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1章2話「たのしい情報屋」

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1章2話「たのしい情報屋」
(1-2)


『ミューは悪くないよ』
『おやつをおいてた、ママがわるい!』
『ママがおこった! にげろー!』

 整形外科の待合室でついているテレビに映ったのは、イタズラがばれて走り回って逃げる白い犬だった。動画投稿サイトで最近人気の犬だ。アラスカンマラミュートという犬種らしく、ハスキーによく似た大型犬のミューという名の犬である。チャンネル主がアテレコ代わりに字幕をつけただけの、よくある類のものだった。

「早坂さん」
 診察とリハビリのために開院前から並んでいた老人達に混じり、誠はテレビを眺めて順番を待っていた。受付で何度か名前を呼ばれていたことに気付き、慌てて顔をテレビから逸らす。隣に座る心愛が先に立ち上がり受付に向かったので、誠も急いで後を追った。
 少し不機嫌な中年の女性から渡された湿布を受け取り、金額を告げられる。嫌な顔を見せず提示された診察料を払った心愛に対して、誠はクリニックを出るとすぐに頭を下げた。

「すみません、オレ保険証持ってきて無くて」
「まっこちゃんは律儀だねぇ」
 心愛は笑いながら「気にしない」と、誠の肩を優しく叩く。何故か今朝から心愛は「まこっちゃん」と呼ぶようになっていた。
 気にしないと言われても、レントゲン検査込みで医療費の全額負担は決して安くはない。大丈夫と言って笑う相手に、胸中でもう一度礼を述べる。
「骨折してなくてよかったじゃん」
 誠の様子に気付いたのか、心愛がもう一度誠の肩を叩く。スリッパから靴へと履き替えた時に、感触が悪かったのか。日傘を差した後でスニーカーのつま先をトントン、と軽くアスファルトに叩いて心愛は歩き始めた。誠も彼女に続く。足首を圧迫しないように左足の靴紐を緩めにしているが、歩く速度は普段より少しゆっくり程度だ。
 まだ午前中とはいえ、真夏の日差しは強烈だ。接骨院の自動ドアを通って外に出ると、すぐに湿気と暑さが二人を襲った。日差しに加え、ずらりと並んだ街路樹から一斉に聞こえる蝉の鳴き声に誠は顔を顰める。

「まこっちゃん」
 蝉の声に掻き消されないように、少し大きめの声を出しながら心愛が尋ねてきた。
「この後どうする? 今日もウチ泊まる?」
「さすがにそれは……」
 折角の申し出は有り難かったが、誠はそろりと辺りを見渡した後で俯いた。繁華街から一駅程度は離れているとはいえ、昨夜、潘に見付かってしまった以上は用心をしてしまう。所持金は少ないが、最低でも後4日は何としても捕まるわけにはいかない。
 いずれは彼と会って話さなければ、逃げ続けるわけにもいかないと分かっていた。だが自分には行くアテもない。そんな考え込む誠の様子に気付いたのか、心愛が「まこっちゃん」ともう一度呼んだ。
「君、追われてるんだよね」
「はい」
「せめて今日と明日ぐらいはゆっくりすれば? 最近退屈だったから、もし昨日の人達に見付かったらサービスで守ってあげる」
「サービス?」
「そ」
 くるくると、差している日傘を回しながら心愛は誠と歩幅を合わす。
「私、元警備員のお姉さん」
「警備員、ですか?」
「そう、警護もやってたよ。だからサービス」
 185cmの誠に比べると丁度、自分の胸元辺りが頭だろうか。小柄な心愛はそう言って誠を見上げながら笑っている。
 誠は昨夜、彼女と出会った時の状況を思い返す。自分が転んだ直後だったし、半ば混乱もしていた。なのであの時心愛が何をしたのかは、正確には判らない。だが彼女は追ってきた男に何かをして、相手を無力化していたのはこの目で見ていた。

「凪さんと拓海さんも、警備員なんですか?」
「あの二人は、仕事仲間だけど違うね」
 心愛の警備員という言葉に違和感を感じつつ、誠は昨夜出会った親子の名も告げてみる。だがそれは否定された。要領を得ぬまま「そうなんですね」と、曖昧な返答しかできなかったが、彼女からは何も言われなかった。
「まぁ、取り敢えず。暑いから早く事務所に行こう」
 日傘を差していても、やはり暑いらしい。向こう側から走ってきたタクシーに向かって手を上げながら、心愛はそう言った。



 二人がタクシーを降りたのは、繁華街の一角だった。
 入り組んだ一方通行の細い道を少し歩くと、心愛がひとつの雑居ビルの前で立ち止まる。
 それはこの界隈ならばどこにでもあるような、少し古びた小さな雑居ビルだった。遅れて立ち止まった誠はビルを見上げる。4階建ての各階に事務所やネイルサロンなど。いかにもなテナントが集まった雑居ビルだ。下から眺めていると3階の窓に描かれた、一際目立った店名が誠の目を引いた。
 陽光が眩しく、目を凝らして店名を見る。反射してスマイル以下の文字は読めなかったが、水色のフィルムに笑う太陽の絵がでかでかと描かれている。可愛らしいフォントが用いられていたところ、託児所みたいなものかもしれない。他のテナント名もさらに見ようと思ったが、心愛に促され、誠はビルの中へと入った。
 入ってすぐ横手にエレベーターはあった。煙草が押し当てられて溶けたエレベーターの呼び出しボタンは、心愛が押したのか既に点灯している。やけに大きな駆動音と共に、到着したエレベーターに2人は乗り込む。中に入った心愛が3階のボタンと『閉』と描かれたボタンを続けて素早く押した。
 ぎこちなくドアが締まりガクン、と衝撃が身体に走る。大きな唸りを上げてエレベーターは上昇して、3階で止まった。再度訪れた衝撃の後でドアが開く。テナントは各階2つだけのようで、エレベーター前のテナントは空きと書いてある。心愛は外に設置された非常階段側にある扉の前で立ち止まった。


「はい、到着」
 心愛はドアを開けて中に入る。続いて誠もドアノブに手を掛けるが、店舗前のアルミドアにはめ込まれたガラスに描かれている可愛いフォントを見て首を傾げた。
「スマイル総合サービス?」
「うん、スマイル総合サービス」
 入ると中は一見、普通のごく小さな事務所だった。中央には応接テーブルとそれを挟むソファー。奥に向き合って置かれた、2つのデスクとファイルキャビネットがあるだけだ。そしてソファーでは、ノートPCを眺めている凪。デスクには拓海が腰掛けていた。
 窓に目を向けるとビルの外で見た、でかでかと太陽が描かれた水色のフィルムが窓際に張られている。

「私が社長の中村です」
 何を言えばいいのか戸惑っていると、心愛は名刺を差し出してきた。誠は片手でそれを受取り眺める。名刺には『(有)スマイル総合サービス 代表取締役 中村 心愛』と書かれていた。
「社長、なんの総合なんですか?」
 やっと出た言葉は純粋な疑問だが、一方の社長からは「さぁ?」とだけ返ってきた。
 予想外の反応に困り、デスクに座ってこちらを眺めている拓海に思わず目を向けてしまう。退屈そうにデスクに頬杖を付いていた拓海が憮然と「俺も聞きてぇよ」と言い放ったので、今度は凪の方に目を向けた。誠の視線に気付いた凪はノートPCをから顔を上げると「俺も知りたい」とだけ返し、再び視線を戻すだけだった。

「……マジ、何の総合なんです?」
「総合って付けときゃ、会社力高くて万能みたいな?」
「スマイルは?」
 自慢気に答えてみせる心愛の回答は、何一つ理解できなかった。今度は託児所かデイケアのような名前の方を尋ねてみることにする。次は拓海の方から誠へと話し掛けてきた。
「なぁ、早坂君」
「はい」
「“ニコニコ総合商社”と“スマイル総合サービス”と“ピースカンパニー”だと、どれが一番ダメージがマシに思えるよ?」
「“にこにこピースケア”もあったね、候補」
「爽やかでいいじゃん、事務所では社長の私が法律だし」
 最後に付け加えられた凪の一言が決め手となった。誠は今度こそ、にこやかに笑う心愛を前に閉口する他無かった。



 マジで何の会社なのだろう。
 ライトバンの後部座席で揺られながら、誠は窓の外に目をやった。

 結局、昼間心愛はずっとタブレットでサブスクを観ていて、凪もソファーの上から動かなかった。無言でキーボードを叩いて止めての繰り返し。拓海は昼前にふらりと出掛けていったが、二時間ほどで「出した分が全部飲まれた」と言って帰ってきた。釘がどうとか演出がとか言っていたので、出掛けていた場所は大体の想像が付く。
 応接ソファーに座って拓海から借りた週刊誌と、全く働いている素振りが観られない三人を往復で眺めているうちに、気付けば15時を過ぎていた。
 17時までの残りの時間は、社長の「夏バテに効く料理で一番強いのは何か?」という会話から始まった口論で、凪を除く三人がそれぞれレシピを漁る結果だけであった。

