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1章3話「有料スマイル」

ー/ー



1章3話「有料スマイル」
(1-3)

「早坂さんは“マイナスサムゲーム”って言葉は知ってる?」
「ゲームのジャンルですか?」
 不意に凪の方から投げかけられた質問に、誠は答える。少し考える素振りを見せた後で「少し違うかな」と凪からは言われた。
「プレイヤー全員が損をする構造なんだけど……そういう意味では、ブラックジャックとか、麻雀が近いかな」
「難しいヤツはちょっと」
「そう」
 リビングソファーに座ったまま、誠は振り返った。後ろのダイニングチェアに腰掛けている凪は何か考えるように視線を宙へと泳がせている。手に持っていたタブレット端末は、リビングテーブルの上に伏せられていた。
 彼がこちらに伝えたいことがあるようなので、誠は思い切って自ら話題を振ってみる。
「凪さんもゲームするんですか?」
「俺はしないかな。リスクが大きい遊びは、好きじゃないから」
「まこっちゃん、この青年は遊び心を前世から墓に埋めてきたんだよ」
 誠の隣に座る心愛から、茶化す言葉が飛び出す。それを受けた凪から返ってきたのは言葉ではなく、小さな笑いだけだ。
「まだ連絡は無い?」
 続けて尋ねられた質問に対しては、「はい」と返す声が小さかった。誠は視線を手元へと落とす。心愛と遊んでいたゲームのロビー画面を一旦消して、通知が無いか確認を行う。
 メールと通話アプリとSMS――やはりそのどれにも、リナからの新着通知は見られなかった。


 誠の恋人であるリナが帰国する予定であったはずの今日も、残すところ後2時間程となっていた。心愛が気を利かせてか、夕食以降は誠とずっと話したり遊んでくれたが。時間が経てば経つ程、誠の中では不安が募ってゆくばかりであった。
 遅くとも前日までには何らかの連絡があるとは思い、ずっとスマートフォンの電源は入れたままだ。しかし通知音がなる度に画面を覗けば、ニュースやSNSの通知ばかりだ。
 不安の余り、誠はスマートフォンを握る腕に力を込める。何度も同じような事を繰り返しているうちに、手のひらにはケースの溝がすっかりと刻み込まれていた。

「心配か?」
「……はい」
 今度はシングルソファーに腰掛けている、拓海からだ。
「まぁ、そうだよな」
 彼はその一言だけで終わり、ビールを煽ってテレビを見る作業へと戻る。誠の胸中ではそれぞれに気を使わせているのではないかという不安と、リナからの連絡が無いことへの焦燥で一杯となっていた。

 夕方からずっと考えていた“ある提案”が、またも誠の口から飛び出しかける。しかし、彼等に尋ねるべき時ではないという思いと、果たして彼等は自分の頼みを受け入れてくれるのだろうかという不安の交互に襲われる。
 もう一度、気持ちを落ち着かせようと。誠はスマートフォンの画面を覗き込んだ。平常心を保つため、普段の習慣を行おうと震える親指で見慣れたSNSのアイコンをタップする。馴染みのロゴが画面いっぱいに映し出された後で、表示されたタイムラインの文字を追う。
 だがそれも僅かな間だけだった。昨日見た拡散記事が不意に目に入った途端、思わずアプリを閉じてしまっていた。スマートフォンを投げ出したい衝動を堪え、誠は顔を上げる。
 ふと視線を感じて振り返る。誠に向かって奇妙な質問を投げ掛けてきた凪が、まだ静かに誠の方を眺めていた。

 何も言わず、静かにこちらを見つめる青年から誠は目が離せない。
 今しがた見た拡散記事が悪かった。昨日この青年と昼飯時に交わした言葉と――底知れぬ不安が、誠の脳裏へと鮮明に蘇ってきた。



 ◇ ◇ ◇



「さっきの人、よかったんですか?」
 我慢できず、思わず告げた誠の言葉に対し。昼食中の3人が、手を止めることは無かった。
 彼らを眺めて数日間、誠には色々と分かったことがある。
 この人達は、悪人でも無ければ決して善人では無い。彼等は情報を商品として売買する「情報屋」なのだが、自分が想像していた裏社会の情報屋とは少し違う類の商売を行っている、ということだ。

 事務所の応接テーブルには、ファーストフード店の包み紙が幾つか散乱している。
 ストローの包装紙や紙ナプキン、ハンバーガーやナゲットが入っていた箱。4人の中で一番注文数が多かったのは心愛だ。彼女はピンク色の包み紙をクシャリと丸めた後で、応接テーブルの真ん中に縦置きされている紙袋へと投げ込んだ。
 心愛の手から離れた包み紙のボールは綺麗に弧を描いて、紙袋の中へと落ちる。凪がぽつりと「3点」と告げた。
「で、何がよかったのかって?」と、彼女が誠に尋ねたのはその後だ。
「社長さんの情報、教えてもよかったんですか?」
「仕事だからね」
 心愛はのんびりと答えるともう一度、今度はナゲットの箱を潰して投げる。ナゲットの箱は袋には入らなかった。「減点」と告げた凪に拾われて、袋の中へと飲まれていった。


 誠の疑問――それは彼等の同業者、つまりは他の情報屋からのファクトチェック依頼の件であった。
 調査対象は『三丁目の公園にいるホームレス』で、身辺調査。何故そんなものを?と誠も最初は不思議に思っていたが、心愛と行動を共にしているうちに疑問は晴れた。
 依頼者の話によれば、対象の男は関西地方の町工場社長らしい。受注先のミスでリコール問題が発生し、多額の借金から工場を閉鎖していた。その後、闇金から借りるも返済出来ず関東に逃げてきた。といった内容の真偽を、裏付けとして三人に依頼してきたらしい。
 誠が拾われる前に受けていた案件らしく、最後の確認作業の段階で誠は心愛と共に行動をしていた。公園のベンチに座るホームレスとの世間話を行い、苦労話や愚痴から必要な情報をそれとなく引き出してゆく心愛の手腕をその時は感心して眺めていたのだ。
 結果、心愛は『元町工場社長・失踪中の男で間違い無い・他の家族との接点は無し』と判断して先程、依頼相手へと正確に伝えて依頼は終了という形で終わった。それが昼食前の出来事であり、誠が疑問を抱く端緒となっていた。

「まこっちゃんは不服かい?」
「その情報屋が、借金取りの人に情報を売ったらどうするんですか?」
「身柄を押さえられるだろうね」
 答えは凪からのものだった。彼はその後、手に持っているチーズバーガーを齧る。
「でもあの人は、人のミスで借金を背負ったんですよね」
「それが俺達と、どう関係があるんだ?」
「まこっちゃん、君はゲーム観戦で陣営をひっくり返したことがあるかい?」
「陣営、ですか?」
「うん、視点を変えるんだよ」
 拓海が差し出したポテトを摘み、心愛はそれを指揮棒の様に軽やかに振った。
「借金取り側から見たらさ、仕事で貸した金を踏み倒されたんだよ」
 ぱくりとポテトを口に収めた後で、心愛はシェイクを手に取った。誠には一言だけ「そういうこと」と告げた後で、ストローに口を付ける。吸い上げられるシェイクの大きな音で誠の思考は中断させられた。
「早坂さんは人の事より、明日のことでも考えたら?」
 シェイクの音が響く合間に誠へと話し掛けてきたのは、意外にも隣に座る凪からのものだった。「彼女さん、帰ってくるんでしょう?」拓海も「そうか、明日か」と、ポテトを食べながら話を合わせてくる。
「どんな人?」
 誠にそう尋ねる彼だけは、丁寧に食べた後の包み紙を折っている。心愛に噛みついたのはいいが、自分は何も返す言葉は持ち合わせていない。誠は素直に凪の質問に答えようと、朝から電源を入れ続けているスマートフォンを取り出した。

