第六十六話 暗夜に灯火を失って
ー/ー
一つ目の拓磨の大切な暁を壊した。
あとはその傷から勝手に亀裂が入るのを待つのみ。
さあ、時はきた。総仕上げを始めようではないか。
◇
「皆、無事か! 大事に至っておらぬか!?」
寮から全速力で都を走り抜け、私は自分の屋敷へと到着した。寝殿の廂では雫と華葉が楽しそうに宴の準備をしていたが、私が騒々しく入ると唖然としてその様子を見ていた。そこに一人姿が見えないことは、すぐに気がついた。
「暁……、暁はどうした」
『拓磨様の援護に向かいましたが、お会いにならなかったのですか?』
雫がそう言って不安げに顔を顰めるが、残念ながら寮でもその帰りでも彼女に会うことはなかった。都の道は碁盤の目のように規則正しく並んでいる。同じ道を歩けば鉢合わせになるが、違えれば出会うのは難しい。加えて私はかなり急いでいた。
「暁に会わなかったって……なら拓磨は、どうしてそんなに焦っているのだ」
今度は華葉が心配そうに私を見上げた。
私は正直に話すことにした。
「氷雨がここに来たと聞いたから様子が気になったのだ。それに……私はあの者との戦いで、五気混合術を使った。私の身の回りに何か起こるかもしれぬ」
『そんな、どうしてですの』
あんなに使わないと豪語した術を展開したと聞き、雫は驚愕していた。責めているわけではなく、私の身を案じてくれていることは分かっている。
しかし見たところ彼女たちにも屋敷にも、特に異常を感じることはない。あとは暁の所存を確認するのみだが、あの子はまた何処へ行ったのであろう。
「説明は後だ。とりあえず暁を探して――」
再び雫たちに背を向けて外へ戻ろうとしたが、私の体の中で何かが大きく揺れた。その直後に強烈な吐き気に襲われ、体中の力が抜けてしゃがみ込むと、そのまま咽せて私は何かを吐き出した。
恐る恐る掌を見ると真っ赤に染まっている。……血だ。
「拓磨ッ!」
『拓磨様……!』
彼女たちの悲鳴が屋敷に響き渡る。華葉は私の目の前から顔を覗き込み、雫は背中を摩ってくれていた。
深紅に汚れた自分の手を見つめながら、私は状況を理解しようとした。
何だ、何が起きた。これが五行気の怒りか?
……違う、これは。
「式神、返し……――」
己の式神が破られた時にくる反動。暁の身に良からぬ事態が起きた証。
私の言葉にその意味を知る雫は大きく息を飲んだ。
「暁……!」
私は彼女たちの制止の声にも振り向かず、再度屋敷を飛び出した。
暁は陰陽寮より手前、積もった雪を人が踏みならした後の何でもない道の上で、寮へ向かう途中に偶然見つけた。私が先ほど通った道とは一本違いだった。
朱色ではなく元の茶色い山鳥の姿の彼女は、毒によって犯され体の一部が黒く変色している。
呪の臭いがした。暁は何者かによって呪詛で殺されたのだとは一目で分かった。
夕日は半分以上沈み、薄暗くなりかけている空の下で力の入らない足を何とか前に進め、冷え切った小さな体をそっと抱き上げる。
「……頼む、もう一度光ってくれ」
唐突に口から出たのはそんな言葉だった。
それは生き物が精霊化を望む時に発する光。それを見られればまた暁を式神として召喚できるのだ。
「精霊化を望め、暁!」
だが暁の魂はすでにこの世にはない。それ以前に一度精霊化した魂が、二度もそれを許されるはずがない。私が「愚弄だ」と蔑んだ行為を強要するとは思わなんだ。
それでも望まずにいられるものか。私は暁に何もしてやれていない。まだ何故式神になることを望んだのかも聞いていない。それに今宵は宴だと楽しみにしていたではないか。
このまま別れなど、誰が信じられよう。
「すまない、暁。お前のことを私がもっと、理解してやれていれば……」
動かない彼女の体を頬にすり寄せ、力なくその場に座り込む。雪の冷たさに赤く悴む指先も、吐血による口内の鉄の味も、式神返しの衝動による胸の痛みも、今は何も感じない。
ただ私の頬を伝うものが暁の羽根を濡らしていくこと以外は、何も。
〝私を庇い、私のために涙してくれた貴方に、お仕えできるのなら……喜んで〟