 自称元警備員の社長と、パチンコに行っていた中年と、無言でPCをいじっていた青年。本日この三人が真面目に会話を交わして決定した事項は、夏バテにきく最強料理候補はゴーヤチャンプルーだろうという結論だけだ。
 誠もたまたまいるだけの部外者である以上、何も言う権利は無い。だが今日見た限りは、彼らが仕事をしている素振りは一切見られなかった。心愛曰く「社長と従業員2名、アットホームな職場」らしい。事務所に夕方まで滞在していたが、誠には彼等が行う事業内容が全くわからなかった。

 その後「ゴーヤチャンプルーを帰って食べよう」という心愛の一言で終業となってしまい、皆でスーパーに寄った帰りが今である。
 拓海が運転するライトバンの後部座席、自分と心愛の間に座っている大きなレジ袋が二つ。仲良く誠と一緒に揺られていた。
 帰り道の幹線道路は帰宅ラッシュと重なっている上に、工事中の区間へと差し掛かっている。時折道の悪さで跳ねたレジ袋から中身が飛び出さないように、誠は手で抑える。中身が落ちることは無かったが、それぞれ三人が自由に買った商品がぎっしりと詰まっていた。

 真夏なので日暮れが遅く、18時半を過ぎた今もまだ明るい。
 これから遊びに向かう人間や、職場から帰宅する人々。多くの人間が目の前で交差する様を信号待ちの間に眺めて観察する。行き交う人々の中に、誠を探している人間がいる可能性は低い。それでも潘の元から逃げ出してから10日程で、すっかりと癖づいてしまっていた。
 信号が変わり、誠達を乗せたライトバンが他の車に混じって走り始める。あっという間に、交差点は誠の視界から消えてゆく。誠はマンションに到着するまで、隣に座るレジ袋の中で小刻みに揺れる、菓子や野菜へと目を落とし続けていた。



「凪、ちょっといいか」
 車から降りてマンションの駐車場を歩いている時だった。ずっとスマートフォンを眺めていた拓海が凪に声を掛けた。
「なに?」
「飯食った後で、出掛けなきゃいけなくなった」
「別にいいけど、車?」
「ああ、20時に予約がな……」
 前を歩いている親子の会話は、小声ながらも後ろを歩く誠と心愛の耳へと届く。だからなのか、拓海の言葉尻が少し濁っている事に気付いた。部外者の自分がいると伝えにくいことなのだろうかと、僅かに遠慮の気持ちが芽生えてしまう。だが濁す拓海とは対照に、問い返す凪の声はハッキリとしたものだった。
「エクセレント?」
「いや、学園」
「ん、いいよ」
 二人の会話はそれで終わり、後はそれぞれが持つ荷物がガサガサと音を立てるだけだった。親子が交わした会話の意味が解らなかった事に、誠はこっそりと安堵を覚える。
 体格のいい拓海と、少し細身の凪が並んで歩いて楽しそうに会話をする様を眺めながら、誠はゆっくりと足を進める。
 二人に対して内心、羨望とも懐かしさにも似た気持ちが湧き上がるのを否が応でも自覚してしまう。抱いてしまった気持ちを誤魔化そうと、誠はゆっくりと痛む左足に力を込めた。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝、心愛と一緒に誠が事務所に到着した時には。
 既に中には、凪と拓海の姿があった。

 入ってすぐ、ソファーに座っている来客二人の背が見えた。隣りに立っていた心愛は何も言わず、誠を窓際のデスクへと向かうように促してきた。誠も素直に従い、前日拓海が座っていたデスクチェアに腰掛ける。デスクの上には開いた缶コーヒーと、昨日借りて読んだものとは別の週刊誌。それに煙草と、真鍮の使い込まれたオイルライターが置かれていた。
 応接テーブルを挟んで、来客と向かい合って座る二人を静かに眺める。何の仕事かは分からないが、訪れている二人の男は体格も良くガッチリとしたスーツ姿だった。
 入ってきた時に一度だけ鋭い視線を向けられたが、それ以降は手元にあるファイルを凝視している。ファイルを眺めているのは中年の男性の方で、拓海と多分同年代だろう。対して隣りに座る30代程の男は後輩なのか、背筋を正して横から渡される書類を何枚か受け取っていた。こちらの男にも視線を向けられたが、隣の男程の鋭さは感じられなかった。彼は隣の男が書類を渡すまで、誠の方に静かに目を向けていた。
 一方の拓海と凪は、対面に座ってずっと無言で来客の二人を眺めるだけだった。誠の場所からは親子の背中しか見えないが、二人が纏っている雰囲気は昨日同じ場所で見たものと異なる印象を受ける。
 そんな二人の背中を見つめ誠は、昨夜「どうせ朝には何食わぬ顔して、事務所に二人共いるよ」と。心愛に告げられた言葉を思い返していた。



「凪君と拓さんなら、今日はきっと帰ってこないよ」
 夕食を食べた後に出ていった親子の帰りが余りにも遅く、就寝前に誠が思わず心愛へ尋ねた時だ。彼女から返ってきた言葉がそれだった。

「学園デイズの予約なら、あの親子は帰って来るのを面倒臭がるね」
「えっと……その『学園デイズ』ってなんです?」
「エロい女子生徒が、先生と楽しく授業するお店」
 ニヤリと笑って答える心愛に対して、戸惑ったのは誠の方だった。「ひょっとして、まこっちゃんも行きたかったの?」と、戸惑う様を別の意味に捉えられてさらに慌てる羽目となった。
「いいんですか?」
「何が?」
「いや、だって……」
 所詮は他人のお節介だ。人様の事情に首を突っ込むべきでは無い、とは判っている。だが一度口走ってしまい相手に興味を持たせてしまった以上は、発言に責任を取らねばならない。誠は覚悟を決めて続けることにした。
「心愛さんって拓海さんの彼女さん、なんでしょ?」
「ハァ?」
 心愛とは出会ってまだ24時間程の付き合いではあるが、それでも意外な反応だと分かった。「私が誰の彼女だって?」そう言って、半ば詰め寄られる形で問い質される。誠の混乱は更に重なり、思考が絡まってしまった。
「だって拓海さんと凪さんは親子で、心愛さんは家族じゃないんでしょう?」
「まぁ、そうだねぇ」
「だからてっきり」
 初めて出会った時、拓海に対して「お父さんですか?」と聞いた時、彼は明らかに怒っていた。
 自分の足を触っていた時も、こちらを伺ってた懐疑的な目も印象的だった。だからこそ、彼女を良くわからない自分という男と二人きりにさせて。自分は息子と一緒に風俗に出掛けた挙げ句、帰ってこないというのは余りにも酷いと思って尋ねてしまったのだが。
「凪君は良くあったけど、拓さんは……初めて来たパターンだったわ」
 突然目の前で笑い転げはじめた心愛を見て、誠は戸惑った。
「ごめん、私達ってそういうのじゃないんだ」と言いつつ、心愛はまだ笑い続けている。これだと爆笑が収まるまで、結構な時間が掛かるだろう。
 誠はその間、三人の男女がそれぞれ一緒に暮らす事の不可解さを考えていたが――結局、雁字搦めと成り果てた思考の糸が解けることはなかった。



「――確かに、確認した」
 無言で書類を眺めていた来客が、ファイルを隣の男渡した後で静かに口を開いた。急に響いた聞き覚えの無い声に、誠は我に返る。

「漏れは?」
「コイツが確認したから無い」
 拓海が凪を指差し、頷く凪の髪が揺れる。続いて凪は「高松さん」と名を呼んだ。高松と呼ばれた中年の男は凪へと向き直る。
「代金を貰う前に、こちらから一つ確認してもいい?」
「何の確認だ、横田」
「そっちはもう貴方達に渡すけど。今回無関係な増渕の方は、俺が貰ってもいいよね」
「増渕って、広告代理店のか」
「そう」
 背中越しなので誠からは表情が見えないが、初めて聞く調子で凪は滑らかに言葉を紡いでゆく。
「増渕が行った元秘書へのパワハラ始末、もう立件入るんでしょ?」
 高松が隣の男を一瞥すると、男は少し戸惑い気味に「はい」と頷いた。
「増渕の件は確かに、今回は無関係だな」
「そうだね、高松さんに渡した本丸情報とは無関係だね」
「清水、お前はどう思う?」
「自分も、そう思います」
 高松、凪、清水と呼ばれた男の順に出た言葉の後で、拓海が笑ったらしい。事務所に響く笑いと共に、彼の背中が揺れていた。

