2章1話「朝顔の花一つ時」
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2章1話「朝顔の花一つ時」
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「お願いします、オレの彼女を探してください!」
リナの家に凪と訪れた翌日の朝、リビングに集まっていた3人に誠は勢い良く頭を下げた。一睡もしていない頭がぐらぐらするが、それ以上に時間と共に蓄積された恐怖と不安が勝っていた。
3人は何も答えない。再度「お願いします!」と、目眩を抑えながら声を張る。テレビでは朝のニュース番組が流れていた。朝食を食べ終え、普段の彼等が事務所へと向かう前の事だった。
続いて唐突に、淡々と拓海から降ってきたのは事情聴取のような質問達だった。
「名前は?」
「リナ・グルンって言います」
「歳は?」
「24歳です」
「国籍は?」
「ミャンマーです」
誠も反射的に返してゆく。恐らく拓海は、昨夜の時点で既に凪から聞いていたのだろう。
「通話はオレが電源入れにくいから、メールしてと先週から何度も送ったんですが……連絡が無くて」
「まこっちゃんを追っかけてた人との関係は?」
今度の質問は、心愛からだった。腰掛けているソファーの隣を叩かれたので、誠は隣に大人しく腰掛ける。
「……それは、関係が無いと思います」
「どうして?」
「オレを追っ掛けていたあの人は……オレの父ちゃんみたいな人だから。リナの事は多分、名前しか知らないと思います」
ずっと黙っていた自分が悪いので、認識の擦り合わせは必要だ。そう判断して正直に話すことにした。
「帰国予定は、昨日で間違いないのか?」
「往復の飛行機を取ってた。早坂さんと行った時に調べたけど、領収書がリナさんの部屋には保管されていたよ」
「現地のニュースで問題は?」
「何もなかったです」
続く拓海の質問に誠が答える中、凪も頷いていた。
リナの出身地に関しては現地での問題は勿論考えていたし、毎日チェックもしていた。情勢不安はあれども、直近では大きな事件もなかったし、家を飛び出してからネットカフェ内でも数回メールのやり取りは続いていた。
「なら出入国審査のどちらかで、引っ掛かった可能性があるな」
拓海の口から飛び出した言葉は突飛だった。
だがこちらを静かに見据えて放つ威圧感に、嘘や冗談の片鱗は無い。誠も思わず息を呑む。辛うじて「まさか」と答えるも、声は震えてしまっていた。心愛と凪からの視線も居心地が悪く、逃げ出したい衝動を必死に堪える。
「拓さんブッ飛んだねぇ、そりゃテロリストや工作員なら分かるけどさぁ」
「可能性の一つだ。ちゃんと介護の資格も持っていて、日本で真っ当に働いているのなら、普通は有り得ない」
「そ、そうですよね……」
心愛の茶化しに淡々と返す拓海を見て、誠の方は頭のぐらつきが増してゆく。今度も何とか平静を保って答えると「ああ」と拓海は頷いた。
「ただ最近の出入国のチェックは厳しいからな。幾ら潘が仕込んだとはいえ、偽造した何か――例えば在留カードとか、を彼女が使っていたら難しいかもな」
拓海の口から溢れた「潘」という名は意外ながらも決定打であった。
彼から受けた突然の不意打ちで、今度こそ誠の背筋が凍りついた。今しがた向けられた視線は、初めて拓海と出会った日に受けたものと同じだ。自分を見据える男から、誠は目を外すことが叶わない。
「お前、潘んとこのガキだもんな。今の反応を見ると……やっぱり何か造ったんだろ」
「潘? どちらさん?」
「フリーのにんべん師だ」
「あらまぁ」
拓海の口から出た誠の正体に、心愛は驚く反応を見せる。だが彼女は驚きよりも、誠の正体に興味津々といった風だ。
「まこっちゃん、職人見習いだったの」
「……いつから、知ってたんですか?」
「ウチに来る前からだよ」
「あらまぁ、拓さん」
「詳しいことは、ココにも後で話す。先に彼女の事を話してくれ。えっと……」
「陸(りく)、でいいです」
下手な嘘は重ねても一切通用しないだろうと悟り、諦めた誠は本当の名を名乗った。
「名字的なのは無いです。父ちゃんに引き取られたので。一応名乗る機会があるときは『潘 陸』って名乗ってます」
元来自分という人間は、隠し事が出来る性格でもなければ嘘もあっという間に見抜かれてしまう。そして何日か見てきた中で、この人達は隠し事をしても一切通用しない類の人間だと薄々は感じていた。
だからなのか、今は意外にも素直に名と身分を明かした安堵感の方が勝っていた。事態は何一つ解決はしていないにも関わらず、ほんの少しだけ肩の荷が降りたかのような錯覚を受ける。
丁度その時、凪が立ち上がり、ソファーが揺れる小さな感触が身体に伝わった。
立ち上がるタイミングを見計らっていたのか、凪がキッチンにある電気ケトルのスイッチを入れる音が聞こえる。普段通りの調子で「コーヒーいる人」と凪の声が背後から聞こえると、心愛と拓海が返事をする。自分は返事をしなかったのだが「陸さんのも入れるね」と、告げられた。
「オーケー、りっくん。続きを話して」
「はい」
心愛に促されそう頷いたものの、言葉は続かない。
自分の身に対する安堵は一時的に訪れはしたが、依然陸の頭は混乱している。「あの、」と震える声で、シングルソファーに腰掛ける拓海へと問い掛ける。
「もし、もしもリナが。その……例えば、在留カードの内容が嘘だと。日本に入る前にバレたらどうなるんですか?」
「入国拒否の上で本国強制送還だ。そうなら今頃、とっ捕まってるだろう」
「そんな……」
「なに、調べてみたら数日程度で済む問題だ」
陸からの質問に相変わらず淡々と答えてくれる拓海は、最後に煙草と共に息を吐いた。
「りっくんの彼女さん、偽造カードなの?」
心愛からの問い掛けに陸は「いいえ」と首を振る。
「カードは本物です。ただ申請時に用意した書類はオレが改ざんしました」
「なるほどね」
スマートフォンを握る手は、無意識のうちに力が込められていた。
「彼女は日本に来て、真面目に働いてたんですよ。本当です。でも去年の終わり頃、経営が厳しくなって施設が潰れたって聞きました」
この数日何度も味わった掌の痛みを感じながらも、陸は必死に誤解を与えないようにゆっくりと考えて過去に起きた出来事を並べてゆく。
「丁度、在留カードの更新期間も近付いていたのに、仕事が無くなっちゃって。彼女、思い詰めてたんです。だから……父ちゃんの仕事仲間に頼んで、ダミー施設の職員として扱ってもらえるよう渡りを付けてもらいました」
「もしかして、この前に話してくれたのって」
心愛の言葉に陸は「はい」と返す。
数ヶ月前に見たリナの悲痛な表情が、陸の脳裏に浮かぶ。過去を紡ぐ声は徐々に震えが混じり、上擦り始めていた。
「オレ、助けたくて。新しい受入れ先の書類を数枚いじったんです」
「下手に在留カードをいじるよりかは懸命だな」
「はい。法務省のIC署名システムなんて、オレごときじゃ太刀打ちできません」
潘の方に依頼として舞い込む中に、在留カードの偽造も幾つかはあった。だがそれはあくまでも、人の目で確認を行う証明証としての話である。幾ら腕のいい職人が偽造をしても、ICチップの電子署名まで偽造は不可能だ。なので陸も照会やNFCリーダーで読み込まれれば、不正を施したとバレるのは当然ながら知っていた。
「公文章偽造も立派な犯罪だけれどね」
背後から聞こえた凪の声に、陸は言葉を詰まらせた。彼が口を挟んだ理由は明白である。昨夜、彼がリナの部屋へと忍び込んだのを自分が咎めたからだ。
実はあの時も陸自身、彼を責める資格は無いと理解はしていた。
「悪いことってのは勿論分かってます。でも、オーバーステイになった方が困るじゃないですか。更新さえできたらその間に就職先を探せるし、いいんじゃないかと思って……」
