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花のように笑うあの子は、確かにいた

ー/ー



「お姉さん、明日もいますか?」

 目の前の女子高生にこう聞かれて、私は思わず釣り銭を渡しそこねてしまった。

 チャリンチャリン、という金属音と共に小銭が地面に落ちる。

「もっ、申し訳ございませ……」
「あ、大丈夫です。自分で拾うんで」

 慌ててキッチンカーから出ようとする私を、女子高生は片手で制止しながら身をかがめ小銭を拾う。

 サラサラと顔にかかる肩上のボブヘアを耳にかけた彼女は、小銭を拾い終えると再び私の方に向き直った。

「で、明日もいます?」
「えっ? は、はい。います……けど……」

 私の返答を聞くと、彼女は嬉しそうにはにかんだ。

 色素の薄い茶色の瞳。白い頬に、薄くピンクのチーク。同じ色味のリップを塗った唇の端をキュッとあげて、八重歯を見せる。

「よかった」

 何がよかったのかわからないままに、私は手早く注文のアイスクリームをコーンに乗せる。

「大変お待たせいたしました」

 スプーンを刺し、彼女に手渡す。アイスを受け取った彼女はまた嬉しそうに笑うと、鈴の鳴るような声でありがとう、と言って去っていった。

 春の大型連休でごった返す人混みの中で、彼女だけが何か異質な存在のように感じられる。

 私は風にはためく彼女の制服のスカートを眺めながら、首を傾げていた。




***
 翌日も彼女はやってきた。

「こんにちは」

 八重歯を可愛らしく覗かせて、彼女が挨拶する。

「いらっしゃいませ」
「今日はお姉さんのオススメのアイスが食べたいです」
「そうですね、こちらのメロンシャーベットはいかがでしょうか? 鮮やかなグリーンと鼻に抜ける甘いメロンの香りが新緑の季節にピッタリでオススメです」
「ふふ、素敵なオススメの仕方するんですね。それにします」

 彼女はお釣りが出ないように、ピッタリの金額を出してくれた。

 私がメロンシャーベットをすくっているあいだ、彼女はにこにこしながら私のことを眺めていた。

 やりづらいな……と思いつつも、丸く形のきれいなシャーベットをコーンの上に乗せる。

 それを手渡そうと腕を伸ばすと、彼女はシャーベットではなく私の手にそっと触れてきた。

 その手は驚くほどに冷たく、私は思わず目を見開いて彼女の顔を見つめた。

 彼女の薄茶の瞳は太陽の光を反射してきらめいている。そして、彼女の瞳もまた、私をじっと見つめていた。

「お姉さんはいつまでここにいるんですか?」
「え……あ、えっと、ゴ……GWのあいだはほとんど毎日います」

 彼女の瞳の美しさに惹き込まれかけていた私は、ハッと我に返る。そしてしどろもどろになりながらもなんとか答えた。

「よかった」

 ――また『よかった』。一体何がよかったのだろう?

 私はお客様に失礼かもしれないと思いながらも、我慢できずに尋ねた。

「あの……昨日も仰られていましたが、私がいると何がいいのでしょうか?」

 すると彼女は目を細めて静かに微笑むと、こう言った。

「あたし、あなたに一目惚れしちゃったんです」

「……え!?」

 驚くのも無理はない。いきなり同性の、それもだいぶ歳下の子に告白されたのだから。

「な、なんで……」
「あなた、楽しそうにお仕事していて見てるこっちまで楽しくなっちゃうんです。ほら、さっきのオススメだって。あんな素敵なこと言われたら、あたしますます好きになっちゃう」

 呆気にとられる私の目の前で、彼女は受け取ったシャーベットを一口食べてみせた。

「うん、おいしい。お姉さんのオススメにしてよかったです。また来ますね」


 彼女はその言葉通り、告白の翌日もそのまた翌日も来てくれた。

 毎回私のオススメを聞いては、嬉しそうにそのアイスを買って去っていく。

 連絡先を聞かれるわけでもなく、しつこく話し掛けてくるわけでもない。短い会話をいくつかして、あっさりと帰っていく彼女に私は疑問を募らせた。

 一目惚れってどういうことだろう?

 私は女だけど……あの子は同性が好きなのかな?

 というか、そもそもお互いの名前さえも知らないし。

 好きだと言う割には、何も踏み入ったことを聞いてこないけど、もしかしてからかわれただけ?




