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第四編 とある日のこと

ー/ー



 道端にしゃがみ込んだまま、少女は海を見ていた。
 上等そうな服を身にまとった、年端もいかないその少女は。
 防波堤の向こうからくる帆船を見つめるたび、不機嫌そうに頬を膨らませた。

 深い青の海からは、冷たい風が吹いていて。
 漁船たちは港に停まるなり、大急ぎで荷を下ろす。
 ちぎれたようなわた雲が、大きな影を港に作り出し。
 少女がしばらく、じっと海を見つめていると。
 はるか向こうから、真っ黒な船が寄ってくる。

 いくつも張られたマストには、盾の紋章が描かれていて。
 少女はそれを見やるなり立ち上がると。
「アーリシャだ!」と頬に両手を当てた。

 石造りの階段を跳ね下りると。
 そのまま港へ駆けていき。
 そして、黒い船へと向かって。
 少女は降りてきた人影を見てすぐ、それに飛びついた。

「お父様!」

 と言いながら、抱きついたその相手は。
 ファーの付いた、暗い赤のコートを着た男で。
 彼は少女の背に手を回すと、やれやれという顔をしていた。

「ずいぶん冷たいな。いつから待ってたんだ?」
 背中をさすられながら少女が。
「さっきからだよ」と言うと。
「……さては朝からだな?」と返して。
 それに対して少女は、少しの沈黙で答える。

 男はそれに呆れながらも、しばらく真上からの太陽に照らされていたが。
 やがて少女が顔を上げ、「あ、そうだ」と言って続けた。
「おかえりなさい!」を聞くと。
「ああ、ただいま」とついつい顔をほころばせてしまった。

 少女と父はが再会したのは、おおよそ一ヶ月ぶり。
 父が仕事の都合で各地を巡るのはよくあることであったが。
 それでも、やはり再会というのは嬉しいものだった。

 父が少女の頭を撫でると、ふわりと亜麻色の髪が揺れ。
 それから二人はしばらく、取り止めのない話を続けて。

「お母様が蜘蛛を見つけて、大騒ぎしたの」とか。
「今回はラトアイアって人に会いに行ったんだ」とか。
 そんなふうな話が盛り上がってきた頃に。
 ふと父は視線の先を少女から空へと変えて、そして背後を向いたあとで。
「そろそろ父さんも仕事があるから、続きは晩な?」なんてことを言った。

 少女は父の背後からぞろぞろ出てきた人たちに目を向けると。
「あっ、ごめんなさい」と口元を手で覆い。
 それから深く頭を下げて、父に手を振ると。
 そのまま港から駆け出していった。

「お父様、早く帰ってきてね!」
「こらっ! 前見ろ前‼︎」
 なんてやり取りを大声でしながら。

 父は背後へ振り向くと、苦笑いをしてから。
「すまん、待たせたな」とか腰を叩きながら上体を伸ばすと。
「かわいい娘さんですね」と笑う仕事仲間を。
「お前にはやらんぞ?」とひじで小突いた。

 * * * * *

 少女は石畳の路地を、迷わず進んでいき。
 やがて大通りから少し離れた場所の、ある店にたどり着く。

 それはここフィナリアではよくある、屋根がピンととんがったログハウスだったが。
 扉を開けると、その内装にはたくさんの引き出しが付いた棚があり。
 その一つ一つに、『咳止め』や『解熱剤』のような用途が書かれている。
 それらの棚に挟まれた、一本の通路の先にはカウンターがあり。
 その向こう側にいる人影は、少女はひと目見るなり。
「ああ、よく来たねぇ」と微笑んだ。

「昨日の続き、聴きに来たの」
 少女が扉を閉じながらに言うと、人影はうんうんとうなずきながら。
「じゃあ、奥にお上がり」なんて、手で少女を促していて。

「おばあちゃんはおやつ持ってくるからね」
 という声が、少女の横を抜けていくと。
 少女はカウンターの奥の部屋を見渡してから。
「相変わらず変な家だなぁ……」と思わずこぼした。

 草を編んで作ったらしい床は、『タタミ』というそうで。
 少女が靴を脱ぎながら、それをポンポンと叩くと。
 微かな弾力が手のひらに返ってくる。
 部屋を取り囲む壁こそ、少女の自宅とそっくりだが。
 開いた窓には、ピッタリと紙が張られていた。
 こういう変な様相は、祖母本人いわく『故郷の様式』とのことで。
 妙にせせこましい間取りでこそあったが、少女はこの家が少し気に入っていた。

「クッキーでよかったかい?」と。
 お盆に木皿と木のコップを乗せて、祖母が入ってくると。
 少女は「うん」とうなずきながら、そのお盆を受け取って。
 近くにあった丸くて背の低いテーブルに置いた。

 祖母は綺麗な所作で床に座ると、懐から手帳のようなものを出し。
 そしてそれを「どこまで話したかねぇ」と言いながらペラペラとめくり。
「ほら、あれだよ。崖の街のやつ」
「ああ、ドーミスかい。じゃあ次は——」
 なんて言葉を交わす傍ら、少女が床にぺたんと座り込むと、祖母はのんびりと語りだす。

 それはかつて旅人だったらしい祖母の経験談だそうで。
 少女はその話を聴くのが、最近のマイブームだった。

 祖母の話は、たいていどこか別の地方で出会った人の話で。
 そのほとんどがぶつ切りとしか言いようのない終わりかただったり。
 あるいは、不自然なほどのハッピーエンドだったり。
 本にしたら間違いなく苦情を受けるような内容だったが、少女にはそれが苦ではなかった。

 その話には実感が伴っていて、そのおかげで少女はしばしの間空想の旅ができるからだ。
 時には温かく、時には淡々と。
 祖母が語る過去の話に。
 毎回少女は耳を傾けていき。

「はい、ここで今日はおしまいね」

 という言葉を合図に、現実に引き戻されると。
 少女は食べ損ねていたシナモンのクッキーをかじりながら。
 すっかり冷めてしまった、緑色の変なお茶をすする。
 そして内心「クッキー多いな……」と思うところまで、もはやお決まりと化していた。

 ゴリゴリとクッキーを頬張りつつ、少女はしばらく考え込んでいて。
 話の余韻が冷めてくる頃になると、ふいに気になることができたので。
 少女はなんとなく、それを尋ねてみる。

「お祖母様はさ、いつから薬師やってるの?」
「十八のときにはやってたねぇ」

 どうやらそろそろ店じまいらしく、祖母は何かの作業を始めていて。
 祖母は店の引き出しを開けては、カウンターに戻り、何かを紙に書き留めて。
 店内をあわただしく歩き回ったあと、今度はカウンターの裏を漁る。
 少女はそんな様子を視界の端に捉えながら、足を崩す。

「じゃあさ、なんで薬師になったの?」
 ずっと旅してても楽しそうなのに。

 少女はクッキーを見つめて。
 自分のお腹をさすると。
 少し、苦々しい顔をしたが。
 そんな様子は見えていないようで。
 祖母はしばらく、あごに指を当てると。
「話しても面白い話じゃないよ?」なんて言っていて。

「気になってるだけだから、それでいいよ」と少女が返したら。
 片付けを一旦止めた祖母は、少女の隣に座って。
 どこか遠い目をしながらに、語り始めた。

「おばあちゃんはね、昔すごく後悔したことがあるのよ」
 全部イヤになって、もう何もしたくないくらいの後悔をね。
 それでそんな感じだと、いつからか自分ができない子に思えてくるの。
 だから、少しでもできることが欲しくて、薬師になったんだよ。

 祖母はそんな話をすると、また立ち上がって。
「難しい話だからねぇ」なんて、頬を掻いていた。

 少女は自身がきょとんとした顔だったことに気づいて、顔を手で覆うと。
「な、なるほど。ありがとう……」と残り少ないお茶を飲む。
 少女はしばらくの間、コップを傾けながら考え込んでいたが。
 祖母の忙しそうな様子を見て、立ち上がると。
「私そろそろ帰るね」と言いながら、盆を台所に戻して。
「またおいでよ」と返す祖母に、少女やんわり微笑んだ。

