表示設定
表示設定
目次 目次




その先の未来へと歩き出す

ー/ー




 美優(みゆ)が医師の診察を受けている間に、仁美(ひとみ)はこれまでの経緯をまとめた。

 それを医院長に読んでもらい、より専門的で長期の支援が必要だと訴えた。
 そしておそらく自宅へ戻すことはかえって良くないと思うという私見も訴えた。

 それは医院長も同意見であった。

 達也逮捕の時に相談した知り合いの警察官も交えて、何度も話し合いの場が持たれた。
 ストックホルム症候群の改善のためのプロジェクトが組まれ、美優はカウンセリングや心理療法を受けることになった。

 それとは別に一般教養、普通の子供が小学校や中学校で習う教育も受けさせなければならない。

 医師、看護師、カウンセラーを中心に、仁美や知り合いの警察官も含めてワンチームで美優の更生にあたることになった。

 ベテランの看護師の他に、美優と歳の近い看護師も数人プロジェクトチームに抜擢された。

 これはこの後、友人と遊びに行くなどの、普通の中高生が当たり前みたいにやっていることを美優にも経験させるためだ。

 友人同士で遊園地に行くみたいなシチュエーションで60代の医者や看護師が引率するわけにはいかない。

 いざ、その時になってからチームに加わってもらうよりも最初から一緒に携わった方が美優の心理的負担も少ないはずだ。

 看護師たちは自らの職務を全うしながらもまるで友達みたいに美優に接してくれた。
 看護師たちが持ってきたイチゴのショートケーキやチョコレートケーキ、モンブランなんかの色とりどりのケーキを見て美優がわぁと声を上げた。

「おいしいね」と笑いながら、一口ずつ食べさせ合う姿を見て、仁美はホッと胸を撫で下ろした。

 あの時達也と並んで座っていた縁側で見せてくれた笑顔
 あの笑顔を奪ってしまったという気持ちがどこかにあった。
 憔悴した美優の顔がどうしても忘れられなかった。

 少しずつ、少しずつ美優の時間が動き始める。
 普通の小学一年生としてのお勉強の時間もあった。ひらがな、カタカナ、漢字

 学校には通っていなかったけれどもテレビで得た知識や、達也との生活の中で理解していたこともあった。
 アナログ時計の見方なんかもそうだ、達也が早番の日は6になったら帰ってくる、遅番の日は9だ。




 達也の裁判はなかなか始まらなかった。

 日本中が注目している大きい事件で、そしておそらく敗訴となる裁判のため弁護士がなかなか決まらなかったのだ。
 もちろん達也には弁護士を雇う余裕などない。

 国選の弁護士が選任されるかと思った矢先、一人の若い弁護士が名乗りをあげた。

「父さん、この事件ただの誘拐じゃない」
大輔(だいすけ)、事務所の中で父さんはやめなさい、所長と呼べ」
「事務所ったって、父さんと母さんとオレしかいないじゃないか」

「母さんじゃない、事務員の田端(たばた)さんだ」
「いや、そんなこと言ったらここにいる全員田端さんじゃないか」
「若先生、ただの誘拐じゃないってどういうこと?」
「母さんまで若先生って。ま、まぁいいか。この事件誘拐じゃなく虐待から少女を救った側面もあるんじゃないかな、きっとそうだ」

「ふむ、確かにそうかもしれんな。だが弁護は厳しいぞ、未成年者略取・誘拐罪だ。監禁罪も併合して15年いや20年か?
 虐待から少女を救うという保護目的だったという事実が立証出来たとしても、厳しいだろうな。
 10年間という長い監禁期間に加えて、破瓜(はか)の痕跡があるって報道だっただろう?
 性的関係が悪質と裁判官に判断されれば無期懲役だってあり得る。しかもおそらく金はないんじゃないか、国選に頼むって話だし」

「そうです! だから大先生、お願いです。オレがプロボノとして彼の弁護を無料で引き受けたい」
「無料でってお前」
「あら、いいじゃないですか、あなた。立派な心意気ですよ」
「オレはね、弁護士として働く父さんに大切に育てられて十分な教育も受けさせて貰った。それがどんなに幸せなことか知っているんです。だからせっかく得たこの知識で一人でも多くの人を救いたい、いや、救ってみせる」

 事務所の椅子に片足を乗せたヒーローは母親にお行儀が悪いと(たしな)められ舌を出して頭を掻いた。


 その数日後、じっくりと事件の内容を調べあげたあと、
 大輔は意気揚々と達也の元へ会いに行った。

「オレの名前は田端大輔、あんたを救うためにここに来た!」

 アクリル板越しに熱い挨拶をした大輔をチラッと見ただけで達也は俯いてしまった。

「ああああ、あの、ぼぼぼ、僕はヤマヤマ山本、タタタ達也って言います、ごめんなさい。あの、僕が悪いので」

 そう言って口をつぐんでしまった。

 もっとこう、

「わぁ、よろしくお願いします。早くここから出してください。誘拐なんかじゃなかったんです。僕は美優を救いたかっただけなんです」と
そんな展開になると思っていたのに。全く打ち解けられる気がしない。

「おいっ、達也さん、もっとちゃんとこっちを見てくれよ!オレ、あんたを信じたいんだって!」

 アクリル板をバンッ! と叩くと、看守に「静かにしてください」と(たしな)められた。
 それから看守は「そろそろ時間です、あと5分」と冷たく言い放った。

 くそっ、やっぱりアクリル板越しじゃダメだ。熱意が伝わらねぇ。
 次回は接見室で直接膝を突き合わせて話を聞こう。
 そもそも10年間の話をするのに15分やそこらじゃ埒が開かねぇ。
 弁護権を行使して時間を目一杯使って絶対正直な気持ちを聞き出してみせる。

 最後の最後に、
「一番最初にあの子に食わせたの何だった?」と聞いたら、
「………おお、おに、おにぎり、鮭の」と答えてくれた。

 その時、ほんの少しだけど達也が柔らかい表情を見せた。

 大輔に美優のことに聞かれて、達也は最初のあの夜のことを思い出していた。

 空気まで凍ってしまいそうな寒い夜、月の大きなあの夜に初めて美優に会った。
 ボロ雑巾みたいなワンピースを着て、棒っきれみたいに痩せた身体で、一生懸命におにぎりを頬張っていた。

 達也は胸が締め付けられる思いがした。美優は今お腹を空かせていないだろうか。


「おにぎりか、いいよな、日本人の心だ。オレもおにぎりが好きだ。よし決めた、次はおにぎり持ってくるよ、うちの母ちゃんの握るおにぎりはうめぇぞ。差し入れにするからいっぱい食え。食わなきゃ戦えねぇからな。今日からオレとお前は運命共同体だ。しっかり飯を食っていっぱい話をしよう」

 間違いねぇ、あいつは誘拐とか監禁とか性暴力とかそんな大それたことが出来るような人間じゃねぇ。
 未成年の少女を自宅に連れ帰って、そのまま10年過ごしていたのは疑いようもない事実だけれども、そこには絶対に何か理由があるはずなんだ。達也の話し方、表情を一つずつ思い返しながら帰路についた。

 フリージャーナリストの木村(きむら)仁美(ひとみ)と言う人が十年前に書いた記事も熟読した。

 もちろん当時の雑誌は入手できないからネットにアップされている記事だ。
 ここに書かれている虐待の事実は本当にあったのだろうか。

 その署名欄からあっけないくらい簡単に仁美の連絡先のメールアドレスを入手できた。

 すげぇな、このおばさん、氏名に生年月日に連絡先、個人情報丸出しだ。
 当時の大論争を考えれば脅迫なんかの類も多かっただろうに。

 ……彼女はペンで戦っている人なのだろう。


 そしてそのページの木村仁美の顔写真を見て、どこかで見た顔だと思った。
 しばらく考えたけれども思い出せず、諦めて風呂に入っている時に、唐突に思い出した。

 被害者の少女の救出の後、彼女の実家前で再会シーンが報道された。
 その時に一緒に写っていたおばさんだ。でっかい鳥の巣みたいなヘアースタイルは見間違いようがない。

 少女は今、更生プログラムを受けていると聞いている。

 少女の保護の観点からどこの病院、どこの施設にいるのかは明らかにされていないが、もしかして木村さんは今も少女に近しい場所にいるのだろうか?

 その日のうちに大輔は仁美にメールを送った。



 次の面会日、大輔はアルミホイルに包まれたおにぎりを山ほど持ってきた。

「差し入れだ。母ちゃんに握らせた。食わなきゃ戦えねぇからな」そう言って豪快に笑った。

 看守は、(いや、それにしても多すぎだろ……)と呆れつつ、心の中でそっと笑った。


 大輔は面会時間ギリギリまで粘って根気よく達也に話を聞いたけれども、肝心の達也は僕が悪いと繰り返すばかりで要領を得ない。

 なかなか腹を割って話すってのは難しいな。
 弁護士になって以来、大輔が受け持った依頼人は、ほとんどが、自分は悪くないと繰り返し、身の上の話を大袈裟に語ってくれるタイプばかりだった。

 そっか、そう言えばオレって学生時代とかも、いわゆる陽キャと呼ばれるメンバーに囲まれていることが多くて、達也みたいなタイプのクラスメートとは話をするきっかけもなかったな。改めて自分の薄っぺらさに気づいて失望した。

 でも嘆いても何も変わらない。とにかく進もう。……何かきっかけが欲しい。

 昔、父親が「弁護士の仕事は法廷で話すは1割、依頼者からの話を聞くのが9割」って言っていた。
 だからこそ達也本人から、何がどうなってどういう気持ちで美優を家に連れて帰ったのか、ちゃんと彼の言葉で聞きたいのだ。


 でも、もしこのまま達也側から話が聞けないのであれば、被害者の少女の側から話が聞けないだろうか、と考えた。

 おにぎりの話をした時に見せた達也の柔らかな表情、あれは少女のことを思い出したからなんじゃないだろうか?