 写真フォルダを選んで、その内一枚を画面に出す。こちらを見て、少し照れたように俯いて笑う長い黒髪の女性だった。
「あ、日本の人じゃなかったんだ」
 椅子から身を乗り出し、最初に画面を見た心愛に「ミャンマーです」と頷いてみせる。見る度に懐かしさと愛おしさが押し寄せる。彼女と別れてから今日まで、誠はこれを眺め続けては――何度も現状から逃げ出そうと足掻く、己の弱い心を奮い立たせてきた。

「外国の人でも日本に来れるんですよね? 介護とか技能なんとかで」
「技能実習制度」
「それです」
 自分がリナと知り合ったのは、仕事の走りを初めて任された時だった。仕事を通じて初めて彼女と出会い、その後色々話していてすっかり意気投合したのだ。丁度、彼女と出逢って3年が経つ。
「用事かあって一旦国に帰ったんです。で、明日帰って来るんですよ」
「それで、ラブパワーを得るんだよね」
「です」
 からかい混じりになる心愛に対しても、誠は穏やかに頷く。
「……多分、今日連絡が来ると思います」
 心に訪れる一時の安息を少しでも逃さないように、なるべく言葉を選ぶ。そしてスマートフォンを再び手元へと手繰り寄せた。


 誠はスマートフォンをポケットへと直す前に、気分転換も兼ねてSNSをチェックしようと操作を始めることにしする。数日前からチェックを怠っていたのだが、指を下から上へとスライドさせ、リストから未読を遡ってゆく。
 流行りのイタズラ犬動画、猫戦車ミーム、ライフハック。その中に混じる幾つかの長文と、土下座写真が目に飛び込んだ。「あっ、」と思わず声を出してしまうと、素早く反応を見せたのは心愛だった。
「どうしたの?」
「縦井 鴉さんって、フリーのジャーナリスト知ってます?」
 一つのポストをタップして、ツリーを眺めながらも説明をする。心愛からは「うん」と返ってきた。
「オレ超好きなんです」
「まこっちゃん、若いのにそういう渋い人もチェックしてるんだ」
「縦井って?」
「悪を裁く、正義の覆面ジャーナリストです」
 凪からの質問に、誠は即座に切り返す。

「この人、正体を隠しているんですよ。たまにしか寄稿しないし、原稿料は事件の被害者や遺族の支援に使うという条件のみで原稿を渡すみたいです。SNSからの書き込みもあるんですが。雑誌記事でもポストでも、何か事件が起こる前後。この人がきっかけとなって、バズっていくパターンが多いですね」
 誠にとってそれはつい今しがた、抱いたばかりの些細な違和感を覆い隠すには充分な刺激であった。自分の好きな人の事を尋ねられ、思わず早口気味で説明をしてしまった。
「小難しい記事を書くよね、性格も悪そう」
「正直書いてる記事の意味は難しくて、よく解んないですけど」と頷く。
「色々と枯れ果ててるよ、その人」
「そうですか?」
「うん」
 何故か断言する心愛をよそに、誠は縦井の話題を辿ってゆく。
「今回はどっかの会社のパワハラみたいっす」
 SNS内で誰かが要約してくれた、記事の概要を声に出して読む。
「超有名な広告代理店の社長が、銀座の高級クラブで秘書を裸にさせて土下座とか。酷いことしますよねー。そりゃ悪者になりま……」

 ――と、ここで。
 誠の手が、目が、口が。
 とある事に気付いて、瞬時に凍り付いた。

 一閃の如く過った“ある可能性”の確認のため、誠はゆっくりと目を動かした。スマートフォンに映る文字をそろそろと追い、触れないように指で一文字ずつ宙をなぞり、そこに書かれた内容をゆっくりと過去の出来事と照らし合わせてゆく。
 パワハラを起こした社長の名前は増渕と書かれていた。
 2日前に来た刑事と凪がこの場所で交わしていた会話を思い出し、重ねてゆく。
 記憶という脳内の映像に、記事の内容を重ねる。ゆっくりと確認をしながら跡を無ぞるような感覚だ。それは普段自分が行っている、作業の一環と非常に似通ったものがあった。

『増渕って、広告代理店のか』
『そう。元秘書へのパワハラ始末、もう立件入るんでしょ?』
 記憶の照合は、たったその一筆だけで充分だった。
 続いて誠は別角度からの確認を行うため、縦井の記事があるURLへと飛ぶ。URLを押した先は、某有名週刊誌のwebページへ寄稿されたものだった。折り畳まれた文章の下にある『記事を全部見る』と書かれた文字をタップする指先は震えている。
 確認するのは日付で、2日前の夜に縦井の記事は公表されていた。
 誠には報道関係の事情は分からないが、短時間でそんな事が出来るわけが無いと思う。だがあらかじめ縦井が記事を書いていたとしたら、話は別だ。誠が初めて事務所を訪れたあの日、凪はずっとソファーの上でノートPCに何かを打ち込み続けていた。それは確かな事実であった。

「凪さん」
「なに?」
「本業はライターって、言ってましたよね?」
「フリーだけどね」と隣に座る青年は、言葉を付け加える。
「食えないライターって……まさか」
「フリーライターの原稿料って、早坂さんが思っている以上に安いんだよ」
 返ってきたのは否定でも肯定でもない、事実のみであった。こちらが仕掛けても手応えが無いのが歯痒いが、意外にも歩み寄ってくれたのは彼の方だった。
「早坂さんは縦井の事、正義の味方と思ってるんだ」
「そうですよ、オレ尊敬してます」
 鼻で笑うかのような凪の笑いで、それが思い過ごしだったと気付く。
「違うんですか?」
「本人に聞いてみたら?」
 そう言って彼は、静かに誠を見据えた。自分と歳は近いのだが、落ち着き払った凪の態度を前に誠は戸惑いながらも思ったことを述べた。
「もし凪さんが、縦井さんだったらどう答えます?」
「俺?」
 皆が食べた後の片付けをしていた凪は、ピタリと手を留めて宙に視線を泳がせている。彼の動作一つずつが計算して、敢えて誠に見せているような動きにも見えた。

「もし俺がその縦井なら『正義も悪も関係無い、ただそこにあった事実を書いただけ』って、言うと思う」
「でもその結果、悪いヤツの悪事がこうして広まったじゃないですか」
「そうだね、きっと今回はその増渕を叩くことが『多数にとっての正義』だったんだろうね」
 凪の中では問答は一旦、中断したらしい。後は彼が残りのゴミを全て手に持ったポリ袋へと入れる音と、正面で心愛がシェイクを啜る音。そして拓海が雑誌を捲る音だけが、狭い事務所の中で聞こえるだけだった。

