなかった。今の顔色と焦点が定まらぬ瞳を見ると、彼が酒に弱かったのだと意外な一面を今更ながら知った。
「コイツ、いい奴過ぎて本当に馬鹿なんですよ。ガキの頃から何も変わってないんです」
だから、と明弘はそこで少し言い淀む。
「仕込むなら軽めの初心者コースからで、お願いします!」
「……ちょっと待って。仕込むって何を?」
そう言って大声と酔い任せに頭を下げる金髪を前にして、心愛の戸惑う表情を陸は初めて見た。
陸が空けたのはチューハイとビールの缶を3本ほどだったが、急激に吸収されたアルコールのせいで頭は回ってぼんやりとしている。しかし野外だからか眠気は不思議と訪れず、仰向けに倒れた姿勢で陸は目を閉じていた。明弘のいびきと下の通りから聞こえる人の声や車の音に耳を傾けていると、そこに混じって足音が聞こえてきた。
足音は徐々に近付き、呆れたような凪の声が陸の耳に届く。
「……何してるの」
「ボーイミーツガールな青春してる」
「ガールは?」
「ここ」
「ただのアルハラだと思うよ、これ」
聞こえた凪の短い息は、溜息だと分かった。
「君は枯れてるねぇ。折角、歳が近い子達とお友達になれるチャンスなのに」
「どうでもいい」
夕方に凪の前から逃げたことに加え、今の言葉を聞いてしまった以上は起きづらい。なので陸は瞼は閉じたままで、凪と心愛の会話に意識を向けることにした。隣に凪が座った気配の後で、缶が開く音が2度。続いてポリ袋の音が聞こえる。
「パパは?」
「少し前に、中華料理をお呼ばれに行ったよ」
「上海蟹?」
「うん」
「今週プリン体祭りで、パパが痛風になっちゃうかもね」
「それは嫌だなぁ……」
心愛の冗談に、凪は笑っている。
「私さ、そこの明弘君にさ『本物のワル』って言われたんだけど……」
「良く分かってるね、明弘さん」
「え、酷くない?」
「事実でしょ」
笑い声程度なら感情はわかるのだが、今の声からでは凪の感情は読み取れない。それでも、険悪といった空気は無いのが陸にとっては救いだった。
「俺も思う。ココさんは、一番残酷だよ」
「そうかな?」
うん、という声の後。心愛が食べていたスナック菓子が、小気味良く割れる音がした。
「凪君」
「なに?」
「りっくんの“好き”って『一緒にいると幸せを感じる』んだってさ」
「陸さんにも、それ聞いたの?」
「うん」
「明弘さんは?」
「童貞の意見は参考になりません」
フッと笑ったあと「そんな基準があったんだ」と言う凪の声は穏やかだ。
「一緒にいると幸せ。助けたい。ずっと笑顔で、生きていたらいい……後は。与え続けたい。服従させたい。欠かせない存在。一緒に死にたい。奪い続けて悲しむ姿を見たい。自分がいなければ、生きている価値すら無いと思わせたい。殺されたい……」
「一部、酷いのが混じってるね。誰に聞いたの?」
「老若男女、職業分け隔てなく」
「色々な人に聞いても、やっぱりココさんには恋愛感情って分かんないでしょ?」
「分かんないね、どんどん分かんなくなる」
「だろうね」
「凪くん、今は?」
心愛の質問には、聞いている陸の方が驚いた。男の自分から見ても凪は美形の部類に入る。女性からの人気はありそうだと思っていたが、10日程一緒に過ごして恋人がいる様な気配もなければ話も無かった。なのでそういう話を避ける人だと、勝手に思っていた。だが彼は、心愛の質問にあっさりと答える。
「前に答えたのと一緒だよ」
「なにそれ、つまんない」
「あとは、陸さんと同じ」
「凪青年の愛も凡庸だねぇ……」
「俺はそれでいいんだよ」
そう言った後で二人は無言になった。耳を済ましても、声はもう聞こえない。代わりに聞こえてくるのは夜風に揺れるポリ袋の音と、遠くで響き始めたパトカーのサイレンの音だけだった。
「陸さん」
僅かな静けさの中、半分陸は眠りかけていた。だが唐突に凪から名前を呼ばれて、身体が跳ねそうになる。