 扉を開けて外に出ると、空に橙のグラデーションができていて。
 少女は祖母のほうを振り返ると、手を振りながらも。
「結局、薬師である必要なくない?」という素朴な疑問や。
 ほんの少しの飲み込めなさが、頭を駆け巡っていた。

 * * * * *

 日が落ちてからしばらくして。
 男はのんびりと、夜の路地を進んでいく。
 やがて目に入った二階建ての一軒家へ歩み寄ると。
 ふいに、「立場に沿った暮らしをしてください。示しがつきません」なんて。
 以前部下からの叱責を受けたことを思い出す。

 そして男が扉の前で、ズボンのポケットをゴソゴソと漁っているうちに。
 勝手に玄関扉が開いて、娘が顔を出してきた。

「おかえりなさい! お昼ぶり‼︎」

「ただいま……でも開けるのは関心しないな」
「だって今日トナカイなんだよ?」
「わかったわかった。明日からは六歳なんだから、もうやめるんだぞ?」

 そんな娘との会話を、玄関先でしていると。
 奥から男の妻までひょっこり出てきて。
「おかえりなさい。晩御飯ちょうどできてますよ」
 と言って、そのまましたり顔をしながら。
「計算ピッタリだったね」なんて娘とハイタッチしていた。

 男が家に入ると、妻の言う通りテーブルには木のカトラリーが置かれており。
 土の鍋からもうもうと湯気が出ているあたり、あとは盛りつけるだけのようだった。

 娘も妻もテキパキとした動きで、台所とテーブルを行き来して。
 それを見るなり男も、コートをさっさとハンガーにかけると。
 そのまま袖をまくるが、娘にテーブルへ追いやられた。

 やがて皿の上に煮込まれたトナカイ肉とマジョラムの葉。
 マッシュポテト、肉にかけるコケモモのソースが配置されていくと。
 三人は胸の前で指を組んだあと、各々のタイミングで料理に手をつける。

「こら、マジョラム避けないの」
「バレた……っ」
 なんて会話をする娘たちを眺めながら。

 男はふと、「やっぱりフィナリアはいいな」と思う。
 今後、ここのように胸を張って故郷と呼べる場所はないと思えたし。
 娘にとっても、この地やこの家庭がそうであってほしいと思える気がした。

 男はトナカイの肉にフォークを刺し、それを口に放り込んで。
 味わい飲み込んだあとに、その余韻をはちみつ酒で流す。

「ふぃーっ」と洩らしながら、幸せの熱を胸に感じると。
 その帳尻を合わせるかのように、心配事がじわじわと湧いてきた。

 それは彼がトップを務める、『パルメ商会』のことで。
 六年前の方針転換以降、業績が急激に悪化しており。
 ついには取引そのものを打ち切る相手まで出てきた。

 各地にある支部も、多くの解雇者を出していて。
 今は本部にこそ影響を与えていないが、枝葉が腐ればそれが幹に届くのは時間の問題だ。
 たとえ今が幸せだとしても、それが続くかは……

 そんなことを考えていると、男の手は止まっていて。
 やがてそれに覆いかぶせるように、やわらかな手が乗ってくると。

「今は、お仕事のことはいいんじゃない?」
 という妻の声が聞こえ、男はハッとした。
 テーブルの向こう側にいる娘へ、その視線を向けてみると。
 娘はもちゃもちゃとマッシュポテトを頬張っていて。

「そうだな……」
 と妻に男は返すと、また料理に手をつける。

 深刻な問題でこそあるが、今日と明日だけは、見ないフリをして幸せに酔っていよう。
 男は深呼吸をすると、無理矢理自分を丸め込み、そう決心をした。
 ——明日は、娘の誕生日だから。と自分に言い聞かせて。

 * * * * *

 次の日の朝になると、少女は家中を飛び跳ねていた。
「ほんとに貰っていいの⁉︎」なんて騒ぎながらだ。

 手の中のプレゼントを、窓越しの朝日で照らして。
 そして嬉しそうに笑いながら左右に揺れる。
 少女の手に握られていたのは、母がいつも着けていたペンダントだった。

 星のマークを描くように、真っ白な五枚の花びらが広がって。
 その中央には、小ぶりな真珠がはめられている。
 石を削って作った割には、まるで生きた花のようなそれは。
 モチーフは母の故郷に咲く『白桜(しろざくら)』という花らしかった。

 少女は感嘆の声を洩らしながらそれを見つめ。
 母はペンダントをひょいとつまむと、紐の長さを調節して、少女の首に着けてやり。
 そんな母の行動に、ますます少女は上機嫌そうだった。

「そんなに気に入ったの?」と首をかしげる母に。
「もともと好きな花だもん」と少女が微笑むと。

 そんな話を聞いていたのか、父はコートを着ながらリビングに入るなり。
「じゃあ観に行くか? 本物」なんて言っていて。

「いいの……?」
「ああ、約束してもいいぞ?」という言葉を交わすうちに。
「いつ行く⁉︎」と身を乗り出していた少女へ。
「大人になったら」と父は返した。

「長いよ!」と少女が頬を膨らませると。
 母は少女の肩に手を置きながら。
「真面目にやってたらすぐよ」
 なんて言って、父のほうを見ていて。

 父は母に対して、何かを目線で伝えると。
「まっ、将来のお楽しみってことさ」
 とか言いながら玄関のほうへ向かっていき、扉の音がする。

 少女はしばらく母の顔を見上げると、やがて母と目が合い。
「どうしたの?」なんて首をかしげる母に、少女は微笑んで。
「お祖母様に見せてくる」と言って、そのまま玄関へ向かった。

 玄関扉を開けると視界が一瞬白んで、それは陽光に照らされた小道へと変わる。
「行ってきます」と言いながら、少女は玄関の戸締まりをして。
 それからのんびりと、路地を歩いて進んでいき。

「お仕事の邪魔しちゃダメよ?」という背後からの声に。
 少女は振り返らずに「はーい」と答えると。
 そのまま路地へ、駆けていった。

 * * * * *

 ——駆けていったのはいいのだが。

 どうやら祖母の薬屋には客が来ていたようで。
 少女は扉を開けてすぐ、謝りながら戸を閉めて。
 割とすぐにすることもなく街をうろついくはめになっていた。

 フィナリアの街はいつも通りで、通りでは婦人たちが世間話をしていたり。
 年上の子どもたちが石を蹴って遊んだりしていて。
 そんな様子を眺めながら、少女は手帳を開いて。
 ポーチから小さなインク瓶を出すと、それを置きながら。
「誕生日なのに……」とこぼした。

 ガラスペンにインクを付け。
 正面の民家を観察し始めた少女だったが、それを始めてわりとすぐに。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど……いいかな?」という声が上からして。
 少女が声のほうを見上げると、もじゃもじゃとした黒髪の男が立っていた。

「カーヴェス・パルメっていう人がどこにいるかわかる?」
 なんて、逆光をまとったその人は言っていて。
 少女は内心「なんで子どもに訊くの?」と思いながらも、それにうなずく。
 彼の言った名前は、他でもない父のものだった。

「今なら多分、本部ですねぇ」
 と言いながら、少女はすっくと立ち上がると。
「付いてきてください」
 とか言いつつ少女は道を進んでいき。
 男はそれを追うように、後ろから付いていく。

 道案内がてら彼と話しているうちに。
 どうやら男が父の商会で働いていることと。
 彼がフィナリア外の人であることがなんとなくわかった。
 大きな茶封筒を持った彼は、少女に対して何かを言おうとしていたが。
 そのたびに考え込んでいて、そうこうしているうちに二人は目的地に着いていた。

 このあたりでは珍しい、レンガ造りの大きな建物を少女は指さして。
「あそこが商会の本部なんですけど……」
 あの様子だと夕方までかかりますよ? と、男のほうへ首を向ける。