 二人は一体どんな10年間を過ごしたのだろう。

 そう思った次の瞬間に大輔のスマートフォンが着信を告げた。見知らぬ番号だった。

「はいはーい、田端でっす」
「……弁護士の、田端先生? のお電話番号でしょうか? 田端大輔先生、お間違いございませんか?」
「あー、はいはい。新規のご依頼?」
「いえ、あの、私、木村と申します。木村仁美」
「はぁ、木村さん……キムラーーーー、仁美さん?」
「メールをありがとうございました。それでね、先生にお願いがあって、私、一度山本達也さんにお会いしたくて。家族でも親戚でもないので面会は難しいのですけど、弁護士先生と一緒でしたら可能なんじゃないかと思ってお願いのお電話なんです」

 先を越された。美優に会わせてもらう約束を取り付ける前に向こうからお願いをされてしまった。

「いや、あの、実は、お恥ずかしい話なのですが、まだ彼からちゃんと話が聞けていなくて、心を閉ざしているというか、不甲斐ないです、はい」
「それでしたら、もしかして私がお役に立てるかもしれません」
「へ?」
「実は今、被害者の少女の更生プログラムに携わっておりまして、彼女から達也さんへ宛てたお手紙をお預かりしているんですの」

「うっわ、ホントですか、マジですか。助かります。ってか今どこにいらっしゃいます? 可能でしたらすぐお会いしたいっす」
「あのぉ、失礼ですけど。本当に弁護士の田端先生でらっしゃいます? お声や話し方がすごく若くていらっしゃるから」
「ああ、さーせん。よく言われます。威厳や貫禄がねぇとか、っと、そうだな、会えたらバッチでも免許証でも見せますんで」

 仁美が指定した喫茶店で二人が名刺交換したのはそれからわずか40分後だった。

 大輔は弁護士としての守秘義務に当たる部分以外を仁美に全て話し、仁美もまたこれまでのことを(つまび)らかにした。

「ってぇと、やっぱり虐待の事実はあったってことで、達也は美優を保護したってことっすよね」
「でも許されることではないけれども」
「そっすね、でも報道されているみたいな小児性愛とかじゃなくて良かった。オレあいつを救いたいんす」
「そうなのね、どんな方なの? 美優ちゃんの話ではとにかく優しいイメージなんだけど」


 仁美が大輔に伴われて、達也の面会に訪れたのは翌々日のことだった。
 弁護士の大輔だけならば接見室でアクリル板なしで膝を突き合わせて長時間面会することも出来るが、一般人である仁美を連れているから初回同様アクリル板越しで15分だけだ。


「達也さん、この間差し入れたおにぎり食ってくれたか?」
「は、はは、はい、たべ、食べ、ました。おいおい、美味しかったです」
「そっか、良かった。んじゃもっと腹から声出して行こうぜ」
「は、はは、はい、すみ、ませ、ん」

「達也さん、初めまして、木村です。木村仁美です」
「や、や、山本、た、達也です」

 達也は軽い挨拶をしただけでまた僕が悪いと言って目を伏せた。
 吃音もさることながら、オドオドとした態度といい、とても日本中を震撼させた極悪な誘拐犯には見えなかった。

 なぜ達也は美優を保護してすぐ警察に通報しなかったのだろう。
 もし警察に通報していれば、美優は虐待をする親元から引き離され、児童養護施設に送られただろうが、学校にも通うこともできたし、少なくても今の事態は免れていたはずだ。

 たらればを言っても仕方がないけれども。

「木村さんはな、美優ちゃんを取材したジャーナリストさんで、今も美優ちゃんのお世話をして下さっている方だ」
「みみみ、み、みう、げげ、げん、げんき。お腹空いてない、泣いてない、寂しく……ない? ごごご、ごめんなさい、ぼぼくにそんな資格ない、のに」

 美優の名前を聞いて、初めて顔を上げた達也はまた目を伏せた。

「今日はな、達也さんに差し入れがある。看守さんに渡して帰るから夜になったらじっくり読んでくれ」
「これよ、見て。美優ちゃんが一生懸命書いたの」

 仁美が封筒をアクリル板に押し当てた。

 ピンクのチューリップ柄の封筒の表には『ちゃーちゃんへ』拙い字で書かれていた。

 達也が立ち上がりアクリル板越しに封筒に手を触れる。

「みう……」

「田端先生、お時間です」

 無情な看守の声に大輔が叫ぶ。

「頼む!もう少しだけ! あんただって分かるだろ、やっとこいつの心のドアに手が触れたんだ。頼むよ、もう少し」

「なぁ、達也さん、これは美優ちゃんからあんたへのラブレターだ、会いたいって書いてある。また一緒に暮らしたいって。ストックホルム症候群って聞いたことあるか? 洗脳の一種だ。
 だからこの手紙の言葉全部をそのまま鵜呑みにすることはできないけれどもな、少なくてもオレは、オレと木村さんはあんたと美優ちゃんを救いたい。そう思っている。
 だから話してくれよ、二人のこと。今夜美優ちゃんからのこの手紙じっくり読んで、今度オレが来たら、あんたの言葉で聞かせてくれよ」
「ぼぼぼ、くは、みうが、傷だらけ、寒いのに、足が、サンダルで、お腹空いて痩せてて、どうにかしなきゃ……でも、ごめん、ごめんなさい、僕が悪い、全部僕が、僕はみうにひどいことをした」

 ひどいことが10年の監禁生活を指すのか、性加害を指すのかまでは分からなかったけれども、達也が自分の行動をひどく後悔していることは伝わってきた。

 そしてそれはおそらく自身の保身のための後悔ではなく、美優のための後悔、そんな気がした。



 大輔は行き詰まっていた。


 あの日、ようやく届いたと思った達也心のドアはまた固く閉ざされ、もう何も話そうとしなかった。

 馴染みになった看守の話では、達也は独房で毎晩あの手紙を読み返しているという。
 泣いているような、鼻を啜る音が響く夜もあるという。

 弁護士である自分にうまく取り入って少しでも刑を軽くしたい、とかは微塵も感じられない。
 面会に行ってもただ空虚な表情で瞳には何も映っていないみたいだった。





 大輔は仁美にお願いをした。

 美優と話がしたい。
 もちろん二人っきりで話すことなどさせられるはずがない。


 肉体的には16歳の美優だが、カウンセリングを受け始めたばかりで精神的にはまだ6歳の子供同然だった。

 大人が、言いくるめようと思ったら簡単にそう出来てしまう。
 大輔があの手この手で達也に有利な証言を引き出すことなど造作もない。

 プロジェクトチームから複数人が、美優と大輔の面談に参加した。
 その中にはもちろん木村仁美の姿もあった。

 最初ということもあり、有利な証言を誘導するような様子は何もなかった。
 ただ、淡々といつ、誰が、どこで、どうしてということを聞いてはメモしていた。

 聞けば聞くほど、達也に非がないような気がしてきてしまう。
 実際にはそうではない、未成年者略取、誘拐である。大犯罪だ。
 もし6歳の美優が家出少女だと思ったのであれば警察に通報すべきである、しなければならない。
 自宅に連れ帰って、食事や入浴をさせる、ましてやそのまま生活させるなど言語道断である。

 真冬に水をかけられて外に出され、ワンピースとサンダルで土管の中にいる少女

 同情は禁じ得ないが、だからと言って……。


 仁美は面会に行った時の達也の空虚な表情が忘れられなかった。

 その瞳には何も映っていないような気がした。縁側で柔らかく微笑んでいた幸せそうなご主人の面影はもうない。

 美優を部屋に帰した後、大輔と仁美はそのまま二人で談話室に残り話をした。

 大輔は、達也には吃音の他に若干の発達障害が見られること、ただアルバイトとはいえ仕事もしているのでその辺りでの情状酌量を狙うのは難しい、と言った。

「少なくても、嫌がる美優ちゃんの身柄を無理やり拘束して、自宅へ連れ帰ったとかではなくて少しだけ安心しました。その辺りも何も一切本人の口からは聞けていなくて」と頭を掻きながら笑った。


 その後も何度か美優は達也に手紙を書いた。

 その手紙は美優から仁美に、仁美からから大輔に託された。

 内容はお昼に食べたおうどんが美味しかったよとか、そろそろチューリップの咲く季節だねとか、たわいのないものばかりだったけれども。






 裁判が始まる少し前、大輔に請われて仁美は美優と一緒に達也の面会に行った。

 もちろん誘拐事件の被害者である美優を、連れて行くなんて本来あり得ないことだった。

 けれども大輔と仁美は粘り強く申請を出し続けた。
 それが二人にとって、二人の心理的回復のためには大切なことなのだと。

 一般人である仁美と美優を連れての面会は当然アクリル板越しだ。時間だって15分だけだ。

 鉄の重い扉を開けて看守に付き添われて部屋に入ってきた達也はアクリル板の向こうにみうがいるのを見て目を見開いた。

「ちゃーちゃん、みうだよ」
小松原(こ、ま、、つばら)美優(みゆ)、さん、……あ、あ、貴女の、じじじ人生を、台無しにしてしまって、ごめんなさい、すみません、すすすすみません、すみません」

 達也はその場で土下座をしたがアクリル板がそれを阻む。
 中途半端に膝をつく形になり額がアクリル板についた。

「きちんと椅子に座りなさい」

 達也は看守に注意を受けた。
 腰を浮かして椅子に浅く腰をかける。


「謝らないで、やだよ、いつもみたいにみうって呼んでよ。美優さんじゃなくみうって呼んで。ごめんさないしないで。ごめんなさいならちゅうしてよ、このガラス邪魔だよ、いやだよ、ちゃーちゃん抱っこしてよ」

 キスとか抱っことかの言葉で看守の心象が悪くならないだろうか、大輔も仁美も一瞬ドキリとしたが、看守は両手で耳を塞ぎ、何も聞いていませんというジェスチャーをして、そっと目を逸らした。

 達也の真摯な謝罪が、美優の悲痛な叫びが先ほどまでの杓子定規みたいな態度を軟化させたのだろうか。どちらにせよありがたい。


「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい。貴女が可愛くて、大切で、守りたくて、大好きで、でもそれは間違っていた。

 最初はボロ雑巾みたいで痩せっぽちで傷だらけで、アザも切り傷もたくさんあって、垢だらけで、可哀想で、心配で。

 だんだん、みうは大きくなって、でも無邪気で、いっつもおんぶとか抱っことか、その度にドキッとしてそんな自分に嫌悪して、その気持ちは間違っていた。
 僕なんかが貴女に抱いていい感情じゃなかった、間違えた、間違えていた、ごめんなさい、ごめんね。ごめんなさい、みう」

 達也は声を震わせながらアクリル板に額をつけた。

「ヤダヤダ、やだよ、やだ、ヤダヤダ、謝らないで、間違いじゃないよ、間違いにしないでよ。
 みうはちゃーちゃんが大好きだよ、ちゃーちゃんがいなかったらあの夜に凍えて死んでいたよ。
 みうはちゃーちゃんがいなかったら生きていない。ちゃーちゃんがみうを救ってくれたんだよ」

 美優の手がアクリル板に触れる。

「ぼ、ぼくは、おおお親も死んで、親戚付き合いほとんどないし、ここ恋人はもちろん友達もいなくて、職場でもみんなに馬鹿にされていて、もういつ死んでもいいかなって思っていて、仕事を辞めて、貯金が底をついたら、しし、死のうかなって思っていて、でもみうが来て、僕に『ありがとう』って言ったから、こここんなぼ、ぼ僕も生きていていいのかなって、ぼ、僕だってみうがいなかったら生きていない。
 貴女を幸せにしてあげたかった。でも幸せにする方法が分からなかった。僕は馬鹿だから。ごめんなさい、こんな目に遭わせて、酷い目に遭わせて」

 達也の手がアクリル板越しにみうの手に触れる。

「幸せだよ、みうは10年間ずっと幸せだった。ちゃーちゃんがいてくれたらこれからだって幸せ。
 だから、帰ってきて。帰ってきてね。みう待ってるから。ずっと待ってるから、6でも9でもいいから、帰ってきてね、待ってるよ」

 美優が泣きながら伝えた言葉に達也がゆっくりと首を横に振る。

 アクリル板から手を離して、両手で握り拳を作るようにギュッと握った。



「ちゃーちゃ、ちゃーちゃん、みうの書いたお手紙読んでくれた?」

 達也は首を縦に振らない。実際には手紙を何度も読み返している姿が目撃されていた。大輔はその報告を受けていた。

「みう何回もお手紙書くよ、カウンセリンのせんせいもいいって言ったよ」
「ぼ、ぼぼ、僕に、手紙、なんかカカカカ書かなくていい、幸せに、幸せになって、げげ元気で、幸せに。けけ刑務官さん、面会はしゅう終了します」