「パワハラが目撃されたのは銀座のクラブだし、タイミング的にも無関係。きっと高松さん達も、増渕が今行ってる火消しの隙を狙ったんだよね」
「お前の見解は?」
「今回は確実に、安全に札を取りたい。だから方法としては、本丸を守っていた増渕の立件をフェイクで挟む。錯乱と同時に、今回も本丸までは届かないと判断させる」
「で、お前は増渕のネタが欲しいと」
「うん。元々が本丸に向けて放つ気満々の初発なら、俺が弾を拾って他所から飛ばしても問題の無いネタでしょう? なら俺は上手く飛ばす自信がある」
 誠からすれば、何を言っているのか全く理解出来ない話だ。だが凪が饒舌に話すにつれ、清水の表情は驚きへと変わってゆくのは分かる。拓海はなおも笑い、今度は高松も苦笑を浮かべていた。
「札取りするまでは持つか?」
「うん、今なら持つよ。炎上拡散を多めにお望みなら、トバシを貰って上乗せだけどね」
 そこで凪の話は終わったらしい、後は彼を眺める二人の男が唸る様子が誠から見てもハッキリと判った。

「なぁ、岸」
「……俺は何も入れ知恵してねぇぞ」
「お前の息子。商売上手だな」
「だろ、また贔屓にしてくれ」
 高松が纏わせていた張り詰めた空気と、硬質な声が緩んだのが分かる。それが交渉終了の合図なのだというのも、同時に悟った。
「上乗せ代金分は、後で清水に届けさせるよ」
「毎度あり」
 何のことは無いとばかりに、拓海は封筒を高松から受け取る。ちらりと受け取る手がこちらからも見えたが、封筒の厚みはかなりのものだった。

 部外者にも関わらず、果たしてこの場にいてもいいのか誠は困惑していた。今目の前で行われた交渉を見ている限り、下手なことを言うよりかは黙っておくほうが得策なのは判っていた。世の中にはきっと、余り深入りしないほうがいいこともある。
 安っぽいドアをくぐって立ち去る二人の男を眺めながら、誠が自分自身にそう言い聞かせている矢先の事だ。
「よう、昨日はちゃんと寝れたか?」
 先程まで応接ソファーに座っていた拓海が、いつの間にか誠の隣に立っていた。デスクへと手を伸ばしてきたので席を譲ろうとしたが「いいよ」と断られる。彼はそのまま上に置かれていた缶コーヒーを取ると、中身を一気に煽った。

「どうした?」
 缶コーヒーを一気飲みする姿を見上げていた事に気付かれ、拓海に尋ねられる。今しがた深入りしないほうがいい事もあると思った矢先なのだが、どうしても気になる事が一点だけある。それを尋ねようか迷っていると、拓海の方から質問が飛んできた。
「今の二人組、知り合いだったのか?」
「そんなわけ無いっす」
 思わずそう告げた後で、誠は余計な一言を伝えてしまった事に気付いてしまう。咎める気はないらしく、苦笑の後で拓海からの返事が返ってきた。
「やっぱり目付きで分かるよなぁ、アイツらの仕事って」
「……警察、でしたよね?」
 伺うように尋ねると、彼は黙って頷く。寝不足気味なのか、随分と眠そうだ。
「じゃあ、拓海さん達は?」
「何だと思う?」
 今度は煙草とライターを取る仕草を見せた拓海に疑問を投げ掛ける。逆に尋ねられたが、先程の質問より自信が無い。答える前に誠がほんの少し丸めていた背中を伸ばすと、安っぽいデスクチェアの背凭れが軋んだ。
「情報屋……?」
 その後おずおずと尋ねると、これもまた無言の頷きで返された。その後とうとう我慢出来なかったのか、情報屋の男は大きな欠伸と伸びをしていた。

「刑事さんと情報屋ってマジで繋がってるんですね」
「高松は二課だが、ああやって知り合いが来たりはする。あいつらも元同僚相手の方がやりやすいんだろうよ」
「警察官だったんですか?」
「昔な」
 煙と共に飛び出した、拓海の溜息混じりの返事に誠は驚いて顔を上げた。今は眠そうに細められている目には光が無いが、一昨日向けられた眼光は確かに独特の凄みがあったと思い返す。先の高松と清水という男達からも同様に、こちらを値踏みする鋭さがあった。
「……いいですね、警察官」
 それはポツリと溢れた本音だった。誠も自分の耳に届いて初めて、声に出して告げたものだと気付く。こちらを怪訝に見下ろす拓海と、向かいに座って眺める心愛。それにソファーに座ったままの凪からの視線を感じて、誠は思わず俯いてしまった。
 暫く黙っていたが、他の三人からは何も言われない。沈黙に促されるまま、誠は少し照れながらも言葉を続けることにした。

「オレ、ガキん時からずっと、警察官になりたかったんです」
「何でまた」
「正義の味方だからです」
「そりゃあまた、天然記念物ばりの動機だ」
 誠は正直に思っていることだったが、元警察官にとっては意外な答えだったようだ。随分と呆れた様子で返事をされる。
「拓海さんは警察、やめちゃったんですか?」
「まぁ、色々あってな」
 態度が一転して、今度は少し困ったように髪を掻いていた。現在の誠もそうだが、誰にでも事情はあると解っている。これ以上は聞かないでおこうと謝罪する前に、意外なところから続きの声が飛んできた。

「……拓海さん、早坂さんに汚職で腐りきった内部事情でも話してあげたら?」
 来客と話していた時とは全く別のトーンで、低い凪の声が飛んできた。誠に向けられた視線は冷たく、拓海とは正反対でこちらを咎める風にも映る。
「凪君はさ、もうちょっと夢見る少年に希望を与えてあげなよ。その方が絶対面白いのに」
 怒りにも近い感情を受け誠が怯んでいると、心愛が助け舟を出してくれた。
「元傭兵と食えないライターが、揃って言う事じゃねぇだろ」
 続けて拓海も心愛とフォローを重ねるかのように、軽い口調で凪からの視線を塞ぐように間に入ってくれた。だが彼の口から出た「元傭兵と食えないライター」という言葉の方に、誠は衝撃を受ける。
「えっと、ここって……?」
「スマイル総合サービス」
 思わず尋ねてしまった誠の問いに対して、拓海からは一言だけ返ってきた。
「情報屋、ですか?」
「スマイル総合サービス」
 今度の答えは、凪からのものだった。
 誠は椅子ごと身体を引いて、親子の姿を視界へと収める眺める。どう見ても二人は笑顔では無かった。続いて向かいの席へと視線を移す。
 社名に偽り無しとばかりの笑顔を浮かべてこちらを眺めている、社長の姿が目に入った。



「まこっちゃん。散歩、いこっか」
 足を怪我した人間に放つ言葉では無いと思いつつ、この2日ほどの付き合いで彼女の無茶振りには慣れてしまっていた。誠は心愛からの提案に素直に頷く。彼女はスマートフォンを取り出し、直ぐ様タクシーを呼んだ。
 雑居ビルから出て一番近い道路の前でタクシーの到着を待っている間や、車が道の流れに乗るまでの間。ふとした瞬間に人の流れへと目を向けてしまう。自分が追われている事に対しての怯えなのか、咄嗟に逃げてしまったことへの後悔なのか。この2日程で、誠の胸中では常に後悔と恐怖という感情がせめぎ合い、次第に膨れ上がっていた。

 タクシーに乗った時間は短く、タクシー内の座席に備え付けられている液晶パネルが降りる時には15時と表示されていた。日中最も温度が高い時間帯ということもあり、心愛は到着するなり目の前にあった目的の店舗――保護犬カフェと書かれた店へと入っていった。

 冷房の効いた店内は、灼熱の外とはまるで別世界だった。
 誠は動物カフェをいうものに訪れたのは初めてだが。犬がいる以外は特別な様子も無く、普通のカフェに見える。中は意外にも客が多く、ほぼ満席となっていた。
 心愛は入口で店員と言葉を交わしていた。店員が奥を指し、心愛は礼を言うと進んで行く。賑わった明るい店内の中で、ぽつりと隅に設置されたテーブルだけが空いているのが見えた。
 大小と様々な種類の犬達が愛想良く、テーブルで客と触れ合う中を二人は進む。
 日が当たり辛く入口から死角となっているそこだけは、少し異質な空間のようだ。到着して椅子に座ろうと思ったが、足元の存在に気付いて誠は動きを止める。視線を降ろすと、テーブルの下に陣取る大きな先客の姿があった。
 周りは随分と賑やかながらも、大きく白い犬は静かに寝そべっている。誠が椅子をゆっくりと引いて腰掛けるが、耳を僅かに動かすだけで反応は殆ど無い。心愛が一度だけ「よう、大将」と声を掛けると、彼?はのろのろと顔を上げる。そして返事をするかのように、小さく一度吠えた。
 心愛が「まこっちゃんにも挨拶しな」と告げる。言葉がわかるのか、彼は誠にも向かって小さく吠えた。「よろしくお願いします」と誠がおずおずと腰を屈めて手を伸ばすと、湿った息と共に鼻が押し当てられ、一度だけ手のひらをペロリと舐められた。