 窓から見える範囲だけでも、本部に人が詰まっていて。
 受付の女性も、少々イラついているように見えた。

「ええ、困ったなぁ……すぐに済ませたいのに」
 男は持っていた大きな茶封筒に目線を向けると。
 しばらく頭をかかえていたが、一度ため息をついたあと。
「とりあえず、ここで待ってみるよ。ありがとう」と少女に手を振るので。

「また困ったら言ってくださいね」
 なんて心配しながらも少女は言って、そのまま街をまた駆けるが。
 しばらく路地を真っ直ぐ進んで、角を曲がるまで。
 どことなく、視線を感じるような気がした。

 * * * * *

 夕方になって。
 少女の父カーヴェスは、早足になりながら、路地を歩いていた。

 左右が建物に挟まれた、そんな細い路地を進んでいると。
 道の先ではいつもの赤い太陽が、ギラギラと空を橙に染めて。
 それの作った濃い影が、カーヴェスの背後に伸びていく。

 陽の当たらない路地の裏は先も見えないほどに黒く染まり。
 カーヴェスは眩しさに目を細めながら、いつもと違う風景に気づいた。

 それは太陽を背にした、人影の存在で。
 逆光のせいで、黒をまとったようなその影は、どうやら知らない男のようで。
 何か紙のようなものをひらひらとさせながら、カーヴェスのほうへ歩いてくる。

「カーヴェス・パルメさん」
 いや、商会長と呼んだほうがよろしいですか?

 軽薄そうなその声に、カーヴェスは内心、不信感をいだいていたが。
 それを無視するかのように、スタスタと音を立てながら、影は真っ直ぐ寄ってきて。
 右手を背に回しながら、左手の大きな茶封筒をカーヴェスの前で揺らした。

「悪いが、早く帰るって娘と約束してるんだ」

 カーヴェスはそう言って避けようとするが、男は行く手を阻んで。
「まあまあそう言わずに」とにこやかに笑った。

「ぜひお耳に入れたいことが……」
 もじゃもじゃとした軽いパーマ頭。
 そんな容貌をした男は、カーヴェスの脇腹に封筒を当て。
 その封筒の厚みから、カーヴェスは中身は一、二枚ほどだと察する。

「悪いが謀略には乗らん主義だ」

 二人が目と鼻の先の距離でしばらく見つめ合っていると。
 ふいに、強い衝撃がカーヴェスに伝ってきて。

「謀ってなどおりませんよ……」

 カーヴェスがゆっくりと。
 自分の、脇腹を見下ろすと。

 封筒越しに伸びる、刃物のようなものが赤く染まっていた。

 服にシミが広がって、傷の熱量が増すごとに。
 頭の奥のほうから、冷えるような感覚がして。
「お前……っ」と言い切る間もなく。
 カーヴェスはひざから崩れ落ち。
 必死に立とうと手を動かすが、それも空を掻いた。

 男は真っ赤に染まった封筒から、ゆっくり中身を取り出すと。
「あんたに恨みはないが、商会にはあるんだ」
 こんなことなら、ずっと武器を売ればよかったんだ。
 なんて震え混じりの声で言って、それから出した紙を投げる。

 どんどんぼやけ、暗くなっていく視界の中で。
 体裁からそれが解雇通知であると理解して。
 カーヴェスはそれが単なる理不尽ではなく、ある種の因果応報であることを察した。

 咳き込みながら、どんどん身体が重くなり。
 やがて地面の感触すら、感じられなくなる頃に。
 石畳を行く足音が、どんどん遠ざかっていき。
 カーヴェスは心だけで、悔しさに震える。

 なんで自分なんだ。
 なんで、今日なんだ。
 なんで……今、やるんだ。

 だんだんと、急速に、意識が散っていく中で。
 せめて男の行く先が家族のもとでないことを、カーヴェスはただ祈った。

 * * * * *

 すっかり日が落ちてしまったあとのこと。
 少女は自室に連れられながら、頬を膨らませていた。

「ほら、いい子だからもう寝よう?」なんて母はなだめるが。
「結局今年も仕事なんじゃない」とますます不機嫌になる少女。

 ネグリジェの中で揺れるペンダントをギュッと握ると。
「それに、お母様もなんか隠してるし……」と呟いて。
 母はその言葉に、思わず目を背けた。

 晩御飯の時間あたりに、急な来客があって。
 その応対をしてから、母は挙動不審になっていた。
 握られた母の手のひらに、じんわりと汗が滲んで。
「ねえ、何があったの?」と尋ねる少女に。
「明日、明日言うから……」
 今日だけは、言えないのよ。
 なんて母は返すと、少女をベッドへ引っ張る。

 その様子の深刻さを、なんとなく察して。
「絶対……約束だからね」とうなずきながら。
 少女がベッドの上へ這い上がり、そのまま寝そべると。

 ——カチャリ、と玄関から音がした。

「……っ⁉︎」
「お父様じゃない?」

 母は息を荒くしながらも。
 見開いた目をギュッと閉じると。
「いいと言うまでベッドの下へ」と毅然とした声で言い出して。

 少女はその雰囲気から、何も言わずに従う。
 ベッドの下で少女がうずくまり、どこもベッドから飛び出していないことを確認すると。
 母はそのまま、カンテラを持って、部屋の入り口へ向かい始める。

 塗りつぶしたような真っ暗闇に、ぼうっと光が浮かんで。
 トン、トン……と、母の足音だけが響いた。

 やがて扉の向こうからも、重い足音が聞こえて。
 母が深呼吸をしてから、扉を一気に開くと。
 次の瞬間、母はうめき声を上げて倒れた。

 廊下には人影が一つあり、手元の何かの持ちかたを変えると。
 すぐに、倒れた母へ腕を振り下ろし。
 朱色が照らされた床に散った。

 抵抗しようとした母の手に。
 影の持っていたものが刺さり。
 大きな細い穴が母の手に開いた。

 母はその場にうずくまり、影がゆっくり立ち上がると。
 その視線は、少女の部屋の中へ向く。
 少女は止まらない震えと汗を。
 どんどん乱れていく息を。
 必死に抑えようと、恐怖を振り切ろうとするが。
 影は部屋をじっと見つめていて。

 見つからないように、息を押し込むように。
 少女は震えながらも、口元にゆっくり手を当てると。

 ——ペンダントが落ちて、コトッと鳴った。

 影も少女も、一瞬すべての動きを止め。
 少女がゆっくり、ベッドの外へ目を向けると。
 影の視線は、ベッドの下に向いていた。

 少女は目の前が真っ暗になるような、そんな感覚の中で。
 どんどん近づいてくる影を、ぼんやりと見つめていると。

 その歩いてくる影の、足へ母が縋りついた。

 影はすぐに転倒して、バタンと床が振動して。
「逃げて! 早く‼︎」と叫ぶ母の。
 顔に影の蹴りが当たり。
 バキッという音とともに、軽い何かが床に落ちた。

 何度も何度も、蹴られていたが。
 母は力を弱めずに。
 握られた手に血が滲んでいた。

「逃げるってどこに……?」

 少女はあたりを見渡すが。
 出入り口は他でもない影に塞がれていて。

 どんどん焦りだけが募っていく少女が、震えながらにベッドから手を出すと。
 やがて入り口の二人を、無数の明かりが照らした。

 玄関のほうからドタバタと、たくさんの足音を立てながら。
 剣や棒を持った人たちが大勢廊下に集まってきて。
 男がそのまま、わめきながらに取り押さえられると。

 やって来た人たちはやがて少女に気づき。
「自警団の者だ。大丈夫だったかい?」と手を伸ばすが。
 少女はそれを振り払って、這いながら母のほうへ向かった。

「これはもう……」
「気の毒に……」
「薬師を早く!」
「でもクロエさんはこの人の——」

 口々に話す自警たちをかき分けて、少女が母の顔に触れると。
「シ……ヴィ……カ?」と微かに声を出し。

「そうだよ、お母様! しっかりして‼︎」
 と叫びながら少女は母と目を合わせる。

 母の胸や腹あたりから、朱色の血が漏れていて。
 腫れた顔をした母は、少女の顔をしばらく、焦点の合わない目で見つめると。
 弱々しい手で少女の頬を撫でて、それから。