 達也が席を立った。泣いている美優を見ないようにしているように、仁美にはそう見えた。


「山本達也さん、美優ちゃんと一緒にいた10年間、貴方は幸せでしたか?」

 問いかけた仁美に向き直って、達也はゆっくりと口を開いた。

「ぼぼ、ぼ、僕はみうがいなかったら、ふふ、おふ、お布団を干すことはなかった。カカカレーライスも作らなかった。仕事も行かなくなった、と思う。みんなに馬鹿にされていたのも知っていたから、いつか嫌になったかも。でもみうがいたから、みうがいてくれたから、仕事も頑張れた。お給料がないとみうに何も買ってあげられないから。……でででも、ごめんなさい、僕が全部悪い。ごめんなさい、ごめんなさい」

 仁美の隣で泣いていた美優がアクリル板に口付けた。

「ちゃーちゃん、ちゅう」

 この行動はマインドコントロールの類いだろうか、自発的な行動のようだが、やはり洗脳下にあるのだろうか。

 何にせよ、まだ何も判断はできない。

 美優のカウンセリングが進み、自分の身に起きたことを客観的に理解できるようになるまでに長い時間が必要だし、

 達也の裁判も同じように長い時間が必要だ、そして刑を終えるにはきっともっともっと長い年月が必要だ。


 その日以来、達也は大輔にぽつりぽつりと語ってくれるようになった。

 最初は痩せて傷だらけの女の子が可哀想で守ってあげなければならないって思ったこと。

 でも美優が自分を頼りにしてくれるのが嬉しくて、自分を馬鹿にしたりしない美優との暮らしが心地よくて楽しくて、
 でもそうこうするうちに美優に初潮が始まり、女の子なんだと気づいてしまった。
 胸が膨らんできても、そうなった時、女性は普通ブラジャーをつけると知っていてもそれを買うことはどうしてもできなかった。
 でもそれゆえに相変わらず無邪気にくっついてくる美優の胸の膨らみを感じてしまい戸惑うことが多くなった。

「みうもう大きいんだからおんぶはダメだよ」「重いから離れて」

 自分の気持ちを悟られないように牽制(けんせい)をしたけれども、あの夜、美優が……と言いかけてやめた。

「ぼぼぼくが悪い。止められなかった。みうが何をしたって僕が止めなきゃいけなかった。みうを傷つけたくなかったのに」

 二人のたった一度きりのセックスを美優本人は振り返って幸せだったと言っていたと仁美から聞いていた。

 達也自身が深く後悔しているのは分かったけれども、安易に大丈夫だよ、とは言ってあげられない。やはりそれは犯罪なのだから。




 それでも、大輔は頑張った。
 少しでも達也の罪が軽くなるように。

 医師の診察による発達障害の診断書を提出した。
 美優のための洋服や靴の購入履歴も探し出して提出した。

 そして、美優本人に裁判への証人出廷を求めた。
 達也の行為は誘拐ではなく虐待児童の保護目的であった、と証言してもらい、情状酌量を求めたかったのだ。

 カウンセリングチームとも綿密に話し合いを重ねた。
 法廷にいる達也の姿を見れば、美優本人の感情が昂って泣き出してしまうのではないか、もしそうなった時には検察側はストックホルム症候群のため正常な判断が出来ないと主張してくることが考えられる。

 また未成年の美優に対しての証人出廷は保護者である母親の同意が必要だった。


 そのため、
①大輔が「美優の証言が事件の真相解明には不可欠」と裁判所に強く働きかける。
②仁美がジャーナリストとして母親の虐待を裏付ける近隣住人の証言を証拠として提出、母親の親権を無視するよう後押しする。
③医師とカウンセラーが「未成年であり脆弱な状態」として、法廷ではなく別室でのビデオリンクでの証言を提案。

 この3段構えでの証人出廷となった。

 もちろん大輔が行う質問の内容は事前に美優に共有され入念に準備を行なった。

 大輔の母親の握ってくれた鮭のおにぎりを渡したことが功を奏し、大輔と美優の関係も良好だ。

 美優のいる別室には仁美の他に特に仲の良い看護師を配備し、美優の精神の安定に努めた。

 法廷のモニターに別室の美優の様子が映し出されると傍聴人たちから声が上がった。

 達也は眩しいものを見るような顔でモニターを見つめた。

「小松原美優さん、こんにちは、弁護士の田端大輔です」
「こ、こんにちは、小松原美優です」
「今日は来てくださって本当にありがとうございます。では早速質問をします。ゆっくりで良いので貴女の言葉で教えてください。
 もちろん貴女には黙秘権があり、答えたくない質問には答えなくても結構です」
「はい」

「小松原美優さん、貴女は嫌がっているのを無理やり山本達也さんの自宅に連れ込まれたのですか?」
「いいえ」
「達也さんが仕事に行っている間、貴女は紐や鎖などで監禁されていたのですか?」
「いいえ、そんなことなかったです」
「達也さんは貴女を暴力で押さえつけたり殴ったり暴言を吐いたりしましたか?」
「いいえ、ちゃーちゃ、達也さんはいつも優しくて……あの夜だって、あのまま外にいたら、私が死んじゃうからって、ホゴしてくれたんです」

 緊張した面持ちのまま、それでも事前に練習した通りのセリフで達也のために証言をした。

 モニターの電源が落とされ、検察側は予想通り「ストックホルム症候群による証言だ」と主張したが、大輔の訴えた保護目的と達也の社会的孤立が考慮され、その日は一旦閉廷となった。




 大輔の目論見通り、達也への求刑は当初想定していた18年よりも5年も短縮され、13年となった。

 13年後二人がどうするのかは分からない。一緒に生きていく判断をするのか、そうではないのか。

 でも、達也はしっかり罪を償い、美優はきちんと自立支援のプログラムを受けて、

 自分たちでちゃんと判断をして欲しい。


 ここまで深く関わった二人をこのまま目を離すなんて出来ないよね。
 二人がこの先どんな道を歩むかも含めてちゃんと見守ろうね、そう言って大輔と仁美はグラスを鳴らした。

 それは今まで飲んだビールの中で一番美味しいビールだった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
私がね、ずっとずっとちゃーちゃん、
ちゃーちゃんばっかり言って泣いていると
ストクホルムって言われるんだって

だからね、みうもう泣かないよ
お勉強もがんばるよ
お料理もがんばるよ
ちゃーちゃんにおいしいご飯作ってあげ、
あ、ちがう、それがだめなんだった。

またお手紙を書くね

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
最近すっごく暑いね
チキュウオンダンカって言うんだって
えへ、みう頭良さそう?
いっぱいお勉強をしてるよ
お金の計算もねできるのよ
1000円持ってて850円のお買い物をしたら
おつりは150円なのよ

・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
ずっと前に焼き芋を食べたよね
ちゃーちゃんがぶうぅっておならして
みうが笑って。
この間焼き芋を食べたら思い出したの。
ちゃーちゃんのくさいおなら
ちゃーちゃんを思い出しながら
焼き芋を食べたよ
ケームショにも焼き芋あるのかなぁ

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
寒いね、雪が降ったんだよ
私たちが会ったあの公園に
行ってみたいって言ったけど
田端さんにダメって言われたよ
なんかねおうちにイジワルなハリガミがあるからって
お庭のチューリップは咲くかなって言ったら
踏み荒らされてるからダメかもなって
あのチューリップまた見たいなぁ

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
みうはお花見に行ったんだよ
ピンクだった、全部ピンク
ちゃーちゃんにも見てもらいたくて
仁美さんにお写真を撮ってもらったのよ
サクラキレイでしょ?
みうも少し大きくなったでしょ?
サクラもみうもキレイ? なんてね
でもやっぱりみうは
チューリップの方が好きだなぁ

・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
アジサイって知ってる?
青いのと紫色のがあるんだよ
センセー?
サンセーとアルカリセーで違うんだって
なんでみうがこんなにお花に詳しいのかって?
えへへ、まだナイショだよー
今度のお手紙にはちゃんと報告できる、かも
楽しみにしていてね


・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん お元気ですか?
私は元気です。
あのね、お花屋さんで働かせてもらうことになったんだよ。
仁美ちゃんが探してくれたの。
最初は週に2回だけだけど、
慣れてきたらもっとたくさん働くの。
お店にはたくさんのお花があるけれど
あの日ちゃーちゃんがみうにくれたピンクのチューリップが
一番大好きなお花なんだよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 週に一回、
 内容はたわいもないことばかりだったけれども
 美優から届く手紙は達也を元気付けた。


 そして達也も自立支援のプログラムを受けながら刑務所での作業も頑張った。

 刑務所では出所後の就労支援も兼ねて毎日様々な作業がある。

 達也は家具作りと鉄加工が好きで楽しかった。

 元々手先は器用な方で、おまけに一人で黙々とやる作業は達也に向いていた。

 刑務官にも一目置かれるような腕前になった。

 無責任なうわさ話や、聞こえるように言われる陰口が横行する世間と違ってここは静かだ。
 ここにいる人はみな一様に何か訳のある人ばかりだ。
 刑務所なんだし当たり前だけれど。

 何があったのか、何をしたのかなんて詮索もしないし、されない。

 それが達也には心地よかった。

 無駄なおしゃべりをしないから吃音を揶揄われることもなかった。


 そして達也は模範囚として3年早く出所することになった。

 逮捕から10年。
 達也42歳、美優26歳の再スタートだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

ねぇ、ちゃーちゃん
大輔さんと仁美ちゃんが
みうのお家に来てね
嬉しいお知らせを聞いたよ
本当に嬉しいよ
がんばってくれてありがとう
チューリップの咲く頃に
ちゃーちゃんとみうの
新しい生活が始まるんだね
みう絶対お迎えに行くからね
みうのアパートね、お庭がないから
チューリップは植えられなくて
でもお店で一番キレイなチューリップを買って持って行くね
早く、ちゃーちゃんに会いたいよ

・・・・・・・・・・・・・・・・・


 達也が刑務所の入り口を出ると、
 ピンクのチューリップを2本花束にした美優が立っていた。「みう……」と呟く達也に、美優が駆け寄った。

 少し離れた場所では、大輔と仁美が見守っていた。

 美優はピンクのパンプスを履いていた。
 達也が買ってくれた靴ではなかったけれども、自分で選んだピンクの靴を履いて自分の足で達也の元に駆け寄りたかった。


「みう、おおおお外で、くく靴、だだだ大丈夫」
「ちゃーちゃん、お帰りなさい。みうね、お仕事してるから、もうお外にも行けるんだよ。

 どこにでも行ける、誰とでもいられる。
 でもね、みうは一緒にいるのはちゃーちゃんがいい。
 ちゃーちゃんは『貴女を幸せにしてあげたかった。でも幸せにする方法が分からなかった』って言っていたけど、大丈夫、みうは自分が幸せになる方法を知ってるよ。
 それはちゃーちゃんと一緒にいること。
 ちゃーちゃんの幸せはみうといることでしょう?