覗き込まれている気配は無いし、単に呼んだだけだろう。そう決めつけて、黙る方を取る。だが看破されていたようで「起きてるでしょう」と追い打ちをかけられた。観念した陸は、寝たままの姿勢で「はい」と答える。
「俺は明日、早坂さんの家に行くけど。どうしたい?」
凪からの予想外の言葉に陸は、驚いて起き上がっていた。
起き上がりすぐさま、目があった凪は「俺はライターだよ」と陸へと告げる。
「アポの取り方なんて幾らでも思いつく。俺が早坂さんに取材を申し込んたのに、当日連絡がなかったから。と電話をしたら、簡単に弔問の約束を取り付けられたよ」
「な、何で行くんですか?」
「君ならそうすると思ったから」
そういって凪は手に持っている、エナジードリンクに口を付けた。
「……待つだけなのは、気が滅入るでしょう。時間を持て余すくらいなら、過去の行動が起こした結果を真正面から受け止める事に当てたらどうかと思って」
「有難うございます」
「うん」
陸は思わず頭を下げたが、アルコールのせいで視界と頭がぐらついた。狸寝入りでは無く、今度は勢い余って蹌踉めいてしまう。もう一度床が近付き、咄嗟に腕を枕にして庇っていた。
頬を受け止めた腕の弾力を感じながら、陸はぼんやりと思考を巡らせる。
早坂の家に行ってどうするのかは分からないし、凪がなぜそんな事を自分に言ったのかも分からない。だけども、行かねばならない。それだけは確固たる意志としてあるものだった。
ぬるい夜風を感じながら陸が瞼を閉じると、リナの顔が浮かぶ。
彼女と一緒に夜を過ごせる日は大抵彼女のマンションにいて、特別な場所やイベントに出掛ける事は殆ど無かった。初めてリナと出会い、緊張して話し掛けた初めての日を思い出す。続いて思い出したのは、窓を開けて暑さを我慢した熱帯夜だった。
引っ付いたら暑いのに、それでも一緒に抱き合って寝ていた夜。
あれは確か彼女が出国する前日――ほんの一ヶ月前の筈なのに、もう随分と昔の事のようにも思えた。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
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(2-3)
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混乱で足元がぐらつき、胃から嫌な感触がせり上がる。それは自分の素性を拓海に看破された時以上の衝撃と感情であった。後ろから「おい陸!」と叫ぶ明弘の声で、陸は自分が走り出していた事に気付く。
身体と心の奥から湧き上がる衝動に任せたまま、外階段を全速力で駆け下りる。階段の鉄板を靴底で叩きつける鈍い金属音に混じり、頭上から叫ぶ明弘の声が聞こえた。だが振り向くこと無く、陸は雑居ビルを後にした。
「どこいくんだよ」
「……うるさい」
「暑いから戻ろうぜ」
「じゃあ、お前だけ帰れ」
返ってきたのは、舌打ちであった。
陸が事務所を飛び出した後に、明弘は追い掛けてきた。凪と心愛は追い掛けてくる気が無いのは知っていた。だが明弘がずっと横を歩いて、自分に構い続けるとは意外だった。
幾ら陽が暮れかけているとはいっても、真夏なので気温も湿度も高い。連日の真夏日を記録する中、ぶっ続けで歩けば暑い。足を止めたら最後、一歩も進む気力を失ってしまいそうだ。だが足を止めるわけにはいかない。幸いにも駅の連絡路を通る時は、暑さはマシだ。なので歩調は決して緩めず、大股で一直線に目的地の中央公園へと向かって歩き続けた。
ひたすら無言で歩き続け、高架を渡って公園へと辿り着く。到着したときには陽は落ちて、公園も街灯で照らされていた。
誠が発見された場所は確かにこの公園なのだが、広すぎてどこかは分からない。
