表示設定
表示設定
目次 目次




2章2話「友なき方に行く」

ー/ー



2章2話「友なき方に行く」
(2-2)

 それが夢だと陸が分かったのは、ここにいるはずの無い人物が前のソファーに座っていたからだ。偶然にも昨夜見掛けたからなのか、あるいは先日彼に追われて、思い切り肩を掴まれた恐怖からなのかは分からない。
 何故だか解らないが、夢の中にいる彼は心愛達の事務所で話をしていた。

「君、ここに映ってる人達の仲間なんだよね?」
「おう」
「昨日は一緒にいたの?」
「いた」
 穏やかに質問する凪と、軽快に答える彼の声は実に対照的である。
「一緒に何をしてたの?」
「飯奢ってくれるっていうから、待ってた」
 彼の調子は昔のままで、誰の前でも変わらず礼儀知らずな態度を取っていると分かる。起きて文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、所詮は夢なので黙って凪と彼との会話に耳を傾ける方を取った。
「で、こいつら今回の――先輩から受けた中華野郎の仕事は煙草屋で終わりだからって、飯の後ゲーセン前で別れた。でも先輩に渡すアガリをギるって言ってたし、逃げたと思う」
「どこに逃げるか言ってた?」
「知らねぇ、埼京線に乗るっぽかった。多分、西川じゃね?」
「君は逃げなかったんだね」
「オレは何もしてねぇし、その後で潘さんに呼び出されてたしよ」
 最後に告げた凪の問い掛けに対し、彼の口から出た「潘」という名前を聞いた途端――陸は飛び起きていた。


「あ、(ルゥ)が起きた」
明弘(ミンハオ)?」
 陸が幼馴染の名を呼ぶと、正面に座っていた明弘は「よう」と軽く手を上げて挨拶をしてきた。
「おはよう、りっくん」
 続いて上から聞こえてきた心愛の声にも驚き、仰ぎ見る。すると真上からこちらを楽しそうに見下ろしている心愛と目が合った。そこでようやく、何故か自分は事務所にある応接ソファーの上で寝ていた事に気が付いた。
「オレ、なんで……?」
「りっくん、ここ最近全く寝てなかったでしょ?」
 心愛がソファーの背凭れを叩きながら、説明をしてくれる。
「ここに座った途端、コントみたいに倒れ込んで寝落ちしたよ」
「疲れが溜まっていたんだろうね」
 言葉を続けた凪は、対面からだった。さらに「爆睡してたぞ」と返した明弘は、凪の隣に座っていた。「それと、陸さんにお客さん」と凪は最後に、この場所に居るはずがない明弘の存在を説明してくれた。
 夢だと思っていたが、昨日に見た顔をまさかここでも見る羽目になるとは思わなかった。座り直したあとで、思わず「なんでお前がここを知ってるんだよ」と陸は毒づく。

「オマエがここにいるって、潘さんから聞いた」
「父ちゃんから?」
 明弘の口から出た名前に、陸は眉を顰めた。
「潘さんから伝言『工房には帰ってくるな』」
 明弘の口から続く内容は、更に陸を困惑させる。自分が問い掛ける前に「知らないのか?」と逆に尋ねてきたのは明弘の方だ。彼に返す「何が?」という陸の声には、苛立ちが込もってしまっていた。
「デカいところがオマエを探してるって、潘さんから聞いたぞ」
 彼が何を言っているのか、陸には全く分からない。だが明弘の方はもう陸には用が無いらしく、ソファーから立ち上がる。彼の動きを目で追うと、次はデスクの前に腰掛けていた拓海の前で立ち止まった。

「もう一つ、潘さんからの伝言。オッサンに」
「なんだ?」
「『概ね予想通り、期間延長で』」
「分かった」
 短く返した後で、拓海は煙草を手に取って火を点ける。
「お前、ミンハオ……って言ったか」
 拓海が名を呼ぶと、明弘は頷いた。続けて「今は“アキヒロ”って言われる方が多いけどよ」と、欠伸混じりに返していた。
「戻ってくんな、ってお前もアイツに言われたろ?」
「うん、行くとこ無いならオッサンの言う事聞いとけって」
「お前、仕事は?」
「さっきも言った通り、今は何も担当してないし。仲間もバラバラ。」
「本当に半グレの手本みたいなガキだな……」
 煙と共に大きく出た息は、呆れからの溜息なのかは分からない。だが明弘に向けられている拓海の横顔を眺めていると、今の彼と似たような表情で明弘を見ていた潘と面影が重なった。
「潘はともかく、お前が俺らを裏切らない保証はあるのか?」
「ある」
「嘘つけ、今仲間の情報を売ってるじゃねぇか」
「アガリをギって、バックレたらもう仲間じゃねぇし」
 デスクにある煙草のパッケージに伸びた手を叩く拓海と、悪びれもせずに「くれよ」と愚痴る明弘は初対面には見えない。そうさせているのは彼らの態度かもしれないし、陸に昔を懐かしむ気持ちが芽生えているからなのかは分からなかった。

「それに、陸は家族だしよ。陸は今オッサンが面倒みてんだろ?」
「身内なのか?」
 拓海が陸を見て、明弘を指差した。明弘を除く三人の視線がこちらへと向けられ、陸は「はい」と頷く。
「俺ら二人、小さい頃父ちゃんに引き取られたんです」
「りっくんの兄弟なの?」
 今度は「いえ」と即座に否定をする。陸の代わりに、今度は明弘が答えた。
「陸とは一緒に引き取られたけど、俺別に職人になりたくなかったし。潘のオッサンはメチャクチャ厳しくて怖いし。だから出ていっただけ」
「まぁ、普通はそうだろうよ」
 明弘に「アイツ怖いだろ?」と拓海が尋ねる顔は、心做しか楽しそうに見える。一方の明弘も「めちゃくちゃ怖え」と笑っていた。


「しかし、期間延長なぁ……」
 弾んだ声はすぐになりをひそめ、続いて拓海は考える素振りを見せた。吸い終えた煙草をデスクの上にある灰皿で揉み消すと、おもむろにスマートフォンを取り出す。短い操作の後で、彼は耳元へとそれをあてがった。
「――ああ、俺だ」
 通話先の相手と短く言葉を交わしているが、陸からは相手の声は聞き取れない。
「そうか、分かった」
 数往復で会話を終えた拓海は、スマートフォンをデスクの上へと置いた。そしてもう一度、煙草のパッケージへと伸びていた明弘の手を叩く。
「潘に確認した」
「なんだよ、オレ全然信用されてねぇな」
 大人しく叩かれた手を引っ込め、ぼやく明弘を陸はじっと見つめた。
 ブリーチで抜けた金髪に、黒い布地に金文字で漢字と兎が描かれた奇妙なデザインシャツを着ている。こんな格好をした人間を初見で信用しろというのは、無理だと陸ですら思う。だが昔から明弘は周囲の目には無頓着で、全く自覚をしない人間だった。


「意味が分からない、って顔だな」
 拓海が今、自分の前で潘に電話をしていたという事実に陸が戸惑っていると、彼がこちらへと尋ねかけてきた。素直に頷くと続いて「説明する前に、もう一つ確認させてくれ」と静かに告げられる。
 ざわり、と陸の肌が粟立った。
「……お前、もう一つ。俺らに隠してる事があるよな」
 間髪入れずに告げられた言葉と、元刑事の鋭い視線に射抜かれていた。全てを見抜かれていたと悟った途端、陸は何も答えられなかった。
「お前が潘のところを飛び出した本当の原因は、在留カードの書類改ざんじゃない。アイツも判っているから、観念して言ってみろ」
 何も口に出来ない沈黙こそが、明確な答えとなってしまう。「お前、他にも頼まれて造ったよな」という拓海からの言葉には棘が無い。寧ろ諭すような柔らかさに押され、陸は弱々しくも頷いていた。