「そうだね」
「困ってる人を救うって、悪いことなんですか?」
「犯罪は犯罪だが、犯罪で救われる人間もいる。それに関しては何も言わない。ココは勿論のこと、凪や俺も色々とやらかしてるしな。悪いと言う権利も俺らには無い」
「……そうですよね」
「ただ、マズい事なのは確かだ」
拓海がそう告げた後。部屋の中で漂うのは、カップが置かれる音と湯が注がれる音。そして、テレビの音だけった。
陸が今朝リビングに入って初めて視線を向けたテレビでは、ずらりと並ぶ朝顔をバックに、全国の天気予報が放送されていた。気象情報を告げ終えた浴衣姿のキャスターは、色とりどりの朝顔が植えられた鉢植えの中の一つを持ち上げ歓喜の声を上げている。妙に甲高い声だったので、寝不足の陸の耳にはそれが刺さるようだった。
「陸さんはどうして『早坂 誠』って偽名を使っていたの?」
しばらくテレビを眺めていた陸だったが、淹れ終えたコーヒーを手に持った凪が前に立つ。マグカップを差し出す時に、彼から質問を投げ掛けられた。
「……父ちゃんに黙ってたことがバレそうだったので、オレ家を飛び出したんです。でも行き先が無くて」
陸は礼を言ってコーヒーを受け取る。冷房が効いた部屋の中で受け取ったマグカップは熱く、指を取っ手に掛けた後で底をそっと包み込んでみた。
「リナが帰ってきたら、マンションに住ませてもらおうかと。で、その間はネカフェに泊まればいいと思って……早坂さんって人から名義、借りたから名乗ってました」
「陸さんが作った名前じゃなくて、借りたの?」
「はい、免許証とかをあらかじめ造ってたらよかったんですけど……」
陸は手元のマグカップに鼻を近付けた。一度だけ勢い良く息を吸い込み、遅れて漂ってきた香りを探る。胃は荒れて頭の芯は鈍いままだが、まだコーヒーの香りは心地良く感じることが出来た。一呼吸あけて、自分が偽名を使っていた理由の続きを正直に話す。
「オレ。戸籍とか無いんで、家飛び出したら行くとこ無かったんです。で、丁度ソシャゲ仲間だった人がネカフェのカード作るくらいなら、1万で名前を貸してもいいよって言ってくれて」
「……そう」
質問をしてきた彼にとっては、満足のゆく答えだったようだ。最後にコーヒーを手渡した拓海の横で、凪は静かに佇んでいた。
「どうする、ココ」
「拓さん、その潘さんって知り合い?」
「昔からの知り合いだ」
拓海が潘を知っていたのも驚きだった。なのに古くからの知り合いと聞いた今、陸はさらに衝撃を受ける。心愛と話している彼の顔を眺めるも、特に変わった様子は見られない。
「なら、興信所の方で引き受けてもいいと思うよ」
「え、じゃあ……」
呆然とする陸に向けて、隣りに座る心愛が頷いて笑った。
「有難うございます!」
リナの行方を探してくれると快諾してくれた事には、感謝の気持しか無かった。深く頭を下げて礼を告げた。続けて心愛からは「お金はちゃんと後で貰うからね」と付け加えられるが、今は感謝の方が勝っていた。
「よかったね、陸さん」
頭上から声が降り注ぎ、顔を上げる。拓海の横に佇みこちらを眺める凪に、陸は素直にもう一度「はい」と頷く。
「ココさん。俺は調べたいことが出来たから、今回は俺抜きでいいよね?」
「うん」
「それと、もう一つ」
凪に引き続き、今度は拓海からだった。
「コイツの身は俺が預かる」
「俺を家に連れて行くんですか?」
「突き出す必要があるなら、とっくにしてる。あと潘はもうお前を探してねぇよ」
「それって……」
陸が続けようとした言葉は「ただ――」と、拓海に遮られた。
「潘の野郎には、恩を売っておくチャンスだからな」
そう言って少し目を細めて笑う男の顔はつい最近、どこかで見たことがあるような気がした。コーヒーに口を付けた時に、陸はふと思い出す。
それは数日前に保護犬カフェで出会った、元警察犬の表情と今の拓海の表情が心做しか重なっていただけだった。
◇ ◇ ◇
赤坂・某高層ビルの高級レストラン。
開店時間が18時らしいこの場所に陸が入ったのは、16時を少し回った頃である。
陸は広がる景色の中で、前に建っている東京タワーをぼんやりと眺めていた。下から見たことも殆んど無かったが、赤い鉄塔を正面に見据えるのは初めての経験だ。昼間ですら美しく思えるそれは、夜景となるとさぞかし綺麗に見えるのだろう。だが残念ながら今の時間は、空は青く澄み切っている。
目の前に置かれた紅茶と、小さなケーキに陸は一切手をつけていない。
意外と緑が多い東京の街並みと、近い青空を交互に眺めた後で溜息を吐く。それは陸がこの場に到着してから、何度も繰り返していた。
「落ち着かない?」
「はい」
窓際に設置されたペアテーブルの向かいには心愛が座っている。二人の間に置かれているのは、ケーキスタンドと上に並べられた小型のケーキ達だ。並ぶケーキを片っ端から片付けている最中の彼女に投げ掛けられた問い掛けに、陸は頷いた。
「『オレはこんな事している場合じゃないっす、リナの事が心配なんすよ』って?」
「それ……オレの真似ですか?」
口を動かしながら心愛が「似てる?」と聞いてきたが「分かんないです」と答える。
すると彼女は紅茶を一口啜った後で、依頼主と話し込む拓海のテーブルを指差した。
「ソワソワする青年よ、そこの枯れた中年は今朝君に何と言っていたかね?」
「『入管で収監されたかどうかは、5日はかかる』って」
「今日は依頼してから何日目?」
「……2日目、です」
「宜しい、そういうことだよ。青年」
見るからに高級なティーカップに注がれた紅茶を飲み干した後で、心愛はそう答えた。そっとカップをソーサーに戻す動作は、優雅で丁寧なのに「すみません、紅茶おかわり」と告げる大声はちぐはぐだ。
「“人事を尽くして天命を待つ、斯れ知るなり”」
「何ですかそれ?」
「りっくん知らないかぁ」
「オレ、学校行ってなかったんで……」
心愛が自分に告げた言葉の意味が分からず、陸は俯いた。
手元にあるティーカップ、その中に注がれた赤褐色の液体をじっと眺める。繊細な作業を欲求される、偽造技術を操る師匠と弟子。共に大柄でそんな風に見えない二人だと、事あるごとに周りに笑われていた青年が今は虚ろな瞳をして映り込んでいた。
心愛からは「そっか」と一言だけで、追求を終わらせてくれたのが有り難かった。
「孔子って超絶プロゲーマーの言葉」
「孟子、だね。中国の思想家だ」
声は拓海と座って会話をしている、隣の席からだ。
「嘘はいけないよ、中村」
横から入った穏やかな声に、陸は驚いて顔を上げる。柔らかく笑って陸へと微笑み掛ける男性と目が合い、陸はすぐに視線を逸らした。
「悪いな楊、うるさくて」
「横田君がいないのは残念だけど、賑やかなのは楽しいから構わないよ」
拓海の言葉に対しても、楊と呼ばれた男はにこやかに笑って返していた。
丁寧に書類を眺める楊の姿を陸はそっと観察する。歳の頃は30代か、黒い長髪を後ろに纏め、スーツ姿で銀縁の眼鏡を掛けていた。陸達が今いるレストランのオーナーだ。待ち合わせに指定していたレストランに現れた時も、店員達は総出で出迎えていた。彼の後ろには同じくスーツ姿で立っている男の姿があった。拓海に楊と言われた男はにこやかに笑うが、彼の後ろに立つ初老の男性の名前は知らない。無表情で不気味な印象を抱くだけだ。
「凪に吹っ掛けられなくてよかったろ」
「でも僕、彼と話すのは好きなんだ」
楊は見た目や肩書きとは裏腹に、どこかの犯罪組織の人間らしい。その証拠に拓海との会話の中で、先程から気になる単語を幾つか陸の耳は拾っていた。盗み聞きをする趣味は無いが、客が自分達だけなので小声でも聞こえてくるのは不可抗力だ。今までに得たヒントを併せた上で、陸は彼の立場を推測する。