 「早坂さん」と名を呼ばれたのは、凪が応接テーブルの上のゴミを片付け終えた後だった。アルコールで湿らせた紙ナプキンでテーブルを拭き終えた彼は、最後にポリ袋の中にそれを捨てる。
「俺も情報屋だしライターの端くれだから、色々と噂くらいは入ってくる」
 例えば――と、誠の持っているスマートフォンを指さして「記事、見せて」と告げた。誠は大人しく渡し、代わりにゴミを入れていたポリ袋を受け取る。凪は細い指を誠のスマートフォンの上で暫く走らせた後、テーブルの上にそれをそっと置いた。
「この土下座している写真の秘書、さ」
 背を丸めて彼が指差すところを見ると、写真がアップになっている。写っているのは土下座している男性だった。顔は見えないが、下着姿で土下座をしている。
「奥さんと娘さんがいるんだけどね。奥さんの方、記事が出た後で散々知り合いから興味本位で聞かれたりハブられたりして、娘さんを置いて失踪したみたいだよ」
 凪の何一つ変わらない、淡々とした調子の声と。スマートフォンに映し出された写真の背中から、誠は目が離せなくなっていた。

「奥さんからしたら、縦井と世の中は『正義の味方』なのかな? 俺にはそう思えない」
 そう告げる凪の整った横顔からは、何の感情一つも読み取る事が出来なかった。何となくだが、自分は昔から嘘や隠し事の素振りを見分ける事は出来る。だが凪を含め、目の前で座る三人にはそれが通用したことが無かった。
 嘘をついている素振りもなければ、些細な違和感すらこれまでに一度も見られなかった。

 気付かぬ内に凪から受け取っていた、ポリ袋の持ち手に力を込めてしまっていることに気付く。内に抱える困惑を誤魔化すかのように、持ち手を強く結び付けた。
 くしゃりと乾いた紙とビニールの音と共に、潰れた中の紙袋に誠はじっと視線を落とす。告げる言葉を完全に失った誠は、汚らしくよれたゴミが入った袋に力を込める。そして袋に残った空気をゆっくりと抜く感触だけに意識を向けた。



 ◇ ◇ ◇



「この辺り?」
「はい」
 車内に流れるラジオの会話に混じり、耳に届いた凪の声で誠は我に返った。
 俯いていた顔を即座に上げて、フロントガラスへと目を向ける。街灯の灯りが照らす周囲を見渡す。凪に告げた住所通り、見慣れた住宅街の景色で間違いない。
 答えを待つ凪に「あそこの交差点を過ぎた後、すぐ左手にある古いマンションです」と、目的地を告げた。
「……凪さん、有難うございます」
「うん」
 凪からの返答は短い。それでも充分だった。
 
 先程、彼等の家で交わしていた会話の後。彼女の家に行こう、と車を出してくれたのが凪だった。
 リナからの連絡が23時を回っても無い事に、誠の精神は限界を迎えかけていた。何も行動を起こしきれない自分を歯痒く思っている時に、凪が提案して誠を連れ出したのだ。
「拓海さん、車借りるね」
 読書をしていた凪が不意に立ち上がり、ソファーに腰掛ける拓海へと声を掛けた。了承する拓海の声が聞こえた時には、既に歩み寄ってきた彼に腕を掴まれていた。余りにもその動きが早すぎて、誠はただ戸惑うだけだった。
 凪は「彼女さんの家に案内して。住所は分かるんでしょう?」と、告げてきた。

 後は二人で車に乗り込み、誠が告げた住所へと到着したのが今しがたであった。 凪に礼を告げた後で、誠は交差点の向こうに立つ古びたマンションを見つめる。
 ここからでも見える彼女の部屋は、灯りが点いていないのが分かる。大きくなる不安を抑え込もうとするうちに、車は点滅信号となった交差点を過ぎて停車した。

「やっぱり、おかしいですよね」
「そうだね」
 車を止め終えた凪が、シートベルトを外しながら答える。誠も慌てて外し、外へと出た彼の後を追う。車から出た途端に高湿度の空気に全身を覆われ、不快感に襲われた。「何階?」という問いに「202号室です」と返事をする間も、動悸は徐々に激しさを増していた。
 マンションは良くあるタイプの古いものだった。まず入口に入ると、ずらりと並ぶ郵便ポストがある。『202』と書かれたポストには、鍵は付いていない。
 小さな扉を開けて中身を確認すると、半月分の留守で溜まった郵便物とチラシが積み重なっていた。それらには手を付けず、歪なステンレス製の扉を再び無理矢理閉める。零れそうな溜息を抑え、隣で他の家のポストを眺めて待っている凪へと「チラシとかは抜かれてません」と告げた。
「鍵は、無いんだよね」
「はい」
 心配しながらも、リナのマンションへと向かうことを躊躇っていた理由がこれだった。車の中で白状はしたのだが、凪からは再度問われて誠は項垂れる。
「すみません」
 一方の凪は「謝らなくてもいいから」とだけ告げると、エレベーターの方へと向かって行った。誠も後を追うが、エレベーターには乗らず、一階の廊下へと出る。彼は部屋が連なる廊下を進み、奥の階段から二階へと上がって行った。
 二人は『202』と書かれた部屋の前で足を止める。名前は書いていないが、これまでに誠が何度も頻繁に訪れていた場所だ。半月振りに訪れて懐かしい反面、緑のペンキで覆われた無骨なドアが自分の訪問を拒むかのような不気味さも覚える。
 一方の凪は躊躇う様子も無く、インターホンを押していた。呼び出しの音が、部屋の中で鳴っているのが外からでも分かる。熱帯夜の暑さと緊張で僅かに弾んだ息を収めようと、誠は深呼吸を行う。現状からして応答が無いのは薄々判ってはいた。それでもインターホンのスピーカー部分から、声が聞こえない事に対しての不安が上回っていた。

「ここで少し待ってて。その間に管理会社、どこか調べておいて」
 凪の指示で若干の理性を取り戻した誠は、ゆっくりと頷いた。
 ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点けた。すぐにブラウザを開き、住所とマンションの名前を打ち込んでゆく。幸いにも管理会社はすぐに判った。
 だがそこで、誠の指がぴたりと止まる。
 凪には言われて調べたのはいい。だが管理会社を呼んで開けて貰わないといけない状況とは、一体どのような状況に陥った時なのだろう。その時は自分と彼女との関係をどうやって、管理会社に告げたならば開けてもらえるのだろうか。実は彼女はこちらと交通事情の関係で、連絡を取れなかっただけで帰国が一時的にでも遅れているのではないだろうか?
 様々な可能性と関係が、濁流のように誠の思考を押し流す。日本には彼女の身寄りは無かった筈だ、ならば万が一の時はどうすればよいのだろう。
 取り留めのない思考を止めたのは、目の前にある扉の内側から突然聞こえた「カチリ」という音だった。解錠音に驚き、思わず扉の前へと近寄る。すると少し軋んだ金属音の後で、ゆっくりと扉が開いた。

「入って」
 僅かに開いた扉の奥は暗闇だ。だが闇の中から聞こえてきた声はリナでは無く、凪のものだった。誠が混乱していると、さらに凪の声が続く。
「隣の部屋、空き室だったから」
「犯罪ですよ!」
「ベランダの窓なら、割らなくても回せるし。痕跡は残らない」
「管理会社は?」
「君が喚くと思ったから、そう言っただけ。調べていると集中して気がそれるし」
「――でも、」
「騒がないで」
 凪の声に苛立ちが混じっている。そう思ったときには強引に腕を掴まれて、部屋の中へと引き込まれていた。
 外の湿気から解放され、嗅ぎ慣れた香の匂いが鼻腔を刺激する。続いてドアが閉まり、暗闇が訪れた。一度だけ耳元で聞こえた溜息の後で、再び鍵が掛かる音がする。

