表示設定
表示設定
目次 目次




第二編 アンネと船上街

ー/ー



 それはそれは、静かな光景だった。

 鏡のような水面に、うっすらと映るしらす雲。
 青の中にぽっかりと、穴の開いたように紺が広がり。
 その上を、ぽつりと浮かぶボートは、なんだか吸い込まれそう。

 シルヴィカはオールを漕ぐ手を止めると、向こう側にそびえ立つ、巨大な岩肌を眺めて。
「エルク山があんなに近く……」と、小さく感嘆の声を上げた。

 現実と水面(みなも)両方に映る山脈は、この世の光景には思えず。
 シルヴィカは、まるで世界が止まったかのような錯覚を——

「ねえ、早く漕いでくれる?」
 ——なんて声で打ち消された。

 シルヴィカの乗るボートには、同乗者が一人。
 赤い髪をした女性が、妙に綺麗な姿勢で。
「聞いてる?」と首をかしげると。
 シルヴィカは頬を膨らませながら、オールを手に取る。

「でも、綺麗ですよ?」なんてシルヴィカは言ってみるが。
「あたしの見たい景色じゃないわ」と、その女性は長い髪を揺らし。
 加えて、自分の爪を眺めながら。
「こんなボートまで買ったのよ?」とまで言っていて。
 そんな様子にじとりと目を向けてから、シルヴィカはオールを漕ぎ始めた。

 動いたオールの先から、波紋がだんだん伸びていって。
 オールが空を掻いては水へ戻るたび、パシャリと飛沫が飛び散った。

 シルヴィカは目を伏せながら、ぼそぼそと小さな声で。
「そろそろ代わってくれたりとか……」
 と女性に言ってみるが。
「イヤよ。あたしが疲れるじゃない」なんて一蹴されて。
「ですよねぇ」と愛想笑いで返してから、自身の腕と腹を見下ろした。

『あまりに自分勝手で、自分に正直な女性』
 それはこのアンネという女性に対しての、シルヴィカの印象。
 なぜこんな彼女とともに行動しているのかというと、一応のわけが今日の朝にあった。

 * * * * *

 朝の支度をほとんど終えたシルヴィカは、自身の髪を編み込みながら。
 前日から続いていた問題について、改めて頭を悩ませていた。

 それは水場という名の行き止まりで。

 内側から爆ぜたように崩れている砦とか。
 広がる平原の、遠くにぼんやり見えるエルク山だとか。
 そういったランドマークこそ確認できるのだが……
 あいにく地図では省略されている細道に入っていたらしく。
 どう進めば近くのラトアイアという街にたどり着けるのか、見当もつかなかった。

 シルヴィカは地図を広げ、そして回し。
 コンパスを持ってあたりを歩き。
 そしてうなだれる。

 しばらくしてまた地図を開き。
「せめてあの湖が何かわかればなぁ……」
 なんて、ため息混じりに洩らしていると。
「コドゥス・ラウスよ。湖じゃなくて内海」と、頭上から聞こえて。

 あわててシルヴィカが見上げると、赤毛の女性が眉根を寄せながら見下ろしていた。
 服装から農民のようにも見える、荷馬車に乗っていたその女性は。
「わかったならどいて」なんて、少しイラついてもいた。

 声にならない返事をしながら、シルヴィカが道からしりぞくと。
 ガタガタゴロゴロと音を立てて、その馬車は進んでいく。

 その進行方向はコドゥス・ラウスとやらに見えて。
 荷台に積まれていた大荷物やボートを見やりながら。
「商人じゃなさそうだけど……」
 なんて、シルヴィカはあごに指を当てた。

 やがて、馬車の音は聞こえなくなり。
 シルヴィカは彼女の来た道を進み始める。

 土の道に刻まれた、細い線をたどりながら。
「さっきの人、なんだったんだろ」
 とか内心思っていたシルヴィカを。
「やっぱりちょっとお待ち‼︎」なんて。
 少し妙な言い回しで止める声さえなければ。
 ものすごく、軽快な歩みでもあった。

 背後からの声に、シルヴィカがおずおずと振り返ると。
 道のはるか向こうから、先ほどの女性が走ってきているのが見えたので。
 シルヴィカがあわてて彼女のほうへ向かうと、女性は肩で息をしていて。

「だ、大丈夫ですか?」と言うシルヴィカに。
「あんた、ボート漕げる?」と彼女は返事をした。

「えっ、あ、昔漕いだくらいですけど……」
 なんて、シルヴィカが彼女の肩に手を伸ばすと。
 女性はその手を掴んで、シルヴィカをじっと見つめながら。
「協力して! 手間賃あげるから‼︎」と、ウエストポーチから革袋を取り出して。
 親指の先ほどの四角い木貨を数枚、掴まれたシルヴィカの手に置くので。
「いやいやいや! こんな大金いりませんよ‼︎」
 とか叫びながらシルヴィカはそれを女性の革袋に戻すと。