***
 告白から三日目。

 いつの間にか彼女のことを考える時間が増えていた。

 今日もぐるぐると思考を巡らせていたら、いつものように彼女がやってきた。

「こんにちは」
「……いらっしゃいませ」
「今日のオススメは?」
「こちらのピーチはいかがでしょうか? 可愛らしいピンクがあなたにぴったりだと……」

 そこまで言って、私は口をつぐんだ。お客様に対して何を言っているんだ。

「す……すみません。今のは忘れてください」

 私は恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で覆う。指の隙間から彼女の表情を伺うと、目を丸くして私を見つめていた。

 視線がかち合うと、彼女は鈴の鳴るような声で笑った。

「ふふ、そんなふうに思ってくれてたんですね。嬉しい。その味にします」

 桃色のアイスを丁寧に丸く成形しながらすくい上げる。その様子を楽しそうに眺める彼女。

 そっとコーンの上にアイスを乗せ、彼女に手渡すときに私はこう言い添えた。

「明日は……お休みを頂いているので、別のスタッフが出勤となります」

 すると彼女は眉を下げて、あからさまに悲しそうな表情をした。

「そう……。そうなんですね」
「けど、明日は雨の予報ですから……。あなたもお家でのんびりしていた方がいいでしょう」

 私の精一杯のフォローを受けて、彼女は困ったような笑顔を浮かべた。

「お家……はないんですけど、そうですね。のんびりします。ありがとう、それじゃ」

 彼女は頭を下げると、私の返答を待たずに踵を返して行ってしまった。

 私は呆然とした。

 今、家がないって言ってなかった?

 どういう意味?

 家出少女とか……何か訳アリの子なの?

 私は帰宅してからも、彼女のことが頭から離れなかった。

 翌日、どうしても気になった私はいつもキッチンカーを出している場所まで足を運んだ。

「あれぇ、先輩。今日はお休みですよねぇ? どうしたんですかぁ?」

 店番をしている後輩が不思議そうに声を掛けてきた。

「あー、うん。ちょっとね。あのさ、今日って女子高生の子来た? いつも一人で来る子なんだけど、髪の毛が肩上くらいで、色白の可愛い子」
「え? 可愛い女子高生は何人か来ましたけどぉ……みんなお友だちと一緒でしたよぉ。何でそんなこと聞くんですかぁ?」

 訝しげな後輩の視線にどことなく居心地の悪さを感じた私は、そそくさとその場を後にした。

 何をしているんだ、私は。出会ったばかりの女子高生が気になって休みの日にまで職場に来てしまうなんて。変質者かっての。

 ――少し頭を冷やそう。

 私は辺りを散策することにした。

 雨の降りしきる今日は、四月も終わりに差し掛かっているというのに肌寒い。

 あてどもなく歩いていると、小さな墓地をみつけた。

 普段なら見知らぬ墓地に足を踏み入れることなんて、絶対にしない。でも、無性に『そこ』が気になって、私は気付けば墓地の中へ歩みを進めていた。

 いくつかの墓石が立ち並ぶ中を歩いていると、一つの墓標が目に入った。

 墓標の前には、一輪だけ花が生けられている。その花は薄桃色の花弁で、どこか女子高生を思い出させる愛らしさがあった。

 雨に打たれてしなだれる花は、ぽたぽたと雨粒を零している。

 墓標に目を移すと、名前が刻まれている。墓石の下で安らかに眠る人の名前なのだろう。

真宮(まみや)……桜子(さくらこ)

 可愛らしい名前。そう、まるであの子のような……。




***
 次の日、彼女はいつものように来てくれた。

 けれど、どこか様子がおかしい。元気がなく、心なしか顔色も悪いようだ。

「体調、悪いんですか?」

 思わずそう聞いてしまうくらいに、具合の悪そうな彼女。

 へへ、と力なく笑うと彼女はか細い声で言った。

「あたし、もうすぐここには来れなくなると思います」
「どうしてですか?」
「花が……枯れちゃうから。昨日の雨で、だいぶ弱ってしまったみたいです」

 ……花? 何の話だろう?

「花って……」
「今日のオススメはなんですか?」

 彼女は少し焦ったように、私の言葉を遮る。

「あ……えっと。こちらのミントソーダはいかがでしょうか? 今日のよく晴れた青空と同じ色です。お散歩しながらぜひ召し上がってください」
「ありがとう、それにします」

 柔和な笑顔を浮かべた彼女は、本当に散りゆく直前の花のようだった。

 いつもは黙ってにこにこしながら、私がアイスを用意するのを見ている彼女だったが、今日は違った。

「お姉さん」
「はい」
「昨日、あたしのところへ来てくれましたよね」
「……?」

 さっきから話が見えない。この子は一体何を言っているのだろう。

 手を止めて、彼女の顔を見る。すると花のような満面の笑顔で私を見つめ返してくれた。

「昨日は会えないと思っていたので、すごく嬉しかったんです。雨の中来てくれてありがとうございました」
「え……?」

 やはり意味がわからなくて、きょとんとする。私が昨日会ったのは後輩だけのはず。……いや、何か大事なことを見落としてるのか?