「朝の話、覚えてる?」
 注文を取りに来た店員に「アイスティー2つと、大将のおやつ」とメニューを見ずに店員に告げた後で、不意に心愛が質問を投げ掛けてきた。
「警察官になりたかったって」
「ああ、それですか」
 犬を撫でながら、誠は頷く。指の間をするりと抜ける毛は肌触りが良く、気持ちがいい。彼も撫でられるのが好きらしい。手には湿気を伴った体温と、若干速くなった呼吸の動きがしっかりと伝わってくる。
「今はもう警察官になるのはやめたの?」
「はい」
「何で?」
「何でって……」
 思わず言葉に続いて、撫でる手が止まった。誠がなんと答えればいいのか考えていると、丁度アイスティーと小さな皿をトレイに乗せた店員がこちらへとやってきた。一旦会話を止め、店員が去った後で誠は会話を再開させる。

「その……オレは勉強、全然分かんないんです」
「大将、誠君はおバカなんだって」
 飲み物と一緒に運ばれてきたのは、皿に乗った幾つかの小さなビスケットだった。一つ取り、心愛はそれを老犬の鼻先に近付ける。控えめにビスケットを口に入れた大将を指差して「大将、元警察犬だよ」と彼女は笑っていた。
「試験には3回落ちたけど、頑張って受かったんだってさ。君もおバカだけど、ちゃんと頑張って犬のおまわりさんになれたのにね」とさらに笑う。
 軽やかに告げられたからかいの矛は、誠の胸を強く抉った。腹の辺りで感じた痛みは、気のせいでは無い。自分を助けてもらった恩人ながら、人の事情も知らないのに、と言いかけた寸前で誠は堪える。
「勉強だけじゃないです。オレ……生まれた時から、もう警察官にはなれないって決まってたんで」
「なにそれ」
 心愛は少し首を傾げた後で、アイスティーへを口を付けた。納得してくれたかは分からないが、それでも追求する気やからかう気は無いようだ。
「まぁ、なれないものに固執するよりかは健全かもね」
 シロップを混ぜ、氷をストローで突きながら心愛は返事をする。今度はこちらを馬鹿にする様子は無いようで、誠も苦笑いをして誤魔化すだけに留めた。


「心愛さん」
「なに」
「困ってる人を助けるのって、いけないことですかね?」
 気付けば誠はもう一つ、自分がずっと思い悩んでいた悩みを声へと乗せていた。心愛からの返事を待つ間、誠もストローでグラスの中の氷を突く。
「自分が後悔してなきゃいいんじゃない?」
 これまでの返事や問い掛けに対するレスポンスは速い心愛だったが、今回は随分と間があった。彼女の表情を見ても変化は無いが、カラカラと中身を回す度に音を奏でるグラスへと目を落としている。
「例えば、ちょっとオレが悪いことしちゃっても。それで助かる人が沢山いるなら、オレは悪く無いっすよね?」
「いや、悪いでしょ」
 今度は即座に言い切られ、誠は気持ちを鎮めようと自分のアイスティーを喉に流し込んだ。勢い良く半分程飲むが、喉を流れて行った味は全く分からない。

「今のって、君が追われてた理由?」
 誠は「はい」と頷く。責められる様子は無いので、若干勢いを落としつつも話を続ける。
「すげぇ困っている人達がいて、どうしても助けたくて。はん……上司にも頼めず、オレにしか出来ない事だったんです。だから悪い事なのは分かっていたんですが、職場の仕事道具を借りたんです」
「それ、捕まったら殺されたり。とかいうやつ?」
「まさか! 流石にそれは無いですって」
 先程は「悪いことは悪い」とハッキリ断言していた心愛であったが、今の告白に対しては「なんだ」と一言だけで終わる。それどころか誠の方が、心愛の言葉に焦って否定する羽目となった。
「通りで、緊張感が無いと思ったよ」
「でも、見つかると困るのは本当です」
 やっと、人に自分が抱えていた思いを吐き出せた。一気に話し終えた後で、思わず安堵から長い息が口から漏れる。直後、誠の頭に浮かんだのは――ネットカフェの前で自分を見つけた時の潘だった。
 潘は大柄で髭面、夜でも外出時に偏光グラスを掛けるような男だ。屈強な外見の彼ではあるが、先日誠の姿を見つけた時には心配そうな表情だった。連続して頭の中に浮かぶ映像が切り替わる。
 次に誠の脳裏に浮かんだのは、昨日駐車場で仲良く並んで歩いていた拓海と凪の後ろ姿だ。無意識で情報屋の親子と自分達を重ねていた事に誠は気付き、慌てて首を振った。

「まこっちゃんは、ずっと逃げ続ける気?」
「いえ」
「だよね、完全に逃げるなら速攻高跳びしてるよね」
 彼女の言う通り本気で逃げるならば、きっと誠もそうしていた。「はい」と彼女の指摘には素直に頷く。
「だから来週、謝りに帰るつもりです」
「ああ、期限は決めてたんだ」
「あと少しで、彼女が実家から帰ってくるんで。その後に行きます」
「関係無くない?」
「大アリですよ」
 ここだけは誤解されてはいけない、そう思った誠はハッキリと告げる。自分が何のために必死に逃げていたのか、その最大の理由といっても過言では無かった。

「彼女の元気な顔を見てから、勇気を貰うんです」
「愛は偉大なり、って?」
「はい」
 誠はそっと目を閉じて、短い間だが恋人の笑顔を思い出す。潘の元を逃げ出してから、辺りを警戒するのと同じく頻繁に行う癖となっていた。気持ちが幾分落ち着いたので目を開けると、正面に座る心愛と目が合った。彼女は誠から見ても分かる程、眉を顰めていた。
 自分たちの関係を一昨日知り合ったばかりの心愛に分かれという方が無理なのだが。それでも、おかしなことは言っていない。だからこそ、心愛と自分との温度差に誠は違和感を感じて思わず尋ねていた。
「……ひょっとして、呆れてます?」
「うん、私には良くわかんない動機だなって」
「そうですか?」
 うん、と心愛は再び短く頷くだけだった。
「でも話したら、少しスッキリしました」
 ずっと逃げてから不安で考えていたことだったが、こうして口に出して気分が軽くなる。誠は僅かに軽くなった心でビスケットを二枚取り、足元で寝そべっている老犬に与えてみた。
「それならさ、彼女さんが帰って来るまでウチでゆっくりしなよ」
「……いいんですか?」
「いいよ、家でも事務所でも私が法律だから」
 正直なところ、行く当ては未だに思いつかなかった。拓海と凪はどう思うかは分からないが、彼女の今の申し出は素直に有り難い。誠はビスケットを犬にやり終えた後で、心愛に向き直り「有難うございます、本当に助かります」と頭を深々と下げた。
 心愛は「やっぱ、まこっちゃんは律儀だねぇ」と笑うだけだった。


「――もう一つ、質問いいですか?」
 礼だけで終われば良かったのだが、浮かび上がったままだった疑念があと一つ。誠の胸中では燻っていた。心愛もそれに気付いたのか、誠が告げると快く頷いてくれる。
「心愛さんはどうして、オレに優しくしてくれるんです?」
「怪我させちゃったし、退屈だったから」
 彼女から返ってきたのは一昨日と同じ言葉だった。
 目の前で涼し気な顔で座る、心愛の整った顔を凝視する。嘘を付いている訳では無いのは分かる。だが恐らく他にも理由はあると、些細な違和感が誠に告げていた。しかし大きく丸い目をいくら見つめていても、彼女が胸内で一体何を考えているのかは判らない。
「それだけじゃ、理由として弱い?」
「……はい、流石に」
 どう見ても自分とは違い、心愛は見返り無しで人に親切する人には見えない。会話の合間にビスケットを手渡されたのでそれを受け取り、老犬へと差し出して答えを待つ。
「んー、じゃあぶっちゃける」
 心愛が口を開いたのは、誠が二度ビスケットを老犬にあげた後だった。

「実は一昨日、逃げ回ってる君を上から暫く眺めてたんだよ。君からは、物凄くいい匂いがしたんだよね」
「いい……匂い?」
「うん。だから助けて恩を売ってみようかな、って思ったの」
 要領を得ない回答に誠は首を傾げると、心愛は説明を続けてくれる。
「きっと拓さんも、私と同じものを君から嗅ぎ取ったんじゃないかな? じゃなきゃ、あのパパがすんなり他人を泊めたりしない。正直、もっと渋ると思ってたよ」
 誠はそっと自分の右腕に、鼻を近付けてみる。すると案の定、心愛には笑われた。
「将来金になる匂いだね、だから投資代わりに少し守ってあげようと思った」
「それって、オレの仕事を――」
 そこで、誠は言葉を止めた。足に当たる感触が訪れたので下を見ると、老犬が鼻を足に押し付けている姿が目に入った。
「ほら、大将だって判ってる」
 心愛はそう言って、残りのビスケットが入った皿を誠の方にそっと押しやる。

「犬も人間も同じだよ。自分にとって見返りがデカい相手だと分かればさ、幾らでも愛想を良くして擦り寄るモノだからね」
 この2日で見た笑い方とは違い、口端を軽く上げて笑う心愛は少女のようだった。歳上だと分かってはいるも、思わず可愛らしいという思いを抱く。だが誠の目には、何故か彼女の可愛さは歪でちぐはぐなものとして映るだけだった。