拓海との間で頻繁に交わされる『偽札』『半グレ』『流通』『闇バイト』『騙り』といった単語は、静かな午後の高級レストランの中には似つかわしくないものばかりだ。
「リストもこれで全部?」
「ああ」
書類を読み終えたらしく、楊は何度か紙の束をテーブルに叩く音が小気味良く聞こえる。拓海から受け取った書類を綺麗に揃えた後で封筒に戻し、後ろに立つ男へと手渡した。
「やっぱり君と、横田君はいい仕事をする」
「毎度あり」
楊は渡した封筒の代わりに、男が差し出したクラッチバッグを受け取る。それは楊の手からさらに拓海へと手渡されていった。革張りのバッグを持った拓海が「随分と重いな」と呟けば「ここの新作だよ」と楊が返す。
「お土産。横田君、甘いもの好きでしょ」
「有難うな」
こうして眺めている分には、何の変哲もないただの商談に見えた。
だが今この瞬間、自分の知らない世界で、重大な出来事が起こる前触れに立ち合っているのかもしれない。そんな錯覚と恐ろしさすら、うっすらと陸の脳裏には浮かんでいた。
丁度タイミングを見計らっていたのか、ティーポットを持ったウェイターが心愛と陸のテーブルの前に現れた。新しく紅茶を注ぎ直し、残りのポットを置いて立ち去った後のことだ。
陸の視界に見慣れぬ顔が突然割り込んだ。
「岸に聞いたよ。君、仮採用期間の新人なんだって?」
真横で聞こえた声に驚き仰け反ると、腰を屈めて陸と目線を合わせていた楊が「やぁ」と笑っていた。
「口に合わなかったかな?」
「いえ、そういうわけじゃないんです……」
突然、真横に現れた楊に陸が戸惑っている間に彼は自分の席から椅子を持ってきて、隣に腰掛けていた。
「君、可愛いよね。名前は?」
楊の口から出た言葉の意味は、陸の思考が理解することを拒んだ。陸がただ驚いていると、頬杖を付いた楊との距離が更に近付く。
「なに、楊さんってそういう系?」
「中村もまだ甘いなぁ」
陸の前に置かれていたケーキの皿は、心愛が伸ばした腕によって奪われた。目の前で起きた略奪に陸は我へと返り、楊は咎める風も無く微笑んでいる。
「僕は男女平等に、純粋で可愛い子が好きなんだよ」
すかざず「私は?」と尋ねる心愛に向かっては「意地汚くて浅ましい野良猫は好きじゃないよ」と楊は平然と返す。すると彼女の爆笑が店に響き渡った。
「才能に恵まれていて、穢れのない存在に悪人が惹かれるのは当然だと思うけれどね」
「さすがは楊大哥、お目が高い」
「中村は本当に生意気だ」
隣の楊と正面に座る心愛は、互いに笑いながらも言葉の応酬を交わしている。ちらりと拓海の方を陸は見る。興味が無いといった素振りで紅茶を啜る拓海と、その向かいに立ったままの男との対比が印象的に映った。
「君、可愛いから。お小遣いをあげるね」
一方の楊は陸にそう告げるなり、スーツのポケットに手を入れる。次に彼が取り出したのは、マネークリップに挟まり、2つに折られた一万円札だった。マネークリップを外した後で、扇のように広げて陸の前へと差し出した。
それを無言で受取り、一枚ずつ順番に表と裏を確認してゆく。札は8枚あった。続いて陸はそれをテーブルの上に、5枚と3枚に分けて楊の前へと置いた。
「……結構です」
溜息と共に断りを入れ、楊の目を一瞬だけ見る。彼の細い目がほんの僅かに見開かれているのに、陸は気付いた。
「出来、悪いかな?」
「俺は分からん」
「私も分かんない」
楊の問い掛けに返すのは、拓海と心愛の両名だけだ。もう一人の男は、相変わらず沈黙を貫いている。
「匂いと手触り、後は上手く言えませんが違和感。今は新しい方に目を向けられてるし。元から諭吉って、ホロと透かしの方に目が行って割りと旧は誤魔化しきいちゃうんですよ。後は凹凸。それに数か所、差しの色だって配合は確か……」
一気に早口で捲し立てたところで、陸はハッとする。
途端、呼吸すらも忘れて息を止めた。いくらなんでも迂闊過ぎだ。そういって己を罵るも、既に遅い。楊の笑い声と反対に、陸の身体は震え始める。動揺を鎮めようとすればする程。傍から見ても分かる位にまで、陸の身体は小刻みに震えてしまっていた。
「大丈夫、そう怖がらなくてもいいよ」
ひとしきり笑って満足した楊から、穏やかな声を掛けられる。本当ならば安堵を覚える声色なのだろうが、陸にとってはさらに恐怖が増すだけだ。
「良いなぁ、優秀な新人だ」
「仮採用、な」
隣の席から飛んできた拓海の声に、楊は「分かってるってば」と答えている。続いて彼は陸が返した一万円札を手に取った。分けた偽札のうち2枚を取って、胸ポケットへと収める。残る1枚は本物へと重ねて席を立つ。後は手に持った札をさらに何度も混ぜて、最終的にそれは拓海の方へと手渡した。
渡す際に「晩御飯代」と彼は告げ、「悪ぃな」と受け取った拓海も返すだけだ。
「じゃあね岸、また引き続き頼むよ」
「おう」
「中村も陸も、またね」
最後の挨拶を告げ、楊は踵を返した。無言で立っていた男も足を踏み出し、楊の傍へとそっと近付く。半歩後ろに下がり影のように追従する男と、その前を颯爽と歩く楊の背を陸は呆然と眺めることしか出来なかった。
「あ、ねぇねぇ」
硬いフロアをコツコツと叩く革靴の音を止めたのは、心愛の呑気な声だ。
「陳さん」
初めて聞く名前の後で、楊の背後にいた男がこちらへと振り向く。
「前に言ってたラーメン、良い日あったら開けとくね!」
「分かった、ちゃんと奢る」
それが陳と呼ばれた男が発した、陸が聞く初めての声であった。低く腹に響くかのような声だが、やはり顔には感情の色が一切伺えない。陳が無表情のまま「背脂マシマシ」と告げると、心愛はニヤリと笑って「マシマシだね」と返す。
二人の間にはそれで充分だったようだ。心愛は「またねー」と軽く手を振り、後は二人を見送るだけだった。
◇ ◇ ◇
繁華街の一角に、そのホルモン焼きの店はあった。
開店時間が18時らしいこの店に陸達が入ったのは、19時を少し回った頃である。
陸は前に広がる網の中で、焼けるテッチャンとミノをぼんやりと眺めていた。ビールジョッキ越しに眺めた事は殆んど無ったし、赤く熱が籠もった炭に炙られるホルモンは久し振りだ。
周囲では既に出来上がった客達が騒いでいる。昼間の場所を思えば、煙で霞む空間で酒に溺れる人々が奏でる喧騒の方が懐かしく思えた。
「リストの方も楊に渡したからな」
「うん」
拓海の言葉に、合流したばかりの凪が答えた。初めて見る彼のスーツ姿に陸は最初驚いたが、意外にも違和感は感じない。
凪は店員に烏龍茶を注文してから、ネクタイを外して陸の隣に腰掛ける。やはり暑かったらしく、ピッチャーからコップに注いだ水の方は一気飲みをしていた。
「楊さんは、他に何か言ってた?」
「お前はいい仕事するってよ」
「そう」
網越しに小さな包み紙を拓海が手渡すと、凪は受け取った。楊から受け取った報酬の中に入っていた、小さな包み紙だ。開封する様を陸は眺める。中身は可愛らしいチョコレートの詰め合わせだった。
そっと蓋を閉めて鞄の中にしまう凪を眺めながら、陸は昼間会った楊と拓海との言葉を思い出す。拓海の方は偽札の流通経路を調べて報告していたようだが、凪の方は何かのリスト――恐らく半グレグループの名前なのだろう、を楊に依頼されていたようだった。
陸には親子が調べた情報を楊がどう使うのかは判らないが、きっと個人名の方は半グレといえども逮捕や検挙の類には使われないだろうとは察していた。
「どうしたの?」
考え事をしているとすぐに顔に出てしまうのが、陸の悪い癖である。付き合いが短い凪の方からも容易に見破られ、陸は思ったままの気持ちを告げることにした。
「良く分からないんですが。昼間に会った楊さんって、悪い人ですよね?」
「まぁ、そうだな」
「ここは、その悪い人の奢りだけどね」