 懸命に昨日の記憶を辿った私は、ハッとする。雨に濡れそぼった墓石と、しなだれた一輪の花。

「もしかして」
「そのアイス、本当に空の色みたい。今日は久々にゆっくり辺りを歩いてみますね」

 またしても私の言葉を遮る彼女。その言葉に急かされるように、私はアイスをコーンに乗せて彼女に手渡した。

「ありがとうございます。……それでは、またいつか」

 彼女は一礼して、颯爽と歩き出した。その背中に必死で声を掛ける。

「桜子ちゃん!」

 私の呼び声に足を止めた彼女は、こちらを振り返った。

「あはは。二回も名前呼ばれちゃった。嬉しい、ありがとうございます」

 愛らしい声で笑いながら、彼女は恥ずかしそうに肩をすくめる。

 暖かな陽の光に照らされた彼女は、一輪の花のように美しかった。



***
 翌日、彼女は来なかった。

 その日一日仕事が手につかなかった私は、キッチンカーを職場に戻すと、すぐさま例の墓地へ向かった。

 さっきから何だかずっと嫌な予感がしている。

 年甲斐もなく走った私は、息を切らしながら墓地へ入った。

 もうすっかり日の落ちた墓地はどこか気味が悪かったが、そんなことはどうでもよかった。

 まっすぐにあの墓石へ向かう。

 ――花は枯れていた。茶色く変色し、いくつかの花弁を地面に散らしながら。

「桜子ちゃん」

 そう名前を呼べば、また彼女が笑いかけてくれるのではないか。しかし、そんなわけもなく私の声は虚しく闇に溶けていった。



***
 あれから、彼女とは一度も会えていない。自分で彼女の墓前に花を供えてみたりしたけれど、だめだった。

 私は今でも思い出す。桃色の花を見たとき、冴えわたる空の青を見たとき。

 花のように笑うあの子が、確かにいたことを。


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 目の前の女子高生にこう聞かれて、私は思わず釣り銭を渡しそこねてしまった。
 チャリンチャリン、という金属音と共に小銭が地面に落ちる。
「もっ、申し訳ございませ……」
「あ、大丈夫です。自分で拾うんで」
 慌ててキッチンカーから出ようとする私を、女子高生は片手で制止しながら身をかがめ小銭を拾う。
 サラサラと顔にかかる肩上のボブヘアを耳にかけた彼女は、小銭を拾い終えると再び私の方に向き直った。
「で、明日もいます?」
「えっ? は、はい。います……けど……」
 私の返答を聞くと、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
 色素の薄い茶色の瞳。白い頬に、薄くピンクのチーク。同じ色味のリップを塗った唇の端をキュッとあげて、八重歯を見せる。
「よかった」
 何がよかったのかわからないままに、私は手早く注文のアイスクリームをコーンに乗せる。
「大変お待たせいたしました」
 スプーンを刺し、彼女に手渡す。アイスを受け取った彼女はまた嬉しそうに笑うと、鈴の鳴るような声でありがとう、と言って去っていった。
 春の大型連休でごった返す人混みの中で、彼女だけが何か異質な存在のように感じられる。
 私は風にはためく彼女の制服のスカートを眺めながら、首を傾げていた。
***
 翌日も彼女はやってきた。
「こんにちは」
 八重歯を可愛らしく覗かせて、彼女が挨拶する。
「いらっしゃいませ」
「今日はお姉さんのオススメのアイスが食べたいです」
「そうですね、こちらのメロンシャーベットはいかがでしょうか? 鮮やかなグリーンと鼻に抜ける甘いメロンの香りが新緑の季節にピッタリでオススメです」
「ふふ、素敵なオススメの仕方するんですね。それにします」
 彼女はお釣りが出ないように、ピッタリの金額を出してくれた。
 私がメロンシャーベットをすくっているあいだ、彼女はにこにこしながら私のことを眺めていた。
 やりづらいな……と思いつつも、丸く形のきれいなシャーベットをコーンの上に乗せる。
 それを手渡そうと腕を伸ばすと、彼女はシャーベットではなく私の手にそっと触れてきた。
 その手は驚くほどに冷たく、私は思わず目を見開いて彼女の顔を見つめた。
 彼女の薄茶の瞳は太陽の光を反射してきらめいている。そして、彼女の瞳もまた、私をじっと見つめていた。