 ふぅ……っと、息を吐いて。
 動かなくなった。

 少女は母の手を握るが、どんどんぬるくなっていて。
 何度も母に声をかける少女の背に、自警の一人が手を置いて。
 母のまぶたをそっと、手で閉じてやると。
 やがて少女は静かに、嗚咽を洩らした。

 * * * * *

 ——凄惨な事件から数ヶ月。
 祖母の家に引き取られた少女は、ずっと部屋で塞ぎ込んでいた。

 祖母の気づかいによるものか、家具の隙間は毛布で埋められていて。
 そんな静かな部屋の中で、少女は敷布団の上に座り込む。

 最近はようやく、泣くのも夜だけになって。
 一日一食は吐かずに食べられるようになったところだが。
 その思考はいまだに、じわじわ湧いてくる暗い感情を流せずにいた。

 あのとき私がペンダントを落とさなければ。
 あのとき私が素直に寝ていれば。
 あの日が誕生日じゃなければ。
 私が生まれていなければ。

 たとえ意味のないタラレバでも。
 ただ理不尽に、理由が欲しかった。
 ただ誰かに、『かわいそうな子』ではなく『罰される子』として扱ってほしかった。

 そんなことを考えながら、しばらくぼうっとしていると。
 コンコン……と優しく扉がノックされ、祖母が扉をゆっくり開ける。

「今日のご飯は何がいいかねぇ?」
 なんて、祖母は優しく言っていて。
 少女はそれを、ぼんやりと見つめる。

 そして祖母のほうもしばらく少女のことを眺めると。
「それより、まずお風呂入ろうか」
 なんて、少女のほうへ歩むと手を取り。
 少女を部屋の外へ優しく引っ張る。

 少女はぼんやりとなすがままに引かれ。
 廊下をフラつきながら歩いていき。
 祖母をその様子を見つめながら。
 店のほうへと進んでいく。
 そしてカウンターの後ろを通るときに。

 店の入り口をノックする音がして。
 カランコロンと鳴るベルとともに、その扉が開くと。
「クロエさん、派手に切っちまって……っ」
 なんて言いながら屈強な男が入ってきて。
 少女はその腕を見るなり、その場にへたりと座り込んだ。

 男のその腕は、どこかで切ってしまったのか。
 ほんの少しずつだが、赤い血が垂れていて。
 少女はそれを、ひと目見ただけで。
 周りが激しく揺れるような。
 自分が崩れるような。
 意味もなく不安になるような。
 そんな感覚がどんどん押し寄せてきて。

「あっ……う……あぁ……っ」
 と頭をかかえ、身をよじる。
 息を吸っても吸っても。
 まるで空気が足りないみたいで。

 その様子に気がついた祖母が駆け寄ると。
 少女は声にならない声を上げながら、その場にうずくまっていた。
 ぼろぼろと涙がこぼれてきて、息苦しさにもがくと。
 祖母は優しく、少女を抱きしめて。

「大丈夫。大丈夫だよ」
 おばあちゃんここにいるからね。
 ここはちゃんと安全だからね。
 外もまだ明るいよ。

 泣きながら暴れる少女を。
 祖母はより強く抱きしめると。
「もう大丈夫。大丈夫だからねぇ」
 なんて、少女の背を優しくトントンと叩いて。

 しばらく、しばらくずっと。
 それを続けているうちに。

 やがて少女は落ち着いて。
 嗚咽を洩らす程度にまで収まった。

「お客さんごめんねぇ、ちょっとこの子寝かせてくるから」
 と言いながら少女を連れて、祖母はまた廊下を戻り。
 やがて少女の部屋に、少女自身を座らせると。
「ごめんね。びっくりしたよね」
 なんて言いながら少女を撫でて。

「お風呂はあとで入ろうかね」
 と店のほうへ戻っていった。

 祖母の、のっそりとした足音が、どんどん小さくなっていき。
 やがて廊下のはるか奥へと、消えていく頃になると。
 少女はしばらくうつむいてから、ぼんやりと部屋を見渡して。

 自然と、部屋の端にあるタンスへと、ゆっくり歩いていた。

 なんとなく、本当になんとなくだったが。
 少女は祖母と自分が似ている気がして。
 さっきの抱擁だとか、自分に湧いてくる黒いものとか。
 そういうものすら、全部ぐちゃぐちゃになりそうな頭の中で。

『少しでもできることが欲しくて、薬師になったんだよ』という。

 以前祖母の言っていたことが、はっきりと響いていた。

 タンスの上から二番目。
 小物入れ用の小さな引き出し。
 そこを少女が、ためらいながらに引っ張ると。
 小さな木箱がそこには入っていて、箱を開けると。

 母のペンダントが、優しく輝いていた。

 少女はそれを手に取って。
 ぎこちない手つきで着けると。
 廊下へ倒れ込むようにしながら部屋を出て。
 客の応対が終わるのを、ただ待った。

 やがて祖母の「お大事にね」という言葉が聞こえると。
 少女は壁伝いに歩いて、祖母に背後から声をかける。
 祖母は少女に視線を向けるなり、ひどく驚いた様子で。
 見開かれたその目は、少女の胸元に向けられた。

「お祖母様、は、その、できることが欲しくて、薬師になったんだよね?」
 うつむきながらそう言う少女に、祖母は優しくうなずくと。

「私にも、できる、かな……?」という言葉に。
「やってみるかい?」と微笑んだ。

「うん!」
 と、少女は返して。
 そのまま祖母と一緒に作業場へ向かうと。
 道具の持ちかたから、匂いの嗅ぎかた。
 薬草の種類や効能、薬の作りかた。
 そして、祖母が今も薬師を続けている理由まで。