陸の問いに答えたのは、正面に座ってジョッキを煽る拓海と焼けた肉を片っ端からタレに浸けて頬張る心愛だった。烏龍茶を持ってきた店員に続けて「ハラミ」と、心愛は注文を追加する。
「お前さっきもケーキあれだけ食ってたのに、よく食うよな……」
「人の金で食う飯は、腹が破裂してでも食いまくれって。ウチの家訓なの」
「そうかよ」
「さっき受け取ったお金、見せて下さい」
陸がそう言うと、拓海は財布とは別に分けていたらしい2つに折った札を渡してくれた。陸は受け取った6枚をざっと眺める。中でもやはり目立つ1枚を抜いて、一番上へと重ねて拓海へと手渡した。
「お前、よくこんなの分かるよな」
「見るとこ見てたら、結構仕事は荒いです」
一番上の重ねた偽札を拓海は透かして眺めた後、心愛も手に取って眺める。最後にそれは凪へと渡り、隣に座る彼も煙で曇る店の照明越しに透かして眺めていた。
「この前、警察の人達と取引してましたよね?」
「ああ」
「おかしくないですか?」
「何がだ?」
「なにがって……」
こちら側が行った質問を即座に拓海から返され口籠っていると、今度は心愛の方から返ってきた。
「ウチらは『情報とハッタリとスマイルで飯を食う蝙蝠野郎』がモットーの商売だよ、りっくん」
彼女の口から飛び出したのは、身も蓋も無いものだ。ただ唖然としていると、トングで肉をひっくり返しながら心愛は続ける。
「悪に染まったり綺麗事を言って正義を貫いた瞬間、どちらからも背中をブスリと刺されちゃうからねぇ。愛想と尻尾を振りまくって、毎日を面白おかしく生きるのが我が社のモットーですよ」
「ココお前、少しは言い方を考えろよ」
「蝙蝠って尻尾あった?」
「知らない」
咎めるも苦笑する拓海と真面目に質問する凪と、平然と返す心愛。そんな3人との間に大きな隔たりを感じて、陸は一瞬言葉を飲み込んだ。陸が言葉を続けるのを待っているのか、それとも単に食事の方に意識を向けたのか。周囲の喧騒とは裏腹に3人は黙る。
次に陸が口を開くまでの間に、肉から落ちた油で炭火が勢い良く燃え上がる。熱気に一度頬を炙られた後で、陸はぽつりと本音を漏らした。
「オレ、あなた達って最初はスゲェいい人達と思ったんですけど……やっぱ、悪い人達なんですか?」
元々は情報屋という、今まで関わり合いが無かった仕事にも陸は良い印象は抱いていなかった。所詮は裏社会で弱者をたらしこみ、様々な犯罪を助長する存在だと思っていた。だからこそ、先日警察の人間に情報を提供しているという側面を見て感銘を受けた。
だがその後で自分が幼い頃から憧れ、尊敬していた“正義”という価値観が崩れ去った。加えて、嫌悪感を抱く悪側の人間に加担していると知った今日の出来事は決定的だった。
「今言ったお前の理屈でいうと、中立だ。だからこそ公平に依頼も来るし、俺らは受ける」
「白黒だと灰色ってヤツだね」
「やっぱり、良く分かんないです」
今の陸はその一言を返すだけで、精一杯だった。
リナの安否を調べてほしいと、自分の依頼を受けてくれた事には感謝をしている。それでも今聞いた彼等の言い分を納得する程、陸という人間は成熟した存在では無い。
「拓海さん」
追加の肉を受け取り網に並べ終えた後、凪が静かに口を開いた。
「陸さんは拓海さん預かりって、昨日言ったよね」
穏やかな凪の質問に、拓海は「おう」と答える。
「それ、楊さんにも言ったの?」
「言った、取り敢えず『仮採用』って」
「……そう」
彼が何を考えているのか分からないが、整った切れ長の目が陸へと向けられた。それは先程、自分の真横に腰掛けこちらを見据えた楊と同じ目だとすぐに分かる。だが凪のそれは決して好意的には見えなかった。正体が分からない感情を向けられ、陸の内では悪寒のようなものがじわりじわりと湧き上がる。
「楊さんは普通の悪い人じゃないよ。あの人は正真正銘の悪人。で、前に陸さんが会った刑事の高松さんは正義」
「だから、オレが聞きたいのは……」
「陸さん」
陸が凪を睨むと、肩に優しく凪の手が置かれた。声色も優しいのに、何故だか悪寒はまだ引かない。
「何一つ世間を知らない、純粋なガキってさ。ここまで親切に言ってあげても、本当に世の中全てが、善悪で割り切れると思って生きているんだね。驚いたよ」
一呼吸置いて凪は、柔らかな笑みを浮かべてニッコリと陸へと笑いかけた。彼の笑顔を見た瞬間、陸の身体は大きく跳ねる。心臓の鼓動が耳に響くかと思うほど、うるさく鳴って恐怖を訴えかけてきた。
「本当に馬鹿で無知の癖に、うるさく喚いてムカつくね。回りくどいことはせず、手っ取り早くブン殴って、目を覚まさせてやりたくなってきたよ」
柔らかい笑顔を浮かべ放たれた言葉の暴力に対し、陸は何も言い返せなかった。
実際に殴られたかと思わんばかりの、衝撃と恐怖と痛みが激しく胸を叩く。うるさく痛い鼓動は止まらず鼓膜を打ち付け、握った拳は手汗にまみれていた。
その後の事は、店を出るまで殆んど記憶には残っていない。
気付いた時には用事があるから一旦事務所に寄る、と告げた親子とは別れていた。今の陸は心愛と二人で陸は夜の繁華街を歩いている。「美味しかったねぇ」と話し掛けてくる心愛に対し、曖昧な返事を返しながら賑わう繁華街を歩く。
真夏の都心は連日の熱帯夜で、店に入っている間ゲリラ豪雨もあったらしい。蒸し返る湿気に包まれ、今もTシャツが背中に張り付く感触が気持ち悪い。数日間ろくに寝ていないのも重なり、陸の頭は酔い以上にぐらつき続けていた。
心愛はコンビニに寄ると言って、大通りに位置するコンビニへと入ってゆく。陸も後を追って入ったが、ぐるりと店内を周って結局は何も買わず出口へと足を向けた。
店を出る手前にレジの前を過るが丁度その時、レジの前に立つ若い男が財布から一万円札を出しているのがちらりと見えた。出口付近の雑誌コーナーで立ち止まると、陸は男性の手元を注視する。男の手を離れてセルフレジに吸い込まれてゆく一万円札をじっと眺めた後で、陸はコンビニを出た。
振り返ると心愛はまだ店内で物色をしているので、まだ時間は掛かるようだ。前の通りを歩く人をぼんやりと眺めながら、心愛を待つことにする。
目の前を歩く様々な人間を眺めていても、脳裏を巡るのは先に告げられた凪の言葉と笑顔だけだった。ふと人混みを形成していた列がたまたま途切れて、通りの向こう側に小さな店構えが見えた。それは個人経営の煙草屋で、昔からこの繁華街にある店だった。煙草を吸わない陸も子供の頃から知っているその店は、24時まで営業しているのでまだ灯りがついている。ガラス張りの窓の中には、年配の女性が座る姿が見えた。
店の横に置かれたプランターは花が咲いている様子が無いが、支柱が刺さっているので多分朝顔なのだろう。子供の頃から見慣れた光景なのに、今日は何故だか別の世界のようにも思える。陸がぼんやりと眺めている間も、人々は次々と目の前を通ってゆく。
次に人の流れが切れた時、煙草屋の前に佇む客の姿が見えた。大きな後ろ姿を見ると外国人のようで、煙草を購入して代金を払っていた。店内の灯りに受け取った札を遠ざけて、透かしている店主の姿が見える。
続いて、釣り銭を受け取った客を陸は目で追う。彼は受け取った釣り銭を札ごと乱雑にポケットへと突っ込み、店の先で待っている仲間とおぼしき連中と合流をしていた。
彼らは数人で集い、酒が入っているのか大声で喚き立てている。陸にとっては全く関係の無い世界の出来事だと思って眺めてはいたが、騒ぎ立てる連中の中に一人だけ見覚えのある男がいて息を呑んだ。
それは、先日潘と共に自分を追い掛けてきたうちの一人だった。
ブリーチした髪と派手な服、聞き覚えのある大声。
歳は同じなのに、自分とは全く別の世界へと沈んだ幼馴染を陸はしばらく眺めていた。
彼は陸の姿には気付かず――煙草屋で買い物をしていた男や他の仲間と一緒に、騒ぎ立てながら夜の繁華街へと消えていった。