照明で煌めくコーヒー店の横を通り過ぎた後は、明るさも少し落ち着いてきた。陸は更に進む。奥のひっそりと設置されたベンチを見つけると、ようやくそこで腰を降ろす。つい先程まで、隣を歩いていた明弘の姿は消えていた。
息を整えていると、汗が滲み出てシャツがぐっしょりと濡れている事に気付く。
暫く座っていると、両手にジュースの缶を持った明弘が駆け寄ってきた。明弘から500ml缶のジュースを受け取り、二人で一気飲みをする。
身体に染み込む安っぽい味が、今は何よりも美味い。すっかり昼間には鳴かなくなった、蝉の合唱が響き渡る。夜の公園で蝉に負けじと二人は喉を鳴らす。そして無言で、水分を渇望する身体へと流し込んだ。
「ナギが言ってた奴、ここで死んだのか?」
最初に話し掛けてきたのは明弘で、陸は黙って頷いた。
「場所は知らないけど、中央公園で倒れてたって」
「友達だったのか?」
「ソシャゲのフレンドだった。で、ディスコしながら一緒に周回とかしてた」
手に持っていた空き缶をベンチの下にそっと置く。頭上から「ふーん」と気の抜けた声が帰ってきた。
「お前の女は?」
「リナは父ちゃんの仕事で最初会った」
「そっか」
「さっきから何だよお前」
尋ねられる質問には答えていたが、対する明弘の返事は気が抜けた様なものばかりだ。暑さも併せて、苛立ちが重なった陸が指摘する。だが返ってきたものは「別に……」と、今度も気が抜けた返事だった。
隣に座る明弘を睨み付けるが、彼も陸とは目を合わせ無い。暫く待つと、拗ねた様にポツリと答えが返ってきた。
「友達とか、彼女とか“普通っぽい”な」
「お前もつるんでるだろ」
「あれは仲間、ダチじゃない」
「彼女はいないのか?」
今度は陸の方が彼に同じ質問を投げ掛ける番だった。
「オレらが大抵声を掛ける女は、先輩があらかじめ決めてたしよ。フリーのはヘラった家出女だったり、ホストに入れ込んでたり、パパ活狙いだったりだし……面倒臭そうな女ばかりで、興味無かった」
つまらなさそうに告げる明弘の横画を眺めたまま「オレより出逢いがありそうなのに」と思わず口にした。これには「うるせぇよ」と、小突かれる。
「だから、オマエの普通っぽいのは少し羨ましいと思った」
明弘も陸と同じ様に背を丸めて、ベンチの下に空き缶を置く。その後陸へと向けられた目は、昔見た時と全く変わらない澄んだ目だった。
「でもさ明弘、オレも分かってるよ。別に憧れて、嘘の普通っぽさを演じてるわけじゃない」
陸はつま先で赤い石畳を蹴った。
「オレ達は、表には行けない人間だよ。憧れる気はもう起きないかな……」
石畳の表面を何度もなぞり、砂が混じってザラついた感触を味わう。
「父ちゃん達が若い頃やその昔は、まだまだ潜り込んで簡単に表の人間になれたらしいけどさ。デジタル管理になっていって、今はマイナンバーの割り振りだ。偽造も難しいし、造れるものも減っていく。この先オレらみたいな奴は、表に上がるチャンスは殆ど来ない」
「分かってんじゃん、陸も」
「うん、分かってた。分かってるんだよ……」
他に言葉は持ち合わせていなかった。陸と明弘は互いに無言で、ベンチに座り続ける。明弘が自分を追い掛けてきた理由も分かったし、陸もきちんとそれに答えた。
都会の真ん中にぽっかりと空いた、造られた歪な緑の空間。そんな中で空を見上げると、悪趣味な高さの都庁や、それぞれの部屋の灯りが輝くタワーマンションが見える。
地上に目を向ければ、大きな犬の散歩をしている身なりのいい若い夫婦の姿。軽快にジョギングをする人達。
きっと自分達のような存在と一生交わることの無い、裕福な暮らしをしている人達が頻繁に前を通る。そして、悪趣味な蝉の合唱が一斉に流れたり途切れたりを繰り返していた。
「“普通”っていいよなぁ。俺らはスタートから、人生詰みゲーなのによ」
ふと、蝉の合唱が途切れた瞬間。明弘が漏らした言葉に対して、陸は一言だけ「だな」と返した。
「陸、お前そろそろ帰らなきゃダメだろ」