あの日、お前はそう言って私の式神になった。
私の初めての式神に、輝く茜色の翼と笑顔を見て〝暁〟と名付けた。
――彼女の色をした夕日は、すっかり夜の闇に飲まれてしまった。
◇
無言で暁を抱えて戻ってきた拓磨を見た時は、言葉が出なかった。全てを悟った雫は大声を上げて泣いて、私もそれを見て状況を理解するのに時間はかからなかった。
悲しみに暮れながら皆で庭の桜の傍に、山鳥の姿の暁を埋めた。
一緒に食べるはずだった零余子は、雫がすでに茹でてしまっていたけれど『好物だから』と彼女と一緒に埋葬した。
今頃は皆で楽しく宴会を開いているはずなのに、屋敷には笑い声とは真逆の、すすり泣く声しか聞こえない。どうしてこうなってしまったのだろう、と考えたところで答えは出ず、私はただ泣き続ける雫をそっと抱き寄せるしかできなかった。
暁の墓前で暫く無の時間を過ごした後、拓磨は「一人にしてくれ」と言って屋敷に戻っていった。
続いて雫も自分の部屋に閉じこもってしまい、私一人が桜だった木の下で、呆然と暁を埋めた土の山を眺めていた。
まだ彼女がいなくなっただなんて信じられなかった。
今にも『ただいま!』と言って、空から帰ってきそうで。
私がいけなかったのか? ただ私は暁と仲良くなりたかったのだ。
それで宴会を開いて、色んな話をして、一緒に笑い合うはずだった。
あの時、私が飛び出そうとしなければ、暁は拓磨を追いかけなかったのか。
否、それでなくとも彼女は拓磨を助けに向かったはずだ。
暁は拓磨を私と出会うずっと前から慕っていた。私よりも拓磨とは長い付き合いだろう。私なんかより、ずっと拓磨のことが……好きだったはずだ。
そう、暁は拓磨が好きだったのだ。その気持ちは妖怪だろうと式神だろうと関係ない。大好きな彼と別れなければならないと分かった時、彼女はどんな思いだったか。
「すまない、暁……」
自然と口からはその言葉が出た。それからは地面に突っ伏し、狂ったように「すまない」という四文字を連呼し続けた。どれだけ謝っても暁はもう帰ってこない。
そうだ。そもそも私なんかがいなければ、拓磨たちは幸せに暮らしていたのだ。
拓磨と共に戦うこともできなくて、拓磨の大切な者を守ることもできない。
ならば私は何のために生まれてきたのか。
「桜が私だというのなら、教えてくれ……ッ!」
黒焦げの桜を見上げて、私は悲痛の叫び声を上げた。
――当然、答えが返ってくるなんて思っていなかった。
<いいでしょう>
そんな女の声が聞こえたかと思うと、頭の中に大量の映像が溢れてきたのだ。
母の腕に抱かれ気持ちよさそうに眠っている拓磨。
健やかに成長すると、齢五にして父の影響で陰陽師を志し始める。
心力の習得に苦労する拓磨に、優しく助言をする母。
努力を惜しまず修行に明け暮れるお前が最初に使った陰陽術は、桜の幹の腐った部分をいち早く感知し、心力を与えて治すことだった。お前は最初に使った術は〝流水呪縛〟だと思っているだろうが、あれだって立派な陰陽術だろう。
お前の母は桜が大好きであった。だから庭にも立派な桜の木を植えた。そんな母に影響され、お前も庭の桜を大層に愛でてくれたな。
花が咲く春だけではなく、夏の生い茂る濃い緑の葉も、秋に紅葉し葉が舞い散る様も、冬を耐え忍んで春を待つのも、お前は見守ってくれていた。
だから桜も、拓磨を一生かけて見守ろうと思った。
お前がこの先も穏やかに暮らせるように願った。
最後の記憶である、あの日の惨劇が起こるまでは。
「あぁそうだ、お前の母・吉乃の命を奪ったのは、嘉納雅章だ」
そう、これは私の記憶。この桜であった頃に見た私自身の記憶である。
最後の記憶は雅章が操って連れてきた妖怪たちに、拓磨の母が殺される光景だ。道理であの男の顔をどこかで見たことがあると思ったわけだ。
あの日は朝から尊は寮へ出仕していて、拓磨は部屋で勉学に励んでいた。そして吉乃だけが庭でいつものように桜を見上げていたのだ。そんな彼女に突然妖怪たちが襲いかかり、命を奪ったのである。