「あら無欲」
「怖いんですよ!」
 なんて言葉を交わすうちに。
「そんなのなくても協力くらいしますよ‼︎」
 なんて、勢いでシルヴィカは答えていて。

 それからハッとして、口を手で覆うも、女性はしっかりと聞いていたようで。
「言質、取ったからね」と、あくどく微笑んでいた。

 内心「やらかした……?」と思いながら。
 シルヴィカは冷や汗を流すと。
「協力はします、しますけど、せめて名乗ってください!」と言って。

「えっ、アンネ・ミック——あっ、いや、なんで?」
 じとりとする相手から目を逸らしながら、シルヴィカは頬を掻いておどおどと。
「えっと、名前は信頼に大事って昔父から聞いたんで……」と続ける。

 一方のアンネは、腰に手を当ててため息をつくと。
「ふぅん」と興味なさげに洩らしてから。
「ともかく、協力はしてもらうから」
 テキパキ動いてよ。た、び、び、と、さん?
 なんて言っていて。

 シルヴィカはそれに「あっ」と声を洩らし。
 そそくさと内海へ向かうアンネに。
「ちょっ、わ、忘れてただけです!」と言ったあと。
 大声で名乗りながら、シルヴィカは彼女を追いかけた。

 つまり彼女と一緒に行動しているのは、失言が原因だった。

 * * * * *

 ——しばらくボートを漕ぎ続けていると。
 いつのまにか、すっかり太陽は傾ききっていた。
 あたりでは奇妙な瓦礫がちらほら見えるようになり。
 雪色をした陶器質なものが、水面から上下に伸びていた。

「そういえば、なんでアンネさんはこんなことを?」
 シルヴィカがボートを漕ぎながら、ふいにそんなことを訊くと。

「次からはもっと早く訊いたほうがいいわよ」
 なんて言いながらも。
 アンネはごそごそとウエストポーチを漁り、そこから古びた手帳を取り出す。

 以前水に浸かったことでもあるのか、ページはパリパリになっていて。
 表紙に書いてあったであろう文字も、滲んでもう読めない。

「……『船上街(せんじょうがい)』って、聞いたことある?」
 手帳を振りながらそう言ったアンネに、シルヴィカが首を横に振ると。
「この辺だと『水面(みなも)の理想郷』って呼ばれてる、伝説上の街なの」
 あたしはそこを目指してる。
 アンネはそう言ってから、そっとまぶたを閉じて。
 それから誰かの言いかたを真似ているかのように、語り出した。

 そこは、一隻の船に築かれた街であり。
 旧時代が作り上げた遺物である。
 そこに住む者は平和を愛し。
 自由を尊び、利他に生きる者である。
 飢えないだけの食料があり。
 あらゆる災害は起こらず。
 外敵にも晒されない。
 支配者はおらず。
 すべての者が、街の声となれる。
 まさに水面(みなも)の理想郷である船上街は。
 ある日突然、外敵を阻むその性質ゆえに。
 誰にもそのときを悟られず、滅んだ。

「——そういう伝説が、ここにはあるの」
 アンネは語りを終えると、手帳を繊細な手つきで開き。
「そして、船上街で暮らした人のものとおぼしき手帳がこれなの」
 これによると、船上街はまだ存続している。そう判断できるのよ。

 そう言い切っているアンネに。
「……本気ですか?」とシルヴィカは言い。
 アンネはそれに、ぎこちなくうなずいた。

「あたしにとっちゃ、賭けだけどね」
 そう諦めたように話したアンネは、しばらく何かを考えてから、ふと。
「あんたはどうなの?」と言い。

 その返答に一瞬、目を見開いたシルヴィカが。
 ボートを漕ごうとするので、その手をアンネが止めて。

「代わったげるから聴かせて」と言うと。
「……わかりました」とシルヴィカは返してから、アンネと立ち位置を入れ替えて。
 漕ぎかたのレクチャーをシルヴィカから受けたアンネは、ゆっくりとボートを進める。

「私は、母の故郷を目指してるんです」
『ツイの街』っていう、東方の温泉街を。

 そう言うとシルヴィカは自身の襟元に手を入れ。
 そこからするりと、ペンダントを引き出す。

 そのヘッドは、真っ白な花を模っており。
 五枚の花弁が星を描くように並び。
 中央には、小さな真珠がはまっている。
 どうやら花弁も、なんらかの石を削ったものらしかった。