「小遣い稼ぎで何か造ったのか?」
 明弘からの言葉には「違う」と、首を振る。
「リナがどうしても家族に日本を案内したいって、だから」
「その先、聞きたく無いなぁ……バックレていい?」
 これはソファーの背凭れに腰掛けて、今までのやりとりを眺めていた心愛からのものだった。彼女の提案に対して、今度は凪の方から彼女を諭す言葉が聞こてくる。
「駄目だよ。陸さんの依頼を引き受けたのは社長でしょ」
 凪に対して心愛は「だよねぇ」と苦笑する。それを見ていた陸は「すみません」と、頭を下げるしか無かった。

「……観光ビザとパスポート、造りました。リナの家族、オヤジさんと兄ちゃんの4人分」
「あーっ、もうそれフルコンボじゃん!」
 陸が告白した直後。心愛の叫びとも呻きとも判らない妙な声が、事務所に大きく響いた。
「出稼ぎ不法滞在セットって……若さと才能って、マジで怖い」
「こっちは一気にじゃないです。写真や段取りもあって、4冊を春先から順番に造って先月にようやく完成させました」
 呻く心愛を無視するかのように「一人で作ったの?」と凪から投げ掛けられた質問に、陸は頷く。続いて答えたのは陸本人ではなく、拓海からであった。
「潘の野郎がみっちり10年以上教え込んだら、そうなるよなぁ。目を盗んでとはいえ偽造パスポートなんて、売ったらかなりの値段のモンを作ってるぞ」
「そんな! だってビザは観光ビザですよ?」
「陸、それ以上は俺も潘も追求する気は無い」
「でもリナが、自分が頑張って働いて暮らしてる日本をどうしても見せたいからって……」
「陸オマエ、バカだろ。それ女に騙されてるぞ」
「人の事情や彼女を知らない、馬鹿のお前にだけは言われたく無い」
「あ?」
「君達はもう黙って」
 売り言葉に買い言葉として、明弘の言葉は今の陸にとっては充分過ぎる暴言だ。一触即発になりかけた間に入ったのは、凪の制止であった。昨夜告げられた凪の言葉と笑顔が陸の脳裏に響き、陸は我に返る。

「ドピュアで世間知らずの天才肌職人って、最悪の組み合わせじゃん」
「学校には通えない無戸籍児に、偏った知識と技術ばかりをガキん頃から目一杯に詰め込んだ結果だろうな。そこは潘の責任だ」
「だからココさんも明弘さんも、それに陸さんも。今更過ぎたことを言っても、仕方が無いよ」
 淡々と話す凪の言葉に拓海が「そういう事だ」と頷いていた。

「――で、“期間延長”の話に繋がる。結果だけ言うが、陸。お前が潜伏していたネカフェの場所を潘に伝えたのは俺だ」
 拓海の口から出た予想外の事実に陸が驚いていると、心愛が先に「あ、そうなんだ」と返事をしていた。拓海も「おう」と頷いて話を続ける。
「アイツ、俺個人に依頼してきたんだよ。『弟子がおかしなことをしているから、問い詰めようとしたら逃げた。他に捕まる前に探してくれ』ってな」
「じゃあ私がりっくんを拾ったのは、潘さんに教えた後だったのね」
「ああ、だからお前がコイツを連れて帰った時は正直焦った」
「潘さんが陸を捕まえたら、小遣いくれるって連絡してきたからオレも行ったけどよ。そこの姐さんが可愛いのに、超強くてマジびびった」
「思い出した、私が投げ飛ばしたの……君だったわ」
「うっす」
 飄々と会話に混じった明弘の口には、拓海にねだって貰ったらしい煙草が収まっている。彼はすっかり周りと馴染み、心愛が吸い始めた加熱式タバコの湯気と共に紫煙を重ねて笑っていた。
「俺は陸さんがウチに来た次の日、拓海さんに聞かされたよ」と、最後に答えたのは凪だった。未だに理解は追い付かないが、目の前で次々と語られる現実の種明かしに陸はただ狼狽えるばかりである。
 驚いているのは心愛もだろう。だが陸とは違い、彼女は普段通りの調子だった。それどころか僅かな沈黙の後「言ってよねー」と、彼女は手を叩いて笑い始めた。
 淡々と「言わなくても、ココさんだし問題無いかなと思った」と返す凪にも、彼女は「ひっど」と返すだけだった。

「で、うちの社長が拾ったと話したら、潘が『暫く預かってくれ』と言ってきてな」
「それで今“期間延長”って」
「ああ」
「私的にはやだなぁ……それ」
「もう撤回は出来ないから、今回は諦めるんだな」
「拓さん、マジ鬼だわー」
 結局陸は何一つ理解できずに、彼らの会話は終わってしまった。
 各々が気ままに吐いた煙草の煙で、昼間の事務所が薄く霞んで目に映る。
 まるでそれは現実のように思えず、未だ夢の中にでも居るかのような曖昧さを陸に感じさせた。曖昧な意識の中でも、自分が必死になって行ってきた今までの行動が全て、彼らの掌の上で転がされているような感じがして無気力さを覚える。
 無論それは杞憂であり、全ては偶然が重なった末の結果なのだろう。だが胃の奥からムカつきが湧き上がり、目の奥から痛みが上がり頭痛となった。

 有害な霞のせいか、尚も蓄積され続ける疲労とストレスのせいかは分からない。それでも痛む頭を抑えて蹲る中。陸の視界の端には――静かに立ち上がって、事務所の窓を換気する凪の姿がチラリと映った。




 ◇ ◇ ◇



 翌日の午前中、陸が立ち会ったのは興信所のごく普通の素性調査だった。
 調査対象は40代の男性で、依頼主は30代の女性だ。事務所で拓海が報告の対応をしている最中で、水商売風の派手な服装の女性だった。
 最初はどこにでもある浮気調査の類だと思って、陸も特に興味は抱かなかった。デスクに座り、拓海の邪魔をしないようにしていた。だが拓海が調査報告を依頼主に渡した後で、彼女の様子が徐々に変貌していったのだ。

「あの野郎、ブッ殺してやる!」
 女性の口から出た物騒な言葉は、もはや何度目かも判らない。
 殺す、許さない、裏切った、世の中みんなクソ、絶対おかしい、あの女が騙した、悪いのはアイツ。調査報告に目を通し終えてからは、怨嗟のオンパレードだった。
「あと言ってないのは……『あんなに愛し合ったのに』か」
 女性が叫んでいた数々の怨嗟を拓海は指折り数えていたようで、呑気な調子で眼前の怒り狂う女に向けて尋ねる。陸にとっては信じられない様な行為だが、女性にとっても同様らしかった。みるみるうちに、濃い化粧の顔が更なる怒りで赤く染まってゆく様が伺えた。
「アンタも私を馬鹿にして! ぶっ殺すわよ!」
「おーおー、ついに俺への恐喝もプラスか」
 後ろから眺めているので、陸には拓海の表情は分からない。だが小刻みに揺れる背中や言動から見ると、客に対する対応としては相応しくない。
「私は客よ!」
「お客様は、立派なカスハラ女じゃねぇか」
 その言葉が決定打となった。女性は勢い良くテーブルの上に乗った残りの資料を引ったくるように取ると、ハイブランドのボストンバックの中に無造作に突っ込んだ。彼女に向けて「おい」と拓海は追い打ちを掛ける。
「お客様。残りの30万、払うもの払って気持ちよく帰れ」
「分かってるわよ!」
 悲鳴じみた叫びと共に、女性は銀行名が印刷された封筒を乱暴にテーブルの上へと叩き付けた。直ぐ様拓海は封筒の中身を数える。「5万足りねぇ」と彼が低い声で呟くと、更に叫び声が上がり、女性はテーブルの上にむき出しの札を殴るように叩き付けて立ち上がっていた。
「もう二度と来ないから!」
 まるで捨て台詞の様な客の文句に「毎度あり」と、全く気持ちがこもっていない拓海の声が重なった。
 アルミ製のドアが乱暴に締まり、コツコツと廊下を響かせるヒールの音が遠ざかる。最後にエレベーターの扉を蹴ったらしく、大きな音が鳴った。