 名前を呼ばれて手渡されたのは、スイッチが入った小型の懐中電灯だった。彼の手にも同じものが握られている。
「凪さん」
 部屋の中へと侵入する凪を誠は慌てて追い掛けた。一方の凪はワンルームタイプの部屋をライトで照らして見渡しながら「なに」と返す。万が一に備えて思わず小声になるも、凪の方は普段通りの落ち着き払った様子だ。
「悪いことしてるんですよ、俺ら」
「管理会社に説明したって開けてもらえない。痛くもない腹を探られるだけで終わる。それに彼女さんが無事に帰ってきたとしても、今後問題を起こす人物として管理会社にマークされるだけだよ」
 淡々と説明も含め返された凪からの反論に、返すだけの言葉は持ち合わせていなかった。
「とはいっても、犯罪行為を正当化する気は無いけれどね。俺を責めるならお好きにどうぞ」
「……見なかったことにします」
「うん、そうして」
 凪の犯した犯罪行為を言い返す権利は自分には無いので、誠は黙るしかない。ようやく一言だけ返した言葉を最後に、沈黙が訪れた。凪はライトを手に手慣れた様子で部屋の壁を叩いたり、キッチンを眺めたり部屋の中を静かに動いている。
 一方の誠は何をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くすだけだった。「使わないなら返して」と凪に取られたライトはクローゼットに挟まれて固定されており、狭いワンルームの部屋は薄暗いながらも充分に見渡せる。誠が最後に見た光景と同じで、やはり何の変化も見られなかった。
 6畳程の部屋には備え付けのクローゼットに小さなテレビと折り畳みのテーブル、そしてシングルベッド。テレビ台の横に置かれた小さなテーブルの上には、仏画と並んだ家族の写真。そして香立てと小さな花が載っている。後は部屋の隅に積まれた、小さな収納ボックスの中に入った雑貨だけ。
 やはり何の変哲もない、誠が見慣れた光景だけがそこにはあった。

「帰ってきた形跡はあった?」
「いえ」
「他に気付いたことは?」
「特にありません」
「……そう」
 凪に返した声は震えていた。彼女――リナは出発前に往復の航空券を持っていたし、自分にも見せてくれた。だからこそ帰国予定日もハッキリと覚えていた。そして日本に彼女の親類や身寄りがいないことも、把握している。
 残る可能性の幾つかと、部屋に帰ってきていないという事実が誠に重く伸し掛かった。彼女からの連絡が無い、夕方の時点でずっと考えを巡らせていた『ある提案』を凪に伝えよう。そう決心して誠は顔を上げる。
「あの、凪さん」
「早坂さんが俺に何を頼みたいのかは、大体分かるよ」
「……はい」
 深く頷いた後で「じゃあ……」と続けようとするも、遮られる。代わりに「俺の一存じゃ決められない」と言い切られてしまった。
「帰ってすぐも駄目。どうしたいか一晩、ゆっくり考えて」
 肩を叩く凪の力は優しく、誠は弱々しく頷くことでしか返せなかった。



 ドアとベランダの鍵を閉めて戻るから、と。先に車へ戻るように言われた誠が待っていると、数分も経たずに凪が戻ってきた。
 二人は無言で車へと乗り込み、ドアを閉める。到着したのは日付が変わった後だったので、人通りは全く無かった。それでも自分達が違法行為を犯した自覚があったので、凪を待っている間に張り詰めていた緊張がようやく解ける。
 助手席の背凭れにぐったりと凭れ掛かる誠とは反対に、凪は顔色一つ変えていない。普段と全く変わらない様子で、手袋を外していた。彼はドアポケットにそれを無造作に突っ込んだ後で、車を発車させる。
 エンジンを掛けた時に再び電源が入ったエアコンの風が流れ、滲み出た汗で前髪が額に張り付いていた事に今更ながら気付く。腕で軽く拭うと、手櫛で前髪を上げる。不快感は多少はマシにはなったが、胸の底でこびり着く不安で汗はなおも額から滲み続けていた。

「早坂さん」
 車が走り出してからも、二人はしばらくの間無言だった。先に口を開いたのは凪の方で、誠は「はい」と答える。
「前に警察官になりたかった。って話してたよね」
「はい」
「警察官以外だと、何になりたかった?」
 これまでとは全く無関係かつ、突然過ぎる話題に驚いて凪の方を見る。丁度車は信号で止まり、運転する凪はラジオのボリュームを調節していた。再び信号が青になり、車がゆっくりと走り出す。
「正義の味方、ですかね」
「警察官よりも現実味が薄れてない?」
「でも、オレには警察官より現実味があったんです」
「そうなんだ」
 会話は一旦途切れた。住宅街を抜け、幹線道路の流れに乗った後。ほんの少しだけ車の速度が上がったので、今度は誠の方から凪へと尋ねることにした。深夜帯だからなのか、ラジオから流れてくる曲は静かな調子のものばかりであった。

「凪さんは子供の頃、何になりたかったんですか?」
「父さん」
 答えはすぐさま返ってきた上に、面食らうものだった。それが一体どういう意味なのか分からず戸惑っていると「なれないのは分かって、早々に諦めたけどね」と、凪は続ける。彼を見るが、決してからかう素振りは伺えない。それどころか、普段彼が纏わせている冷淡な様子が消え、柔らかい雰囲気が漂っていた。
「凪さんは、どうしてライターに?」
 今彼が情報屋をやっているのは、きっと父親である拓海が情報屋だからなのだろう。凪の本業がフリーライターであるのは、会った翌日に知った。そして昨日交わした会話を鑑みるに、彼が覆面ジャーナリストの縦井だということで間違い無いだろう。
 凪からの返事は無かった。日付が変わって深夜となっている今は、幹線道路を走る車の数は非常に少ない。それでもスピードの出しすぎを制止する仕組みなのか、信号にはよく引っかかる。車が走っている時はロードノイズやラジオの音に加え、運転中の邪魔をしてはいけないという意識が働く。信号待ちで生じる沈黙は、非常に気まずざを覚えるものだ。

「……大切な人を救いたかったから」
 やっと凪からの返事が返ってきたのは、問い掛けてから2つ目の信号が赤になった時だった。誠は先と同じく、予想外の答えに面食らってしまう。だが今度は少しの沈黙の後で「ごめん」と返ってきた。
「なんで謝るんですか?」
「歳が近い人に仕事以外でする雑談って、何を話したらいいのか良く分からなくて」
 僅かに沈んだ声の後で「それに――」と言葉が続く。
「早坂さんからしたら、意味が分からない答えだろうし」
「確かに良くは分からないですけど……」
「だろうね」
「でも、凪さんが冗談じゃなくて。真面目に話してくれたってのは分かりました」
「そういうの、早坂さんは分かるんだね」
「はい、オレ嘘とか本物を見抜くの得意なんです」
 凪の口端が少し上がった後で「余り信憑性が無い言葉だよ、それ」と小さな声で返ってきた。誠も半分笑いながら「本当ですって」と返すが、今度の返事は口から漏れる息だけだった。
 きっと凪は誠の不安を和らげようとしてくれていたのかもしれない。そう思うと、今の自分に随分と余裕が無いのだと気付いた。

「有難うございます」
「うん」
 誠の礼に対し、凪が頷いたのが最後だった。後はマンションに到着するまでの間、二人の間が言葉を交わす事は無かった。
 相変わらず誠の胸中は恐怖と不安で渦巻いてはいた。だが一晩は考える凪と約束した以上、今晩が過ぎるのを静かに耐える以外の方法は残されていない。