「くだらない約束なんですけどね……」とシルヴィカがこぼすと。
「でも、大事なんでしょ」とアンネは言い。
 それにシルヴィカが、ゆっくりうなずく。

 あたりに、水を押す音だけが響くような。
 そんな沈黙が、しばらく続いて。
 やがてシルヴィカが何かを言おうとしたとき。
 ふいにアンネが、「あれ?」と声を洩らした。

 彼女の視線の先を追うように、シルヴィカが目線を動かすと。
 そこには小島と見まごうような、大きな影が浮いていて。
 真っ黒なその外壁には、時おり赤い光が走っている。
 甲板の上に無数の塔が建ち並ぶ、その異形の船は。
 いつからか、音もなく、ただ水の上に存在していて。
 呆気に取られていたシルヴィカたちに対し。
『じょ……ん……うで……?』なんて、ブツブツとした声をかけた。

 * * * * *

「いやぁノイズが入っていたとは申し訳ない」
 なにぶんスピーカー……声を拡げる機械も長く使っておりまして。

 なんて豪快に笑いながら、男は船の中を進んで。
 そんな彼の後ろを、シルヴィカたちは付いていく。
 カエルのような風体をした恰幅のよい彼は、自称『入街(にゅうがい)審査官』であり。
 船の乗り込み口から出てくるなり、二人を船内に案内してくれていた。

「ずいぶんと大きな船なのね」
 アンネは真っ黒な内壁を撫でて、そんな様子の彼女に審査官はまた笑うと。
「なにせ、外の方には船上街と呼ばれるくらいでしてな」
 なんて、今にもスキップをしそうなくらいの歩調で歩みを進める。
 廊下とおぼしき細い通路の真っ黒な壁には、大小さまざまなパイプが通っていて。
「この筒、何が通っているんですか?」と問うシルヴィカに。
「燃料と廃棄物と聞いております」と男が返すと。

 シルヴィカは通路の中央に寄って。
「つまり血みたいなもの……」と苦々しい顔をした。

 やがて男は壁に備えつけられた、小さな板のようなものを触り。
 彼が手を止めた瞬間、壁の一部がいきなり動き、ぽっかりと四角い穴が開く。

 穴の先には上質そうなソファと、簡単な椅子が置いてあり。
 椅子の向こう側には、巨大な一枚ガラス。

 どうやらガラス越しに外の様子が見えるようで。
 もう夜で、空が紺色になっているにもかかわらず。
 甲板上の塔たちの、窓のようなものから光が漏れ出ていて。
 黒い街並みも相まって、まるで街全体が星空になっているようだった。

「入街審査をこれから始めるわけですが、まあ楽にしていただいて大丈夫ですよ」
 なんて言いながら、シルヴィカたちをソファに座らせると、男自身は椅子に座り。
 それと同時に、ニヤニヤとした表情が彼の顔から急にスッと消えて。

「お二人はどうしてこの街に?」と。
 無表情で言ってから、シルヴィカとアンネを交互に見やった。

 うつむきながら挙手をしたシルヴィカを、男が「どうぞ」と促すと。
「私はここに来るまでの、こちらの、アンネさんの移動手段です」とシルヴィカは言い。
 アンネはそんなシルヴィカを「言いかたを考えろ」と言いたげに見つめた。

「なるほど、確かにボートに乗ってらっしゃった」
 二人で漕いだほうが効率的ですものね。

 男はうんうんとうなずき、それを聞いたシルヴィカは。
 アンネのほうへじとりと視線を向けるが、彼女に向けられた視線は一人分だけではなく。

 審査官の男も、ゆっくりとアンネのほうを見ていて。
「では、あなたは?」とでも言いたげに、彼女へ微笑む。

 その視線を受けたアンネは、しばらく考え込むと。
 ブラウスやエプロンドレスという。
 ごくごく一般的な人が着るような服装には似つかわしくないような。
 そんなピシッとした、気品ある姿勢で、ひざの上に手を重ね。

「あたしはここに、住みに来たの」
 とはっきり言った。

「えっ」とこぼすシルヴィカに対し、審査官はたいして驚いていないようで。

「それはそれは……もう少し審査が必要そうですね」と笑いながら。
 男は「このラマクへの居住の際には、規約への同意が必要でして……」と話を続け。
 アンネがそのまま、男にいろいろ言われながら連れて行かれると。
 やがて一人部屋に残されたシルヴィカは、困惑しながら。
 あとからやってきた別の男たちに、彼女とは別のどこかへ案内されるはめになった。

 * * * * *

 ベッドが二つ並んだ別室に連れてこられたシルヴィカが。
 とりあえずシャワーを浴びてから。
 部屋の端にあるテーブルを撫でてみたり。
 意味もなく立ったり座ったりを繰り返したり。
 そんなことを繰り返していると、やがてアンネが入ってきた。