「お姉さんはいつまでここにいるんですか?」
「え……あ、えっと、ゴ……GWのあいだはほとんど毎日います」
 彼女の瞳の美しさに惹き込まれかけていた私は、ハッと我に返る。そしてしどろもどろになりながらもなんとか答えた。
「よかった」
 ――また『よかった』。一体何がよかったのだろう?
 私はお客様に失礼かもしれないと思いながらも、我慢できずに尋ねた。
「あの……昨日も仰られていましたが、私がいると何がいいのでしょうか?」
 すると彼女は目を細めて静かに微笑むと、こう言った。
「あたし、あなたに一目惚れしちゃったんです」
「……え!?」
 驚くのも無理はない。いきなり同性の、それもだいぶ歳下の子に告白されたのだから。
「な、なんで……」
「あなた、楽しそうにお仕事していて見てるこっちまで楽しくなっちゃうんです。ほら、さっきのオススメだって。あんな素敵なこと言われたら、あたしますます好きになっちゃう」
 呆気にとられる私の目の前で、彼女は受け取ったシャーベットを一口食べてみせた。
「うん、おいしい。お姉さんのオススメにしてよかったです。また来ますね」
 彼女はその言葉通り、告白の翌日もそのまた翌日も来てくれた。
 毎回私のオススメを聞いては、嬉しそうにそのアイスを買って去っていく。
 連絡先を聞かれるわけでもなく、しつこく話し掛けてくるわけでもない。短い会話をいくつかして、あっさりと帰っていく彼女に私は疑問を募らせた。
 一目惚れってどういうことだろう?
 私は女だけど……あの子は同性が好きなのかな?
 というか、そもそもお互いの名前さえも知らないし。
 好きだと言う割には、何も踏み入ったことを聞いてこないけど、もしかしてからかわれただけ?
***
 告白から三日目。
 いつの間にか彼女のことを考える時間が増えていた。
 今日もぐるぐると思考を巡らせていたら、いつものように彼女がやってきた。
「こんにちは」
「……いらっしゃいませ」
「今日のオススメは?」
「こちらのピーチはいかがでしょうか? 可愛らしいピンクがあなたにぴったりだと……」
 そこまで言って、私は口をつぐんだ。お客様に対して何を言っているんだ。
「す……すみません。今のは忘れてください」
 私は恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で覆う。指の隙間から彼女の表情を伺うと、目を丸くして私を見つめていた。
 視線がかち合うと、彼女は鈴の鳴るような声で笑った。
「ふふ、そんなふうに思ってくれてたんですね。嬉しい。その味にします」
 桃色のアイスを丁寧に丸く成形しながらすくい上げる。その様子を楽しそうに眺める彼女。
 そっとコーンの上にアイスを乗せ、彼女に手渡すときに私はこう言い添えた。
「明日は……お休みを頂いているので、別のスタッフが出勤となります」
 すると彼女は眉を下げて、あからさまに悲しそうな表情をした。
「そう……。そうなんですね」
「けど、明日は雨の予報ですから……。あなたもお家でのんびりしていた方がいいでしょう」
 私の精一杯のフォローを受けて、彼女は困ったような笑顔を浮かべた。
「お家……はないんですけど、そうですね。のんびりします。ありがとう、それじゃ」
 彼女は頭を下げると、私の返答を待たずに踵を返して行ってしまった。
 私は呆然とした。
 今、家がないって言ってなかった?
 どういう意味?
 家出少女とか……何か訳アリの子なの?
 私は帰宅してからも、彼女のことが頭から離れなかった。
 翌日、どうしても気になった私はいつもキッチンカーを出している場所まで足を運んだ。
「あれぇ、先輩。今日はお休みですよねぇ? どうしたんですかぁ?」
 店番をしている後輩が不思議そうに声を掛けてきた。
「あー、うん。ちょっとね。あのさ、今日って女子高生の子来た? いつも一人で来る子なんだけど、髪の毛が肩上くらいで、色白の可愛い子」
「え? 可愛い女子高生は何人か来ましたけどぉ……みんなお友だちと一緒でしたよぉ。何でそんなこと聞くんですかぁ?」
 訝しげな後輩の視線にどことなく居心地の悪さを感じた私は、そそくさとその場を後にした。