 このお話をしたらね、カウンセリングの先生、これは洗脳ではないなって。
 じゃあ何? って仁美ちゃんが先生に聞いたらね、」

 美優は背伸びをして達也の耳元に唇を寄せて笑いながら言った。

「それは、愛ですって」

 そしてそのまま達也のほっぺに口付けた。

「どどど、どうして、だだだダメだよ、キス」
「いいんだよ、みうはもう大人で、ちゃんと分かってて、それで自分でちゃーちゃんを選んだんだから」

 大輔と仁美が、そんな二人を見ながら笑っていた。

 そのまま4人は、タクシーで美優の住むアパートに移動した。
 このアパートを借りる時も仁美が奔走して、大輔が保証人となってくれた。

 美優お手製のカレーライスを食べたあと、
 大輔がこれからの話を始めた。


「さて、美優特製のうまいカレーも食ったことだし、これからの話をするか。
 達也には前にも言ったけど、あの家にはもう戻れない。
 近所の目があるし、マスコミも押しかけるだろう。
 達也も美優も好奇の視線にさらされることになるから精神衛生上お勧めできない。
 で、ジャーン、売却しましたーーー。

 いろんなネットワークを駆使して一番高く売れる不動産屋探してあの家を売りました。
 都内であの大きさで庭付きだから結構良い値が付きました。
 褒めて? ね、褒めて。オレめっちゃ頑張ったし」
「はいはい、えらいでちゅね、大輔きゅん」

 仁美が揶揄(からか)うような声を出す。


「で、その金で千葉県のある場所に一軒家を購入しました。庭もあるからチューリップも植えられる」
「え? ちゃーちゃん遠くにお引越ししちゃうの?」

 美優が泣きそうな声を出す。

「美優も一緒に行くんだよ」

 仁美が美優の頬を両手で掴んでわしゃわしゃと撫でる。

「え、だって、お店、お花屋さん。みう働かないとお金なくなるよ」
「それもね大丈夫、仁美さんに抜かりはないよ。
 まず美優はね、お花屋さんの店長さんの口利きで千葉のおうちの近くのお花屋さんで働きます。
 おじいちゃんとおばあちゃんがやってるお花屋さんだから今よりちょっと力仕事が増えちゃうかもね、
 なーんてうそうそ、大丈夫。小さなお店だから心配要らない。
 もしかしたら将来的には美優にお店を譲ってもいいって話も出てるよ、今のお店の店長さんが色々話してくれたからね」
「みみみう、すすごいね、すごいよ」
「ちゃーちゃんお留守番しててね。みうがお土産買ってくるよ」

「おっとそうはいかないよ。達也だってまだ若いんだ。ちゃんと仕事しないと」
「達也は鉄加工が上手いって報告を受けたから、オレと仁美さんで千葉に乗り込んで良さげな工場に片っ端から声かけてみたんだ」
「そしたらそこの親方がいい人でねぇ『は、前科? きっちり償ったんなら、んなもん関係ねぇよ』って。

 達也の他にもね、数人ちょっと訳アリの社員さんもいて、あとはインドネシアとかブラジルの方とかね、日本語がほとんど話せない職人さんもいるんだよ。
 仕事をきっちりするなら、他はごちゃごちゃ言わねぇし、言わせねぇって漢気溢れるみたいな人だよ」
「ぼぼ僕は、そそそこで働け、るの、いい、いいいいの?」
「もちろんだよ。二人がちゃんと暮らしていけそうか私たちも一緒に千葉に行って数日間はいるからね。
 今日はもう帰るけれど、明日は朝早くに来るから、二人とも寝坊しないでよ。荷造りして荷物送り出したら、美優のお花屋さんに挨拶に行って、すぐにお引越しだからね。忙しくなるよー」

 そう言って仁美がカラカラと笑った。

 元々そんなに荷物が多いわけではないから、荷造りはあっという間に終わり、引越し屋さんに荷物をお願いをしたあとは花屋さんに最後のご挨拶に行った。

「最初はね、仁美さんから声かけられて、()()美優ちゃんでしょ、誘拐された子だよね?って(ひる)んだんだけど、

 来てもらったら真面目だし、気が利くし、お金のこともちゃんとしてるし、何より明るくて笑顔もいいし、
 うちの店にも美優ちゃん目当てのマダムたちが結構いるのよ。だから店的には戦力ダウンで大ダメージ。

 でもね、仁美さんから美優の新しい人生だって相談されて、そう言うことだったら一肌脱いじゃうって。
 花屋ネットワークもバカにできないでしょ? もし美優がずっと花屋さんでいてくれたらおばさんも嬉しいよ。
 いつか美優の作った花束を買いに千葉まで遊びに行くからね、なぁに京葉線で1時間なんて大した距離じゃないよ。
 今生の別れじゃあるまいし、泣くんじゃないよ、この子は、本当にもう、バカだね、あたしまで泣けてきちまう。
 元気で、元気でね、頑張るんだよ、美優。いっぱい乗り越えてきたあんたなら大丈夫。絶対幸せになるんだよ」


 バタバタと挨拶を終えて花屋を出ると、後ろからけたたましいクラクションが鳴った。

「へーい、彼女、乗って行かない?」

 軽薄なセリフを吐きながらサングラスを外し、身を乗り出して手を振ったのは大輔だった。


 達也と美優が電車で移動なんかしたら、気付かれて大騒ぎになってしまうからレンタカーなのだろう。

「わ」ナンバーをつけた陽気な車でこのまま千葉まで向かう、のか?

「ちょ、大輔くん、もーちょっといい車なかったの?」

 真っ赤な車のドアを手で撫でながら仁美が呆れたような声を出す。

「なんでですか、いいでしょ、このクルマ。ご機嫌なオープンカーで行きましょうよ、レッツ・ドライブ。
 母ちゃんに山ほどおにぎり握って貰いましたから食い放題っすよ」

 後部座席にはこれでもかっていうくらいのおにぎりが置かれていた。

 車に乗って、おにぎりを食べたあと、早起きした3人はぐっすり眠って、目が覚めるとそこは引越し先の家の駐車場だった。

 大輔と仁美に手を引かれ、玄関を開けるとそこは、二人で暮らしたあの家とどこか似た雰囲気、昭和の匂いが漂う中古の一軒家だった。日当たりと風通しは抜群だ。

 玄関を開けて廊下の左側にお風呂と洗面所とトイレ、右側に台所、そして居間と寝室、2階にも二部屋あって、これは達也が子供部屋として使っていた部屋をそのまま美優との生活に使っていたみたいな部屋だった。

「家を売却する時に『ちょこっと家具お預かりセンター』に預けてて、この家を買ったあとに運び込んでたんだよ」

 懐かしいベッドとソファだ、達也と美優が身を寄せ合って暮らしていた時のものだった。

「とは言え、かなり古い家具だからね、早めに買い替えたほうがいいかも。ま、その辺は二人にお任せするとして、ねねね、ちょっと庭に出てみない? 二人に見せたいものがあるんだ」

 嬉しくて思わずくすくすと笑っちゃうようなサプライズが続く中、二人が庭で見たものは、ピンクのチューリップの鉢植えだった。


「え? え? こここ、これ」
「そう、あのチューリップだよ。美優がずっと庭のチューリップにこだわってたみたいだったから、売却前に庭からチューリップを球根ごと抜いてね、知らなかったんだけど、球根を越冬させるのはコツがいるらしいんだよ。だから花屋の店長さんにお世話をお願いしていたの。んで、ひと足先にこっちに届けてたってわけ? どう? すごくないオレ。シゴデキ過ぎない?」

 縁側から庭に降りるための沓脱石(くつぬぎいし)に片足を乗せてヒーローがウィンクをする。

「はいはいはい、エライエライ。さて私たちは夕飯の買い出しに行ってくるから、二人で新しい生活の最初の共同作業、チューリップの鉢植えを庭に植えかける作業をしてくださいな、はいシャベル。
 もうみうはちゃーちゃんの抱っこじゃなくて、自分の足で庭に下りて、チューリップのお世話もできるんだから」

 仁美が達也に真新しいシャベルを手渡した。


「それと、もう一つ。美優、これ開けてみて」

 仁美がポケットの中から小さな紙袋を取り出した。

「うわぁ、可愛い♡ 仁美ちゃん、ありがとう」

 真っ白なシュシュに小さなチャームが付いている。ピンク色のチューリップのチャームだ。


「これはね、私からじゃなくて、小松原(こまつばら)輝晃(てるあき)くんから。アルバイトした自分のお金で買ったんだって」
「て、る……あき、くん」
「そう、美優の()

 美優の頭の中にあの時自分を憎々し気に睨んでいた少年の表情がよみがえる。

「去年かな、『本当のことを聞かせてほしい』って連絡を貰ってね。
『生まれたての俺の目にハサミを刺そうとしたり、顔を濡れたタオルで覆って窒息死させようとしたから、叱ったらふいっと出ていって誘拐された。自業自得だ』って聞かされて育ってきたらしいのよ。
 でも自分が大きくなって、6歳の子供が親から叱られたからって自分の意思で家出をするのはおかしくないかって思い至ったんだって。
 で、真相を話して、一緒に美優に会いに行こうって話したんだけど、申し訳なくて会えないって。
 でもね、お花屋さんに、美優に会いに行ったんだって。自分の名前は名乗らず」

「知ら、なかった。気が、つかなかった」
「そりゃ、そうだよ。気がつく訳なんてないよ。もう10歳の少年の時の面影はないからね、180cmもある青年だし。今は大学生。
()()()()のお勧めのお花はどれですか』って聞いて『私が個人的に大好きなのはこのピンクのチューリップです』って言われたって。
 それで美優お勧めのピンクのチューリップを花束にしてもらったんだって」
「お花屋さんは、お勧めいっぱい聞かれるから、どのお客様のことか、分からない」
「いいんだって、もしいつかまた彼の気持ちに変化があったら会いにくるかもだし、来ないかもだし。
 それは誰にも分からないけれども、少なくても彼は今、美優のことを嫌ってない。美優はもう大丈夫でしょう?」

 達也の分厚い手が美優の頭を優しく撫でた。



 大輔と仁美が出かけたあと、二人は早速あの時のようにチューリップを植えた。

「みみみう、キレイなチューリップが咲くといいね」
「うん、きっとキレイに咲くよ。私が一生懸命お世話するから」


 少しだけ高台になっているこの家の庭から遠くに海が見える。

 キラキラと輝いていて二人の新しい生活を祝福してくれているみたいだった。


 優しい風が吹いて蕾の先端にピンクをはらんだチューリップをそっと揺らした。



【あとがき】

ピンクのチューリップの花言葉は
「愛の芽生え」「誠実な愛」「優しさ」だそうです。

達也の行為は犯罪で決して許されるものではないし、
美優の人生を台無しにしてしまったのも事実です。

それでも、
達也に出会わなければ美優は死んでしまっていたかもしれないし、
美優に出会わなければ達也もまた死んでしまっていたかもしれない。

孤独な二人が身を寄せ合って営まれる穏やかな暮らしの中で愛が育まれた。
私はそんな風に感じながらこのお話を書きました。

もしこのお話を読んで辛い気持ちになってしまった方がいらっしゃったら
本当にすみません。ひとえに私の表現力の稚拙さです。

重いテーマなのでもっとちゃんとしっかり「小説」が書けるようになってから
チャレンジしようかとも思いました。

でももしかしたら今の未熟な私だから、未熟な愛を書けるのかもなって
そんな風に思って文章にしてみました。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。





スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…




 |美優《みゆ》が医師の診察を受けている間に、|仁美《ひとみ》はこれまでの経緯をまとめた。
 それを医院長に読んでもらい、より専門的で長期の支援が必要だと訴えた。
 そしておそらく自宅へ戻すことはかえって良くないと思うという私見も訴えた。
 それは医院長も同意見であった。
 達也逮捕の時に相談した知り合いの警察官も交えて、何度も話し合いの場が持たれた。
 ストックホルム症候群の改善のためのプロジェクトが組まれ、美優はカウンセリングや心理療法を受けることになった。
 それとは別に一般教養、普通の子供が小学校や中学校で習う教育も受けさせなければならない。
 医師、看護師、カウンセラーを中心に、仁美や知り合いの警察官も含めてワンチームで美優の更生にあたることになった。
 ベテランの看護師の他に、美優と歳の近い看護師も数人プロジェクトチームに抜擢された。
 これはこの後、友人と遊びに行くなどの、普通の中高生が当たり前みたいにやっていることを美優にも経験させるためだ。
 友人同士で遊園地に行くみたいなシチュエーションで60代の医者や看護師が引率するわけにはいかない。
 いざ、その時になってからチームに加わってもらうよりも最初から一緒に携わった方が美優の心理的負担も少ないはずだ。
 看護師たちは自らの職務を全うしながらもまるで友達みたいに美優に接してくれた。
 看護師たちが持ってきたイチゴのショートケーキやチョコレートケーキ、モンブランなんかの色とりどりのケーキを見て美優がわぁと声を上げた。
「おいしいね」と笑いながら、一口ずつ食べさせ合う姿を見て、仁美はホッと胸を撫で下ろした。
 あの時達也と並んで座っていた縁側で見せてくれた笑顔
 あの笑顔を奪ってしまったという気持ちがどこかにあった。
 憔悴した美優の顔がどうしても忘れられなかった。
 少しずつ、少しずつ美優の時間が動き始める。
 普通の小学一年生としてのお勉強の時間もあった。ひらがな、カタカナ、漢字
 学校には通っていなかったけれどもテレビで得た知識や、達也との生活の中で理解していたこともあった。
 アナログ時計の見方なんかもそうだ、達也が早番の日は6になったら帰ってくる、遅番の日は9だ。
 達也の裁判はなかなか始まらなかった。
 日本中が注目している大きい事件で、そしておそらく敗訴となる裁判のため弁護士がなかなか決まらなかったのだ。
 もちろん達也には弁護士を雇う余裕などない。
 国選の弁護士が選任されるかと思った矢先、一人の若い弁護士が名乗りをあげた。
「父さん、この事件ただの誘拐じゃない」
「|大輔《だいすけ》、事務所の中で父さんはやめなさい、所長と呼べ」
「事務所ったって、父さんと母さんとオレしかいないじゃないか」
「母さんじゃない、事務員の|田端《たばた》さんだ」
「いや、そんなこと言ったらここにいる全員田端さんじゃないか」
「若先生、ただの誘拐じゃないってどういうこと?」
「母さんまで若先生って。ま、まぁいいか。この事件誘拐じゃなく虐待から少女を救った側面もあるんじゃないかな、きっとそうだ」
「ふむ、確かにそうかもしれんな。だが弁護は厳しいぞ、未成年者略取・誘拐罪だ。監禁罪も併合して15年いや20年か?
 虐待から少女を救うという保護目的だったという事実が立証出来たとしても、厳しいだろうな。
 10年間という長い監禁期間に加えて、|破瓜《はか》の痕跡があるって報道だっただろう?
 性的関係が悪質と裁判官に判断されれば無期懲役だってあり得る。しかもおそらく金はないんじゃないか、国選に頼むって話だし」
「そうです! だから大先生、お願いです。オレがプロボノとして彼の弁護を無料で引き受けたい」
「無料でってお前」
「あら、いいじゃないですか、あなた。立派な心意気ですよ」
「オレはね、弁護士として働く父さんに大切に育てられて十分な教育も受けさせて貰った。それがどんなに幸せなことか知っているんです。だからせっかく得たこの知識で一人でも多くの人を救いたい、いや、救ってみせる」
 事務所の椅子に片足を乗せたヒーローは母親にお行儀が悪いと|嗜《たしな》められ舌を出して頭を掻いた。
 その数日後、じっくりと事件の内容を調べあげたあと、
 大輔は意気揚々と達也の元へ会いに行った。
「オレの名前は田端大輔、あんたを救うためにここに来た!」
 アクリル板越しに熱い挨拶をした大輔をチラッと見ただけで達也は俯いてしまった。
「ああああ、あの、ぼぼぼ、僕はヤマヤマ山本、タタタ達也って言います、ごめんなさい。あの、僕が悪いので」
 そう言って口をつぐんでしまった。
 もっとこう、
「わぁ、よろしくお願いします。早くここから出してください。誘拐なんかじゃなかったんです。僕は美優を救いたかっただけなんです」と
そんな展開になると思っていたのに。全く打ち解けられる気がしない。
「おいっ、達也さん、もっとちゃんとこっちを見てくれよ!オレ、あんたを信じたいんだって!」
 アクリル板をバンッ! と叩くと、看守に「静かにしてください」と|嗜《たしな》められた。
 それから看守は「そろそろ時間です、あと5分」と冷たく言い放った。
 くそっ、やっぱりアクリル板越しじゃダメだ。熱意が伝わらねぇ。
 次回は接見室で直接膝を突き合わせて話を聞こう。
 そもそも10年間の話をするのに15分やそこらじゃ埒が開かねぇ。
 弁護権を行使して時間を目一杯使って絶対正直な気持ちを聞き出してみせる。
 最後の最後に、
「一番最初にあの子に食わせたの何だった?」と聞いたら、
「………おお、おに、おにぎり、鮭の」と答えてくれた。
 その時、ほんの少しだけど達也が柔らかい表情を見せた。
 大輔に美優のことに聞かれて、達也は最初のあの夜のことを思い出していた。
 空気まで凍ってしまいそうな寒い夜、月の大きなあの夜に初めて美優に会った。
 ボロ雑巾みたいなワンピースを着て、棒っきれみたいに痩せた身体で、一生懸命におにぎりを頬張っていた。
 達也は胸が締め付けられる思いがした。美優は今お腹を空かせていないだろうか。
「おにぎりか、いいよな、日本人の心だ。オレもおにぎりが好きだ。よし決めた、次はおにぎり持ってくるよ、うちの母ちゃんの握るおにぎりはうめぇぞ。差し入れにするからいっぱい食え。食わなきゃ戦えねぇからな。今日からオレとお前は運命共同体だ。しっかり飯を食っていっぱい話をしよう」
 間違いねぇ、あいつは誘拐とか監禁とか性暴力とかそんな大それたことが出来るような人間じゃねぇ。
 未成年の少女を自宅に連れ帰って、そのまま10年過ごしていたのは疑いようもない事実だけれども、そこには絶対に何か理由があるはずなんだ。達也の話し方、表情を一つずつ思い返しながら帰路についた。
 フリージャーナリストの|木村《きむら》|仁美《ひとみ》と言う人が十年前に書いた記事も熟読した。
 もちろん当時の雑誌は入手できないからネットにアップされている記事だ。
 ここに書かれている虐待の事実は本当にあったのだろうか。
 その署名欄からあっけないくらい簡単に仁美の連絡先のメールアドレスを入手できた。
 すげぇな、このおばさん、氏名に生年月日に連絡先、個人情報丸出しだ。
 当時の大論争を考えれば脅迫なんかの類も多かっただろうに。
 ……彼女はペンで戦っている人なのだろう。
 そしてそのページの木村仁美の顔写真を見て、どこかで見た顔だと思った。
 しばらく考えたけれども思い出せず、諦めて風呂に入っている時に、唐突に思い出した。
 被害者の少女の救出の後、彼女の実家前で再会シーンが報道された。
 その時に一緒に写っていたおばさんだ。でっかい鳥の巣みたいなヘアースタイルは見間違いようがない。
 少女は今、更生プログラムを受けていると聞いている。
 少女の保護の観点からどこの病院、どこの施設にいるのかは明らかにされていないが、もしかして木村さんは今も少女に近しい場所にいるのだろうか?
 その日のうちに大輔は仁美にメールを送った。
 次の面会日、大輔はアルミホイルに包まれたおにぎりを山ほど持ってきた。
「差し入れだ。母ちゃんに握らせた。食わなきゃ戦えねぇからな」そう言って豪快に笑った。
 看守は、(いや、それにしても多すぎだろ……)と呆れつつ、心の中でそっと笑った。
 大輔は面会時間ギリギリまで粘って根気よく達也に話を聞いたけれども、肝心の達也は僕が悪いと繰り返すばかりで要領を得ない。
 なかなか腹を割って話すってのは難しいな。
 弁護士になって以来、大輔が受け持った依頼人は、ほとんどが、自分は悪くないと繰り返し、身の上の話を大袈裟に語ってくれるタイプばかりだった。
 そっか、そう言えばオレって学生時代とかも、いわゆる陽キャと呼ばれるメンバーに囲まれていることが多くて、達也みたいなタイプのクラスメートとは話をするきっかけもなかったな。改めて自分の薄っぺらさに気づいて失望した。
 でも嘆いても何も変わらない。とにかく進もう。……何かきっかけが欲しい。
 昔、父親が「弁護士の仕事は法廷で話すは1割、依頼者からの話を聞くのが9割」って言っていた。
 だからこそ達也本人から、何がどうなってどういう気持ちで美優を家に連れて帰ったのか、ちゃんと彼の言葉で聞きたいのだ。
 でも、もしこのまま達也側から話が聞けないのであれば、被害者の少女の側から話が聞けないだろうか、と考えた。
 おにぎりの話をした時に見せた達也の柔らかな表情、あれは少女のことを思い出したからなんじゃないだろうか?
 二人は一体どんな10年間を過ごしたのだろう。
 そう思った次の瞬間に大輔のスマートフォンが着信を告げた。見知らぬ番号だった。
「はいはーい、田端でっす」
「……弁護士の、田端先生? のお電話番号でしょうか? 田端大輔先生、お間違いございませんか?」
「あー、はいはい。新規のご依頼?」
「いえ、あの、私、木村と申します。木村仁美」
「はぁ、木村さん……キムラーーーー、仁美さん?」
「メールをありがとうございました。それでね、先生にお願いがあって、私、一度山本達也さんにお会いしたくて。家族でも親戚でもないので面会は難しいのですけど、弁護士先生と一緒でしたら可能なんじゃないかと思ってお願いのお電話なんです」
 先を越された。美優に会わせてもらう約束を取り付ける前に向こうからお願いをされてしまった。
「いや、あの、実は、お恥ずかしい話なのですが、まだ彼からちゃんと話が聞けていなくて、心を閉ざしているというか、不甲斐ないです、はい」
「それでしたら、もしかして私がお役に立てるかもしれません」
「へ?」
「実は今、被害者の少女の更生プログラムに携わっておりまして、彼女から達也さんへ宛てたお手紙をお預かりしているんですの」
「うっわ、ホントですか、マジですか。助かります。ってか今どこにいらっしゃいます? 可能でしたらすぐお会いしたいっす」
「あのぉ、失礼ですけど。本当に弁護士の田端先生でらっしゃいます? お声や話し方がすごく若くていらっしゃるから」
「ああ、さーせん。よく言われます。威厳や貫禄がねぇとか、っと、そうだな、会えたらバッチでも免許証でも見せますんで」