 一つ一つ、少しずつ。
 理由のその底まで。
 少女は飲み込んでいった。

 * * * * *

 ——そして、十年経って。
 少女は誕生日の翌朝に、すでに港へ向かっていた。

 パルメ商会の保有するキャラック船『アーリシャ』が。
 港の中央に鎮座して、少女と祖母を見下ろす。

 真っ白なマントを羽織って、大きなカバンを肩にかけている。
 そんな格好の少女を、祖母はじっと見つめると。
「本当に行くのかい?」と首をかしげた。

 少女は「うん」とうなずくと。
 アーリシャのほうを向きながら。

「私やっぱり、生き残った理由が欲しいの」
 ……二人との約束が、きっとそうだって思いたいんだ。

 そう、言葉をこぼして。
 それから祖母へ向き直すと、彼女は優しく微笑んでいて。

「やっぱり血筋だねぇ」
 だなんて身体を震わせていた。

 そうしてしばらく、二人は見つめ合うと。
「行ってきます」と少女は、祖母の頬にキスをして。
 祖母は少女を抱きしめてから「うん、行ってらっしゃい」と返す。

 少女は祖母に手を振りながら、船のほうへ駆けていき。
「もう、前を見なさいな」と呆れながらに祖母は声をかける。

 やがて少女は船に乗り、しばらくしてから。
 アーリシャの側面から、無数のオールが飛び出してきて。
 ゆっくりと、その船体が動き始めた。

 船室の中の窓から、手を振る祖母を見つけると。
 少女は「……お祖母様、ありがとう」と呟き。
 祖母が見えなくなるまで、窓を見つめる。

 無限と思えるほどの青の中。
 そのキャラックは帆を張って。
 真っ白なわた雲は空を滑り。
 海に移し身を浮かべている。

 そんな、ありふれたとある日にて。
 昇っていく太陽を背にしながら。
 少女シルヴィカの旅は、密かに始まった。


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みんなのリアクション



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 道端にしゃがみ込んだまま、少女は海を見ていた。
 上等そうな服を身にまとった、年端もいかないその少女は。
 防波堤の向こうからくる帆船を見つめるたび、不機嫌そうに頬を膨らませた。
 深い青の海からは、冷たい風が吹いていて。
 漁船たちは港に停まるなり、大急ぎで荷を下ろす。
 ちぎれたようなわた雲が、大きな影を港に作り出し。
 少女がしばらく、じっと海を見つめていると。
 はるか向こうから、真っ黒な船が寄ってくる。
 いくつも張られたマストには、盾の紋章が描かれていて。
 少女はそれを見やるなり立ち上がると。
「アーリシャだ!」と頬に両手を当てた。
 石造りの階段を跳ね下りると。
 そのまま港へ駆けていき。
 そして、黒い船へと向かって。
 少女は降りてきた人影を見てすぐ、それに飛びついた。
「お父様!」
 と言いながら、抱きついたその相手は。
 ファーの付いた、暗い赤のコートを着た男で。
 彼は少女の背に手を回すと、やれやれという顔をしていた。
「ずいぶん冷たいな。いつから待ってたんだ?」
 背中をさすられながら少女が。
「さっきからだよ」と言うと。
「……さては朝からだな?」と返して。
 それに対して少女は、少しの沈黙で答える。
 男はそれに呆れながらも、しばらく真上からの太陽に照らされていたが。
 やがて少女が顔を上げ、「あ、そうだ」と言って続けた。
「おかえりなさい!」を聞くと。
「ああ、ただいま」とついつい顔をほころばせてしまった。
 少女と父はが再会したのは、おおよそ一ヶ月ぶり。
 父が仕事の都合で各地を巡るのはよくあることであったが。
 それでも、やはり再会というのは嬉しいものだった。
 父が少女の頭を撫でると、ふわりと亜麻色の髪が揺れ。
 それから二人はしばらく、取り止めのない話を続けて。
「お母様が蜘蛛を見つけて、大騒ぎしたの」とか。
「今回はラトアイアって人に会いに行ったんだ」とか。
 そんなふうな話が盛り上がってきた頃に。
 ふと父は視線の先を少女から空へと変えて、そして背後を向いたあとで。
「そろそろ父さんも仕事があるから、続きは晩な?」なんてことを言った。
 少女は父の背後からぞろぞろ出てきた人たちに目を向けると。
「あっ、ごめんなさい」と口元を手で覆い。
 それから深く頭を下げて、父に手を振ると。
 そのまま港から駆け出していった。
「お父様、早く帰ってきてね!」
「こらっ! 前見ろ前‼︎」
 なんてやり取りを大声でしながら。
 父は背後へ振り向くと、苦笑いをしてから。
「すまん、待たせたな」とか腰を叩きながら上体を伸ばすと。
「かわいい娘さんですね」と笑う仕事仲間を。
「お前にはやらんぞ?」とひじで小突いた。
 * * * * *
 少女は石畳の路地を、迷わず進んでいき。
 やがて大通りから少し離れた場所の、ある店にたどり着く。
 それはここフィナリアではよくある、屋根がピンととんがったログハウスだったが。
 扉を開けると、その内装にはたくさんの引き出しが付いた棚があり。
 その一つ一つに、『咳止め』や『解熱剤』のような用途が書かれている。
 それらの棚に挟まれた、一本の通路の先にはカウンターがあり。
 その向こう側にいる人影は、少女はひと目見るなり。
「ああ、よく来たねぇ」と微笑んだ。
「昨日の続き、聴きに来たの」
 少女が扉を閉じながらに言うと、人影はうんうんとうなずきながら。
「じゃあ、奥にお上がり」なんて、手で少女を促していて。
「おばあちゃんはおやつ持ってくるからね」
 という声が、少女の横を抜けていくと。
 少女はカウンターの奥の部屋を見渡してから。
「相変わらず変な家だなぁ……」と思わずこぼした。
 草を編んで作ったらしい床は、『タタミ』というそうで。
 少女が靴を脱ぎながら、それをポンポンと叩くと。
 微かな弾力が手のひらに返ってくる。
 部屋を取り囲む壁こそ、少女の自宅とそっくりだが。
 開いた窓には、ピッタリと紙が張られていた。
 こういう変な様相は、祖母本人いわく『故郷の様式』とのことで。
 妙にせせこましい間取りでこそあったが、少女はこの家が少し気に入っていた。
「クッキーでよかったかい?」と。
 お盆に木皿と木のコップを乗せて、祖母が入ってくると。
 少女は「うん」とうなずきながら、そのお盆を受け取って。
 近くにあった丸くて背の低いテーブルに置いた。
 祖母は綺麗な所作で床に座ると、懐から手帳のようなものを出し。
 そしてそれを「どこまで話したかねぇ」と言いながらペラペラとめくり。
「ほら、あれだよ。崖の街のやつ」
「ああ、ドーミスかい。じゃあ次は——」
 なんて言葉を交わす傍ら、少女が床にぺたんと座り込むと、祖母はのんびりと語りだす。
 それはかつて旅人だったらしい祖母の経験談だそうで。
 少女はその話を聴くのが、最近のマイブームだった。
 祖母の話は、たいていどこか別の地方で出会った人の話で。
 そのほとんどがぶつ切りとしか言いようのない終わりかただったり。
 あるいは、不自然なほどのハッピーエンドだったり。
 本にしたら間違いなく苦情を受けるような内容だったが、少女にはそれが苦ではなかった。
 その話には実感が伴っていて、そのおかげで少女はしばしの間空想の旅ができるからだ。
 時には温かく、時には淡々と。
 祖母が語る過去の話に。
 毎回少女は耳を傾けていき。
「はい、ここで今日はおしまいね」
 という言葉を合図に、現実に引き戻されると。
 少女は食べ損ねていたシナモンのクッキーをかじりながら。
 すっかり冷めてしまった、緑色の変なお茶をすする。
 そして内心「クッキー多いな……」と思うところまで、もはやお決まりと化していた。
 ゴリゴリとクッキーを頬張りつつ、少女はしばらく考え込んでいて。
 話の余韻が冷めてくる頃になると、ふいに気になることができたので。
 少女はなんとなく、それを尋ねてみる。
「お祖母様はさ、いつから薬師やってるの?」