 何をしているんだ、私は。出会ったばかりの女子高生が気になって休みの日にまで職場に来てしまうなんて。変質者かっての。
 ――少し頭を冷やそう。
 私は辺りを散策することにした。
 雨の降りしきる今日は、四月も終わりに差し掛かっているというのに肌寒い。
 あてどもなく歩いていると、小さな墓地をみつけた。
 普段なら見知らぬ墓地に足を踏み入れることなんて、絶対にしない。でも、無性に『そこ』が気になって、私は気付けば墓地の中へ歩みを進めていた。
 いくつかの墓石が立ち並ぶ中を歩いていると、一つの墓標が目に入った。
 墓標の前には、一輪だけ花が生けられている。その花は薄桃色の花弁で、どこか女子高生を思い出させる愛らしさがあった。
 雨に打たれてしなだれる花は、ぽたぽたと雨粒を零している。
 墓標に目を移すと、名前が刻まれている。墓石の下で安らかに眠る人の名前なのだろう。
「|真宮《まみや》……|桜子《さくらこ》」
 可愛らしい名前。そう、まるであの子のような……。
***
 次の日、彼女はいつものように来てくれた。
 けれど、どこか様子がおかしい。元気がなく、心なしか顔色も悪いようだ。
「体調、悪いんですか?」
 思わずそう聞いてしまうくらいに、具合の悪そうな彼女。
 へへ、と力なく笑うと彼女はか細い声で言った。
「あたし、もうすぐここには来れなくなると思います」
「どうしてですか?」
「花が……枯れちゃうから。昨日の雨で、だいぶ弱ってしまったみたいです」
 ……花? 何の話だろう?
「花って……」
「今日のオススメはなんですか?」
 彼女は少し焦ったように、私の言葉を遮る。
「あ……えっと。こちらのミントソーダはいかがでしょうか? 今日のよく晴れた青空と同じ色です。お散歩しながらぜひ召し上がってください」
「ありがとう、それにします」
 柔和な笑顔を浮かべた彼女は、本当に散りゆく直前の花のようだった。
 いつもは黙ってにこにこしながら、私がアイスを用意するのを見ている彼女だったが、今日は違った。
「お姉さん」
「はい」
「昨日、あたしのところへ来てくれましたよね」
「……?」
 さっきから話が見えない。この子は一体何を言っているのだろう。
 手を止めて、彼女の顔を見る。すると花のような満面の笑顔で私を見つめ返してくれた。
「昨日は会えないと思っていたので、すごく嬉しかったんです。雨の中来てくれてありがとうございました」
「え……?」
 やはり意味がわからなくて、きょとんとする。私が昨日会ったのは後輩だけのはず。……いや、何か大事なことを見落としてるのか?
 懸命に昨日の記憶を辿った私は、ハッとする。雨に濡れそぼった墓石と、しなだれた一輪の花。
「もしかして」
「そのアイス、本当に空の色みたい。今日は久々にゆっくり辺りを歩いてみますね」
 またしても私の言葉を遮る彼女。その言葉に急かされるように、私はアイスをコーンに乗せて彼女に手渡した。
「ありがとうございます。……それでは、またいつか」
 彼女は一礼して、颯爽と歩き出した。その背中に必死で声を掛ける。
「桜子ちゃん!」
 私の呼び声に足を止めた彼女は、こちらを振り返った。
「あはは。二回も名前呼ばれちゃった。嬉しい、ありがとうございます」
 愛らしい声で笑いながら、彼女は恥ずかしそうに肩をすくめる。
 暖かな陽の光に照らされた彼女は、一輪の花のように美しかった。
***
 翌日、彼女は来なかった。
 その日一日仕事が手につかなかった私は、キッチンカーを職場に戻すと、すぐさま例の墓地へ向かった。
 さっきから何だかずっと嫌な予感がしている。
 年甲斐もなく走った私は、息を切らしながら墓地へ入った。
 もうすっかり日の落ちた墓地はどこか気味が悪かったが、そんなことはどうでもよかった。
 まっすぐにあの墓石へ向かう。
 ――花は枯れていた。茶色く変色し、いくつかの花弁を地面に散らしながら。
「桜子ちゃん」
 そう名前を呼べば、また彼女が笑いかけてくれるのではないか。しかし、そんなわけもなく私の声は虚しく闇に溶けていった。
***
 あれから、彼女とは一度も会えていない。自分で彼女の墓前に花を供えてみたりしたけれど、だめだった。
 私は今でも思い出す。桃色の花を見たとき、冴えわたる空の青を見たとき。
 花のように笑うあの子が、確かにいたことを。