 仁美が指定した喫茶店で二人が名刺交換したのはそれからわずか40分後だった。
 大輔は弁護士としての守秘義務に当たる部分以外を仁美に全て話し、仁美もまたこれまでのことを|詳《つまび》らかにした。
「ってぇと、やっぱり虐待の事実はあったってことで、達也は美優を保護したってことっすよね」
「でも許されることではないけれども」
「そっすね、でも報道されているみたいな小児性愛とかじゃなくて良かった。オレあいつを救いたいんす」
「そうなのね、どんな方なの? 美優ちゃんの話ではとにかく優しいイメージなんだけど」
 仁美が大輔に伴われて、達也の面会に訪れたのは翌々日のことだった。
 弁護士の大輔だけならば接見室でアクリル板なしで膝を突き合わせて長時間面会することも出来るが、一般人である仁美を連れているから初回同様アクリル板越しで15分だけだ。
「達也さん、この間差し入れたおにぎり食ってくれたか?」
「は、はは、はい、たべ、食べ、ました。おいおい、美味しかったです」
「そっか、良かった。んじゃもっと腹から声出して行こうぜ」
「は、はは、はい、すみ、ませ、ん」
「達也さん、初めまして、木村です。木村仁美です」
「や、や、山本、た、達也です」
 達也は軽い挨拶をしただけでまた僕が悪いと言って目を伏せた。
 吃音もさることながら、オドオドとした態度といい、とても日本中を震撼させた極悪な誘拐犯には見えなかった。
 なぜ達也は美優を保護してすぐ警察に通報しなかったのだろう。
 もし警察に通報していれば、美優は虐待をする親元から引き離され、児童養護施設に送られただろうが、学校にも通うこともできたし、少なくても今の事態は免れていたはずだ。
 たらればを言っても仕方がないけれども。
「木村さんはな、美優ちゃんを取材したジャーナリストさんで、今も美優ちゃんのお世話をして下さっている方だ」
「みみみ、み、みう、げげ、げん、げんき。お腹空いてない、泣いてない、寂しく……ない? ごごご、ごめんなさい、ぼぼくにそんな資格ない、のに」
 美優の名前を聞いて、初めて顔を上げた達也はまた目を伏せた。
「今日はな、達也さんに差し入れがある。看守さんに渡して帰るから夜になったらじっくり読んでくれ」
「これよ、見て。美優ちゃんが一生懸命書いたの」
 仁美が封筒をアクリル板に押し当てた。
 ピンクのチューリップ柄の封筒の表には『ちゃーちゃんへ』拙い字で書かれていた。
 達也が立ち上がりアクリル板越しに封筒に手を触れる。
「みう……」
「田端先生、お時間です」
 無情な看守の声に大輔が叫ぶ。
「頼む!もう少しだけ! あんただって分かるだろ、やっとこいつの心のドアに手が触れたんだ。頼むよ、もう少し」
「なぁ、達也さん、これは美優ちゃんからあんたへのラブレターだ、会いたいって書いてある。また一緒に暮らしたいって。ストックホルム症候群って聞いたことあるか? 洗脳の一種だ。
 だからこの手紙の言葉全部をそのまま鵜呑みにすることはできないけれどもな、少なくてもオレは、オレと木村さんはあんたと美優ちゃんを救いたい。そう思っている。
 だから話してくれよ、二人のこと。今夜美優ちゃんからのこの手紙じっくり読んで、今度オレが来たら、あんたの言葉で聞かせてくれよ」
「ぼぼぼ、くは、みうが、傷だらけ、寒いのに、足が、サンダルで、お腹空いて痩せてて、どうにかしなきゃ……でも、ごめん、ごめんなさい、僕が悪い、全部僕が、僕はみうにひどいことをした」
 ひどいことが10年の監禁生活を指すのか、性加害を指すのかまでは分からなかったけれども、達也が自分の行動をひどく後悔していることは伝わってきた。
 そしてそれはおそらく自身の保身のための後悔ではなく、美優のための後悔、そんな気がした。
 大輔は行き詰まっていた。
 あの日、ようやく届いたと思った達也心のドアはまた固く閉ざされ、もう何も話そうとしなかった。
 馴染みになった看守の話では、達也は独房で毎晩あの手紙を読み返しているという。
 泣いているような、鼻を啜る音が響く夜もあるという。
 弁護士である自分にうまく取り入って少しでも刑を軽くしたい、とかは微塵も感じられない。
 面会に行ってもただ空虚な表情で瞳には何も映っていないみたいだった。
 大輔は仁美にお願いをした。
 美優と話がしたい。
 もちろん二人っきりで話すことなどさせられるはずがない。
 肉体的には16歳の美優だが、カウンセリングを受け始めたばかりで精神的にはまだ6歳の子供同然だった。
 大人が、言いくるめようと思ったら簡単にそう出来てしまう。
 大輔があの手この手で達也に有利な証言を引き出すことなど造作もない。
 プロジェクトチームから複数人が、美優と大輔の面談に参加した。
 その中にはもちろん木村仁美の姿もあった。
 最初ということもあり、有利な証言を誘導するような様子は何もなかった。
 ただ、淡々といつ、誰が、どこで、どうしてということを聞いてはメモしていた。
 聞けば聞くほど、達也に非がないような気がしてきてしまう。
 実際にはそうではない、未成年者略取、誘拐である。大犯罪だ。
 もし6歳の美優が家出少女だと思ったのであれば警察に通報すべきである、しなければならない。
 自宅に連れ帰って、食事や入浴をさせる、ましてやそのまま生活させるなど言語道断である。
 真冬に水をかけられて外に出され、ワンピースとサンダルで土管の中にいる少女
 同情は禁じ得ないが、だからと言って……。
 仁美は面会に行った時の達也の空虚な表情が忘れられなかった。
 その瞳には何も映っていないような気がした。縁側で柔らかく微笑んでいた幸せそうなご主人の面影はもうない。
 美優を部屋に帰した後、大輔と仁美はそのまま二人で談話室に残り話をした。
 大輔は、達也には吃音の他に若干の発達障害が見られること、ただアルバイトとはいえ仕事もしているのでその辺りでの情状酌量を狙うのは難しい、と言った。
「少なくても、嫌がる美優ちゃんの身柄を無理やり拘束して、自宅へ連れ帰ったとかではなくて少しだけ安心しました。その辺りも何も一切本人の口からは聞けていなくて」と頭を掻きながら笑った。
 その後も何度か美優は達也に手紙を書いた。
 その手紙は美優から仁美に、仁美からから大輔に託された。
 内容はお昼に食べたおうどんが美味しかったよとか、そろそろチューリップの咲く季節だねとか、たわいのないものばかりだったけれども。
 裁判が始まる少し前、大輔に請われて仁美は美優と一緒に達也の面会に行った。
 もちろん誘拐事件の被害者である美優を、連れて行くなんて本来あり得ないことだった。
 けれども大輔と仁美は粘り強く申請を出し続けた。
 それが二人にとって、二人の心理的回復のためには大切なことなのだと。
 一般人である仁美と美優を連れての面会は当然アクリル板越しだ。時間だって15分だけだ。
 鉄の重い扉を開けて看守に付き添われて部屋に入ってきた達也はアクリル板の向こうにみうがいるのを見て目を見開いた。
「ちゃーちゃん、みうだよ」
「|小松原《こ、ま、、つばら》、|美優《みゆ》、さん、……あ、あ、貴女の、じじじ人生を、台無しにしてしまって、ごめんなさい、すみません、すすすすみません、すみません」
 達也はその場で土下座をしたがアクリル板がそれを阻む。
 中途半端に膝をつく形になり額がアクリル板についた。
「きちんと椅子に座りなさい」
 達也は看守に注意を受けた。
 腰を浮かして椅子に浅く腰をかける。
「謝らないで、やだよ、いつもみたいにみうって呼んでよ。美優さんじゃなくみうって呼んで。ごめんさないしないで。ごめんなさいならちゅうしてよ、このガラス邪魔だよ、いやだよ、ちゃーちゃん抱っこしてよ」
 キスとか抱っことかの言葉で看守の心象が悪くならないだろうか、大輔も仁美も一瞬ドキリとしたが、看守は両手で耳を塞ぎ、何も聞いていませんというジェスチャーをして、そっと目を逸らした。
 達也の真摯な謝罪が、美優の悲痛な叫びが先ほどまでの杓子定規みたいな態度を軟化させたのだろうか。どちらにせよありがたい。
「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい。貴女が可愛くて、大切で、守りたくて、大好きで、でもそれは間違っていた。
 最初はボロ雑巾みたいで痩せっぽちで傷だらけで、アザも切り傷もたくさんあって、垢だらけで、可哀想で、心配で。
 だんだん、みうは大きくなって、でも無邪気で、いっつもおんぶとか抱っことか、その度にドキッとしてそんな自分に嫌悪して、その気持ちは間違っていた。
 僕なんかが貴女に抱いていい感情じゃなかった、間違えた、間違えていた、ごめんなさい、ごめんね。ごめんなさい、みう」
 達也は声を震わせながらアクリル板に額をつけた。
「ヤダヤダ、やだよ、やだ、ヤダヤダ、謝らないで、間違いじゃないよ、間違いにしないでよ。
 みうはちゃーちゃんが大好きだよ、ちゃーちゃんがいなかったらあの夜に凍えて死んでいたよ。
 みうはちゃーちゃんがいなかったら生きていない。ちゃーちゃんがみうを救ってくれたんだよ」
 美優の手がアクリル板に触れる。
「ぼ、ぼくは、おおお親も死んで、親戚付き合いほとんどないし、ここ恋人はもちろん友達もいなくて、職場でもみんなに馬鹿にされていて、もういつ死んでもいいかなって思っていて、仕事を辞めて、貯金が底をついたら、しし、死のうかなって思っていて、でもみうが来て、僕に『ありがとう』って言ったから、こここんなぼ、ぼ僕も生きていていいのかなって、ぼ、僕だってみうがいなかったら生きていない。
 貴女を幸せにしてあげたかった。でも幸せにする方法が分からなかった。僕は馬鹿だから。ごめんなさい、こんな目に遭わせて、酷い目に遭わせて」
 達也の手がアクリル板越しにみうの手に触れる。
「幸せだよ、みうは10年間ずっと幸せだった。ちゃーちゃんがいてくれたらこれからだって幸せ。
 だから、帰ってきて。帰ってきてね。みう待ってるから。ずっと待ってるから、6でも9でもいいから、帰ってきてね、待ってるよ」
 美優が泣きながら伝えた言葉に達也がゆっくりと首を横に振る。
 アクリル板から手を離して、両手で握り拳を作るようにギュッと握った。
「ちゃーちゃ、ちゃーちゃん、みうの書いたお手紙読んでくれた?」
 達也は首を縦に振らない。実際には手紙を何度も読み返している姿が目撃されていた。大輔はその報告を受けていた。
「みう何回もお手紙書くよ、カウンセリンのせんせいもいいって言ったよ」
「ぼ、ぼぼ、僕に、手紙、なんかカカカカ書かなくていい、幸せに、幸せになって、げげ元気で、幸せに。けけ刑務官さん、面会はしゅう終了します」
 達也が席を立った。泣いている美優を見ないようにしているように、仁美にはそう見えた。
「山本達也さん、美優ちゃんと一緒にいた10年間、貴方は幸せでしたか?」
 問いかけた仁美に向き直って、達也はゆっくりと口を開いた。
「ぼぼ、ぼ、僕はみうがいなかったら、ふふ、おふ、お布団を干すことはなかった。カカカレーライスも作らなかった。仕事も行かなくなった、と思う。みんなに馬鹿にされていたのも知っていたから、いつか嫌になったかも。でもみうがいたから、みうがいてくれたから、仕事も頑張れた。お給料がないとみうに何も買ってあげられないから。……でででも、ごめんなさい、僕が全部悪い。ごめんなさい、ごめんなさい」