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1章2話「たのしい情報屋」
(1-2)
『ミューは悪くないよ』
『おやつをおいてた、ママがわるい!』
『ママがおこった! にげろー!』
 整形外科の待合室でついているテレビに映ったのは、イタズラがばれて走り回って逃げる白い犬だった。動画投稿サイトで最近人気の犬だ。アラスカンマラミュートという犬種らしく、ハスキーによく似た大型犬のミューという名の犬である。チャンネル主がアテレコ代わりに字幕をつけただけの、よくある類のものだった。
「早坂さん」
 診察とリハビリのために開院前から並んでいた老人達に混じり、誠はテレビを眺めて順番を待っていた。受付で何度か名前を呼ばれていたことに気付き、慌てて顔をテレビから逸らす。隣に座る心愛が先に立ち上がり受付に向かったので、誠も急いで後を追った。
 少し不機嫌な中年の女性から渡された湿布を受け取り、金額を告げられる。嫌な顔を見せず提示された診察料を払った心愛に対して、誠はクリニックを出るとすぐに頭を下げた。
「すみません、オレ保険証持ってきて無くて」
「まっこちゃんは律儀だねぇ」
 心愛は笑いながら「気にしない」と、誠の肩を優しく叩く。何故か今朝から心愛は「まこっちゃん」と呼ぶようになっていた。
 気にしないと言われても、レントゲン検査込みで医療費の全額負担は決して安くはない。大丈夫と言って笑う相手に、胸中でもう一度礼を述べる。
「骨折してなくてよかったじゃん」
 誠の様子に気付いたのか、心愛がもう一度誠の肩を叩く。スリッパから靴へと履き替えた時に、感触が悪かったのか。日傘を差した後でスニーカーのつま先をトントン、と軽くアスファルトに叩いて心愛は歩き始めた。誠も彼女に続く。足首を圧迫しないように左足の靴紐を緩めにしているが、歩く速度は普段より少しゆっくり程度だ。
 まだ午前中とはいえ、真夏の日差しは強烈だ。接骨院の自動ドアを通って外に出ると、すぐに湿気と暑さが二人を襲った。日差しに加え、ずらりと並んだ街路樹から一斉に聞こえる蝉の鳴き声に誠は顔を顰める。
「まこっちゃん」
 蝉の声に掻き消されないように、少し大きめの声を出しながら心愛が尋ねてきた。
「この後どうする? 今日もウチ泊まる?」
「さすがにそれは……」
 折角の申し出は有り難かったが、誠はそろりと辺りを見渡した後で俯いた。繁華街から一駅程度は離れているとはいえ、昨夜、潘に見付かってしまった以上は用心をしてしまう。所持金は少ないが、最低でも後4日は何としても捕まるわけにはいかない。
 いずれは彼と会って話さなければ、逃げ続けるわけにもいかないと分かっていた。だが自分には行くアテもない。そんな考え込む誠の様子に気付いたのか、心愛が「まこっちゃん」ともう一度呼んだ。
「君、追われてるんだよね」
「はい」
「せめて今日と明日ぐらいはゆっくりすれば? 最近退屈だったから、もし昨日の人達に見付かったらサービスで守ってあげる」
「サービス?」
「そ」
 くるくると、差している日傘を回しながら心愛は誠と歩幅を合わす。
「私、元警備員のお姉さん」
「警備員、ですか?」
「そう、警護もやってたよ。だからサービス」
 185cmの誠に比べると丁度、自分の胸元辺りが頭だろうか。小柄な心愛はそう言って誠を見上げながら笑っている。
 誠は昨夜、彼女と出会った時の状況を思い返す。自分が転んだ直後だったし、半ば混乱もしていた。なのであの時心愛が何をしたのかは、正確には判らない。だが彼女は追ってきた男に何かをして、相手を無力化していたのはこの目で見ていた。
「凪さんと拓海さんも、警備員なんですか?」
「あの二人は、仕事仲間だけど違うね」
 心愛の警備員という言葉に違和感を感じつつ、誠は昨夜出会った親子の名も告げてみる。だがそれは否定された。要領を得ぬまま「そうなんですね」と、曖昧な返答しかできなかったが、彼女からは何も言われなかった。
「まぁ、取り敢えず。暑いから早く事務所に行こう」
 日傘を差していても、やはり暑いらしい。向こう側から走ってきたタクシーに向かって手を上げながら、心愛はそう言った。
 二人がタクシーを降りたのは、繁華街の一角だった。
 入り組んだ一方通行の細い道を少し歩くと、心愛がひとつの雑居ビルの前で立ち止まる。
 それはこの界隈ならばどこにでもあるような、少し古びた小さな雑居ビルだった。遅れて立ち止まった誠はビルを見上げる。4階建ての各階に事務所やネイルサロンなど。いかにもなテナントが集まった雑居ビルだ。下から眺めていると3階の窓に描かれた、一際目立った店名が誠の目を引いた。
 陽光が眩しく、目を凝らして店名を見る。反射してスマイル以下の文字は読めなかったが、水色のフィルムに笑う太陽の絵がでかでかと描かれている。可愛らしいフォントが用いられていたところ、託児所みたいなものかもしれない。他のテナント名もさらに見ようと思ったが、心愛に促され、誠はビルの中へと入った。
 入ってすぐ横手にエレベーターはあった。煙草が押し当てられて溶けたエレベーターの呼び出しボタンは、心愛が押したのか既に点灯している。やけに大きな駆動音と共に、到着したエレベーターに2人は乗り込む。中に入った心愛が3階のボタンと『閉』と描かれたボタンを続けて素早く押した。
 ぎこちなくドアが締まりガクン、と衝撃が身体に走る。大きな唸りを上げてエレベーターは上昇して、3階で止まった。再度訪れた衝撃の後でドアが開く。テナントは各階2つだけのようで、エレベーター前のテナントは空きと書いてある。心愛は外に設置された非常階段側にある扉の前で立ち止まった。
「はい、到着」
 心愛はドアを開けて中に入る。続いて誠もドアノブに手を掛けるが、店舗前のアルミドアにはめ込まれたガラスに描かれている可愛いフォントを見て首を傾げた。
「スマイル総合サービス?」
「うん、スマイル総合サービス」
 入ると中は一見、普通のごく小さな事務所だった。中央には応接テーブルとそれを挟むソファー。奥に向き合って置かれた、2つのデスクとファイルキャビネットがあるだけだ。そしてソファーでは、ノートPCを眺めている凪。デスクには拓海が腰掛けていた。
 窓に目を向けるとビルの外で見た、でかでかと太陽が描かれた水色のフィルムが窓際に張られている。
「私が社長の中村です」
 何を言えばいいのか戸惑っていると、心愛は名刺を差し出してきた。誠は片手でそれを受取り眺める。名刺には『(有)スマイル総合サービス 代表取締役 中村 心愛』と書かれていた。
「社長、なんの総合なんですか?」
 やっと出た言葉は純粋な疑問だが、一方の社長からは「さぁ?」とだけ返ってきた。
 予想外の反応に困り、デスクに座ってこちらを眺めている拓海に思わず目を向けてしまう。退屈そうにデスクに頬杖を付いていた拓海が憮然と「俺も聞きてぇよ」と言い放ったので、今度は凪の方に目を向けた。誠の視線に気付いた凪はノートPCをから顔を上げると「俺も知りたい」とだけ返し、再び視線を戻すだけだった。
「……マジ、何の総合なんです?」
「総合って付けときゃ、会社力高くて万能みたいな?」
「スマイルは?」
 自慢気に答えてみせる心愛の回答は、何一つ理解できなかった。今度は託児所かデイケアのような名前の方を尋ねてみることにする。次は拓海の方から誠へと話し掛けてきた。
「なぁ、早坂君」
「はい」
「“ニコニコ総合商社”と“スマイル総合サービス”と“ピースカンパニー”だと、どれが一番ダメージがマシに思えるよ?」
「“にこにこピースケア”もあったね、候補」
「爽やかでいいじゃん、事務所では社長の私が法律だし」
 最後に付け加えられた凪の一言が決め手となった。誠は今度こそ、にこやかに笑う心愛を前に閉口する他無かった。
 マジで何の会社なのだろう。
 ライトバンの後部座席で揺られながら、誠は窓の外に目をやった。
 結局、昼間心愛はずっとタブレットでサブスクを観ていて、凪もソファーの上から動かなかった。無言でキーボードを叩いて止めての繰り返し。拓海は昼前にふらりと出掛けていったが、二時間ほどで「出した分が全部飲まれた」と言って帰ってきた。釘がどうとか演出がとか言っていたので、出掛けていた場所は大体の想像が付く。
 応接ソファーに座って拓海から借りた週刊誌と、全く働いている素振りが観られない三人を往復で眺めているうちに、気付けば15時を過ぎていた。