この屋敷には結界も張ってあったし、陰陽頭の自宅として護衛に当たっている検非違使が何人か駐在していたはずだが、その全てを突破して奴らは屋敷を襲撃した。何故か検非違使たちは誰一人として不在だったのだ。
吉乃の悲鳴を聞いて拓磨が飛び出してきたが、彼女は彼の腕の中で事切れた。妖怪たちはすでに奴らを率いてきた男、雅章によって退却していた。
泣きながら母を抱えて他人への恨み言を叫んでいる拓磨の姿を思い出す。
全てはあの日から始まったのである。
吉乃が亡くなってから、私の記憶はどうゆうわけか曖昧だ。
ところどころの記憶はあるが断片的で鮮明でもない。唯一覚えているのは目映いばかりの閃光を浴びた、その一瞬。
その後、拓磨の屋敷で〝華葉〟として目覚めた――。
桜であった頃の記憶を取り戻した私は、一度に大量の情報を取り入れた疲労感に脱力し、空を見つめた。寒空に星が綺麗に輝いてよく見える。
原理はよく分からないが、桜であった私は確かに今、華葉として存在している。拓磨の見解は間違っていなかったのだ。
私の〝何故生きているか〟という問いに対しての答えが分かっただけではないが、一つだけ確かなことがある。全ての元凶はあの雅章という男であること。あの男が拓磨の大切なものを奪っているということだ。
早く拓磨に知らせなければ……! と身を起したところでハッとした。
今、拓磨は暁のことで傷ついている。そんな彼にこれ以上悲しい思いをさせて良いのか。もう私は拓磨にそんな思いをさせたくない。
「私は桜である頃からお前を守ると誓った。……その使命を果たすぞ、拓磨」
そして私は誰にも何も告げることなく、静かに拓磨の屋敷を後にした。
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一つ目の|拓磨《あの子》の大切な|暁《もの》を壊した。
あとはその傷から勝手に亀裂が入るのを待つのみ。
さあ、時はきた。総仕上げを始めようではないか。
◇
「皆、無事か! 大事に至っておらぬか!?」
寮から全速力で都を走り抜け、私は自分の屋敷へと到着した。寝殿の|廂《ひさし》では雫と華葉が楽しそうに宴の準備をしていたが、私が騒々しく入ると唖然としてその様子を見ていた。そこに一人姿が見えないことは、すぐに気がついた。
「暁……、暁はどうした」
『拓磨様の援護に向かいましたが、お会いにならなかったのですか?』
雫がそう言って不安げに顔を顰めるが、残念ながら寮でもその帰りでも彼女に会うことはなかった。都の道は碁盤の目のように規則正しく並んでいる。同じ道を歩けば鉢合わせになるが、違えれば出会うのは難しい。加えて私はかなり急いでいた。
「暁に会わなかったって……なら拓磨は、どうしてそんなに焦っているのだ」
今度は華葉が心配そうに私を見上げた。
私は正直に話すことにした。
「氷雨がここに来たと聞いたから様子が気になったのだ。それに……私はあの者との戦いで、五気混合術を使った。私の身の回りに何か起こるかもしれぬ」
『そんな、どうしてですの』
あんなに使わないと豪語した術を展開したと聞き、雫は驚愕していた。責めているわけではなく、私の身を案じてくれていることは分かっている。
しかし見たところ彼女たちにも屋敷にも、特に異常を感じることはない。あとは暁の所存を確認するのみだが、あの子はまた何処へ行ったのであろう。
「説明は後だ。とりあえず暁を探して――」
再び雫たちに背を向けて外へ戻ろうとしたが、私の体の中で何かが大きく揺れた。その直後に強烈な吐き気に襲われ、体中の力が抜けてしゃがみ込むと、そのまま咽せて私は何かを吐き出した。
恐る恐る掌を見ると真っ赤に染まっている。……血だ。
「拓磨ッ!」
『拓磨様……!』
彼女たちの悲鳴が屋敷に響き渡る。華葉は私の目の前から顔を覗き込み、雫は背中を摩ってくれていた。
深紅に汚れた自分の手を見つめながら、私は状況を理解しようとした。
何だ、何が起きた。これが五行気の怒りか?