 仁美の隣で泣いていた美優がアクリル板に口付けた。
「ちゃーちゃん、ちゅう」
 この行動はマインドコントロールの類いだろうか、自発的な行動のようだが、やはり洗脳下にあるのだろうか。
 何にせよ、まだ何も判断はできない。
 美優のカウンセリングが進み、自分の身に起きたことを客観的に理解できるようになるまでに長い時間が必要だし、
 達也の裁判も同じように長い時間が必要だ、そして刑を終えるにはきっともっともっと長い年月が必要だ。
 その日以来、達也は大輔にぽつりぽつりと語ってくれるようになった。
 最初は痩せて傷だらけの女の子が可哀想で守ってあげなければならないって思ったこと。
 でも美優が自分を頼りにしてくれるのが嬉しくて、自分を馬鹿にしたりしない美優との暮らしが心地よくて楽しくて、
 でもそうこうするうちに美優に初潮が始まり、女の子なんだと気づいてしまった。
 胸が膨らんできても、そうなった時、女性は普通ブラジャーをつけると知っていてもそれを買うことはどうしてもできなかった。
 でもそれゆえに相変わらず無邪気にくっついてくる美優の胸の膨らみを感じてしまい戸惑うことが多くなった。
「みうもう大きいんだからおんぶはダメだよ」「重いから離れて」
 自分の気持ちを悟られないように|牽制《けんせい》をしたけれども、あの夜、美優が……と言いかけてやめた。
「ぼぼぼくが悪い。止められなかった。みうが何をしたって僕が止めなきゃいけなかった。みうを傷つけたくなかったのに」
 二人のたった一度きりのセックスを美優本人は振り返って幸せだったと言っていたと仁美から聞いていた。
 達也自身が深く後悔しているのは分かったけれども、安易に大丈夫だよ、とは言ってあげられない。やはりそれは犯罪なのだから。
 それでも、大輔は頑張った。
 少しでも達也の罪が軽くなるように。
 医師の診察による発達障害の診断書を提出した。
 美優のための洋服や靴の購入履歴も探し出して提出した。
 そして、美優本人に裁判への証人出廷を求めた。
 達也の行為は誘拐ではなく虐待児童の保護目的であった、と証言してもらい、情状酌量を求めたかったのだ。
 カウンセリングチームとも綿密に話し合いを重ねた。
 法廷にいる達也の姿を見れば、美優本人の感情が昂って泣き出してしまうのではないか、もしそうなった時には検察側はストックホルム症候群のため正常な判断が出来ないと主張してくることが考えられる。
 また未成年の美優に対しての証人出廷は保護者である母親の同意が必要だった。
 そのため、
①大輔が「美優の証言が事件の真相解明には不可欠」と裁判所に強く働きかける。
②仁美がジャーナリストとして母親の虐待を裏付ける近隣住人の証言を証拠として提出、母親の親権を無視するよう後押しする。
③医師とカウンセラーが「未成年であり脆弱な状態」として、法廷ではなく別室でのビデオリンクでの証言を提案。
 この3段構えでの証人出廷となった。
 もちろん大輔が行う質問の内容は事前に美優に共有され入念に準備を行なった。
 大輔の母親の握ってくれた鮭のおにぎりを渡したことが功を奏し、大輔と美優の関係も良好だ。
 美優のいる別室には仁美の他に特に仲の良い看護師を配備し、美優の精神の安定に努めた。
 法廷のモニターに別室の美優の様子が映し出されると傍聴人たちから声が上がった。
 達也は眩しいものを見るような顔でモニターを見つめた。
「小松原美優さん、こんにちは、弁護士の田端大輔です」
「こ、こんにちは、小松原美優です」
「今日は来てくださって本当にありがとうございます。では早速質問をします。ゆっくりで良いので貴女の言葉で教えてください。
 もちろん貴女には黙秘権があり、答えたくない質問には答えなくても結構です」
「はい」
「小松原美優さん、貴女は嫌がっているのを無理やり山本達也さんの自宅に連れ込まれたのですか?」
「いいえ」
「達也さんが仕事に行っている間、貴女は紐や鎖などで監禁されていたのですか?」
「いいえ、そんなことなかったです」
「達也さんは貴女を暴力で押さえつけたり殴ったり暴言を吐いたりしましたか?」
「いいえ、ちゃーちゃ、達也さんはいつも優しくて……あの夜だって、あのまま外にいたら、私が死んじゃうからって、ホゴしてくれたんです」
 緊張した面持ちのまま、それでも事前に練習した通りのセリフで達也のために証言をした。
 モニターの電源が落とされ、検察側は予想通り「ストックホルム症候群による証言だ」と主張したが、大輔の訴えた保護目的と達也の社会的孤立が考慮され、その日は一旦閉廷となった。
 大輔の目論見通り、達也への求刑は当初想定していた18年よりも5年も短縮され、13年となった。
 13年後二人がどうするのかは分からない。一緒に生きていく判断をするのか、そうではないのか。
 でも、達也はしっかり罪を償い、美優はきちんと自立支援のプログラムを受けて、
 自分たちでちゃんと判断をして欲しい。
 ここまで深く関わった二人をこのまま目を離すなんて出来ないよね。
 二人がこの先どんな道を歩むかも含めてちゃんと見守ろうね、そう言って大輔と仁美はグラスを鳴らした。
 それは今まで飲んだビールの中で一番美味しいビールだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
私がね、ずっとずっとちゃーちゃん、
ちゃーちゃんばっかり言って泣いていると
ストクホルムって言われるんだって
だからね、みうもう泣かないよ
お勉強もがんばるよ
お料理もがんばるよ
ちゃーちゃんにおいしいご飯作ってあげ、
あ、ちがう、それがだめなんだった。
またお手紙を書くね
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
最近すっごく暑いね
チキュウオンダンカって言うんだって
えへ、みう頭良さそう?
いっぱいお勉強をしてるよ
お金の計算もねできるのよ
1000円持ってて850円のお買い物をしたら
おつりは150円なのよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
ずっと前に焼き芋を食べたよね
ちゃーちゃんがぶうぅっておならして
みうが笑って。
この間焼き芋を食べたら思い出したの。
ちゃーちゃんのくさいおなら
ちゃーちゃんを思い出しながら
焼き芋を食べたよ
ケームショにも焼き芋あるのかなぁ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
寒いね、雪が降ったんだよ
私たちが会ったあの公園に
行ってみたいって言ったけど
田端さんにダメって言われたよ
なんかねおうちにイジワルなハリガミがあるからって
お庭のチューリップは咲くかなって言ったら
踏み荒らされてるからダメかもなって
あのチューリップまた見たいなぁ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
みうはお花見に行ったんだよ
ピンクだった、全部ピンク
ちゃーちゃんにも見てもらいたくて
仁美さんにお写真を撮ってもらったのよ
サクラキレイでしょ?
みうも少し大きくなったでしょ?
サクラもみうもキレイ? なんてね
でもやっぱりみうは
チューリップの方が好きだなぁ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
アジサイって知ってる?
青いのと紫色のがあるんだよ
センセー?
サンセーとアルカリセーで違うんだって
なんでみうがこんなにお花に詳しいのかって?
えへへ、まだナイショだよー
今度のお手紙にはちゃんと報告できる、かも
楽しみにしていてね
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん お元気ですか?
私は元気です。
あのね、お花屋さんで働かせてもらうことになったんだよ。
仁美ちゃんが探してくれたの。
最初は週に2回だけだけど、
慣れてきたらもっとたくさん働くの。
お店にはたくさんのお花があるけれど
あの日ちゃーちゃんがみうにくれたピンクのチューリップが
一番大好きなお花なんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 週に一回、
 内容はたわいもないことばかりだったけれども
 美優から届く手紙は達也を元気付けた。
 そして達也も自立支援のプログラムを受けながら刑務所での作業も頑張った。
 刑務所では出所後の就労支援も兼ねて毎日様々な作業がある。
 達也は家具作りと鉄加工が好きで楽しかった。
 元々手先は器用な方で、おまけに一人で黙々とやる作業は達也に向いていた。
 刑務官にも一目置かれるような腕前になった。
 無責任なうわさ話や、聞こえるように言われる陰口が横行する世間と違ってここは静かだ。
 ここにいる人はみな一様に何か訳のある人ばかりだ。
 刑務所なんだし当たり前だけれど。
 何があったのか、何をしたのかなんて詮索もしないし、されない。
 それが達也には心地よかった。
 無駄なおしゃべりをしないから吃音を揶揄われることもなかった。
 そして達也は模範囚として3年早く出所することになった。
 逮捕から10年。
 達也42歳、美優26歳の再スタートだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ねぇ、ちゃーちゃん
大輔さんと仁美ちゃんが
みうのお家に来てね
嬉しいお知らせを聞いたよ
本当に嬉しいよ
がんばってくれてありがとう
チューリップの咲く頃に
ちゃーちゃんとみうの
新しい生活が始まるんだね
みう絶対お迎えに行くからね
みうのアパートね、お庭がないから
チューリップは植えられなくて
でもお店で一番キレイなチューリップを買って持って行くね
早く、ちゃーちゃんに会いたいよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 達也が刑務所の入り口を出ると、
 ピンクのチューリップを2本花束にした美優が立っていた。「みう……」と呟く達也に、美優が駆け寄った。
 少し離れた場所では、大輔と仁美が見守っていた。
 美優はピンクのパンプスを履いていた。
 達也が買ってくれた靴ではなかったけれども、自分で選んだピンクの靴を履いて自分の足で達也の元に駆け寄りたかった。
「みう、おおおお外で、くく靴、だだだ大丈夫」
「ちゃーちゃん、お帰りなさい。みうね、お仕事してるから、もうお外にも行けるんだよ。
 どこにでも行ける、誰とでもいられる。
 でもね、みうは一緒にいるのはちゃーちゃんがいい。
 ちゃーちゃんは『貴女を幸せにしてあげたかった。でも幸せにする方法が分からなかった』って言っていたけど、大丈夫、みうは自分が幸せになる方法を知ってるよ。
 それはちゃーちゃんと一緒にいること。