「十八のときにはやってたねぇ」
 どうやらそろそろ店じまいらしく、祖母は何かの作業を始めていて。
 祖母は店の引き出しを開けては、カウンターに戻り、何かを紙に書き留めて。
 店内をあわただしく歩き回ったあと、今度はカウンターの裏を漁る。
 少女はそんな様子を視界の端に捉えながら、足を崩す。
「じゃあさ、なんで薬師になったの?」
 ずっと旅してても楽しそうなのに。
 少女はクッキーを見つめて。
 自分のお腹をさすると。
 少し、苦々しい顔をしたが。
 そんな様子は見えていないようで。
 祖母はしばらく、あごに指を当てると。
「話しても面白い話じゃないよ?」なんて言っていて。
「気になってるだけだから、それでいいよ」と少女が返したら。
 片付けを一旦止めた祖母は、少女の隣に座って。
 どこか遠い目をしながらに、語り始めた。
「おばあちゃんはね、昔すごく後悔したことがあるのよ」
 全部イヤになって、もう何もしたくないくらいの後悔をね。
 それでそんな感じだと、いつからか自分ができない子に思えてくるの。
 だから、少しでもできることが欲しくて、薬師になったんだよ。
 祖母はそんな話をすると、また立ち上がって。
「難しい話だからねぇ」なんて、頬を掻いていた。
 少女は自身がきょとんとした顔だったことに気づいて、顔を手で覆うと。
「な、なるほど。ありがとう……」と残り少ないお茶を飲む。
 少女はしばらくの間、コップを傾けながら考え込んでいたが。
 祖母の忙しそうな様子を見て、立ち上がると。
「私そろそろ帰るね」と言いながら、盆を台所に戻して。
「またおいでよ」と返す祖母に、少女やんわり微笑んだ。
 扉を開けて外に出ると、空に橙のグラデーションができていて。
 少女は祖母のほうを振り返ると、手を振りながらも。
「結局、薬師である必要なくない?」という素朴な疑問や。
 ほんの少しの飲み込めなさが、頭を駆け巡っていた。
 * * * * *
 日が落ちてからしばらくして。
 男はのんびりと、夜の路地を進んでいく。
 やがて目に入った二階建ての一軒家へ歩み寄ると。
 ふいに、「立場に沿った暮らしをしてください。示しがつきません」なんて。
 以前部下からの叱責を受けたことを思い出す。
 そして男が扉の前で、ズボンのポケットをゴソゴソと漁っているうちに。
 勝手に玄関扉が開いて、娘が顔を出してきた。
「おかえりなさい! お昼ぶり‼︎」
「ただいま……でも開けるのは関心しないな」
「だって今日トナカイなんだよ?」
「わかったわかった。明日からは六歳なんだから、もうやめるんだぞ?」
 そんな娘との会話を、玄関先でしていると。
 奥から男の妻までひょっこり出てきて。
「おかえりなさい。晩御飯ちょうどできてますよ」
 と言って、そのまましたり顔をしながら。
「計算ピッタリだったね」なんて娘とハイタッチしていた。
 男が家に入ると、妻の言う通りテーブルには木のカトラリーが置かれており。
 土の鍋からもうもうと湯気が出ているあたり、あとは盛りつけるだけのようだった。
 娘も妻もテキパキとした動きで、台所とテーブルを行き来して。
 それを見るなり男も、コートをさっさとハンガーにかけると。
 そのまま袖をまくるが、娘にテーブルへ追いやられた。
 やがて皿の上に煮込まれたトナカイ肉とマジョラムの葉。
 マッシュポテト、肉にかけるコケモモのソースが配置されていくと。
 三人は胸の前で指を組んだあと、各々のタイミングで料理に手をつける。
「こら、マジョラム避けないの」
「バレた……っ」
 なんて会話をする娘たちを眺めながら。
 男はふと、「やっぱりフィナリアはいいな」と思う。
 今後、ここのように胸を張って故郷と呼べる場所はないと思えたし。
 娘にとっても、この地やこの家庭がそうであってほしいと思える気がした。
 男はトナカイの肉にフォークを刺し、それを口に放り込んで。
 味わい飲み込んだあとに、その余韻をはちみつ酒で流す。
「ふぃーっ」と洩らしながら、幸せの熱を胸に感じると。
 その帳尻を合わせるかのように、心配事がじわじわと湧いてきた。
 それは彼がトップを務める、『パルメ商会』のことで。
 六年前の方針転換以降、業績が急激に悪化しており。
 ついには取引そのものを打ち切る相手まで出てきた。
 各地にある支部も、多くの解雇者を出していて。
 今は本部にこそ影響を与えていないが、枝葉が腐ればそれが幹に届くのは時間の問題だ。
 たとえ今が幸せだとしても、それが続くかは……
 そんなことを考えていると、男の手は止まっていて。
 やがてそれに覆いかぶせるように、やわらかな手が乗ってくると。
「今は、お仕事のことはいいんじゃない?」
 という妻の声が聞こえ、男はハッとした。
 テーブルの向こう側にいる娘へ、その視線を向けてみると。
 娘はもちゃもちゃとマッシュポテトを頬張っていて。
「そうだな……」
 と妻に男は返すと、また料理に手をつける。
 深刻な問題でこそあるが、今日と明日だけは、見ないフリをして幸せに酔っていよう。
 男は深呼吸をすると、無理矢理自分を丸め込み、そう決心をした。
 ——明日は、娘の誕生日だから。と自分に言い聞かせて。
 * * * * *
 次の日の朝になると、少女は家中を飛び跳ねていた。
「ほんとに貰っていいの⁉︎」なんて騒ぎながらだ。
 手の中のプレゼントを、窓越しの朝日で照らして。
 そして嬉しそうに笑いながら左右に揺れる。
 少女の手に握られていたのは、母がいつも着けていたペンダントだった。
 星のマークを描くように、真っ白な五枚の花びらが広がって。
 その中央には、小ぶりな真珠がはめられている。
 石を削って作った割には、まるで生きた花のようなそれは。
 モチーフは母の故郷に咲く『|白桜《しろざくら》』という花らしかった。
 少女は感嘆の声を洩らしながらそれを見つめ。
 母はペンダントをひょいとつまむと、紐の長さを調節して、少女の首に着けてやり。
 そんな母の行動に、ますます少女は上機嫌そうだった。
「そんなに気に入ったの?」と首をかしげる母に。
「もともと好きな花だもん」と少女が微笑むと。
 そんな話を聞いていたのか、父はコートを着ながらリビングに入るなり。
「じゃあ観に行くか? 本物」なんて言っていて。
「いいの……?」
「ああ、約束してもいいぞ?」という言葉を交わすうちに。
「いつ行く⁉︎」と身を乗り出していた少女へ。
「大人になったら」と父は返した。
「長いよ!」と少女が頬を膨らませると。
 母は少女の肩に手を置きながら。
「真面目にやってたらすぐよ」
 なんて言って、父のほうを見ていて。
 父は母に対して、何かを目線で伝えると。
「まっ、将来のお楽しみってことさ」
 とか言いながら玄関のほうへ向かっていき、扉の音がする。
 少女はしばらく母の顔を見上げると、やがて母と目が合い。
「どうしたの?」なんて首をかしげる母に、少女は微笑んで。
「お祖母様に見せてくる」と言って、そのまま玄関へ向かった。
 玄関扉を開けると視界が一瞬白んで、それは陽光に照らされた小道へと変わる。
「行ってきます」と言いながら、少女は玄関の戸締まりをして。
 それからのんびりと、路地を歩いて進んでいき。
「お仕事の邪魔しちゃダメよ?」という背後からの声に。
 少女は振り返らずに「はーい」と答えると。
 そのまま路地へ、駆けていった。
 * * * * *
 ——駆けていったのはいいのだが。
 どうやら祖母の薬屋には客が来ていたようで。
 少女は扉を開けてすぐ、謝りながら戸を閉めて。
 割とすぐにすることもなく街をうろついくはめになっていた。
 フィナリアの街はいつも通りで、通りでは婦人たちが世間話をしていたり。
 年上の子どもたちが石を蹴って遊んだりしていて。
 そんな様子を眺めながら、少女は手帳を開いて。
 ポーチから小さなインク瓶を出すと、それを置きながら。
「誕生日なのに……」とこぼした。
 ガラスペンにインクを付け。