 きつく目を閉じて、ロードノイズとラジオから聞こえる洋楽へと耳を傾ける。
 英語は読める。だが聞き取る必要は、これまでの人生で一度もなかった。異国の言葉が奏でるバラードに耳を傾け――瞼の奥で笑う、恋人の無事を誠は強く願うだけだった。









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「俺はしないかな。リスクが大きい遊びは、好きじゃないから」
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 誠の隣に座る心愛から、茶化す言葉が飛び出す。それを受けた凪から返ってきたのは言葉ではなく、小さな笑いだけだ。
「まだ連絡は無い?」
 続けて尋ねられた質問に対しては、「はい」と返す声が小さかった。誠は視線を手元へと落とす。心愛と遊んでいたゲームのロビー画面を一旦消して、通知が無いか確認を行う。
 メールと通話アプリとSMS――やはりそのどれにも、リナからの新着通知は見られなかった。
 誠の恋人であるリナが帰国する予定であったはずの今日も、残すところ後2時間程となっていた。心愛が気を利かせてか、夕食以降は誠とずっと話したり遊んでくれたが。時間が経てば経つ程、誠の中では不安が募ってゆくばかりであった。
 遅くとも前日までには何らかの連絡があるとは思い、ずっとスマートフォンの電源は入れたままだ。しかし通知音がなる度に画面を覗けば、ニュースやSNSの通知ばかりだ。
 不安の余り、誠はスマートフォンを握る腕に力を込める。何度も同じような事を繰り返しているうちに、手のひらにはケースの溝がすっかりと刻み込まれていた。
「心配か?」
「……はい」
 今度はシングルソファーに腰掛けている、拓海からだ。
「まぁ、そうだよな」
 彼はその一言だけで終わり、ビールを煽ってテレビを見る作業へと戻る。誠の胸中ではそれぞれに気を使わせているのではないかという不安と、リナからの連絡が無いことへの焦燥で一杯となっていた。
 夕方からずっと考えていた“ある提案”が、またも誠の口から飛び出しかける。しかし、彼等に尋ねるべき時ではないという思いと、果たして彼等は自分の頼みを受け入れてくれるのだろうかという不安の交互に襲われる。
 もう一度、気持ちを落ち着かせようと。誠はスマートフォンの画面を覗き込んだ。平常心を保つため、普段の習慣を行おうと震える親指で見慣れたSNSのアイコンをタップする。馴染みのロゴが画面いっぱいに映し出された後で、表示されたタイムラインの文字を追う。
 だがそれも僅かな間だけだった。昨日見た拡散記事が不意に目に入った途端、思わずアプリを閉じてしまっていた。スマートフォンを投げ出したい衝動を堪え、誠は顔を上げる。
 ふと視線を感じて振り返る。誠に向かって奇妙な質問を投げ掛けてきた凪が、まだ静かに誠の方を眺めていた。
 何も言わず、静かにこちらを見つめる青年から誠は目が離せない。
 今しがた見た拡散記事が悪かった。昨日この青年と昼飯時に交わした言葉と――底知れぬ不安が、誠の脳裏へと鮮明に蘇ってきた。
 ◇ ◇ ◇
「さっきの人、よかったんですか?」
 我慢できず、思わず告げた誠の言葉に対し。昼食中の3人が、手を止めることは無かった。
 彼らを眺めて数日間、誠には色々と分かったことがある。
 この人達は、悪人でも無ければ決して善人では無い。彼等は情報を商品として売買する「情報屋」なのだが、自分が想像していた裏社会の情報屋とは少し違う類の商売を行っている、ということだ。
 事務所の応接テーブルには、ファーストフード店の包み紙が幾つか散乱している。
 ストローの包装紙や紙ナプキン、ハンバーガーやナゲットが入っていた箱。4人の中で一番注文数が多かったのは心愛だ。彼女はピンク色の包み紙をクシャリと丸めた後で、応接テーブルの真ん中に縦置きされている紙袋へと投げ込んだ。
 心愛の手から離れた包み紙のボールは綺麗に弧を描いて、紙袋の中へと落ちる。凪がぽつりと「3点」と告げた。
「で、何がよかったのかって?」と、彼女が誠に尋ねたのはその後だ。
「社長さんの情報、教えてもよかったんですか?」
「仕事だからね」
 心愛はのんびりと答えるともう一度、今度はナゲットの箱を潰して投げる。ナゲットの箱は袋には入らなかった。「減点」と告げた凪に拾われて、袋の中へと飲まれていった。
 誠の疑問――それは彼等の同業者、つまりは他の情報屋からのファクトチェック依頼の件であった。
 調査対象は『三丁目の公園にいるホームレス』で、身辺調査。何故そんなものを?と誠も最初は不思議に思っていたが、心愛と行動を共にしているうちに疑問は晴れた。
 依頼者の話によれば、対象の男は関西地方の町工場社長らしい。受注先のミスでリコール問題が発生し、多額の借金から工場を閉鎖していた。その後、闇金から借りるも返済出来ず関東に逃げてきた。といった内容の真偽を、裏付けとして三人に依頼してきたらしい。
 誠が拾われる前に受けていた案件らしく、最後の確認作業の段階で誠は心愛と共に行動をしていた。公園のベンチに座るホームレスとの世間話を行い、苦労話や愚痴から必要な情報をそれとなく引き出してゆく心愛の手腕をその時は感心して眺めていたのだ。
 結果、心愛は『元町工場社長・失踪中の男で間違い無い・他の家族との接点は無し』と判断して先程、依頼相手へと正確に伝えて依頼は終了という形で終わった。それが昼食前の出来事であり、誠が疑問を抱く端緒となっていた。
「まこっちゃんは不服かい?」
「その情報屋が、借金取りの人に情報を売ったらどうするんですか?」
「身柄を押さえられるだろうね」
 答えは凪からのものだった。彼はその後、手に持っているチーズバーガーを齧る。
「でもあの人は、人のミスで借金を背負ったんですよね」
「それが俺達と、どう関係があるんだ?」
「まこっちゃん、君はゲーム観戦で陣営をひっくり返したことがあるかい?」
「陣営、ですか?」
「うん、視点を変えるんだよ」
 拓海が差し出したポテトを摘み、心愛はそれを指揮棒の様に軽やかに振った。
「借金取り側から見たらさ、仕事で貸した金を踏み倒されたんだよ」
 ぱくりとポテトを口に収めた後で、心愛はシェイクを手に取った。誠には一言だけ「そういうこと」と告げた後で、ストローに口を付ける。吸い上げられるシェイクの大きな音で誠の思考は中断させられた。
「早坂さんは人の事より、明日のことでも考えたら?」
 シェイクの音が響く合間に誠へと話し掛けてきたのは、意外にも隣に座る凪からのものだった。「彼女さん、帰ってくるんでしょう?」拓海も「そうか、明日か」と、ポテトを食べながら話を合わせてくる。
「どんな人?」
 誠にそう尋ねる彼だけは、丁寧に食べた後の包み紙を折っている。心愛に噛みついたのはいいが、自分は何も返す言葉は持ち合わせていない。誠は素直に凪の質問に答えようと、朝から電源を入れ続けているスマートフォンを取り出した。
 写真フォルダを選んで、その内一枚を画面に出す。こちらを見て、少し照れたように俯いて笑う長い黒髪の女性だった。