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2章1話「朝顔の花一つ時」
(2-1)
「お願いします、オレの彼女を探してください!」
リナの家に凪と訪れた翌日の朝、リビングに集まっていた3人に誠は勢い良く頭を下げた。一睡もしていない頭がぐらぐらするが、それ以上に時間と共に蓄積された恐怖と不安が勝っていた。
3人は何も答えない。再度「お願いします!」と、目眩を抑えながら声を張る。テレビでは朝のニュース番組が流れていた。朝食を食べ終え、普段の彼等が事務所へと向かう前の事だった。
続いて唐突に、淡々と拓海から降ってきたのは事情聴取のような質問達だった。
「名前は?」
「リナ・グルンって言います」
「歳は?」
「24歳です」
「国籍は?」
「ミャンマーです」
誠も反射的に返してゆく。恐らく拓海は、昨夜の時点で既に凪から聞いていたのだろう。
「通話はオレが電源入れにくいから、メールしてと先週から何度も送ったんですが……連絡が無くて」
「まこっちゃんを追っかけてた人との関係は?」
今度の質問は、心愛からだった。腰掛けているソファーの隣を叩かれたので、誠は隣に大人しく腰掛ける。
「……それは、関係が無いと思います」
「どうして?」
「オレを追っ掛けていたあの人は……オレの父ちゃんみたいな人だから。リナの事は多分、名前しか知らないと思います」
ずっと黙っていた自分が悪いので、認識の擦り合わせは必要だ。そう判断して正直に話すことにした。
「帰国予定は、昨日で間違いないのか?」
「往復の飛行機を取ってた。早坂さんと行った時に調べたけど、領収書がリナさんの部屋には保管されていたよ」
「現地のニュースで問題は?」
「何もなかったです」
続く拓海の質問に誠が答える中、凪も頷いていた。
リナの出身地に関しては現地での問題は勿論考えていたし、毎日チェックもしていた。情勢不安はあれども、直近では大きな事件もなかったし、家を飛び出してからネットカフェ内でも数回メールのやり取りは続いていた。
「なら出入国審査のどちらかで、引っ掛かった可能性があるな」
拓海の口から飛び出した言葉は突飛だった。
だがこちらを静かに見据えて放つ威圧感に、嘘や冗談の片鱗は無い。誠も思わず息を呑む。辛うじて「まさか」と答えるも、声は震えてしまっていた。心愛と凪からの視線も居心地が悪く、逃げ出したい衝動を必死に堪える。
「拓さんブッ飛んだねぇ、そりゃテロリストや工作員なら分かるけどさぁ」
「可能性の一つだ。ちゃんと介護の資格も持っていて、日本で真っ当に働いているのなら、普通は有り得ない」
「そ、そうですよね……」
心愛の茶化しに淡々と返す拓海を見て、誠の方は頭のぐらつきが増してゆく。今度も何とか平静を保って答えると「ああ」と拓海は頷いた。
「ただ最近の出入国のチェックは厳しいからな。幾ら潘が仕込んだとはいえ、偽造した何か――例えば在留カードとか、を彼女が使っていたら難しいかもな」
拓海の口から溢れた「潘」という名は意外ながらも決定打であった。
彼から受けた突然の不意打ちで、今度こそ誠の背筋が凍りついた。今しがた向けられた視線は、初めて拓海と出会った日に受けたものと同じだ。自分を見据える男から、誠は目を外すことが叶わない。
「お前、潘んとこのガキだもんな。今の反応を見ると……やっぱり何か造ったんだろ」
「潘? どちらさん?」
「フリーの|にんべん師《偽造屋》だ」
「あらまぁ」
拓海の口から出た誠の正体に、心愛は驚く反応を見せる。だが彼女は驚きよりも、誠の正体に興味津々といった風だ。
「まこっちゃん、職人見習いだったの」
「……いつから、知ってたんですか?」
「ウチに来る前からだよ」
「あらまぁ、拓さん」
「詳しいことは、ココにも後で話す。先に彼女の事を話してくれ。えっと……」
「陸(りく)、でいいです」
下手な嘘は重ねても一切通用しないだろうと悟り、諦めた誠は本当の名を名乗った。
「名字的なのは無いです。父ちゃんに引き取られたので。一応名乗る機会があるときは『|潘 陸《ハン・ルゥ》』って名乗ってます」
元来自分という人間は、隠し事が出来る性格でもなければ嘘もあっという間に見抜かれてしまう。そして何日か見てきた中で、この人達は隠し事をしても一切通用しない類の人間だと薄々は感じていた。
だからなのか、今は意外にも素直に名と身分を明かした安堵感の方が勝っていた。事態は何一つ解決はしていないにも関わらず、ほんの少しだけ肩の荷が降りたかのような錯覚を受ける。
丁度その時、凪が立ち上がり、ソファーが揺れる小さな感触が身体に伝わった。
立ち上がるタイミングを見計らっていたのか、凪がキッチンにある電気ケトルのスイッチを入れる音が聞こえる。普段通りの調子で「コーヒーいる人」と凪の声が背後から聞こえると、心愛と拓海が返事をする。自分は返事をしなかったのだが「陸さんのも入れるね」と、告げられた。
「オーケー、りっくん。続きを話して」
「はい」
心愛に促されそう頷いたものの、言葉は続かない。
自分の身に対する安堵は一時的に訪れはしたが、依然陸の頭は混乱している。「あの、」と震える声で、シングルソファーに腰掛ける拓海へと問い掛ける。
「もし、もしもリナが。その……例えば、在留カードの内容が嘘だと。日本に入る前にバレたらどうなるんですか?」
「入国拒否の上で本国強制送還だ。そうなら今頃、とっ捕まってるだろう」
「そんな……」
「なに、調べてみたら数日程度で済む問題だ」
陸からの質問に相変わらず淡々と答えてくれる拓海は、最後に煙草と共に息を吐いた。
「りっくんの彼女さん、偽造カードなの?」
心愛からの問い掛けに陸は「いいえ」と首を振る。
「カードは本物です。ただ申請時に用意した書類はオレが改ざんしました」
「なるほどね」
スマートフォンを握る手は、無意識のうちに力が込められていた。
「彼女は日本に来て、真面目に働いてたんですよ。本当です。でも去年の終わり頃、経営が厳しくなって施設が潰れたって聞きました」
この数日何度も味わった掌の痛みを感じながらも、陸は必死に誤解を与えないようにゆっくりと考えて過去に起きた出来事を並べてゆく。
「丁度、在留カードの更新期間も近付いていたのに、仕事が無くなっちゃって。彼女、思い詰めてたんです。だから……父ちゃんの仕事仲間に頼んで、ダミー施設の職員として扱ってもらえるよう渡りを付けてもらいました」
「もしかして、この前に話してくれたのって」
心愛の言葉に陸は「はい」と返す。
数ヶ月前に見たリナの悲痛な表情が、陸の脳裏に浮かぶ。過去を紡ぐ声は徐々に震えが混じり、上擦り始めていた。
「オレ、助けたくて。新しい受入れ先の書類を数枚いじったんです」
「下手に在留カードをいじるよりかは懸命だな」
「はい。法務省のIC署名システムなんて、オレごときじゃ太刀打ちできません」
潘の方に依頼として舞い込む中に、在留カードの偽造も幾つかはあった。だがそれはあくまでも、人の目で確認を行う証明証としての話である。幾ら腕のいい職人が偽造をしても、ICチップの電子署名まで偽造は不可能だ。なので陸も照会やNFCリーダーで読み込まれれば、不正を施したとバレるのは当然ながら知っていた。
「公文章偽造も立派な犯罪だけれどね」
背後から聞こえた凪の声に、陸は言葉を詰まらせた。彼が口を挟んだ理由は明白である。昨夜、彼がリナの部屋へと忍び込んだのを自分が咎めたからだ。
実はあの時も陸自身、彼を責める資格は無いと理解はしていた。
「悪いことってのは勿論分かってます。でも、オーバーステイになった方が困るじゃないですか。更新さえできたらその間に就職先を探せるし、いいんじゃないかと思って……」