明弘がそう告げたのは、二人で公園に座ってから1時間程が経つ頃だった。
「分かってる、でももう少し……」
「工房だけじゃなくてオッサンのとこも飛び出して、逃げてばっかだな」
「うるさい」
そう告げた後でてっきり言い返してくると思ったが、明弘は陸に何も言わなかった。不思議に思い陸が彼の顔を見る。彼は口を真一文字に結んで、公園の先を睨み付けていた。視線の先を見ると、4人の男性が歩いてくる姿が目に入った。
うち一人は、明らかな異質さを放っていた。遠目に見ても、他の3人より遥かに大きな体躯で見るからにヤバそうな雰囲気だと陸は悟る。彼らがこちらへと近付いてくる中、震えた声で明弘が陸へと小さく呼びかけた。
「陸、オレが引きつけている間。頑張って後一回だけ、ここから逃げろ」
「は?」
「で、ちゃんとオッサンのとこに行け」
続けて「どういうことだよ」と告げた陸の声は、すぐ近くまで近付いてきた男の大声によって掻き消されてしまった。
「おいアキ!」
彼等の歩みは二人の前で止まり、大きな男が一歩前に出る。張り上げた声は空気と鼓膜を震わせ、陸の身体は緊張で強張った。
「探したぜ、アキ。お前なんで昨日から連絡しても出ねぇんだよ」
男は20代半ばに見える、シャツから出ている筋肉質な腕は丸太のようだ。加えて首筋から腕に渡り、びっしりと彫り込まれているタトゥーが物々しさを語っている。明らかに関わっては行けない類の人間だと分かる。だが隣りに座る明弘は立ち上がると、遥かに背が高い男を睨み付けていた。
「俺、お前に来いって言ったよな?」
「行くとは言ってねぇし。それに先輩がやられたんだから、解散だろ」
「俺がトップになっただけだ、解散じゃねぇよ。いいか、今度から俺の招集にはちゃんと答えろ」
「召集とかダセェ言い方すんなし、ゴリラのくせに」
「てめぇブッ殺すぞ!」
「はァ? 誰が誰をブッ殺すって? 意味分かんねぇ事言ってんじゃねえよ、ガンギマリゴリラ」
公園の中にはランニングや犬の散歩などしている人達もちらほらいるが、取り巻きの三人が睨みを利かしていた。加えてレスラーのような巨漢の男が怒っているのだ。目に見える地雷へと突っ込む様な物好きはいない。厄介事と関わらないように、通り過ぎる人は次々と目を逸らして早足で去っていく。
そうしているうちにも、男は明弘の胸倉を掴んで自分の顔面近くまで引き寄せていた。驚いて陸も立ち上がるが、こちらを見た明弘に「オマエは逃げろって」と突き放された。
本当ならばすぐさま警察を呼べばいいのだろうが、自分たちは無戸籍なので一度捕まればすぐには帰れない。何か打開策は無いかと、陸は視線をあらゆる方向へと動かす。すると向こうの道から、軽快に走ってくる金髪の女性の姿が見えた。
ランニング途中の女性はこちらの姿を既に捉えているはずだが、スピードを落とす様子は見られない。それどころか徐々に速度を上げているようだ。あっという間に近付いてきた彼女は勢いを落とさず突然、明弘の胸倉を掴んでいる大男に飛び蹴りを放った。
190cmは超えているはずの大男に躊躇い無く飛び蹴りを決めた小柄な女性は、すかさず蹌踉めいた相手に足払いを入れる。流れるような連撃を受けた男がバランスを崩して、片膝を付いたところ勝負は決まった。彼女は悠々とその巨躯を投げ飛ばしていた。
目の前で起きた出来事に、陸と明弘は呆然とする。その間にもランニングウェアの女性は、間髪入れず他の3人を次々に地面へと叩きつけていた。
「ピンチの時に颯爽と駆け付ける私、マジで格好良くない?」
後ろに結わえた金色の髪をたなびかせながら、男達を沈めた後で耳に入ってきた声は聞き覚えのあるものだった。陸は無言で、4人の男を沈めた女性の姿をまじまじと見る。
得意げに胸を張る心愛に向かって「姐さんゴリラまで沈めるとか、ヤバいっすね」と明弘が告げる。金髪の心愛は口端を上げて、ニヤリと笑っていた。