 17時までの残りの時間は、社長の「夏バテに効く料理で一番強いのは何か?」という会話から始まった口論で、凪を除く三人がそれぞれレシピを漁る結果だけであった。
 自称元警備員の社長と、パチンコに行っていた中年と、無言でPCをいじっていた青年。本日この三人が真面目に会話を交わして決定した事項は、夏バテにきく最強料理候補はゴーヤチャンプルーだろうという結論だけだ。
 誠もたまたまいるだけの部外者である以上、何も言う権利は無い。だが今日見た限りは、彼らが仕事をしている素振りは一切見られなかった。心愛曰く「社長と従業員2名、アットホームな職場」らしい。事務所に夕方まで滞在していたが、誠には彼等が行う事業内容が全くわからなかった。
 その後「ゴーヤチャンプルーを帰って食べよう」という心愛の一言で終業となってしまい、皆でスーパーに寄った帰りが今である。
 拓海が運転するライトバンの後部座席、自分と心愛の間に座っている大きなレジ袋が二つ。仲良く誠と一緒に揺られていた。
 帰り道の幹線道路は帰宅ラッシュと重なっている上に、工事中の区間へと差し掛かっている。時折道の悪さで跳ねたレジ袋から中身が飛び出さないように、誠は手で抑える。中身が落ちることは無かったが、それぞれ三人が自由に買った商品がぎっしりと詰まっていた。
 真夏なので日暮れが遅く、18時半を過ぎた今もまだ明るい。
 これから遊びに向かう人間や、職場から帰宅する人々。多くの人間が目の前で交差する様を信号待ちの間に眺めて観察する。行き交う人々の中に、誠を探している人間がいる可能性は低い。それでも潘の元から逃げ出してから10日程で、すっかりと癖づいてしまっていた。
 信号が変わり、誠達を乗せたライトバンが他の車に混じって走り始める。あっという間に、交差点は誠の視界から消えてゆく。誠はマンションに到着するまで、隣に座るレジ袋の中で小刻みに揺れる、菓子や野菜へと目を落とし続けていた。
「凪、ちょっといいか」
 車から降りてマンションの駐車場を歩いている時だった。ずっとスマートフォンを眺めていた拓海が凪に声を掛けた。
「なに?」
「飯食った後で、出掛けなきゃいけなくなった」
「別にいいけど、車?」
「ああ、20時に予約がな……」
 前を歩いている親子の会話は、小声ながらも後ろを歩く誠と心愛の耳へと届く。だからなのか、拓海の言葉尻が少し濁っている事に気付いた。部外者の自分がいると伝えにくいことなのだろうかと、僅かに遠慮の気持ちが芽生えてしまう。だが濁す拓海とは対照に、問い返す凪の声はハッキリとしたものだった。
「エクセレント?」
「いや、学園」
「ん、いいよ」
 二人の会話はそれで終わり、後はそれぞれが持つ荷物がガサガサと音を立てるだけだった。親子が交わした会話の意味が解らなかった事に、誠はこっそりと安堵を覚える。
 体格のいい拓海と、少し細身の凪が並んで歩いて楽しそうに会話をする様を眺めながら、誠はゆっくりと足を進める。
 二人に対して内心、羨望とも懐かしさにも似た気持ちが湧き上がるのを否が応でも自覚してしまう。抱いてしまった気持ちを誤魔化そうと、誠はゆっくりと痛む左足に力を込めた。
 ◇ ◇ ◇
 翌朝、心愛と一緒に誠が事務所に到着した時には。
 既に中には、凪と拓海の姿があった。
 入ってすぐ、ソファーに座っている来客二人の背が見えた。隣りに立っていた心愛は何も言わず、誠を窓際のデスクへと向かうように促してきた。誠も素直に従い、前日拓海が座っていたデスクチェアに腰掛ける。デスクの上には開いた缶コーヒーと、昨日借りて読んだものとは別の週刊誌。それに煙草と、真鍮の使い込まれたオイルライターが置かれていた。
 応接テーブルを挟んで、来客と向かい合って座る二人を静かに眺める。何の仕事かは分からないが、訪れている二人の男は体格も良くガッチリとしたスーツ姿だった。
 入ってきた時に一度だけ鋭い視線を向けられたが、それ以降は手元にあるファイルを凝視している。ファイルを眺めているのは中年の男性の方で、拓海と多分同年代だろう。対して隣りに座る30代程の男は後輩なのか、背筋を正して横から渡される書類を何枚か受け取っていた。こちらの男にも視線を向けられたが、隣の男程の鋭さは感じられなかった。彼は隣の男が書類を渡すまで、誠の方に静かに目を向けていた。
 一方の拓海と凪は、対面に座ってずっと無言で来客の二人を眺めるだけだった。誠の場所からは親子の背中しか見えないが、二人が纏っている雰囲気は昨日同じ場所で見たものと異なる印象を受ける。
 そんな二人の背中を見つめ誠は、昨夜「どうせ朝には何食わぬ顔して、事務所に二人共いるよ」と。心愛に告げられた言葉を思い返していた。
「凪君と拓さんなら、今日はきっと帰ってこないよ」
 夕食を食べた後に出ていった親子の帰りが余りにも遅く、就寝前に誠が思わず心愛へ尋ねた時だ。彼女から返ってきた言葉がそれだった。
「学園デイズの予約なら、あの親子は帰って来るのを面倒臭がるね」
「えっと……その『学園デイズ』ってなんです?」
「エロい女子生徒が、先生と楽しく授業するお店」
 ニヤリと笑って答える心愛に対して、戸惑ったのは誠の方だった。「ひょっとして、まこっちゃんも行きたかったの?」と、戸惑う様を別の意味に捉えられてさらに慌てる羽目となった。
「いいんですか?」
「何が?」
「いや、だって……」
 所詮は他人のお節介だ。人様の事情に首を突っ込むべきでは無い、とは判っている。だが一度口走ってしまい相手に興味を持たせてしまった以上は、発言に責任を取らねばならない。誠は覚悟を決めて続けることにした。
「心愛さんって拓海さんの彼女さん、なんでしょ?」
「ハァ?」
 心愛とは出会ってまだ24時間程の付き合いではあるが、それでも意外な反応だと分かった。「私が誰の彼女だって?」そう言って、半ば詰め寄られる形で問い質される。誠の混乱は更に重なり、思考が絡まってしまった。
「だって拓海さんと凪さんは親子で、心愛さんは家族じゃないんでしょう?」
「まぁ、そうだねぇ」
「だからてっきり」
 初めて出会った時、拓海に対して「お父さんですか?」と聞いた時、彼は明らかに怒っていた。
 自分の足を触っていた時も、こちらを伺ってた懐疑的な目も印象的だった。だからこそ、彼女を良くわからない自分という男と二人きりにさせて。自分は息子と一緒に風俗に出掛けた挙げ句、帰ってこないというのは余りにも酷いと思って尋ねてしまったのだが。
「凪君は良くあったけど、拓さんは……初めて来たパターンだったわ」
 突然目の前で笑い転げはじめた心愛を見て、誠は戸惑った。
「ごめん、私達ってそういうのじゃないんだ」と言いつつ、心愛はまだ笑い続けている。これだと爆笑が収まるまで、結構な時間が掛かるだろう。
 誠はその間、三人の男女がそれぞれ一緒に暮らす事の不可解さを考えていたが――結局、雁字搦めと成り果てた思考の糸が解けることはなかった。
「――確かに、確認した」
 無言で書類を眺めていた来客が、ファイルを隣の男渡した後で静かに口を開いた。急に響いた聞き覚えの無い声に、誠は我に返る。
「漏れは?」
「コイツが確認したから無い」
 拓海が凪を指差し、頷く凪の髪が揺れる。続いて凪は「高松さん」と名を呼んだ。高松と呼ばれた中年の男は凪へと向き直る。
「代金を貰う前に、こちらから一つ確認してもいい?」
「何の確認だ、横田」
「そっちはもう貴方達に渡すけど。今回無関係な増渕の方は、俺が貰ってもいいよね」
「増渕って、広告代理店のか」
「そう」
 背中越しなので誠からは表情が見えないが、初めて聞く調子で凪は滑らかに言葉を紡いでゆく。
「増渕が行った元秘書へのパワハラ始末、もう立件入るんでしょ?」
 高松が隣の男を一瞥すると、男は少し戸惑い気味に「はい」と頷いた。
「増渕の件は確かに、今回は無関係だな」
「そうだね、高松さんに渡した本丸情報とは無関係だね」
「清水、お前はどう思う?」
「自分も、そう思います」
 高松、凪、清水と呼ばれた男の順に出た言葉の後で、拓海が笑ったらしい。事務所に響く笑いと共に、彼の背中が揺れていた。
「パワハラが目撃されたのは銀座のクラブだし、タイミング的にも無関係。きっと高松さん達も、増渕が今行ってる火消しの隙を狙ったんだよね」
「お前の見解は?」
「今回は確実に、安全に札を取りたい。だから方法としては、本丸を守っていた増渕の立件をフェイクで挟む。錯乱と同時に、今回も本丸までは届かないと判断させる」
「で、お前は増渕のネタが欲しいと」