 正面の民家を観察し始めた少女だったが、それを始めてわりとすぐに。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど……いいかな?」という声が上からして。
 少女が声のほうを見上げると、もじゃもじゃとした黒髪の男が立っていた。
「カーヴェス・パルメっていう人がどこにいるかわかる?」
 なんて、逆光をまとったその人は言っていて。
 少女は内心「なんで子どもに訊くの?」と思いながらも、それにうなずく。
 彼の言った名前は、他でもない父のものだった。
「今なら多分、本部ですねぇ」
 と言いながら、少女はすっくと立ち上がると。
「付いてきてください」
 とか言いつつ少女は道を進んでいき。
 男はそれを追うように、後ろから付いていく。
 道案内がてら彼と話しているうちに。
 どうやら男が父の商会で働いていることと。
 彼がフィナリア外の人であることがなんとなくわかった。
 大きな茶封筒を持った彼は、少女に対して何かを言おうとしていたが。
 そのたびに考え込んでいて、そうこうしているうちに二人は目的地に着いていた。
 このあたりでは珍しい、レンガ造りの大きな建物を少女は指さして。
「あそこが商会の本部なんですけど……」
 あの様子だと夕方までかかりますよ? と、男のほうへ首を向ける。
 窓から見える範囲だけでも、本部に人が詰まっていて。
 受付の女性も、少々イラついているように見えた。
「ええ、困ったなぁ……すぐに済ませたいのに」
 男は持っていた大きな茶封筒に目線を向けると。
 しばらく頭をかかえていたが、一度ため息をついたあと。
「とりあえず、ここで待ってみるよ。ありがとう」と少女に手を振るので。
「また困ったら言ってくださいね」
 なんて心配しながらも少女は言って、そのまま街をまた駆けるが。
 しばらく路地を真っ直ぐ進んで、角を曲がるまで。
 どことなく、視線を感じるような気がした。
 * * * * *
 夕方になって。
 少女の父カーヴェスは、早足になりながら、路地を歩いていた。
 左右が建物に挟まれた、そんな細い路地を進んでいると。
 道の先ではいつもの赤い太陽が、ギラギラと空を橙に染めて。
 それの作った濃い影が、カーヴェスの背後に伸びていく。
 陽の当たらない路地の裏は先も見えないほどに黒く染まり。
 カーヴェスは眩しさに目を細めながら、いつもと違う風景に気づいた。
 それは太陽を背にした、人影の存在で。
 逆光のせいで、黒をまとったようなその影は、どうやら知らない男のようで。
 何か紙のようなものをひらひらとさせながら、カーヴェスのほうへ歩いてくる。
「カーヴェス・パルメさん」
 いや、商会長と呼んだほうがよろしいですか?
 軽薄そうなその声に、カーヴェスは内心、不信感をいだいていたが。
 それを無視するかのように、スタスタと音を立てながら、影は真っ直ぐ寄ってきて。
 右手を背に回しながら、左手の大きな茶封筒をカーヴェスの前で揺らした。
「悪いが、早く帰るって娘と約束してるんだ」
 カーヴェスはそう言って避けようとするが、男は行く手を阻んで。
「まあまあそう言わずに」とにこやかに笑った。
「ぜひお耳に入れたいことが……」
 もじゃもじゃとした軽いパーマ頭。
 そんな容貌をした男は、カーヴェスの脇腹に封筒を当て。
 その封筒の厚みから、カーヴェスは中身は一、二枚ほどだと察する。
「悪いが謀略には乗らん主義だ」
 二人が目と鼻の先の距離でしばらく見つめ合っていると。
 ふいに、強い衝撃がカーヴェスに伝ってきて。
「謀ってなどおりませんよ……」
 カーヴェスがゆっくりと。
 自分の、脇腹を見下ろすと。
 封筒越しに伸びる、刃物のようなものが赤く染まっていた。
 服にシミが広がって、傷の熱量が増すごとに。
 頭の奥のほうから、冷えるような感覚がして。
「お前……っ」と言い切る間もなく。
 カーヴェスはひざから崩れ落ち。
 必死に立とうと手を動かすが、それも空を掻いた。
 男は真っ赤に染まった封筒から、ゆっくり中身を取り出すと。
「あんたに恨みはないが、商会にはあるんだ」
 こんなことなら、ずっと武器を売ればよかったんだ。
 なんて震え混じりの声で言って、それから出した紙を投げる。
 どんどんぼやけ、暗くなっていく視界の中で。
 体裁からそれが解雇通知であると理解して。
 カーヴェスはそれが単なる理不尽ではなく、ある種の因果応報であることを察した。
 咳き込みながら、どんどん身体が重くなり。
 やがて地面の感触すら、感じられなくなる頃に。
 石畳を行く足音が、どんどん遠ざかっていき。
 カーヴェスは心だけで、悔しさに震える。
 なんで自分なんだ。
 なんで、今日なんだ。
 なんで……今、やるんだ。
 だんだんと、急速に、意識が散っていく中で。
 せめて男の行く先が家族のもとでないことを、カーヴェスはただ祈った。
 * * * * *
 すっかり日が落ちてしまったあとのこと。
 少女は自室に連れられながら、頬を膨らませていた。
「ほら、いい子だからもう寝よう?」なんて母はなだめるが。
「結局今年も仕事なんじゃない」とますます不機嫌になる少女。
 ネグリジェの中で揺れるペンダントをギュッと握ると。
「それに、お母様もなんか隠してるし……」と呟いて。
 母はその言葉に、思わず目を背けた。
 晩御飯の時間あたりに、急な来客があって。
 その応対をしてから、母は挙動不審になっていた。
 握られた母の手のひらに、じんわりと汗が滲んで。
「ねえ、何があったの?」と尋ねる少女に。
「明日、明日言うから……」
 今日だけは、言えないのよ。
 なんて母は返すと、少女をベッドへ引っ張る。
 その様子の深刻さを、なんとなく察して。
「絶対……約束だからね」とうなずきながら。
 少女がベッドの上へ這い上がり、そのまま寝そべると。
 ——カチャリ、と玄関から音がした。
「……っ⁉︎」
「お父様じゃない?」
 母は息を荒くしながらも。
 見開いた目をギュッと閉じると。
「いいと言うまでベッドの下へ」と毅然とした声で言い出して。
 少女はその雰囲気から、何も言わずに従う。
 ベッドの下で少女がうずくまり、どこもベッドから飛び出していないことを確認すると。
 母はそのまま、カンテラを持って、部屋の入り口へ向かい始める。
 塗りつぶしたような真っ暗闇に、ぼうっと光が浮かんで。
 トン、トン……と、母の足音だけが響いた。
 やがて扉の向こうからも、重い足音が聞こえて。
 母が深呼吸をしてから、扉を一気に開くと。
 次の瞬間、母はうめき声を上げて倒れた。
 廊下には人影が一つあり、手元の何かの持ちかたを変えると。
 すぐに、倒れた母へ腕を振り下ろし。
 朱色が照らされた床に散った。
 抵抗しようとした母の手に。
 影の持っていたものが刺さり。
 大きな細い穴が母の手に開いた。
 母はその場にうずくまり、影がゆっくり立ち上がると。
 その視線は、少女の部屋の中へ向く。
 少女は止まらない震えと汗を。
 どんどん乱れていく息を。
 必死に抑えようと、恐怖を振り切ろうとするが。
 影は部屋をじっと見つめていて。
 見つからないように、息を押し込むように。
 少女は震えながらも、口元にゆっくり手を当てると。
 ——ペンダントが落ちて、コトッと鳴った。
 影も少女も、一瞬すべての動きを止め。
 少女がゆっくり、ベッドの外へ目を向けると。
 影の視線は、ベッドの下に向いていた。
 少女は目の前が真っ暗になるような、そんな感覚の中で。
 どんどん近づいてくる影を、ぼんやりと見つめていると。
 その歩いてくる影の、足へ母が縋りついた。
 影はすぐに転倒して、バタンと床が振動して。
「逃げて! 早く‼︎」と叫ぶ母の。
 顔に影の蹴りが当たり。
 バキッという音とともに、軽い何かが床に落ちた。
 何度も何度も、蹴られていたが。
 母は力を弱めずに。
 握られた手に血が滲んでいた。
「逃げるってどこに……?」
 少女はあたりを見渡すが。
 出入り口は他でもない影に塞がれていて。
 どんどん焦りだけが募っていく少女が、震えながらにベッドから手を出すと。