「あ、日本の人じゃなかったんだ」
 椅子から身を乗り出し、最初に画面を見た心愛に「ミャンマーです」と頷いてみせる。見る度に懐かしさと愛おしさが押し寄せる。彼女と別れてから今日まで、誠はこれを眺め続けては――何度も現状から逃げ出そうと足掻く、己の弱い心を奮い立たせてきた。
「外国の人でも日本に来れるんですよね? 介護とか技能なんとかで」
「技能実習制度」
「それです」
 自分がリナと知り合ったのは、仕事の走りを初めて任された時だった。仕事を通じて初めて彼女と出会い、その後色々話していてすっかり意気投合したのだ。丁度、彼女と出逢って3年が経つ。
「用事かあって一旦国に帰ったんです。で、明日帰って来るんですよ」
「それで、ラブパワーを得るんだよね」
「です」
 からかい混じりになる心愛に対しても、誠は穏やかに頷く。
「……多分、今日連絡が来ると思います」
 心に訪れる一時の安息を少しでも逃さないように、なるべく言葉を選ぶ。そしてスマートフォンを再び手元へと手繰り寄せた。
 誠はスマートフォンをポケットへと直す前に、気分転換も兼ねてSNSをチェックしようと操作を始めることにしする。数日前からチェックを怠っていたのだが、指を下から上へとスライドさせ、リストから未読を遡ってゆく。
 流行りのイタズラ犬動画、猫戦車ミーム、ライフハック。その中に混じる幾つかの長文と、土下座写真が目に飛び込んだ。「あっ、」と思わず声を出してしまうと、素早く反応を見せたのは心愛だった。
「どうしたの?」
「縦井 鴉さんって、フリーのジャーナリスト知ってます?」
 一つのポストをタップして、ツリーを眺めながらも説明をする。心愛からは「うん」と返ってきた。
「オレ超好きなんです」
「まこっちゃん、若いのにそういう渋い人もチェックしてるんだ」
「縦井って?」
「悪を裁く、正義の覆面ジャーナリストです」
 凪からの質問に、誠は即座に切り返す。
「この人、正体を隠しているんですよ。たまにしか寄稿しないし、原稿料は事件の被害者や遺族の支援に使うという条件のみで原稿を渡すみたいです。SNSからの書き込みもあるんですが。雑誌記事でもポストでも、何か事件が起こる前後。この人がきっかけとなって、バズっていくパターンが多いですね」
 誠にとってそれはつい今しがた、抱いたばかりの些細な違和感を覆い隠すには充分な刺激であった。自分の好きな人の事を尋ねられ、思わず早口気味で説明をしてしまった。
「小難しい記事を書くよね、性格も悪そう」
「正直書いてる記事の意味は難しくて、よく解んないですけど」と頷く。
「色々と枯れ果ててるよ、その人」
「そうですか?」
「うん」
 何故か断言する心愛をよそに、誠は縦井の話題を辿ってゆく。
「今回はどっかの会社のパワハラみたいっす」
 SNS内で誰かが要約してくれた、記事の概要を声に出して読む。
「超有名な広告代理店の社長が、銀座の高級クラブで秘書を裸にさせて土下座とか。酷いことしますよねー。そりゃ悪者になりま……」
 ――と、ここで。
 誠の手が、目が、口が。
 とある事に気付いて、瞬時に凍り付いた。
 一閃の如く過った“ある可能性”の確認のため、誠はゆっくりと目を動かした。スマートフォンに映る文字をそろそろと追い、触れないように指で一文字ずつ宙をなぞり、そこに書かれた内容をゆっくりと過去の出来事と照らし合わせてゆく。
 パワハラを起こした社長の名前は増渕と書かれていた。
 2日前に来た刑事と凪がこの場所で交わしていた会話を思い出し、重ねてゆく。
 記憶という脳内の映像に、記事の内容を重ねる。ゆっくりと確認をしながら跡を無ぞるような感覚だ。それは普段自分が行っている、作業の一環と非常に似通ったものがあった。
『増渕って、広告代理店のか』
『そう。元秘書へのパワハラ始末、もう立件入るんでしょ?』
 記憶の照合は、たったその一筆だけで充分だった。
 続いて誠は別角度からの確認を行うため、縦井の記事があるURLへと飛ぶ。URLを押した先は、某有名週刊誌のwebページへ寄稿されたものだった。折り畳まれた文章の下にある『記事を全部見る』と書かれた文字をタップする指先は震えている。
 確認するのは日付で、2日前の夜に縦井の記事は公表されていた。
 誠には報道関係の事情は分からないが、短時間でそんな事が出来るわけが無いと思う。だがあらかじめ縦井が記事を書いていたとしたら、話は別だ。誠が初めて事務所を訪れたあの日、凪はずっとソファーの上でノートPCに何かを打ち込み続けていた。それは確かな事実であった。
「凪さん」
「なに?」
「本業はライターって、言ってましたよね?」
「フリーだけどね」と隣に座る青年は、言葉を付け加える。
「食えないライターって……まさか」
「フリーライターの原稿料って、早坂さんが思っている以上に安いんだよ」
 返ってきたのは否定でも肯定でもない、事実のみであった。こちらが仕掛けても手応えが無いのが歯痒いが、意外にも歩み寄ってくれたのは彼の方だった。
「早坂さんは縦井の事、正義の味方と思ってるんだ」
「そうですよ、オレ尊敬してます」
 鼻で笑うかのような凪の笑いで、それが思い過ごしだったと気付く。
「違うんですか?」
「本人に聞いてみたら?」
 そう言って彼は、静かに誠を見据えた。自分と歳は近いのだが、落ち着き払った凪の態度を前に誠は戸惑いながらも思ったことを述べた。
「もし凪さんが、縦井さんだったらどう答えます?」
「俺?」
 皆が食べた後の片付けをしていた凪は、ピタリと手を留めて宙に視線を泳がせている。彼の動作一つずつが計算して、敢えて誠に見せているような動きにも見えた。
「もし俺がその縦井なら『正義も悪も関係無い、ただそこにあった事実を書いただけ』って、言うと思う」
「でもその結果、悪いヤツの悪事がこうして広まったじゃないですか」
「そうだね、きっと今回はその増渕を叩くことが『多数にとっての正義』だったんだろうね」
 凪の中では問答は一旦、中断したらしい。後は彼が残りのゴミを全て手に持ったポリ袋へと入れる音と、正面で心愛がシェイクを啜る音。そして拓海が雑誌を捲る音だけが、狭い事務所の中で聞こえるだけだった。
 「早坂さん」と名を呼ばれたのは、凪が応接テーブルの上のゴミを片付け終えた後だった。アルコールで湿らせた紙ナプキンでテーブルを拭き終えた彼は、最後にポリ袋の中にそれを捨てる。
「俺も情報屋だしライターの端くれだから、色々と噂くらいは入ってくる」
 例えば――と、誠の持っているスマートフォンを指さして「記事、見せて」と告げた。誠は大人しく渡し、代わりにゴミを入れていたポリ袋を受け取る。凪は細い指を誠のスマートフォンの上で暫く走らせた後、テーブルの上にそれをそっと置いた。
「この土下座している写真の秘書、さ」
 背を丸めて彼が指差すところを見ると、写真がアップになっている。写っているのは土下座している男性だった。顔は見えないが、下着姿で土下座をしている。
「奥さんと娘さんがいるんだけどね。奥さんの方、記事が出た後で散々知り合いから興味本位で聞かれたりハブられたりして、娘さんを置いて失踪したみたいだよ」