「うん。元々が本丸に向けて放つ気満々の初発なら、俺が弾を拾って他所から飛ばしても問題の無いネタでしょう? なら俺は上手く飛ばす自信がある」
 誠からすれば、何を言っているのか全く理解出来ない話だ。だが凪が饒舌に話すにつれ、清水の表情は驚きへと変わってゆくのは分かる。拓海はなおも笑い、今度は高松も苦笑を浮かべていた。
「札取りするまでは持つか?」
「うん、今なら持つよ。炎上拡散を多めにお望みなら、トバシを貰って上乗せだけどね」
 そこで凪の話は終わったらしい、後は彼を眺める二人の男が唸る様子が誠から見てもハッキリと判った。
「なぁ、岸」
「……俺は何も入れ知恵してねぇぞ」
「お前の息子。商売上手だな」
「だろ、また贔屓にしてくれ」
 高松が纏わせていた張り詰めた空気と、硬質な声が緩んだのが分かる。それが交渉終了の合図なのだというのも、同時に悟った。
「上乗せ代金分は、後で清水に届けさせるよ」
「毎度あり」
 何のことは無いとばかりに、拓海は封筒を高松から受け取る。ちらりと受け取る手がこちらからも見えたが、封筒の厚みはかなりのものだった。
 部外者にも関わらず、果たしてこの場にいてもいいのか誠は困惑していた。今目の前で行われた交渉を見ている限り、下手なことを言うよりかは黙っておくほうが得策なのは判っていた。世の中にはきっと、余り深入りしないほうがいいこともある。
 安っぽいドアをくぐって立ち去る二人の男を眺めながら、誠が自分自身にそう言い聞かせている矢先の事だ。
「よう、昨日はちゃんと寝れたか?」
 先程まで応接ソファーに座っていた拓海が、いつの間にか誠の隣に立っていた。デスクへと手を伸ばしてきたので席を譲ろうとしたが「いいよ」と断られる。彼はそのまま上に置かれていた缶コーヒーを取ると、中身を一気に煽った。
「どうした?」
 缶コーヒーを一気飲みする姿を見上げていた事に気付かれ、拓海に尋ねられる。今しがた深入りしないほうがいい事もあると思った矢先なのだが、どうしても気になる事が一点だけある。それを尋ねようか迷っていると、拓海の方から質問が飛んできた。
「今の二人組、知り合いだったのか?」
「そんなわけ無いっす」
 思わずそう告げた後で、誠は余計な一言を伝えてしまった事に気付いてしまう。咎める気はないらしく、苦笑の後で拓海からの返事が返ってきた。
「やっぱり目付きで分かるよなぁ、アイツらの仕事って」
「……警察、でしたよね?」
 伺うように尋ねると、彼は黙って頷く。寝不足気味なのか、随分と眠そうだ。
「じゃあ、拓海さん達は?」
「何だと思う?」
 今度は煙草とライターを取る仕草を見せた拓海に疑問を投げ掛ける。逆に尋ねられたが、先程の質問より自信が無い。答える前に誠がほんの少し丸めていた背中を伸ばすと、安っぽいデスクチェアの背凭れが軋んだ。
「情報屋……?」
 その後おずおずと尋ねると、これもまた無言の頷きで返された。その後とうとう我慢出来なかったのか、情報屋の男は大きな欠伸と伸びをしていた。
「刑事さんと情報屋ってマジで繋がってるんですね」
「高松は二課だが、ああやって知り合いが来たりはする。あいつらも元同僚相手の方がやりやすいんだろうよ」
「警察官だったんですか?」
「昔な」
 煙と共に飛び出した、拓海の溜息混じりの返事に誠は驚いて顔を上げた。今は眠そうに細められている目には光が無いが、一昨日向けられた眼光は確かに独特の凄みがあったと思い返す。先の高松と清水という男達からも同様に、こちらを値踏みする鋭さがあった。
「……いいですね、警察官」
 それはポツリと溢れた本音だった。誠も自分の耳に届いて初めて、声に出して告げたものだと気付く。こちらを怪訝に見下ろす拓海と、向かいに座って眺める心愛。それにソファーに座ったままの凪からの視線を感じて、誠は思わず俯いてしまった。
 暫く黙っていたが、他の三人からは何も言われない。沈黙に促されるまま、誠は少し照れながらも言葉を続けることにした。
「オレ、ガキん時からずっと、警察官になりたかったんです」
「何でまた」
「正義の味方だからです」
「そりゃあまた、天然記念物ばりの動機だ」
 誠は正直に思っていることだったが、元警察官にとっては意外な答えだったようだ。随分と呆れた様子で返事をされる。
「拓海さんは警察、やめちゃったんですか?」
「まぁ、色々あってな」
 態度が一転して、今度は少し困ったように髪を掻いていた。現在の誠もそうだが、誰にでも事情はあると解っている。これ以上は聞かないでおこうと謝罪する前に、意外なところから続きの声が飛んできた。
「……拓海さん、早坂さんに汚職で腐りきった内部事情でも話してあげたら?」
 来客と話していた時とは全く別のトーンで、低い凪の声が飛んできた。誠に向けられた視線は冷たく、拓海とは正反対でこちらを咎める風にも映る。
「凪君はさ、もうちょっと夢見る少年に希望を与えてあげなよ。その方が絶対面白いのに」
 怒りにも近い感情を受け誠が怯んでいると、心愛が助け舟を出してくれた。
「元傭兵と食えないライターが、揃って言う事じゃねぇだろ」
 続けて拓海も心愛とフォローを重ねるかのように、軽い口調で凪からの視線を塞ぐように間に入ってくれた。だが彼の口から出た「元傭兵と食えないライター」という言葉の方に、誠は衝撃を受ける。
「えっと、ここって……?」
「スマイル総合サービス」
 思わず尋ねてしまった誠の問いに対して、拓海からは一言だけ返ってきた。
「情報屋、ですか?」
「スマイル総合サービス」
 今度の答えは、凪からのものだった。
 誠は椅子ごと身体を引いて、親子の姿を視界へと収める眺める。どう見ても二人は笑顔では無かった。続いて向かいの席へと視線を移す。
 社名に偽り無しとばかりの笑顔を浮かべてこちらを眺めている、社長の姿が目に入った。
「まこっちゃん。散歩、いこっか」
 足を怪我した人間に放つ言葉では無いと思いつつ、この2日ほどの付き合いで彼女の無茶振りには慣れてしまっていた。誠は心愛からの提案に素直に頷く。彼女はスマートフォンを取り出し、直ぐ様タクシーを呼んだ。
 雑居ビルから出て一番近い道路の前でタクシーの到着を待っている間や、車が道の流れに乗るまでの間。ふとした瞬間に人の流れへと目を向けてしまう。自分が追われている事に対しての怯えなのか、咄嗟に逃げてしまったことへの後悔なのか。この2日程で、誠の胸中では常に後悔と恐怖という感情がせめぎ合い、次第に膨れ上がっていた。
 タクシーに乗った時間は短く、タクシー内の座席に備え付けられている液晶パネルが降りる時には15時と表示されていた。日中最も温度が高い時間帯ということもあり、心愛は到着するなり目の前にあった目的の店舗――保護犬カフェと書かれた店へと入っていった。
 冷房の効いた店内は、灼熱の外とはまるで別世界だった。
 誠は動物カフェをいうものに訪れたのは初めてだが。犬がいる以外は特別な様子も無く、普通のカフェに見える。中は意外にも客が多く、ほぼ満席となっていた。
 心愛は入口で店員と言葉を交わしていた。店員が奥を指し、心愛は礼を言うと進んで行く。賑わった明るい店内の中で、ぽつりと隅に設置されたテーブルだけが空いているのが見えた。
 大小と様々な種類の犬達が愛想良く、テーブルで客と触れ合う中を二人は進む。
 日が当たり辛く入口から死角となっているそこだけは、少し異質な空間のようだ。到着して椅子に座ろうと思ったが、足元の存在に気付いて誠は動きを止める。視線を降ろすと、テーブルの下に陣取る大きな先客の姿があった。
 周りは随分と賑やかながらも、大きく白い犬は静かに寝そべっている。誠が椅子をゆっくりと引いて腰掛けるが、耳を僅かに動かすだけで反応は殆ど無い。心愛が一度だけ「よう、大将」と声を掛けると、彼?はのろのろと顔を上げる。そして返事をするかのように、小さく一度吠えた。
 心愛が「まこっちゃんにも挨拶しな」と告げる。言葉がわかるのか、彼は誠にも向かって小さく吠えた。「よろしくお願いします」と誠がおずおずと腰を屈めて手を伸ばすと、湿った息と共に鼻が押し当てられ、一度だけ手のひらをペロリと舐められた。
「朝の話、覚えてる?」
 注文を取りに来た店員に「アイスティー2つと、大将のおやつ」とメニューを見ずに店員に告げた後で、不意に心愛が質問を投げ掛けてきた。
「警察官になりたかったって」
「ああ、それですか」