「審査通ったわ。契約の控えも貰ってきた」
 なんて、荷物をそっと置きながら軽い調子で言う彼女に、シルヴィカあわてて駆け寄って。
「ど、どういう話の流れなんですかこれ?」とアンネの両肩に手を置くが。
 対するアンネは平然としていて。
「もとから決めてたのよ」と返す。

 シルヴィカはシャワールームへ入っていくアンネに。
「そんな即決……危なくないんですか?」と声をかけると。
「あんたがそれ言う?」と、くぐもった声が返ってきてから。
 しばらく、シャワーや水の流れる音が響き。

 そこから三十分ほどして、ネグリジェ姿のアンネが出てくるときには。
 シルヴィカは部屋のカーテンを開けていて、じっと外を眺めていた。

「綺麗な街ねぇ」なんて、アンネがふと呟くと。
 シルヴィカは彼女のほうを見ずに、口を開いて。

「なんでこの街、伝説なんでしょうね」
 こんなにも光っていて。
 すごく大きな船の上にあって。
 海にあったとしても、すごく目立つはずなのに。

 なんて言い終えるなり、ゆっくりアンネのほうを向いて。
「もう少し、考えてから決めませんか?」と、真剣な目を彼女に向けた。

 しかしアンネは手をひらひらとさせ
 そのままベッドに倒れ込むと。

「でも、あたしは決めてたのよ」
 なんて、小さく言う。

「意固地で失くすものもあるんですよ?」
 シルヴィカはベッドに座り込むと。
 シュミーズの裾を、ギュッと握って。

「あたしは、もう人を理由にしないって決めたのよ」
 自分が嫌いになるだけだったから。
 自分で、決めたいのよ。

 というアンネの言葉に、ペンダントを見下ろすと。
 それから目を伏せた。

「あんたは、いい子だね」
 こぼれ出たような、そんな言葉。
 その、たったひと言だけを呟くと。
 アンネはそのまま、シルヴィカの気持ちを知らないかのように。
 静かな寝息を立て始めて。

 シルヴィカはそんな彼女を、しばらく見つめてから。
「……全然、違いますよ」と洩らすと。
 ペンダントを握りながら、ベッドに寝そべり。

 勝手に明かりが消えていく室内を眺めてから。
 ゆっくり、まぶたを閉じて。

『あまりに自分勝手で、自分に正直な女性』
 果たしてアンネは、本当にそんな女性だったのだろうか。
 なんてことを、ふと思った。

 * * * * *

 次の日シルヴィカが目を覚ますと、風でカーテンが暴れていて。
 バサバサと、大きな音を立てていた。

 シルヴィカがシーツをのけて。
 シュルリと衣擦れ音が鳴ると。
 まとわりつくような違和感に、シルヴィカは気づいて。

 急いで服を着替えてから、自分の荷物を持つと。
 あたりをキョロキョロ見渡し。
「アンネさん……?」とシルヴィカは呟いた。

 なぜか部屋の扉は開いていて、その向こうの廊下では。
 ときどきパイプに開いた穴から漏れた液体が、壁や床にシミを作っているうえ。

 シルヴィカが床を歩くたびに、ギッギッと音が響いて。
「誰かいませんか?」と言っても。
 それが反響するだけだった。

 シルヴィカはあたりを見やりながら。
 一人、慎重に、廊下を進んでいき。
 ただ暗いだけの静かな道では。
 アンネどころか、審査官の男にすら会えず。
 ついに、ボートにまで着いてしまった。

 昨日とは打って変わって、まるですでに滅んでいたかのような船内を出ると。
 シルヴィカはボートに座り込み、パチャリと波がたわんで。

「……私だけ、か」なんて。
 独りごちったシルヴィカが。
 そのままオールを手で押したとき。
 カラリと音を立てて、何かが足にぶつかった。

 あわててそれを拾い上げると、それは数枚の四角い木貨で。
 散らばっていたそれを集めると、シルヴィカはため息混じりに。
「いらないって言ったのに……」と言いながら。
 それらをカバンの奥のほうへ、大事にしまい込むと。
 それから、また力いっぱい、オールを動かす。

 一人で漕ぐボートは、昨日よりも軽くて。
 そして静かで、そしてどことなく。
 寂しさが、乗っかっていた。

 コドゥス・ラウス近隣の、ラトアイアという街にて。
 街と同じ名前の領主が行方不明になった妻を探していること。
 その妻は政略結婚によるもので、領主と十八も歳が離れた女性であること。
 そして、妻の名前が『アンネ・ミック・ヨールズ・ラトアイア』であることを。
 シルヴィカが知ったのは、数日後のことだった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第三編 古物商レイエカ