「君達ねぇ、ここは憩いの場だよ……」
続いて心愛は軽口を叩きながらも、意識が朦朧としている男達が隠し持っていた警棒やスタンガンを手際良く取り上げてゆく。「アッキーこれ持ってて」と、心愛から渡されるそれらを受け取りながら、明弘は「あの投げ飛ばされるやつ、マジ痛かったっすよ」と漏らしていた。
「あらあら、ゴリラ君は高級アロマも嗜んでるのねぇ」
取り上げた獲物を持つ明弘が3人を見張っている中、心愛は完全に意識を失って倒れている大男の傍へとしゃがみ込んだ。彼女がそう言って男のズボンから取り出したのは、透明な小分け袋だった。片手に収まるパッケージを心愛は街灯の光に透かして、愉快そうに笑う。
陸の目からも見えたそれは、茶葉のようなものだった。それは一体何か、おおよそながら陸にも検討がついてしまう。だが心愛はおもむろに開封すると、鼻歌を歌いながら気絶した男の服を捲り、一切の躊躇いを見せず肌に直接かけてゆくのは予想外だった。
「ほらほら、誰かが通報したら面倒なことになっちゃうよ。早く逃げな」
そう言って彼女は片手を振り、取り巻きをシッシッと追い払う仕草を見せた。続いて宙に向かって人差し指を唇の前で立てた後に、大男を指差す動作を行う。心愛が一体何をしているのか分からない陸は、彼女の視線を追う。すると街灯の横に取り付けられた、防犯カメラが見えた。
「さ、早いとこ逃げちゃおう」
心愛は掌に残ったパッケージの残りを叩いて、払いながら笑うだけだった。
◇ ◇ ◇
タクシーに乗って心愛が告げた行き先は、歓楽街の入り口にあるディスカウントストアの前だった。後部座席に3人が並ぶ中、金髪のウィッグを外した彼女はどこかに電話をしており「うん、あれを適当に差し替えて」と告げていた。
公園から一転、駅を挟んで外の景色は更に賑やかさを増す。見慣れた電飾の数々が窓の外に映り始める。無事戻ってこれた安堵感と、また帰ってきてしまったという不安が同時に陸の胸へと訪れた。
タクシーを降りた後は、心愛は「ほら行くよ」と二人に告げ、店の中へと入っていった。通路が狭く雑多なものが並べられている店内で、彼女の後ろ姿を見失わないように陸は追い掛ける。
黒いカゴの中へと心愛が無造作に放り投げてゆくのは、酒類と肴ばかり。言葉も殆んど交わさず、途中で「二人とも、飲めないヤツないよね?」と尋ねてきた程度だ。タクシーの中でも終始黙っていた陸は、そこで思わず彼女の名を呼んだ。立ち止まってこちらを振り向く小柄な心愛に、陸は苛立ちを露わに尋ねていた。
「何でそんなこと聞くんですか?」
「呑むから聞いたんだけど?」
「オレ、そんな気分じゃないんですが」
「君がそんな気分じゃなくても、私が呑みの気分なんだよ」
問答を続ける気は無いとばかりに、中身が入ったカゴを心愛から押し付けられる。続いて明弘に2つ目のカゴを持たせた心愛が「人の奢りは、吐いてでも呑みまくりなよ」と笑っていた。
酒と肴が入ったレジ袋を二人に持たせて続いて向かった先は、細い路地を通った先にある小さなビルだ。店名も何も書かれていない、古いビルの階段を軽快に登って心愛は二階へとあがる。
二階のスチールドアに『川上興業』とプレートが貼られたドアを押し開け、心愛は「やっほー、カシラいる?」と能天気な声で挨拶をした。彼女は上半身だけを室内に入れていたので内部の様子は陸達からは伺えない。それでも最初に告げた「カシラ」という呼称に加え、部屋の奥から聞こえてくる男達の声でどの様な場所かは想像が付いた。
心愛は目当ての人物を見付けたらしく「呑みするから、上使わせてね」とだけ告げると、ドアを閉めた。重く軋んだドアの音と、心愛の浮かれた鼻歌が酷くアンバランスに見える。
陸と明弘は思わず顔を見合わせたが、互いに言葉を告げる前に「早く行くよ」と心愛に急かされ、階段を登る彼女の後に慌てて続くだけとなった。
階段を登って辿り着いた屋上は、生暖かい風と湿気で出迎えてくれた。