「そうだね」
「困ってる人を救うって、悪いことなんですか?」
「犯罪は犯罪だが、犯罪で救われる人間もいる。それに関しては何も言わない。ココは勿論のこと、凪や俺も色々とやらかしてるしな。悪いと言う権利も俺らには無い」
「……そうですよね」
「ただ、マズい事なのは確かだ」
拓海がそう告げた後。部屋の中で漂うのは、カップが置かれる音と湯が注がれる音。そして、テレビの音だけった。
陸が今朝リビングに入って初めて視線を向けたテレビでは、ずらりと並ぶ朝顔をバックに、全国の天気予報が放送されていた。気象情報を告げ終えた浴衣姿のキャスターは、色とりどりの朝顔が植えられた鉢植えの中の一つを持ち上げ歓喜の声を上げている。妙に甲高い声だったので、寝不足の陸の耳にはそれが刺さるようだった。
「陸さんはどうして『早坂 誠』って偽名を使っていたの?」
しばらくテレビを眺めていた陸だったが、淹れ終えたコーヒーを手に持った凪が前に立つ。マグカップを差し出す時に、彼から質問を投げ掛けられた。
「……父ちゃんに黙ってたことがバレそうだったので、オレ家を飛び出したんです。でも行き先が無くて」
陸は礼を言ってコーヒーを受け取る。冷房が効いた部屋の中で受け取ったマグカップは熱く、指を取っ手に掛けた後で底をそっと包み込んでみた。
「リナが帰ってきたら、マンションに住ませてもらおうかと。で、その間はネカフェに泊まればいいと思って……早坂さんって人から名義、借りたから名乗ってました」
「陸さんが作った名前じゃなくて、借りたの?」
「はい、免許証とかをあらかじめ造ってたらよかったんですけど……」
陸は手元のマグカップに鼻を近付けた。一度だけ勢い良く息を吸い込み、遅れて漂ってきた香りを探る。胃は荒れて頭の芯は鈍いままだが、まだコーヒーの香りは心地良く感じることが出来た。一呼吸あけて、自分が偽名を使っていた理由の続きを正直に話す。
「オレ。戸籍とか無いんで、家飛び出したら行くとこ無かったんです。で、丁度ソシャゲ仲間だった人がネカフェのカード作るくらいなら、1万で名前を貸してもいいよって言ってくれて」
「……そう」
質問をしてきた彼にとっては、満足のゆく答えだったようだ。最後にコーヒーを手渡した拓海の横で、凪は静かに佇んでいた。
「どうする、ココ」
「拓さん、その潘さんって知り合い?」
「昔からの知り合いだ」
拓海が潘を知っていたのも驚きだった。なのに古くからの知り合いと聞いた今、陸はさらに衝撃を受ける。心愛と話している彼の顔を眺めるも、特に変わった様子は見られない。
「なら、興信所の方で引き受けてもいいと思うよ」
「え、じゃあ……」
呆然とする陸に向けて、隣りに座る心愛が頷いて笑った。
「有難うございます!」
リナの行方を探してくれると快諾してくれた事には、感謝の気持しか無かった。深く頭を下げて礼を告げた。続けて心愛からは「お金はちゃんと後で貰うからね」と付け加えられるが、今は感謝の方が勝っていた。
「よかったね、陸さん」
頭上から声が降り注ぎ、顔を上げる。拓海の横に佇みこちらを眺める凪に、陸は素直にもう一度「はい」と頷く。
「ココさん。俺は調べたいことが出来たから、今回は俺抜きでいいよね?」
「うん」
「それと、もう一つ」
凪に引き続き、今度は拓海からだった。
「コイツの身は俺が預かる」
「俺を家に連れて行くんですか?」
「突き出す必要があるなら、とっくにしてる。あと潘はもうお前を探してねぇよ」
「それって……」
陸が続けようとした言葉は「ただ――」と、拓海に遮られた。
「潘の野郎には、恩を売っておくチャンスだからな」
そう言って少し目を細めて笑う男の顔はつい最近、どこかで見たことがあるような気がした。コーヒーに口を付けた時に、陸はふと思い出す。
それは数日前に保護犬カフェで出会った、元警察犬の表情と今の拓海の表情が心做しか重なっていただけだった。
◇ ◇ ◇
赤坂・某高層ビルの高級レストラン。
開店時間が18時らしいこの場所に陸が入ったのは、16時を少し回った頃である。
陸は広がる景色の中で、前に建っている東京タワーをぼんやりと眺めていた。下から見たことも殆んど無かったが、赤い鉄塔を正面に見据えるのは初めての経験だ。昼間ですら美しく思えるそれは、夜景となるとさぞかし綺麗に見えるのだろう。だが残念ながら今の時間は、空は青く澄み切っている。
目の前に置かれた紅茶と、小さなケーキに陸は一切手をつけていない。
意外と緑が多い東京の街並みと、近い青空を交互に眺めた後で溜息を吐く。それは陸がこの場に到着してから、何度も繰り返していた。
「落ち着かない?」
「はい」
窓際に設置されたペアテーブルの向かいには心愛が座っている。二人の間に置かれているのは、ケーキスタンドと上に並べられた小型のケーキ達だ。並ぶケーキを片っ端から片付けている最中の彼女に投げ掛けられた問い掛けに、陸は頷いた。
「『オレはこんな事している場合じゃないっす、リナの事が心配なんすよ』って?」
「それ……オレの真似ですか?」
口を動かしながら心愛が「似てる?」と聞いてきたが「分かんないです」と答える。
すると彼女は紅茶を一口啜った後で、依頼主と話し込む拓海のテーブルを指差した。
「ソワソワする青年よ、そこの枯れた中年は今朝君に何と言っていたかね?」
「『入管で収監されたかどうかは、5日はかかる』って」
「今日は依頼してから何日目?」
「……2日目、です」
「宜しい、そういうことだよ。青年」
見るからに高級なティーカップに注がれた紅茶を飲み干した後で、心愛はそう答えた。そっとカップをソーサーに戻す動作は、優雅で丁寧なのに「すみません、紅茶おかわり」と告げる大声はちぐはぐだ。
「“人事を尽くして天命を待つ、斯れ知るなり”」
「何ですかそれ?」
「りっくん知らないかぁ」
「オレ、学校行ってなかったんで……」
心愛が自分に告げた言葉の意味が分からず、陸は俯いた。
手元にあるティーカップ、その中に注がれた赤褐色の液体をじっと眺める。繊細な作業を欲求される、偽造技術を操る師匠と弟子。共に大柄でそんな風に見えない二人だと、事あるごとに周りに笑われていた青年が今は虚ろな瞳をして映り込んでいた。
心愛からは「そっか」と一言だけで、追求を終わらせてくれたのが有り難かった。
「孔子って超絶プロゲーマーの言葉」
「孟子、だね。中国の思想家だ」
声は拓海と座って会話をしている、隣の席からだ。
「嘘はいけないよ、中村」
横から入った穏やかな声に、陸は驚いて顔を上げる。柔らかく笑って陸へと微笑み掛ける男性と目が合い、陸はすぐに視線を逸らした。
「悪いな楊、うるさくて」
「横田君がいないのは残念だけど、賑やかなのは楽しいから構わないよ」
拓海の言葉に対しても、楊と呼ばれた男はにこやかに笑って返していた。
丁寧に書類を眺める楊の姿を陸はそっと観察する。歳の頃は30代か、黒い長髪を後ろに纏め、スーツ姿で銀縁の眼鏡を掛けていた。陸達が今いるレストランのオーナーだ。待ち合わせに指定していたレストランに現れた時も、店員達は総出で出迎えていた。彼の後ろには同じくスーツ姿で立っている男の姿があった。拓海に楊と言われた男はにこやかに笑うが、彼の後ろに立つ初老の男性の名前は知らない。無表情で不気味な印象を抱くだけだ。
「凪に吹っ掛けられなくてよかったろ」
「でも僕、彼と話すのは好きなんだ」
楊は見た目や肩書きとは裏腹に、どこかの犯罪組織の人間らしい。その証拠に拓海との会話の中で、先程から気になる単語を幾つか陸の耳は拾っていた。盗み聞きをする趣味は無いが、客が自分達だけなので小声でも聞こえてくるのは不可抗力だ。今までに得たヒントを併せた上で、陸は彼の立場を推測する。