「アイツ、常連だよ」
 女性が立ち去った事を確認した後で、振り返った拓海の顔にはやはり苦笑が浮かんでいた。ソファーの上から腕を伸ばしてきたので、陸は灰皿と煙草を持って彼の傍へと近付いた。手渡しながら「浮気調査のですか?」と尋ねる。
「マッチングアプリで知り合った相手の素行調査で、三回目だな」
 受け取るなりすぐに煙草を咥え、拓海は肩を揺らして笑った。
「今んとこ打率は10割だ」
「それって」
「ああいう手合いは相手の男にとっても俺らにとっても、いいカモなんだよ」
 拓海はくすんだ真鍮のオイルライターで火を付けて、勢い良く蓋を閉じる。ライターの見た目とは反対に、澄んだ金属音が二人きりの事務所で響き渡った。
「なんか、可哀想ですね」
「そうか?」
「だってあの人、マッチングアプリで騙されてたんでしょ?」
「……あの女の場合は、少し違うかもなぁ」
 陸が首を傾げると「アイツが使ってるのは、売り相手募集の裏マッチングアプリだよ」と拓海が言葉を追加した。

「ロクに相手の事を知らないうちから、金を持っている優しい男に勝手に惚れて。理想を押し付けまくって、先走って結婚するって決めつけてからの依頼だしなぁ。典型的な勘違い女の末路だぞ」
「それでも、可哀想だと思います」
「おいおい、可哀想なのは男の方だろうが」
 苦笑混じりに拓海がスマホを操作して差し出してきたので、陸はそれを受け取って彼の隣に腰掛ける。受け取って目に入ったのは、ストアを介さずに直ダウンロードするタイプのマッチングアプリの説明画面だった。
「相手は最初から遊び相手を探すつもりで、それをしてるんだぞ。にも関わらず勝手に興信所に依頼して素行まで調べ上げられて、プライベートを晒される。挙げ句『私を騙して許さない、ブッ殺す』とか、虚言を重ねて家に押し掛けてくるってオチだ」
「でもそれは、さっきの人が騙されていないって理由にはならないんじゃ」
「お前の理屈で見るとしたら、あの女は三連続で悪い男に騙されたってことだぞ」
 半分からかいを混じえてなのか、笑いながら告げる拓海に陸は返す言葉を持ち合わせていない。

「まぁ、今週中にニュースにならなきゃ相手も生き延びるだろうよ」
 万が一起こり得る犯罪を未然のうちに止めなかった。拓海にそう咎めるのは無駄である。それはこの10日ほどの付き合いで、分かってしまったので黙るしか無い。ただ目の前にある問題だけは見過ごすわけにはいかず、陸は拓海の名を呼ぶ。
 続いて陸がそっと指差したのは、女性が置いていったテーブルの上にある一万円札だ。
「それ、一番上は偽札です」
「マジか?」
 驚く拓海に「はい」と頷く。続いて封筒も渡されたので、陸は中身を全部確認する。封筒の中身は本物だ。どうやら、1枚だけ紛れていたようだ。
「この前、見たやつですね」
 先日手渡された時に覚えていた記番号を拓海に告げる。彼も番号を確認したらしく、溜息を吐いた後で一万円札を灰皿の下に置いた。吸っていた煙草を灰皿に乱暴に押し付け、もう一度溜息を吐く。


 隣でぼやく拓海を眺めて、そういえば。と、陸の中である質問が浮かんだ。
 頭に過ったきっかけは、拓海と凪がスーツを着た姿の画像である。今しがたスマートフォンを見せてもらった時に、うっかり操作を間違って見てしまったホーム画面であった。
「拓海さんは凪さんと仲、いいですよね」
 気持ちの切り替えも兼ねてか、「おう」と軽快に拓海は答える。
「凪さんって多分オレと歳、そんなに離れてないのに落ち着いていますよね」
「そうだなぁ」
「オレも立派に落ち着いた大人になったら、父ちゃんは喜んでくれると思います?」
 なんだ、と拓海が笑う。陸が伝えたかった事を汲んでくれたのだろう。その後で「そりゃ喜ぶ」と言ってくれた。

「そういやお前、潘の事父ちゃんって呼ぶんだな」
「変ですか?」
 拓海は「いや」と首を振った。「なんか、しっくりくるんです」と陸が続けると「そうか」と告げて彼は少し目を細めた。
「凪には、一度も言われたことがねぇな……」
 ぽつりと続いた拓海の一言に、陸は首を傾げた。先日、リナのマンションへと向かった時に凪と交わした会話を思い返し、聞いたままの事を伝える。
「この前、凪さん『子供の頃、父さんになりたかった』って言ってましたよ」
 マンションからの帰り、凪は自分に向かって確かに言った。単に照れ臭くて父親である拓海本人を前にしては、呼ばないだけかもしれない。だがそれを聞いた拓海は何度か瞬きをした後で「そいつはきっと、アイツの死んだ親父の方だよ」と、口端を上げて笑った。
 少し雰囲気が緩んだ拓海も意外だが、彼の口から出た事実の方に驚いた。表情に出てしまったらしく「俺は独身だよ。岸と横田、苗字も違うだろ?」と、言葉を付け足される。

「凪の親父とは親友でな……アイツがガキの頃に死んでから、ずっと俺が面倒を見てきた」
「凄く仲が良くて、本当の親子と思ってました」
「繋がってないのは血縁関係だけだな。でも俺にとっては自慢の息子だよ」
 緩んだ雰囲気とは裏腹に、今度は少し乾いた笑い方をされた。
「なぁ、陸」
 名を呼ばれて陸は返事をする。「その、凪の事なんだが……」と拓海は短い髪を掻いた。
「この前、お前が物事を知らないのは潘の責任だ。って俺、言っただろう?」
「はい」
「アイツもお前と同じでなぁ」
 陸が「同じ?」と驚いて拓海を見ると、困った様子が伺えた。彼はテーブルに腕を伸ばして真鍮のライターを取る。何度か蓋を開け閉めして、彼はそれを握り込んだ後に言葉が続く。
「まぁ……ちょっと、いやかなり。ああなったのは、育てた俺の責任でもあるから。余り嫌わないでやってくれ」
「多分、凪さんは何も間違って無いと思います……」
「にしても、言い方ってもんがなぁ」
「そうですね。でも凪さん、オレの事嫌いみたいだし。だったらオレも正直、好きになれるかは分かんないです」
「だよなぁ、すまない」
 話しながらも陸は先程見た、拓海のスマートフォンの画像を思い出していた。
 親子がスーツ姿で並ぶ写真、映っていた凪の顔は今と殆んど変わりない。あれはきっと、成人式の写真なのだろう。羨望の様な嫉妬の様な――言葉に表せない感情で、陸の胸が酷くざわついた。