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 それはそれは、静かな光景だった。
 鏡のような水面に、うっすらと映るしらす雲。
 青の中にぽっかりと、穴の開いたように紺が広がり。
 その上を、ぽつりと浮かぶボートは、なんだか吸い込まれそう。
 シルヴィカはオールを漕ぐ手を止めると、向こう側にそびえ立つ、巨大な岩肌を眺めて。
「エルク山があんなに近く……」と、小さく感嘆の声を上げた。
 現実と|水面《みなも》両方に映る山脈は、この世の光景には思えず。
 シルヴィカは、まるで世界が止まったかのような錯覚を——
「ねえ、早く漕いでくれる?」
 ——なんて声で打ち消された。
 シルヴィカの乗るボートには、同乗者が一人。
 赤い髪をした女性が、妙に綺麗な姿勢で。
「聞いてる?」と首をかしげると。
 シルヴィカは頬を膨らませながら、オールを手に取る。
「でも、綺麗ですよ?」なんてシルヴィカは言ってみるが。
「あたしの見たい景色じゃないわ」と、その女性は長い髪を揺らし。
 加えて、自分の爪を眺めながら。
「こんなボートまで買ったのよ?」とまで言っていて。
 そんな様子にじとりと目を向けてから、シルヴィカはオールを漕ぎ始めた。
 動いたオールの先から、波紋がだんだん伸びていって。
 オールが空を掻いては水へ戻るたび、パシャリと飛沫が飛び散った。
 シルヴィカは目を伏せながら、ぼそぼそと小さな声で。
「そろそろ代わってくれたりとか……」
 と女性に言ってみるが。
「イヤよ。あたしが疲れるじゃない」なんて一蹴されて。
「ですよねぇ」と愛想笑いで返してから、自身の腕と腹を見下ろした。
『あまりに自分勝手で、自分に正直な女性』
 それはこのアンネという女性に対しての、シルヴィカの印象。
 なぜこんな彼女とともに行動しているのかというと、一応のわけが今日の朝にあった。
 * * * * *
 朝の支度をほとんど終えたシルヴィカは、自身の髪を編み込みながら。
 前日から続いていた問題について、改めて頭を悩ませていた。
 それは水場という名の行き止まりで。
 内側から爆ぜたように崩れている砦とか。
 広がる平原の、遠くにぼんやり見えるエルク山だとか。
 そういったランドマークこそ確認できるのだが……
 あいにく地図では省略されている細道に入っていたらしく。
 どう進めば近くのラトアイアという街にたどり着けるのか、見当もつかなかった。
 シルヴィカは地図を広げ、そして回し。
 コンパスを持ってあたりを歩き。
 そしてうなだれる。
 しばらくしてまた地図を開き。
「せめてあの湖が何かわかればなぁ……」
 なんて、ため息混じりに洩らしていると。
「コドゥス・ラウスよ。湖じゃなくて内海」と、頭上から聞こえて。
 あわててシルヴィカが見上げると、赤毛の女性が眉根を寄せながら見下ろしていた。
 服装から農民のようにも見える、荷馬車に乗っていたその女性は。
「わかったならどいて」なんて、少しイラついてもいた。
 声にならない返事をしながら、シルヴィカが道からしりぞくと。
 ガタガタゴロゴロと音を立てて、その馬車は進んでいく。
 その進行方向はコドゥス・ラウスとやらに見えて。
 荷台に積まれていた大荷物やボートを見やりながら。
「商人じゃなさそうだけど……」
 なんて、シルヴィカはあごに指を当てた。
 やがて、馬車の音は聞こえなくなり。
 シルヴィカは彼女の来た道を進み始める。
 土の道に刻まれた、細い線をたどりながら。
「さっきの人、なんだったんだろ」
 とか内心思っていたシルヴィカを。
「やっぱりちょっとお待ち‼︎」なんて。
 少し妙な言い回しで止める声さえなければ。
 ものすごく、軽快な歩みでもあった。
 背後からの声に、シルヴィカがおずおずと振り返ると。
 道のはるか向こうから、先ほどの女性が走ってきているのが見えたので。
 シルヴィカがあわてて彼女のほうへ向かうと、女性は肩で息をしていて。
「だ、大丈夫ですか?」と言うシルヴィカに。
「あんた、ボート漕げる?」と彼女は返事をした。
「えっ、あ、昔漕いだくらいですけど……」
 なんて、シルヴィカが彼女の肩に手を伸ばすと。
 女性はその手を掴んで、シルヴィカをじっと見つめながら。
「協力して! 手間賃あげるから‼︎」と、ウエストポーチから革袋を取り出して。