拓海との間で頻繁に交わされる『偽札』『半グレ』『流通』『闇バイト』『騙り』といった単語は、静かな午後の高級レストランの中には似つかわしくないものばかりだ。
「リストもこれで全部?」
「ああ」
書類を読み終えたらしく、楊は何度か紙の束をテーブルに叩く音が小気味良く聞こえる。拓海から受け取った書類を綺麗に揃えた後で封筒に戻し、後ろに立つ男へと手渡した。
「やっぱり君と、横田君はいい仕事をする」
「毎度あり」
楊は渡した封筒の代わりに、男が差し出したクラッチバッグを受け取る。それは楊の手からさらに拓海へと手渡されていった。革張りのバッグを持った拓海が「随分と重いな」と呟けば「ここの新作だよ」と楊が返す。
「お土産。横田君、甘いもの好きでしょ」
「有難うな」
こうして眺めている分には、何の変哲もないただの商談に見えた。
だが今この瞬間、自分の知らない世界で、重大な出来事が起こる前触れに立ち合っているのかもしれない。そんな錯覚と恐ろしさすら、うっすらと陸の脳裏には浮かんでいた。
丁度タイミングを見計らっていたのか、ティーポットを持ったウェイターが心愛と陸のテーブルの前に現れた。新しく紅茶を注ぎ直し、残りのポットを置いて立ち去った後のことだ。
陸の視界に見慣れぬ顔が突然割り込んだ。
「岸に聞いたよ。君、仮採用期間の新人なんだって?」
真横で聞こえた声に驚き仰け反ると、腰を屈めて陸と目線を合わせていた楊が「やぁ」と笑っていた。
「口に合わなかったかな?」
「いえ、そういうわけじゃないんです……」
突然、真横に現れた楊に陸が戸惑っている間に彼は自分の席から椅子を持ってきて、隣に腰掛けていた。
「君、可愛いよね。名前は?」
楊の口から出た言葉の意味は、陸の思考が理解することを拒んだ。陸がただ驚いていると、頬杖を付いた楊との距離が更に近付く。
「なに、楊さんってそういう系?」
「中村もまだ甘いなぁ」
陸の前に置かれていたケーキの皿は、心愛が伸ばした腕によって奪われた。目の前で起きた略奪に陸は我へと返り、楊は咎める風も無く微笑んでいる。
「僕は男女平等に、純粋で可愛い子が好きなんだよ」
すかざず「私は?」と尋ねる心愛に向かっては「意地汚くて浅ましい野良猫は好きじゃないよ」と楊は平然と返す。すると彼女の爆笑が店に響き渡った。
「才能に恵まれていて、穢れのない存在に悪人が惹かれるのは当然だと思うけれどね」
「さすがは楊大哥、お目が高い」
「中村は本当に生意気だ」
隣の楊と正面に座る心愛は、互いに笑いながらも言葉の応酬を交わしている。ちらりと拓海の方を陸は見る。興味が無いといった素振りで紅茶を啜る拓海と、その向かいに立ったままの男との対比が印象的に映った。
「君、可愛いから。お小遣いをあげるね」
一方の楊は陸にそう告げるなり、スーツのポケットに手を入れる。次に彼が取り出したのは、マネークリップに挟まり、2つに折られた一万円札だった。マネークリップを外した後で、扇のように広げて陸の前へと差し出した。
それを無言で受取り、一枚ずつ順番に表と裏を確認してゆく。札は8枚あった。続いて陸はそれをテーブルの上に、5枚と3枚に分けて楊の前へと置いた。
「……結構です」
溜息と共に断りを入れ、楊の目を一瞬だけ見る。彼の細い目がほんの僅かに見開かれているのに、陸は気付いた。
「出来、悪いかな?」
「俺は分からん」
「私も分かんない」
楊の問い掛けに返すのは、拓海と心愛の両名だけだ。もう一人の男は、相変わらず沈黙を貫いている。
「匂いと手触り、後は上手く言えませんが違和感。今は新しい方に目を向けられてるし。元から諭吉って、ホロと透かしの方に目が行って割りと旧は誤魔化しきいちゃうんですよ。後は凹凸。それに数か所、差しの色だって配合は確か……」
一気に早口で捲し立てたところで、陸はハッとする。
途端、呼吸すらも忘れて息を止めた。いくらなんでも迂闊過ぎだ。そういって己を罵るも、既に遅い。楊の笑い声と反対に、陸の身体は震え始める。動揺を鎮めようとすればする程。傍から見ても分かる位にまで、陸の身体は小刻みに震えてしまっていた。
「大丈夫、そう怖がらなくてもいいよ」
ひとしきり笑って満足した楊から、穏やかな声を掛けられる。本当ならば安堵を覚える声色なのだろうが、陸にとってはさらに恐怖が増すだけだ。
「良いなぁ、優秀な新人だ」
「仮採用、な」
隣の席から飛んできた拓海の声に、楊は「分かってるってば」と答えている。続いて彼は陸が返した一万円札を手に取った。分けた偽札のうち2枚を取って、胸ポケットへと収める。残る1枚は本物へと重ねて席を立つ。後は手に持った札をさらに何度も混ぜて、最終的にそれは拓海の方へと手渡した。
渡す際に「晩御飯代」と彼は告げ、「悪ぃな」と受け取った拓海も返すだけだ。
「じゃあね岸、また引き続き頼むよ」
「おう」
「中村も陸も、またね」
最後の挨拶を告げ、楊は踵を返した。無言で立っていた男も足を踏み出し、楊の傍へとそっと近付く。半歩後ろに下がり影のように追従する男と、その前を颯爽と歩く楊の背を陸は呆然と眺めることしか出来なかった。
「あ、ねぇねぇ」
硬いフロアをコツコツと叩く革靴の音を止めたのは、心愛の呑気な声だ。
「陳さん」
初めて聞く名前の後で、楊の背後にいた男がこちらへと振り向く。
「前に言ってたラーメン、良い日あったら開けとくね!」
「分かった、ちゃんと奢る」
それが陳と呼ばれた男が発した、陸が聞く初めての声であった。低く腹に響くかのような声だが、やはり顔には感情の色が一切伺えない。陳が無表情のまま「背脂マシマシ」と告げると、心愛はニヤリと笑って「マシマシだね」と返す。
二人の間にはそれで充分だったようだ。心愛は「またねー」と軽く手を振り、後は二人を見送るだけだった。
◇ ◇ ◇
繁華街の一角に、そのホルモン焼きの店はあった。
開店時間が18時らしいこの店に陸達が入ったのは、19時を少し回った頃である。
陸は前に広がる網の中で、焼けるテッチャンとミノをぼんやりと眺めていた。ビールジョッキ越しに眺めた事は殆んど無ったし、赤く熱が籠もった炭に炙られるホルモンは久し振りだ。
周囲では既に出来上がった客達が騒いでいる。昼間の場所を思えば、煙で霞む空間で酒に溺れる人々が奏でる喧騒の方が懐かしく思えた。
「リストの方も楊に渡したからな」
「うん」
拓海の言葉に、合流したばかりの凪が答えた。初めて見る彼のスーツ姿に陸は最初驚いたが、意外にも違和感は感じない。
凪は店員に烏龍茶を注文してから、ネクタイを外して陸の隣に腰掛ける。やはり暑かったらしく、ピッチャーからコップに注いだ水の方は一気飲みをしていた。
「楊さんは、他に何か言ってた?」
「お前はいい仕事するってよ」
「そう」
網越しに小さな包み紙を拓海が手渡すと、凪は受け取った。楊から受け取った報酬の中に入っていた、小さな包み紙だ。開封する様を陸は眺める。中身は可愛らしいチョコレートの詰め合わせだった。
そっと蓋を閉めて鞄の中にしまう凪を眺めながら、陸は昼間会った楊と拓海との言葉を思い出す。拓海の方は偽札の流通経路を調べて報告していたようだが、凪の方は何かのリスト――恐らく半グレグループの名前なのだろう、を楊に依頼されていたようだった。
陸には親子が調べた情報を楊がどう使うのかは判らないが、きっと個人名の方は半グレといえども逮捕や検挙の類には使われないだろうとは察していた。
「どうしたの?」
考え事をしているとすぐに顔に出てしまうのが、陸の悪い癖である。付き合いが短い凪の方からも容易に見破られ、陸は思ったままの気持ちを告げることにした。
「良く分からないんですが。昼間に会った楊さんって、悪い人ですよね?」
「まぁ、そうだな」
「ここは、その悪い人の奢りだけどね」