「オレはどうなんでしょうね、父ちゃんって言ってますけど。ウザがられてたかな」
「どうだろうなぁ……」
 拓海は少し困ったように頭を掻く。彼と凪の会話や、昨日の明弘とのやり取りを見ているうちに、陸は潘に対して自責の念が積み重なってゆく錯覚を受けていた。
 幼い頃に引き取られてから、厳しくも自分や明弘を育ててくれた潘という男。そんな相手から背を向けて逃げたにも関わらず、未だに彼を「父ちゃん」と呼ぶ自分に、厚かましさを覚えていた。加えて彼に一言たりとも弁明すること無く、逃げ続けている現状に罪悪感が募るばかりだ。
「潘に限ってはそんな事無いと思うんだが。俺からはハッキリと言えねぇわ」
「違った時に、無責任になるからです?」
「それもある。だがお前が直接聞かない限り、判らないことを他人の俺が憶測で断言するのは。どう答えても違うと思った」
 肩に手を置かれ、軽く叩かれる。「帰ったら聞いてみろよ」そう告げる拓海の声色は優しかった。



「――さてと、出掛けてくる」
 それは二人きりの事務所で会話を終えてから、さらに暫く経ってからの事だった。拓海が告げてデスクから立ち上がる。ソファーに座っていた陸がタブレットから顔を上げて振り返ると、こちらに歩いてくる拓海と目が合った。
「オレ、一人でいいんですか?」
「どう思う?」
 拓海から返されたのは問い掛けだった。考えていると「一つヒントをやるよ」と続け様に告げられる。
「昨日、明弘が言ってた『お前を探しているデカいとこ』あれはこの前、ウチに偽札の流通調査を依頼している楊ってヤツがいる組織だ」
「それって……」
「会社で言えば本社は海の向こうで、楊は日本支社の副社長ってとこだ。フロント企業では青年実業家だし、間違っちゃいない」
 にこやかに笑って、自分へと話し掛けてきた楊という男は犯罪者だとは思っていた。だが大陸系の直属とは思いもよらず、今更のようにあの時自分がいかに危うい場所にいたかを思い知る。顔が強張ったところで「なぁ、陸」と拓海に名を呼ばれ、軽く肩を叩かれた。
「――どうして“今”お前が、ここに座れているんだろうな?」
 一言一句ゆっくりと、氷の冷たさと鋼の重みを帯びていた。先程笑いながら優しい声色で、凪との関係を話してくれた男とはまるで別人だ。

「彼女が心配で頭がバカになるのは分かる。それでも他の事を考えるってのも、貴重で大切な時間だぞ」
 最後にそれだけを告げると彼は「じゃあな」といって、本当に事務所を後にしてしまった。事務所の扉が閉まる直前に見えた、拓海の背中を凝視することしか出来なかった。ドアが閉まり、遠ざかった足音の後に静寂が訪れる。
 ようやくそこで、先程優しく自分へと語りかけていた拓海も凪と同じだということが分かる。彼は決して、優しい父親などでは無い。
 金縛りから解けたように、陸は誰もいない事務所を見渡した。
 汚れた雑居ビルの3階、訪れる客は主に興信所への依頼と、情報屋や裏世界の住民達。一般社会と重なっていながら、僅かにズレた世界の異質な空間だ。陸という一人の存在が佇むには、余りにも恐ろし過ぎる場所であった。

 凪は他の仕事で出掛けていて、心愛も昼過ぎまでは帰ってこない。
 たった一人の空間で、陸は不安で打ち震える。外の街路樹に張り付いた蝉の声が聞こえる程、事務所の中は静まり返っていた。しばらく経てば恐怖は収まるだろうが、今は現実を知った震えの方が酷い。
 必死に震えを抑えようと、ソファーに座ったまま両手で顔を覆って蹲る。静かに恐怖の収まりを待とうとした時だった。
 エレベーターの駆動音と、3階のフロアでドアが開く歪な音が廊下に響き渡った。直後にコツコツと廊下を歩く足音が陸の鼓膜と心臓を刺激する。酷く怖い、だが叫ぶわけにも逃げる場所も無い。
 足音は事務所の前で止まり、少しの間があった後。
 ドアが勢い良く開かれ、陸の喉奥で小さな悲鳴が漏れた。

「よう」
 ドアが開いて、顔を出したのは派手なシャツを着た明弘だった。
 名前を呼ぼうにも喉が乾ききって、声は掠れて出ない。明弘は気にする様子も無く、「やっぱり、オマエ一人だよなぁ」と言いながら、づかづかと事務所に足を踏み入れる。そして陸が座る応接ソファーの対面に、勢い良く腰を降ろした。
「さっきオッサンが出ていったけど、オマエ一人って大丈夫か?」
「な、なんで知ってるんだよ」
「オレ朝からここら辺張ってたし」
 赤色の派手なシャツを仰ぎながら、明弘は暑いと言って立ち上がる。壁際に設置されているエアコンのパネルをいじり、温度を下げ始めた。再び腰を降ろして買ってきた缶ジュースを開けている。彼の鼻頭と頬は日焼けで赤く染まっていた。
「そしたらオッサンが出てきてさ。オレ、お前が心配だから見に来たんだよ」
「明弘、お前だって悪いヤツだろ。なんで構うんだよ、オレを売る気か?」
「はァ? 家族は売らねぇよ」
「家族だったのは昔の話だろ。今の仲間は?」
「あー、それな」
 500mlの缶ジュースを一気に煽った後で、明弘は大きく息を吐いた。「昨日お前らんとこから帰った後の話なんだけどよ」まだ暑さが収まらないらしい。シャツのボタンを全部外して、明弘はパタパタと仰ぐ。
「一番上の人が中華野郎の名前を騙って、面子揃えてたらしくてよ。下手打って昨日ブッ殺された。次仕切ろうとしたやつは、完全にキマッてるから俺大嫌いなんだよなぁ……」
「お前まさか、昨日凪さんに言ったのって」
「ああだってアイツ、オレらの事知ってたから売った。中華野郎とも知り合いらしいし、潘さんはオッサンと昔からの付き合いって言ってたし。別にいいかなって」

「でも……明弘、家から出ていったろ。父ちゃんと仲悪かったじゃないか」
 明弘が「いや?」とのんびりと言う。
「陸はオレと違って潘さんに気に入られたけど。オレは合わなかったってだけだ。だから、恨むとか仲が悪いとかはお互い無いぞ」
 明弘から聞かされた事実に、衝撃を受ける。てっきり潘と明弘は昔から、毎日のように怒鳴り合っていたし。潘の厳しさに耐えかねず出ていったとばかり思っていた。
「潘さんが俺に『悪さをするなら陸に悪影響だから出ていけ』って、言ってきたのはマジだぜ」
「その後、お前はどうしてたの?」
「んー、盗みして年少行って戻っての繰り返し」
「……やっぱり、悪いヤツじゃないか」
「陸お前、悪い奴が大嫌いなのは昔から変わんないな」
 そう言って明弘はテーブルの上へと顔を近付けた。
 何を見ているのかと思えば、拓海が灰皿の下に置いた1万円札を彼は眺めていた。次にそれを当たり前のように取る。彼の行動を予測していた陸は「それ偽札」と告げる。明弘は腕を伸ばして札を透かし見た後「じゃあセルフレジは駄目だな」と言って、悪気無くポケットへと突っ込んでいた。
 陸が閉口していると、明弘はそのまま「――でもよ、」と続ける。今度は灰皿を手に取り、中に入っている吸い殻を指先で摘んでチェックを始めた。

 幾つかの吸い殻を選んだ後で、一番葉が残った一本を口に咥えて火を付ける。一度は役目を終えた吸い殻は、再び紫煙をくゆらせ上へと白い煙を一本上げてゆく。明弘はエアコンの温度を下げたついでに風量も強くしたらしく、途中まで登った細い煙は天井付近でフッと掻き消された。

「俺らって、どうせ悪い奴らから生まれたんだし。悪い事をしなきゃ生きていけないんだぜ?」
 煙の如く、当たり前のように吐いた明弘の言葉に。目の前で座る陸には、返す言葉は何も持ち合わせていなかった。







スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 2章3話「落ちたナイフ」


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



2章2話「友なき方に行く」
(2-2)
 それが夢だと陸が分かったのは、ここにいるはずの無い人物が前のソファーに座っていたからだ。偶然にも昨夜見掛けたからなのか、あるいは先日彼に追われて、思い切り肩を掴まれた恐怖からなのかは分からない。
 何故だか解らないが、夢の中にいる彼は心愛達の事務所で話をしていた。
「君、ここに映ってる人達の仲間なんだよね?」
「おう」
「昨日は一緒にいたの?」
「いた」
 穏やかに質問する凪と、軽快に答える彼の声は実に対照的である。
「一緒に何をしてたの?」
「飯奢ってくれるっていうから、待ってた」
 彼の調子は昔のままで、誰の前でも変わらず礼儀知らずな態度を取っていると分かる。起きて文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、所詮は夢なので黙って凪と彼との会話に耳を傾ける方を取った。
「で、こいつら今回の――先輩から受けた中華野郎の仕事は煙草屋で終わりだからって、飯の後ゲーセン前で別れた。でも先輩に渡すアガリをギるって言ってたし、逃げたと思う」
「どこに逃げるか言ってた?」
「知らねぇ、埼京線に乗るっぽかった。多分、西川じゃね?」
「君は逃げなかったんだね」
「オレは何もしてねぇし、その後で潘さんに呼び出されてたしよ」
 最後に告げた凪の問い掛けに対し、彼の口から出た「潘」という名前を聞いた途端――陸は飛び起きていた。
「あ、|陸《ルゥ》が起きた」
「|明弘《ミンハオ》?」
 陸が幼馴染の名を呼ぶと、正面に座っていた明弘は「よう」と軽く手を上げて挨拶をしてきた。
「おはよう、りっくん」
 続いて上から聞こえてきた心愛の声にも驚き、仰ぎ見る。すると真上からこちらを楽しそうに見下ろしている心愛と目が合った。そこでようやく、何故か自分は事務所にある応接ソファーの上で寝ていた事に気が付いた。
「オレ、なんで……?」
「りっくん、ここ最近全く寝てなかったでしょ?」
 心愛がソファーの背凭れを叩きながら、説明をしてくれる。
「ここに座った途端、コントみたいに倒れ込んで寝落ちしたよ」
「疲れが溜まっていたんだろうね」
 言葉を続けた凪は、対面からだった。さらに「爆睡してたぞ」と返した明弘は、凪の隣に座っていた。「それと、陸さんにお客さん」と凪は最後に、この場所に居るはずがない明弘の存在を説明してくれた。
 夢だと思っていたが、昨日に見た顔をまさかここでも見る羽目になるとは思わなかった。座り直したあとで、思わず「なんでお前がここを知ってるんだよ」と陸は毒づく。
「オマエがここにいるって、潘さんから聞いた」
「父ちゃんから?」
 明弘の口から出た名前に、陸は眉を顰めた。
「潘さんから伝言『工房には帰ってくるな』」
 明弘の口から続く内容は、更に陸を困惑させる。自分が問い掛ける前に「知らないのか?」と逆に尋ねてきたのは明弘の方だ。彼に返す「何が?」という陸の声には、苛立ちが込もってしまっていた。
「デカいところがオマエを探してるって、潘さんから聞いたぞ」
 彼が何を言っているのか、陸には全く分からない。だが明弘の方はもう陸には用が無いらしく、ソファーから立ち上がる。彼の動きを目で追うと、次はデスクの前に腰掛けていた拓海の前で立ち止まった。
「もう一つ、潘さんからの伝言。オッサンに」
「なんだ?」
「『概ね予想通り、期間延長で』」
「分かった」
 短く返した後で、拓海は煙草を手に取って火を点ける。
「お前、ミンハオ……って言ったか」
 拓海が名を呼ぶと、明弘は頷いた。続けて「今は“アキヒロ”って言われる方が多いけどよ」と、欠伸混じりに返していた。
「戻ってくんな、ってお前もアイツに言われたろ?」
「うん、行くとこ無いならオッサンの言う事聞いとけって」
「お前、仕事は?」
「さっきも言った通り、今は何も担当してないし。仲間もバラバラ。」
「本当に半グレの手本みたいなガキだな……」
 煙と共に大きく出た息は、呆れからの溜息なのかは分からない。だが明弘に向けられている拓海の横顔を眺めていると、今の彼と似たような表情で明弘を見ていた潘と面影が重なった。
「潘はともかく、お前が俺らを裏切らない保証はあるのか?」
「ある」
「嘘つけ、今仲間の情報を売ってるじゃねぇか」
「アガリをギって、バックレたらもう仲間じゃねぇし」
 デスクにある煙草のパッケージに伸びた手を叩く拓海と、悪びれもせずに「くれよ」と愚痴る明弘は初対面には見えない。そうさせているのは彼らの態度かもしれないし、陸に昔を懐かしむ気持ちが芽生えているからなのかは分からなかった。
「それに、陸は家族だしよ。陸は今オッサンが面倒みてんだろ?」
「身内なのか?」
 拓海が陸を見て、明弘を指差した。明弘を除く三人の視線がこちらへと向けられ、陸は「はい」と頷く。
「俺ら二人、小さい頃父ちゃんに引き取られたんです」
「りっくんの兄弟なの?」
 今度は「いえ」と即座に否定をする。陸の代わりに、今度は明弘が答えた。
「陸とは一緒に引き取られたけど、俺別に職人になりたくなかったし。潘のオッサンはメチャクチャ厳しくて怖いし。だから出ていっただけ」
「まぁ、普通はそうだろうよ」
 明弘に「アイツ怖いだろ?」と拓海が尋ねる顔は、心做しか楽しそうに見える。一方の明弘も「めちゃくちゃ怖え」と笑っていた。
「しかし、期間延長なぁ……」
 弾んだ声はすぐになりをひそめ、続いて拓海は考える素振りを見せた。吸い終えた煙草をデスクの上にある灰皿で揉み消すと、おもむろにスマートフォンを取り出す。短い操作の後で、彼は耳元へとそれをあてがった。
「――ああ、俺だ」
 通話先の相手と短く言葉を交わしているが、陸からは相手の声は聞き取れない。
「そうか、分かった」
 数往復で会話を終えた拓海は、スマートフォンをデスクの上へと置いた。そしてもう一度、煙草のパッケージへと伸びていた明弘の手を叩く。
「潘に確認した」
「なんだよ、オレ全然信用されてねぇな」
 大人しく叩かれた手を引っ込め、ぼやく明弘を陸はじっと見つめた。
 ブリーチで抜けた金髪に、黒い布地に金文字で漢字と兎が描かれた奇妙なデザインシャツを着ている。こんな格好をした人間を初見で信用しろというのは、無理だと陸ですら思う。だが昔から明弘は周囲の目には無頓着で、全く自覚をしない人間だった。
「意味が分からない、って顔だな」
 拓海が今、自分の前で潘に電話をしていたという事実に陸が戸惑っていると、彼がこちらへと尋ねかけてきた。素直に頷くと続いて「説明する前に、もう一つ確認させてくれ」と静かに告げられる。
 ざわり、と陸の肌が粟立った。
「……お前、もう一つ。俺らに隠してる事があるよな」
 間髪入れずに告げられた言葉と、元刑事の鋭い視線に射抜かれていた。全てを見抜かれていたと悟った途端、陸は何も答えられなかった。