 親指の先ほどの四角い木貨を数枚、掴まれたシルヴィカの手に置くので。
「いやいやいや! こんな大金いりませんよ‼︎」
 とか叫びながらシルヴィカはそれを女性の革袋に戻すと。
「あら無欲」
「怖いんですよ!」
 なんて言葉を交わすうちに。
「そんなのなくても協力くらいしますよ‼︎」
 なんて、勢いでシルヴィカは答えていて。
 それからハッとして、口を手で覆うも、女性はしっかりと聞いていたようで。
「言質、取ったからね」と、あくどく微笑んでいた。
 内心「やらかした……?」と思いながら。
 シルヴィカは冷や汗を流すと。
「協力はします、しますけど、せめて名乗ってください!」と言って。
「えっ、アンネ・ミック——あっ、いや、なんで?」
 じとりとする相手から目を逸らしながら、シルヴィカは頬を掻いておどおどと。
「えっと、名前は信頼に大事って昔父から聞いたんで……」と続ける。
 一方のアンネは、腰に手を当ててため息をつくと。
「ふぅん」と興味なさげに洩らしてから。
「ともかく、協力はしてもらうから」
 テキパキ動いてよ。た、び、び、と、さん?
 なんて言っていて。
 シルヴィカはそれに「あっ」と声を洩らし。
 そそくさと内海へ向かうアンネに。
「ちょっ、わ、忘れてただけです!」と言ったあと。
 大声で名乗りながら、シルヴィカは彼女を追いかけた。
 つまり彼女と一緒に行動しているのは、失言が原因だった。
 * * * * *
 ——しばらくボートを漕ぎ続けていると。
 いつのまにか、すっかり太陽は傾ききっていた。
 あたりでは奇妙な瓦礫がちらほら見えるようになり。
 雪色をした陶器質なものが、水面から上下に伸びていた。
「そういえば、なんでアンネさんはこんなことを?」
 シルヴィカがボートを漕ぎながら、ふいにそんなことを訊くと。
「次からはもっと早く訊いたほうがいいわよ」
 なんて言いながらも。
 アンネはごそごそとウエストポーチを漁り、そこから古びた手帳を取り出す。
 以前水に浸かったことでもあるのか、ページはパリパリになっていて。
 表紙に書いてあったであろう文字も、滲んでもう読めない。
「……『|船上街《せんじょうがい》』って、聞いたことある?」
 手帳を振りながらそう言ったアンネに、シルヴィカが首を横に振ると。
「この辺だと『|水面《みなも》の理想郷』って呼ばれてる、伝説上の街なの」
 あたしはそこを目指してる。
 アンネはそう言ってから、そっとまぶたを閉じて。
 それから誰かの言いかたを真似ているかのように、語り出した。
 そこは、一隻の船に築かれた街であり。
 旧時代が作り上げた遺物である。
 そこに住む者は平和を愛し。
 自由を尊び、利他に生きる者である。
 飢えないだけの食料があり。
 あらゆる災害は起こらず。
 外敵にも晒されない。
 支配者はおらず。
 すべての者が、街の声となれる。
 まさに|水面《みなも》の理想郷である船上街は。
 ある日突然、外敵を阻むその性質ゆえに。
 誰にもそのときを悟られず、滅んだ。
「——そういう伝説が、ここにはあるの」
 アンネは語りを終えると、手帳を繊細な手つきで開き。
「そして、船上街で暮らした人のものとおぼしき手帳がこれなの」
 これによると、船上街はまだ存続している。そう判断できるのよ。
 そう言い切っているアンネに。
「……本気ですか?」とシルヴィカは言い。
 アンネはそれに、ぎこちなくうなずいた。
「あたしにとっちゃ、賭けだけどね」
 そう諦めたように話したアンネは、しばらく何かを考えてから、ふと。
「あんたはどうなの?」と言い。
 その返答に一瞬、目を見開いたシルヴィカが。
 ボートを漕ごうとするので、その手をアンネが止めて。
「代わったげるから聴かせて」と言うと。
「……わかりました」とシルヴィカは返してから、アンネと立ち位置を入れ替えて。
 漕ぎかたのレクチャーをシルヴィカから受けたアンネは、ゆっくりとボートを進める。
「私は、母の故郷を目指してるんです」
『ツイの街』っていう、東方の温泉街を。
 そう言うとシルヴィカは自身の襟元に手を入れ。
 そこからするりと、ペンダントを引き出す。
 そのヘッドは、真っ白な花を模っており。
 五枚の花弁が星を描くように並び。
 中央には、小さな真珠がはまっている。
 どうやら花弁も、なんらかの石を削ったものらしかった。
「くだらない約束なんですけどね……」とシルヴィカがこぼすと。