 凪の何一つ変わらない、淡々とした調子の声と。スマートフォンに映し出された写真の背中から、誠は目が離せなくなっていた。
「奥さんからしたら、縦井と世の中は『正義の味方』なのかな? 俺にはそう思えない」
 そう告げる凪の整った横顔からは、何の感情一つも読み取る事が出来なかった。何となくだが、自分は昔から嘘や隠し事の素振りを見分ける事は出来る。だが凪を含め、目の前で座る三人にはそれが通用したことが無かった。
 嘘をついている素振りもなければ、些細な違和感すらこれまでに一度も見られなかった。
 気付かぬ内に凪から受け取っていた、ポリ袋の持ち手に力を込めてしまっていることに気付く。内に抱える困惑を誤魔化すかのように、持ち手を強く結び付けた。
 くしゃりと乾いた紙とビニールの音と共に、潰れた中の紙袋に誠はじっと視線を落とす。告げる言葉を完全に失った誠は、汚らしくよれたゴミが入った袋に力を込める。そして袋に残った空気をゆっくりと抜く感触だけに意識を向けた。
 ◇ ◇ ◇
「この辺り?」
「はい」
 車内に流れるラジオの会話に混じり、耳に届いた凪の声で誠は我に返った。
 俯いていた顔を即座に上げて、フロントガラスへと目を向ける。街灯の灯りが照らす周囲を見渡す。凪に告げた住所通り、見慣れた住宅街の景色で間違いない。
 答えを待つ凪に「あそこの交差点を過ぎた後、すぐ左手にある古いマンションです」と、目的地を告げた。
「……凪さん、有難うございます」
「うん」
 凪からの返答は短い。それでも充分だった。
 先程、彼等の家で交わしていた会話の後。彼女の家に行こう、と車を出してくれたのが凪だった。
 リナからの連絡が23時を回っても無い事に、誠の精神は限界を迎えかけていた。何も行動を起こしきれない自分を歯痒く思っている時に、凪が提案して誠を連れ出したのだ。
「拓海さん、車借りるね」
 読書をしていた凪が不意に立ち上がり、ソファーに腰掛ける拓海へと声を掛けた。了承する拓海の声が聞こえた時には、既に歩み寄ってきた彼に腕を掴まれていた。余りにもその動きが早すぎて、誠はただ戸惑うだけだった。
 凪は「彼女さんの家に案内して。住所は分かるんでしょう?」と、告げてきた。
 後は二人で車に乗り込み、誠が告げた住所へと到着したのが今しがたであった。 凪に礼を告げた後で、誠は交差点の向こうに立つ古びたマンションを見つめる。
 ここからでも見える彼女の部屋は、灯りが点いていないのが分かる。大きくなる不安を抑え込もうとするうちに、車は点滅信号となった交差点を過ぎて停車した。
「やっぱり、おかしいですよね」
「そうだね」
 車を止め終えた凪が、シートベルトを外しながら答える。誠も慌てて外し、外へと出た彼の後を追う。車から出た途端に高湿度の空気に全身を覆われ、不快感に襲われた。「何階?」という問いに「202号室です」と返事をする間も、動悸は徐々に激しさを増していた。
 マンションは良くあるタイプの古いものだった。まず入口に入ると、ずらりと並ぶ郵便ポストがある。『202』と書かれたポストには、鍵は付いていない。
 小さな扉を開けて中身を確認すると、半月分の留守で溜まった郵便物とチラシが積み重なっていた。それらには手を付けず、歪なステンレス製の扉を再び無理矢理閉める。零れそうな溜息を抑え、隣で他の家のポストを眺めて待っている凪へと「チラシとかは抜かれてません」と告げた。
「鍵は、無いんだよね」
「はい」
 心配しながらも、リナのマンションへと向かうことを躊躇っていた理由がこれだった。車の中で白状はしたのだが、凪からは再度問われて誠は項垂れる。
「すみません」
 一方の凪は「謝らなくてもいいから」とだけ告げると、エレベーターの方へと向かって行った。誠も後を追うが、エレベーターには乗らず、一階の廊下へと出る。彼は部屋が連なる廊下を進み、奥の階段から二階へと上がって行った。
 二人は『202』と書かれた部屋の前で足を止める。名前は書いていないが、これまでに誠が何度も頻繁に訪れていた場所だ。半月振りに訪れて懐かしい反面、緑のペンキで覆われた無骨なドアが自分の訪問を拒むかのような不気味さも覚える。
 一方の凪は躊躇う様子も無く、インターホンを押していた。呼び出しの音が、部屋の中で鳴っているのが外からでも分かる。熱帯夜の暑さと緊張で僅かに弾んだ息を収めようと、誠は深呼吸を行う。現状からして応答が無いのは薄々判ってはいた。それでもインターホンのスピーカー部分から、声が聞こえない事に対しての不安が上回っていた。
「ここで少し待ってて。その間に管理会社、どこか調べておいて」
 凪の指示で若干の理性を取り戻した誠は、ゆっくりと頷いた。
 ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点けた。すぐにブラウザを開き、住所とマンションの名前を打ち込んでゆく。幸いにも管理会社はすぐに判った。
 だがそこで、誠の指がぴたりと止まる。
 凪には言われて調べたのはいい。だが管理会社を呼んで開けて貰わないといけない状況とは、一体どのような状況に陥った時なのだろう。その時は自分と彼女との関係をどうやって、管理会社に告げたならば開けてもらえるのだろうか。実は彼女はこちらと交通事情の関係で、連絡を取れなかっただけで帰国が一時的にでも遅れているのではないだろうか?
 様々な可能性と関係が、濁流のように誠の思考を押し流す。日本には彼女の身寄りは無かった筈だ、ならば万が一の時はどうすればよいのだろう。
 取り留めのない思考を止めたのは、目の前にある扉の内側から突然聞こえた「カチリ」という音だった。解錠音に驚き、思わず扉の前へと近寄る。すると少し軋んだ金属音の後で、ゆっくりと扉が開いた。
「入って」
 僅かに開いた扉の奥は暗闇だ。だが闇の中から聞こえてきた声はリナでは無く、凪のものだった。誠が混乱していると、さらに凪の声が続く。
「隣の部屋、空き室だったから」
「犯罪ですよ!」
「ベランダの窓なら、割らなくても回せるし。痕跡は残らない」
「管理会社は?」
「君が喚くと思ったから、そう言っただけ。調べていると集中して気がそれるし」
「――でも、」
「騒がないで」
 凪の声に苛立ちが混じっている。そう思ったときには強引に腕を掴まれて、部屋の中へと引き込まれていた。
 外の湿気から解放され、嗅ぎ慣れた香の匂いが鼻腔を刺激する。続いてドアが閉まり、暗闇が訪れた。一度だけ耳元で聞こえた溜息の後で、再び鍵が掛かる音がする。
 名前を呼ばれて手渡されたのは、スイッチが入った小型の懐中電灯だった。彼の手にも同じものが握られている。
「凪さん」
 部屋の中へと侵入する凪を誠は慌てて追い掛けた。一方の凪はワンルームタイプの部屋をライトで照らして見渡しながら「なに」と返す。万が一に備えて思わず小声になるも、凪の方は普段通りの落ち着き払った様子だ。
「悪いことしてるんですよ、俺ら」