「お前が潘のところを飛び出した本当の原因は、在留カードの書類改ざんじゃない。アイツも判っているから、観念して言ってみろ」
 何も口に出来ない沈黙こそが、明確な答えとなってしまう。「お前、他にも頼まれて造ったよな」という拓海からの言葉には棘が無い。寧ろ諭すような柔らかさに押され、陸は弱々しくも頷いていた。
「小遣い稼ぎで何か造ったのか?」
 明弘からの言葉には「違う」と、首を振る。
「リナがどうしても家族に日本を案内したいって、だから」
「その先、聞きたく無いなぁ……バックレていい?」
 これはソファーの背凭れに腰掛けて、今までのやりとりを眺めていた心愛からのものだった。彼女の提案に対して、今度は凪の方から彼女を諭す言葉が聞こてくる。
「駄目だよ。陸さんの依頼を引き受けたのは社長でしょ」
 凪に対して心愛は「だよねぇ」と苦笑する。それを見ていた陸は「すみません」と、頭を下げるしか無かった。
「……観光ビザとパスポート、造りました。リナの家族、オヤジさんと兄ちゃんの4人分」
「あーっ、もうそれフルコンボじゃん!」
 陸が告白した直後。心愛の叫びとも呻きとも判らない妙な声が、事務所に大きく響いた。
「出稼ぎ不法滞在セットって……若さと才能って、マジで怖い」
「こっちは一気にじゃないです。写真や段取りもあって、4冊を春先から順番に造って先月にようやく完成させました」
 呻く心愛を無視するかのように「一人で作ったの?」と凪から投げ掛けられた質問に、陸は頷く。続いて答えたのは陸本人ではなく、拓海からであった。
「潘の野郎がみっちり10年以上教え込んだら、そうなるよなぁ。目を盗んでとはいえ偽造パスポートなんて、売ったらかなりの値段のモンを作ってるぞ」
「そんな! だってビザは観光ビザですよ?」
「陸、それ以上は俺も潘も追求する気は無い」
「でもリナが、自分が頑張って働いて暮らしてる日本をどうしても見せたいからって……」
「陸オマエ、バカだろ。それ女に騙されてるぞ」
「人の事情や彼女を知らない、馬鹿のお前にだけは言われたく無い」
「あ?」
「君達はもう黙って」
 売り言葉に買い言葉として、明弘の言葉は今の陸にとっては充分過ぎる暴言だ。一触即発になりかけた間に入ったのは、凪の制止であった。昨夜告げられた凪の言葉と笑顔が陸の脳裏に響き、陸は我に返る。
「ドピュアで世間知らずの天才肌職人って、最悪の組み合わせじゃん」
「学校には通えない無戸籍児に、偏った知識と技術ばかりをガキん頃から目一杯に詰め込んだ結果だろうな。そこは潘の責任だ」
「だからココさんも明弘さんも、それに陸さんも。今更過ぎたことを言っても、仕方が無いよ」
 淡々と話す凪の言葉に拓海が「そういう事だ」と頷いていた。
「――で、“期間延長”の話に繋がる。結果だけ言うが、陸。お前が潜伏していたネカフェの場所を潘に伝えたのは俺だ」
 拓海の口から出た予想外の事実に陸が驚いていると、心愛が先に「あ、そうなんだ」と返事をしていた。拓海も「おう」と頷いて話を続ける。
「アイツ、俺個人に依頼してきたんだよ。『弟子がおかしなことをしているから、問い詰めようとしたら逃げた。他に捕まる前に探してくれ』ってな」
「じゃあ私がりっくんを拾ったのは、潘さんに教えた後だったのね」
「ああ、だからお前がコイツを連れて帰った時は正直焦った」
「潘さんが陸を捕まえたら、小遣いくれるって連絡してきたからオレも行ったけどよ。そこの姐さんが可愛いのに、超強くてマジびびった」
「思い出した、私が投げ飛ばしたの……君だったわ」
「うっす」
 飄々と会話に混じった明弘の口には、拓海にねだって貰ったらしい煙草が収まっている。彼はすっかり周りと馴染み、心愛が吸い始めた加熱式タバコの湯気と共に紫煙を重ねて笑っていた。
「俺は陸さんがウチに来た次の日、拓海さんに聞かされたよ」と、最後に答えたのは凪だった。未だに理解は追い付かないが、目の前で次々と語られる現実の種明かしに陸はただ狼狽えるばかりである。
 驚いているのは心愛もだろう。だが陸とは違い、彼女は普段通りの調子だった。それどころか僅かな沈黙の後「言ってよねー」と、彼女は手を叩いて笑い始めた。
 淡々と「言わなくても、ココさんだし問題無いかなと思った」と返す凪にも、彼女は「ひっど」と返すだけだった。
「で、うちの社長が拾ったと話したら、潘が『暫く預かってくれ』と言ってきてな」
「それで今“期間延長”って」
「ああ」
「私的にはやだなぁ……それ」
「もう撤回は出来ないから、今回は諦めるんだな」
「拓さん、マジ鬼だわー」
 結局陸は何一つ理解できずに、彼らの会話は終わってしまった。
 各々が気ままに吐いた煙草の煙で、昼間の事務所が薄く霞んで目に映る。
 まるでそれは現実のように思えず、未だ夢の中にでも居るかのような曖昧さを陸に感じさせた。曖昧な意識の中でも、自分が必死になって行ってきた今までの行動が全て、彼らの掌の上で転がされているような感じがして無気力さを覚える。
 無論それは杞憂であり、全ては偶然が重なった末の結果なのだろう。だが胃の奥からムカつきが湧き上がり、目の奥から痛みが上がり頭痛となった。
 有害な霞のせいか、尚も蓄積され続ける疲労とストレスのせいかは分からない。それでも痛む頭を抑えて蹲る中。陸の視界の端には――静かに立ち上がって、事務所の窓を換気する凪の姿がチラリと映った。
 ◇ ◇ ◇
 翌日の午前中、陸が立ち会ったのは興信所のごく普通の素性調査だった。
 調査対象は40代の男性で、依頼主は30代の女性だ。事務所で拓海が報告の対応をしている最中で、水商売風の派手な服装の女性だった。
 最初はどこにでもある浮気調査の類だと思って、陸も特に興味は抱かなかった。デスクに座り、拓海の邪魔をしないようにしていた。だが拓海が調査報告を依頼主に渡した後で、彼女の様子が徐々に変貌していったのだ。
「あの野郎、ブッ殺してやる!」
 女性の口から出た物騒な言葉は、もはや何度目かも判らない。
 殺す、許さない、裏切った、世の中みんなクソ、絶対おかしい、あの女が騙した、悪いのはアイツ。調査報告に目を通し終えてからは、怨嗟のオンパレードだった。
「あと言ってないのは……『あんなに愛し合ったのに』か」
 女性が叫んでいた数々の怨嗟を拓海は指折り数えていたようで、呑気な調子で眼前の怒り狂う女に向けて尋ねる。陸にとっては信じられない様な行為だが、女性にとっても同様らしかった。みるみるうちに、濃い化粧の顔が更なる怒りで赤く染まってゆく様が伺えた。
「アンタも私を馬鹿にして! ぶっ殺すわよ!」
「おーおー、ついに俺への恐喝もプラスか」
 後ろから眺めているので、陸には拓海の表情は分からない。だが小刻みに揺れる背中や言動から見ると、客に対する対応としては相応しくない。
「私は客よ!」
「お客様は、立派なカスハラ女じゃねぇか」
 その言葉が決定打となった。女性は勢い良くテーブルの上に乗った残りの資料を引ったくるように取ると、ハイブランドのボストンバックの中に無造作に突っ込んだ。彼女に向けて「おい」と拓海は追い打ちを掛ける。