 やがて入り口の二人を、無数の明かりが照らした。
 玄関のほうからドタバタと、たくさんの足音を立てながら。
 剣や棒を持った人たちが大勢廊下に集まってきて。
 男がそのまま、わめきながらに取り押さえられると。
 やって来た人たちはやがて少女に気づき。
「自警団の者だ。大丈夫だったかい?」と手を伸ばすが。
 少女はそれを振り払って、這いながら母のほうへ向かった。
「これはもう……」
「気の毒に……」
「薬師を早く!」
「でもクロエさんはこの人の——」
 口々に話す自警たちをかき分けて、少女が母の顔に触れると。
「シ……ヴィ……カ?」と微かに声を出し。
「そうだよ、お母様! しっかりして‼︎」
 と叫びながら少女は母と目を合わせる。
 母の胸や腹あたりから、朱色の血が漏れていて。
 腫れた顔をした母は、少女の顔をしばらく、焦点の合わない目で見つめると。
 弱々しい手で少女の頬を撫でて、それから。
 ふぅ……っと、息を吐いて。
 動かなくなった。
 少女は母の手を握るが、どんどんぬるくなっていて。
 何度も母に声をかける少女の背に、自警の一人が手を置いて。
 母のまぶたをそっと、手で閉じてやると。
 やがて少女は静かに、嗚咽を洩らした。
 * * * * *
 ——凄惨な事件から数ヶ月。
 祖母の家に引き取られた少女は、ずっと部屋で塞ぎ込んでいた。
 祖母の気づかいによるものか、家具の隙間は毛布で埋められていて。
 そんな静かな部屋の中で、少女は敷布団の上に座り込む。
 最近はようやく、泣くのも夜だけになって。
 一日一食は吐かずに食べられるようになったところだが。
 その思考はいまだに、じわじわ湧いてくる暗い感情を流せずにいた。
 あのとき私がペンダントを落とさなければ。
 あのとき私が素直に寝ていれば。
 あの日が誕生日じゃなければ。
 私が生まれていなければ。
 たとえ意味のないタラレバでも。
 ただ理不尽に、理由が欲しかった。
 ただ誰かに、『かわいそうな子』ではなく『罰される子』として扱ってほしかった。
 そんなことを考えながら、しばらくぼうっとしていると。
 コンコン……と優しく扉がノックされ、祖母が扉をゆっくり開ける。
「今日のご飯は何がいいかねぇ?」
 なんて、祖母は優しく言っていて。
 少女はそれを、ぼんやりと見つめる。
 そして祖母のほうもしばらく少女のことを眺めると。
「それより、まずお風呂入ろうか」
 なんて、少女のほうへ歩むと手を取り。
 少女を部屋の外へ優しく引っ張る。
 少女はぼんやりとなすがままに引かれ。
 廊下をフラつきながら歩いていき。
 祖母をその様子を見つめながら。
 店のほうへと進んでいく。
 そしてカウンターの後ろを通るときに。
 店の入り口をノックする音がして。
 カランコロンと鳴るベルとともに、その扉が開くと。
「クロエさん、派手に切っちまって……っ」
 なんて言いながら屈強な男が入ってきて。
 少女はその腕を見るなり、その場にへたりと座り込んだ。
 男のその腕は、どこかで切ってしまったのか。
 ほんの少しずつだが、赤い血が垂れていて。
 少女はそれを、ひと目見ただけで。
 周りが激しく揺れるような。
 自分が崩れるような。
 意味もなく不安になるような。
 そんな感覚がどんどん押し寄せてきて。
「あっ……う……あぁ……っ」
 と頭をかかえ、身をよじる。
 息を吸っても吸っても。
 まるで空気が足りないみたいで。
 その様子に気がついた祖母が駆け寄ると。
 少女は声にならない声を上げながら、その場にうずくまっていた。
 ぼろぼろと涙がこぼれてきて、息苦しさにもがくと。
 祖母は優しく、少女を抱きしめて。
「大丈夫。大丈夫だよ」
 おばあちゃんここにいるからね。
 ここはちゃんと安全だからね。
 外もまだ明るいよ。
 泣きながら暴れる少女を。
 祖母はより強く抱きしめると。
「もう大丈夫。大丈夫だからねぇ」
 なんて、少女の背を優しくトントンと叩いて。
 しばらく、しばらくずっと。
 それを続けているうちに。
 やがて少女は落ち着いて。
 嗚咽を洩らす程度にまで収まった。
「お客さんごめんねぇ、ちょっとこの子寝かせてくるから」
 と言いながら少女を連れて、祖母はまた廊下を戻り。
 やがて少女の部屋に、少女自身を座らせると。
「ごめんね。びっくりしたよね」
 なんて言いながら少女を撫でて。
「お風呂はあとで入ろうかね」
 と店のほうへ戻っていった。
 祖母の、のっそりとした足音が、どんどん小さくなっていき。
 やがて廊下のはるか奥へと、消えていく頃になると。
 少女はしばらくうつむいてから、ぼんやりと部屋を見渡して。
 自然と、部屋の端にあるタンスへと、ゆっくり歩いていた。
 なんとなく、本当になんとなくだったが。
 少女は祖母と自分が似ている気がして。
 さっきの抱擁だとか、自分に湧いてくる黒いものとか。
 そういうものすら、全部ぐちゃぐちゃになりそうな頭の中で。
『少しでもできることが欲しくて、薬師になったんだよ』という。
 以前祖母の言っていたことが、はっきりと響いていた。
 タンスの上から二番目。
 小物入れ用の小さな引き出し。
 そこを少女が、ためらいながらに引っ張ると。
 小さな木箱がそこには入っていて、箱を開けると。
 母のペンダントが、優しく輝いていた。
 少女はそれを手に取って。
 ぎこちない手つきで着けると。
 廊下へ倒れ込むようにしながら部屋を出て。
 客の応対が終わるのを、ただ待った。
 やがて祖母の「お大事にね」という言葉が聞こえると。
 少女は壁伝いに歩いて、祖母に背後から声をかける。
 祖母は少女に視線を向けるなり、ひどく驚いた様子で。
 見開かれたその目は、少女の胸元に向けられた。
「お祖母様、は、その、できることが欲しくて、薬師になったんだよね?」
 うつむきながらそう言う少女に、祖母は優しくうなずくと。
「私にも、できる、かな……?」という言葉に。
「やってみるかい?」と微笑んだ。
「うん!」
 と、少女は返して。
 そのまま祖母と一緒に作業場へ向かうと。
 道具の持ちかたから、匂いの嗅ぎかた。
 薬草の種類や効能、薬の作りかた。
 そして、祖母が今も薬師を続けている理由まで。
 一つ一つ、少しずつ。
 理由のその底まで。
 少女は飲み込んでいった。
 * * * * *
 ——そして、十年経って。
 少女は誕生日の翌朝に、すでに港へ向かっていた。
 パルメ商会の保有するキャラック船『アーリシャ』が。
 港の中央に鎮座して、少女と祖母を見下ろす。
 真っ白なマントを羽織って、大きなカバンを肩にかけている。
 そんな格好の少女を、祖母はじっと見つめると。
「本当に行くのかい?」と首をかしげた。
 少女は「うん」とうなずくと。
 アーリシャのほうを向きながら。
「私やっぱり、生き残った理由が欲しいの」
 ……二人との約束が、きっとそうだって思いたいんだ。
 そう、言葉をこぼして。
 それから祖母へ向き直すと、彼女は優しく微笑んでいて。
「やっぱり血筋だねぇ」
 だなんて身体を震わせていた。
 そうしてしばらく、二人は見つめ合うと。
「行ってきます」と少女は、祖母の頬にキスをして。
 祖母は少女を抱きしめてから「うん、行ってらっしゃい」と返す。
 少女は祖母に手を振りながら、船のほうへ駆けていき。
「もう、前を見なさいな」と呆れながらに祖母は声をかける。
 やがて少女は船に乗り、しばらくしてから。
 アーリシャの側面から、無数のオールが飛び出してきて。
 ゆっくりと、その船体が動き始めた。
 船室の中の窓から、手を振る祖母を見つけると。
 少女は「……お祖母様、ありがとう」と呟き。
 祖母が見えなくなるまで、窓を見つめる。
 無限と思えるほどの青の中。
 そのキャラックは帆を張って。
 真っ白なわた雲は空を滑り。
 海に移し身を浮かべている。
 そんな、ありふれたとある日にて。
 昇っていく太陽を背にしながら。
 少女シルヴィカの旅は、密かに始まった。