「管理会社に説明したって開けてもらえない。痛くもない腹を探られるだけで終わる。それに彼女さんが無事に帰ってきたとしても、今後問題を起こす人物として管理会社にマークされるだけだよ」
 淡々と説明も含め返された凪からの反論に、返すだけの言葉は持ち合わせていなかった。
「とはいっても、犯罪行為を正当化する気は無いけれどね。俺を責めるならお好きにどうぞ」
「……見なかったことにします」
「うん、そうして」
 凪の犯した犯罪行為を言い返す権利は自分には無いので、誠は黙るしかない。ようやく一言だけ返した言葉を最後に、沈黙が訪れた。凪はライトを手に手慣れた様子で部屋の壁を叩いたり、キッチンを眺めたり部屋の中を静かに動いている。
 一方の誠は何をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くすだけだった。「使わないなら返して」と凪に取られたライトはクローゼットに挟まれて固定されており、狭いワンルームの部屋は薄暗いながらも充分に見渡せる。誠が最後に見た光景と同じで、やはり何の変化も見られなかった。
 6畳程の部屋には備え付けのクローゼットに小さなテレビと折り畳みのテーブル、そしてシングルベッド。テレビ台の横に置かれた小さなテーブルの上には、仏画と並んだ家族の写真。そして香立てと小さな花が載っている。後は部屋の隅に積まれた、小さな収納ボックスの中に入った雑貨だけ。
 やはり何の変哲もない、誠が見慣れた光景だけがそこにはあった。
「帰ってきた形跡はあった?」
「いえ」
「他に気付いたことは?」
「特にありません」
「……そう」
 凪に返した声は震えていた。彼女――リナは出発前に往復の航空券を持っていたし、自分にも見せてくれた。だからこそ帰国予定日もハッキリと覚えていた。そして日本に彼女の親類や身寄りがいないことも、把握している。
 残る可能性の幾つかと、部屋に帰ってきていないという事実が誠に重く伸し掛かった。彼女からの連絡が無い、夕方の時点でずっと考えを巡らせていた『ある提案』を凪に伝えよう。そう決心して誠は顔を上げる。
「あの、凪さん」
「早坂さんが俺に何を頼みたいのかは、大体分かるよ」
「……はい」
 深く頷いた後で「じゃあ……」と続けようとするも、遮られる。代わりに「俺の一存じゃ決められない」と言い切られてしまった。
「帰ってすぐも駄目。どうしたいか一晩、ゆっくり考えて」
 肩を叩く凪の力は優しく、誠は弱々しく頷くことでしか返せなかった。
 ドアとベランダの鍵を閉めて戻るから、と。先に車へ戻るように言われた誠が待っていると、数分も経たずに凪が戻ってきた。
 二人は無言で車へと乗り込み、ドアを閉める。到着したのは日付が変わった後だったので、人通りは全く無かった。それでも自分達が違法行為を犯した自覚があったので、凪を待っている間に張り詰めていた緊張がようやく解ける。
 助手席の背凭れにぐったりと凭れ掛かる誠とは反対に、凪は顔色一つ変えていない。普段と全く変わらない様子で、手袋を外していた。彼はドアポケットにそれを無造作に突っ込んだ後で、車を発車させる。
 エンジンを掛けた時に再び電源が入ったエアコンの風が流れ、滲み出た汗で前髪が額に張り付いていた事に今更ながら気付く。腕で軽く拭うと、手櫛で前髪を上げる。不快感は多少はマシにはなったが、胸の底でこびり着く不安で汗はなおも額から滲み続けていた。
「早坂さん」
 車が走り出してからも、二人はしばらくの間無言だった。先に口を開いたのは凪の方で、誠は「はい」と答える。
「前に警察官になりたかった。って話してたよね」
「はい」
「警察官以外だと、何になりたかった?」
 これまでとは全く無関係かつ、突然過ぎる話題に驚いて凪の方を見る。丁度車は信号で止まり、運転する凪はラジオのボリュームを調節していた。再び信号が青になり、車がゆっくりと走り出す。
「正義の味方、ですかね」
「警察官よりも現実味が薄れてない?」
「でも、オレには警察官より現実味があったんです」
「そうなんだ」
 会話は一旦途切れた。住宅街を抜け、幹線道路の流れに乗った後。ほんの少しだけ車の速度が上がったので、今度は誠の方から凪へと尋ねることにした。深夜帯だからなのか、ラジオから流れてくる曲は静かな調子のものばかりであった。
「凪さんは子供の頃、何になりたかったんですか?」
「父さん」
 答えはすぐさま返ってきた上に、面食らうものだった。それが一体どういう意味なのか分からず戸惑っていると「なれないのは分かって、早々に諦めたけどね」と、凪は続ける。彼を見るが、決してからかう素振りは伺えない。それどころか、普段彼が纏わせている冷淡な様子が消え、柔らかい雰囲気が漂っていた。
「凪さんは、どうしてライターに?」
 今彼が情報屋をやっているのは、きっと父親である拓海が情報屋だからなのだろう。凪の本業がフリーライターであるのは、会った翌日に知った。そして昨日交わした会話を鑑みるに、彼が覆面ジャーナリストの縦井だということで間違い無いだろう。
 凪からの返事は無かった。日付が変わって深夜となっている今は、幹線道路を走る車の数は非常に少ない。それでもスピードの出しすぎを制止する仕組みなのか、信号にはよく引っかかる。車が走っている時はロードノイズやラジオの音に加え、運転中の邪魔をしてはいけないという意識が働く。信号待ちで生じる沈黙は、非常に気まずざを覚えるものだ。
「……大切な人を救いたかったから」
 やっと凪からの返事が返ってきたのは、問い掛けてから2つ目の信号が赤になった時だった。誠は先と同じく、予想外の答えに面食らってしまう。だが今度は少しの沈黙の後で「ごめん」と返ってきた。
「なんで謝るんですか?」
「歳が近い人に仕事以外でする雑談って、何を話したらいいのか良く分からなくて」
 僅かに沈んだ声の後で「それに――」と言葉が続く。
「早坂さんからしたら、意味が分からない答えだろうし」
「確かに良くは分からないですけど……」
「だろうね」
「でも、凪さんが冗談じゃなくて。真面目に話してくれたってのは分かりました」
「そういうの、早坂さんは分かるんだね」
「はい、オレ嘘とか本物を見抜くの得意なんです」
 凪の口端が少し上がった後で「余り信憑性が無い言葉だよ、それ」と小さな声で返ってきた。誠も半分笑いながら「本当ですって」と返すが、今度の返事は口から漏れる息だけだった。
 きっと凪は誠の不安を和らげようとしてくれていたのかもしれない。そう思うと、今の自分に随分と余裕が無いのだと気付いた。
「有難うございます」
「うん」
 誠の礼に対し、凪が頷いたのが最後だった。後はマンションに到着するまでの間、二人の間が言葉を交わす事は無かった。
 相変わらず誠の胸中は恐怖と不安で渦巻いてはいた。だが一晩は考える凪と約束した以上、今晩が過ぎるのを静かに耐える以外の方法は残されていない。
 きつく目を閉じて、ロードノイズとラジオから聞こえる洋楽へと耳を傾ける。
 英語は読める。だが聞き取る必要は、これまでの人生で一度もなかった。異国の言葉が奏でるバラードに耳を傾け――瞼の奥で笑う、恋人の無事を誠は強く願うだけだった。