「でも、大事なんでしょ」とアンネは言い。
 それにシルヴィカが、ゆっくりうなずく。
 あたりに、水を押す音だけが響くような。
 そんな沈黙が、しばらく続いて。
 やがてシルヴィカが何かを言おうとしたとき。
 ふいにアンネが、「あれ?」と声を洩らした。
 彼女の視線の先を追うように、シルヴィカが目線を動かすと。
 そこには小島と見まごうような、大きな影が浮いていて。
 真っ黒なその外壁には、時おり赤い光が走っている。
 甲板の上に無数の塔が建ち並ぶ、その異形の船は。
 いつからか、音もなく、ただ水の上に存在していて。
 呆気に取られていたシルヴィカたちに対し。
『じょ……ん……うで……?』なんて、ブツブツとした声をかけた。
 * * * * *
「いやぁノイズが入っていたとは申し訳ない」
 なにぶんスピーカー……声を拡げる機械も長く使っておりまして。
 なんて豪快に笑いながら、男は船の中を進んで。
 そんな彼の後ろを、シルヴィカたちは付いていく。
 カエルのような風体をした恰幅のよい彼は、自称『|入街《にゅうがい》審査官』であり。
 船の乗り込み口から出てくるなり、二人を船内に案内してくれていた。
「ずいぶんと大きな船なのね」
 アンネは真っ黒な内壁を撫でて、そんな様子の彼女に審査官はまた笑うと。
「なにせ、外の方には船上街と呼ばれるくらいでしてな」
 なんて、今にもスキップをしそうなくらいの歩調で歩みを進める。
 廊下とおぼしき細い通路の真っ黒な壁には、大小さまざまなパイプが通っていて。
「この筒、何が通っているんですか?」と問うシルヴィカに。
「燃料と廃棄物と聞いております」と男が返すと。
 シルヴィカは通路の中央に寄って。
「つまり血みたいなもの……」と苦々しい顔をした。
 やがて男は壁に備えつけられた、小さな板のようなものを触り。
 彼が手を止めた瞬間、壁の一部がいきなり動き、ぽっかりと四角い穴が開く。
 穴の先には上質そうなソファと、簡単な椅子が置いてあり。
 椅子の向こう側には、巨大な一枚ガラス。
 どうやらガラス越しに外の様子が見えるようで。
 もう夜で、空が紺色になっているにもかかわらず。
 甲板上の塔たちの、窓のようなものから光が漏れ出ていて。
 黒い街並みも相まって、まるで街全体が星空になっているようだった。
「入街審査をこれから始めるわけですが、まあ楽にしていただいて大丈夫ですよ」
 なんて言いながら、シルヴィカたちをソファに座らせると、男自身は椅子に座り。
 それと同時に、ニヤニヤとした表情が彼の顔から急にスッと消えて。
「お二人はどうしてこの街に?」と。
 無表情で言ってから、シルヴィカとアンネを交互に見やった。
 うつむきながら挙手をしたシルヴィカを、男が「どうぞ」と促すと。
「私はここに来るまでの、こちらの、アンネさんの移動手段です」とシルヴィカは言い。
 アンネはそんなシルヴィカを「言いかたを考えろ」と言いたげに見つめた。
「なるほど、確かにボートに乗ってらっしゃった」
 二人で漕いだほうが効率的ですものね。
 男はうんうんとうなずき、それを聞いたシルヴィカは。
 アンネのほうへじとりと視線を向けるが、彼女に向けられた視線は一人分だけではなく。
 審査官の男も、ゆっくりとアンネのほうを見ていて。
「では、あなたは?」とでも言いたげに、彼女へ微笑む。
 その視線を受けたアンネは、しばらく考え込むと。
 ブラウスやエプロンドレスという。
 ごくごく一般的な人が着るような服装には似つかわしくないような。
 そんなピシッとした、気品ある姿勢で、ひざの上に手を重ね。
「あたしはここに、住みに来たの」
 とはっきり言った。
「えっ」とこぼすシルヴィカに対し、審査官はたいして驚いていないようで。
「それはそれは……もう少し審査が必要そうですね」と笑いながら。
 男は「このラマクへの居住の際には、規約への同意が必要でして……」と話を続け。
 アンネがそのまま、男にいろいろ言われながら連れて行かれると。
 やがて一人部屋に残されたシルヴィカは、困惑しながら。
 あとからやってきた別の男たちに、彼女とは別のどこかへ案内されるはめになった。
 * * * * *
 ベッドが二つ並んだ別室に連れてこられたシルヴィカが。
 とりあえずシャワーを浴びてから。
 部屋の端にあるテーブルを撫でてみたり。
 意味もなく立ったり座ったりを繰り返したり。