陸の問いに答えたのは、正面に座ってジョッキを煽る拓海と焼けた肉を片っ端からタレに浸けて頬張る心愛だった。烏龍茶を持ってきた店員に続けて「ハラミ」と、心愛は注文を追加する。
「お前さっきもケーキあれだけ食ってたのに、よく食うよな……」
「人の金で食う飯は、腹が破裂してでも食いまくれって。ウチの家訓なの」
「そうかよ」
「さっき受け取ったお金、見せて下さい」
陸がそう言うと、拓海は財布とは別に分けていたらしい2つに折った札を渡してくれた。陸は受け取った6枚をざっと眺める。中でもやはり目立つ1枚を抜いて、一番上へと重ねて拓海へと手渡した。
「お前、よくこんなの分かるよな」
「見るとこ見てたら、結構仕事は荒いです」
一番上の重ねた偽札を拓海は透かして眺めた後、心愛も手に取って眺める。最後にそれは凪へと渡り、隣に座る彼も煙で曇る店の照明越しに透かして眺めていた。
「この前、警察の人達と取引してましたよね?」
「ああ」
「おかしくないですか?」
「何がだ?」
「なにがって……」
こちら側が行った質問を即座に拓海から返され口籠っていると、今度は心愛の方から返ってきた。
「ウチらは『情報とハッタリとスマイルで飯を食う蝙蝠野郎』がモットーの商売だよ、りっくん」
彼女の口から飛び出したのは、身も蓋も無いものだ。ただ唖然としていると、トングで肉をひっくり返しながら心愛は続ける。
「悪に染まったり綺麗事を言って正義を貫いた瞬間、どちらからも背中をブスリと刺されちゃうからねぇ。愛想と尻尾を振りまくって、毎日を面白おかしく生きるのが我が社のモットーですよ」
「ココお前、少しは言い方を考えろよ」
「蝙蝠って尻尾あった?」
「知らない」
咎めるも苦笑する拓海と真面目に質問する凪と、平然と返す心愛。そんな3人との間に大きな隔たりを感じて、陸は一瞬言葉を飲み込んだ。陸が言葉を続けるのを待っているのか、それとも単に食事の方に意識を向けたのか。周囲の喧騒とは裏腹に3人は黙る。
次に陸が口を開くまでの間に、肉から落ちた油で炭火が勢い良く燃え上がる。熱気に一度頬を炙られた後で、陸はぽつりと本音を漏らした。
「オレ、あなた達って最初はスゲェいい人達と思ったんですけど……やっぱ、悪い人達なんですか?」
元々は情報屋という、今まで関わり合いが無かった仕事にも陸は良い印象は抱いていなかった。所詮は裏社会で弱者をたらしこみ、様々な犯罪を助長する存在だと思っていた。だからこそ、先日警察の人間に情報を提供しているという側面を見て感銘を受けた。
だがその後で自分が幼い頃から憧れ、尊敬していた“正義”という価値観が崩れ去った。加えて、嫌悪感を抱く悪側の人間に加担していると知った今日の出来事は決定的だった。
「今言ったお前の理屈でいうと、中立だ。だからこそ公平に依頼も来るし、俺らは受ける」
「白黒だと灰色ってヤツだね」
「やっぱり、良く分かんないです」
今の陸はその一言を返すだけで、精一杯だった。
リナの安否を調べてほしいと、自分の依頼を受けてくれた事には感謝をしている。それでも今聞いた彼等の言い分を納得する程、陸という人間は成熟した存在では無い。
「拓海さん」
追加の肉を受け取り網に並べ終えた後、凪が静かに口を開いた。
「陸さんは拓海さん預かりって、昨日言ったよね」
穏やかな凪の質問に、拓海は「おう」と答える。
「それ、楊さんにも言ったの?」
「言った、取り敢えず『仮採用』って」
「……そう」
彼が何を考えているのか分からないが、整った切れ長の目が陸へと向けられた。それは先程、自分の真横に腰掛けこちらを見据えた楊と同じ目だとすぐに分かる。だが凪のそれは決して好意的には見えなかった。正体が分からない感情を向けられ、陸の内では悪寒のようなものがじわりじわりと湧き上がる。
「楊さんは普通の悪い人じゃないよ。あの人は正真正銘の悪人。で、前に陸さんが会った刑事の高松さんは正義」
「だから、オレが聞きたいのは……」
「陸さん」
陸が凪を睨むと、肩に優しく凪の手が置かれた。声色も優しいのに、何故だか悪寒はまだ引かない。
「何一つ世間を知らない、純粋なガキってさ。ここまで親切に言ってあげても、本当に世の中全てが、善悪で割り切れると思って生きているんだね。驚いたよ」
一呼吸置いて凪は、柔らかな笑みを浮かべてニッコリと陸へと笑いかけた。彼の笑顔を見た瞬間、陸の身体は大きく跳ねる。心臓の鼓動が耳に響くかと思うほど、うるさく鳴って恐怖を訴えかけてきた。
「本当に馬鹿で無知の癖に、うるさく喚いてムカつくね。回りくどいことはせず、手っ取り早くブン殴って、目を覚まさせてやりたくなってきたよ」
柔らかい笑顔を浮かべ放たれた言葉の暴力に対し、陸は何も言い返せなかった。
実際に殴られたかと思わんばかりの、衝撃と恐怖と痛みが激しく胸を叩く。うるさく痛い鼓動は止まらず鼓膜を打ち付け、握った拳は手汗にまみれていた。
その後の事は、店を出るまで殆んど記憶には残っていない。
気付いた時には用事があるから一旦事務所に寄る、と告げた親子とは別れていた。今の陸は心愛と二人で陸は夜の繁華街を歩いている。「美味しかったねぇ」と話し掛けてくる心愛に対し、曖昧な返事を返しながら賑わう繁華街を歩く。
真夏の都心は連日の熱帯夜で、店に入っている間ゲリラ豪雨もあったらしい。蒸し返る湿気に包まれ、今もTシャツが背中に張り付く感触が気持ち悪い。数日間ろくに寝ていないのも重なり、陸の頭は酔い以上にぐらつき続けていた。
心愛はコンビニに寄ると言って、大通りに位置するコンビニへと入ってゆく。陸も後を追って入ったが、ぐるりと店内を周って結局は何も買わず出口へと足を向けた。
店を出る手前にレジの前を過るが丁度その時、レジの前に立つ若い男が財布から一万円札を出しているのがちらりと見えた。出口付近の雑誌コーナーで立ち止まると、陸は男性の手元を注視する。男の手を離れてセルフレジに吸い込まれてゆく一万円札をじっと眺めた後で、陸はコンビニを出た。
振り返ると心愛はまだ店内で物色をしているので、まだ時間は掛かるようだ。前の通りを歩く人をぼんやりと眺めながら、心愛を待つことにする。
目の前を歩く様々な人間を眺めていても、脳裏を巡るのは先に告げられた凪の言葉と笑顔だけだった。ふと人混みを形成していた列がたまたま途切れて、通りの向こう側に小さな店構えが見えた。それは個人経営の煙草屋で、昔からこの繁華街にある店だった。煙草を吸わない陸も子供の頃から知っているその店は、24時まで営業しているのでまだ灯りがついている。ガラス張りの窓の中には、年配の女性が座る姿が見えた。
店の横に置かれたプランターは花が咲いている様子が無いが、支柱が刺さっているので多分朝顔なのだろう。子供の頃から見慣れた光景なのに、今日は何故だか別の世界のようにも思える。陸がぼんやりと眺めている間も、人々は次々と目の前を通ってゆく。
次に人の流れが切れた時、煙草屋の前に佇む客の姿が見えた。大きな後ろ姿を見ると外国人のようで、煙草を購入して代金を払っていた。店内の灯りに受け取った札を遠ざけて、透かしている店主の姿が見える。
続いて、釣り銭を受け取った客を陸は目で追う。彼は受け取った釣り銭を札ごと乱雑にポケットへと突っ込み、店の先で待っている仲間とおぼしき連中と合流をしていた。
彼らは数人で集い、酒が入っているのか大声で喚き立てている。陸にとっては全く関係の無い世界の出来事だと思って眺めてはいたが、騒ぎ立てる連中の中に一人だけ見覚えのある男がいて息を呑んだ。
それは、先日潘と共に自分を追い掛けてきたうちの一人だった。
ブリーチした髪と派手な服、聞き覚えのある大声。
歳は同じなのに、自分とは全く別の世界へと沈んだ幼馴染を陸はしばらく眺めていた。
彼は陸の姿には気付かず――煙草屋で買い物をしていた男や他の仲間と一緒に、騒ぎ立てながら夜の繁華街へと消えていった。