……違う、これは。
「式神、返し……――」
己の式神が破られた時にくる反動。暁の身に良からぬ事態が起きた証。
私の言葉にその意味を知る雫は大きく息を飲んだ。
「暁……!」
私は彼女たちの制止の声にも振り向かず、再度屋敷を飛び出した。
暁は陰陽寮より手前、積もった雪を人が踏みならした後の何でもない道の上で、寮へ向かう途中に偶然見つけた。私が先ほど通った道とは一本違いだった。
朱色ではなく元の茶色い山鳥の姿の彼女は、毒によって犯され体の一部が黒く変色している。
|呪《しゅ》の臭いがした。暁は何者かによって|呪詛《じゅそ》で殺されたのだとは一目で分かった。
夕日は半分以上沈み、薄暗くなりかけている空の下で力の入らない足を何とか前に進め、冷え切った小さな体をそっと抱き上げる。
「……頼む、もう一度光ってくれ」
唐突に口から出たのはそんな言葉だった。
それは生き物が精霊化を望む時に発する光。それを見られればまた暁を式神として召喚できるのだ。
「精霊化を望め、暁!」
だが暁の魂はすでにこの世にはない。それ以前に一度精霊化した魂が、二度もそれを許されるはずがない。私が「愚弄だ」と蔑んだ行為を強要するとは思わなんだ。
それでも望まずにいられるものか。私は暁に何もしてやれていない。まだ何故式神になることを望んだのかも聞いていない。それに今宵は宴だと楽しみにしていたではないか。
このまま別れなど、誰が信じられよう。
「すまない、暁。お前のことを私がもっと、理解してやれていれば……」
動かない彼女の体を頬にすり寄せ、力なくその場に座り込む。雪の冷たさに赤く|悴《かじか》む指先も、吐血による口内の鉄の味も、式神返しの衝動による胸の痛みも、今は何も感じない。
ただ私の頬を伝うものが暁の羽根を濡らしていくこと以外は、何も。
〝私を庇い、私のために涙してくれた貴方に、お仕えできるのなら……喜んで〟
あの日、お前はそう言って私の式神になった。
私の初めての式神に、輝く茜色の翼と笑顔を見て〝暁〟と名付けた。
――彼女の色をした夕日は、すっかり夜の闇に飲まれてしまった。
◇
無言で暁を抱えて戻ってきた拓磨を見た時は、言葉が出なかった。全てを悟った雫は大声を上げて泣いて、私もそれを見て状況を理解するのに時間はかからなかった。
悲しみに暮れながら皆で庭の桜の傍に、山鳥の姿の暁を埋めた。
一緒に食べるはずだった|零余子《むかご》は、雫がすでに茹でてしまっていたけれど『好物だから』と彼女と一緒に埋葬した。
今頃は皆で楽しく宴会を開いているはずなのに、屋敷には笑い声とは真逆の、すすり泣く声しか聞こえない。どうしてこうなってしまったのだろう、と考えたところで答えは出ず、私はただ泣き続ける雫をそっと抱き寄せるしかできなかった。
暁の墓前で暫く無の時間を過ごした後、拓磨は「一人にしてくれ」と言って屋敷に戻っていった。
続いて雫も自分の部屋に閉じこもってしまい、私一人が桜だった木の下で、呆然と暁を埋めた土の山を眺めていた。
まだ彼女がいなくなっただなんて信じられなかった。
今にも『ただいま!』と言って、空から帰ってきそうで。
私がいけなかったのか? ただ私は暁と仲良くなりたかったのだ。
それで宴会を開いて、色んな話をして、一緒に笑い合うはずだった。
あの時、私が飛び出そうとしなければ、暁は拓磨を追いかけなかったのか。
否、それでなくとも彼女は拓磨を助けに向かったはずだ。
暁は拓磨を私と出会うずっと前から慕っていた。私よりも拓磨とは長い付き合いだろう。私なんかより、ずっと拓磨のことが……好きだったはずだ。
そう、暁は拓磨が好きだったのだ。その気持ちは妖怪だろうと式神だろうと関係ない。大好きな彼と別れなければならないと分かった時、彼女はどんな思いだったか。
「すまない、暁……」