 犬を撫でながら、誠は頷く。指の間をするりと抜ける毛は肌触りが良く、気持ちがいい。彼も撫でられるのが好きらしい。手には湿気を伴った体温と、若干速くなった呼吸の動きがしっかりと伝わってくる。
「今はもう警察官になるのはやめたの?」
「はい」
「何で?」
「何でって……」
 思わず言葉に続いて、撫でる手が止まった。誠がなんと答えればいいのか考えていると、丁度アイスティーと小さな皿をトレイに乗せた店員がこちらへとやってきた。一旦会話を止め、店員が去った後で誠は会話を再開させる。
「その……オレは勉強、全然分かんないんです」
「大将、誠君はおバカなんだって」
 飲み物と一緒に運ばれてきたのは、皿に乗った幾つかの小さなビスケットだった。一つ取り、心愛はそれを老犬の鼻先に近付ける。控えめにビスケットを口に入れた大将を指差して「大将、元警察犬だよ」と彼女は笑っていた。
「試験には3回落ちたけど、頑張って受かったんだってさ。君もおバカだけど、ちゃんと頑張って犬のおまわりさんになれたのにね」とさらに笑う。
 軽やかに告げられたからかいの矛は、誠の胸を強く抉った。腹の辺りで感じた痛みは、気のせいでは無い。自分を助けてもらった恩人ながら、人の事情も知らないのに、と言いかけた寸前で誠は堪える。
「勉強だけじゃないです。オレ……生まれた時から、もう警察官にはなれないって決まってたんで」
「なにそれ」
 心愛は少し首を傾げた後で、アイスティーへを口を付けた。納得してくれたかは分からないが、それでも追求する気やからかう気は無いようだ。
「まぁ、なれないものに固執するよりかは健全かもね」
 シロップを混ぜ、氷をストローで突きながら心愛は返事をする。今度はこちらを馬鹿にする様子は無いようで、誠も苦笑いをして誤魔化すだけに留めた。
「心愛さん」
「なに」
「困ってる人を助けるのって、いけないことですかね?」
 気付けば誠はもう一つ、自分がずっと思い悩んでいた悩みを声へと乗せていた。心愛からの返事を待つ間、誠もストローでグラスの中の氷を突く。
「自分が後悔してなきゃいいんじゃない?」
 これまでの返事や問い掛けに対するレスポンスは速い心愛だったが、今回は随分と間があった。彼女の表情を見ても変化は無いが、カラカラと中身を回す度に音を奏でるグラスへと目を落としている。
「例えば、ちょっとオレが悪いことしちゃっても。それで助かる人が沢山いるなら、オレは悪く無いっすよね?」
「いや、悪いでしょ」
 今度は即座に言い切られ、誠は気持ちを鎮めようと自分のアイスティーを喉に流し込んだ。勢い良く半分程飲むが、喉を流れて行った味は全く分からない。
「今のって、君が追われてた理由?」
 誠は「はい」と頷く。責められる様子は無いので、若干勢いを落としつつも話を続ける。
「すげぇ困っている人達がいて、どうしても助けたくて。はん……上司にも頼めず、オレにしか出来ない事だったんです。だから悪い事なのは分かっていたんですが、職場の仕事道具を借りたんです」
「それ、捕まったら殺されたり。とかいうやつ?」
「まさか! 流石にそれは無いですって」
 先程は「悪いことは悪い」とハッキリ断言していた心愛であったが、今の告白に対しては「なんだ」と一言だけで終わる。それどころか誠の方が、心愛の言葉に焦って否定する羽目となった。
「通りで、緊張感が無いと思ったよ」
「でも、見つかると困るのは本当です」
 やっと、人に自分が抱えていた思いを吐き出せた。一気に話し終えた後で、思わず安堵から長い息が口から漏れる。直後、誠の頭に浮かんだのは――ネットカフェの前で自分を見つけた時の潘だった。
 潘は大柄で髭面、夜でも外出時に偏光グラスを掛けるような男だ。屈強な外見の彼ではあるが、先日誠の姿を見つけた時には心配そうな表情だった。連続して頭の中に浮かぶ映像が切り替わる。
 次に誠の脳裏に浮かんだのは、昨日駐車場で仲良く並んで歩いていた拓海と凪の後ろ姿だ。無意識で情報屋の親子と自分達を重ねていた事に誠は気付き、慌てて首を振った。
「まこっちゃんは、ずっと逃げ続ける気?」
「いえ」
「だよね、完全に逃げるなら速攻高跳びしてるよね」
 彼女の言う通り本気で逃げるならば、きっと誠もそうしていた。「はい」と彼女の指摘には素直に頷く。
「だから来週、謝りに帰るつもりです」
「ああ、期限は決めてたんだ」
「あと少しで、彼女が実家から帰ってくるんで。その後に行きます」
「関係無くない?」
「大アリですよ」
 ここだけは誤解されてはいけない、そう思った誠はハッキリと告げる。自分が何のために必死に逃げていたのか、その最大の理由といっても過言では無かった。
「彼女の元気な顔を見てから、勇気を貰うんです」
「愛は偉大なり、って?」
「はい」
 誠はそっと目を閉じて、短い間だが恋人の笑顔を思い出す。潘の元を逃げ出してから、辺りを警戒するのと同じく頻繁に行う癖となっていた。気持ちが幾分落ち着いたので目を開けると、正面に座る心愛と目が合った。彼女は誠から見ても分かる程、眉を顰めていた。
 自分たちの関係を一昨日知り合ったばかりの心愛に分かれという方が無理なのだが。それでも、おかしなことは言っていない。だからこそ、心愛と自分との温度差に誠は違和感を感じて思わず尋ねていた。
「……ひょっとして、呆れてます?」
「うん、私には良くわかんない動機だなって」
「そうですか?」
 うん、と心愛は再び短く頷くだけだった。
「でも話したら、少しスッキリしました」
 ずっと逃げてから不安で考えていたことだったが、こうして口に出して気分が軽くなる。誠は僅かに軽くなった心でビスケットを二枚取り、足元で寝そべっている老犬に与えてみた。
「それならさ、彼女さんが帰って来るまでウチでゆっくりしなよ」
「……いいんですか?」
「いいよ、家でも事務所でも私が法律だから」
 正直なところ、行く当ては未だに思いつかなかった。拓海と凪はどう思うかは分からないが、彼女の今の申し出は素直に有り難い。誠はビスケットを犬にやり終えた後で、心愛に向き直り「有難うございます、本当に助かります」と頭を深々と下げた。
 心愛は「やっぱ、まこっちゃんは律儀だねぇ」と笑うだけだった。
「――もう一つ、質問いいですか?」
 礼だけで終われば良かったのだが、浮かび上がったままだった疑念があと一つ。誠の胸中では燻っていた。心愛もそれに気付いたのか、誠が告げると快く頷いてくれる。
「心愛さんはどうして、オレに優しくしてくれるんです?」
「怪我させちゃったし、退屈だったから」
 彼女から返ってきたのは一昨日と同じ言葉だった。
 目の前で涼し気な顔で座る、心愛の整った顔を凝視する。嘘を付いている訳では無いのは分かる。だが恐らく他にも理由はあると、些細な違和感が誠に告げていた。しかし大きく丸い目をいくら見つめていても、彼女が胸内で一体何を考えているのかは判らない。
「それだけじゃ、理由として弱い?」
「……はい、流石に」
 どう見ても自分とは違い、心愛は見返り無しで人に親切する人には見えない。会話の合間にビスケットを手渡されたのでそれを受け取り、老犬へと差し出して答えを待つ。
「んー、じゃあぶっちゃける」
 心愛が口を開いたのは、誠が二度ビスケットを老犬にあげた後だった。
「実は一昨日、逃げ回ってる君を上から暫く眺めてたんだよ。君からは、物凄くいい匂いがしたんだよね」
「いい……匂い?」
「うん。だから助けて恩を売ってみようかな、って思ったの」
 要領を得ない回答に誠は首を傾げると、心愛は説明を続けてくれる。
「きっと拓さんも、私と同じものを君から嗅ぎ取ったんじゃないかな? じゃなきゃ、あのパパがすんなり他人を泊めたりしない。正直、もっと渋ると思ってたよ」
 誠はそっと自分の右腕に、鼻を近付けてみる。すると案の定、心愛には笑われた。
「将来金になる匂いだね、だから投資代わりに少し守ってあげようと思った」
「それって、オレの仕事を――」
 そこで、誠は言葉を止めた。足に当たる感触が訪れたので下を見ると、老犬が鼻を足に押し付けている姿が目に入った。
「ほら、大将だって判ってる」
 心愛はそう言って、残りのビスケットが入った皿を誠の方にそっと押しやる。
「犬も人間も同じだよ。自分にとって見返りがデカい相手だと分かればさ、幾らでも愛想を良くして擦り寄るモノだからね」
 この2日で見た笑い方とは違い、口端を軽く上げて笑う心愛は少女のようだった。歳上だと分かってはいるも、思わず可愛らしいという思いを抱く。だが誠の目には、何故か彼女の可愛さは歪でちぐはぐなものとして映るだけだった。