目立ったものは無い。何の変哲もないビルの屋上だ。打ちっぱなしのコンクリートの上に乗った大きな室外機が唸り、温風を撒き散らしている。周りの雑居ビルには高いものが多いし、大通りからも外れているので特別景観が良い訳でも無い。
それでも心愛は「到着!」と告げるなり、陸が持っていた黄色いレジ袋を引ったくる。中から一本の缶ビールを取り出した後は、早速空けて喉を鳴らし始めていた。
「あー、いい汗かいたから染みるわ」
「心愛さん」
陸が彼女の名を呼ぶと「まずは一口飲んでから」と、今しがた空けたビール缶を手渡される。それを受け取り、素直に喉に炭酸と苦みと素早く流し込んだ。味も分からず一気に半分ほどを飲んで返すと、陸は頭を下げた。
「さっきは飛び出してすみませんでした」
「いいって、気にしない」
責められることは無いとは思っていたが、それでも快く笑って許してくれる彼女の横顔を眺める。すると「青春してたのに、まだ気掛かりがあるの?」と心愛が尋ねてきた。陸は素直に「はい」と答える。
「早坂さんを殺したのが、楊さん達だって」
夕方の会話の中で、早坂を殺したのは楊の組織だと凪が言った事が陸はずっと気掛かりだった。
「そうだねぇ。私らも場合によっちゃ、この前のお呼ばれで消されてたかもね」
心愛は陸が極力表へと出さないよう、気遣っていた可能性をいとも簡単に導き出した。笑いながら「陳さん強いからなぁ……私もガチったら殺されるしかないなぁ」と続けて言い出す始末である。
「笑い事じゃないでしょ!?」
「笑い事だよ。だって生きてるだけで儲けもの」
思わず陸が非難するが、等の本人は未だ笑顔を浮かべてビールを煽っていた。
「りっくんも私が拾ってラッキーだったね。こうして笑って飲んでるんだから」
「笑ってるの、姐さんだけっすよ」
これには明弘も突っ込みを入れる。一方の陸は、もう一つ頭にこびりついている疑問も心愛へと伝えた。
「でも、どうしてあの人達が早坂さんを殺す必要があるんですか? 一度だけ会って、ネカフェのカードを1万で作って貰っただけですよ。意味が分かりません」
「凪君はネカフェの名義を貸したから、って言ってたけど……どうだろうねぇ」
そう言って心愛は呑み切ったビール缶をコンクリートの上に置いた。背負っていた小さな鞄から加熱式タバコを取り出し、電源を入れる。
「んまぁ、理由がどうであれ。本物のまこっちゃんは消されたんだよ。これが現実」
30秒程経って準備完了ランプが付いた煙草を口に咥え、夜空に向かって心愛は息を吹きかける。その後で今度は力無く笑うと陸へと再び向き直った。
「ねぇ、りっくん」
「はい」
「君の“好き”ってどんな感じ?」
脈略もなく、唐突過ぎる質問に陸が驚くと「仲良くなった人に、時々聞いてるの」と返された。
「一緒にいると幸せを感じる、とかですか?」
「こりゃまた、凡庸かつ無難だなぁ」
「余り無茶を言わないで下さい」
「身体の相性」
「はい、童貞は黙って」
缶チューハイを飲んで、酔いかけている明弘からの答えは無慈悲に切られる。どうやら事実だったらしく、彼は黙った。陸が驚いて見ると「なんだよ」と言って、明弘が手を上げてきたのでゆるい手刀を避ける。
「そういうの、フツーは姐さんが答えてからする質問じゃないっすか?」
「私には分からないから聞いてるの」
そういえば、と陸は思い出す。自分が拾ってもらってすぐの時、彼女はそんな事を言っていた。明弘の額を人差し指で弾く心愛を眺めながら、陸は尋ね返していた。
「心愛さんは、誰かを好きになったことが無いんですよね?」
「うん、私は『好き』ってのが、良く分からないんだよねぇ」
陸の質問に頷いた後でぐい、とチューハイを飲んで心愛は空を仰ぐ。先程のように力無く笑って屈むと、袋から新しいビールを取り出し陸へと手渡してきた。受け取ったそれはまだ冷たく、水滴がびっしりと付いている。