「お客様。残りの30万、払うもの払って気持ちよく帰れ」
「分かってるわよ!」
 悲鳴じみた叫びと共に、女性は銀行名が印刷された封筒を乱暴にテーブルの上へと叩き付けた。直ぐ様拓海は封筒の中身を数える。「5万足りねぇ」と彼が低い声で呟くと、更に叫び声が上がり、女性はテーブルの上にむき出しの札を殴るように叩き付けて立ち上がっていた。
「もう二度と来ないから!」
 まるで捨て台詞の様な客の文句に「毎度あり」と、全く気持ちがこもっていない拓海の声が重なった。
 アルミ製のドアが乱暴に締まり、コツコツと廊下を響かせるヒールの音が遠ざかる。最後にエレベーターの扉を蹴ったらしく、大きな音が鳴った。
「アイツ、常連だよ」
 女性が立ち去った事を確認した後で、振り返った拓海の顔にはやはり苦笑が浮かんでいた。ソファーの上から腕を伸ばしてきたので、陸は灰皿と煙草を持って彼の傍へと近付いた。手渡しながら「浮気調査のですか?」と尋ねる。
「マッチングアプリで知り合った相手の素行調査で、三回目だな」
 受け取るなりすぐに煙草を咥え、拓海は肩を揺らして笑った。
「今んとこ打率は10割だ」
「それって」
「ああいう手合いは相手の男にとっても俺らにとっても、いいカモなんだよ」
 拓海はくすんだ真鍮のオイルライターで火を付けて、勢い良く蓋を閉じる。ライターの見た目とは反対に、澄んだ金属音が二人きりの事務所で響き渡った。
「なんか、可哀想ですね」
「そうか?」
「だってあの人、マッチングアプリで騙されてたんでしょ?」
「……あの女の場合は、少し違うかもなぁ」
 陸が首を傾げると「アイツが使ってるのは、売り相手募集の裏マッチングアプリだよ」と拓海が言葉を追加した。
「ロクに相手の事を知らないうちから、金を持っている優しい男に勝手に惚れて。理想を押し付けまくって、先走って結婚するって決めつけてからの依頼だしなぁ。典型的な勘違い女の末路だぞ」
「それでも、可哀想だと思います」
「おいおい、可哀想なのは男の方だろうが」
 苦笑混じりに拓海がスマホを操作して差し出してきたので、陸はそれを受け取って彼の隣に腰掛ける。受け取って目に入ったのは、ストアを介さずに直ダウンロードするタイプのマッチングアプリの説明画面だった。
「相手は最初から遊び相手を探すつもりで、それをしてるんだぞ。にも関わらず勝手に興信所に依頼して素行まで調べ上げられて、プライベートを晒される。挙げ句『私を騙して許さない、ブッ殺す』とか、虚言を重ねて家に押し掛けてくるってオチだ」
「でもそれは、さっきの人が騙されていないって理由にはならないんじゃ」
「お前の理屈で見るとしたら、あの女は三連続で悪い男に騙されたってことだぞ」
 半分からかいを混じえてなのか、笑いながら告げる拓海に陸は返す言葉を持ち合わせていない。
「まぁ、今週中にニュースにならなきゃ相手も生き延びるだろうよ」
 万が一起こり得る犯罪を未然のうちに止めなかった。拓海にそう咎めるのは無駄である。それはこの10日ほどの付き合いで、分かってしまったので黙るしか無い。ただ目の前にある問題だけは見過ごすわけにはいかず、陸は拓海の名を呼ぶ。
 続いて陸がそっと指差したのは、女性が置いていったテーブルの上にある一万円札だ。
「それ、一番上は偽札です」
「マジか?」
 驚く拓海に「はい」と頷く。続いて封筒も渡されたので、陸は中身を全部確認する。封筒の中身は本物だ。どうやら、1枚だけ紛れていたようだ。
「この前、見たやつですね」
 先日手渡された時に覚えていた記番号を拓海に告げる。彼も番号を確認したらしく、溜息を吐いた後で一万円札を灰皿の下に置いた。吸っていた煙草を灰皿に乱暴に押し付け、もう一度溜息を吐く。
 隣でぼやく拓海を眺めて、そういえば。と、陸の中である質問が浮かんだ。
 頭に過ったきっかけは、拓海と凪がスーツを着た姿の画像である。今しがたスマートフォンを見せてもらった時に、うっかり操作を間違って見てしまったホーム画面であった。
「拓海さんは凪さんと仲、いいですよね」
 気持ちの切り替えも兼ねてか、「おう」と軽快に拓海は答える。
「凪さんって多分オレと歳、そんなに離れてないのに落ち着いていますよね」
「そうだなぁ」
「オレも立派に落ち着いた大人になったら、父ちゃんは喜んでくれると思います?」
 なんだ、と拓海が笑う。陸が伝えたかった事を汲んでくれたのだろう。その後で「そりゃ喜ぶ」と言ってくれた。
「そういやお前、潘の事父ちゃんって呼ぶんだな」
「変ですか?」
 拓海は「いや」と首を振った。「なんか、しっくりくるんです」と陸が続けると「そうか」と告げて彼は少し目を細めた。
「凪には、一度も言われたことがねぇな……」
 ぽつりと続いた拓海の一言に、陸は首を傾げた。先日、リナのマンションへと向かった時に凪と交わした会話を思い返し、聞いたままの事を伝える。
「この前、凪さん『子供の頃、父さんになりたかった』って言ってましたよ」
 マンションからの帰り、凪は自分に向かって確かに言った。単に照れ臭くて父親である拓海本人を前にしては、呼ばないだけかもしれない。だがそれを聞いた拓海は何度か瞬きをした後で「そいつはきっと、アイツの死んだ親父の方だよ」と、口端を上げて笑った。
 少し雰囲気が緩んだ拓海も意外だが、彼の口から出た事実の方に驚いた。表情に出てしまったらしく「俺は独身だよ。岸と横田、苗字も違うだろ?」と、言葉を付け足される。
「凪の親父とは親友でな……アイツがガキの頃に死んでから、ずっと俺が面倒を見てきた」
「凄く仲が良くて、本当の親子と思ってました」
「繋がってないのは血縁関係だけだな。でも俺にとっては自慢の息子だよ」
 緩んだ雰囲気とは裏腹に、今度は少し乾いた笑い方をされた。
「なぁ、陸」
 名を呼ばれて陸は返事をする。「その、凪の事なんだが……」と拓海は短い髪を掻いた。
「この前、お前が物事を知らないのは潘の責任だ。って俺、言っただろう?」
「はい」
「アイツもお前と同じでなぁ」
 陸が「同じ?」と驚いて拓海を見ると、困った様子が伺えた。彼はテーブルに腕を伸ばして真鍮のライターを取る。何度か蓋を開け閉めして、彼はそれを握り込んだ後に言葉が続く。
「まぁ……ちょっと、いやかなり。ああなったのは、育てた俺の責任でもあるから。余り嫌わないでやってくれ」
「多分、凪さんは何も間違って無いと思います……」
「にしても、言い方ってもんがなぁ」
「そうですね。でも凪さん、オレの事嫌いみたいだし。だったらオレも正直、好きになれるかは分かんないです」
「だよなぁ、すまない」
 話しながらも陸は先程見た、拓海のスマートフォンの画像を思い出していた。
 親子がスーツ姿で並ぶ写真、映っていた凪の顔は今と殆んど変わりない。あれはきっと、成人式の写真なのだろう。羨望の様な嫉妬の様な――言葉に表せない感情で、陸の胸が酷くざわついた。
「オレはどうなんでしょうね、父ちゃんって言ってますけど。ウザがられてたかな」
「どうだろうなぁ……」
 拓海は少し困ったように頭を掻く。彼と凪の会話や、昨日の明弘とのやり取りを見ているうちに、陸は潘に対して自責の念が積み重なってゆく錯覚を受けていた。