 ちゃーちゃんの幸せはみうといることでしょう?
 このお話をしたらね、カウンセリングの先生、これは洗脳ではないなって。
 じゃあ何? って仁美ちゃんが先生に聞いたらね、」
 美優は背伸びをして達也の耳元に唇を寄せて笑いながら言った。
「それは、愛ですって」
 そしてそのまま達也のほっぺに口付けた。
「どどど、どうして、だだだダメだよ、キス」
「いいんだよ、みうはもう大人で、ちゃんと分かってて、それで自分でちゃーちゃんを選んだんだから」
 大輔と仁美が、そんな二人を見ながら笑っていた。
 そのまま4人は、タクシーで美優の住むアパートに移動した。
 このアパートを借りる時も仁美が奔走して、大輔が保証人となってくれた。
 美優お手製のカレーライスを食べたあと、
 大輔がこれからの話を始めた。
「さて、美優特製のうまいカレーも食ったことだし、これからの話をするか。
 達也には前にも言ったけど、あの家にはもう戻れない。
 近所の目があるし、マスコミも押しかけるだろう。
 達也も美優も好奇の視線にさらされることになるから精神衛生上お勧めできない。
 で、ジャーン、売却しましたーーー。
 いろんなネットワークを駆使して一番高く売れる不動産屋探してあの家を売りました。
 都内であの大きさで庭付きだから結構良い値が付きました。
 褒めて? ね、褒めて。オレめっちゃ頑張ったし」
「はいはい、えらいでちゅね、大輔きゅん」
 仁美が|揶揄《からか》うような声を出す。
「で、その金で千葉県のある場所に一軒家を購入しました。庭もあるからチューリップも植えられる」
「え? ちゃーちゃん遠くにお引越ししちゃうの?」
 美優が泣きそうな声を出す。
「美優も一緒に行くんだよ」
 仁美が美優の頬を両手で掴んでわしゃわしゃと撫でる。
「え、だって、お店、お花屋さん。みう働かないとお金なくなるよ」
「それもね大丈夫、仁美さんに抜かりはないよ。
 まず美優はね、お花屋さんの店長さんの口利きで千葉のおうちの近くのお花屋さんで働きます。
 おじいちゃんとおばあちゃんがやってるお花屋さんだから今よりちょっと力仕事が増えちゃうかもね、
 なーんてうそうそ、大丈夫。小さなお店だから心配要らない。
 もしかしたら将来的には美優にお店を譲ってもいいって話も出てるよ、今のお店の店長さんが色々話してくれたからね」
「みみみう、すすごいね、すごいよ」
「ちゃーちゃんお留守番しててね。みうがお土産買ってくるよ」
「おっとそうはいかないよ。達也だってまだ若いんだ。ちゃんと仕事しないと」
「達也は鉄加工が上手いって報告を受けたから、オレと仁美さんで千葉に乗り込んで良さげな工場に片っ端から声かけてみたんだ」
「そしたらそこの親方がいい人でねぇ『は、前科? きっちり償ったんなら、んなもん関係ねぇよ』って。
 達也の他にもね、数人ちょっと訳アリの社員さんもいて、あとはインドネシアとかブラジルの方とかね、日本語がほとんど話せない職人さんもいるんだよ。
 仕事をきっちりするなら、他はごちゃごちゃ言わねぇし、言わせねぇって漢気溢れるみたいな人だよ」
「ぼぼ僕は、そそそこで働け、るの、いい、いいいいの?」
「もちろんだよ。二人がちゃんと暮らしていけそうか私たちも一緒に千葉に行って数日間はいるからね。
 今日はもう帰るけれど、明日は朝早くに来るから、二人とも寝坊しないでよ。荷造りして荷物送り出したら、美優のお花屋さんに挨拶に行って、すぐにお引越しだからね。忙しくなるよー」
 そう言って仁美がカラカラと笑った。
 元々そんなに荷物が多いわけではないから、荷造りはあっという間に終わり、引越し屋さんに荷物をお願いをしたあとは花屋さんに最後のご挨拶に行った。
「最初はね、仁美さんから声かけられて、|あ《・》|の《・》美優ちゃんでしょ、誘拐された子だよね?って|怯《ひる》んだんだけど、
 来てもらったら真面目だし、気が利くし、お金のこともちゃんとしてるし、何より明るくて笑顔もいいし、
 うちの店にも美優ちゃん目当てのマダムたちが結構いるのよ。だから店的には戦力ダウンで大ダメージ。
 でもね、仁美さんから美優の新しい人生だって相談されて、そう言うことだったら一肌脱いじゃうって。
 花屋ネットワークもバカにできないでしょ? もし美優がずっと花屋さんでいてくれたらおばさんも嬉しいよ。
 いつか美優の作った花束を買いに千葉まで遊びに行くからね、なぁに京葉線で1時間なんて大した距離じゃないよ。
 今生の別れじゃあるまいし、泣くんじゃないよ、この子は、本当にもう、バカだね、あたしまで泣けてきちまう。
 元気で、元気でね、頑張るんだよ、美優。いっぱい乗り越えてきたあんたなら大丈夫。絶対幸せになるんだよ」
 バタバタと挨拶を終えて花屋を出ると、後ろからけたたましいクラクションが鳴った。
「へーい、彼女、乗って行かない?」
 軽薄なセリフを吐きながらサングラスを外し、身を乗り出して手を振ったのは大輔だった。
 達也と美優が電車で移動なんかしたら、気付かれて大騒ぎになってしまうからレンタカーなのだろう。
「わ」ナンバーをつけた陽気な車でこのまま千葉まで向かう、のか?
「ちょ、大輔くん、もーちょっといい車なかったの?」
 真っ赤な車のドアを手で撫でながら仁美が呆れたような声を出す。
「なんでですか、いいでしょ、このクルマ。ご機嫌なオープンカーで行きましょうよ、レッツ・ドライブ。
 母ちゃんに山ほどおにぎり握って貰いましたから食い放題っすよ」
 後部座席にはこれでもかっていうくらいのおにぎりが置かれていた。
 車に乗って、おにぎりを食べたあと、早起きした3人はぐっすり眠って、目が覚めるとそこは引越し先の家の駐車場だった。
 大輔と仁美に手を引かれ、玄関を開けるとそこは、二人で暮らしたあの家とどこか似た雰囲気、昭和の匂いが漂う中古の一軒家だった。日当たりと風通しは抜群だ。
 玄関を開けて廊下の左側にお風呂と洗面所とトイレ、右側に台所、そして居間と寝室、2階にも二部屋あって、これは達也が子供部屋として使っていた部屋をそのまま美優との生活に使っていたみたいな部屋だった。
「家を売却する時に『ちょこっと家具お預かりセンター』に預けてて、この家を買ったあとに運び込んでたんだよ」
 懐かしいベッドとソファだ、達也と美優が身を寄せ合って暮らしていた時のものだった。
「とは言え、かなり古い家具だからね、早めに買い替えたほうがいいかも。ま、その辺は二人にお任せするとして、ねねね、ちょっと庭に出てみない? 二人に見せたいものがあるんだ」
 嬉しくて思わずくすくすと笑っちゃうようなサプライズが続く中、二人が庭で見たものは、ピンクのチューリップの鉢植えだった。
「え? え? こここ、これ」
「そう、あのチューリップだよ。美優がずっと庭のチューリップにこだわってたみたいだったから、売却前に庭からチューリップを球根ごと抜いてね、知らなかったんだけど、球根を越冬させるのはコツがいるらしいんだよ。だから花屋の店長さんにお世話をお願いしていたの。んで、ひと足先にこっちに届けてたってわけ? どう? すごくないオレ。シゴデキ過ぎない?」
 縁側から庭に降りるための|沓脱石《くつぬぎいし》に片足を乗せてヒーローがウィンクをする。
「はいはいはい、エライエライ。さて私たちは夕飯の買い出しに行ってくるから、二人で新しい生活の最初の共同作業、チューリップの鉢植えを庭に植えかける作業をしてくださいな、はいシャベル。
 もうみうはちゃーちゃんの抱っこじゃなくて、自分の足で庭に下りて、チューリップのお世話もできるんだから」
 仁美が達也に真新しいシャベルを手渡した。
「それと、もう一つ。美優、これ開けてみて」
 仁美がポケットの中から小さな紙袋を取り出した。
「うわぁ、可愛い♡ 仁美ちゃん、ありがとう」
 真っ白なシュシュに小さなチャームが付いている。ピンク色のチューリップのチャームだ。
「これはね、私からじゃなくて、|小松原《こまつばら》|輝晃《てるあき》くんから。アルバイトした自分のお金で買ったんだって」
「て、る……あき、くん」
「そう、美優の|弟《・》」
 美優の頭の中にあの時自分を憎々し気に睨んでいた少年の表情がよみがえる。
「去年かな、『本当のことを聞かせてほしい』って連絡を貰ってね。
『生まれたての俺の目にハサミを刺そうとしたり、顔を濡れたタオルで覆って窒息死させようとしたから、叱ったらふいっと出ていって誘拐された。自業自得だ』って聞かされて育ってきたらしいのよ。
 でも自分が大きくなって、6歳の子供が親から叱られたからって自分の意思で家出をするのはおかしくないかって思い至ったんだって。
 で、真相を話して、一緒に美優に会いに行こうって話したんだけど、申し訳なくて会えないって。
 でもね、お花屋さんに、美優に会いに行ったんだって。自分の名前は名乗らず」
「知ら、なかった。気が、つかなかった」
「そりゃ、そうだよ。気がつく訳なんてないよ。もう10歳の少年の時の面影はないからね、180cmもある青年だし。今は大学生。
『|お《・》|姉《・》|さ《・》|ん《・》のお勧めのお花はどれですか』って聞いて『私が個人的に大好きなのはこのピンクのチューリップです』って言われたって。
 それで美優お勧めのピンクのチューリップを花束にしてもらったんだって」
「お花屋さんは、お勧めいっぱい聞かれるから、どのお客様のことか、分からない」
「いいんだって、もしいつかまた彼の気持ちに変化があったら会いにくるかもだし、来ないかもだし。
 それは誰にも分からないけれども、少なくても彼は今、美優のことを嫌ってない。美優はもう大丈夫でしょう?」
 達也の分厚い手が美優の頭を優しく撫でた。
 大輔と仁美が出かけたあと、二人は早速あの時のようにチューリップを植えた。
「みみみう、キレイなチューリップが咲くといいね」
「うん、きっとキレイに咲くよ。私が一生懸命お世話するから」
 少しだけ高台になっているこの家の庭から遠くに海が見える。
 キラキラと輝いていて二人の新しい生活を祝福してくれているみたいだった。
 優しい風が吹いて蕾の先端にピンクをはらんだチューリップをそっと揺らした。
【あとがき】
ピンクのチューリップの花言葉は
「愛の芽生え」「誠実な愛」「優しさ」だそうです。
達也の行為は犯罪で決して許されるものではないし、
美優の人生を台無しにしてしまったのも事実です。
それでも、
達也に出会わなければ美優は死んでしまっていたかもしれないし、
美優に出会わなければ達也もまた死んでしまっていたかもしれない。
孤独な二人が身を寄せ合って営まれる穏やかな暮らしの中で愛が育まれた。
私はそんな風に感じながらこのお話を書きました。
もしこのお話を読んで辛い気持ちになってしまった方がいらっしゃったら
本当にすみません。ひとえに私の表現力の稚拙さです。
重いテーマなのでもっとちゃんとしっかり「小説」が書けるようになってから
チャレンジしようかとも思いました。
でももしかしたら今の未熟な私だから、未熟な愛を書けるのかもなって
そんな風に思って文章にしてみました。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。