自然と口からはその言葉が出た。それからは地面に突っ伏し、狂ったように「すまない」という四文字を連呼し続けた。どれだけ謝っても暁はもう帰ってこない。
そうだ。そもそも私なんかがいなければ、拓磨たちは幸せに暮らしていたのだ。
拓磨と共に戦うこともできなくて、拓磨の大切な者を守ることもできない。
ならば私は何のために生まれてきたのか。
「|桜《お前》が私だというのなら、教えてくれ……ッ!」
黒焦げの桜を見上げて、私は悲痛の叫び声を上げた。
――当然、答えが返ってくるなんて思っていなかった。
<いいでしょう>
そんな女の声が聞こえたかと思うと、頭の中に大量の映像が溢れてきたのだ。
母の腕に抱かれ気持ちよさそうに眠っている拓磨。
健やかに成長すると、齢五にして父の影響で陰陽師を志し始める。
心力の習得に苦労する拓磨に、優しく助言をする母。
努力を惜しまず修行に明け暮れるお前が最初に使った陰陽術は、桜の幹の腐った部分をいち早く感知し、心力を与えて治すことだった。お前は最初に使った術は〝|流水呪縛《りゅうすいじゅばく》〟だと思っているだろうが、あれだって立派な陰陽術だろう。
お前の母は桜が大好きであった。だから庭にも立派な桜の木を植えた。そんな母に影響され、お前も庭の桜を大層に愛でてくれたな。
花が咲く春だけではなく、夏の生い茂る濃い緑の葉も、秋に紅葉し葉が舞い散る様も、冬を耐え忍んで春を待つのも、お前は見守ってくれていた。
だから桜も、拓磨を一生かけて見守ろうと思った。
お前がこの先も穏やかに暮らせるように願った。
最後の記憶である、あの日の惨劇が起こるまでは。
「あぁそうだ、お前の母・|吉乃《よしの》の命を奪ったのは、嘉納雅章だ」
そう、これは私の記憶。この桜であった頃に見た私自身の記憶である。
最後の記憶は雅章が操って連れてきた妖怪たちに、拓磨の母が殺される光景だ。道理であの男の顔をどこかで見たことがあると思ったわけだ。
あの日は朝から|尊《たける》は寮へ出仕していて、拓磨は部屋で勉学に励んでいた。そして吉乃だけが庭でいつものように|桜《私》を見上げていたのだ。そんな彼女に突然妖怪たちが襲いかかり、命を奪ったのである。
この屋敷には結界も張ってあったし、|陰陽頭《おんみょうのかみ》の自宅として護衛に当たっている|検非違使《けびいし》が何人か駐在していたはずだが、その全てを突破して奴らは屋敷を襲撃した。何故か検非違使たちは誰一人として不在だったのだ。
吉乃の悲鳴を聞いて拓磨が飛び出してきたが、彼女は彼の腕の中で事切れた。妖怪たちはすでに奴らを率いてきた男、雅章によって退却していた。
泣きながら母を抱えて他人への恨み言を叫んでいる拓磨の姿を思い出す。
全てはあの日から始まったのである。
吉乃が亡くなってから、私の記憶はどうゆうわけか曖昧だ。
ところどころの記憶はあるが断片的で鮮明でもない。唯一覚えているのは目映いばかりの閃光を浴びた、その一瞬。
その後、拓磨の屋敷で〝華葉〟として目覚めた――。
桜であった頃の記憶を取り戻した私は、一度に大量の情報を取り入れた疲労感に脱力し、空を見つめた。寒空に星が綺麗に輝いてよく見える。
原理はよく分からないが、桜であった私は確かに今、華葉として存在している。拓磨の見解は間違っていなかったのだ。
私の〝何故生きているか〟という問いに対しての答えが分かっただけではないが、一つだけ確かなことがある。全ての元凶はあの雅章という男であること。あの男が拓磨の大切なものを奪っているということだ。
早く拓磨に知らせなければ……! と身を起したところでハッとした。
今、拓磨は暁のことで傷ついている。そんな彼にこれ以上悲しい思いをさせて良いのか。もう私は拓磨にそんな思いをさせたくない。
「私は桜である頃からお前を守ると誓った。……その使命を果たすぞ、拓磨」
そして私は誰にも何も告げることなく、静かに拓磨の屋敷を後にした。