 そんなことを繰り返していると、やがてアンネが入ってきた。
「審査通ったわ。契約の控えも貰ってきた」
 なんて、荷物をそっと置きながら軽い調子で言う彼女に、シルヴィカあわてて駆け寄って。
「ど、どういう話の流れなんですかこれ?」とアンネの両肩に手を置くが。
 対するアンネは平然としていて。
「もとから決めてたのよ」と返す。
 シルヴィカはシャワールームへ入っていくアンネに。
「そんな即決……危なくないんですか?」と声をかけると。
「あんたがそれ言う?」と、くぐもった声が返ってきてから。
 しばらく、シャワーや水の流れる音が響き。
 そこから三十分ほどして、ネグリジェ姿のアンネが出てくるときには。
 シルヴィカは部屋のカーテンを開けていて、じっと外を眺めていた。
「綺麗な街ねぇ」なんて、アンネがふと呟くと。
 シルヴィカは彼女のほうを見ずに、口を開いて。
「なんでこの街、伝説なんでしょうね」
 こんなにも光っていて。
 すごく大きな船の上にあって。
 海にあったとしても、すごく目立つはずなのに。
 なんて言い終えるなり、ゆっくりアンネのほうを向いて。
「もう少し、考えてから決めませんか?」と、真剣な目を彼女に向けた。
 しかしアンネは手をひらひらとさせ
 そのままベッドに倒れ込むと。
「でも、あたしは決めてたのよ」
 なんて、小さく言う。
「意固地で失くすものもあるんですよ?」
 シルヴィカはベッドに座り込むと。
 シュミーズの裾を、ギュッと握って。
「あたしは、もう人を理由にしないって決めたのよ」
 自分が嫌いになるだけだったから。
 自分で、決めたいのよ。
 というアンネの言葉に、ペンダントを見下ろすと。
 それから目を伏せた。
「あんたは、いい子だね」
 こぼれ出たような、そんな言葉。
 その、たったひと言だけを呟くと。
 アンネはそのまま、シルヴィカの気持ちを知らないかのように。
 静かな寝息を立て始めて。
 シルヴィカはそんな彼女を、しばらく見つめてから。
「……全然、違いますよ」と洩らすと。
 ペンダントを握りながら、ベッドに寝そべり。
 勝手に明かりが消えていく室内を眺めてから。
 ゆっくり、まぶたを閉じて。
『あまりに自分勝手で、自分に正直な女性』
 果たしてアンネは、本当にそんな女性だったのだろうか。
 なんてことを、ふと思った。
 * * * * *
 次の日シルヴィカが目を覚ますと、風でカーテンが暴れていて。
 バサバサと、大きな音を立てていた。
 シルヴィカがシーツをのけて。
 シュルリと衣擦れ音が鳴ると。
 まとわりつくような違和感に、シルヴィカは気づいて。
 急いで服を着替えてから、自分の荷物を持つと。
 あたりをキョロキョロ見渡し。
「アンネさん……?」とシルヴィカは呟いた。
 なぜか部屋の扉は開いていて、その向こうの廊下では。
 ときどきパイプに開いた穴から漏れた液体が、壁や床にシミを作っているうえ。
 シルヴィカが床を歩くたびに、ギッギッと音が響いて。
「誰かいませんか?」と言っても。
 それが反響するだけだった。
 シルヴィカはあたりを見やりながら。
 一人、慎重に、廊下を進んでいき。
 ただ暗いだけの静かな道では。
 アンネどころか、審査官の男にすら会えず。
 ついに、ボートにまで着いてしまった。
 昨日とは打って変わって、まるですでに滅んでいたかのような船内を出ると。
 シルヴィカはボートに座り込み、パチャリと波がたわんで。
「……私だけ、か」なんて。
 独りごちったシルヴィカが。
 そのままオールを手で押したとき。
 カラリと音を立てて、何かが足にぶつかった。
 あわててそれを拾い上げると、それは数枚の四角い木貨で。
 散らばっていたそれを集めると、シルヴィカはため息混じりに。
「いらないって言ったのに……」と言いながら。
 それらをカバンの奥のほうへ、大事にしまい込むと。
 それから、また力いっぱい、オールを動かす。
 一人で漕ぐボートは、昨日よりも軽くて。
 そして静かで、そしてどことなく。
 寂しさが、乗っかっていた。
 コドゥス・ラウス近隣の、ラトアイアという街にて。
 街と同じ名前の領主が行方不明になった妻を探していること。
 その妻は政略結婚によるもので、領主と十八も歳が離れた女性であること。
 そして、妻の名前が『アンネ・ミック・ヨールズ・ラトアイア』であることを。
 シルヴィカが知ったのは、数日後のことだった。