開けると小気味良い音が、歓楽街の小さなビルの一角で聞こえた。
「リナさん、心配?」
「……はい」
「ま、そうよね」
「もしかしたらリナも捕まって、もう二度と会えないかもと思うと……オレ」
「可能性としては、そういう方面を君が考えるのは自然だね」
言葉が詰まるのと、それを最後まで告げる資格は自分には無い。陸は自分を責めると同時に黙り込んだ。半ばやけに空けたばかりのビールを一気に喉へと押し流してゆく。奥から湧き上がってくる炭酸を出し、不快なアルコールの味に鼻腔を刺激される。ツンと鼻の奥から刺激があがり、僅かに陸の視界が滲んだ。
「心愛さんは、好きって感情だけじゃなくて罪悪感も無いんですか?」
「罪悪感はあったよ」
事も無げに告げた心愛を陸は睨む。目一杯の嫌味のつもりだったのに、はっきりと淀みなく返されるだけだった。
「昔の昔に捨ててきちゃった」
「心愛さんも、拓海さんや凪さんと同じなんですね」
「うん」
これもまたはっきりと、それどころか今度は満面の笑顔で返される。
「だから言ったでしょ?『愛想と尻尾を振りまくって、毎日を面白おかしく生きるのが我が社のモットーです』って」
「姐さん達は、本物のワルなんすね……」
閉口する陸に代わり、明弘がボソリと陸が告げたかった気持ちを告げてくれた。夜空の下とはいえ、屋上に設置された灯りで彼の顔が赤くなっているのが分かる。
「俺の知ってる陸は、いいヤツだ。俺が万引きしたらブチ切れて、竹刀を振り上げて追いかけ回してきたし。中学の奴らにカツアゲされたら、竹刀を振り回してそいつらを叩きのめしてた」
「りっくん、どんだけ竹刀好きなの」
「というより、潘さんが傘立てにいつも入れてたんすよ……」
彼の手元を見ると、チューハイが握られていた。他に缶を空けた形跡は見られない。
明弘と陸は共に育てられたとはいえ、一緒に酒を飲む機会は今日まで一度も訪れなかった。今の顔色と焦点が定まらぬ瞳を見ると、彼が酒に弱かったのだと意外な一面を今更ながら知った。
「コイツ、いい奴過ぎて本当に馬鹿なんですよ。ガキの頃から何も変わってないんです」
だから、と明弘はそこで少し言い淀む。
「仕込むなら軽めの初心者コースからで、お願いします!」
「……ちょっと待って。仕込むって何を?」
そう言って大声と酔い任せに頭を下げる金髪を前にして、心愛の戸惑う表情を陸は初めて見た。
陸が空けたのはチューハイとビールの缶を3本ほどだったが、急激に吸収されたアルコールのせいで頭は回ってぼんやりとしている。しかし野外だからか眠気は不思議と訪れず、仰向けに倒れた姿勢で陸は目を閉じていた。明弘のいびきと下の通りから聞こえる人の声や車の音に耳を傾けていると、そこに混じって足音が聞こえてきた。
足音は徐々に近付き、呆れたような凪の声が陸の耳に届く。
「……何してるの」
「ボーイミーツガールな青春してる」
「ガールは?」
「ここ」
「ただのアルハラだと思うよ、これ」
聞こえた凪の短い息は、溜息だと分かった。
「君は枯れてるねぇ。折角、歳が近い子達とお友達になれるチャンスなのに」
「どうでもいい」
夕方に凪の前から逃げたことに加え、今の言葉を聞いてしまった以上は起きづらい。なので陸は瞼は閉じたままで、凪と心愛の会話に意識を向けることにした。隣に凪が座った気配の後で、缶が開く音が2度。続いてポリ袋の音が聞こえる。
「パパは?」
「少し前に、中華料理をお呼ばれに行ったよ」
「上海蟹?」
「うん」
「今週プリン体祭りで、パパが痛風になっちゃうかもね」
「それは嫌だなぁ……」
心愛の冗談に、凪は笑っている。
「私さ、そこの明弘君にさ『本物のワル』って言われたんだけど……」
「良く分かってるね、明弘さん」
「え、酷くない?」
「事実でしょ」
笑い声程度なら感情はわかるのだが、今の声からでは凪の感情は読み取れない。それでも、険悪といった空気は無いのが陸にとっては救いだった。