 幼い頃に引き取られてから、厳しくも自分や明弘を育ててくれた潘という男。そんな相手から背を向けて逃げたにも関わらず、未だに彼を「父ちゃん」と呼ぶ自分に、厚かましさを覚えていた。加えて彼に一言たりとも弁明すること無く、逃げ続けている現状に罪悪感が募るばかりだ。
「潘に限ってはそんな事無いと思うんだが。俺からはハッキリと言えねぇわ」
「違った時に、無責任になるからです?」
「それもある。だがお前が直接聞かない限り、判らないことを他人の俺が憶測で断言するのは。どう答えても違うと思った」
 肩に手を置かれ、軽く叩かれる。「帰ったら聞いてみろよ」そう告げる拓海の声色は優しかった。
「――さてと、出掛けてくる」
 それは二人きりの事務所で会話を終えてから、さらに暫く経ってからの事だった。拓海が告げてデスクから立ち上がる。ソファーに座っていた陸がタブレットから顔を上げて振り返ると、こちらに歩いてくる拓海と目が合った。
「オレ、一人でいいんですか?」
「どう思う?」
 拓海から返されたのは問い掛けだった。考えていると「一つヒントをやるよ」と続け様に告げられる。
「昨日、明弘が言ってた『お前を探しているデカいとこ』あれはこの前、ウチに偽札の流通調査を依頼している楊ってヤツがいる組織だ」
「それって……」
「会社で言えば本社は海の向こうで、楊は日本支社の副社長ってとこだ。フロント企業では青年実業家だし、間違っちゃいない」
 にこやかに笑って、自分へと話し掛けてきた楊という男は犯罪者だとは思っていた。だが大陸系の直属とは思いもよらず、今更のようにあの時自分がいかに危うい場所にいたかを思い知る。顔が強張ったところで「なぁ、陸」と拓海に名を呼ばれ、軽く肩を叩かれた。
「――どうして“今”お前が、ここに座れているんだろうな?」
 一言一句ゆっくりと、氷の冷たさと鋼の重みを帯びていた。先程笑いながら優しい声色で、凪との関係を話してくれた男とはまるで別人だ。
「彼女が心配で頭がバカになるのは分かる。それでも他の事を考えるってのも、貴重で大切な時間だぞ」
 最後にそれだけを告げると彼は「じゃあな」といって、本当に事務所を後にしてしまった。事務所の扉が閉まる直前に見えた、拓海の背中を凝視することしか出来なかった。ドアが閉まり、遠ざかった足音の後に静寂が訪れる。
 ようやくそこで、先程優しく自分へと語りかけていた拓海も凪と同じだということが分かる。彼は決して、優しい父親などでは無い。
 金縛りから解けたように、陸は誰もいない事務所を見渡した。
 汚れた雑居ビルの3階、訪れる客は主に興信所への依頼と、情報屋や裏世界の住民達。一般社会と重なっていながら、僅かにズレた世界の異質な空間だ。陸という一人の存在が佇むには、余りにも恐ろし過ぎる場所であった。
 凪は他の仕事で出掛けていて、心愛も昼過ぎまでは帰ってこない。
 たった一人の空間で、陸は不安で打ち震える。外の街路樹に張り付いた蝉の声が聞こえる程、事務所の中は静まり返っていた。しばらく経てば恐怖は収まるだろうが、今は現実を知った震えの方が酷い。
 必死に震えを抑えようと、ソファーに座ったまま両手で顔を覆って蹲る。静かに恐怖の収まりを待とうとした時だった。
 エレベーターの駆動音と、3階のフロアでドアが開く歪な音が廊下に響き渡った。直後にコツコツと廊下を歩く足音が陸の鼓膜と心臓を刺激する。酷く怖い、だが叫ぶわけにも逃げる場所も無い。
 足音は事務所の前で止まり、少しの間があった後。
 ドアが勢い良く開かれ、陸の喉奥で小さな悲鳴が漏れた。
「よう」
 ドアが開いて、顔を出したのは派手なシャツを着た明弘だった。
 名前を呼ぼうにも喉が乾ききって、声は掠れて出ない。明弘は気にする様子も無く、「やっぱり、オマエ一人だよなぁ」と言いながら、づかづかと事務所に足を踏み入れる。そして陸が座る応接ソファーの対面に、勢い良く腰を降ろした。
「さっきオッサンが出ていったけど、オマエ一人って大丈夫か?」
「な、なんで知ってるんだよ」
「オレ朝からここら辺張ってたし」
 赤色の派手なシャツを仰ぎながら、明弘は暑いと言って立ち上がる。壁際に設置されているエアコンのパネルをいじり、温度を下げ始めた。再び腰を降ろして買ってきた缶ジュースを開けている。彼の鼻頭と頬は日焼けで赤く染まっていた。
「そしたらオッサンが出てきてさ。オレ、お前が心配だから見に来たんだよ」
「明弘、お前だって悪いヤツだろ。なんで構うんだよ、オレを売る気か?」
「はァ? 家族は売らねぇよ」
「家族だったのは昔の話だろ。今の仲間は?」
「あー、それな」
 500mlの缶ジュースを一気に煽った後で、明弘は大きく息を吐いた。「昨日お前らんとこから帰った後の話なんだけどよ」まだ暑さが収まらないらしい。シャツのボタンを全部外して、明弘はパタパタと仰ぐ。
「一番上の人が中華野郎の名前を騙って、面子揃えてたらしくてよ。下手打って昨日ブッ殺された。次仕切ろうとしたやつは、完全にキマッてるから俺大嫌いなんだよなぁ……」
「お前まさか、昨日凪さんに言ったのって」
「ああだってアイツ、オレらの事知ってたから売った。中華野郎とも知り合いらしいし、潘さんはオッサンと昔からの付き合いって言ってたし。別にいいかなって」
「でも……明弘、家から出ていったろ。父ちゃんと仲悪かったじゃないか」
 明弘が「いや?」とのんびりと言う。
「陸はオレと違って潘さんに気に入られたけど。オレは合わなかったってだけだ。だから、恨むとか仲が悪いとかはお互い無いぞ」
 明弘から聞かされた事実に、衝撃を受ける。てっきり潘と明弘は昔から、毎日のように怒鳴り合っていたし。潘の厳しさに耐えかねず出ていったとばかり思っていた。
「潘さんが俺に『悪さをするなら陸に悪影響だから出ていけ』って、言ってきたのはマジだぜ」
「その後、お前はどうしてたの?」
「んー、盗みして年少行って戻っての繰り返し」
「……やっぱり、悪いヤツじゃないか」
「陸お前、悪い奴が大嫌いなのは昔から変わんないな」
 そう言って明弘はテーブルの上へと顔を近付けた。
 何を見ているのかと思えば、拓海が灰皿の下に置いた1万円札を彼は眺めていた。次にそれを当たり前のように取る。彼の行動を予測していた陸は「それ偽札」と告げる。明弘は腕を伸ばして札を透かし見た後「じゃあセルフレジは駄目だな」と言って、悪気無くポケットへと突っ込んでいた。
 陸が閉口していると、明弘はそのまま「――でもよ、」と続ける。今度は灰皿を手に取り、中に入っている吸い殻を指先で摘んでチェックを始めた。
 幾つかの吸い殻を選んだ後で、一番葉が残った一本を口に咥えて火を付ける。一度は役目を終えた吸い殻は、再び紫煙をくゆらせ上へと白い煙を一本上げてゆく。明弘はエアコンの温度を下げたついでに風量も強くしたらしく、途中まで登った細い煙は天井付近でフッと掻き消された。
「俺らって、どうせ悪い奴らから生まれたんだし。悪い事をしなきゃ生きていけないんだぜ?」
 煙の如く、当たり前のように吐いた明弘の言葉に。目の前で座る陸には、返す言葉は何も持ち合わせていなかった。