「俺も思う。ココさんは、一番残酷だよ」
「そうかな?」
うん、という声の後。心愛が食べていたスナック菓子が、小気味良く割れる音がした。
「凪君」
「なに?」
「りっくんの“好き”って『一緒にいると幸せを感じる』んだってさ」
「陸さんにも、それ聞いたの?」
「うん」
「明弘さんは?」
「童貞の意見は参考になりません」
フッと笑ったあと「そんな基準があったんだ」と言う凪の声は穏やかだ。
「一緒にいると幸せ。助けたい。ずっと笑顔で、生きていたらいい……後は。与え続けたい。服従させたい。欠かせない存在。一緒に死にたい。奪い続けて悲しむ姿を見たい。自分がいなければ、生きている価値すら無いと思わせたい。殺されたい……」
「一部、酷いのが混じってるね。誰に聞いたの?」
「老若男女、職業分け隔てなく」
「色々な人に聞いても、やっぱりココさんには恋愛感情って分かんないでしょ?」
「分かんないね、どんどん分かんなくなる」
「だろうね」
「凪くん、今は?」
心愛の質問には、聞いている陸の方が驚いた。男の自分から見ても凪は美形の部類に入る。女性からの人気はありそうだと思っていたが、10日程一緒に過ごして恋人がいる様な気配もなければ話も無かった。なのでそういう話を避ける人だと、勝手に思っていた。だが彼は、心愛の質問にあっさりと答える。
「前に答えたのと一緒だよ」
「なにそれ、つまんない」
「あとは、陸さんと同じ」
「凪青年の愛も凡庸だねぇ……」
「俺はそれでいいんだよ」
そう言った後で二人は無言になった。耳を済ましても、声はもう聞こえない。代わりに聞こえてくるのは夜風に揺れるポリ袋の音と、遠くで響き始めたパトカーのサイレンの音だけだった。
「陸さん」
僅かな静けさの中、半分陸は眠りかけていた。だが唐突に凪から名前を呼ばれて、身体が跳ねそうになる。
覗き込まれている気配は無いし、単に呼んだだけだろう。そう決めつけて、黙る方を取る。だが看破されていたようで「起きてるでしょう」と追い打ちをかけられた。観念した陸は、寝たままの姿勢で「はい」と答える。
「俺は明日、早坂さんの家に行くけど。どうしたい?」
凪からの予想外の言葉に陸は、驚いて起き上がっていた。
起き上がりすぐさま、目があった凪は「俺はライターだよ」と陸へと告げる。
「アポの取り方なんて幾らでも思いつく。俺が早坂さんに取材を申し込んたのに、当日連絡がなかったから。と電話をしたら、簡単に弔問の約束を取り付けられたよ」
「な、何で行くんですか?」
「君ならそうすると思ったから」
そういって凪は手に持っている、エナジードリンクに口を付けた。
「……待つだけなのは、気が滅入るでしょう。時間を持て余すくらいなら、過去の行動が起こした結果を真正面から受け止める事に当てたらどうかと思って」
「有難うございます」
「うん」
陸は思わず頭を下げたが、アルコールのせいで視界と頭がぐらついた。狸寝入りでは無く、今度は勢い余って蹌踉めいてしまう。もう一度床が近付き、咄嗟に腕を枕にして庇っていた。
頬を受け止めた腕の弾力を感じながら、陸はぼんやりと思考を巡らせる。
早坂の家に行ってどうするのかは分からないし、凪がなぜそんな事を自分に言ったのかも分からない。だけども、行かねばならない。それだけは確固たる意志としてあるものだった。
ぬるい夜風を感じながら陸が瞼を閉じると、リナの顔が浮かぶ。
彼女と一緒に夜を過ごせる日は大抵彼女のマンションにいて、特別な場所やイベントに出掛ける事は殆ど無かった。初めてリナと出会い、緊張して話し掛けた初めての日を思い出す。続いて思い出したのは、窓を開けて暑さを我慢した熱帯夜だった。
引っ付いたら暑いのに、それでも一緒に抱き合って寝ていた夜。
あれは確か彼女が出国する前日――ほんの一ヶ月前の筈なのに、もう随分と昔の事のようにも思えた。